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■名前・氏名
タイ=カッブ
(Ty Cobb)
■職業
野球
■タイ=カッブの誕生日・生年月日
1886年12月18日
■出身地・都道府県
不明

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タイ=カッブ

経歴

1886年12月、ジョージア州ナロウズで3人兄弟の長男として生まれ、ロイストンで育つ。母親であるアマンダは12歳で結婚し、15歳でカッブを出産した。父親のウィリアム・カッブは教師(数学者)から校長、市長、上院議員、牧師を務めるなど厳格な教育者で、土地の名士として有名な人物であった。

カッブ家は名家として知られ、有名な人物を多数輩出していた(アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンとも姻戚関係があった)。そういった特別な目で見られることをひどく嫌ったカッブは、14歳頃から父親とは一切関係のないスポーツである野球に興味を持ち、熱中するようになった。父親は、息子がごろつきになるのではないかと心配し、野球をしていたカッブに、「偽りの道は地獄に通じる。だから、常に正義をふまえ、正直に謙虚にふるまいなさい」と口癖のように言い聞かせていた。カッブは、その言葉通り大きなトラブルもなく成長していった。

1904年、カッブは自らの実力を過剰に評価した手紙を新聞社に送り、マイナーリーグであるオーガスタ・ツーリスツと契約した。この際、野球をすることに反対していた父親を、夜中の3時までかけて説得した。契約し、家を出て行くとき、父親から「失敗して戻ってくるな。自分が信じた道なんだ、必ず成功しろ」と言われたという。

2年目の1906年は体調不良などで98試合に出場しただけだったが、後半戦からレギュラーに定着し、打率.316という好成績を残した。翌1907年には打率.350・119打点・49盗塁の成績で当時史上最年少で首位打者になる(同年以降、24年間の現役生活で打率.323を下回る事はなかった)。更に最多安打、打点王、盗塁王にもなり、本塁打もリーグ2位を記録し、3年目にしてブレークした。サム・クロフォードと共に打線を引っ張る存在となり、カッブの登場により、それまで優勝とは縁のない目立たないチームだったタイガースは大きく飛躍した。同年にチームは初のリーグ優勝を果たす。翌1908年にもカッブは首位打者、最多安打、打点王の三冠を獲得し、チームは2年連続でリーグを制した。

1910年、最終日を残して首位打者を確信していたカッブは、眼の病気などもあり.385の打率を維持するために残り試合を欠場した。しかし打率.376だったナップ・ラジョイがセントルイス・ブラウンズとのダブルヘッダーに8安打し打率.384とカッブを猛追した。ところがそのうちの7本は三塁へのバント安打で、これは相手チームのジャック・オコナー監督がカッブを強く嫌っていたのと、当時人気の高かったラジョイにタイトルを勝ち取らせるために、三塁手へ後ろに下がってプレーするよう命じた結果のものだった。この露骨な八百長行為から、シーズン後にオコナーは監督を解雇され、コーチと共に永久追放されている。1981年、スポーティング・ニューズ社によりこの年の集計に誤りが指摘され、509打数196安打ではなく、506打数194安打であるとし、カッブの打率は.383に下方修正された。しかし、コミッショナー特別委員会は八百長の影響などもあってか首位打者の変更を認めず、MLB公式記録でも509打数196安打のままである。

1911年、146試合の出場で当時のMLB新記録となる248安打し、自己最高の打率.420を達成。4回目の打点王も獲得し、この年は投票数満票でのMVP選出となった。また、近代野球以降でのMLB新記録となる40試合連続安打を記録。自己最多の127打点を残し、本塁打もリーグ2位だった。

1912年5月15日、ニューヨーク・ヒルトップパークでのハイランダース(現在のニューヨーク・ヤンキース)戦でカッブは観客(事故で片腕を失い、もう片方の手も不自由な人)の野次に逆上してスタンドに殴りこみ、出場停止処分となった。殴られた観客によると、「その男を蹴るんじゃない!両手がないんだぞ!」と止められても「両足が無くたって知るもんか!」と怒鳴り返したという。5月18日、この処分を不服としたチームメートはフィラデルフィアでの試合をボイコット。チームは臨時で大学生らのアマチュア選手を集め、コーチ2人と合わせて試合を行うも24対2で大敗した。結局カッブ自身がチームメートを説得して事態は収拾し、カッブは50ドルの罰金と10日間の出場停止の処分となった。 また、この乱闘事件以降、カッブに対する観客の暴言がほとんどなくなり、カッブはプレーに集中できるようになったという。シーズンでは1911年に続いて近代野球では史上初、19世紀を含めてもジェシー・バーケット以来となる2年連続打率4割(.409)を達成した。

