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エルジン=ベイラーの情報 (ElginBaylor)
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エルジン=ベイラーの情報(ElginBaylor) バスケットボール 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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エルジン=ベイラーさんについて調べます

■名前・氏名
エルジン=ベイラー
(読み:Elgin Baylor)
■職業
バスケットボール
■エルジン=ベイラーの誕生日・生年月日
1934年9月16日 (年齢2021年没)
戌年(いぬ年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和9年)1934年生まれの人の年齢早見表

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エルジン=ベイラーの情報まとめ

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エルジン=ベイラー(Elgin Baylor)さんの誕生日は1934年9月16日です。

もしもしロボ

引退、卒業、現在、テレビ、事故に関する情報もありますね。2021年に亡くなられているようです。

エルジン=ベイラーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

選手時代

11× NBAオールスター (1959-1965, 1967-1970)

NBAオールスターゲームMVP (1959)

10× オールNBAファーストチーム (1959-1965, 1967-1969)

NBA新人王 (1959)

NBA35周年オールタイムチーム

NBA50周年記念オールタイムチーム

NBA75周年記念チーム

No. 22 ロサンゼルス・レイカーズ永久欠番

NCAAファイナル・フォー最優秀選手 (1958)

ヘルムズ財団年間最優秀選手 (1958)

オールアメリカン・コンセンサスファーストチーム (1958)

オールアメリカン・コンセンサスセカンドチーム (1957)

NCAAシーズンリバウンド王 (1957)

No. 22 シアトル・レッドホークス永久欠番

エグゼクティブ時代

NBA最優秀役員賞 (2006)

エルジン・ガイ・ベイラー (Elgin Gay Baylor, 1934年9月16日 - 2021年3月22日) は、アメリカ合衆国・ワシントンD.C.出身の元プロバスケットボール選手であり元指導者。1960年代、アメリカ男子プロバスケットボールリーグNBAの名門、ロサンゼルス・レイカーズで活躍した、史上最高のスモールフォワードの一人と目される往年の名選手である。

シアトル大学でプレーした後、1958年のNBAドラフトで全体1位指名を受けてレイカーズに入団。以後、新人王受賞、オールNBA1stチーム選出10回、NBAオールスターゲーム出場11回を誇るリーグを代表する選手として活躍した。彼とジェリー・ウェストを擁したレイカーズは強豪として60年代を過ごしたが、一方で8回進出したNBAファイナルでは尽くボストン・セルティックスの前に敗れており、ベイラーは1971年に現役から引退するまで一度も優勝を経験しなかった不運の選手としても知られている。しかしながら得点とリバウンドに長け、ことその身体能力を活かしたアクロバティックなプレーは、後のジュリアス・アービングやマイケル・ジョーダンらにも多大な影響をもたらし、ひいてはバスケットという競技そのものを大きく飛躍させたとして彼の業績は高く評価されている。NBAファイナルの最多得点数記録1位を保持している。1977年には殿堂入りを果たし、背番号「22」はレイカーズの永久欠番に指定され、NBA35周年、NBA50周年オールタイムチームにも名を連ねた。

引退後は1974年からニューオーリンズ・ジャズのコーチ陣に加わり、その後ヘッドコーチとして1979年まで同チーム指揮した。その後1986年から2008年の22年間に渡ってロサンゼルス・クリッパーズのゼネラルマネージャーを務めた。

エルジン・ガイ・ベイラーは1934年、ワシントンD.C.の貧しい家庭に生まれた。人種隔離政策が敷かれていた1930年代当時のアメリカの首都では、公共のプレーグラウンドでもアフリカ系アメリカ人の立入が厳しく制限されていたため、ベイラーがバスケットボールを始めることができたのは10代になってからだった。サウスウエスト・ボーイズクラブ、ブラウン中学校を経て、フェルプス高校に進学。同校には1952年まで在籍し、1年生時には平均18.5得点、2年生時には平均27.6得点を記録。カートーゾ高校との試合では44得点をあげている。コート上では華やかな成績を収めていたベイラーだが、学業面では順調とは言い難く、1952年にフェルプス高校を中退。家具店で働く傍ら、地域のレクリエーション・リーグでバスケットをプレーした。1953年、新設したスピンガーン高校に編入。6フィート5インチ(約196cm)、190ポンド(約86kg)の逞しい青年に成長した姿で再び高校バスケットのコートに現れたベイラーは、黒人としては初めてオール・メトロポリタンチームに選出され、さらに地区の年間最優秀選手にあたるSSAリビングストーントロフィーを受賞した。ベイラーはインターハイ2部リーグの8試合で平均36.1得点をあげ、また1954年2月3日に行われた古巣のフェルプス高校との試合では彼の得点力が爆発。前半だけで31得点をあげ、後半には4ファウルを犯し、あとファウル一つで退場という状況の中でさらに32得点を追加。最終的にはコロンビア特別区新記録となる63得点を記録した。

素晴らしい成績を残して1954年にスピンガーン高校を卒業したベイラーだったが、学業での不振が祟り、バスケット名門大学からの勧誘は皆無だった。しかしスポーツ無名校のアイダホカレッジ(en:Albertson College of Idaho)からはバスケットとフットボールで奨学金を獲得。ベイラーはアイダホカレッジでの1954-55シーズンに平均31.3得点18.9リバウンドという成績を残すが、1954‐55シーズン終了後、アイダホカレッジはスポーツ奨学生への支援を縮小し、バスケットコーチも解雇。そのあおりを受けたベイラーもアイダホカレッジを去らなければならなくなった。ところがこの中退が、ベイラーにとっては思わぬ幸運となった。翌1955-56シーズンをシアトルのアマチュア・アスレチック・ユニオンチーム、ウエストサイド・フォードで過ごしたベイラーは、ここでの活躍がスカウトの目に留まり、シアトル大学への編入が決定。無名校のアイダホカレッジよりも遥かに格上のシアトル大でプレーするという大きなチャンスに恵まれたのである。

ベイラーはカレッジバスケのトップリーグでも大いに活躍。1956-57シーズンは平均29.7得点20.3リバウンドを記録。平均32.5得点19.3リバウンドを記録した1957‐58シーズンにはシアトル大チーフタンズをNCAAトーナメント決勝へと導いた。決勝では伝説の名将、アドルフ・ラップ指揮するケンタッキー大学と対決。シアトル大は72-84で敗退するが、ベイラーはトーナメントMVPにあたるMost Outstanding Playerを受賞した。シアトル大での2年のプレーで一気に名を挙げたベイラーはついにプロのスカウトからも注目を浴びるようになり、1958年のNBAドラフトではミネアポリス・レイカーズ(後のロサンゼルス・レイカーズ)から全体1位指名される。ベイラーは1955-56シーズンを大学でプレーしていないため、まだ1年間大学でプレー出来る資格を持っており、ベイラー自身シアトル大に残るつもりだった。しかしNBA最初期の1940年代後半から50年代前半にかけて5度の優勝を果たすも、偉大なセンター、ジョージ・マイカン引退後は成績が低迷し、フランチャイズ崩壊の危機に陥っていたレイカーズは、何としてもベイラーと契約を結びたかった。レイカーズはベイラーを熱心に勧誘し、当時としては破格の年2万ドルという契約を提示。彼らの熱意についに折れたベイラーは、1958-59シーズンからのレイカーズ入団を決意した。当時のレイカーズのオーナー、ボブ・ソートは1971年のロサンゼルスタイムズ紙のインタビューで、もしベイラーを獲得できなかったら「クラブは破産していただろう」と語っている。ベイラーの同期にはハル・グリア、ガイ・ロジャーズ、ウェイン・エンブリーらがいる。

