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清原和博の情報 (きよはらかずひろ)
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■名前・氏名
清原 和博
(きよはら かずひろ)
■職業
野球
■清原和博の誕生日・生年月日
1967年8月18日(年齢56歳)
■出身地・都道府県
大阪出身

清原和博と同じ年に生まれた芸能人(1967年生まれ)

清原和博と同じ誕生日の人(8月18日)

清原和博と同じ出身地の芸能人(大阪府生まれ)


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清原和博

経歴

実家は電器店(東芝ストアー)を経営。父(阪神ファン)以外の家族は巨人ファンであり、その影響で自身も巨人ファンとして育った。1974年に巨人は中日ドラゴンズにV10を阻止され、翌1975年は球団史上初のリーグ最下位に沈み、広島東洋カープにリーグ優勝をさらわれた。家族が応援する巨人が2年連続で優勝を逃したことが、野球に入っていくひとつのきっかけであった。

1974年、岸和田市立八木南小学校に入学。ここで野球を始めたが、当初は、木の棒で石ころを打ち返すという程度でしかなく、1976年5月、岸和田リトルリーグの部員募集ポスターを見て入団テストを受け、岸和田リトルリーグに入団(小学3年生でありながら、すでに身長が155cmあったとのこと)。毎日祖父から100円を貰い練習をしていた。1977年、6年生ばかりのレギュラーに混じり唯一4年生でレギュラーを獲得。その後投手としても才能を発揮し、6年生の最後の試合ではエースで4番を務め、完全試合を達成した。

その後、岸和田市立久米田中学校に進学すると共に、岸和田シニアリーグに移り、中学2年生にしてキャプテンとして関西シニアで優勝を果たす。3年時には日生球場のネットを揺らす本塁打を放った。

高校は30校近いスカウトの中からPL学園高校を選ぶ。天理高校かPL学園かどちらに行くかで悩んでいたが、両校の練習を見学した際に、毎年100人前後の部員を抱える天理高では3年生が練習をしている際に1年生が球拾いをしているのに対し、少数精鋭をとるPL学園では学年に関係なく同じメニューの練習ができることが決め手となった。また、清原の母親が奈良県出身で地元の強豪の天理で甲子園に行ってほしいと幼少のころから言われていて、本人もそのつもりだったが、後にPL学園の在阪スカウトの方から「小学生時代から目をつけていた。ぜひPLの練習を見に来てほしい」と熱心に勧誘され、心が揺らいだとも語っている。

早くから1年生では田口権一と共にレギュラー組に選ばれていたが、6月ぐらいに(入学当初から希望していた)投手の、練習はもうしなくていいと言われた。その後、同期の桑田真澄の傑出した実力を知り、「(桑田には)絶対勝てない」と野手を選んだ(新入部員が最初に集まった際に、清原は名の通っていた桑田を探しその姿を発見すると「なんだ、こんな小さい奴か」と思ったが、実際の投球を見て驚嘆し、PL学園で投手になることを断念したと後にコメントしている)。

当時はバッティング練習の際には飛距離の出ない竹バットを使用していたが、それでもネットを軽々越えて場外に飛ばしていたために、清原用の金網が継ぎ足されたという逸話が残っている。このネットは「清原ネット」と呼ばれていた。

全国から精鋭の集まるPL学園野球部にあって1年生から4番に座り、エース桑田と共に甲子園に5季連続出場を果たす。1年生の夏に優勝、2年生の春・夏は共に準優勝、3年生の春はベスト4、3年生の夏は2度目の優勝を経験している。

特に清原と桑田はKKコンビと呼ばれ、後には桑田清原世代と呼ばれるようになるこの世代を代表する人物となった。後にプロ入りした松山秀明(元オリックス)、今久留主成幸(元横浜大洋、西武)、内匠政博(元近鉄)も、共に活躍した。

個人としても甲子園通算13本塁打を放つなど(第66回大会で香川伸行の記録を更新)、高校通算64本塁打を記録。3年夏の決勝戦でこの試合2本目、当時の1大会での新記録となる5号を放った際、当時朝日放送アナウンサーだった植草貞夫は「甲子園は清原のためにあるのか!」と実況した。3年生春の対浜松商戦と同年夏の東海大学山形高等学校戦(共に大量得点差のついた最終回)では監督の中村に懇願し、投手として登板させてもらった。しかし、その初球にカーブを投じたことに対し、同試合の球審を務めていた西大立目永から「真ん中、まっすぐ放りなさい!」と指導されるエピソードが残されている。

豪快な本塁打など、試合での活躍が多くの伝説を生んだが、練習に対する姿勢も真摯であった。そのエピソードとして、3年春のセンバツ準決勝で伊野商の渡辺智男に3三振と完璧に抑えられ、チームも3-1で敗れた際は試合後ベンチで涙を流したが(高校三年間で唯一甲子園大会の決勝に進むことができなかった)、その日学校に戻ってからの夜、監督の中村順司が誰もいないはずの室内練習場に明かりがついているのを見つけて中をのぞいてみると、上半身裸の清原が、湯気のような汗を流しながら一人で黙々とバッティング練習をしていたといい、夏の大会では宇部商(山口)とぶつかった決勝での2打席連続を含む大会新記録の5本塁打と爆発し、1年生のとき以来、2年ぶりの頂点をつかみ、その悔しさをはらしたとのこと。

子供の頃から熱烈な巨人ファンで、甲子園球場での伝統の一戦をいつも楽しみにしていた清原は、父親以外全員がファンである読売ジャイアンツもしくは、父親がファンである阪神タイガース入りを熱望し、両軍が自身への交渉権を逃した場合には、次のドラフトまでに社会人野球・日本生命硬式野球部で野球をする事を表明していた。しかし巨人は早稲田大学進学を表明していた桑田をドラフト1位で強行指名。当の清原は南海ホークス、日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズ、近鉄バファローズ、西武ライオンズ、阪神の6球団から1位指名を受けた(KKドラフト事件)。もし巨人に入団できなければ、同じセントラル・リーグで実家から近い阪神を希望するも、抽選の結果、西武が交渉権を獲得。ドラフト会議直後の記者会見では、失意で涙を溜めた姿が放送された。後に自宅で泣く清原を見て、母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで!」と言い聞かせ、巨人を見返すために日本生命硬式野球部の内定を取り下げ、プロ入りを決断。

清原はそのまま西武に入団、背番号は3。ルーキーイヤーの1986年、オープン戦ではプロの洗礼を受け本塁打を1本も打てないまま開幕を迎えるが、打撃フォームの修正を重ね、開幕2戦目の南海ホークス戦の6回表から一塁の守備につき途中出場でプロ公式戦デビューすると、第1打席では四球、第2打席には藤本修二からプロ初打点・初安打かつ、初本塁打を打つ。試合は2対4で負けたが、個人的な活躍から、なおも大喜びしていたため、「味方の負け試合でそんなに天真爛漫に喜ぶやつがあるか」と怒られてしまったという。打たれた藤本は試合後のインタビューで、「本塁打よりもその前の打席で誘い球にも手を出さず、ベテランのようにきっちり四球を選んだことのほうが驚きだった」という内容の言葉を残している(清原はこのことを自著で「単純に自分を新人だと思ってナメてかかっただけ。だから単調で読みやすかった」と語っている)。その後は4月8日に8番で初スタメン出場を果たすと以後はスタメンに定着。徐々に打順を上げ、5月27日には早くも5番を任されることとなった。

