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榎本喜八の情報 (えのもときはち)
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■名前・氏名
榎本 喜八
(えのもと きはち)
■職業
野球
■榎本喜八の誕生日・生年月日
1936年12月5日(年齢83歳)
■出身地・都道府県
東京出身

榎本喜八と同じ年に生まれた芸能人(1936年生まれ)

榎本喜八と同じ誕生日の人(12月5日)

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榎本喜八

経歴

1936年、農家の家庭に生まれる。祖父は新八、父は八雄、弟は省八、先祖は八十八、八佐衛門など、榎本家には男の子には全て「八」の字を付ける習慣があり、喜八という名前が付けられた。

1941年、5歳の時に太平洋戦争が勃発。集団疎開に出発する日、33歳の母親が病死する。戦争に出征した父親は、終戦後もシベリア抑留され、しばらく帰ってこなかった。そのため、祖母と幼い弟と3人暮らしをしていた幼少時代の榎本は、極貧に苦しむこととなる。雨漏りを放っておくと屋根に穴が開き、寝室には雨が降ってきたという。畳には茸が生え、家の中で傘を差して立ったまま朝を迎えた日もあった。電車に乗ることもできず、当時は近所を走る西武電車に乗ることに憧れていたという。

戦時下の1943年3月、近所の友人の姉に連れられて職業野球を後楽園球場へ観戦に行った事が、野球を始めたきっかけとなった。その際に球場の美しさと巨人の呉昌征・青田昇や大和軍の苅田久徳のプレーに強い印象を受けたという。空腹と極寒の日々の中で、職業野球は榎本の唯一の希望となり、その後、「おばあちゃんを温かい家に住まわせてやりたい」という強い意志から、プロ野球選手を目指すようになる。

1952年、早稲田実業学校高等部に入学。同期の80人が卒業時には7人しか残らなかった猛練習に耐え、強打者として頭角を現し、2年生の春には4番打者を務める。榎本の打撃スタイルはバットを長く握ってのフルスイングであり、流し打ちすることを好まなかった。早実のスタイルはバットを短く握ってコツコツ当てるというものであったため、OBのひとりが榎本の打撃を矯正しようとしたが、榎本は従わなかった。そのため、同OBが監督に進言し、補欠に回されることもあったという。

3年生時の1954年春の全国大会準々決勝では3番打者を務めるが、主軸打者の責任によるプレッシャーやチャンスに弱い面が目立ち、4打数ノーヒットに終わった。2年生時に4番を打った土佐戦でも4打数ノーヒットに終わっている。3番や4番を打つと敬遠されることも多かった。そのため、当時の榎本はスラッガータイプであったにも関わらず、以降は1番打者が定位置となった。早実は強打の榎本が出塁して後続が返すという得点スタイルを確立。同年夏の大会では、自身3度目の甲子園出場を果たした。準々決勝で敗れたが、早実は戦後初の夏ベスト8に入った。最後の甲子園出場になった8月21日の試合後のインタビューでは、他の選手たちが「固くなった」というコメントを残している中、榎本は「決してあがってはいなかった。安打も1本打っている」と語っている。

地方大会では強打者として鳴らし、1954年夏の全国大会前の朝日新聞記者による座談会(8月12日付)では、出場選手の中で榎本は「十指に入る打者」という評価を得ていた。しかし、全国大会になると途端に打てなくなり、2年生時からの全国大会通算成績は打率.143(21打数3安打4四球)に終わっている。また、同年の全国大会敗退後の北海道国体では打棒が復活し、準々決勝の北海戦では本塁打と三塁打を放ってチームの4強入りに貢献している。

後年、榎本は高校時代の自身を「390フィート(約119メートル)と書かれた外野の塀にゴツンとぶつかるライナーの3塁打を1本打っただけの、単純な大振りバッターでした」と振り返っており、当時後輩だった王貞治は高校時代の榎本について、「打球が良く飛ぶすごいスラッガーだった」と語っている。高校1年生の時にはライト場外の畑までボールを飛ばし、打球の最長不倒を示す印として、そこに1本の木ぐいが打ち込まれたという(後に王が更新)。また、合宿中の夜に他の部員が教科書を開く振りをしている中、榎本は牛骨でバットを磨き続けていた。当時チームメイトであった同級生は、榎本について「野球のことしか頭にない男」と評している。