ベイラーのプロデビューは華々しいものだった。ベイラーはルーキーイヤーとなる1958-59シーズンにリーグ第4位となる平均24.9得点、第3位となる15.0リバウンドを記録。アシストでも高水準の平均4.1アシストと、彼のオールラウンドな才能を遺憾なく発揮した。NBAオールスターゲームにも選ばれ、24得点11リバウンドをあげてオールスターMVPをボブ・ペティットと共同受賞。当然のように新人王を受賞すると共に、オールNBA1stチームにも選出され、早くもリーグ最高峰の選手の一人として認められた。前年19勝53敗に沈んだレイカーズもベイラーの活躍で33勝39敗まで大幅に勝率を回復させた。プレーオフでは1回戦でデトロイト・ピストンズを2勝1敗で破ると、デビジョン決勝にて今後NBAファイナル進出を賭けて幾度となく争うことになるボブ・ペティット擁するセントルイス・ホークスと対戦。前年プレーオフ進出すら逃したレイカーズは前年チャンピオンチームのホークスを4勝2敗で破るという波乱を巻き起こし、ついにファイナル進出を果たして、ボストン・セルティックスとの初対決を迎えた。こうしてNBA史上最大の闘争として名高いレイカーズとセルティックスのライバル関係は始まったが、同時にベイラーの計8回にも及ぶファイナル敗退も始まった。レイカーズはビル・ラッセル、ボブ・クージー、ビル・シャーマンらを擁する磐石のセルティックスに屈辱の4戦全敗を喫したのである。

翌1959-60シーズンを控えて、フロント陣はレイカーズをよりベイラーに適したチームにするため、ベイラーにとってはシアトル大時代の恩師であるジョン・カステラーニをヘッドコーチに抜擢。黄金期のレイカーズの主力選手の一人だったヴァーン・ミッケルセンは引退し、ドラフトではルディー・ラルッソを指名。シーズン中にもディック・ガーメイカーやラリー・ファウストらを放出した。しかしベイラーは軍の召集のために夏のトレーニングキャンプには不参加となってしまい、準備不足のまま新シーズンを迎えた新生レイカーズはシーズン序盤から大きく負け越し、カステラーニはシーズン中にコーチを解任され、後任にはジム・ポラードが就いた。結局レイカーズは前年度割れの25勝50敗に終わったが、ベイラーは好調で仇敵セルティックス戦では当時のリーグ記録だったジョー・ファルクスが保持する1試合63得点を破る64得点をあげた。個人成績は平均29.6得点16.4リバウンド。通算2,074得点は従来なら得点王に輝いてもおかしくない成績だったが(当時のスタッツリーダーは平均ではなく通算で決められていた)、この年に怪人、ウィルト・チェンバレンがNBAデビューを飾り、37.6得点という前代未聞の数字を残して得点王の座をさらった。以後もベイラーは得点やリバウンドで高い数字を記録していくが、同時代にこのチェンバレンやビル・ラッセルらが存在したため、ついぞスタッツリーダーを獲得することはなかった。レギュラーシーズンのチーム成績は低迷したレイカーズだったが、プレーオフでは、1回戦で上位シードのピストンズを2戦2勝で破り、デビジョン決勝ではホークス相手に第7戦まで粘るという健闘を見せ、ベイラーはポストシーズン中に平均33.4得点を記録した。

シーズン終了後にチームオーナーのボブ・ソートはフランチャイズをミネアポリスからロサンゼルスに移転することを決定。これによりレイカーズはアメリカ西海岸初のNBAチームとなり、NBAは名実共に全米規模のプロリーグとなった。レイカーズはこの大都市ロサンゼルスに根を下ろすことで大きく発展していくことになるが、西海岸のバスケットファンにいち早くNBAとレイカーズの存在を認めさせるうえで、ベイラーというスター選手の存在は欠かせなかった。そしてレイカーズはロサンゼルスへの移転に先立って、1960年のNBAドラフトでさらにもう一人のスター選手の獲得に成功する。後にザ・フォーラムの英雄となる全体2位指名されたウェストバージニア大学出身のジェリー・ウェストは、ベイラーにとっても得難い盟友となった。またチーム移転と同時にジム・ポラードは解任され、代わりにフレッド・シャウスが新ヘッドコーチに就任した。

ロサンゼルスへの移転と共にベイラーは全盛期を迎える。1960-61シーズン序盤の11月1日、ニューヨーク・ニックス戦では71得点25リバウンドを記録。28本のフィールドゴールと15本のフリースローを決めた71得点は自身が保持する記録を更新するNBA新記録となった。翌シーズンにはウィルト・チェンバレンが同じニックス相手に100得点という金字塔を達成するが、ニックス所属のリッチー・ゲリンは後に振り返って「断然エルジンのパフォーマンスの方が素晴らしかった」「ウィルトの試合では、彼ら(チェンバレンが所属するフィラデルフィア・ウォリアーズのチームメート)がウィルトのために記録を作ろうとしていた。エルジンの71得点は誰の手も借りてない。彼は自然の成り行きで得点していたんだ」と語っている。シーズン成績はチェンバレンに次ぐリーグ2位となる平均34.3得点、リーグ4位となる19.8リバウンド(ベイラーのキャリアハイ)、リーグ8位となる平均5.1アシストだった。ベイラーの大車輪の活躍とウェストの加入でチーム成績も上向き、前年より11勝分増の36勝43敗を記録。プレーオフ1回戦ではお馴染の相手、ベイリー・ハウエル擁するデトロイト・ピストンズを3年連続で破り、デビジョン決勝にてやはりお馴染み、3年連続の対戦となるセントルイス・ホークスと対決。この年も第7戦までもつれた末に3勝4敗で惜敗したが、レイカーズは1シーズンで早くもロサンゼルスのファンやハリウッドスターの心を掴み、当時のホームアリーナ、ロサンゼルス・メモリアル・スポーツ・アリーナのコートサイドにはドリス・デイやダニー・トーマス、ダイナ・ショア、パット・ブーンら著名人らの姿が見られるなど、レイカーズのロサンゼルス移転は大成功となった。

翌1961-62シーズンも引き続きベイラーは好調を維持。ベイラーのキャリアにおいてハイライトの一つにあげられる12月8日のフィラデルフィア・ウォリアーズ戦では、フィラデルフィアの怪物、チェンバレンがベイラーの記録を破る78得点をあげたのに対し、負けじとベイラーも63得点31リバウンドをあげ、トリプルオーバータイムの末にレイカーズを勝利に導いた。ベイラーはこの時正に全盛期の只中に居たが、この貴重な時期をベイラーは「軍の召集」によって奪われ、ベイラーは平日の大半をワシントン州フォートルイスにある陸軍基地で過ごし、レイカーズの試合には週末だけ出場することになった。フォートルイスとロサンゼルスをバスで行き来する日々を強いられたベイラーだったが、試合では移動と二重生活の疲れを微塵も見せず、シーズン成績は平均38.3得点(キャリアハイ)18.6リバウンド4.6アシストという素晴らしい数字を記録。また2年目のジェリー・ウェストがいよいよ頭角を現し、彼はこのシーズン平均30.8得点を記録。合わせてほぼ70得点をあげるベイラーとウェストのデュオはリーグ最強のワンツー・パンチとして周囲に恐れられるようになった。またベイラーの不在をルディー・ラルッソやフランク・セルヴィらが良く埋め、レイカーズはベイラー入団後かつてない好調なシーズンを送り、チーム初の50勝到達となる54勝26敗をあげた。ベイラーは48試合の出場に留まったものの4年連続となるオールNBA1stチームに選ばれ、同時にウェストも1stチーム入りを果たしている。このシーズン、宿敵のホークスが低迷したため、レイカーズはベイラー入団後初のプレーオフ第1シードを獲得。デビジョン決勝にてこれで4年連続の対決となるピストンズを4勝2敗で破り、3年ぶりのファイナル進出を決めた。

