エルヴィン=ロンメルの情報(ErwinRommel) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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エルヴィン=ロンメルと同じ11月15日生まれの有名人・芸能人 エルヴィン=ロンメルと同じ出身地の人 |
エルヴィン=ロンメルの情報まとめ
エルヴィン=ロンメル(Erwin Rommel)さんの誕生日は1891年11月15日です。
病気、家族、父親、卒業、結婚、映画、テレビ、姉妹、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1944年に亡くなられているようです。
エルヴィン=ロンメルのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(ドイツ語: Erwin Johannes Eugen Rommel 発音、1891年11月15日 - 1944年10月14日)は、ドイツの陸軍軍人。最終階級は陸軍元帥。 第二次世界大戦のフランスや北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。特に、広大な砂漠に展開された北アフリカ戦線においては、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび翻弄し、「砂漠の狐」の異名で呼ばれる活躍を見せた。その活躍によって、敵対する側のイギリス首相チャーチルが、庶民院における演説で「偉大な将軍と申してよいかと思われます」と異例の賞賛を行うなど高く評価し、第二次世界大戦で戦った将軍の中ではもっとも著名で、世界中から賞賛された。 貴族(ユンカー)出身ではない、中産階級出身者初の陸軍元帥でもあり、その抜群の武功・戦功と人柄もあってドイツ総統アドルフ・ヒトラーから寵愛されたが、ヒトラーの本質を知るに及んで、ドイツを救うためにヒトラーに反旗を翻し、最終的には自決を強いられるという最期を遂げた(#最期で後述)。 1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論がほぼ定着しており、日本でもほぼ同様の評価が行われてきた。しかし、1970年代以降、欧米の軍事史家などによって軍人としての資質や能力について再度検証されるようになった。 エルヴィン・ロンメルは、1891年11月15日の日曜日の正午、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国のハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ(ドイツ語版)において生まれた。この町はウルム郊外の町である。 父エルヴィンは、ハイデンハイムの実科ギムナジウム(Realgymnasium)の数学教師であり(ロンメルは父の名前をそのまま与えられた)。また、祖父も教師だった。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり、地元ハイデンハイムでは、かなり尊敬されていた人物であった。 母ヘレーネは、ヴュルテンベルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である。 父母ともにプロテスタントだった。 兄にマンフレート、姉にヘレーネ、弟にカールとゲルハルトがいた。兄のマンフレートは幼いころに死去した。 父が若いころに砲兵隊にいたことを除いて、ロンメル家は軍隊とほとんど関係しておらず、軍部への有力な縁故もなかった。また、教養市民階級出身という彼の出自は、貴族主義的なドイツ陸軍において、決して有利であったとはいえない。 子供の頃のロンメルは、病気がちで大人しい少年だったという。姉ヘレーネによると、ロンメルは、色白で髪の色も薄かったので、家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていた。しかし、ロンメル本人は、人事記録の中に挟んだ覚書の中で、「幼い頃、自分の庭や大きな庭園で走り回って遊ぶことができたので、とても幸せだった」と述懐している。 1898年、父がアーレンの実科ギムナジウムの校長となったことで、一家はアーレンに引っ越したが、アーレンには小学校(Volksschule)がなかったため、ギムナジウムに入学するまでの間、ロンメルは家庭教師から授業を受けていた。そして、1900年には、父親が校長を務める実科ギムナジウムに入学した。当初、ギムナジウムでは劣等生であり、怠け者で注意散漫だったという。あるとき、勉学に不熱心だったロンメルに勉強させるため、教師が「書き取りテストで間違いしなければ、楽隊と一緒に遠足に出かけよう」と彼に言うと、ロンメルは、これを真に受けて必死に書き取りの勉強をして、テストで間違いをしなかったが、約束の遠足につれて行ってもらえなかったので、また勉強をしない生徒に戻ってしまったという。読書にも運動にも興味がない子供だったが、10代になると突然活発になった。数学の成績が良くなり、スポーツにも関心を持つようになった。また、飛行機の研究に夢中になり、14歳の頃には親友と二人で実物大のグライダーを作成した。結局、まともには飛ぶことはなかったが、ヨーロッパでは1906年に初めて動力を備えた飛行機が飛行したばかりであった。 ロンメルは、航空機関連のエンジニアになることを希望していたが、父親がそれに反対したため、ヴュルテンベルク王国軍に入隊することになった。父親がロンメルに軍人の道を薦めたのは別に愛国心によるものではなく、堅実な職業に就いてほしいという現実的な理由であった。また、ロンメルは運動好きなので軍隊であれば屋外で身体を動かす機会も増えて満足するだろうし、次第に現実に適応できる知性もつくのではないかという期待もあった。 ロンメルの任官のルートは、世紀の変わり目にドイツ陸軍の職業軍人の半分以上が辿った道であった。ドイツ軍はアメリカ軍や大日本帝国軍など多くの列強の軍隊のように、士官学校出身者を中心に構成されるシステムではなく、独特な「直接入隊」というプロセスを採用していた。これは、中等教育を修了している士官候補生が、まずは「少尉試験」に合格するのに加えて、希望する連隊に入隊して将校からの認可を受ける必要があった。将校として正式に任官する前に、各連隊にてその候補生の人種的、社会的、宗教的な問題を洗い出してふるいにかけることにより、軍内の問題の未然防止や、将校の質に一定の水準を維持する狙いもあった。また、プロイセン軍がかつてナポレオンに粉砕されるに至った軍の問題点を検証した際に、下級将校が下士官や兵卒によそよそしいという指摘があり、少尉候補生と下士官兵を一緒に軍務につかせて、一体感を醸成しようという目的もあった。 ロンメルは入隊する連隊としてまずは地元の砲兵連隊を望んだが、砲兵は人気兵種で既に希望者が幼少の頃から連隊と関係を構築しており、ロンメルが入り込む余地はなかった。次に工兵隊を希望したが、もともと連隊数が少なく砲兵隊以上に狭き門で断念せざるを得なかった。結局、もっとも連隊数が多く入隊が容易な歩兵に落ち着き、1910年7月19日にヴァインガルテン(ドイツ語版)に駐留するヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊「ケーニヒ(国王)・ヴィルヘルム1世」(ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊)(ドイツ語版)に下級士官候補生(Fahnenjunker)として入隊した。連隊将校から認可をもらうと、1911年3月にプロイセン王国ダンツィヒの王立士官学校に進んだ。士官学校在学中には、当時ダンツィヒに語学の勉強に来ていたルーシー・マリア・モーリン(Lucia Maria Mollin)と出会った。士官学校卒業後もルーシーと手紙で連絡を取り合い、二人は1916年に結婚した。 ただ、ロンメルはルーシーと知り合った同時期の1912年の夏に十代の針子の少女ヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)と知り合った。当時ロンメルもシュテマーも独身で、ルーシーと婚約をしていたわけではなく自由恋愛ではあったが、ロンメルは2人との二股交際を続けて、1913年12月8日には娘ゲルトルートが誕生しているが、当時のドイツ軍では私生児が誕生しても、その子供を経済的に援助すれば特に問題にはせず、またロンメルの上官もこのようなスキャンダルで優秀な部下を失うことを避けるために、ロンメルの味方をしてくれた。結局、ロンメルは“過ちを犯した紳士”のとるべき正しい手段としてゲルトルートに援助を続け、後に正妻となったルーシーにもその存在を打ち明けている。(詳細は#逸話で後述) 1912年1月27日に少尉に任官し、第124歩兵連隊に戻った。ロンメルは、新兵の訓練を担当した。この頃から、ロンメルは自分のカリスマ性を存分に発揮している。