前半戦を打率.252、11本塁打で折り返し、オールスターゲームにはファン投票で1位選出された。高卒新人がオールスターに出場したのは1954年の梶本隆夫(阪急)、1955年の榎本喜八(大毎)、1970年の太田幸司(近鉄)に次ぐ史上4人目だったが、清原はその中で初めて安打、本塁打を放った選手となった(第1戦で安打、第2戦で本塁打)。第2戦ではMVPを獲得している。後半戦だけで20本塁打をマークし、9月には高卒新人初となる月間MVPを受賞した。同年のチームは調子が上がらず、前半戦は下位を低迷していたものの、清原が調子を上げるのに合わせてチームの成績も上がり、バファローズと激しい優勝争いを演じた。9月27日の近鉄戦では初回に28号を放ち豊田泰光の高卒新人本塁打記録を33年ぶりに更新すると、8回にも29号を放ち、長嶋茂雄のルーキーシーズンの記録に並んだ。10月7日のロッテ戦で初の4番に抜擢され、その試合で1点ビハインドの6回、田子譲治から高卒新人史上最多の31本目の本塁打を放って1959年の桑田武に並ぶ新人本塁打記録の最多タイ記録を達成。桑田は達成時は23歳、清原は19歳であった。同点で迎えた7回には二死二塁の場面でプロ初の敬遠も経験した。10月9日、2安打1打点で勝利に貢献し、チームの優勝が決定。当時はシーズン130試合制だが、129試合目まで争いがもつれた。この時点で打率.301であったが、翌日のシーズン最終戦では森監督が清原に出場するかどうかの打診をし、清原は「出ます」と出場して3安打を放って打率を.304まで伸ばした。

1986年シーズンは本塁打31の他、打率.304及び打点78も1955年・榎本の打率.298・67打点を更新する高卒新人の歴代最高記録を残し、新人選手の二桁本塁打は27年ぶり、5人目の快挙であり、新人王に選出された。同年の日本シリーズには8試合全てに4番・一塁でフル出場を果たし、初戦で自打球を左足に当てて親指を骨折するというアクシデントに見舞われたものの、打率.355(31打数11安打)でシリーズ首位打者および最多安打を記録して、チームの日本一に貢献。シリーズ優秀選手賞を獲得した。この年は流行語大賞を獲った「新人類」の代表として、工藤公康、渡辺久信と表彰式に出席した。

1987年は打率.259と下がり、2年目のジンクスに陥る形となったが29本塁打を放つなど長打力は健在で打点は前年を上回った。また三振数も100を割った。日本シリーズでは、王貞治監督率いる巨人と対戦。西武3勝と王手をかけていた第6戦では、清原の先制2ラン本塁打などで3対1とリードし、9回ツーアウトになった時、一塁の守備についていた時に涙を流し、試合が一時中断となった。清原は自著の中で「9回、ファーストから、三塁ベンチの巨人の選手、王さんの姿が見え、ドラフトのことを思い出し涙が止まらなくなった」と述べており、二塁手の辻発彦になだめられた。この試合に先発し9回のマウンドに立っていた工藤公康は、試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったので)どんなガッツポーズをしようか考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつも、「あの涙は本当に美しかった」と語っていた。

1988年も前年同様全試合出場を果たし、31本塁打をマークし、打率も前年より上げた。7月5日のロッテでは小川博からプロ入り初となるサヨナラ本塁打を打っている。中日との日本シリーズでは第1戦の2回小野和幸から特大の先制ソロ本塁打、第4戦では5回に上原晃から2ラン本塁打、第5戦では6回に小松辰雄からソロ本塁打など3本塁打を打ちチームも4勝1敗で3年連続日本一、優秀選手賞を受賞した。

1989年6月4日には史上最年少となる21歳9ヶ月での100号本塁打を達成。しかし、優勝争いの真っ只中の9月23日、対ロッテ戦で、4回に平沼定晴から受けた死球に怒り、バットを放り投げ乱闘を起こしたとして初の退場処分を受け、パリーグから即日「厳重戒告・制裁金30万円・2日間出場停止」の処分が下された。このため、前日まで続いていた清原の連続試合出場は490でストップした。なお、この件は後に、2015年10月11日放送の『行列のできる法律相談所』で、改めて謝罪した。最終成績は35本塁打を放ち、打率.283を残した。三振数は60で、これは規定打席に到達した年では自己最少の数字だった。

1990年は打率.307、37本塁打、94打点をマークした。37本塁打は自己最多である。自身2度目の打率3割を達成したが、これ以降は規定打席に到達しての3割は記録できなかったため、規定打席到達の3割は同年が最後だった。オフの契約更改では当時としては史上最年少となる23歳で1億円プレイヤーとなり、「25歳までに1億円プレイヤーになる」という願望を成し遂げた。

1991年は、開幕7試合で6本塁打と最高のスタートを切るも、そこから35試合・151打席のあいだ本塁打が出ないという極端なスランプに陥り、成績を落とした。

1992年6月26日には同じく史上最年少となる24歳10か月で200号本塁打を達成。同年は最高出塁率のタイトルを獲得した。しかし、日本シリーズでは野村監督率いるヤクルトに研究され絶不調に陥り、第4戦から第7戦まで17打席無安打となり、第7戦は途中で守備からベンチに下げられて胴上げの瞬間はベンチで迎えた。

1993年5月3日の対ロッテ戦(西武球場)で、伊良部秀輝との対戦時に当時の日本球界最速の158km/hのストレートを投げられた(最後は157km/hのストレートをセンター前に打ち返し、対戦は清原に軍配が上がった)。同年は三振数が120となり、5年ぶりに三振数が100を超えた。清原はこの時の事を度々回想している。

1994年も三振数が100を超えたが、一方で四球も100を超えるなど選球眼の良さが光った。四球が100を超えるのは4年ぶりだった。

1995年は右肩を脱臼、安打100本未満と9月19日での試合でオリックスがリーグ制覇を果たしプロとして初めて相手チームの優勝を見届けてしまい球団自体も黄金期に終止符を打つ事となる。

1996年は前年より打撃3部門全てを上回った。打率は.257と不調だったが8年ぶりに全試合に出場し、4年ぶりに30本塁打以上をマークした。

かつては王貞治を超えるのは清原しかいないとまで言われ、森祇晶監督在任中の9年間でリーグ優勝8度、日本一6度を成し遂げ名選手を多数輩出した「西武黄金時代」の4番に君臨、3番・秋山幸二とのコンビは「AK砲」と呼ばれた。88年はタイ・バンバークレオが加わり「AKB砲」となり、89年以降はオレステス・デストラーデに代わって「AKD砲」となる。森は清原の能力と人柄を非常に高く評価しており、西武監督退任時に「清原は年々、野球への考えが進歩してきている」と述べている。