当時はドラフト施行前であり、選手獲得は各チーム次第であった。榎本は「荒い打者」という評価から、どこからも声をかけられることがなかった。プロ入りを熱望していた榎本は、高校1年生時、早実の先輩で毎日オリオンズでもプレーすることが決まっていた荒川博に、オリオンズへの入団を頼んだ。荒川は「これから3年間、毎日朝5時に起きて登校する前に500本素振りすれば、世話してやる」と軽くあしらったが、榎本は口約束を真に受け、数年間素振りを敢行。3年生の秋に荒川の自宅を訪れ「毎日振りました。プロに入れて下さい」と土下座して懇願し、荒川も断りきれず、入団テストの運びとなった。荒川はこの時の榎本について、「あいつは馬鹿正直で、登校する前に500本素振りをしろというと1本も欠かさず毎日振った。1000本といえば1000本振った。ふつう1000本といえば、そのくらい沢山の、という意味なのだが、榎本は1本たりともゆるがせにしなかった」と語っている。また、榎本は早実の厳しい練習でクタクタになって帰宅した後も、「素振りをしないと落ち着いて寝られない」という理由から、寝る前にも500本以上素振りをしてから就寝していたという。

1955年、荒川の積極的な売り込みにより、毎日オリオンズの入団テストが無理矢理組み込まれる。入団テスト時、榎本の数打席を見ただけで、往年の名選手でもあった監督の別当薫や、一塁手の西本幸雄が目を見張ったとされる。そして完成されたバッティングフォームと優れた選球眼が認められテストに合格する。特にフォームに関しては、別当に「高校を出たばかりにして、既に何も手を加える必要のないバッティングフォームを持っている」と言わしめた程であった。西本は後年にこの時のことを振り返り、「榎本喜八の印象は強烈だった。打撃に天性のものがあった」と語っている。

テストに合格したことにより、毎日オリオンズに入団を果たす。榎本は初めての給料で祖母にフランス人形を買ってあげたという。川上哲治2世の呼び声もあり、球団側も期待して背番号は「3」を与えられた。

オープン戦で活躍し、開幕戦から5番打者を打つなど、高卒1年目からレギュラーとして活躍。デビュー戦の4打席目(それまでの3打席は無安打)には早くも敬遠を受けた。6月7日以降には3番打者に定着し、オールスターゲームにもファン投票で選出され、スタメン出場を果たす。安打が1本足りず打率3割は逃すが、シーズンを通して打率・本塁打・打点部門のすべてでリーグ10位以内に入り(本塁打はリーグ6位)、出塁率は山内一弘と中西太に次いでリーグ3位の.414を記録した。139試合・592打席・490打数・84得点・146安打・24二塁打・7三塁打・87四球・5敬遠・5犠飛・出塁率.414はすべて高卒新人の歴代最高記録であり(三塁打はタイ記録)、打率.298・67打点・232塁打・10死球も1986年の清原和博に破られるまでは歴代最高記録であった。同年は新人王を獲得する。この年に記録したRCWIN4.40は高卒新人選手としては歴代1位である(高卒2年目の翌1956年も4.39を記録)。バットの芯で正確に球を捕らえ、事も無げにヒットを打つ様から、新人にして「安打製造機」と呼ばれた。