この頃のドイツ軍は歩兵と砲兵の連携を特に重視しており、下級将校たちは両兵科の部隊間を頻繁に交代勤務させられていた。人事交流によってお互いの不信感を払しょくさせる狙いもあったが、この交代勤務の候補者は各連隊の優秀な人材が選ばれることが多く、職業軍人としての出世コースでもあった。当然、優秀な将校であったロンメルもその対象となり、1914年3月に第124歩兵連隊と同じく第27歩兵師団の指揮下であるウルム駐留のヴュルテンベルク王国陸軍第3野戦砲兵連隊(ドイツ帝国陸軍第49野戦砲兵連隊)に転属となり、8月1日にはその第4中隊の小隊長となっていた。 1914年7月末から8月初めにかけて、第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は、1914年8月3日に開戦した。戦争が始まると、ロンメルは第124歩兵連隊に復帰した。第124歩兵連隊は第5軍に属し、名目上ヴィルヘルム皇太子が直卒していたが、実際の指揮はコンスタンティン・シュミット・フォン・クノーベルスドルフ(英語版)中将が行っていた。 ロンメルがはじめて実戦に参加したのは、8月22日午前5時頃、ベルギー南部のフランス国境付近の村ブレド(フランス語版)だった。この時のロンメルは、前日に一日中偵察をさせられるなど疲労困憊であり、また胃痛も発症しており、その激痛がロンメルを極限まで弱らせていた。 ロンメルの所属する第2大隊は視界50mの濃霧のなか、不眠不休で20時間かけてようやく目的地ブレド村の南方2kmにある325高地に到達した。高地の南東側にはフランス軍が陣地を構築しており、さかんにドイツ軍に向けて射撃してきた。時折フランス軍の銃弾はロンメルの頭上をかすめていき、ロンメルは戦友に「今生の別れになるかも知れないな」と話しかけて覚悟を決めた。やがて第1大隊も戦場に到達し、ロンメルの小隊は第1大隊の右側面に展開し、ブレド村の南東の境界に向けて前進を命じられた。ロンメルは軍馬を預けると小銃に銃剣を着剣して、小隊を散開体形でブレド村に向けて前進させた。ロンメルの小隊が畑に到達すると、至近距離からフランス軍に銃撃を浴びせられたが、ロンメルは臆することなく小隊を率いて発砲された方向に向かって突撃した。やがてフランス軍が射撃していたと思われる畑まで到達したが、既にフランス兵は退却しており、ロンメルはその足跡を追ってブレド村への進撃を命じた。 ロンメルの小隊はブレド村に達するまで、フランス軍から繰り返し射撃を受けたが、その都度ロンメルは突撃を命じ、フランス兵は大した抵抗もせず退却していった。しばらくすると霧の中から生垣や農家らしい建物が姿を現したので、ブレド村に到達したものと判断したロンメルは、次席指揮官の軍曹と砲兵隊の着弾観測兵の2人だけを連れて村内に進入し、そのまま村はずれまで前進した。そこで初めてフランス兵の姿を確認したが、15~20人のフランス兵は、全員がロンメルに気が付かず小銃を肩から吊るしたまま、コーヒーなどを飲んで談笑していた。ロンメルは絶好の攻撃機会と判断すると、たった4人でこのフランス兵の集団を攻撃、距離はわずか10mであり、ロンメルたちの射撃は次々と命中し、生き残ったフランス兵は応射することもなく逃走した。ロンメルら4人に損害はなく、たった4人で20人近くのフランス軍部隊を撃破してしまった。 ロンメルがブレド村で戦っている間に、第123擲弾兵連隊が325高地頂上に達していた。それを見たロンメルは、連隊より一足先にブレド村に通じる街道両側の林に潜むフランス軍を撃破するため、林に向けて突撃を敢行したが、その勢いに林やそれに隣接する玉葱畑に潜んでいたフランス兵約50人が投降してきた。その頃、丘の上にいた第123擲弾兵連隊も街道に到達していたが、今度はブレド村から北西1,500mの距離にあるル・マの森の方角から、フランス軍の銃弾が飛んできた。ロンメルは小隊に死角に身を隠すように命令をしたが、そのときに目の前が真っ暗となって気を失ってしまった。胃痛と不眠不休の進軍と戦闘の疲労によるものであったが、しばらくしてからロンメルが目を覚ますと、ドイツ軍部隊は急いで撤退しているところだった。小隊の兵士に話を聞くと、フランス軍の砲撃と森の中での戦闘で大損害を被ったということであった。戦闘が終わった後のブレド村は、兵士たちや巻き込まれた民間人、牛馬の死体があちこちに転がり、悲惨な状態であった。ロンメルの戦友も数人戦死し、彼はずいぶん落胆したという。 第一次世界大戦は早くも塹壕戦になりつつあったが、第124歩兵連隊はアルデンヌの森林地帯を進撃しており、塹壕戦では効果が薄いフランス軍の野砲が絶大な威力を発揮していた。そのため、前線指揮官には刻々と変わる状況を迅速に認識できる能力が求められたが、ロンメルは偽装や隠蔽を巧みに利用しながら、自分の小隊の攻撃や移動を臨機応変に行うことができた。そのうちにロンメルは小隊長としての名声を確立していた。9月初めには第2大隊の副官に抜擢され、他部隊への連絡将校の役割を果たしたり、偵察パトロール隊を率いたり、大隊の先頭中隊の攻撃に随行したりした。 9月中旬には第4軍の進撃は停滞しており、長雨によって未舗装の道路はぬかるんで、馬車の移動が困難となって前線への補給が滞り始めた。軍に飢餓が始まり、兵士は未加熱の食材や腐敗した食材を口にしたり、ついには拾い食いを始めてその結果消化器系の病人を大量に出していた。ロンメルも例外ではなく、兵士よりは多少はいい物を食べていたとはいえ絶え間のない胃の不調に悩まされていた。ときには昏睡状態になって丸一日意識が戻らないこともあった。それでもロンメルは連隊のなかでもトップクラスのタフな将校と見られていた。フランス軍は補給に苦しむ第124歩兵連隊に容赦なく砲撃を浴びせてきており、連隊長はこの状況を打破するため連隊にヴェルダンの敵拠点への夜襲を命じた。思い付きのような夜襲でろくに偵察もしていなかったが、奇襲的効果もあって夜襲は成功した。しかし、すぐにフランス軍の反撃にあって進撃は停止を余儀なくされたうえ、砲撃のいい的となり200人以上の死傷者を出してこれ以上の進撃はできなくなった。 9月22日から第124歩兵連隊は、モンブランヴィル(フランス語版)での戦闘に参加した。9月22日の戦闘では、大隊長副官ロンメルの補佐により第2大隊は大きな戦果をあげた。しかし、9月24日のヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ付近の戦闘で、銃剣術に覚えのあったロンメルは、フランス兵3名に弾の入っていない銃剣を装着した小銃で立ち向かおうとし、片足の上腿部を撃ち抜かれて負傷した。木の後ろに隠れたロンメルは、部下たちに救助されて簡易な野戦病院へと運ばれた。さらに、翌朝にはストゥネ(フランス語版)の将校野戦病院へ移送された。入院中の9月30日に二級鉄十字章の受章を受けた。 1915年1月13日に第124歩兵連隊に復帰した。この頃から、ドイツ軍もフランス軍も、自分から攻撃するより相手が攻撃してきたところを返り討ちにする方が打撃を与えやすいと判断して、大規模な攻撃には出なくなった。そのため、西部戦線は、塹壕戦による消耗戦の様相を呈していた。第124歩兵連隊もアルゴンヌ森の西部で塹壕戦を展開していた。ロンメルは折り紙付きの英雄として復帰し第2大隊隷下の第9中隊長に任じられたが、入院している間に戦闘の様子は機動戦から塹壕戦に様変わりしており、ロンメルは塹壕戦に適応できるようになるまで2週間を要した。 2週間後の1月29日にロンメルは、自分の中隊を率いて匍匐前進しながらフランス軍の築いた有刺鉄線の鉄条網を隙間を通り抜けて進み、フランス軍主陣地に突入し、掩蔽部4か所を占領した。取り戻そうと襲撃してきたフランス軍の反撃を一度は退けたが、結局、新しい攻撃を受けるのを避けるため、自軍の陣地に後退するのを余儀なくされた。しかし、ロンメルは、その後退を12人足らずの損害で達成した。ロンメルは、この際の勇戦ぶりを評価されて、1915年3月22日に一級鉄十字章を授与された。第124歩兵連隊の中尉・少尉階級の者の中では、初めての受章だった。この勲章は普通ならロンメルのような下級将校が受章できるものではなく、ロンメルは第124歩兵連隊で伝説的な軍人となっていた。 ロンメルは春の間ずっと第124歩兵連隊にとどまったが、その間に塹壕はさらに伸び続け、陣地帯はより複雑になっていた。そんな頃に新兵の訓練のため連隊本部に残されていた数名のロンメルより先任の将校が最前線に復帰することとなり、第9中隊長も先任の将校に任されることとなった。連隊長はロンメルに気遣って他の連隊への転属を勧めたが、ロンメルはそれを断って、これまで苦楽を共にした戦友と戦いたいといって、自ら中隊長から小隊長への降格を申し出た。その後も最前線で戦い続けたが、7月にロンメルは向こう脛に砲弾の破片を受け、二度目の負傷をした。 1915年9月に中尉に昇進するとともに、新たに編成される「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」(Württembergischen Gebirgsbataillon)への転属を命じられた。