清原を一年目から一軍レギュラーで使うことにはコーチ陣や野球評論家でもかなり異論があり、当時評論家だった野村克也は「清原は一年目は一軍では使えない」というほどだった。しかし森はそれらの異論をはねつけてあえて清原を使いつづけ成功した。当時西武の一軍打撃コーチだった土井正博は「今だから何でも言えるけれど、清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。ところがオーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。(森は)毀誉褒貶の激しい人だった」と述べている。清原も自分をプロとして育ててくれた森のことをのちの野球人生で出会った長嶋茂雄、仰木彬とともに名監督として深く尊敬し、森が2005年に野球殿堂入りしたときは一番に駆けつけて祝辞を述べ、森がハワイに移住後も付き合いが続いている。日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが、1986年と1988年は優秀選手に、敗戦した1993年と1994年は敢闘賞に選出されている。引退後、西武時代は毎年自らの年度ごとの通算本塁打数を王のそれと比較していたと語った。

清原本人も自分は恵まれすぎていると自認していたが、それだけにジレンマを感じていた事とFAの資格を得て、巨人への移籍が可能になったことから、オフにFA宣言。巨人と阪神が獲得に名乗りを上げた。阪神監督・吉田義男の「(ユニフォームの)縦縞を横縞に変えてでも…」、巨人監督・長嶋茂雄の「僕の胸に飛び込んできなさい」という口説き文句が話題となった。5年契約で念願の巨人に移籍し、背番号は長嶋が自らの永久欠番3を譲る考えも明らかにしたが、「5」に決定(ただし提示された契約金は阪神の方が倍近く高かった。当時阪神で背番号3をつけていた八木裕も清原加入の際は同番号を譲る意思を表明していた)。なお、清原加入により巨人の一塁を守っていた当時43歳の落合博満が出場機会を求め日本ハムに移籍。巨人退団会見にて落合は「清原君と勝負して負けるとは思わないが、(落合と清原の)どちらを使うかで悩む長嶋監督の顔は見たくない」と落合の自著「不敗人生」で記述している。3番・松井秀喜とのコンビは「MK砲」と呼ばれた。後に高橋由伸が加わり「MKT砲」となる。

1997年は開幕から4番を務め、開幕3試合目に移籍第一号となる本塁打を放って、西武時代の終盤と遜色ない成績を残すものの、シーズンを通じて阪神の4番・桧山進次郎と三振数を争い、当時のリーグ新記録152三振を記録(桧山は150三振)、求められたものが大きかったためか一時は応援ボイコット(応援歌・コールなし)も受けた。最終的には打率.249、32本塁打、95打点の成績で、本塁打、打点は前年よりも上回り巨人の右打者での30本以上の本塁打は1988年の原辰徳以来であり、90打点以上も1987年の原以来の達成である(尚これが清原にとって30本塁打を超えた最後の年であった)。しかし、勝負どころで相手チームが松井秀喜を敬遠、清原勝負を選択、清原が凡退した結果敗戦した試合も度々あり、清原のエンジンがかかり始めたのも優勝争いから脱落してからであった。また4番での出場試合数的には清原がトップであったが、清原以外に4番に座った広澤克実や石井浩郎の方が勝利に結びつく打撃をしていたこともあって、数字以上に大いに期待外れの印象を残してしまった。巨人はこの年、優勝戦線から早々に離脱し、清原自身プロ入り初のBクラスでシーズンを終えた。

1998年は前年の反省から、長年の神主打法からの大幅な打撃フォーム改造を敢行した。セ・リーグの厳しいインコース攻めに対応するため、より最短距離で球を捉えようと、これまで垂直気味に立てていたバットを寝かせ、グリップも一握り余すなどプライドを捨ててまで清原は再起に懸けていた。そうして3番清原、4番松井で始まったシーズン当初、膝の故障もあって不振に苦しむ松井とは対照的に、清原は打撃改造の甲斐あって絶好調。4月は広島の前田智徳を抑え月間首位打者で終えるなど順調なスタートを切り、4番の座を松井から奪い取った。しかし、左太腿肉離れなど故障もあって次第に調子を落としていった。最終的に同年シーズンは100試合近く4番を打ち打率.268、23本塁打、80打点と打撃成績の数値的には落としたものは多かったが、三振数は前年の半分以下に抑えた成績を残し、原辰徳の12年連続を上回り、プロ入りから13年連続20本塁打の日本記録を達成した。一方、この年以降は常に下半身の故障に悩まされることになった。

1999年は開幕から怪我に悩まされ、阪神タイガースの藪恵壹からの死球で左手を亀裂骨折。更に6月には広島戦でクロスプレーの際に右足靭帯を負傷。出場試合数は86試合、成績は.236、13本塁打、46打点とプロ入り後最低の数字にとどまり、前年までの「連続20本塁打記録」は13年で途切れてしまった(ただし、右足の負傷は膝側副靭帯断裂という重症であり、手首亀裂骨折とあわせ強行出場を続けさせた球団の姿勢にも疑問が上がった)。いよいよ土俵際となった清原はオフに鹿児島・最福寺にて護摩行を行った後、アメリカに飛び筋力トレーニング(「肉体改造」)に励む(詳細は後述)。この年には、96年のオフに暴力団員と賭けゴルフをしていたことが報じられており、この時の騒動が後の薬物事件に繋がったという声も逮捕時に上がっている。

2000年もキャンプ中に肉離れを起こし、プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。その際、巨人のオーナーであった渡邉恒雄には「(清原が一軍にいないことで)勝利要因が増えたな」とまで言われた。前年から清原離脱の際に一塁に入っていたドミンゴ・マルティネスがこの年も活躍していて清原も崖っぷちに立たされていたが、7月7日の復帰後初打席で代打三点本塁打を放ち復活をアピール。7月12日の毎年恒例の札幌シリーズ(札幌市円山球場)では先発メンバー入りし、場外本塁打でプロ入り通算400号本塁打を達成。夏場にはレギュラーの座に返り咲き、75試合の出場で.296、16本塁打を記録。チームも清原移籍後初優勝し、日本シリーズも制覇した。この年、モデルの木村亜希と結婚している。また、この頃ようやく禁煙に踏み切った。

2001年は5年契約の最終年であり、これまでの成績から契約更新は絶望的であるといわれていた。しかし、開幕から大きな怪我をすることなく打ち続け、特にチャンスに滅法強く終盤まで打点王争いをするなど、打率.298、29本塁打、121打点と巨人入団以降では自己最高の好成績を残し(打点においては自身初の100点超えの自己最高)、年俸大幅アップと4年契約を勝ち得た。

2002年も開幕から好調であったが、故障のため戦線離脱。8月23日には長男が誕生した。シーズン終盤には復帰し55試合出場に終わるが、打率.318、12本塁打と一定の成績は残した。この年の開幕第2戦(巨人-阪神:東京ドーム)で400号本塁打達成時に目標にしていた尊敬する長嶋の現役通算本塁打数「444」本に並ぶ。またそれは試合当日、解説を担当していた長嶋の目の前で放った。故障を押して出場した日本シリーズでは古巣の西武と対戦。第1戦に松坂大輔から2ラン本塁打、第3戦では1点ビハインドの2回に張誌家から同点本塁打を放つなど計2本塁打を放ち、日本一に貢献し、西武時代だった1988年以来、14年ぶりに優秀選手賞に選出。清原自身はこれ以降はリーグ優勝も日本一も経験していないため、この年が自身にとって最後のリーグ優勝と日本一となった。また張誌家からの本塁打は日本シリーズ最後の本塁打となった。