そしてファイナルの地で待っていたのが、当時ファイナル3連覇中だったボストン・セルティックスだった。前回の対戦、ほぼベイラーのワンマンチームだったレイカーズは為す術なくセルティックスの前に散ったが、ウェストという強力な新戦力を得た今回、レイカーズは王者セルティックス相手にも堂々と渡り合った。ボストンでの最初の2試合を1勝1敗で切り抜けたレイカーズは、15,180人という当時としては記録的な観衆が詰め掛けたロサンゼルスのスポーツ・アリーナでの試合では、同点で迎えた残り時間3秒で、ウェストがスティールからの劇的な決勝ブザービーターを決め、117-115でレイカーズが勝利。この瞬間の熱狂は興奮した観客が暴動を起こすほどだった。レイカーズはファイナルで初めてセルティックスに対し1勝分リードしたが、続く第4戦はセルティックスが勝利し、2勝2敗でボストン、ザ・ガーデンでの第5戦を迎える事になった。この敵地で、ベイラーは一世一代のパフォーマンスを見せる。彼はこの試合で61得点22リバウンドを記録。61得点は当時のプレーオフ新記録であり(現在はマイケル・ジョーダンの63得点に次ぐ歴代2位)であり、今もなお破られていないファイナル史上歴代1位の記録である。この日、ベイラーとマッチアップしたディフェンスの名手サッチ・サンダースは「まるで機械のようだった」とベイラーのプレーに舌を巻いたが、当の本人は試合後のインタビューで「覚えているのは試合に勝ったことだけ。自分が何点取ったかなんて全く頭になかったよ」と答えている。ベイラーの圧倒的なプレーで重要な第5戦を126-121で勝利したレイカーズは、ついにファイナル制覇に王手を掛けたが、しかしロサンゼルスに戻った第6戦を落としてしまい、天王山の第7戦を敵地ボストンで迎えた。絶対に負けられないこの試合でベイラーは奮戦し、セルティックスが誇るトム・ヘインソーン、サッチ・サンダース、ジム・ロスカトフら3人の好フォワードのマークを物ともせずに次々と得点をあげ、ついにはヘインソーンをファウルアウトに追いやった。試合は終盤までもつれにもつれた激戦となり、100-100の同点で残り5秒を迎えた。タイムアウトを挟んでレイカーズのスローイン。セルティックスはこの日も大活躍のベイラーとウェストを徹底マークしたが、左ベースライン際に立つレイカーズのフランク・セルヴィがフリーとなる。ボールを受け取ったセルヴィは7~8フィートの位置から、見通しのよいゴールに向けてジャンプショットを放った。伝説の8連覇時代のセルティックス最大の危機の場面であり、60年代のレイカーズが最も優勝に近づいた瞬間だったが、ボールはネットを揺らさなかった。このとき、ベイラーはゴールの直下におり、ボールがバスケットを通過しないとみるやタップするためにすぐにジャンプしたが、ボールはまだリムから落ち切っておらず(この時にボールに触れてしまうと、ボールをバスケットに入れても得点は無効となる)、ベイラーはボールに触れることができないまま地面に着地してしまった。その直後にラッセルが跳び、彼はリムから零れるボールを確保。観客の悲鳴と安堵の溜息と共にブザーが鳴り、試合はオーバータイムへ突入した。レイカーズはオーバータイムでついに力尽き、107-110で敗北。ベイラーとレイカーズの優勝の夢は儚く散ったが、1962年のファイナルはベイラーの61得点を筆頭に多くの名場面が刻まれた名シリーズとなった。

軍から解放された1962-63シーズン、ベイラーは80試合全てに出場し、平均34.0得点(リーグ2位)14.3リバウンド(同5位)4.8アシスト(同6位)、FT成功率83.7%(第3位)を記録。主要スタッツ4部門でリーグトップ6入りを果たすという快挙を達成した。チームはウェストがシーズン終盤に怪我で離脱するも53勝27敗と前年に引き続き50勝以上を維持。ウェストはプレーオフには間に合い、デビジョン決勝でホークスを破って2年連続でファイナルに進出、セルティックスと3度目の対決を迎えた。1勝3敗と苦境に立たされた状況で迎えたボストンでの第5戦では、ベイラーが43得点、ウェストが32得点と爆発し、126-119でレイカーズが勝利。レイカーズの逆転優勝を期待して止まないレイカーズファンは、第6戦が行われるスポーツ・アリーナに大挙して押し寄せた。しかしすでにチケットは完売しており、中に入れないと知ったおよそ5,000人のレイカーズファンの間で暴動が発生し掛けたため、レイカーズ経営陣は急遽監視カメラを使用してのテレビ観戦シートを用意し、チケットを2.5ドルで販売して騒動を治めた(当時、テレビによるNBAの試合中継はまだ極僅かであり、レイカーズGMのルー・モーズはこれを「テレビ有料放送の実験になった」と語っている)。このようにロサンゼルス市民から熱烈な応援を受けて第6戦は始まったが、しかしレイカーズは彼らの期待に応えられなかった。試合は112-109でセルティックスが勝利し、レイカーズとベイラーは2年連続、3回目のファイナル敗退を経験した。

彼の膝を痛みが襲い始めたのは1960年代初頭の頃からだった。膝にカルシウム沈着が起き、彼は膝に走る痛みと戦いながらプレーしなければならなかった。そして1963-64シーズンには膝の痛みが本格的に彼のプレーを蝕み始めるも、それでもベイラーは毎試合40分以上の出場をこなした。しかし痛みの影響は明らかで、このシーズンのベイラーの成績は平均25.4得点12.0リバウンド4.4アシストと前年度を大きく下回り、彼の失速でレイカーズもやはり前年度を大きく下回る42勝38敗に留まり、プレーオフではホークスに敗れている。ベイラーのパフォーマンスはこのシーズンを境に明らかな低下が見られ、以後、彼の平均得点が30点を上回ることはなかった。

1964-65シーズンもベイラーは膝の痛みに苦しんだが、平均41.3分の出場と肉体を酷使し、平均27.1得点12.8リバウンド3.8アシストの成績を残す。レイカーズはベイラーの奮戦やウェストらの活躍で49勝31敗まで勝率を回復させ、プレーオフの第1シードを獲得した。そしてボルチモア・ブレッツとのデビジョン決勝を迎えたのだが、ここで悲劇が起きた。4月3日の第1戦。この日2本目のシュートを放とうとしたベイラーの膝に激痛が走った。左膝の靭帯が破損したのである。この時、ベイラーは自身の靭帯が損傷する音をはっきりと聞いたという。ベイラーはすぐに医務室へと運ばれ、以後のシリーズを全休。彼の1965年のプレーオフは僅か5分で終わったのである。レイカーズはベイラーを欠きながらもウェストとルディー・ラルッソらが善戦し、ブレッツを破ってファイナルに進出するも、セルティックスに四度敗れている。

ベイラーを診た医師は、彼のバスケットキャリアはすでに尽きたと判断し、そのことをベイラー本人に伝えた。靭帯は大きく裂け、膝蓋骨も損傷していたのである。しかし夏のトレーニングキャンプを前にして膝の痛みは引き、ベイラーは自分にはまだ機動力が残されていると感じた。ベイラー自身、もう二度と歩けなくなるのではないかとすら思っていたが、夏のキャンプでは全力で走れるまでに回復していた。しかし全盛期の動きを取り戻すには至らなかった。全盛期のベイラーのプレーはドライブやリバウンドで恐れを知らぬアプローチを見せて周囲を感嘆させたものだが、それも彼の類まれな身体能力があったればこそだった。ベイラー本人、当時の自分の力を全盛期の「75%程度」と語っている。それでもなお、ベイラーはその他大多数のNBA選手よりも優秀だった。ベイラーは1965-66シーズンに65試合に出場し、平均30.4分の出場で16.6得点9.6リバウンド3.4アシストといずれも過去最低の数字を記録。ルーキーイヤーから続けてきたオールスター出場、オールNBA1stチーム入りも7年で途絶えた。しかしレイカーズというチームにおいてベイラーはもはや数字上だけの存在ではなくなっていた。ベイラーに代わってエースとしてチームを牽引したウェストは平均31.3得点を記録。またウォルト・ハザードや後にウェストと強力なバックコートを組むゲイル・グッドリッチら新戦力もチームに活力をもたらし、レイカーズは45勝35敗と前年度よりも勝率は下がったが第1シードを確保して、デビジョン決勝にて宿敵ホークスとの対決を4勝3敗で制し、ファイナルに進出した。そしてファイナルの地で待っていたのが当時ファイナル7連覇中の仇敵ボストン・セルティックスである。1959年の初対決から8年。セルティックスの陣容も大きく変わり、ビル・ラッセルは絶対的な大黒柱として健在ながらもボブ・クージーやビル・シャーマン、トム・ヘインソーンらの姿はすでに無く、サム・ジョーンズやジョン・ハブリチェックらがチームの中核を担っていた。レギュラーシーズン54勝とレイカーズの勝率を大きく上回るセルティックスに、レイカーズは今回も惨敗を喫するかに思われた。しかし満身創痍のベイラーが奮戦。ボストンでの第1戦で序盤20-38と大きく引き離されながらも、ベイラーの36得点の活躍でオーバータイムの末に133-129でレイカーズが勝利した。第5戦でもベイラーは41得点をあげるなど大活躍を見せ、手負いのベイラーの活躍に鼓舞されたレイカーズは第7戦まで粘ったものの、最後は93-95の僅か2点差で敗退。今回もセルティックスを追い詰めながら、優勝には手が届かなかった。