10月4日付けで正式に「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」へ転属。同大隊の中隊長となった。これまでドイツ帝国のいずれの領邦も本格的な山岳部隊は持っておらず、急遽ドイツ帝国南部に位置するバイエルン王国とヴュルテンベルク王国が山岳兵部隊を編成することになったが、山岳部隊という部隊名であっても、山岳戦を専門とする部隊ではなく、ライフル、軽機関銃、迫撃砲を装備した各部隊を同一山岳部隊で運用しようという目的で、強力な攻撃力を有する精鋭部隊という位置づけであり、勇敢な将校や兵士が集められた。 ヴュルテンベルク山岳兵大隊は、同盟国のオーストリア=ハンガリー帝国のアルプス山脈でスキー訓練など受けた後、1915年12月31日にヴォージュ山脈方面の戦線に送られたが、この戦線は両軍が休みなく激しい消耗戦を繰り返していた西部戦線には珍しく、両軍の主陣地が9kmも離れて対峙していた珍しい戦線であり、ロンメルは主にパトロールの任務をこなしながら時折フランス軍陣地に対する襲撃を行った。この状況は10ヶ月間も続いたが、編成間もない「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」にとっては部隊の団結を深め、技術の伝達を行ういい機会となった。 1916年10月末、山岳兵大隊はルーマニア戦線に転戦した。同大隊は11月11日にレスルイ山の戦闘でロンメルは早くも戦功をあげた。ロンメルは大隊の1部を陣地正面から攻撃させてルーマニア兵の注意を正面に引き付けている間に、2個中隊を率いて陣地側面に迂回して、一気に突撃して守備隊を撃破した。この攻撃でロンメルが失った兵士はたったの1人であり、1916年時点でこの規模の戦闘でこれほど犠牲が少なかったのは前代未聞であった。 この後、ロンメルは短期休暇をうまく利用し、1916年11月27日にダンツィヒにおいてルーシーと結婚式をあげた。式は戦時中でもあって簡素なものであったが、短期間のハネムーンだけはどうにか行くことができた。ロンメルはこの後、ルーシーから届く手紙が心の拠り所となった。戦線に復帰したロンメルはまた目を見張るような戦績を残した。1917年1月7日にロンメルは第2中隊と機関銃小隊を率いて、ルーマニア軍が要塞化していたガジェシュチ(ルーマニア語版)村を攻撃したが、先遣部隊が発見されずにうまく要塞に接近できたので、ロンメルはこのチャンスを活かすべく、後方から機関銃で支援射撃を行っている間に小隊規模の先遣隊が大きな音をたてながらガジェシュチ村に突撃した。ルーマニア軍守備隊は大隊規模のドイツ軍が攻撃してきたと誤認し、360人もいたのにもかかわらず100人規模しか率いていなかったロンメルに投降した。ロンメルは1人の負傷者を出すこともなく3倍の敵を撃破して拠点を攻略するという大戦果を挙げた。 1917年1月中旬に山岳兵大隊は、ルーマニア戦線からヒルツェン丘陵へ戻り、フランス軍と戦った。しかし、7月末には再びルーマニア戦線に送られた。コスナ山に強固な要塞を作っていたルーマニア軍と激闘になった。8月10日には弾丸が左腕を貫通するという三度目の負傷をしたが、彼は構わず戦闘に参加し続けた。傷口を放置したせいで高熱に浮かされ、ついには動けなくなったが、それでも前線に留まり仰向けになりながら指揮を執り続けた。しかし、周期的に意識が混濁するようになったので、その夜に山を下りて軍医の治療を受けた。山岳兵大隊はロンメル離脱後も5日間踏ん張ったが、全兵力の1/3にあたる500人が死傷して撤退を余儀なくされた。ロンメルも療養休暇を与えられ、バルト海沿岸で妻女と落ち合い、数週間の休暇を経て万全の状態で戦線に復帰した。 ヴュルテンベルク山岳兵大隊は1917年9月26日に北部イタリア戦線に動員された。ロンメルは1917年10月上旬にイタリアで戦う山岳兵大隊に復帰したが、ここで、従来のライフルと軽機関銃に加えて山砲も指揮下に入りより攻撃力が増すこととなった。 イタリア戦線はこれまでのフランスとは全く異なっており、高くそびえる山に底知れぬほど深い谷、危険極まりない断崖絶壁など行動の困難な地形を背景とする戦場であった。ドイツ第14軍司令官オットー・フォン・ベロウは戦略的要衝であるマタイユール山(イタリア語版)やTemplate:コロヴラト山脈の攻略を目指していたが、数万のイタリア兵が地形を巧みに利用して構築した要塞に立て籠っており、その攻略は困難を要した。既にカポレットの戦いで何度も攻撃をしてきたが、その攻略は進んでおらず、この陣地を攻略することは大変な名誉になると考えた各部隊の指揮官の競争が凄まじいことになっていた。 10月23日にドイツ軍7個師団、オーストリア軍5個師団と同予備5個師団からなる第14軍は位置についた。ロンメルはライフル中隊2個、機関銃中隊1個を先導して進撃し、入念な偵察でイタリア軍陣地に通じている補給路を発見し、雨の降る中でイタリア軍が陣地としていた地下壕を急襲して攻略すると、17門の火砲と大量の食糧を鹵獲した。奪取した食料で空腹を満たしたロンメルは、コロヴラト山脈の陣地に向かって進撃を続け、夜間に敵陣地に偵察を行い、配備の隙間を発見してそこを通過してモンテ・クク山を強襲した。突然ロンメルの部隊が背後に現れたことにイタリア軍はパニックとなり、総崩れ状態となった。部下に無茶な進軍をさせて前進を阻まれていたフェルディナント・シェルナー少尉率いるバイエルン軍部隊がその隙に1114高地を占領し、シェルナーがプール・ル・メリット勲章を受章した。ロンメルはこれについて論功行賞のあり方が公正ではないと憤慨していた。 ロンメルは続いてマタイユール山の攻略を狙い、上官からバイエルン連隊に付随せずに右翼から単独で攻撃をかける許可をもらい、50時間にも及ぶ行軍と戦闘の末に10月26日朝にマタイユール山を攻略した。イタリア兵が異常に無気力だったこともあって、500人のロンメルの部隊は、5人の戦死者と20人の負傷者を出しただけで9,000人のイタリア兵を捕虜としていた。ところがマタイユール山と間違えて別の山を占領したヴァルター・シュニーバー中尉が「マタイユール山を占領した」と第14軍司令部に報告していたため、ベロウ将軍はカイザー・ヴィルヘルム2世にシュニーバー中尉を推挙し、結果彼がマタイユール山占領の功績でプール・ル・メリット勲章を受章することになった。ロンメルはこれに激怒して正式に上官に抗議したが、決定は覆せないと認められなかったという。 しかしまだイタリアとの戦争は続いており、チャンスはあった。ロンメルは退却するイタリア軍の追撃戦で活躍し、ロンガローネのイタリア軍基地への攻撃において勇戦し、やはり無気力なイタリア兵を8000名も捕虜にした。この結果、1917年12月13日にヴィルヘルム2世はついにロンメルにたいしてプール・ル・メリット勲章の受章を認めた。受章理由にはマタイユール山奪取とロンガローネの戦いの勇戦、どちらもあげられていた。しかしロンメルはマタイユール山奪取の功績でプール・ル・メリット勲章を手に入れたと主張していた。 その後1918年2月に西部戦線へ転戦したが、まもなく幹部候補の一人として第64軍団司令部に参謀として配属されることとなった。以降一次大戦中は敗戦まで前線に戻る事はなかった。1918年10月18日に大尉に昇進した。 1918年11月初めにキールの水兵の反乱を機にドイツ全土に反乱が広がり(ドイツ革命)、カイザー・ヴィルヘルム2世は11月10日にオランダへ亡命、翌11日にはドイツ社会民主党の主導する新ドイツ共和国政府がパリのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定の調印を行った。第一次世界大戦はここに終結した。 ロンメルは、1918年12月21日に古巣の第124歩兵連隊に再配属された。1919年3月にはフリードリヒスハーフェンの第32国内保安中隊の指揮官に就任。この部隊には革命派の兵士が多く、彼らは上官ロンメルの命令を平気で無視し、プール・ル・メリット勲章にもまるで敬意を払おうとしなかったというが、ロンメルの人格によってまとめ上げられ、部隊は規律を回復したという。 敗戦国ドイツへの責任追及は過酷を極めた。1919年6月28日にドイツと連合国の間に締結されたヴェルサイユ条約によって天文学的賠償金が課せられた。また国境付近のドイツ領土は次々と周辺国に奪われ、ドイツ領土は大きく縮小した。軍については陸軍兵力を小国並みの10万人(将校4000人)に限定され、戦車、潜水艦、軍用航空機など近代兵器の保有を全て禁止された。1919年7月31日にはヴァイマルで開かれた国会でヴァイマル憲法が採択され、ドイツは民主国家となった。所謂「ヴァイマル共和国」の時代が始まった。 ちなみに将校4000人という制限は、動員解除以後も陸軍に残って恒久的な階級を希望しているドイツ帝国将校6人のうち1人だけがヴァイマル共和国陸軍に残れるという狭き門となった。そしてロンメルはその狭き門を突破しヴァイマル共和国陸軍将校に選び残された者の1人となった。 