2003年は前年オフに松井移籍数日後、燦々会の会合で原辰徳監督に早々と4番に指名され、故障に悩まされ続けながらも打率.290、26本塁打を記録。5月18日の対阪神戦で下柳剛と安藤優也から本塁打を放ち門田博光を抜いて本塁打を打った投手が185人でトップに立つなど記録を作ったが、シーズン後半にはロベルト・ペタジーニが4番を打つことが多くなり、(ただ、ペタジーニも規定打席不足)清原は主に5番を打ち114試合、341打数と評価の分かれるシーズンとなる。またこの年以降100試合出場がなかったため、2003年が最後の100試合出場となった。なお7月5日PLの2年後輩で中日の立浪和義が先輩清原に先んじて通算2000本安打をドームの巨人戦で達成、その際一塁守備に就いていた清原が花束贈呈し、祝福した。

2004年はペタジーニとの併用で出場試合数が減少。史上31人目、巨人の選手では落合以来6人目の2000本安打を達成するが、6月に死球を受けて骨折して長期離脱した影響もあり、40試合の出場に終わり、打率.228、12本塁打、27打点と低迷。この年の安打数は23本で安打数の半分近くが本塁打で27打点だったことから打点のほとんどが本塁打によるもので、確実性に欠けるシーズンとなった。シーズン終了後には堀内恒夫監督の戦力構想から外れたことが判明し、退団の危機に陥ったが、滝鼻卓雄新オーナーに「編成権は監督にあるのか、フロントにあるのか」と直談判、巨人には契約があと1年残っていたこともあり、なんとか残留を果たす。残留決定の際、「泥水をもすする覚悟で精一杯プレーしたい」とコメントした。この年の秋には、後述するオリックスやセ・リーグのあるチーム(交換相手は投手)から巨人にトレードが打診され、オーナー辞任直後の渡邉恒雄が特に清原放出に積極的だったが、これらは成立しなかった。

2005年は400m日本記録保持者、東海大学陸上競技部コーチの高野進から走法の指導を受け、下半身の強化に努めた。また、ダイヤのピアスを両耳に付けて試合に臨んだ。これは一般にメジャーリーガーであり、尊敬してやまないバリー・ボンズにあやかったと受け取られていたが、実際には後に自らの著書「男道」で「巨人軍に契約交渉の席で煮え湯を飲まされ、その悔しさを忘れないために刺青の代わりにつけた」と述べている。このピアスに関しては巨人OBをはじめ、他球団のOBからも評判は悪く、野村克也など苦言を呈す人も多かった。なお、元来巨人は茶髪、ひげ、ピアスなどは基本的に禁止であったが、当時の監督堀内もキャンプでは無精ひげを生やし、タブロイドには「お山の大将同士の冷戦」と揶揄された。それでもこの年開幕4番を任され、4月14日の阪神戦で福原忍から本塁打を放ち、本塁打を打った投手の人数が200人に到達(史上初)した。東京ドームでの阪神戦で藤川球児との対戦時に、藤川が追い込んだ後フォークを投げてきて三振したため品のない発言をした事で問題になった。4月29日の対広島戦(広島市民球場)で広池浩司から本塁打を打ち、史上8人目の通算500本塁打を達成。その後もしばらくは本塁打、打点の暫定2冠王で、打率も一時は.269まで上昇、オールスターゲームにも出場し、本塁打を放った。しかし、チームは相反する様に開幕からなかなか勝てない日々が続き、清原自身も交流戦の対オリックス戦で山口和男から頭部への死球を受け、下半身の故障なども重なって成績は徐々に低迷。ケガから復帰した8月4日の対広島戦では、4回表に本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周した後、ベンチで堀内やコーチ、選手とのハイタッチを拒否する。7番打者で起用されたことに激怒したとされているが、この本塁打が巨人時代最後の本塁打となってしまった(先述した大怪我から最前線に立てる状況ではなく、球団も配慮をしての対応だったが、清原の打者としてのプライドから認めることができなかったとのこと)。結局この年は張本勲に並ぶ入団以来20年連続2桁本塁打、2年ぶりの20本塁打以上を記録し、前年よりも出場機会を増やし96試合に出場するも、打撃が本塁打一発狙いが多い結果打率は自己最低となる.212と清原自身も満足な結果とはならなかった。

結局は左膝半月板損傷の怪我と、前述のハイタッチ拒否事件で自ら孤立したため、シーズン終了を待たずに球団から戦力外通告を受け、12月2日に正式に自由契約選手として公示された。

清原の巨人時代は否定的な意味で語られることが多く、巨人在籍中にはマスメディアや世論やファンからの様々なバッシングに晒され続けたものの「巨人に入団して後悔しているか」との質問に対しては「NO」と即答しており、「巨人時代の苦労が自分自身を成長させてくれた」と語っている。また、著書の一つである「反骨心」では「巨人に入って苦労はしたが、人生最高の時だと思えることが何度もあった」と書かれてある。その一方で同年監督を辞任した堀内は週刊ポストで「清原は野球に向かない。団体競技である野球に進んだのが間違い」と批判していた。

巨人時代は規定打席に到達したのは1997年、1998年、2001年の3回だけで、巨人では規定打席に到達しての3割は記録できなかった。また、100試合出場は前述の規定打席到達年の他、2003年の計4回しかなかった。また巨人入団後の優勝経験も2000年と2002年の2回しかなかったがいずれも日本一となっている。

巨人から戦力外通告を受けた2005年シーズン終了後のある日、オリックス・バファローズのシニアアドバイザーである仰木彬から電話がかかり、「大阪に帰って来い。お前の最後の花道は俺が作ってやる」と何度も説得され、オリックス入団を決意した。仰木は以前から清原を買っていた。仰木が近鉄の監督1年目だった1988年、10.19の死闘の末西武との優勝争いに敗れ、その後清原擁する西武が中日との日本シリーズを制し、清原は日本シリーズ優勝後のインタビューで「これで近鉄の選手の皆さんに顔向けができます」と語った。これを観た仰木は「なんて男気のある奴なんだ」と心を打たれ、以来、事ある毎に清原に声を掛けていた。直後に仰木は肺癌による呼吸不全で他界したが、なおも清原は仰木を「野球界で最も尊敬する人物」と語っている。しかし、オリックス入団の決断は仰木の死去後に下されたため、「他球団からのオファーが無かったことを確認してからオリックス入りを決めたのではないか」との批判もなされたが、これについては本人は「入団は決意していたが、膝の具合をみて自分が戦力になるかどうか判断したかった」と否定している。仰木は近鉄との球団合併前年のブルーウェーブ時代、2004年オフにも熱心に清原を勧誘し、巨人の球団代表らと直接会ってトレードの交渉をしていた。

背番号は巨人時代に引き続き「5」(当初は西武時代の3と巨人時代の5を足した8も用意されたが、8は同年入団の中村紀洋が着けた)。入団会見では「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチームの勝利に貢献したい」と新たな決意を語った。当時体重は120kgに達していたが、2か月足らずで約20kgの減量をした。