1914年シーズンは肋骨を骨折し、その後右親指も骨折。怪我に苦しみながらも.368で首位打者に輝いている(公式ではカッブが首位打者であるが、出場不足で首位打者ではないとする指摘もある)。

1915年、9年連続の首位打者に輝き、近代野球以降、当時新記録となる96盗塁を記録。1916年には.371の高打率を記録するも、トリス・スピーカーの.386には届かなかった。しかし、翌1917年から1919年まで3年連続首位打者を獲得し、通算12度に及んだ。1917年には35試合連続安打も記録している。1918年には初登板を果たし、合計2試合に登板。防御率は4.50だった。また、同年10月に徴兵されてフランスのショーモンに拠点を置く陸軍化学作戦部隊に所属して約67日間務めた後に名誉除隊で帰国した。

1920年、外野守備時に打球を追い、チームメイトと激突してしまい右膝靱帯を断裂する大怪我を負った。様々な治療法を用いながら無理に復帰するも、更に右膝を痛めてしまい、現役続行は不可能と思われた。しかし奇跡的に怪我を治し、打率.334を残した。

1921年、選手兼任でタイガースの監督に就任した。同年のワシントン・セネタースとの一戦では審判の判定に激高し、試合後に観客と息子のジュニアが見守る中で審判のビリー・エバンスと取っ組み合いの大喧嘩を起こした。シーズンでは.389の高打率を残しながらも首位打者は獲得できなかったが、自身初の二桁本塁打を残している。また、同年はハリー・ハイルマンとカッブが打率1位と2位を独占し、リーグ史上最高となるチーム打率.316を記録した。しかしこの頃からベーブ・ルースを擁するヤンキースが圧倒的な強さを見せ始め、タイガースもカッブやハイルマンがチームを牽引するものの、優勝には手が届かないシーズンが続いた。

1922年には.401の高打率を残すが、首位打者は.420を記録したジョージ・シスラーに譲った。しかし3回目の打率4割は近代野球以降で史上初の記録となり、19世紀を含めてもエド・デラハンティ以来の記録となった。1925年には目を悪くしたことで手術を行ったが、現役にこだわり、.378の高打率を残す。首位打者獲得はならなかったものの、自身2度目の2桁本塁打を記録した。同年にはシスラーと野手同士の登板を演じ、無失点に抑え初セーブを上げている。

1926年、39歳となったカッブは打率.339を記録するもシーズン終了後、八百長疑惑(後述)などでもあってタイガースを退団し、フィラデルフィア・アスレチックスに移籍。3902安打、2087得点、664二塁打、286三塁打といった記録は、現在でもタイガースの球団記録として残っている。監督としての成績は6年で試合数933、勝利479、敗戦444で勝率.519であり、最高順位は2位。この間にチャーリー・ゲーリンジャーやハリー・ハイルマンといった選手を育成している。

カッブはこの時のことを「野球界に住み古してその表裏を知り尽くしているはずの私であったが、これほどの暗黒面と対決したのは初めてである」と自伝に記している。1926年10月、フランク・ナヴィン球団社長がカッブの監督解任を発表した。すると1ヶ月後にクリーブランド・インディアンスのトリス・スピーカーも監督を解任された。後日、1919年のタイガース対インディアンスのゲームで八百長があったとして、タイガース元投手ダッチ・レナード、アメリカンリーグ初代会長バン・ジョンソン、タイガース球団社長フランク・ナヴィン、MLB初代コミッショナーであるケネソー・マウンテン・ランディスの4名が、トリス・スピーカー、タイ・カッブ、投手のスモーキー・ジョー・ウッドの3名を告発した。これにより、突然の解任劇は八百長に対する処分であることが判明したが、告発の内容が不自然であったことから、政治家や記者達、さらには審判や解説者、他チームの選手までが一丸となって告発者である4名を非難し始めた。

レナードはかつてはボストン・レッドソックスで防御率0.96、19勝5敗を記録するなど優秀な投手であったが、近年は不振が続いていた。そのためカッブはレナードを1925年にタイガースの名簿からはずし、ウェーバーに出した。しかし、インディアンスの監督であるスピーカーがそのウェーバーを断ったため、レナードは小リーグに属するカリフォルニアのチームにトレードされた。この理由によってレナードはスピーカーとカッブの二人をひどく憎み、必ず仕返しをしてやると公言していた。