この後、ロンメルは9年ほどシュトゥットガルトの第13歩兵連隊に所属し、1924年からは同連隊の機関銃中隊長となった。この間、特筆すべきことはほとんどないが、1928年12月に長男のマンフレートが生まれている。彼は戦後シュトゥットガルトの市長を長年務めている。 1929年10月1日にドレスデン歩兵学校の教官に任じられた。多くの実戦経験を持つロンメルの講義は生徒たちに人気があったという。 1933年1月30日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された。ロンメルはこれまで政治にはほとんど関わらなかったが、他の多くの軍人達と同様にヒトラーの登場には熱狂し、彼の反共主義と再軍備の政策を歓迎した。 1933年10月10日に少佐に昇進するとともにゴスラーに駐屯する第17歩兵連隊の第3大隊長に任じられた。1934年9月30日に収穫祭のためにヒトラーがゴスラーを訪問した。この時にロンメルの大隊はヒトラーを出迎える儀仗兵の任につき、ロンメルとヒトラーが初めて対面することとなった。もっともこの時にロンメルが公的な関係以上に何か特別に扱われたという形跡はない。またロンメルがヒトラーについてどう感じたかを示す証拠もない。ただこの閲兵式の直前にロンメルは、警護問題をめぐってSSと揉めたとされ、「閲兵式においても警護のためSS部隊が最前列になるべきである」と主張したSS隊員にロンメルは激怒し、「ならば私の大隊は閲兵式には出席しない」と応酬して騒ぎになり、ヒトラーに随伴していた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから直接に「部下の非礼を詫びたい」と謝罪を受けたという。 1935年3月1日に中佐に昇進した。1935年10月15日に新設されたポツダム歩兵学校の教官に任じられた。この学校でもロンメルは非常に好感をもたれる教官であったという。 1936年9月のニュルンベルク党大会で総統護衛大隊(Führer-Begleit-Bataillon、FHQ)の指揮官に任じられた。この時にロンメルは「私の後続の車は6台に限定せよ」という総統命令を厳守し、ヒトラーに随伴しようと押し寄せてくる党幹部らの車を押し止めた。この件でヒトラーはロンメルに注目するようになったという。 しかしヒトラーがロンメルを決定的に評価するようになったのは、1937年初期にロンメルがフォッゲンライター出版社から『歩兵攻撃(Infanterie greift an)ISBN 978-1-85367-707-6』を出版したことだった。これはロンメルが教官として行った講義をまとめた物であり、ロンメルの一次大戦での経験が分かりやすい文章と挿絵付きで書かれていた。この本は50万部を売り切るベストセラーとなり、各方面からの高評価を受け、当時、歩兵だったヒトラーも自身の経験に照らし合わせてこの本を激賞した。なおロンメルはこの本の印税に関してフォッゲンライター出版社と結託して脱税をした。ロンメルは『歩兵攻撃』によって巨額の印税を得ていたが、この際にロンメルはフォッゲンライター出版社と結託して、1年間の生活に必要な1万5000ライヒスマルクだけを自分に支払わせ、残りは銀行預金にして寝かせ、税務署への所得申告において軍から支給されている給料以外の所得を1万5000ライヒスマルクと偽って申告した。 1937年2月にロンメルはナチ党の青年組織であるヒトラー・ユーゲントに国防省連絡将校として派遣された。ロンメルは国防軍の下級将校の指導による軍事教練をユーゲント団員に施すことを企図し、全国青少年指導者バルドゥール・フォン・シーラッハとの折衝にあたったが、ユーゲントの指導権を軍に奪われることを恐れるシーラッハはこれに反対し続けた。ロンメルとシーラッハの関係は悪くなる一方で二人は劇場での席次など些細なことでも争う様になった。しかしこの両者の争いは結果的に国防軍のナチ化を長期的に後押しした。ロンメルは新兵が入隊の誓約を済ませればすぐに軍の訓練を行わせるべきと主張したため、ナチスはロンメルの主張に従って新兵の訓練が迅速に行われるようにし、そのことにより若者への自由裁量権を手に入れることができた。 ヒトラーにとってロンメルは役に立つ軍人となっており、シーラッハとの衝突にもかかわらず、1938年9月にズデーテン併合にあたってヒトラーはロンメルを再び総統護衛大隊長に任じ、自らの護衛を任せた。この頃にはロンメルは完全なヒトラー支持者になっており、次第にヒトラー讃美がエスカレートしていった。妻への手紙には「(ヒトラーは)ドイツ国民を太陽の下へ導きあげるべく、神、あるいは天の摂理によって定められている」と書き、友人への個人的な手紙には文末に「ハイル・ヒトラー、敬具、E・ロンメル」と記す程になっていた。ヒトラーにとってもロンメルはお気に入りの将校だった。ロンメルは貴族階級出身の将校ではなく、そうした貴族将校たち特有の平民出のヒトラーを見下したような態度がなかったこともヒトラーの好感につながったと思われる。 1938年11月10日にはウィーン郊外のヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長に任じられた。ロンメルはこの学校をドイツ、そしてヨーロッパでもっとも近代化された士官学校にしようと張り切っていたが、ヒトラーの警護隊長にしばしば任じられたため、彼はあまりこの学校に訪れなかった。 1939年3月15日にチェコスロバキア併合があると、ヒトラーは再びロンメルを総統護衛大隊の指揮官に任じて、自分の警護にあたらせた。チェコはオーストリアやズデーテンと違い、親ドイツ系が少ないため、ヒトラーが出向いても反発を招き暗殺される恐れがあった。ヒトラーがロンメルに「大佐、貴官が私の立場なら、どうするかね?」と聞くと、ロンメルは「オープンカーに搭乗し、重武装の護衛無しでプラハ城まで乗り込み、ドイツのチェコスロバキア統治が始まったことを内外に向けて示します」と答えた。ヒトラーは、他の者たちの反対を押し切って、ロンメルの意見を容れ、ロンメルたちを護衛に付けたのみで無事にプラハ城に乗り込んでいる。続く3月23日のメーメル返還でヒトラーがメーメルへ向かった時にもロンメルは総統護衛大隊長を務めた。 1939年8月1日に少将に昇進した。6月1日に遡及しての昇進である事を認められた。これはロンメルを寵愛するヒトラーの特別な決定によるものである。ロンメルは妻への手紙で「私が聞き知ったところによると先の昇進はひとえに総統のおかげだ。私がどれほど喜んでいるか、お前にも分かるだろう。私の行動とふるまいを総統に承認していただく事が私の最高の望みなのだ。」と書いている。ヒトラーの寵愛は続いた。1939年8月22日を以ってヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長職を辞し、8月25日にヒトラーの身辺警護を行う「総統大本営管理部長」に任じられた。 1939年9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻、続く英仏のドイツへの宣戦布告をもって第二次世界大戦が開戦した。ロンメルは熱狂をもって戦争を迎えた。妻に「君は9月1日のこと、つまりヒトラーの(ポーランドとの開戦を発表する国会での)演説をどう思うかな?我々がこのような人物を持っている事は実にすばらしいではないか。」と書き送っている。彼は一次大戦の敗戦でポーランドに奪われたポーランド回廊と国連の管理下に置かれたダンツィヒをドイツの手に取り戻す必要性を感じていた。 総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、総統専用列車「アメリカ」に乗って前線視察に出たヒトラーに同伴してポーランドへ向かった。ヒトラーはポーランド戦中、3週間も前線視察に出ていた。なおヒトラーがポーランドの港町グディニャを訪れた際にロンメルはマルティン・ボルマンと揉めたという。総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、ヒトラー一行のグディニャ視察の際に急勾配で幅が狭い街路に通りかかると「総統の車と警護の車一車両のみが下るものとする!他はここで待て!」と指示した。しかし総統の側近であるマルティン・ボルマンはヒトラーと切り離されることに激怒し、ロンメルに抗議を行ったが、ロンメルは「私は総統大本営管理部長だ。これは遠足じゃない。貴方も私の指示に従っていただく!」と応酬してボルマンの車の通過を阻止したという。ボルマンはこの事を根に持ち、5年後にロンメルに復讐することになる。 1939年10月5日にワルシャワでヒトラー出席のドイツ軍の戦勝祝賀式典が行われることになったが、ロンメルもヒトラーに同席した。戦勝祝賀式典を撮影した映像にはヒトラーの隣に立つロンメルの姿が残されている。ロンメルは常にヒトラーに随行しており、昼食や夕食ではヒトラーの傍らに着席することも多かった。ヒトラーのビザンティン式宮中会議の儀礼では、食事の席次が重視されていたことから、ロンメルに対するヒトラーの寵愛は明らかであり、そんな様子を見た古くからの側近はロンメルに嫉妬心を募らせた。 