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「日本(にっぽんこく) 」とは

日本(にっぽんこく) |Wiki【もしもし辞書】


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日本

^ 現在も使用されている日本の国璽(国家の表徴として押す璽(印章または印影))には「大日本國璽」(大日本国)と"大"が冠されている。

^ 東京都にある特別区の集合体は地方自治法による地方公共団体ではない。

^ “平成27年国勢調査人口速報統計  結果の概要”. 総務省統計局. 2016年4月27日閲覧。

^ IMF>Data and Statistics>World Economic Outlook Databases>By Countrise>Japan

日本国(にっぽんこく、にほんこく)、または日本(にっぽん、にほん)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国である。

国号

「にっぽん」、「にほん」と読まれる。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている。

7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。

近代以降も「ニッポン」「ニホン」両方使用される中、1934年(昭和9年)には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。同年、日本放送協会(NHK)は「放送上、国号としては『にっぽん』を第一の読み方とし、『にほん』を第二の読み方とする」と決定した。

その後、2009年(平成21年)6月30日には、政府が「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定した。

現在、通商や交流の点で自国外と関連のある紙幣、切手などには「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)ているほか、NHK、日本テレビ、ニッポン放送、日本武道館、全日本空輸、近畿日本鉄道、西日本鉄道、日本体育大学、日本郵便、NEXCO東日本・NEXCO中日本・NEXCO西日本、日本電気、日本電信電話、日本郵船、日本通運などで「NIPPON」(にっぽん)表記を用いる一方、「NIHON」(にほん)表記を用いる例は、日本大学、日本航空、日本経済新聞、日本たばこ産業、JR東日本・JR西日本、日本ユニシス、日本相撲協会、日本交通、日本オリンピック委員会などがある。日本経済新聞が2016年に行った調査によると、社名に「日本」が含まれる上場企業の読み方は、「にほん」が60%、「にっぽん」が40%であり、「にっぽん」と読ませる企業の比率が増加傾向にあった。テレビ番組名では「にっぽん」が使われることが多くなってきている。なお、日本国憲法の読みについて、内閣法制局は、読み方について特に規定がなく、どちらでもよいとしている。

日本のオリンピック選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の『JAPAN』としているが、初参加となったストックホルムオリンピックの選手団のみ『NIPPON』の表記を使っていた。

東京と大阪にある橋の名称と地名になっている日本橋は東京(及び旧江戸)の日本橋は"にほんばし"、大阪の日本橋は"にっぽんばし"とそれぞれ読む。

(国会に複数の議席を有したことのある)日本の政党名における読みは、次のとおり。

日本社会党 (1945-1996)、日本自由党 (1953-1954)、新党日本 (2005-)、たちあがれ日本 (2010-2012)、日本維新の会 (2012-2014)、日本未来の党 (2012)、日本を元気にする会 (2015-)、日本のこころを大切にする党(2015-)、日本維新の会 (2016-)

日本共産党 (1922-)、日本労農党 (1926-1928)、日本自由党 (1945-1948)、日本進歩党 (1945-1947)、日本協同党 (1945-1946)、日本農民党 (1947-1949)、日本民主党 (1954-1955)、日本新党 (1992-1994)

明仁は一貫して「にほん」と読んでいる。

古くから多様である。

「秋津島」

「大倭豊秋津島」(『古事記』本州の別名として)

「大日本豊秋津洲」(『日本書紀』神代)

「葦原中国」(あしはらのなかつくに)(『古事記』、『日本書紀』神代)

「豊葦原(とよあしはら)」

「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)」(『古事記』)

「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)」(『日本書紀』神代)

「浦安国」(日本書紀・神武記)

「大八島」「太八島」

「大八洲」(『養老令』)

「大八洲国」(『日本書紀』神代)

「細矛千足国」(日本書紀・神武記)

「師木島」(『古事記』)

「磯城島」「志貴島」(『万葉集』)

「敷島」

「玉牆内国」(日本書紀・神武記)

「玉垣内国」(『神皇正統記』)

「日出処」(隋書)

ひのもと - 雅語でこう読むこともある。

「磯輪上秀真国(しわかみの:ほつまのくに)」(日本書紀・神武記)