また、ジョンソンに送ったレナードの手紙には、「球場のスタンドの下でスピーカーとカッブが、シーズン終盤、1919年9月25日のゲームでタイガースに勝ちを譲ることを取り決め、数百ドルの賭けをしたことを目撃した」と書かれていた。ところが問題のゲームでは9対5でタイガースの勝ちとなっているものの、この日のスピーカーは第一打席でホームラン寸前の大飛球、第二打席でヒット、第三打席で三塁打で一打点をあげ、第四打席でも三塁打を放ち自らホームを踏んでおり、一方のカッブはフライアウト一つ、ゴロアウト三つ、ヒットはわずか一本であった。加えて共謀者とされるウッドは出場もしていなかった。打者二人で八百長を成立させるのも考えづらく、さらにカッブ、スピーカーともに相当な財産家であり、そもそも八百長の動機がないといったことから、告発の不自然さが目立つことになり、告発者4人に対する非難が高まっていった。

コミッショナーのランディスはレナードに対し、シカゴに来て二人と直接対決し告発するように命じたが、レナードはこれを断り自宅に閉じこもり続けた。ランディスはすぐにでも事件を解決すると公表していたにもかかわらず、その兆しが見えないまま、数週間が過ぎていった。カッブはその後、ランディスに対し、早く白黒をつけるようにと迫り、この八百長事件を信じてカッブの監督を解任したと公表していたナヴィンに対しては言うべき言葉さえもないと語っている。

翌年1927年1月8日、バン・ジョンソンは体調不良を理由に辞表を提出した。1月27日、ランディスは「いわゆるカッブ、スピーカー事件について。この両名は申し立てられた八百長試合に関し、過去および現在を通じてなんら有罪と認めるべき節はない」と告発を撤回することを発表した。また、フィラデルフィア・ディリー・ニュースは第一面の社説で、「ランディスとジョンソンが八百長のない球界をアピールするために、両ベテラン選手をみせしめにしようとした」という旨の文章を掲載している。

この訴訟の後、騒動を機会に真剣に引退を考えていたカッブは、現場復帰を求める要請にもなかなか良い返事をしなかった。しかし同年2月、自身が尊敬していたコニー・マックの熱心な説得により、アスレチックスへの移籍を決意し、翌日に発表した。カッブはタイガース時代、おびただしい数の脅迫状を送られるなどの経験から、アスレチックスファンには歓迎されないのでは、と不安を感じていた。ところがファンたちは大いに喜び、椅子から立ち上がって熱狂的な拍手を送った。これを受けたカッブは、「私はこの一年に面目をかけて働くつもりです。もう十年若ければと残念に思いますが、体力的に得るかぎりのことをして、マック氏を助ける決意でおります」と挨拶を返した。

兼任監督から一選手へと戻ったカッブは、マックに「自分の監督経験などは問題ではありません。あなたの命令が私の判断と食い違っていたとしても、私は決してあなたに異議を唱えたりしません。あなたは監督なのですから」と話し、一選手としてプレーすることを伝えた。移籍一年目の1927年は打率.357の好成績を残し、史上初の通算4000本安打を達成した。

翌1928年も.323の打率を記録するが、年々落ち始めた打率と、目の病気のため、「ヒットを打てるうちに引退したい」と41歳で現役引退を決断した。デビューから途切れることのなかった本塁打と盗塁は、24年連続となり、通算4189安打は後にピート・ローズによって更新されるまで、最多通算安打となった。また、引退時には通算安打をはじめとする90ものMLB記録を保持していた。2013年現在も通算打率.366、通算本盗55(54個説もある)など、30を超える記録が健在である。同年シーズンオフには日本に渡り、当時の大毎野球団に加わる形で神宮球場や甲子園球場で計12試合を行った。日本に滞在していた際のカッブの様子は、たいへん紳士的であったという。

引退後はジョー・ディマジオがヤンキースと契約する時に一役買ったエピソードや、困窮した元メジャーリーガー(ミッキー・カクレーンなど)のために自分の財産の一部を寄付し続けた話もあるなど、若手選手を積極的にバックアップしていた。1936年には野球殿堂の殿堂入り選手第一号の栄誉に輝き、「今日は最高の日だ。私はここにいることを光栄に思う」と発言している。得票数はベーブ・ルース、ホーナス・ワグナー、クリスティ・マシューソン、ウォルター・ジョンソンらを上回る最多得票である。また、カッブの現役時代に背番号がなかったために番号は指定されていないものの、デトロイト・タイガースでは永久欠番と同様の扱いになっている。

しかしその一方で私生活は荒んだもので、護身用に拳銃を携帯し、体の痛みを紛らすためにバーボンを一日に一瓶空ける有様だったという。結婚生活も全て最後は破局し、子供や肉親のために莫大な財産を残し故郷に豪華な墓を建てたが、カッブは全員から縁を切られ墓に入ることも拒否されたと言われている。