ヒトラーもロンメルもポーランドを落とせばイギリスとフランスは講和を申し出てくると思っていた(実際にイギリスとフランスは宣戦布告を行っただけでポーランド戦中、ドイツに攻撃が行われる様子はほとんどなかった)。しかしイギリスとフランスは、ポーランドが陥落してもドイツの呼びかけに歩み寄る姿勢は全く見せなかった。軍部は軍事力の上で圧倒的に勝っている英仏と戦火を交えることを嫌がっていたが、ヒトラーはこうした反対を退けフランス侵攻を決意した。 ポーランド戦後、ベルリンで退屈な日々を送ることになっていたロンメルは、来るフランス戦では前線勤務を求め志願した。陸軍人事部長は一次大戦での彼の経験に基づき山岳師団師団長をロンメルに提示したが、ロンメルはヒトラーに装甲師団の指揮を取りたいと求めた。陸軍人事部長は歩兵科のロンメルに装甲師団を任せることに反対していたが、ヒトラーの介入で許可された。 こうして1940年2月15日にロンメルは新編成された第7装甲師団の師団長に任命されることとなった。ちなみにフランス戦においてはドイツ軍136個師団のうち装甲師団は10個師団しかなく、さらに第7装甲師団は騎兵部隊から再編された4個の軽師団のなかの一つであった。配備されていた戦車は、I号戦車(機関銃のみ)34両、II号戦車(2センチ砲)68両、III号指揮戦車(火砲の代わりに指揮用の大型無線機が付いた車両)8両、IV号戦車(短砲身7.5センチ砲)24両、ドイツがチェコを併合した後に獲得したチェコスロバキア製の38(t)戦車(3.7センチ砲)91両である。師団の多数を占める38(t)戦車は装甲が薄いが、重量は9トン足らずであったので速度が速く、対フランス戦のような機動戦に非常に向いていた、また、信頼性のある頑丈な作りで、当時としては強力な37㎜砲のŠkoda A7 37.2mm L/47.8(英語版)を装備しており、対戦車能力も高かった。師団は3個大隊で編成される戦車連隊1、2個大隊からなる自動車化歩兵連隊2、自動二輪大隊、自動二輪と装甲車の偵察大隊で構成されており、この師団編成はのちに他国の装甲師団の手本にもなっている。 積極的な歩兵攻撃論者だったロンメルだったが、彼は驚くべき早さで戦車の運用知識を身に付けてゆき、2月27日にベルリンへ飛び、ヒトラーに師団長就任の報告をした。ヒトラーより「楽しい思い出と共にロンメル将軍に贈る」と書き添えた『我が闘争』を贈られた。 参謀本部はヒトラーにフランス侵攻作戦案を提出したが、一次大戦のシュリーフェン・プランと大差ないことからヒトラーが却下し、紆余曲折の末、A軍集団参謀長エーリヒ・フォン・マンシュタイン中将の立案による「マンシュタイン・プラン」が採択された。これは装甲師団を中央のA軍集団に集中させ、ベルギー南部のアルデンヌの森(この森は道がないため、戦車の機動は困難と考えられており、フランス軍はここを手薄にして「アルデンヌの間隙」を作っていた)を突破し、英仏海峡まで一気に進軍させ、ベルギー・北フランスに展開する連合国主力を孤立させるというものだった。 ロンメルの第7装甲師団は、A軍集団(司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)隷下の第4軍(司令官ギュンター・フォン・クルーゲ上級大将)隷下の第15装甲軍団(軍団長ヘルマン・ホト大将)の隷下となった。同じ第15装甲軍団隷下に第5装甲師団があった。 第7装甲師団の任務は先頭に立ってアルデンヌの森を通過し、エヴァルト・フォン・クライスト大将率いる「クライスト装甲集団」(5個装甲師団から成る)を北の連合国主力の攻撃から守り、イギリス海峡までの西進を邪魔されないようにすることにあった。しかしロンメルは自分の師団もイギリス海峡まで一気に進軍させようと思っていた。 1940年5月9日午後1時45分にフランス侵攻作戦「黄色作戦(Fall Gelb)」の暗号「ドルトムント」がロンメルに伝達された。これを受けてロンメルの第7装甲師団は同日午後11時40分に所定の位置に付いた。 戦局はドイツ軍に不利と思われた。ドイツ軍の戦車は2800両だったが、対する連合軍の戦車は4000両だった。戦車の装甲や火力も連合軍が勝っていた。ただ戦車の速度においてのみドイツ軍が勝っていた。そして西方電撃戦では速さが一番重要だった。ロンメルの第7装甲師団は特に素早く進軍し、しばしば師団の主力が師団の先頭に置き去りにされた。ロンメルの搭乗する戦車は常に師団の先頭に立って前進した。常に最前線で指揮を執るロンメルは、のちにクルト・ヘッセ大佐に対して「この戦争では指揮官の位置は第一線だ。私は椅子に腰かけている連中が出す戦略など信じない。今はザイトリッツやツィーテンの時代と同じだ。我々は戦車をかつての騎兵とおなじように考えねばならない。かつて将軍たちが馬上で命令を下したように、今は移動する戦車の上で命令を下さねばならない。」と語っている。この後ロンメルの第7装甲師団は、その進軍スピードの速さから「いつの間にか防衛線をすり抜けている」という意味で「幽霊師団(英:Ghost Division、仏:Division Fantôme、独:Gespensterdivision)」と連合国から呼ばれて恐れられるようになる。 ドイツ本国ではロンメルの師団は「全ドイツ軍師団のうち、最も西にいる師団」として評判だった。必要とあれば航空機に乗って後続の砲兵部隊や自動車化歩兵部隊の下に駆けつけて指示を与えたり、叱咤激励をした。部下の将兵たちの間で「不死身のロンメル」伝説が広まり、絶大な信頼を寄せられた。 1940年5月10日午前4時35分にロンメルの第7装甲師団は国境を超えてベルギー領へ侵攻を開始した。ロンメルに与えられた任務は、ルントシュテットの主攻撃の右側面について、アルデンヌの森林を走破してディナンでムーズ川を渡河しベルギー領内深くまで侵入するというものであった。アルデンヌのベルギー側は山あり谷ありの起伏にとんだ地形ながら道路は殆ど整備されておらず、小径に入り込もうものならそのまま迷ってしまいそうであった。アルデンヌでは連合軍兵士が数か月にも渡って、バリケードを築き、橋を爆破し、幹線道路には大きな穴を空けて通行を困難にし、森林に入れば鉄条網が張り巡らされ、大木が切り倒されてそのままバリケード替わりに放置されていた。 しかし、肝心の兵力については、ベルギー軍の主力は主要都市のある平野部に集中しており、アルデンヌの広大な森林地帯は「アルデンヌ特別警備隊(もしくはアルデンヌ猟兵部隊)」に任されていた。しかし、その兵力に対して守る範囲は広大で、兵士はこれらの防御網のごく一部にしか配置されておらず、ドイツ軍の進撃に殆ど抵抗ができなかった。また連合軍兵士が精魂込めて制作した各種障害物も迂回して突破された。5月11日にモン・ル・バンの西方でロンメルは初めてフランス軍と接触した。フランス軍は第4騎兵師団の一部で、自動車化部隊と乗馬部隊が混在し数輌の戦車も同行していた。ロンメルは第一次世界大戦のイタリア戦線で用いた戦術を機械化部隊に応用し、偵察部隊にフランス軍部隊を監視させている間に、戦車隊や自動車化部隊をフランス軍部隊の射程内まで移動させておき、偵察部隊からフランス軍が移動する気配があるとの報告を受けると一斉射撃を浴びせた。フランス軍は猛射撃に怯んであっさりと退却していった。 この後も、第7装甲師団は時折、敵軍と接触したが、ロンメルは「敵に頭を上げさせるな」「敵の間を縫って進み、通り抜けろ」「残敵を一掃しろ」と命令し続け、教科書通りの電撃戦を展開し3日間で96kmも進撃した。第7装甲師団の活躍を見ていたホトは「成功には勢いをつける」というドイツ軍の伝統に倣って、第5装甲師団の前衛部隊を一時的にロンメルの指揮下においてムーズ川目指して突進するよう命じた。このままロンメルは戦力的には勝っていた「アルデンヌ猟兵部隊」の抵抗を撃破しながらアルデンヌの森林地帯を踏破して行った。 5月10日から5月12日の3日間で第7装甲師団はアルデンヌの森を横断し、5月12日の夜遅くに一次大戦の頃にも悩まされた天然の要塞ムーズ川に面した町ディナンに到達した。ロンメルはできれば撤退するフランス軍第1・第4軽騎兵師団の後に続いて一気に橋を渡りたかったが、ちょうど第7装甲師団が川に到着した頃にディナンにかかっていた橋が爆破されたため、ゴムボートと舟橋を使っての渡河作戦を実施せざるを得なくなった。 ロンメルが渡河点に到着したときには沿岸からのフランス軍の砲撃で第7装甲師団は痛めつけられており、撃破された戦車が多数見え、渡河しようともがくゴムボートも次々に沈められていた。ロンメルは川端に建つ民家に火を放って川面に煙幕を張らせて、フランス軍の渡河妨害の効果を減殺しようとした。それでも刻一刻とフランス軍の砲撃は激しさを増し、目の前を息も絶え絶えなドイツ兵を乗せたゴムボートが漂流していたが、ロンメルはどうすることも出来ず見送るしかなかった。ロンメルは、戦力の逐次投入は無駄だと悟ると、使用可能な戦車や砲をかき集めて弾薬が尽きるまで対岸に集中砲火を加えるように命じた。その砲撃支援の下にディナンとその少し北方のレフェ(フランス語版)で渡河作戦を再開させた。 