2006年は開幕前に球団が吉本興業と業務提携を結んでいたことから、中村らと共に吉本新喜劇にも出演した。シーズンでは開幕後しばらくは清原の持ち味であるセンターからライト方向へのヒットや四球が目立った。5月21日の対阪神戦に代打で出場し、満塁で中前適時打を放って史上8人目の通算1500打点を達成。5月26日の対横浜戦で通算517号となる3号ソロ本塁打を三浦大輔から右翼席に放ち、史上12人目の4000塁打を達成。翌5月27日の対横浜戦では、9回裏に4号逆転サヨナラ満塁本塁打をマーク・クルーンから放ってチームを勝利に導いた。なお、このサヨナラ本塁打で野村克也の持つ通算サヨナラ本塁打記録11本に並んだ。7月23日のオールスターゲーム第2戦では8回2死走者なし代打で登場し、藤川球児と対戦、あと1本と迫っていたオールスターゲーム最多本塁打記録を狙ったが、空振り三振に倒れている。8月29日の対西武戦で長田秀一郎から10号サヨナラ本塁打を放つ。この本塁打で21年連続2桁本塁打を達成し、通算サヨナラ本塁打(12本)及び通算サヨナラ安打(20本)でプロ野球歴代単独トップに立った。一方で、死球を受けた後日、死球についてインタビューされた際に「もしそういうことがあれば命をかけてマウンドに走っていき、そいつを倒したいと思う」と報復を宣言したともとれる発言をしたため問題になった。9月2日のロッテ戦で初回に清水直行から11号3ラン本塁打を放つが、2007年は1軍出場できず、2008年は現役最終年で2年ぶりに1軍出場したがホームランを打てなかったため、これが現役最後の本塁打となった。この年は前述のサヨナラホームランなど記憶に残る活躍もあり、ホームラン数は11本と中村に次ぐチーム2位のホームラン数だが、中村も清原も故障離脱を繰り返し、チームに大きく貢献してるとはいえず、中村と合わせて23本のホームランしか打てず67試合の出場で打率も.222と低迷し、チームの順位も5位と下がった。中村は契約交渉が決裂しその後退団し、中日に移籍した。

2007年はキャンプ中に左ひざを痛めて離脱し、2月28日に左膝の軟骨除去手術を行う。交流戦での復帰が報道されたこともあったが回復具合は思わしくなく、7月6日に神戸市内の病院で左膝に移植手術をし、この年はプロ入り以来初めての1軍試合出場なしに終わった。その後記者会見で、「桑田の、メジャーでの頑張りを見てたらね、桑田がこんなに頑張ってるんだからって思うし、僕も現役を続行したい」と宣言。「普通の選手ならこんな大手術を認めてもらえないのに、球団にはそれを認めてくれた事に感謝している」と語っている。12月10日に契約更改を行い、野球協約による減額制限(40%)を上回る45%・9000万ダウンの1億1000万円の単年契約でサインした。

2008年も前年の手術の影響で2軍調整が続いたため、同年から始まった「ビッグボーイズ打線」のレギュラーを務めることはできなかったが、7月31日に532日ぶりに1軍に合流した。しかし、8月2日に記者会見を開き、「こんな状態なので、来年はグラウンドに立てないと思う」と話し、同年限りでの現役引退を事実上表明した。この1日に、清原関連の球団グッズは5000万円を売り上げた。これはオリックス全選手1年分の売り上げに相当するという。8月3日の福岡ソフトバンクホークス戦で7回に代打で695日ぶりに登場したが、大隣憲司の前に空振り三振。翌日の同戦でも再び代打で登場し三瀬幸司のストレートをセンター前に打ち復帰後初のヒットを打った。8月18日の西武ドームでの対埼玉西武ライオンズ戦終了後、「現役選手として最後の誕生日を、ここ(西武ドーム)で迎えられて嬉しかった」と語り、同年限りでの現役引退を決めていることを明らかにした。9月29日プロ入りから11年間を過ごした西武ドームでの西武とのカード最終戦終了後、グラウンドに出てライトスタンドの西武ファンの清原コールに応えた後、オリックスと西武の両軍選手が清原を胴上げするというセレモニーが行われた。西武時代のチームメイトで、合宿所で同部屋だったこともある監督の渡辺久信からも花束を贈呈された。また、西武時代に背番号3番を着けていたため、当時の背番号3番の中島裕之とユニフォームを交換した。

10月1日、京セラドーム大阪でのオリックスのシーズン最終戦、対ソフトバンク戦が清原の引退試合となった。通常、前売り入場券は試合の1か月前、ただしその日が月曜日の場合はその翌日に発売開始されるのが通例だが、オリックスは特例として月曜日の9月1日に発売開始の措置を取った。入場前売り券は発売開始から1時間足らずで完売した。イチローや同年に引退した桑田真澄らが見守る中、4番・指名打者で先発出場。試合前には対戦相手監督の王貞治から花束贈呈もあり、王は清原に対し「生まれ変わったら、同じチームでホームラン競争しよう」と伝えた。外野スタンドから西武・巨人・オリックスの在籍時代の応援歌が順に演奏される中、第1打席は2回先頭打者、2ストライクから3球目をライトフライ。第2打席は4回裏1死一塁で4球目を空振り三振。第3打席はオリックスが3-1とリードした6回裏1死一塁で5球目を右中間タイムリー二塁打(打点1)。これが現役最後の安打・打点となった。8回裏1死での最終打席は6球目を空振り三振に終わる。対戦投手の杉内俊哉は4打席18球全て直球を投げた。清原は杉内にヘルメットを脱いで一礼し、空振りしたボールは記念球として、この試合で球審を務めた東利夫から清原に手渡され、清原はこのボールに『杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博』とサインし杉内に贈った。試合は4-1でオリックスが勝利した。ウイニングボールは完投勝利を記録した近藤一樹から清原に手渡されたが、近藤がこの試合でプロ入り初の2桁勝利と規定投球回を達成したことを知っていた清原は、このボールにもサインを入れて近藤に贈り返している。

試合終了後の引退セレモニーでは、オリックス選手会長の北川博敏、阪神の金本知憲から花束が贈呈され、シンガーソングライターの長渕剛が清原が巨人時代から入場テーマ曲として使用していた「とんぼ」をアコースティック・ギターの生演奏で熱唱した。引退挨拶では自分が所属した西武・巨人・オリックス及び各球団ファン、そしてオリックス入団への道を開いた仰木彬に感謝の気持ちを述べ、最後に「今日、引退させて戴きます。全国のプロ野球ファンの皆様、23年間、応援どうも有難うございました」と涙ながらに締めくくった。その後場内を1周し、ホームベース上でオリックスの選手たちによって胴上げが行われた。

翌10月2日、オリックス球団は本人の希望で清原を任意引退選手として申請し、同日パシフィック野球連盟から公示された。オリックスはこの年2位に入りクライマックスシリーズ出場権を獲得したが、清原は出場の辞退を自ら申し入れた。そのクライマックスシリーズ・第1ステージ (対北海道日本ハムファイターズ)では選手の要望で清原のユニフォームがベンチ内に掲げられ、清原本人もゲストルームから声援を送った。

2009年1月29日、日刊スポーツ(大阪本社)と専属評論家としての契約を交わす。2009年は評論家として活動していくこととなった。また、同時に「将来的にまず二軍監督となってキャリアを積み、そして最終的には一軍監督として日本一になりたい」とも語っている。併せて、現在は球団経営者を目指している桑田とは、監督同士としてKK対決をやりたい、という希望も語っている。

放送局との専属契約は結んでいないが、2009 ワールド・ベースボール・クラシックのTBSにおける実況中継の特別解説者として出演した。体調不良のため2次ラウンド2試合の出演を欠席したが、準決勝、決勝ラウンドには復帰。日本の大会2連覇に際して「日本の皆さん!日本万歳!!」の叫びで豪快に中継を締めくくった。