1年前には周囲の誰もが、本人すらも「ベイラーは終わった選手」と信じていたが、1966-67シーズンにベイラーは成績を平均26.6得点(リーグ4位)12.8リバウンド(リーグ9位)3.8アシストまで回復させ、オールスターとオールNBA1stチームにも復帰し、一流選手へと返り咲いた。しかしプレーオフではリック・バリー率いるサンフランシスコ・ウォリアーズの前に3戦全敗を喫している。なお、レイカーズの前に尽く立ちはだかったセルティックスはこの年、ウィルト・チェンバレン率いるフィラデルフィア・76ersに破れ、9年ぶりに王座を明け渡している。レイカーズは1967-68シーズンを前に7年間チームを指揮したフレッド・シャウスをヘッドコーチから解任。後任にブッチ・ヴァン・ブレダ・コルフを抜擢した。レイカーズはベイラーにウェスト、ゲイル・グッドリッチ、アーチー・クラークの新しい核で新シーズンに臨み、52勝30敗の成績を記録。ベイラーは平均26.0得点12.2リバウンド4.6アシストを記録。当時の得点王は平均ではなく通算で決められており、このシーズンにベイラーは通算2,002得点をあげたが、これはデトロイト・ピストンズのデイブ・ビンに次ぐリーグ2位の記録だった。プレーオフではシカゴ・ブルズ、サンフランシスコ・ウォリアーズを破って6回目のファイナルに進出。前年度チェンバレンの76ersに敗れたセルティックスだったが、この年は76ersにしっかりとリベンジを果たし、レイカーズとセルティックスは6度目の対決を迎えた。レイカーズとベイラーは今回もセルティックスを打倒することが出来ず、2勝4敗で敗れた。

ベイラーを獲得して以来10年、6回ファイナルに出場しながらいずれもセルティックスに敗れたレイカーズは、1968-69シーズンを前に大きな賭けに出た。NBAの怪物、ウィルト・チェンバレンをフィラデルフィア・76ersから獲得したのである。ガードとフォワードのポジションにそれぞれ史上最高クラスの選手を置きながらファイナルで勝てないレイカーズにとって、セルティックスに大きく遅れを取っていたのがセンターだった。セルティックスには偉大なセンター、ビル・ラッセルが所属していたが、当時彼に対抗できた唯一のセンターがチェンバレンであり、そして彼には1967年にセルティックスを破って優勝したという大きな実績があった。エルジン・ベイラーにジェリー・ウェスト、そしてウィルト・チェンバレンという脅威のトリオはビッグスリーとして大きな注目を集め、新シーズンが始まるとウェストは平均25.9得点6.9アシスト、ベイラーは平均24.8得点10.6リバウンド5.4アシスト、チェンバレンは平均20.5得点21.1リバウンドと3人全員が平均20得点以上を記録。しかしウェストが21試合を欠場したため、勝率は55勝27敗と劇的な伸びは見せなかった。ベイラーはオールNBA1stチームに、ウェストは2ndチームに選ばれたが、チェンバレンはデビュー以来続けてきたオールNBAチーム入りを逃している。プレーオフでは1回戦でサンフランシスコ・ウォリアーズを4勝2敗で破り、デビジョン決勝ではアトランタに本拠地を移したアトランタ・ホークスと対決。過去、レイカーズと幾度となく激戦を繰り広げたライバル選手の一人、ボブ・ペティットはすでに引退しており、彼を継いでルー・ハドソンが新エースとしてチームを牽引していた。レイカーズはこの宿敵を4勝1敗で破り、ファイナルに進出。王者、セルティックスと7度目の、そして1960年代最後の対決を迎えた。このファイナルはベイラーの相棒、ウェストの目覚しい活躍で知られており、第1戦で彼は51得点、第2戦では41得点を記録。そしてベイラーは膝の痛みに苦しみながらも、第2戦のレイカーズの最後の12得点を一人であげるという活躍をし、レイカーズがロサンゼルスでの2連戦を連勝。王者セルティックスに対し2勝0敗と大きくシリーズをリードした。ところが続くボストンでの2連戦ではセルティックスの反撃に遭い、2勝2敗のタイに戻される。ロサンゼルスでの第5戦はレイカーズが制し、3勝2敗でついにシリーズ王手を掛けたが、ここまで獅子奮迅のプレーを見せるウェストが膝を故障するというアクシデントに見舞われ、第6戦は敗北。3勝3敗のタイでロサンゼルスでの最終戦を迎える。ウェストは怪我を押して第7戦にも強行出場するが、ベイラー、ウェストいずれも膝に故障を抱え、さらに今度はチェンバレンまでもが試合中に膝の痛みを訴え、試合終盤にベンチに下げられるという事態に陥り、万全の状態で戦えなかったレイカーズは第7戦を落とし、またしてもセルティックスに優勝を阻まれるという結果となった。ウェストは第7戦でも42得点13リバウンド12アシストと大活躍し、この年から新設されたファイナルMVPを受賞という栄誉に浴すも、チェンバレンを獲得してもなおセルティックスの前に7度目の敗北を喫するという現実は彼らに重く圧し掛かった。そして膝に爆弾を抱えてもなおトップレベルのプレーでレイカーズを牽引してきたベイラーの背中を、少しずつ「引退」という影が覆いつつあった。

酷使してきた膝は1969-70シーズン、ついにベイラーの肉体を支えきれなくなり、このシーズンの彼の出場を54試合に制限した。それでもなお、ベイラーは平均41.0分の出場を強行。平均24.0得点10.4リバウンド5.4アシストという立派な成績を残し、オールNBAチームの選考からは漏れたが、オールスターには選らばれた。ベイラーに加え、チェンバレンまでも長期欠場したレイカーズは前年度を大きく下回る46勝36敗の成績に終わったが、プレーオフでは新興チームのフェニックス・サンズやアトランタ・ホークスを破って3年連続でファイナル進出を果たす。しかしファイナルで待っていたのは仇敵セルティックスではなかった。セルティックスは大黒柱のビル・ラッセルが引退し、11年に及ぶ王朝の歴史に自ら幕を降ろしていた。ラッセルの引退とセルティックスの凋落でリーグの勢力図は大きく塗り変わり、リーグ全体を世代交代という波が覆う。ファイナルに到達するまでにレイカーズが蹴散らしたサンズもホークスも若手や中堅の選手が中心であり、3人全員がキャリア10年以上のビッグスリーが中心であるレイカーズはベテラン選手の集まりだった。そしてファイナルで彼らの前に立ちはだかるニューヨーク・ニックスもまた、ウィリス・リードとウォルト・フレイジャーという20代半ばの選手を中心とした新世代のチームだった。ベイラーは第4戦でシリーズを2勝2敗のタイに戻す30得点をあげるなど、新世代の選手相手にも奮戦してみせたが、第7戦でのウィリス・リードの英雄的な行動でレイカーズは敗戦。セルティックスによる支配が終わってもなお、レイカーズとベイラーはファイナルで勝つことができなかった。

1970-71シーズン、ついにベイラーの膝の爆弾が弾ける。ベイラーは2試合出場しただけで、残り80試合を欠場。プレーオフにも彼の姿はなく、彼を欠いたレイカーズはデビジョン決勝でミルウォーキー・バックスに敗退。4年ぶりにファイナル進出を逃している。NBA2年目のカリーム・アブドゥル=ジャバー擁するバックスはファイナルも制し、優勝を遂げている。