ロンメルは第7小銃連隊の第2大隊を指揮して、自らも同大隊の最初のゴムボートでムーズ川西岸に渡り、先行していた部隊と合流したが、その直後にフランス軍戦車が攻撃してきた。渡河した部隊は対戦車兵器を全く持たず、手元には小銃と軽機関銃しかなかったが、ロンメルは慌てることなく小火器でフランス軍戦車に集中銃撃を浴びせ、ほとんどの銃弾は装甲に跳ね返されたものの、火花と銃弾の破片が戦車の銃眼から車内に飛び込んで、フランス軍戦車は撤退していった。戦車を撃退したロンメルは、一旦東岸に戻ると、工兵が浮き橋設置に取り掛かっていたので、自らも川に飛び込んで腰の高さまでの水の中で作業を手伝った。そして最初の浮き橋ができるやいなや砲火に晒されながら、指揮車に乗り込んで浮き橋の上を西岸に向けて進んでいった。 ムース川西岸には対戦車砲20門も渡河しており、先行の歩兵部隊は進撃してグランジェ村を占領していたが、強力なフランス軍部隊の反撃を受けて戦況は極めて不利で、大隊長は負傷しており、フランス軍戦車も第一線を突破してドイツ軍の渡河点を攻撃してくる恐れがあった。そこでロンメルは再び東岸に引き返すと、まずは戦車を西岸に渡す作業の指揮に注力した。幸いなことに日が暮れてからフランス軍戦車が突進してくることはなく、ロンメルは激しい砲火の中で陣頭指揮を執り続けたが、第7装甲師団の兵士たちは、その姿に感銘を受け、まるでロンメルには絶対に弾が当たらないように見えたという。こうして、第7装甲師団は多くの死傷者を出しながらも5月13日中にはレフェに架橋することに成功し、戦車のムーズ川渡河を成功させた。 5月14日早朝、ロンメルはすでに渡河していた30両の戦車だけを率いてディナンの西約5キロのオナイユ(フランス語版)へ進撃を開始した。これによりフランス軍が対応を決定するより早く部隊を浸透させることに成功した。 ところがオナイユ近くでロンメルの搭乗するIII号指揮戦車が対戦車砲を食らって坂から転がり落ちた。ロンメルは何とか脱出したが、顔を負傷した。フランス植民地から連れてこられた有色人兵士たちが、ロンメルを捕虜にしようと接近してきたが、隷下のカール・ローテンブルク(英語版)大佐率いる第25戦車連隊がこれを蹴散らしてロンメルを救出した。ロンメルは自分の戦車がやられたのは移動しながら攻撃をしなかったためだと考え、改めて師団の各戦車に「敵と遭遇しても停止せずに砲弾を撃ちながら強行突破せよ」と命じた。転倒したIII号指揮戦車は動かなくなったため、ロンメルはローテンブルク大佐の搭乗するIV号戦車に同乗するようになった。 フランス軍第9軍(フランス語版)司令官アンドレ・ジョルジュ・コラー中将はロンメルの第7装甲師団のこのオナイユへの進軍とハインツ・グデーリアンの装甲軍団のスダンでの渡河成功を恐れ、ムーズ川の防衛線を放棄してさらに西へ退却する事を命じた。 ロンメル率いる第25戦車連隊の進撃で大混乱し総崩れの危機にあった第11軍団を機支援するため、フランス軍第1機甲師団が派遣された。両軍は14日中には早くも接触して戦闘に突入したが、第1機甲師団の主力戦車は重戦車ルノーB1でドイツ軍の戦車を武装や装甲の厚さで上回っていた。しかしフランス第1機甲師団は大量の避難民をかき分けて進撃してきたため、常に低速ギアで走行し燃料を大量に消費したため、燃料タンクが殆ど空になり、戦車兵は疲労困憊していた。また、戦車兵の訓練度にも大きな差があり、ドイツ軍のII号戦車や38(t)戦車は、装甲の厚いルノーB1の通気口やキャタピラやサスペンションなどを正確に砲撃し次々と撃破していった。また、ようやく到着した燃料トラックに対してはIV号戦車が榴弾で攻撃して、フランス軍戦車への燃料補給を許さなかった。やがてフランス軍戦車指揮官は勝ち目のないことを悟り、残った35輌の戦車はロンメルに降参した。 ロンメルは戦場に到着した後続の第5装甲師団に第1機甲師団の料理を任すと、時速40kmもの高速で西方に向かって進撃を再開した。この後、フランス軍第1機甲師団は撤退をはかったが、退路をドイツ軍に断たれてさらに28輌の戦車を撃破されて壊滅状態に陥った。第1機甲師団の犠牲にもかかわらず、フランス第11軍団は大混乱して潰走しており、後に「クリスチャン・ブルノー(フランス語版)の第1機甲師団は、フランス軍の総くずれをふせぐために犠牲に供せられたようなものだ。しかも総くずれをふせぐことができなかったのだから、これは、全くの犬死であった」とも評された。師団長のブルノーもドイツ軍の捕虜となった。 アルデンヌの森林地帯をようやく抜けてのどかな田園地帯に出た第7装甲師団はフランス国境に向けて順調に進撃していた。ロンメルが知ることはなかったが、この頃に連合軍は総崩れの様相を呈しており、5月15日にはオランダが降伏、16日にはベルギーから全連合軍部隊がフランス国内に撤退を開始していた。5月16日未明に第15軍団長ヘルマン・ホト大将より一旦停止の命令を受けたロンメルであったが、朝9:30にはマジノ線を突破せよとの命令が下った。ロンメルは第25戦車師団に国境を越えてクレーファイツの占領を命じると、これまでと同様に自ら連隊長の指揮戦車に同乗して進撃を開始した。たちまち国境を突破してフランスに侵入し、クレーファイツから1.5kmまで迫った。 その30分後、フランスの国境要塞地帯マジノ線延長部分と遭遇した。これはマジノ線そのものではなく、フランスが防衛線を西方にも延長しようとしてマジノ線から分離して作った物である。ただロンメルを含めてドイツ軍側は区別せず、まとめて「マジノ線」と呼んでいた。しかし、延長部も本マジノ線と同様にトーチカと砲台と有刺鉄線と地雷原で固く守られており、ロンメルはこれまでの電撃的な進撃とは打って変わり時間をかけた正攻法を展開した。まずは第7装甲師団全火砲が支援砲撃を開始し、その支援砲撃下で第25戦車連隊は散開体制で前進、標的になるトーチカや陣地を砲撃で制圧すると、工兵が火炎放射器と爆薬でトーチカや陣地を破壊し、歩兵が機関銃座や対戦車砲座を掃討していった。この地道で綿密な相互支援による前進では進撃速度は低下したが、無用な損害は避けられた。これはロンメルの戦術的便宜主義に基づくもので、この臨機応変さはのちの北アフリカ戦線で大いに発揮されることとなった。 激戦はヨーロッパの長い夕暮れまで続いたが、ロンメルは日没までになるまでにマジノ線を突破しようと考え、これまでの慎重な作戦から一転してリスクを冒しても戦車での突破を決断した。ロンメルが危険な賭けに出たのは、まだかろうじて戦車が進撃できる明るさがあったことに加えて、夜間にフランス軍の増援が到着して要塞線が強化される懸念もあったからであった。ロンメルは連隊長に「兵士を放て、フランス軍陣地と思われる場所はすべて攻撃せよ。それから曳光弾の使い惜しみはするな」と命じた。ドイツ軍のII号戦車の主砲は2 cm KwK 30 L/55機関砲であり、対戦車線では威力不足であったが、曳光弾での一斉射撃は敵兵士を恐れさせることができた。ロンメルは砲兵に激しい砲火を撃たせてマジノ線延長部分の各所に煙幕を張り、フランス軍を攪乱している間に工兵の火炎放射器や爆薬でトーチカを破壊し、火に照らされる明るい隙間となったその部分に戦車が砲撃しながら強引に前進した。そしてロンメルは、ソール・ル・シャトー(フランス語版)、サール・ポトリ(フランス語版)、スムージー(フランス語版)を一気に通過してマジノ線延長部分の突破に成功した。 ロンメルの師団の進撃は急であり、師団内の部隊でも進撃速度が遅い部隊は先頭に追い付けず、長い縦隊となっていた。フランス兵や避難民はロンメル率いる第25戦車連隊が近づくと慌てて道路から待避して側溝に飛び込んだが、ロンメルはそのフランス兵らを捕虜にすることもなく先を急いだ。ロンメルはフランス国内を進撃しながら「思えば22年前、我々は今度と同じ敵を相手に4年半もの長い間戦い、戦うごとに戦闘には勝ちながら、ついには戦争に負けたのだ」「そして今、我々は有名なマジノ線を突破し、敵中深く突進中である。美しい夢というだけではなかった。現実だったのだ」などと感慨にふけっている。 ロンメルはさらにフランス北部の街ランドルシー(英語版)目指して連隊を進撃させたが、アヴェーヌ(英語版)に通じる道に出たところで、フランス軍の砲撃で撃破された数百台のドイツ軍車両を発見した。アヴェーヌにはフランス第1機甲師団の生き残った戦車16輌が入り込んでおり、第25戦車連隊にも砲撃を浴びせてきた。ロンメルはアヴェーヌへの攻撃を命じたが、ここではフランス軍戦車は敢闘し、攻撃したⅣ号戦車数輌が逆に撃破されてしまった。やがて、両軍の激戦に巻き込まれたアヴェーヌの街は炎に包まれた。フランス軍戦車は殆ど一晩に渡ってアヴェーヌで持ち堪えたが、13輌を失って午前4:00には生き残った3輌が撤退していった。第25戦車連隊も激戦で戦車砲弾を使い果たしてしまい、最後は車載機銃だけで戦っている状況であった。こうして第7装甲師団はマジノ線延長部分を突破しフランス国内に侵入したが、ここまでの戦闘で被った損害は戦死者35名、負傷者59名だけだった。