ウィリー=カークランドの情報(WillieKirkland) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
ウィリー=カークランドさんについて調べます
■名前・氏名 |
ウィリー=カークランドと同じ1934年生まれの有名人・芸能人 ウィリー=カークランドと同じ2月17日生まれの有名人・芸能人 ウィリー=カークランドと同じ出身地の人 |
ウィリー=カークランドの情報まとめ
ウィリー=カークランド(Willie Kirkland)さんの誕生日は1934年2月17日です。
卒業、引退、現在に関する情報もありますね。ウィリー=カークランドの現在の年齢は90歳のようです。
ウィリー=カークランドのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート ウィリー・チャールズ・カークランド(Willie Charles Kirkland , 1934年2月17日 - )は、アメリカ合衆国アラバマ州シェルビー郡出身の元プロ野球選手(外野手)。 サウスウエスト高校卒業後の1953年にニューヨーク・ジャイアンツと契約。球団がサンフランシスコに移転した1958年にメジャー初昇格し、ウィリー・メイズ、ウィリー・マッコビーと共にクリーンアップを打つ。この間の1960年オフに日米野球で来日すると、14試合出場するが、22打数1安打7三振と不振のまま終わった。本人も、日本の投手の変化球に付いていけなかった、と語っている。1961年に移籍したクリーブランド・インディアンス時代と合わせ、1959年から1962年まで4年連続20本塁打以上をマークした。その後はボルチモア・オリオールズ(1964年)・ワシントン・セネタース(1965年 - 1966年)でプレー。1967年はAAAのハワイ・アイランダーズ(英語版)で34本塁打を放つが、メージャー昇格はならなかった。 1968年春季キャンプ中の2月5日に阪神タイガースへ入団。開幕から四番を任されるなど主軸打者に定着し、打率.247ながら37本塁打を放つ。2年目の1969年も26本塁打を放ったが、三振が133個を数えて当時の日本記録となる。1970年に就任した村山実選手兼任監督からはトレード要員と露骨に名指しされたが、ファンからは人気を集めた。特に対巨人戦になると活躍し、1969年には外国人史上初の1イニング2本塁打、1970年には1試合3本塁打を記録した。1973年11月8日に阪神を退団しそのまま引退した。 その後はデトロイトに移住し、ゼネラルモーターズに車両の整備員として就職。現在は野球からは距離を置く生活で、インタビューにも対応していない。 阪神の外国人野手としての6年の在籍は、ランディ・バースやマット・マートンと並び最長となっている。 いつも「爪楊枝」をくわえてプレーをする姿が「木枯し紋次郎」に似ていることから「モンジロー」というニックネームが付けられた。これは元々リラックスのためチューインガムを噛みながらプレーしていたが、クロスプレーにより前歯を折ってしまい、義歯を入れたところガムがくっつくようになってしまったため。なお口を傷つけないよう、爪楊枝は尖った方ではなく、柄の部分を噛み潰していた。また、ゲン担ぎとしてウサギの尻尾をポケットに入れていた。これは26打席にわたって安打が出なかったときに友人の娘からプレゼントされ、ポケットに入れたら安打が出るようになったため。 外野を守る際、観客席から投げ込まれる物から身を守るために、ヘルメットを被った。これを見た巨人の柴田勲・末次利光が甲子園球場で真似をしたところ、逆に阪神ファンを刺激する結果となり、空き缶や中身の入った一升瓶を投げつけられた。 日本での最後の打席は、1973年10月22日の対巨人最終戦、9回裏2死から阪神最後の打者となり、高橋一三に三振し、この直後、阪神の惨敗とV逸(巨人の逆転V9を許す)に怒った観衆が暴徒と化してグラウンドに乱入した。 掛布雅之の前に、阪神で背番号31を着けていた選手でもある。 各年度の太字はリーグ最高 初出場・初先発出場:1968年4月6日、対広島東洋カープ1回戦(岡山県野球場)、4番・中堅手で先発出場 初安打・初本塁打・初打点:1968年4月7日、対広島東洋カープ2回戦(姫路市立姫路球場)、1回裏に外木場義郎から先制2ラン 初盗塁:1968年4月14日、対読売ジャイアンツ2回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に二盗(投手:井上善夫、捕手:森昌彦) 100本塁打:1972年6月25日、対大洋ホエールズ13回戦(川崎球場)、7回表に平岡一郎からソロ ※史上66人目(外国人選手7人目) 1イニング2本塁打:1969年8月14日、対読売ジャイアンツ19回戦(後楽園球場)、2回表先頭で金田正一から右中間へソロ、2死3塁で堀内恒夫から右中間へ2ラン ※史上6人目
29 (1958年 - 1960年) 8 (1961年 - 1962年) 27 (1963年) 3 (1964年 - 同年途中) 31 (1964年途中 - 同年途中、1968年 - 1973年) 6 (1964年途中 - 1966年) ^ 『助っ人列伝』106頁 ^ 消えたプロ野球選手「あれからの人生」 輝きは一瞬だったかもしれない。しかし、確かにあの時、輝いたのだ・・・ ^ 『助っ人列伝 プロ野球意外史』107頁 ^ 『助っ人列伝』108頁 ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ 文藝春秋編『助っ人列伝-プロ野球意外史-』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1987年 アラバマ州出身の人物一覧 阪神タイガースの選手一覧 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube 個人年度別成績 ウィリー・カークランド - NPB.jp 日本野球機構 アメリカ合衆国の野球選手 アフリカ系アメリカ人の野球選手 サンフランシスコ・ジャイアンツの選手 クリーブランド・インディアンスの選手 ボルチモア・オリオールズの選手 テキサス・レンジャーズ及びその前身球団の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 アラバマ州の人物 1934年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/18 15:14更新
|
Willie Kirkland
ウィリー=カークランドと同じ誕生日2月17日生まれの人
TOPニュース
ウィリー=カークランドと近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「ウィリー=カークランド」を素材として二次利用しています。