優勝の夢を諦めきれないベイラーは、満身創痍の状態で1971-72シーズンのコートに強行復帰した。平均11.8得点6.3リバウンドと全盛期には程遠い内容ながらもベイラーは懸命にプレーしたが、シーズン開幕して9試合目で彼は自ら自身のキャリアに終止符を打つことを決めた。10月31日のゴールデンステート・ウォリアーズ戦、105-109の敗戦が、彼のラストゲームとなった。11月4日、ベイラーは記者会見を開き、引退を表明。当時37歳。12年のNBAキャリアに幕を引いた。

ところが、彼のNBAでの物語りはもう少し続く事になる。多くのチームメートは彼の引退を記者会見を通して知り、翌5日のボルチモア・ブレッツ戦を迎えた。ここまで6勝3敗とまずまずの新シーズンのスタートを切っていたレイカーズだが、彼らは一夜にしてまったく別のチームに生まれ変わっていた。彼らはこのブレッツ戦を皮切りに、驚異の33連勝を飾るのである。ベイラーの引退から始まったこの33連勝にベイラーが無関係であるはずもなく、レイカーズを12年に渡って支え続けた、言わばレイカーズの魂と言えるベイラーの引退が、チームに結束力をもたらしたと言われている。勝ちに勝ちまくったレイカーズは69勝13敗の圧倒的な成績を収めると、プレーオフも勝ち抜いてファイナルを制してしまう。自分が引退した直後にチームが悲願の優勝を果たしてしまうという、ベイラー本人にとっては何とも皮肉な結果となったが、彼の引退は最後にロサンゼルスのファンに素晴らしい置き土産を残すことになった。

ベイラーは1974年からニューオーリンズ・ジャズのヘッドコーチに就任し、スコッティ・ロバートソンの解任に伴って、1試合だけ臨時ヘッドコーチとして指揮をとり、現役時代にレイカーズのヘッドコーチだったブッチ・ヴァン・ブレダ・コルフに引き継いだ。そして1976-77シーズンから正式にヘッドコーチに就任し、ピート・マラビッチなどを指導した。ベイラーは1978-79シーズンまで指揮したが、その間1度もジャズをプレーオフに導くことはできず、221試合86勝135敗、勝率.389の成績だった 。

ベイラーは1986年にロサンゼルス・クリッパーズの球団副社長に就任。2008年までの22年間に渡ってゼネラルマネージャーとしてチームの運営に携わった。1990年代にはダニー・マニングを、2000年代にはエルトン・ブランドを中心にしてチーム造りをし、計4回のプレーオフ進出に成功。31年ぶりにプレーオフ1回戦を突破した2006年には優秀なGMに贈られるエグゼクティブ・オブ・ザ・イヤーを受賞している。しかし残る18のシーズンは全て負け越している。2008年10月に退職した時、ベイラーは74歳だった。2009年2月、ベイラーは在職中に差別的な扱いを受け、彼の解任も人種的な差別があったとしてクリッパーズのオーナー、ドナルド・スターリングを訴えた。

私は無条件で言い切れる。 エルジン・ベイラーこそがプロバスケットボールで最も偉大なスモールフォワードだったと — ビル・シャーマン

— トミー・ホーキンズ

ベイラーはしばしば史上最も偉大なスモールフォワードにあげられる選手である。彼には同時代に活躍したウィルト・チェンバレンのような1試合100得点や、ビル・ラッセルのような11回の優勝、オスカー・ロバートソンのような平均トリプル・ダブルなどの、目に見える、数字で測ることのできる実績は持っていない。NBAファイナルに8回出場しながら、彼の手元には一つのチャンピオンリングもない。スタッツリーダーを獲得したことも、シーズンMVPを受賞したことも、1度もない。それでも、彼と同時代にプレーした多くの選手は、「彼こそ史上最高のスモールフォワードである」と賞賛を惜しもうとしない。

ベイラー登場以前のバスケットボールは単調なものだった。シュートはワンハンドによるセットシュートとランニングフック。リバウンドを取り、コートを走り、急いでシュートを打つの繰り返し。それは単調なルーチンワークでしかなかった。ダンクシュートをする者は殆どおらず、リムより上で戦うことを許されたのはビル・ラッセルやジョージ・マイカンのような一部の選ばれたビッグマンだけだった。ベイラーの登場が全てを変えた。彼は重力に逆らった。彼は左サイドから力強いドライブでペイントエリアに迫り、ゴールに向けてジャンプ。同時にジャンプした他の選手がコートに着地しても、ベイラーだけはまだ宙を滑空したままであり、驚くべきボディバランスと力強い腕の振りでボールをリムに叩きつけた。ベイラーの滞空力とボディバランスは見る者にこう言わせた。「1000のムーヴを持つ男」と。ベイラーの登場と共に、バスケットにおける本格的な空中戦は始まったのであり、ベイラーとラッセルが、バスケットを二次元のスポーツから三次元のスポーツへと進化させたのである。NBA.com やバスケットボール殿堂公式HP を始め、多くの媒体でベイラーの功績をこう評している。「ベイラーなくして後のコニー・ホーキンズ、ジュリアス・アービング、マイケル・ジョーダンの登場はなかっただろう」と。

ベイラーは派手なダンクや鋭いドライブといった身体能力任せの選手だけではなかった。ウェストはベイラーを「これまで見た中で最も素晴らしいシューターの一人」と評しており、ジャンプショットも彼の得意なシュートの一つであり、キャリアのフリースロー成功率も当時としては高水準の78.0%だった。ドライブからのダンクやバンクショット、ジャンプシュートと彼のシュートオプションは非常にバラエティに富んでおり、フォワードでありながら屈強な肉体とパワーを利用して、あのビル・ラッセルに対してさえもポストアップしたほどである。また自分だけで点を取るのではなく、チームメートの得点チャンスも演出するなど、アシスト能力にも長けていた。彼は偉大な、そして過小評価されたリバウンダーでもあった。ベイラーが1960-61シーズンに記録した平均19.8リバウンドよりも勝る数字を残したNBA選手は歴史上でも5人のみであり、196cm以下の選手の中では最高の数字である。

バスケットピュアリストたちはベイラーをたった一つの単語で表す。 アンストッパブル" と。 — 「バスケットボール殿堂」より

ベイラーは引退後の1977年にバスケットボール殿堂入りし、背番号「22」はロサンゼルス・レイカーズの永久欠番となった。1980年のNBA35周年、1996年のNBA50周年に発表されたオールタイムチームにも選ばれている。2009年にスラムマガジンが発表したNBA選手歴代トップ50では11位にランクされた。

得点、リバウンド、アシストの成績は下記の通りである。

NCAA男子バスケットボールトーナメントMOP:1958

NCAAオールアメリカ2ndチーム:1957

NCAAオールアメリカ1stチーム:1958

NBAルーキー・オブ・ザ・イヤー:1959

オールスターゲーム出場:11回 (1959-1965, 1967-1970)

オールスターゲームMVP:1回 (1959)

NBAオール1stチーム選出:10回 (1959-1965, 1967-1969)

バスケットボール殿堂:1977

NBA35周年オールタイムチーム:1980

NBA50周年記念オールタイムチーム:1996

NBA最優秀役員賞:2006

キャリア平均27.4得点はNBA歴代4位。引退選手の中では歴代3位。

キャリア平均13.5リバウンドはNBA歴代9位。

NBAファイナルでの1試合61点(1962年4月24日対セルティックス)は歴代1位。 ※プレーオフ歴代2位

レギュラーシーズンでの1試合71得点(1960年11月15日対ニックス)は歴代8位。

キャリア通算11,463リバウンドはレイカーズのフランチャイズ記録。

※順位はいずれも2010年付け

ベイラーがプレーした1950年代から60年代当時のアメリカは、未だ人種差別が色濃く残っていた時代であり、リーグの内外でアフリカ系アメリカ人選手への差別的扱いが蔓延していた。ベイラーらレイカーズ一行が、エキシビジョンゲームのためにレイカーズ所属のホット・ロッド・ハンドリーの故郷、ウェストバージニア州チャールストンに訪れた際には、ベイラーにブー・エリス、エド・フレミングの3人の黒人選手がホテルへの宿泊やレストランでの食事を拒否された。エキシビジョンゲーム前、ロッカールームでユニフォームに着替えていないベイラーを見つけたハンドリーは、自分の故郷が彼にした仕打ちを詫び、「我々は友人だ。そしてここは私の故郷だ。私のためにユニフォームを着て欲しい」とベイラーに頼んだが、ベイラーは「君は私の友人だ。しかしロッド、私もまた人間なんだ。私は人間として扱われたいだけなんだ」と、最後までエキシビジョンゲームへの出場を拒んだ。数日後、ベイラーはチャールストン市長から謝罪の電話を受けた。2年後に同地で開催されたオールスターゲームにベイラーは出席し、彼の宿泊を拒否したホテルに泊まり、彼の立入を拒んだレストランで食事した。