それに対して戦果は、フランス兵捕虜約1万人、戦車約100両、装甲車30両、大砲20門の鹵獲という大きなものであった。 ロンメルがフランス奥深くに進んでいるころ、5月16日にはA軍集団司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将は、先頭に立って進軍する装甲師団が突出しすぎており、このままでは先行した装甲師団が個別に包囲されて殲滅されると危惧していた。そこで装甲師団の進軍停止をヒトラーに上申、ヒトラーもそれに同意し、5月17日の総統命令で装甲師団の進軍停止を命じていた。しかし、ロンメルは軍団司令部との連絡が取れておらず、マジノ線突破後に何度も後方の師団参謀を通じて何度も軍団司令部に前進の許可を求めていたが、明確な指示はなかった。ロンメルも敵の奥深く入り過ぎていた上、弾薬の備蓄も心もとなく一旦は停止して態勢を整えるべきと考えていたが、フランス軍が総崩れしている今がチャンスであり、引き続き翌日には進撃を再開することを決断した。その後にホトがロンメルの元を訪ねて2日間の休息を命じたが、既に前進を決意していたロンメルは、そんな時間を与えたら、フランス軍に狙いを定められてしまうし、今や第7装甲師団の進撃はドイツ国民の関心事で、従軍記者も注目しており、ホトに、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツやハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテンのように一瞬の好機を活かすべきと熱弁し、進撃を続行した。 このヒトラーの進撃停止命令に対しては、ドイツ第19装甲軍団(英語版)司令官ハインツ・グデーリアン大将も激しく反発し、第1装甲軍司令官のエヴァルト・フォン・クライスト元帥に「機甲師団は前進を続けるべき」と抗議していた。クライストはやむなく24時間の進撃継続を許可し、グデーリアンはさらに65km進撃した。グデーリアンを追ってゲオルク=ハンス・ラインハルト大将率いるドイツ第41装甲軍団(英語版)も進撃しており、このヒトラーの進撃停止命令は必ずしも徹底されていなかった。 アヴェーヌを突破した第25戦車連隊は、ついで5月17日午前6時にはサンブル川沿いのランドルシー(フランス語版)に到着、さらに午前6時30分にはル・カトー東部の高地へ進軍した。途中避難民と西へ撤退するフランス兵で道が大混雑していた。フランス兵の大半はロンメルの師団が横を通過しても抵抗することはなく、おとなしく捕虜となった。ロンメルは捕虜にしたフランス兵に対しては武装解除だけして自分で東の捕虜収容所に向かうよう指示した。 進軍中ロンメルは、第7装甲師団の全部隊が後ろから続いていると思っていたが、ロンメルはじめ師団の先鋒がル・カトー東部の高地に到着した時、師団の主力はまだベルギーにいた。師団主力はロンメル初め師団先頭部隊と連絡が取れなくなっており、師団参謀オットー・ハイドケンパー少佐がロンメル少将もローテンブルク大佐も戦死したとみなしたためだった。ロンメルは後に手紙の中で「私はできる限り早く奴を追い出してやる。この若い少佐参謀は第一線から32キロも後方にいながら自分と参謀本部要員が危険な目に合うのではと恐れていた」と激怒している。ロンメルの手元にいたのは二個装甲大隊とオートバイ狙撃兵数個小隊だけだった。これらの部隊はすでに弾薬や燃料を使い果たしていた。軍司令部から「アヴェーヌで進軍を停止せよ」との命令が届いたこともあり(すでにアヴェーヌを超えてル・カトー東部にいたが)、ロンメルはやむなくル・カトー東部でしばらく停止することにした。 ル・カトーのフランス軍から攻撃を受けたが、ローテンブルク大佐に防衛を任せて、ロンメルは装甲車に搭乗して後続の部隊を誘導するために一度アヴェーヌまで戻った。午後4時頃にアヴェーヌで第7装甲師団の主力と合流し、さらにフランス軍から40両のトラックを鹵獲した。 翌5月18日昼に前線のローテンブルク大佐たちと合流した。補給と修理を済ませて午後3時に進軍が再開された。抵抗を受けることなくカンブレーを占領したが、ここで再び進軍停止を命じられた。西方へ向けて進撃するハインツ・グデーリアンとゲオルク=ハンス・ラインハルトの装甲軍団の側面を歩兵部隊の到着まで右翼のホト第15装甲軍団(ロンメルの師団はこの隷下)がベルギー・北フランスの連合国主力の攻撃から守ることになったのである。ロンメルの師団はこの時間を補給と兵の休息に利用した。 ヒトラーの進撃停止命令は、上述のとおり前線指揮官からの反対が相次ぎ、ヒトラーは権力掌握以来初めて一致団結した軍人からの反発にあった。参謀本部総長フランツ・ハルダー上級大将も上官の陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥に攻撃再開命令を出すように説得し、5月19日にはヒトラーに謁見して直接上申した。ハルダーはヒトラーが危惧しているような装甲師団の危険はないと説得し、癇癪持ちのヒトラーは自分に反発するハルダーに激怒し金切り声で罵ったが、最後には渋々進撃停止命令を解除した。 ヒトラーの命令解除で、グデーリアンとラインハルトの装甲軍団以外の装甲部隊も西方進撃を再開することになり、第7装甲師団も5月20日にアラスへの攻撃を開始した。しかし先陣の装甲部隊と後続の歩兵部隊の間にフランス軍が介入したため、まずその対処にあたらねばならなかった。同日にグデーリアンの装甲軍団が英仏海峡に面するアブヴィルに到達し、ベルギー・北フランスにいる連合国主力を孤立させることに成功した。イギリス海外派遣軍司令官第6代ゴート子爵ジョン・ヴェレカー大将はこの封鎖の突破を図るため、5月21日午後にロンメルの師団や武装親衛隊の髑髏師団が展開するアラス方面に攻勢をかけさせた。 この時、第7装甲師団は髑髏師団と共にアラス南西を北へ旋回して進軍していたところだったため、イギリス軍に右側面をつかれる形となった。イギリス軍の戦力の中で最も厄介だったのはマチルダII歩兵戦車だった。マチルダの重装甲はロンメルの師団の3.7センチ対戦車砲をことごとく弾き返し、野砲の砲弾さえもはね返した。マチルダに蹂躙された第7装甲師団兵士は、師団司令部に「アラス方面から強力な敵戦車の攻撃。救援頼む。助けてくれ」という切実な救援要請を行った。指揮戦車に乗って戦場に急行したロンメルは、砲兵からの「この距離では効果がない」という反論を無視して師団砲兵隊に野砲での砲撃を命じたが、マチルダはまったく意に介せず前進を続けた。このマチルダの攻撃にあともう少しの砲兵支援と歩兵の連携攻撃が加わっていれば、ロンメルはより深刻な事態に陥っていたが、幸いにもその事態に陥ることはなかった。ロンメルは88ミリ高射砲を対戦車砲として使用することでマチルダに対抗した。88ミリ高射砲はスペイン内戦時に初めて実戦に投入されたが、その弾速の速さと正確性は地上援護兵器としても優秀なことが実証されており、対戦車砲や野砲を跳ね返していたマチルダの重装甲をまるでゆで卵の殻のように容易に打ち砕いた。またロンメルはドイツ空軍にも支援を要請、急降下爆撃機シュトゥーカが飛来して急降下爆撃でマチルダを攻撃し、イギリス軍はようやく攻勢を諦めて撤退していった。 しかしこの戦いで師団はかなりの損害を受けた。人的損失は戦死89人、負傷110人、行方不明173人にものぼり、ロンメルの副官モスト中尉もこの戦いで戦死した。戦車の損失も甚大で、IV号戦車3両、38(t)戦車6両、を含む20輌もの戦車を完全に失ったが、これは師団保有の戦車の10%にも及んだ。 第7装甲師団が大損害を被ったとは言え、戦い全体から見れば小規模で局地的なものであったが、後に両軍にとって極めて重大な影響をもたらした。ドイツ軍首脳部は機械化部隊の急速な進撃に歩兵が付いてこれないため、機械化部隊が先行しすぎて側面から攻撃され分断包囲されることを懸念していたが、このアラスの戦いでその懸念が現実となったことにより、ドイツ軍首脳部は、これからのフランスにとどめを刺す大作戦を前に、戦車兵力を大切にしなければならないと考えていた。そしてこの“戦車温存”方針については、ルントシュテットからヒトラーに進言され、その結果、ヒトラーが特にこの懸念を強くして慎重になっており、後に連合軍に“ダンケルクの奇跡”をもたらせることになった。 5月22日と5月23日にアラス西郊を迂回してベテューヌまで前進し、同地のイギリス軍をその先にある運河線の向こうまで後退させた。5月24日までには、ヒトラーは作戦計画が完全に遂行されていると考えて満足しており、総統司令部から「総統命令第13号」を下し、装甲師団に進撃停止を命じ、フランドルに追い詰めていた連合軍部隊は「歩兵と空軍とで始末せよ」と命じた。この命令の実際の意図をヒトラーはクライストに対して「ダンケルクからイギリス軍に逃げられて、好機を逸するかも知れないが、ドイツ軍の戦車がフランドルの森のなかにはまりこむのは、とても我慢できない」と話している。この様にヒトラーが戦車を温存しようという考えに至った原因の一つはアラスでのロンメルの苦戦であった。 ヒトラーはすでにベルギー・北フランスの連合国主力に対する包囲は完成していたので、来る南フランスへの進撃に備えて装甲師団を温存した方がいいという判断であったと思われる。