上記の体調不良に関しては現役時代よりの左膝痛であり、同じ着座姿勢を取り続けられないためと報道されている。その影響は、ラジオ局の文化放送、ニッポン放送、TBSラジオ3局からの西武戦などの解説依頼を断っていた時期があった程である。

2009年4月より、フジテレビ『すぽると!』で不定期ゲスト解説者としてプロ野球や各種スポーツの解説を担当。2011年のプロ野球シーズンには、「文化放送ライオンズナイター」の30周年イメージキャラクターを兼ねる形で、西武戦のラジオ中継に解説者として出演した。

2010年7月24日、テレビ朝日の当時放送されていた番組松岡修造の情熱チャージ 熱血!ホンキ応援団の企画にて、高校時代に戦った甲西高校の金岡康宏と対決(ヤフードームにて)。清原がオリックスの現役時代のユニフォームで、金岡が当時の甲西高校のユニフォームで登場。1度目の対戦結果は「フォアボール」だったが、その後清原の再戦アピールで勝負再開。最終的には「三振」で金岡の勝利となった。

2013年には、週刊実話で落合博満を大批判した事が話題になった。

評論家の傍ら、『とんねるずのみなさんのおかげでした』の前略、道の駅より(後に男気ジャンケン 大人買いの旅に改題)や『run for money 逃走中』などのバラエティ番組やテレビCMにも数多く出演している。しかし、下記の薬物疑惑が報じられてからはテレビ出演する機会は激減し、男気ジャンケンにも出演しなくなった。

2015年に後述の通り、再び露出が増えてからは27時間テレビでとんねるずが担当する時間帯において「男気じゃんけん」が行われ、久々の出演を果たした。

2014年3月、違法薬物使用疑惑が『週刊文春』によって報じられ(2014年3月13日号)、突撃取材にきた文春記者に暴行し録音機を破壊した事も報じられた。清原は薬については否定していて訴訟する意向を示し、入院については2型糖尿病のためであると語っており、毎日の血糖値測定と一日一回はインスリン注射が必要なことを明かした。しかし、その後の週刊文春によると訴状は届いておらず、アサヒ芸能の3480号のテリー伊藤との対談によると、恩師(具体名は明かされず)に説得されて訴訟は止めたとのこと。また、巨人との関係は引退後も折り合いが悪く、OBの集まりには招待状すら来なかったという事を明かした。さらに、巨人とはこの年のイベントで揉めたことが報じられている。日本野球機構(NPB)はこのような疑念に対して、過去のことで確証や根拠がない物として見過ごしてきた。

薬物疑惑が報じられた時期には、肩や足に刺青をしていたことも報道された。著書の一冊である「反骨心」では、実は巨人時代から刺青を入れようと思っていた(その時は、母親に反対されたためしなかった)と書かれている。その後、刺青や薬物に関しては、2015年8月28日に放送された「ダウンタウンなう」内で真相(刺青は認めるものの、違法薬物に関しては「風邪薬はやりましたけど、(疑惑のような違法薬物の使用は)ないですよ」などと否定)を語った。番組内では噂の出処について「やっぱり恨みつらみ買ってるんですよ。そいつらが言うんですよ」と語ったが、これ以降テレビ出演は激減した。同年9月22日、離婚していたことをFAXで発表(離婚した明確な日は非公表)した。2人の子の親権は元妻が持つ。2015年2月28日の日刊スポーツ関西版の「猛虎の80年」の中では日刊スポーツ評論家としての契約が終了した事が明らかになった。

2015年3月16日から四国霊場八十八カ所を巡る遍路に取り組んだ。「区切り打ち」と呼ばれる、行程を何度かに分けて歩く巡拝方法をとる。

この頃から再びテレビ出演するようになり同年4月3日、『中居正広の金曜日のスマたちへ』に1年ぶりのテレビ出演。「自分自身を否定するようになった」「ここまで悪く書かれるならいっそ死んでしまおうと思った」と当時を語り、「息子がいなかったら、この世にはいなかった」と語っていたことから、自殺まで考えていたことが明らかとなった。また、当時小学生の次男が所属する少年野球チームの試合を毎回のように観戦・応援していた。既に警視庁が後述のように内偵捜査していた2015年9月、東京都板橋区の荒川河川敷の野球場で開かれた少年野球大会では、他の保護者と談笑しながら次男に声援を送っていた。

2016年2月3日午後8時48分頃、東京都港区東麻布1の自宅マンションにて覚醒剤0.1g(袋込の重さのため実際は0.04g)を所持していたとして、午後11時過ぎに覚せい剤取締法違反(所持)容疑で警視庁に現行犯逮捕された(捜査員が家宅捜索に入った際、清原は注射器とストローを各1本ずつ左手に持っており、捜査員に促されてテーブルの上に置いた)。清原は「覚醒剤は私の物に間違いありません」と容疑を認めた。警視庁は同日マンションを家宅捜索し、覚醒剤以外にも注射器3本、ストローとパイプ各1本、スマートフォン2台を含む携帯電話計4台を押収した。袋に入った覚醒剤と注射器1本がリビングテーブルの上にあり(注射器は袋が開封されたものもあった)、黒ずんだパイプが床の上に転がっていた。警視庁組織犯罪対策第5課は、保存状態から覚醒剤は使いかけだった可能性が高いとみた。清原は「自宅にあった注射器やガラスパイプは覚醒剤をやるときに使っていたものです」と覚醒剤の使用についても認め、摂取方法については「腕に注射したり、ガラスパイプであぶってすったりしていた」と供述した。逮捕後、清原は持病の糖尿病の診察のために中野区の医療施設に行き、3日未明に警視庁本部に入り留置された。逮捕直後に警視庁組織犯罪対策第5課は東京都内の病院で清原の尿を採取して科学検査研究所に鑑定させ、翌3日に覚醒剤の陽性反応を確認した。

警視庁組織犯罪対策第5課は週刊文春による疑惑報道を受けて1年にわたる内偵捜査を続けた(密売人から覚醒剤を購入しているとの情報などを得て、立ち回り先で捜査員が行動を確認し続けていた)末、容疑が固まったとして踏み込み、その結果現行犯逮捕につながったという。警視庁は逮捕前日の2月1日までに内偵捜査の一環で清原の家庭ごみを調べており、その中から覚醒剤の成分が検出されたことなどから、それまでに積み上げてきた本人の行動や売買の情報から、覚醒剤の所持だけでなく使用の証拠も得られるタイミングと判断して2日夜に自宅の家宅捜索に踏み切った。また、逮捕前日の2月1日に清原は車で群馬県に向かった後、東京都内のホテルに滞在した後自宅に戻ったが、ホテルに残されたティッシュの汗からも覚醒剤の成分が検出された。警視庁は覚せい剤の入手先に暴力団が関与しているとみて調べた(清原は覚せい剤の入手先について「今は言いたくない」と供述していた)一方、清原を覚せい剤取締法違反(所持)容疑で2月4日午前に東京地方検察庁に送検した。