1960年1月、ベイラーらが搭乗するレイカーズの専用機が吹雪のためにトウモロコシ畑に強行着陸するというアクシデントがあった。幸い機は無事着陸に成功し、負傷者は出なかった。

シアトル大学(NCAAトーンメント決勝)、ロサンゼルス・レイカーズ(NBAファイナル)で9度決勝に進出しながら優勝に導けず、クリッパーズでも勝ち星に恵まれない状況が続いていることから、「エルジン・ベイラーの呪い」の存在が示唆されている。

ロサンゼルス・レイカーズのチーム記録

^ Elgin Baylor Coaching stats より引用。March 8, 2007

^ “Elgin Baylor Stats”. Basketball-Reference.com. Sports Reference. March 22, 2021閲覧。

^ NBA.com bio

^ バスケットボール殿堂公式HP

^ Basketball-reference.com Elgin Baylor Statistics より引用。March 8, 2007

コモンズのメディア

ウィキクォートの引用句集

ウィキデータのデータ

選手の通算成績と情報 NBA、NBA日本、Basketball-Reference

NBA.com bio

Elgin Baylor - バスケットボール殿堂

1947 クリフトン・マクニーリィ

1948 アンディ・トンコヴィッチ

1949 ハウィ・シャノン

1950 チャック・シェア

1951 ジーン・メルショーレ

1952 マーク・ワークマン

1953 レイ・フェリックス

1954 フランク・セルヴィ

1955 ディック・リケッツ

1956 シヒューゴ・グリーン

1957 ホット・ロッド・ハンドリー

1958 エルジン・ベイラー

1959 ボブ・ブーザー

1960 オスカー・ロバートソン

1961 ウォルト・ベラミー

1962 ビル・マクギル

1963 アート・ヘイマン

1964 ジム・バーンズ

1965 フレッド・ヘッツェル

1966 カジー・ラッセル

1967 ジミー・ウォーカー

1968 エルヴィン・ヘイズ

1969 ルー・アルシンダー

1970 ボブ・レイニア

1971 オースティン・カー

1972 ラルー・マーティン

1973 ダグ・コリンズ

1974 ビル・ウォルトン

1975 デイヴィッド・トンプソン

1976 ジョン・ルーカス

1977 ケント・ベンソン

1978 マイカル・トンプソン

1979 マジック・ジョンソン

1980 ジョー・バリー・キャロル

1981 マーク・アグワイア

1982 ジェームズ・ウォージー

1983 ラルフ・サンプソン

1984 アキーム・オラジュワン

1985 パトリック・ユーイング

1986 ブラッド・ドアティ

1987 デビッド・ロビンソン

1988 ダニー・マニング

1989 パービス・エリソン

1990 デリック・コールマン

1991 ラリー・ジョンソン

1992 シャキール・オニール

1993 クリス・ウェバー

1994 グレン・ロビンソン

1995 ジョー・スミス

1996 アレン・アイバーソン

1997 ティム・ダンカン

1998 マイケル・オロウォカンディ

1999 エルトン・ブランド

2000 ケニオン・マーティン

2001 クワミ・ブラウン

2002 姚明

2003 レブロン・ジェームズ

2004 ドワイト・ハワード

2005 アンドリュー・ボーガット

2006 アンドレア・バルニャーニ

2007 グレッグ・オデン

2008 デリック・ローズ

2009 ブレイク・グリフィン

2010 ジョン・ウォール

2011 カイリー・アービング

2012 アンソニー・デイビス

2013 アンソニー・ベネット

2014 アンドリュー・ウィギンス

2015 カール=アンソニー・タウンズ

2016 ベン・シモンズ

2017 マーケル・フルツ

2018 ディアンドレ・エイトン

2019 ザイオン・ウィリアムソン

2020 アンソニー・エドワーズ

2021 ケイド・カニングハム

2022 パオロ・バンケロ

2023 ビクター・ウェンバンヤマ

2024 ザカリー・リサシェ

1952-53 ドン・マイネケ(DET)

1953-54 レイ・フェリックス(WAS)

1954-55 ボブ・ペティット(ATL)

1955-56 モーリス・ストークス(SAC)

1956-57 トム・ヘインソーン(BOS)

1957-58 ウッディ・ソウルズベリー(GSW)

1958-59 エルジン・ベイラー(LAL)

1959-60 ウィルト・チェンバレン(GSW②)

1960-61 オスカー・ロバートソン(SAC②)

1961-62 ウォルト・ベラミー(LAL②)

1962-63 テリー・ディッシンガー(WAS②)

1963-64 ジェリー・ルーカス(SAC③)

1964-65 ウィリス・リード(NYK)

1965-66 リック・バリー(GSW③)

1966-67 デイブ・ビン(DET②)

1967-68 アール・モンロー(WAS③)

1968-69 ウェス・アンセルド(WAS④)

1969-70 ルー・アルシンダー(MIL)

1970-71 デイブ・コーウェンス(BOS②)&ジェフ・ペトリー(POR)

1971-72 シドニー・ウィックス(POR②)

1972-73 ボブ・マカドゥー(LAC)

1973-74 アーニー・ディグレゴリオ(LAC②)

1974-75 ジャマール・ウィルクス(GSW④)

1975-76 アルヴァン・アダムス()

1976-77 エイドリアン・ダントリー(LAC③)

1977-78 ウォルター・デイビス(②)

1978-79 フィル・フォード (SAC④)

1979-80 ラリー・バード(BOS③)

1980-81 ダレル・グリフィス(UTA)

1981-82 バック・ウィリアムズ(NJN)

1982-83 テリー・カミングス(LAC④)

1983-84 ラルフ・サンプソン(HOU)

1984-85 マイケル・ジョーダン(CHI)

1985-86 パトリック・ユーイング(NYK②)

1986-87 チャック・パーソン(IND)

1987-88 マーク・ジャクソン(NYK③)

1988-89 ミッチ・リッチモンド(GSW⑤)

1989-90 デビッド・ロビンソン(SAS)

1990-91 デリック・コールマン(NJN②)

1991-92 ラリー・ジョンソン(CHA)

1992-93 シャキール・オニール(ORL)

1993-94 クリス・ウェバー(GSW⑤)

1994-95 グラント・ヒル(DET③)&ジェイソン・キッド(DAL)

1995-96 デイモン・スタウダマイアー(TOR)

1996-97 アレン・アイバーソン(PHI)

1997-98 ティム・ダンカン(SAS②)

1998-99 ヴィンス・カーター(TOR②)

1999-00 エルトン・ブランド(CHI②)&スティーブ・フランシス(HOU②)

2000-01 マイク・ミラー(ORL②)

2001-02 パウ・ガソル(MEM)

2002-03 アマーレ・スタウダマイアー(②)

2003-04 レブロン・ジェームズ(CLE)

2004-05 エメカ・オカフォー(CHB)

2005-06 クリス・ポール(NOH)

2006-07 ブランドン・ロイ(POR③)

2007-08 ケビン・デュラント(OKC)

2008-09 デリック・ローズ(CHI③)

2009-10 タイリーク・エバンス(SAC⑤)

2010-11 ブレイク・グリフィン(LAC⑤)

2011-12 カイリー・アービング(CLE②)

2012-13 デイミアン・リラード(POR④)

2013-14 マイケル・カーター=ウィリアムス(PHI②)