「瑞穂国」

やまと - 大和国(奈良県)を特に指すとともに日本全体の意味にも使われる。『古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されている。魏志倭人伝等の中国史書では日本(ヤマト)は「邪馬臺」国と借音で表記されている。また『日本書紀』では「夜摩苔」とも表記されている。「日本」の国号が成立する前、日本列島には、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称される国家ないし民族があった。『日本書紀』は、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時間と共に「倭」が「大倭」になり「大和」へと変化していく。その後に更に「大和」を「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだとする が、『旧唐書』など、これを疑う立場もある。

「倭国」

「和面国」

「和人国」

「野馬台国」、「耶摩堆」

「姫氏国」、「女王国」

「扶桑国」

「君子国」

「日本国」

「IAPAM」1560年頃

「IAPAN」1567年頃

「IAPAM」1568年頃

「JAPAN」発行年不明

「IAPONIAE」1595年

「IAPONIA」1595年

「IAPONIÆ」1595年

「IAPONIA」1598年

「IAPONIA」1598年

「IAPAO」1628年

「Iapan」1632年

「IAPONIA」1655年

「IAPON」発行年不明

「Iapan」1657年

「IAPONIA」1660年頃

「NIPHON」1694年頃

「JAPAM」1628年

「YAPAN」1628年

「IAPON」17世紀

「IMPERIUM IAPONICUM」18世紀初

「IMPERIUM IAPONICUM」1710年頃

「IAPONIA」18世紀初

「IAPON」1720-30年

「IMPERIVM JAPONICVM」1727年

「HET KONINKRYK JAPAN」1730年頃

「JAPANIÆ REGNVM」1739年

日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国や朝鮮は日本を「倭」と呼んできた。石上神宮の七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗の広開土王の碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった。

しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、『日本書紀』では「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」、『隋書』には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」とする国書を日本側が渡した記述があり、従来のように倭と称する事を避けている。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭が名称を日本に変えた理由を説明している。また、『新唐書』においては「国日出ずる所に近し、以に名をなす」とあり、隋書の「日出処天子」と共通している。

この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである。

『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言われ、饒速日命は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。

『新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする。

「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。

具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は2説に絞られる。

(1) 第一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する。

(2) もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている。但し『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている。

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』 にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。

これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる。

『旧唐書』・『新唐書』等を理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている。

『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある。

歴史

通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。しかし、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている。

時代の区分は、考古学上のものと歴史学上のものとがある。

(1) 考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、歴史時代、とするのが一般的である。

一方、(2) 歴史学上は、古代(古墳時代から・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治維新から1945年8月14日まで)および現代(1945年8月15日以降)の五分法が通説である。

日本列島における人類の歴史は、次第に人が住み始めた約10万年前以前ないし約3.5万年前に始まったとされる。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると6千年前頃まで100m以上の海進が進んだ(縄文海進)。この時期の住民が縄文人である。この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。

紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、勾玉などが紀元前6世紀以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀頃に青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。1世紀・2世紀前後に各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。

朝鮮半島における覇権争いがヤマト王権の国家体制を変化させた。それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家である百済や新羅に対して、度重なる出兵を行い任那に勢力圏を築くなど、朝鮮半島に影響力を持っていたが、663年、百済復興のために援軍を送った白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を後退させる。その後間もなくヤマト王権は「日本」国号と「天皇」称号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。

日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、8世紀には渤海を朝貢国とした。武家政権成立後も、13世紀の元寇、16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持した。

成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に(延久蝦夷合戦)領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。特に8・9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に新羅遠征も計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。

9世紀から10世紀にかけて、地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の公家を押領使や追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子や郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて東日本を中心に、連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く桓武平氏と清和源氏は、軍事貴族である武家となって、武士を二分する勢力に成長し、やがて政権を巡って対立することとなる。

また、中央政治においては11世紀に藤原北家が皇族の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。白河上皇が治天の君として実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が生前譲位し、太上天皇となって、政を取り仕切る院政がしばしば見られるようになった。

10世紀から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に中世国家へと移行した(荘園公領制・職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」や「日本国」の表記が見られ始め、「日本」や「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。特に13世紀後半の元寇は、「日本」・「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」・「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている。室町時代までには、安東氏の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ(道南十二館)。