前述の通り疑惑が出てから一貫して否定していた中での逮捕であり、ファンの間からは「もったいない」「週刊誌で疑惑があることは知っていたが、憧れだっただけにショックだ」「日本を代表する野球選手なので、コーチや監督として活躍してほしかった」などの声が上がり、球界からも「最近は連絡を取っていなかったが、もし報道通りなら、野球人として、一緒に戦ってきた仲間として、非常に残念でならない」(桑田)「2年前の週刊誌の報道が出た時、そんなことはないと信じていたのでなおさら驚いている。事実なら体もボロボロになっているはず。早く解決してほしい。高校時代から素晴らしい先輩だった。野球の現場に戻ってきてほしいとずっと思っていた」(立浪)「本当にびっくり。噂が出た時も信じたくなかったが…」(中村順司)「驚いているとしか言いようがない」(松井秀喜)「寂しいというか残念」(高橋由伸)「(直接疑惑を否定されていただけに)裏切られた気持ちで悲しい」(佐々木主浩)「とにかく残念。あれだけのスターがね」(王貞治)などと衝撃の声が広がった。一方、同じマンションの住民は夜間に清原が出掛けていく姿を何度か目撃しており「外で男性が待っていて合流していたこともあったが、明らかにおかしいという印象はなかった」と語り、中畑清も「ああ、やっぱりと思わせる部分はある。野球バカでは駄目だということ。野球バカを俺は好きなんだけど、一人の人間として成長しないといけない」と語った。日本野球機構(NPB)の熊崎勝彦コミッショナーは「言葉を失うの一言に尽きる。元選手とはいえ、野球は特に青少年の憧れのスポーツの一つ。現役を去ってからも、模範であり続けなければならない。有害行為の禁止、反社会勢力の遮断、薬物の拒絶など、一層施策を強力に推し進めるほかない」との談話を発表した。球界にとっては前年に発覚した読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題に引き続き球界のイメージを大きく傷つける大スキャンダルとなり、東京新聞は2月3日の朝刊で「熊崎コミッショナーは球界からの暴力団排除などに力を注いできた。野球賭博問題でも許されないものとして厳しい裁定を下した。薬物問題についても球界は本当に大丈夫なのか今一度調査すべきであろう。ファンの疑念、不振を晴らすことが第一だ」と報じた。また、2月4日の衆議院予算委員会では維新の党の石関貴史が安倍晋三内閣総理大臣に対し「清原和博選手が覚せい剤所持容疑で逮捕されたことは青少年に与える影響が大きい」と質問、安倍は「甲子園での大活躍を見て多くの青少年が心を躍らせた。かつては子どもたちのヒーローだった清原氏が逮捕されたことは残念だ。今後も政府として薬物依存対策にしっかりと取り組んでいく」と答弁した。

2月23日、警視庁は覚せい剤取締法違反(使用)容疑で清原を再逮捕(容疑は、1月中旬から2月2日までの間に東京都内や周辺で覚せい剤を使用したこと)し、同日には東京地検が同法違反(所持)容疑で清原を東京地方裁判所に起訴した。その後、3月15日には使用の罪(2月1日頃港区内のホテル客室で覚せい剤を使用したとされる)でも追起訴された。3月16日、清原の弁護人は東京地裁に保釈を請求し、その後地裁が許可し、清原が保釈金を納付したことから翌3月17日に逮捕から44日ぶりに保釈され、清原は糖尿病の治療のために夜に千葉県松戸市の千葉西総合病院に入院した。4月1日に東京地検は「9月1日頃、群馬県太田市内のホテルで密売人の男から覚せい剤約1.2gを8万円で譲り受けた」として覚せい剤取締法違反の罪で清原を在宅のまま追起訴し、一連の捜査は終結した(同日には清原に覚醒剤を売った密売人の男も追起訴された)。

逮捕を受けて阪神甲子園球場内の甲子園歴史館からは展示されていたバットなどが撤去されたほか、東京ドーム内の野球殿堂博物館も定期的に行っていたユニフォームなどの展示を当面行わないことを決めた。

2015年11月25日からブログを始めており、逮捕前日の2月1日までの2カ月間あまりに約190回にわたって身辺の出来事などを記していた。家族と会えない孤独感や両親や友人との触れ合いなどをつづっていたが、逮捕後の3日午前に閉鎖された。12月には子供と野球の練習を楽しみ、ダルビッシュ有も参加した一日を「本当にうれしかった」と記述し、逮捕前日の2月1日午後11時過ぎにも、知人が描いた自らの似顔絵をアップロードしていた。一方で1月19日には「(飲食店で)1人の男が俺を笑いながら指を指してきた。完全に頭の中でブチキレた。(中略)その瞬間灰皿を叩き割った」と記し、その際に怪我したとみられる右手の写真もアップロードしていた。

2016年5月17日に東京地裁で初公判が行われ、清原は「現役時代はストレスやプレッシャー、不安を野球で解決できたが、引退後は解決方法がなくなった。膝の故障もあり薬物に負けてしまった。申し訳ない」と述べ起訴内容を認めた。元スター選手の姿を見ようと、用意された20席の傍聴券を求めてファンら3769人が朝から雨の中裁判所近くの日比谷公園に集まり、抽選倍率は約188倍となった。検察側は「遅くとも引退した2008年すぎ頃から覚せい剤を使い始め、以降繰り返し使っていた。『コーチや監督をしたかったが、引退後に声がかからず、心の隙間を埋めるために使った』という動機に酌量の余地はなく、再犯の可能性も高い」として懲役2年6か月を求刑したのに対し、清原の弁護人は情状酌量を求め即日結審した。冒頭で清原は裁判官から職業を尋ねられると「無職です」と答え、被告人質問で清原は現役時代の覚醒剤の使用を否定した上で「寂しさや社会に適応できない自分から逃げていたのだと思います。覚醒剤をやめられるよう、寿命が来るまで戦い続けたい」「プロ野球を目指す野球少年たちに申し訳ない。野球界に大変うらぎりをして、大変申し訳ない」と謝罪した。弁護側の情状証人として佐々木主浩も出廷し「彼を今でも野球人だと思っている。後輩たちに野球を教えてやってほしい。2回目はないと信じている」と述べた佐々木は退廷する際に清原と握手を交わした。

同年5月31日に懲役2年6か月(執行猶予4年。弁護側が求めていた保護観察はつかない)の有罪判決が下された。判決公判の傍聴希望者は1713人で、21席の一般傍聴席数に対し約81倍の抽選倍率となった。「覚醒剤への依存性は深刻で常習性も強い」と指摘された一方、甲子園を沸かせプロ野球を代表する打者として活躍するなど、野球界で社会的貢献をしてきたことや、逮捕後に事件報道で社会的制裁を受けたことなどから執行猶予が付けられた。吉戒純一裁判官は法廷で「自助努力による更生がふさわしく、十分に立ち直りが可能」と述べた上で清原に対し「お父さんや親戚、全国の根強いファンが更生を望んでいることを忘れないで下さい。息子さんたちのためにも覚醒剤をやめ、人の役に立つ存在になることを期待しています」と説諭した。清原は判決後、傍聴席を振り返り「この度は申し訳ありませんでした」と頭を下げた。検察側・弁護側ともに控訴期限の6月14日までに東京高等裁判所に控訴せず、清原の有罪判決が確定した。なお、清原に覚醒剤を計2回(2015年9月1日ごろに群馬県太田市内のホテル客室内で約1.2gを8万円で、翌年1月31日ごろに同士のコンビニエンスストア駐車場の車内で約0.6gを4万円)密売した知人の45歳男(群馬県みどり市)は2016年7月5日、東京地裁(室橋雅仁裁判官)から懲役3年、執行猶予5年、追徴金12万円(求刑は懲役3年及び追徴金12万円)の有罪判決を受けた。