1961年7月、カッブは癌のため74歳で没した。カッブの葬儀に訪れた球界関係者はたったの3人、もしくは4人だけだったという(事前に家族が断っていたためだったと後に判明している)。

タイ・カッブが生んだ野球とプレースタイル

握りの部分(グリップエンド)が根元に近づくにつれて円錐状に太くなっているバットを発案し、愛用していた。日本では、そのようなバットを「タイ・カッブ(タイカップ)型バット」と呼ぶことがある。また、1907年からはネクストバッターズサークルで黒いバットを使い始めた。実際に試合で使ったのはシーズンの最初だけだったが、カッブはそのバットを「魔法のバット」と呼んでおり、同年の結婚式でも持ち出している。

右手と左手を離してバットを握り、そのまま構えるという独特のフォームをとり、体調に合わせてバットの重さを変えていた。両手をあけてバットを握るため、「ボールに十分『力』が乗らないのでは」との声もあったが、カッブは「単に『力』のみが強い打球を生み出すものではない」と言い、そのグリップで剛速球をたたいて、奥深く守っていた右翼手のグローブをはじきとばした上に彼の指を折ってしまったこともあったという。

基本的にシングルヒット狙いで、安打では特にバント安打を好んだ。柵越えを狙わないため、通算本塁打の半分近くがランニング本塁打であり、本塁打王を獲得したときも全てがランニング本塁打である。1920年代に入ると、ベーブ・ルースの出現で時代は本塁打偏重に傾き、「ルースはスラッガーだが、カッブは単打しか打てない」と揶揄され、ルースの豪打ばかりが持て囃されるようになった。それに対しカッブは、38歳になった1925年5月のブラウンズ戦前で、囲んだマスコミ陣に対し、「明日、明後日の試合で見せたいものがある。よく見ておきなさい」と宣言した。カッブは翌日のブラウンズ戦で文句なしの柵越えの本塁打を3本に二塁打を含む6打数6安打を記録し、翌々日の同カードの試合でも本塁打を2本、フェンス直撃の二塁打を2本放った。そしてルースには「ホームラン狙いをやめれば、打率4割も打てるのにな」と進言したという。また、その話を聞いた警官が、自動車のスピード違反でカッブを捕まえた際、「今日の試合でホームランを2本打てば違反はなかった事にしよう」と言ったところ、カッブは本当に本塁打を2本打ち、約束どおりに違反は取り消しになったという逸話もある。

投手が3球投げる間に、一塁から二盗、三盗、本盗に成功するなど、エキサイティングな選手としても評価されていた。「ベーブ・ルースが本塁打を打つよりも、カッブが四球で出塁した時の方が興奮した。なぜなら本塁打は柵越えすればそこで終了だが、カッブは出塁した時からが興奮の始まりだからだ」と評されたこともある。

走塁時、二塁に滑り込む際にタッチを避けるためになるべくベースから遠ざかって爪先をひっかけることでセーフ判定を狙う「フック・スライディング」を考案・実践した。さらに二塁へ進む際、ダブルプレーをとられないよう相手内野手に足を向けて滑り込んでゆく「ゲッツー崩し」を積極的にしかけたのもカッブが初めてである。また、鉛をつめて普通の3倍も重くした靴を履いて走塁の訓練をしていたという。球場にあるカッブの銅像は滑り込んでいる姿やスライディングの姿が非常に多い。

相手投手の投球フォームやクセの観察によって弱点を見つけたり、攻撃時や守備時に外野へ吹く風を計算に入れたりするという戦術を最初に取り入れた。足に関してはそれほど速くはなかったと自身も語っており、クセを見つける戦術によって盗塁数を稼いでいた。1イニングで二盗、三盗、本盗を決めるサイクル・スチールを通算4度、1年に2度達成している。また、安打を放った際、走りながら外野手が利き腕でボールを取っているかを確認し、ボールから眼を離した隙に進塁することでジャッグルを誘うなど、高度な走塁技術を確立していた。

弁護士を介した文書を使った契約を史上初めて導入した選手である。当時の球界はオーナーの意向によって契約が決まることがほとんどで、選手が不利益を被ることが多かった。カッブはそれを打破し、選手の権利という概念を主張した最初の選手である。そのためか、オーナー達からは良く思われておらず、この対立から前述の八百長疑惑に発展したとする意見もある。

守備では主に中堅手を務めた。外野手としての392補殺はメジャー歴代2位である。外野の三つのポジション以外にもファースト、セカンド、サード、さらには投手として3試合に登板している。

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