翌1956年もリーグ9位の打率.282・リーグ4位の15本塁打を残すなど、高卒から2年連続で打率・本塁打・打点の部門のすべてでリーグ10位以内に入り、95四球で2年連続となるリーグ最多四球を記録。一塁手のベストナインに選出される活躍を見せた。しかし3年目以降はランナーがたまって打席が回ってくると「ここで打てなくて負けたら自分のせいだ」とマイナス思考に陥って凡退する、打てないと給料が下がることを気に病む、といったことを繰り返して精神面で深みに嵌り、伸び悩んだ。荒川博など早稲田出身者による宿舎での打撃論議の中で、様々なアドバイスを受けるが、結果には繋がらなかった。榎本は幼少時代に貧乏に苦しんだという経験によるトラウマから、凡退する度に「打率が3割を切ると給料がさがる」、「3割を打たなければ給料が上がらない。おばあちゃんを楽にしてやれない」と思い込み、肩に無駄な力が入りすぎてフォームが崩れて打てなくなり、さらにファンからの野次を真に受けて落ち込むなど、悪循環の繰り返しでスランプに陥っていた。

チーム事情もあり、1958年はクリーンナップを外れて1番打者を務めた期間もあった。1959年は主に2番打者を務める。同年オフ、チームメイトであった荒川博に合気道を紹介され、藤平光一に師事。そこで合気道をヒントにして得た打法と呼吸を研究して精神面の強化を図り、打席内で体の力を抜く方法を会得する。翌1960年には3番打者に戻り、打率.344で首位打者を獲得する活躍を見せ、リーグ5位の66打点も残し、チームのリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは第2戦に2ラン本塁打を放つ。山内一弘・田宮謙次郎・葛城隆雄らと共に「大毎ミサイル打線」の一翼を担った。同年のオフに結婚。

1961年は主に1番打者や2番打者として出場。9月に24歳9ヵ月で通算1000本安打を達成し、プロ野球史上最年少記録を樹立した。シーズン終盤まで張本勲と首位打者争いを繰り広げ、1番打者でスタメン出場した10月17日の東映戦(シーズン最終戦)では、タイトル争いのため1回に敬遠を受けた。同年シーズンはリーグ2位の打率.331、自己最多の180安打を記録する。

1962年からは3番打者に戻り、5月2日から6月3日にかけて23試合連続安打を記録した。翌1963年もリーグ2位の打率.318を記録するなど、チームの主力打者として活躍。1960年から1964年にかけ、毎年打率でリーグ5位以内に入った。1963年から1965年にかけては3番打者のほかに4番打者を任されることも多くなり、特に主力選手が抜けた1964年以降はチームの顔として期待されるようになる。

1965年は低迷するが、1966年にはシーズンを通してほぼ3番に座り、リーグ1位の打率.351・リーグ4位の24本塁打・リーグ3位の74打点という自己最高の成績を残して自身2度目の首位打者を獲得。当時のパ・リーグ新記録となる通算843四死球を樹立し、自身4度目の最多安打も記録した。翌1967年はリーグ7位の打率・リーグ2位の出塁率を残す。

1968年5月14日から6月18日までは2番打者を務め、それ以降は5番打者に定着し、シーズンではリーグ4位の打率.306を記録した。同年7月21日の対近鉄戦(東京スタジアム)ダブルヘッダー第一試合の第1打席にて、鈴木啓示投手の初球を打って右翼線への二塁打とし、プロ野球史上3人目となる通算2000本安打を達成。31歳7ヶ月での達成はプロ野球史上最年少記録である。続いて行なわれたダブルヘッダー第二試合では、近鉄の安井智規がセーフティバントを試みて一塁ベースへ駆け込んだ際、榎本と強く接触したため、二人は口論から殴り合いに発展した。これが発端となって両チーム全員入り乱れての大乱闘となり、近鉄の控え内野手であった荒川俊三が榎本の頭部をバットで殴った。榎本は意識を失って倒れ、担架で球場医務室に運ばれるという災難に見舞われている。

1970年は5月下旬から主に1番打者や代打を務め、6月13日の西鉄戦では代打サヨナラ本塁打を放つなど、規定打席不足ながら打率.284・15本塁打の成績を残し、チームのリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは7打数3安打と活躍した。1971年にはプロ野球史上5人目となる通算3500塁打を達成したが、負け試合だったということもあり、榎本に手を差し出したチームメイトは小山正明だけであった。