有罪判決確定後の11月30日に野球殿堂博物館が翌2017年1月16日に発表される2017年の野球殿堂入りの候補者を発表。清原は2014年からプレーヤー部門で候補者入りしていたが、有罪判決が確定したことを受けて候補から除外された(殿堂対象者を選ぶ規定の中に「スポーツマンシップや誠実さを評価する項目」があり、それにふさわしくないと幹事会で判断したため)。候補者を選定する競技者表彰委員会の幹事会が18人の全会一致で決めたもので、覚せい剤取締法違反で有罪判決が確定したことによる候補者除外は1994年の江夏豊以来2人目。復帰の可能性は残されてはいるが「顕著な更生、および野球界、社会への貢献が必要になる。道は険しい」という。

12月24日、TBS系列が『新・情報7days ニュースキャスター』で逮捕後初となるインタビュー(VTR形式)を放送。清原は事前に医療機関で尿検査を受けて陰性の証明書の発行を受け、黒いスーツ、白いYシャツ、紺色のネクタイ、七三分けの髪、逮捕時よりも色白の顔でインタビューに応じ、最初に「世の中の皆様、そして少年野球からプロ野球、名球会、高校野球、野球ファンの皆様のことを大変失望させてしまい、罪を犯してしまい、本当に申し訳ありませんでした」と謝罪した後、「(覚醒剤を)やめられたという言い方はなかなか言いづらい。一日一日、『今日は使わなかった。じゃあ明日も頑張ろう』という積み重ねです」「本当に恐ろしい薬物。怪物で悪魔で、そのささやきと闘い続けるというのは一生続くと思っている」「息子に会いたい」などと語ったほか、留置場では「114番」と呼ばれていたこと、保釈後は自身に関する報道はほとんど見ていないことなどを明かした。インタビューの詳細は12月29日放送の特別番組『ニュースキャスター 超豪華!芸能ニュースランキング2016決定版』で放送される事が報じられ、29日にインタビューが放送され、逮捕よりも前に薬物で入院したため両親に知られてしまった事を語っており、現役時代からの覚せい剤使用については否定したが、グリーニー(2007年に禁止)を使用していたことは告白した。

2017年4月8日、清原保釈時に運転手を務めた友人男性が遺体で見つかった。警察は自殺とみている。11日、清原は愛知県内で営まれた通夜に参列し、焼香を終えた後メディアの取材に応じた。

同年6月29日に発売された『Sports Graphic Number』930号では、同誌のインタビューを受ける形で登場した。その翌号から「告白」のタイトルで半生を振り返る形の連載が開始されている。

選手としての特徴

中堅から右方向へ打つのがうまい。当初は内角のボールを苦手としていたが、フォームをコンパクトにしたことで内角のボールに無理なく対応できるようになった。左スタンドに257本、中スタンドに112本、右スタンドに156本と通算500本塁打以上を記録している打者の中で3方向へ100本以上は歴代で清原のみであり、3打席連続本塁打を記録した2001年6月9日の阪神戦では右→中→左の順で打ち分けた。右翼方向にも打球が良く伸び、2001年9月8日のヤクルト戦では東京ドームの右中間にある看板に流し打ちで当てている。

勝利打点王や最高出塁率の獲得経験はあるが、打者の三冠タイトルである首位打者、本塁打王、打点王の獲得経験は無い。通算525本塁打は本塁打王を獲得していない選手の中では史上最多である。チーム打撃に徹する選手であり、西武時代の監督である森祇晶は清原について「『無冠の帝王』なんて言われたりしたが、西武で一緒に野球をやっていた時、何年間も連続して優勝したチームの4番を務めてくれた。相当な重圧だったはず。これこそ、彼しか持っていない立派な『タイトル』だと僕は思いますね。彼ほどチームの勝利に喜びを感じていた選手はいなかったんじゃないかな。打点や本塁打などタイトルを取れそうな時もあったが、自分の記録よりチーム勝利に貪欲だった。本塁打より犠飛が欲しい場面というものがある。そんなベンチの期待に応えようとする選手だった」と語っており、PL学園時代の監督である中村順司も「巨人時代に長嶋監督が『清原ほどチーム打撃に徹する選手はいない』と話しておられた。高校時代も自分本位にやるなら、もっと本塁打数は多かった。チームのために頑張ってきた結果」と振り返っている。

現役中10度のリーグ優勝、8度の日本シリーズ優勝を経験しているが、シーズンMVPおよび日本シリーズMVPの獲得経験は無い。シーズンMVP選手を選出する際の得票数では2位に3回つけている(1986年、1位は石毛宏典、1990年、同・野茂英雄、1992年、同・石井丈裕)。日本シリーズについては、優秀選手賞を3回、敢闘賞を2回獲得している。

2000本安打、500本塁打、1500打点を達成した打者は日本プロ野球史上清原を含めても6人しかおらず(他は王貞治、野村克也、門田博光、張本勲、落合博満)、通算本塁打数は歴代5位、通算打点数は歴代6位に位置している。また、オールスター戦に強く、オールスター戦通算打率1位(100打数以上対象)・通算本塁打2位・通算打点1位・通算塁打1位・通算得点1位という記録を残している。オールスターMVP受賞最多記録(7回)も保持しており、現役時代は「お祭り男」の異名を取った。

故障離脱があった年も多かった中、入団以降2006年まで二桁本塁打を記録した長打力に加え、最多四球を4度記録するなど選球眼が良かった。通算1346四球は王と落合に次いで歴代3位の記録で、通算打率.272に対して通算出塁率は.389、OPS.909を記録。また、サヨナラや満塁の場面に非常に強く、通算サヨナラ本塁打・通算サヨナラ安打・通算サヨナラ満塁本塁打すべての日本記録を保持している。一方で1955三振と196死球も日本記録となっている。

西武入団時、自分に合うサイズのヘルメットがなく困っていたところ、1980年に同球団で引退した野村克也のヘルメットを発見し、これがピッタリ合ったため着用。その後、引退まで23年間チームが変わる度に色を塗り直しながらこのヘルメットを使い続けた。巨人在籍時の2005年5月10日には、オリックスの山口和男から危険球を受け、ヘルメットの西武時代の塗装が飛び散った。なお、ヘルメットは、大きな衝撃を受けたものを引き続き使用すると、本来の衝撃吸収性を発揮しないことがあるため、このような使い方は不適切である。

キャリア初期から中期にかけてのいわゆる、西武時代は打撃だけではなく守備や走塁にも定評があり、初年度の1986年夏までに正一塁手として定着。西武時代にゴールデングラブ賞を5度受賞している。

なお、1990年のペナントレースで森博幸が、日本シリーズなどで指名打者制度がない試合でデストラーデらが一塁を担当し、清原が三塁(石毛宏典に代わって)を守ることが数度あったが、そちらもそつなくこなす守備力を持っていた。

走塁面ではシーズン二桁盗塁を二度マークしたことがあり、盗塁王になれた可能性を期待されたこともある。

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