14世紀から15世紀までの時期には、社会の中世的な分権化が一層進展したが、15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は、中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に日本の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太・カムチャッカを含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀にシャクシャインの戦いやロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島・硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩藩の島津氏は琉球王国に侵攻して、かつて北条氏の得宗領であり、鎌倉幕府滅亡後島津氏の支配下に入った千竈氏の采配地であった奄美群島を直轄地とし、沖縄諸島および先島諸島(宮古列島および八重山列島)の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させた が、朝貢貿易は続けさせたため、その後も琉球王国は、日本・明朝(後に清朝)両属の状態に置かれた。

19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「日本」・「日本人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「日本」・「日本人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、アジア各国が欧米列強の植民地とされる中で日本が独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。

江戸時代末期の1867年(慶応3年)に大政奉還がなされ、1868年(明治元年)以降、明治維新に伴う近代化により、近代的な国民国家の建設を急速に進めた。同時に近隣国と国境の確定を行い、1875年(明治8年)に樺太全域をロシア領とする代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、1876年(明治9年)に小笠原諸島の領有を宣言 し、また、琉球処分を行うとともに1885年(明治18年)に大東諸島、1895年(明治28年)に尖閣諸島を編入し、南西諸島方面の実効的な支配を確立した。ここに一旦、近代国家としての日本国の領域が確定した。

自由民権運動を経て1885年(明治18年)に内閣制度を確立し、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を制定し、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして、アジアで初めて憲法と議会とを持つ、近代的な立憲国家となった。(正確には、オスマン帝国で1876年に制定されたミドハト憲法の方が先であるが、短期間で停止された)

19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られ、日清戦争や日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。日露戦争の勝因として1902年イギリスと日英同盟を締結したことが大きかった。両戦争を通じ、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土に収め、関東州の租借権を獲得した。その後、1910年(明治43年)に韓国併合が実施された。

1914年(大正3年)、第一次世界大戦がヨーロッパで勃発すると、日本は日英同盟に基づいて連合国側について参戦し、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国に対して宣戦布告した。ドイツの租借地であった青島やドイツ領ニューギニアを攻略した。青島占領の後、日本は対華21ヶ条要求を袁世凱政府に提示し、中国側の反発を招いた。日本は戦勝国として1919年(大正8年)のパリ講和会議に参加し人種差別撤廃案を提出した(アメリカ合衆国などが反対)。また、発足した国際連盟において常任理事国となり、旧ドイツ領の南洋群島を委任統治することとなった。大正デモクラシーが起こり、本格的な政党政治や男子普通選挙が実現した。

世界恐慌によって、植民地を「持てる国」である英米仏などがブロック経済化を進めて、日独伊などの「持たざる国」を締め出す動きを強めると、日本国内では対外進出によって、状況を打破しようとする動きが強まった。対支一撃論を主張する関東軍は、満洲への侵略を強め、満洲国を建国して一定の支配権を得るに至った。若槻礼次郎内閣は不拡大方針を打ち出し事態の収拾を図ったが、対外強硬的な世論を背景とする軍部の台頭を抑えきれなくなった。若槻内閣が総辞職すると、犬養毅に組閣の大命が下り、引き続き経済状況の打開と満州事変の処理にあたったが、五・一五事件で過激派海軍青年士官達によって暗殺された。これによって、憲政の常道は幕を下ろした。

1937年(昭和12年)に盧溝橋にて日本軍と蒋介石の国民革命軍が衝突すると(盧溝橋事件)、双方の軍事行動により支那事変 (日中戦争) へと発展した。1938年(昭和13年)には、新体制運動を主導する近衛文麿首相のもと、国家総動員法が制定され議会は有名無実化した。日本の対外志向は、特にアメリカとイギリスを筆頭とする欧米諸国の権益と真っ向から衝突し、1941年(昭和16年)にはイギリス領マレーおよびアメリカ自治領ハワイ準州(真珠湾)以下各地を攻撃し(南方作戦)、太平洋戦争(大東亜戦争)へ突入した。一時期は北は満洲とアリューシャン列島の一部、西はビルマ、南はニューギニアの一部、東はギルバート諸島まで広がる地域まで進出・占領したものの、1942年(昭和17年)半ば以後は敗走を重ね、最終的に1945年(昭和20年)に広島・長崎に原子力爆弾による攻撃を受け、ポツダム宣言を受諾。連合国に降伏した。