2014-15 アンドリュー・ウィギンス(MIN)

2015-16 カール=アンソニー・タウンズ(MIN②)

2016-17 マルコム・ブログドン(MIL)

2017-18 ベン・シモンズ(PHI③)

2018-19 ルカ・ドンチッチ(DAL②)

2019-20 ジャ・モラント(MEM②)

2020-21 ラメロ・ボール(CHA)

2021-22 スコッティ・バーンズ(TOR)

2022-23 パオロ・バンケロ

(ORL)

2023-24 ビクター・ウェンバンヤマ

(SAS)

1951 エド・マコーレー

1952 ポール・アリジン

1953 ジョージ・マイカン

1954 ボブ・クージー

1955 ビル・シャーマン

1956 ボブ・ペティット

1957 ボブ・クージー②

1958 ボブ・ペティット②

1959 ボブ・ペティット③&エルジン・ベイラー

1960 ウィルト・チェンバレン

1961 オスカー・ロバートソン

1962 ボブ・ペティット④

1963 ビル・ラッセル

1964 オスカー・ロバートソン②

1965 ジェリー・ルーカス

1966 エイドリアン・スミス

1967 リック・バリー

1968 ハル・グリア

1969 オスカー・ロバートソン③

1970 ウィリス・リード

1971 レニー・ウィルケンズ

1972 ジェリー・ウェスト

1973 デイブ・コーウェンス

1974 ボブ・レイニア

1975 ウォルト・フレイジャー

1976 デイブ・ビン

1977 ジュリアス・アービング

1978 ランディ・スミス

1979 デイヴィッド・トンプソン

1980 ジョージ・ガービン

1981 ネイト・アーチボルド

1982 ラリー・バード

1983 ジュリアス・アービング②

1984 アイザイア・トーマス

1985 ラルフ・サンプソン

1986 アイザイア・トーマス②

1987 トム・チェンバース

1988 マイケル・ジョーダン

1989 カール・マローン

1990 マジック・ジョンソン

1991 チャールズ・バークレー

1992 マジック・ジョンソン②

1993 カール・マローン②&ジョン・ストックトン

1994 スコッティ・ピッペン

1995 ミッチ・リッチモンド

1996 マイケル・ジョーダン②

1997 グレン・ライス

1998 マイケル・ジョーダン③

1999 中止

2000 シャキール・オニール&ティム・ダンカン

2001 アレン・アイバーソン

2002 コービー・ブライアント

2003 ケビン・ガーネット

2004 シャキール・オニール②

2005 アレン・アイバーソン②

2006 レブロン・ジェームズ

2007 コービー・ブライアント②

2008 レブロン・ジェームズ②

2009 コービー・ブライアント③&シャキール・オニール③

2010 ドウェイン・ウェイド

2011 コービー・ブライアント④

2012 ケビン・デュラント

2013 クリス・ポール

2014 カイリー・アービング

2015 ラッセル・ウェストブルック

2016 ラッセル・ウェストブルック②

2017 アンソニー・デイビス

2018 レブロン・ジェームズ③

2019 ケビン・デュラント②

2020 カワイ・レナード

2021 ヤニス・アデトクンボ

2022 ステフィン・カリー

2023 ジェイソン・テイタム

カリーム・アブドゥル=ジャバー • エルジン・ベイラー • ウィルト・チェンバレン • ボブ・クージー • ジュリアス・アービング

ジョン・ハブリチェック • ジョージ・マイカン • ボブ・ペティット • オスカー・ロバートソン • ビル・ラッセル • ジェリー・ウェスト

カリーム・アブドゥル=ジャバー

ネイト・アーチボルド

ポール・アリジン

チャールズ・バークレー

リック・バリー

エルジン・ベイラー

デイブ・ビン

ラリー・バード

ウィルト・チェンバレン

ボブ・クージー

デイブ・コーウェンス

ビリー・カニンガム

デイブ・ディバッシャー

クライド・ドレクスラー

ジュリアス・アービング

パトリック・ユーイング

ウォルト・フレイジャー

ジョージ・ガービン

ハル・グリア

ジョン・ハブリチェック

エルヴィン・ヘイズ

マジック・ジョンソン

サム・ジョーンズ

マイケル・ジョーダン

ジェリー・ルーカス

カール・マローン

モーゼス・マローン

ピート・マラビッチ

ケビン・マクヘイル

ジョージ・マイカン

アール・モンロー

アキーム・オラジュワン

シャキール・オニール

ロバート・パリッシュ

ボブ・ペティット

スコッティ・ピッペン

ウィリス・リード

オスカー・ロバートソン

デビッド・ロビンソン

ビル・ラッセル

ドルフ・シェイズ

ビル・シャーマン

ジョン・ストックトン

アイザイア・トーマス

ネイト・サーモンド

ウェス・アンセルド

ビル・ウォルトン

ジェリー・ウェスト

レニー・ウィルケンズ

ジェームズ・ウォージー

カリーム・アブドゥル=ジャバー(Kareem Abdul-Jabbar)

レイ・アレン(Ray Allen)

ヤニス・アデトクンボ(Giannis Antetokounmpo)

カーメロ・アンソニー(Carmelo Anthony)

ネイト・アーチボルド(Nate Archibald)

ポール・アリジン(Paul Arizin)

チャールズ・バークレー(Charles Barkley)

リック・バリー(Rick Barry)

エルジン・ベイラー(Elgin Baylor)

デイブ・ビン(Dave Bing)

ラリー・バード(Larry Bird)

コービー・ブライアント(Kobe Bryant)

ウィルト・チェンバレン(Wilt Chamberlain)

ボブ・クージー(Bob Cousy)

デイブ・コーウェンス(Dave Cowens)

ビリー・カニンガム(Billy Cunningham)

ステフィン・カリー(Stephen Curry)

アンソニー・デイビス(Anthony Davis)

デイブ・ディバッシャー(Dave Debusschere)

クライド・ドレクスラー(Clyde Drexler)

ティム・ダンカン(Tim Duncan)

ケビン・デュラント(Kevin Durant)

ジュリアス・アービング(Julius Erving)

パトリック・ユーイング(Patrick Ewing)

ウォルト・フレイジャー(Walt Frazier)

ケビン・ガーネット(Kevin Garnett)

ジョージ・ガービン(George Gervin)

ハル・グリア(Hal Greer)

ジェームズ・ハーデン(James Harden)

ジョン・ハブリチェック(John Havlicek)

エルヴィン・ヘイズ(Elvin Hayes)

アレン・アイバーソン(Allen Iverson)

レブロン・ジェームズ(Lebron James)

マジック・ジョンソン(Magic Johnson)

サム・ジョーンズ(Sam Jones)

マイケル・ジョーダン(Michael Jordan)

ジェイソン・キッド(Jason Kidd)

カワイ・レナード(Kawhi Leonard)

デイミアン・リラード(Damian Lillard)

ジェリー・ルーカス(Jerry Lucas)

モーゼス・マローン(Moses Malone)

カール・マローン(Karl Malone)

ピート・マラビッチ(Pete Maravich)

ボブ・マカドゥー(Bob Mcadoo)

ケビン・マクヘイル(Kevin Mchale)

ジョージ・マイカン(George Mikan)

レジー・ミラー(Reggie Miller)

アール・モンロー(Earl Monroe)

スティーブ・ナッシュ(Steve Nash)

ダーク・ノヴィツキー(Dirk Nowitzki)

シャキール・オニール(Shaquille O'Neal)

アキーム・オラジュワン(Hakeem Olajuwon)

ロバート・パリッシュ(Robert Parish)

クリス・ポール(Chris Paul)

ゲイリー・ペイトン(Gary Payton)

ボブ・ペティット(Bob Pettit)

ポール・ピアース(Paul Pierce)

スコッティ・ピッペン(Scottie Pippen)

ウィリス・リード(Willis Reed)

オスカー・ロバートソン(Oscar Robertson)

デビッド・ロビンソン(David Robinson)

デニス・ロッドマン(Dennis Rodman)

ビル・ラッセル(Bill Russell)

ドルフ・シェイズ(Dolph Schayes)

ビル・シャーマン(Bill Sharman)

