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■名前・氏名
ウィリー=ブラント
(Willy Brandt)
■職業
政治家
■ウィリー=ブラントの誕生日・生年月日
1913年12月18日
■出身地・都道府県
不明

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ウィリー=ブラント

経歴

ブラントの本名はヘルベルト・エルンスト・カール・フラーム (Herbert Ernst Karl Frahm)といった 。1913年12月18日、リューベックで私生児として生まれ、のちに政治家になってから政敵にそのことを攻撃されたがブラントは一切ごまかそうとせずかえって周囲の評価を高めた。キリスト教会も私生児には冷たかった。近所のルター派教会は私生児であることを理由にして洗礼を授けることを拒んだため、母マルタ・フラームは1914年2月26日、息子を市内の離れた場所にある同じルター派の聖ローレンツ教会(ドイツ語版)に連れて行き洗礼を受けさせている。育ての親でもある母方の祖父がドイツ社会民主党(SPD)党員で市議会議員選挙にも出馬した影響で、早くも10代前半から同党の地元機関誌に寄稿し、1930年に17歳でSPDに入党する。地元の実業学校に通って1932年にアビトゥーアに合格した。この間も地元機関紙に繰り返し寄稿し、その編集長であるユリウス・レーバーの影響を受けた。しかし少年時代から急進左派に属していたブラントは、1931年10月にレーバーやSPDと決別し、ドイツ社会主義労働者党(SAP)に入党した。レーバーの世話で受けるはずだったSPDの奨学金が受け取れなくなったため、ブラントは進学をあきらめて地元の造船所で働いた。

1933年のナチス政権樹立後にSAPが活動を禁止されたため、地下で反ナチス活動を展開した。SAP指導部の指示を受け、1934年にノルウェーに渡って党組織再建に従事する。またジャーナリストとしての活動の傍ら、歴史学を専攻した。当時の偽名“ヴィリー・ブラント”をのちの1947年に正式な通名とし、政治家としての名乗りに用い続けている。他にもブラントを追ってノルウェーに亡命してきた元恋人と結婚したノルウェー人から借りた「グンナー・ゴースラン」という偽名を使い、ドイツへの潜入(露見を防ぐためノルウェー語なまりのドイツ語を話した)やスペイン内戦の取材活動の際に用いていた。1938年、ナチスにより国籍を剥奪され、ノルウェー国籍を取得する。第二次世界大戦中の1940年にノルウェーがドイツ軍に占領されたとき捕虜になるが、正体がばれずにすぐ解放され、スウェーデンに亡命した。ここで亡命SAPと亡命SPDの再接近に努めた。この亡命先でユダヤ系オーストリア人ブルーノ・クライスキーと知り合うが、彼はのちにブラントと同時期にオーストリア首相を務め、終生の友となった。

終戦後の1945年、ノルウェー紙の記者としてドイツに帰国し、ニュルンベルク裁判を取材する。1946年に故郷リューベックでSPDの再建を知り、1948年にドイツ国籍を回復する。第二次世界大戦中に国外亡命していたという経歴も、のちに政敵に攻撃されることになる。

1949年、ベルリン選挙区から出馬して第1回ドイツ連邦議会の議員に当選する。1992年の死去まで断続的ながら合計31年間にわたり連邦議会議員を務めた。1950年には西ベルリン市議会議員にも当選する(1971年まで務める)。1955年に西ベルリン市議会議長、1957年には西ベルリン市長となった。同年11月から1年間、連邦参議院議長を務める。

東西冷戦のさなか、1958年にベルリン危機 (1958年)(ドイツ語版)が発生、さらに1961年、東ドイツがベルリンの壁を建設し、西ベルリン市長としてその対応に苦慮する(ベルリン危機 (1961年)(英語版))。1963年6月には当時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディが西ベルリンを訪問しブラントと会見、また「Ich bin ein Berliner(私はベルリン人である)」と述べる演説を行った。東西冷戦の最前線に立つブラントの姿は彼の個人的人気を高め、SPDは市議会議員選挙で躍進した。

SPD党内でのブラントの声望も高まり、1961年には連邦議会選挙で初めてSPDの連邦首相候補となった。その選挙中、キリスト教民主同盟(CDU)の首相候補で現職のコンラート・アデナウアーに私生児であることや亡命経歴を攻撃された。この選挙でSPDは躍進したが、他党との連立交渉に失敗し、政権奪取はならなかった。1962年にSPD副党首、1964年には党首に就任した。1965年の連邦議会選挙でもCDUに敗れたが、1966年にルートヴィヒ・エアハルト(CDU)の連立政権が瓦解すると、CDUとSPDの「大連立」政権を樹立、キージンガー内閣の外相兼副首相に就任、西ベルリン市長を辞任した。

1969年の連邦議会選挙でSPDは勝利、ブラントはドイツ社会民主党・自由民主党の連立政権を誕生させ、西ドイツで初めてのドイツ社会民主党出身の連邦首相となる。

連邦首相として東ドイツやソ連を始めとする共産主義諸国との関係改善を推し進める「東方外交」を展開した。1970年には訪問先のポーランドの首都ワルシャワで、ユダヤ人ゲットー跡地で跪いて献花し、ナチス・ドイツ時代のユダヤ人虐殺について謝罪の意を表した(ワルシャワでの跪き、なおブラントの回想録では当日のポーランド側の反応について「私は、ポーランド側を困惑させたようだ。あの日、ポーランド政府の誰も、それについて私に話しかけなかった」とされている)。同年、エアフルトで東ドイツのヴィリー・シュトフ首相・国家評議会副議長と会談し、初の東西ドイツ首脳会談を実現した。これらの功績により1971年にはノーベル平和賞を受賞した。1972年には東ドイツと東西ドイツ基本条約を結び、お互いを国家として承認した。こんにち政治学者や歴史学者の一部は、東方外交がのちの東欧革命やドイツ再統一の基礎となったと評価しているが、当時は保守派の政治家から激しく攻撃された。なお、1973年にはドイツの首相として初めてユダヤ人国家イスラエルを訪問した。