アメリカ・イギリスなどの連合国により、史上初めて占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領土・権益の総てを失った。日本の占領統治は大日本帝国憲法下における日本政府に対して、連合国総司令部(GHQ/SCAP)が指令を発布し、日本政府が指令に沿って統治するという仕組みで行われ、中央政府が有効に存続したため、中央政府不在を宣言され国家の消滅が確認されたドイツ国とは異なり、戦前と戦後とで同一の国家としての継続性が認められており、帝国憲法下で制定された法体系が戦後においても有効に存続している。連合国の指令のもと、国制の改革が進められ、大日本帝国憲法の改正手続きによって日本国憲法を制定した。

国共内戦における中国共産党の優勢が明るみになると、アメリカは対日政策を転換させ、東アジアにおける友好国とする政策を採るようになった。一方で、急激なインフレを抑制するべく実施された超均衡財政政策であるドッジ・ラインの強行により、中小企業の倒産が増大するなど深刻な不況に陥った。1952年(昭和27年)、サンフランシスコ平和条約によって全権を回復した。1955年(昭和33年)に講和条約への対応を巡り分裂していた社会党の再統一が実現すると、財界の強い要望を背景として、保守合同により、自由民主党が成立した。これにより形式的に二大政党制が実現したが、自由民主党優位の政治体制が40年以上にわたって続いた(55年体制)。1956年(昭和34年)、日ソ共同宣言により、ソビエト連邦との国交を回復し、同年国際連合に加盟した。戦後、復興と共に1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げ(高度経済成長#日本の高度経済成長)、世界有数の経済大国となった。1964年(昭和39年)には東京オリンピックが開催され、1970年(昭和45年)には日本万国博覧会が大阪府で催された。交通網の整備も急速に進み、1964年(昭和39年)には東海道新幹線が開通、1965年(昭和40年)に名神高速道路、1969年(昭和44年)には東名高速道路が完成した。マイカーブームの到来により、モータリーゼーションを迎えるとともに、トヨタ自動車や日産自動車など国産自動車メーカの品質が向上し、先進国への輸出もなされるようになったが、大幅な貿易黒字を背景としてアメリカなどとの間で貿易摩擦も生じた。第一次産業の比率が下がり第二次産業や第三次産業の比率が拡大する産業構造の高度化が見られた。

1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)にかけてトカラ列島や奄美群島、1968年(昭和43年)に小笠原諸島、1972年(昭和47年)に沖縄県の施政権がそれぞれアメリカから返還された(本土復帰、沖縄返還)。

1970年代以降は先進国の一員として国際的役割を果たし、多くの発展途上国で成長モデルとして目標にされた。21世紀に至り、少子高齢化社会に伴う人口減少、国内産業の空洞化など先進国特有の問題が生じている。中国・インド・ブラジルをはじめとする新興大国の政治的・経済的台頭のなか、欧米や日本などの先進諸国は相対的に不利な立場に立たされている。阪神淡路大震災や東日本大震災などの巨大地震の発生は甚大な被害をもたらしており、防災・減災行政の整備は目下緊急の課題となっている。情報通信技術の急速な発展によるインターネットや携帯電話の普及に伴うユビキタス社会の到来やグローバル化の進展は、新たな需要を創出するとともに、人々の生活に大きな変化を生じさせつつある。

国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成されて来ていて、明確な建国の時期を示す記録は存在しない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)となっている。

『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、古代以来、これが日本建国の画期と広く考えられていた。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする紀年法・「皇紀」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用された。

公的には、この神武天皇即位紀元をもとに1957年頃から「建国記念日」制定に関する法案が9度に渡り提出されてきたが、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もあることから神話と見られ事実でないとするのが戦後の大勢であったため、いずれも成立には至らなかった。しかし1966年(昭和41年)建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)により、2月11日が"建国されたという事象そのものを記念する日"として「建国記念の日」が定められた。神武天皇の存在については実在論もあり、議論は続いている。戦後、皇紀の使用は、一部を除き殆ど見られなくなった。

建国の時期として、この他に「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることもある。しかし、国家としての日本は、長い歴史的な経緯を経て形成され、明確な建国の画期を見出すこと自体が困難と言え、主観的なものとなりがちである。

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