1972年、西鉄ライオンズにトレードで移籍。既に引退して西鉄の監督に就任していた稲尾和久は、「榎本の洗練された技術と打撃理論は、まだ若い西鉄の選手たちの生きた手本になる」と考え期待を寄せていた。榎本も稲尾のこの意図を汲み「今後は一兵卒として監督の手助けをしていく」と発言し、「榎本は選手としてのピークを過ぎて前にも増して気難しくなり、奇行を繰り返しているようだ」との話を耳にしていた西鉄の首脳陣を安堵させたという。しかし若手選手たちには榎本の打撃理論は難解すぎ、その理論と直結している技術もほとんど伝わらなかった。失望した榎本は若手への指導を諦め、試合前の練習中に客席から「それ、頑張れ」と大声を上げて稲尾らを困惑させるなど、次第に自暴自棄にも見える態度を取るようになっていった。

選手としては主に代打の切り札として起用され一定の成績を残したが、オリオンズ時代の輝きを取り戻すには至らず、同年に現役引退。通算2314安打は、引退時はパ・リーグ記録で、プロ野球史上では川上哲治に次いで歴代2位であった。また、背番号3番を18シーズンにわたって使用したが、これはパ・リーグ史上最長記録である(日本プロ野球史上最長記録は立浪和義の22年)。

引退後から10年間、憧れであった打撃コーチの役職に就任するための体作りとして、自宅とかつてのオリオンズ本拠地である東京スタジアムの間、往復約42キロを1日おきにランニングしていた。ところが現役復帰を目指しているという噂が立ったことや(通算打率3割復帰が目標という憶測もあった)、現役時代の件もあり、結局コーチ就任の声は掛からなかった。1977年に東京スタジアムが取り壊されることになった時には、榎本は毎日工事現場にやってきて、その一部始終を見守っていた。

晩年は地元の中野区でアパートを経営して生活し、前述のランニングは古希を越えても時々やっていたという。上記の経緯もあり、引退後は球界と一切の接触を断っていた。日本プロ野球名球会が創設された当初は会員となっていたが、1度も参加していないため、脱会扱いとされている。

2011年11月下旬、大腸癌発見により入院。2ヶ月の入院後、自宅療養していたが、2012年3月14日、大腸癌のため、東京都内の病院にて死去した。75歳没。

没後の2016年1月18日、野球殿堂顕彰者(エキスパート表彰)に選出された。同日に記者会見した長男の喜栄(よしひで)は、「正当な評価をいただいて、ありがたい気持ちでいっぱいです。今回のような賞をいただいたことで、父の選手としての印象もしっかり残ることになりますね。ファンの方、新しい世代の方に父のことを分かっていただけるとありがたいです」と喜びのコメントを出した。また晩年の榎本の様子については「指導者として球界に恩返ししていないのが心苦しいようでした」と振り返り、インターネットの情報や著作で榎本のことを知ったファンからよく手紙が届いていたことについては、「(榎本は)送られてきた色紙などによくサインをしておりました。そういう意味では、死ぬまで野球一色だったと思います」と語った。そして「関係者の方からは『ご存命中に殿堂入りしていただきたかった』といったお言葉もいただきますが、他界した後で功績を評価していただけたというのも、不器用な父らしくていいのではないかなと思います」と述べた。

プレースタイル

才能・感性に裏打ちされた打撃理論を持ち、いかなる投手のボールであってもストライクゾーンに来れば反応したといわれ、特に選球眼が抜群であった。高卒新人から2年連続でリーグ最多四球という非常に珍しい記録を持っている。1年目の19歳時(シーズン期間中は18歳)に記録した97四死球は、新人選手の記録としては2位の田部輝男・65四死球(1950年)を大きく引き離しての歴代1位である。また、四球が多いにも関わらず三振は少なかった。1964年は641打席に立って86四球に対して三振はわずか19という数字を残しており、シーズンBB/Kでは1951年の川上哲治に次ぐ歴代2位を記録している(川上は424打席)。