ジョン・ストックトン(John Stockton)

アイザイア・トーマス(Isiah Thomas)

ネイト・サーモンド(Nate Thurmond)

ウェス・アンセルド(Wes Unseld)

ドウェイン・ウェイド(Dwyane Wade)

ビル・ウォルトン(Bill Walton)

ジェリー・ウェスト(Jerry West)

ラッセル・ウェストブルック(Russell Westbrook)

レニー・ウィルケンズ(Lenny Wilkens)

ドミニク・ウィルキンス(Dominique Wilkins)

ジェームズ・ウォージー(James Worthy)

1947年に設立

ミネアポリス時代 (1947–1960)

カリフォルニア州ロサンゼルスを本拠地としてから

球団歴史

歴代在籍選手

ドラフト歴代指名

チーム記録

歴代ヘッドコーチ

各シーズン

現シーズン

ミネアポリス・オーディトリアム(英語版)

ミネアポリス・アーモリー(英語版)

ロサンゼルス・メモリアル・スポーツ・アリーナ

ザ・フォーラム

クリプト・ドットコム・アリーナ (旧称: ステイプルズ・センター)

サウスベイ・レイカーズ

8

13

22

24

25

32

33

34

42

44

52

1949年

1950年

1952年

1953年

1954年

1972年

1980年

1982年

1985年

1987年

1988年

2000年

2001年

2002年

2009年

2010年

2020年

ボストン・セルティックス

デトロイト・ピストンズ

ロサンゼルス・クリッパーズ

サンアントニオ・スパーズ

ラジオ(英語版)

ジャック・ケント・クック(英語版)

ジェリー・バス

ショータイム

シャックとコービーの確執

レイカー・ガールズ(英語版)

レイカー・バンド(英語版)

チック・ハーン(英語版)

ローレンス・タンター(英語版)

ジャック・ニコルソン

ダンシング・バリー(英語版)

2020年カラバサスヘリコプター墜落事故

20世紀のアフリカ系アメリカ人

21世紀のアフリカ系アメリカ人

アフリカ系アメリカ人のバスケットボール選手

アメリカ合衆国の軍人

アメリカ合衆国の男子バスケットボール選手

アメリカ合衆国のバスケットボール指導者

シアトル大学出身のバスケットボール選手

スモールフォワード

ネイスミス・メモリアル・バスケットボール殿堂入り

ミネアポリス・レイカーズの選手

ミネアポリス・レイカーズのドラフト指名選手

ユタ・ジャズ関連人物

ロサンゼルス・クリッパーズ関連人物

ロサンゼルス・レイカーズの選手

ワシントンD.C.のバスケットボール選手

NBA永久欠番保持者

NBAオールスターゲーム選出選手

NBAの解説者

NBAのコーチ、ゼネラルマネージャー

NCAA男子バスケットボールオールアメリカン選出選手

1934年生

2021年没

プロジェクトバスケットボール項目

プロジェクト人物伝項目

2024/11/21 03:57更新

Elgin Baylor


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1938年9月16日生まれの有名人 千葉出身

中野 誠也(なかの せいや、1938年〈昭和13年〉9月16日 - )は、日本の俳優、演出家。本名は同じ。 千葉県市川市出身。東京都立両国高等学校卒。早稲田大学第一文学部演劇科中退。劇団俳優座に所属…

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中村 哲(なかむら さとし、1954年9月16日 - )は、日本のサクソフォーン奏者、キーボーディスト、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。埼玉県さいたま市大宮区出身。 サクソフォーンとキーボード奏…

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坪井 慶介(つぼい けいすけ、1979年9月16日 - )は、東京都多摩市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー(DF)。元日本代表。現在はサッカー解説者、タレントとして活動し…

河西 三省(かさい さんせい)
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ロマンス中野(ロマンス なかの、1990年9月16日 - )は、日本の女性タレント。独特なオタ芸によるパフォーマンスを繰り広げる。 父が日本人、母がフィリピン人。以前自身が勤めていた飲食店にて過度な…


山岸 奈津美(やまぎし なつみ)
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山岸 奈津美(やまぎし なつみ、1994年〈平成6年〉9月16日 - )は、日本のインフルエンサー、タレント、女優、デザイナーであり、女性アイドルグループ・NMB48の元メンバーである。 大阪府出身…

姫野 れみ(ひめの れみ)
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姫野 れみ(ひめの れみ、1994年9月16日 - )は、日本のタレント、モデル。 静岡県出身。チャーム所属。妹は同事務所に所属しているタレントの姫野まほ。 2015年4月よりタカラレーベンイメー…

多岐川 華子(たきがわ はなこ)
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多岐川 華子(たきがわ はなこ、1988年(昭和63年)9月16日 - )は、日本のタレント、女優、グラビアアイドル。本名、大内 華子。旧芸名、華子(はなこ)。 神奈川県出身。堀越高等学校卒業。元ト…

川上 礼奈(かわかみ れな)
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川上 礼奈(かわかみ れな、1995年〈平成7年〉9月16日 - )は、日本のタレント、カフェプロデューサーであり、女性アイドルグループ・NMB48の元メンバーである。香川県丸亀市出身。愛称は「れなぴ…

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今村 知可(いまむら ちか、1986年9月16日 - )は、群馬県出身のレースクイーン、モデル。 名古屋オートトレンド2015(Rowen Japan) ミニスカポリス東海テレビ アゲテンアシスタン…


高橋 千鶴子(たかはし ちづこ)
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高橋 千鶴子(たかはし ちづこ、1959年9月16日 - )は、日本の政治家。日本共産党所属の衆議院議員(7期)。 1959年、秋田県能代市に生まれる。父は寿司屋になるため修業中で家に不在で母は新聞…


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メル・ギブソン(Mel Gibson, 本名:Mel Colm-Cille Gerard Gibson, 1956年1月3日 - )は、アメリカ合衆国とオーストラリアの映画俳優、映画監督、脚本家、映画…

エマニュエル=ジノビリ(Emanuel Ginobili)
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マイケル・ジアッチーノ(Michael Giacchino; イタリア語発音: [dʒakˈkiːno] 発音例、1967年10月10日 - )はアメリカ合衆国の作曲家。アメリカ、ニュージャ…

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東 ノエル(ひがし ノエル、2005年12月22日 - )は、日本の女優、タレント。 ジャパン・ミュージックエンターテイメント所属。 特技はダンス。趣味はTikTok。小学6年生の時点では踊る事、…

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火将 ロシエル(かしょう ロシエル、1996年〈平成8年〉6月19日 - )は、日本の女性プロコスプレイヤー、グラビアアイドル、タレント、グラビア、DJ、モデル、埼玉県出身。ジャストプロ所属。所属事務…

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1983年6月28日生まれの有名人 愛知出身

安達 麗(あだち れい、1983年6月28日 - )は、愛知県出身の元レースクイーン・キャンペーンガール、タレント。 ネットアージュ→ア・ライズプロモーションを経て「REP」(レップ)に所属していた…


副島 美咲(そえじま みさき)
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副島 美咲(そえじま みさき、1993年10月19日 - )は、日本のタレント、モデル、グラビアアイドル。埼玉県出身。ミューズエンタープライズ所属。 小学5年生(2004年)の頃、叔母の勧めでオーデ…

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セーラ・ロウエル(SARAH VERA LOWELL、1960年12月30日 - 2011年6月28日)は、タレント・モデル。血液型・A型。婚姻後の本名は石井セーラ(誕生名はSARAH VERA LO…

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荒井 玲良(あらい れいら)
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結下 みちる(ゆいもと みちる、2月25日 - )は、日本の女性声優。旧名は結本ミチル。東京都出身。 幼い頃は、人前に出ることが苦手で引っ込み思案な性格で何かを喋るようなことを全然していなかったとい…

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小ガエル(こガエル、1978年1月8日 - )は、日本の漫画家。熊本県出身。既婚で一児の父。旧ペンネームは子ガエルだった。 『仔牛刑事モーモー』で第54回小学館新人コミック大賞児童部門佳作受賞。 ガ…

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エルジン=ベイラー
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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「エルジン=ベイラー」を素材として二次利用しています。

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