内政では「より一層の民主化」をモットーに行政・教育改革を目指したが、1973年のオイルショックなどによる経済停滞もあり、実現したものは少なかった。ブラントに離反してSPDからCDUに鞍替えする議員も跡を絶たず、1972年にはきわめて異例ながら大統領に自発的な連邦議会解散を申し出て総選挙に打って出ている。また当時、国内外でドイツ赤軍など左翼過激派の活動が激化していたが、1972年に過激派への取り締まりを強化する政令を施行して対応した。左派はこの政令を激しく批判し、またブラント自身ものちにこの政令が誤りだったと告白している。

1974年、個人秘書ギュンター・ギヨームが東ドイツ国家保安省の潜入させていたスパイであったことが発覚(ギヨーム事件)、ギヨーム逮捕と共に引責辞任し、財務相のヘルムート・シュミットに連邦首相の座を譲った。なお、ブラントには在任中も個人的な女性問題やアルコールに関する噂が絶えず、それを野党やメディアに激しく攻撃されて健康状態を悪化させるほどの精神状態になっており、ギヨーム事件の責任をとる格好で辞任したとも言われている。潔く首相を辞任したのち、ブラントへの個人攻撃はおさまった。

首相を退いた後もブラントは社会民主党の党首として影響力を保持した。健康状態の悪化もあり1987年に退任するが、その際、希望後継者に党外のジャーナリストを指名して党内から批判の声が上がった(直後の党大会では別の人物が選出された)。退任と同時に終身名誉党首に選出された。

一方、国際的な活躍も目覚ましく、1976年には社会主義インターナショナル議長に就任した(1992年まで)。1979年から1983年まで欧州議会議員を務め、1977年には世界銀行総裁のロバート・マクナマラに南北問題に関する独立諮問委員会の長に任命され、1980年に「ブラント・レポート」を発表した。またフィデル・カストロ、ミハイル・ゴルバチョフ、鄧小平、エーリッヒ・ホーネッカーなど共産圏の首脳と会見し、緊張緩和・平和推進に尽力した。1990年の湾岸危機の際にはイラクに乗り込んでサッダーム・フセインと直談判、「人間の盾」として人質となっていた194人の在留ドイツ人を解放させドイツに連れ帰った。

1989年にベルリンの壁が崩壊、翌年念願のドイツ再統一がなると、ブラントは連邦議会に首都をボンからベルリンに移転することを提議し、議決された。

ブラントは1978年に最初の心臓発作を起こし、一時政治活動を休止したが快復した。1991年、腸にポリープが発見され除去手術を受けたが、ガンの転移が多臓器にわたっており、翌年再手術を受けた時はすでに手遅れになっていた。残された時間を家族と過ごすために退院してウンケル(Unkel)の自宅に隠棲した。そこを前年の末にソ連大統領の地位を追われたゴルバチョフが予告なしに訪問したが、本物と信じなかった妻により追い返されたというエピソードがある。それから1月後の1992年10月8日午後4時32分、ブラントは息を引き取った。連邦議会はブラントの国葬を決定した。

私生活ではブラントは、1941年にスウェーデン人女性と結婚し一女をもうけた。1948年に離婚し未亡人ルート・ベルガウストと結婚、三男をもうけた。32年の結婚生活ののち1980年にルートと離婚、1983年に歴史家のブリギッテ・ゼーバッハーと再婚し、ゼーバッハーに看取られた。

現在、ベルリンにあるSPDの党本部ビルはブラントを記念して"Willy-Brandt-Haus"と名付けられている。またドイツの各都市にはほとんどと言っていいほどブラントの名を冠した通りがあり、国外ではポルトとリールにもある。ブラントの名を冠した政府系財団もあり、2013年開業予定のベルリン・ブランデンブルク国際空港にもブラントの名が付けられた。また、ブラントの死後から2002年まで流通していた2マルク硬貨の裏面にもブラントの肖像があしらわれていた。

脚注

^ Willy Brandt joins the SAP at Bundeskanzler Willy Brandt Stiftung

^ ブラントはあくまでもホロコーストについて謝罪の意を示したのであって、戦争やポーランドへの侵略について謝罪したわけではなく、帰国後にはポーランドが戦後行った旧東部ドイツ領からのドイツ人追放を「戦後のドイツ人の旧東部ドイツ領からの追放という不正はいかなる理由があろうと正当化されることはありません(白水社「過去の克服 ヒトラー後のドイツ」より引用)」」と非難している。また跪いて献花するブラントの姿は共産党政権下のポーランド国内で公表されなかったため、ポーランドの一般人にはほとんど知られていなかった(中公新書「〈戦争責任〉とは何か」より「一般には知られていないが、ひざまずきの写真はポーランド国内では公表されなかった」)。日本ではしばしば「ブラントの跪きがポーランドの対独世論を変えた」という趣旨で論じられることがあるが、そのような事実はない。

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