1962年シーズン途中から1972年までオリオンズの本拠地だった東京球場で、最も多く本塁打を打った選手である。パ・リーグのみでの通算409二塁打は福本豊の449二塁打に次いでパ・リーグ歴代2位の記録であり、通算1062四球はパ・リーグ歴代5位の記録である。また、1960年から1962年までの3年連続を含み、通算で4回最多安打に輝いた。シーズン安打数リーグ1位を4回は、福本豊、ブーマー・ウェルズと並ぶパ・リーグ歴代2位に位置する(イチローに抜かれるまではパ・リーグ記録)。

打者としては、グリップエンド一杯を持ってフルスイングを多用するプルヒッターであった。軽打を嫌っていたため、アウトコースの球もすべて巻き込んで豪快に引っ張り、当時同じリーグで左右に打ち分ける「スプレー打法」の異名を取った張本勲とは対照的に、打ち分けて打率を稼ぐタイプではなかった。インパクトの際に強く踏み込み、身体を沈めて下半身の力で振る打者で、ライナー性の強烈な打球が非常に多いラインドライブヒッターでもあったという。そして型が崩れず、軸が全くぶれない美しい打撃フォームが特徴だった。チームメイトであった山内一弘は、榎本のフォームについて、「これぞバッティングという完璧なフォーム」と語っている。

打低投高の時代で好成績を残し続け、通算打率.298は7000打数以上の選手中ではプロ野球歴代7位に位置する。また4000打席以上の選手中、セイバーメトリクスにおける通算RCWIN傑出度では歴代7位、RC27傑出度では歴代8位を記録している強打者である。通算BB/K傑出度においては2.80倍を記録しており、4000打席以上の選手中で歴代1位となっている。

入団時、打撃に反比例して守備は下手であった。そのため当時の一塁手だった西本幸雄は、榎本が自分のポジションを奪うかもしれない選手だったにも関わらず、榎本に徹底的に守備をたたき込んだといわれる。その甲斐あってか、榎本は2年目の1956年に一塁手におけるシーズン守備機会とシーズン刺殺数の日本記録を樹立した。1965年にはシーズン補殺数122で一塁手の日本記録(1999年にロベルト・ペタジーニが124補殺を記録して更新。現在はパ・リーグ記録)を残し、守備得点22を記録。1967年8月から1968年9月にかけては1度も失策せず、1516守備機会無失策の日本記録を残した。1968年シーズンも9月に記録した失策ひとつだけで終え、シーズン一塁手守備率.9992の日本記録を樹立している。

一塁手としてパ・リーグ一筋で残した通算守備記録は、2147試合・20859守備機会・19625刺殺・1137補殺・1489併殺であり、すべて一塁手のパ・リーグ記録である。一塁手プロ野球歴代では、試合・守備機会・刺殺数が2位、併殺数が3位、補殺数が4位に位置する。失策は97個と少なく、通算守備率.9953は1000試合以上対象で一塁手パ・リーグ歴代1位、1500試合以上対象または13000守備機会以上対象の場合は一塁手プロ野球歴代1位となる。また一塁手のほかに、1959年に右翼手として13試合出場している。

若手時代のオリオンズの選手名鑑には、榎本の選手紹介に「(打撃と共に)守備もうまい看板選手」という旨が記されている。守備指標でも高い数字を記録しているが、一方で1969年からチームの先発ローテーションに定着した投手の村田兆治は、キャリア晩年時の榎本の守備力について、「守備では(榎本)自身の届く打球にしか動いてくれず、正直辛かった」、「お世辞にも、上手いとは言えなかった。最低限の動きしかしないから。可もなく不可もなく、でしょうか」と評している(ただしその後に「こと打撃に関しては、周囲からの好奇の視線や雑音には目もくれず、わき目も振らずに打撃に没頭する姿に、これこそプロだ、と感銘した」と続けており、榎本の打撃に対する姿勢から大きな影響を受けたという)。

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