またドイツ空軍司令官ヘルマン・ゲーリングに花を持たせる判断もあったかもしれない。いずれにしてもこの装甲師団停止命令によってロンメルの師団は5月26日まで停止してダンケルクの包囲の一翼を担った。その間の5月24日からの2日間で連合軍はダンケルクを防衛する配備を整え、5月26日の段階ではすでにダンケルクの撤退を阻止することは不可能となっていた。ヒトラーにとって誤算であったのは、連合軍兵士多数が撤退のために待機していた海岸の砂浜ではドイツ空軍による爆撃の効果が減殺されたことであった。やわらかい砂地では爆弾の爆発の衝撃が吸収されてしまい、あまり効果がなかった。また、イギリス空軍は多数の戦闘機隊をイギリス海峡を超えて送り込んでおり、ドイツ空軍爆撃機に大きな損害を被らせていた。 イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、連合軍兵士をダンケルクから大ブリテン島・ドーヴァーへ撤退させるダイナモ作戦を命じた。860隻もの軍艦から民間小型船まで船舶をかき集めて連合軍兵士をピストン輸送するといった前代未聞の大撤退作戦となったが、ドイツ軍の装甲師団はヒトラーの命令により進撃を止められており、みすみす連合軍の撤退を見逃すことになったグデーリアンは、5月15日以来の華々しい進撃が、突然、精彩を欠く幕切れに終わったことを悔しがった。それでもドイツ軍は激しい空爆や砲撃を浴びせ、連合軍に大きな損害を与えたが、イギリス空軍戦闘機の援護と、橋頭保を守るフランス第1軍団の奮闘で、撤退は順調に進んで行った。ダイナモ作戦は5月26日から6月3日にかけて続けられ、連合軍兵士338,000人を無事にイギリス本土に撤退させた。この中にはフランス軍兵士26,175人も含まれていた。橋頭保で最後まで友軍の撤退を援護し続けた数千人のフランス軍兵士は、狭まるドイツ軍包囲網の前に投降を余儀なくされたが、撤退に成功した連合軍兵士はこの後イギリス本土を固めて、ドイツ軍のイギリス本土侵攻の「アシカ作戦」に対抗し、さらには連合軍部隊再建の礎となって後の勝利に大きく貢献することになった。 ロンメルはこの停止期間中、師団の受けた損害の回復や補給にあたった。5月26日にヒトラーの意向でロンメルは騎士鉄十字章を受章した。ロンメルは対フランス戦で最初に騎士鉄十字章を授与された師団長となった。同日にはヒトラーが進軍停止命令を解除したので、連合国主力の包囲の一翼を担うため第7装甲師団はリールへ向けて北進するよう命じられた。進軍停止命令が解除されると第7装甲師団はキャンシー(フランス語版)から運河を渡河し、激しい抵抗を退けながらリールとその西方エンヌティエール(フランス語版)間の道路を抑えることに成功した。これにより海の方へ向かう退路を断ち、フランス第一軍の半分近くの将兵を補足することに寄与した。その後歩兵師団が到着し、リールを占領した。 5月29日にロンメルの師団はアラス西方に戻って休息に入るよう命じられた。ロンメルは6月2日にシャルルヴィレに召集され、ヒトラーと面会した。召集されたのは軍司令官や軍団長ばかりであり、師団長クラスで召集されたのはロンメルだけだった。ヒトラーはロンメルに「君が攻撃している間、君が無事かどうかずっと心配だったよ」と述べている。 この日、ヒトラーは召集した将軍たちに6月5日に攻撃を再開してフランスに止めを刺すことを通達した。 6月4日にダンケルクの撤退が完了し、ベルギー・北フランスの連合軍は消えたのでドイツ軍にとって後は南へ向けて進軍するのみとなった。なおベルギー軍は国王レオポルド3世の決定により5月28日に降伏して武装解除を受けていた(ただベルギー政府は降伏を拒否し、国王大権剥奪決議を行っている)。 6月5日朝に敵が爆破し損ねた橋を渡ってソンム川を渡河した。川の渡河を妨害する敵砲兵隊の陣地を慎重に落としていき、同地に配備されていた大量のフランス植民地兵を捕虜にした。 ソンム川を突破した後、ロンメルは彼が「フレーヒェンマルシュ(広域進撃)」と名付けた陣形で前進した。これは全師団を幅1.5キロ、長さ20キロに及ぶ箱形陣形にし、正面と両脇に装甲大隊を置き、後方に装甲大隊と偵察大隊を置き、中央には歩兵連隊を置くという陣形である。この陣形は外側にいる装甲大隊がいつでも全兵種の支援を受けられるため攻撃を受けた時に反撃しやすい利点があった。欠点は進軍スピードが落ちることだが、ソンム川南方・西方のようにゆるやかな起伏が続く平坦な地形においてはそちらの方が有効であった。 ロンメルの師団は順調に快進撃を続け、6月7日には48キロ以上進軍し、アミアンから海岸に至る地域を防衛していたフランス第10軍を分断した。6月8日にはさらに72キロも進撃した。 7日の午後遅くには急速に進撃する第7装甲師団は英仏海峡方向に逃れようとする避難民や軍の後方部隊を追い越してしまい、居住者が逃げようと荷造りしている農場を次々と占拠して行った。大量の鹵獲物資も手に入れ、テュロワで捕虜にしたイギリス軍のトラックからはテニスのラケットやゴルフクラブまで出てきたのでロンメルは「イギリス軍はこの戦争がまさかこんな結果になるとは思ってもいなかったのだな」と言って笑ったという。 6月8日真夜中にルーアン南方のセーヌ川に到達した。セーヌ川への到達は全ドイツ軍でロンメルの師団が一番乗りだった。エルブフ(フランス語版)の橋から一気にセーヌ川を渡河しようとしたが、フランス軍がひと足早くセーヌ川にかかる全ての橋を爆破したために失敗した。ロンメルの師団は突出しすぎており、背後にはまだ敵が残っている都市がたくさんあった。またルーアン上空に観測用気球があげられたため、ロンメルの師団はエルブフ付近の川がくねって半島のようになっている地域から一時撤退することにした。 セーヌ川渡河に失敗した直後、ロンメルの師団は国防軍最高司令部よりイギリス海峡に面する港町サン・バレリー(フランス語版)を占領してイギリス軍第51歩兵師団「ハイランド」(英語版)が大ブリテン島に撤収するのを阻止する任務を与えられた。 進路を変えて北上し、イヴト(フランス語版)を通過して6月10日にはイギリス海峡に到達した。ロンメルの師団がイギリス海峡に到達したのはこれが初めてだったので兵士たちは感動した様子で海水に足をいれて歩き回って楽しんだ。ローテンブルク大佐は搭乗する戦車を海水に乗り入れたという。ロンメルも軍靴を海岸の海水に付けてしばし余韻に浸った。 6月11日にサン・バレリーに接近して同市を包囲した。同市では英仏軍が大ブリテン島へ撤収するための船舶を待っていた。ロンメルは無駄な流血を避けるため、ドイツ語を話せる捕虜を使者に立てて同市の守備隊に21時までに降伏すべきことを勧告した。守備隊のうちフランス軍将校は降伏したがっていたが、イギリス軍将校は降伏に反対する者が多く、結局この勧告を拒否することになった。やむなくロンメルは21時から同市の北部や港に集中砲火を浴びせた。さらにドイツ空軍の急降下爆撃機が激しい爆撃を行った。 連合軍兵は次々と投降し、ついにイギリス軍将校たちも抵抗を諦めた。ロンメルの師団は将官12人と1万2000人(他の師団の捕虜も含めるとサン・バレリーの捕虜数は4万6000人)の捕虜を獲得した。その中にはイギリス軍ハイランド師団長ヴィクター・フォーチューン(英語版)少将とフランス軍の軍団長と3個師団の師団長たちが含まれていた。フォーチューン少将はロンメルのような若造に捕虜にされてしまったことに屈辱を感じていたようで露骨に態度でそれを示した。フランス軍の将軍たちはもう少し好意的だった。彼らはロンメルに「お若いの、君はあまりに速すぎました」「私たちは貴方たちの事を幽霊師団と呼んでいたんですよ」などと声をかけたという。 ロンメルの師団はイギリス海峡沿いにさらに西進して6月14日にはル・アーブルを占領した。同市のフランス軍はすぐにも降伏している。ちなみに同日には「無防備都市宣言」をしていたパリがドイツ軍第218歩兵師団によって無血占領されている。 ヒトラーからシェルブール占領の命令を受けたロンメルの師団は6月16日にルーアンにドイツ軍が架橋した橋を通過してセーヌ川を超えて進軍を開始した。一方同日にフランス大統領アルベール・ルブランはフィリップ・ペタン元帥をフランス首相に任命し、ペタンは中立国スペインを通じてヒトラーに休戦要請を行っている。 これを聞いたロンメルはフランス軍の戦意はもはやガタ落ちであろうからほとんど抵抗もあるまいと考え、「フレーヒェンマルシュ」陣形を解除して再び全速力で進軍できる縦列の陣形に戻した。予想通り、抵抗はほとんどなかったため、ロンメルの師団は6月16日には160キロ、6月17日には320キロ以上も駆け抜けた。戦車がこれだけの走行に耐えたことが不思議なぐらいの前代未聞の大進軍であった。 フレール(フランス語版)、クータンスを経て、そこから北上して6月17日真夜中にはラ・アイユ=デュ=ピュイ(フランス語版)に到着。しかしそこからシェルブールへ向かおうとした時に道路要塞から激しい砲火を浴びた。長距離の進軍に師団は疲れ切っていたので、ロンメルは砲兵や戦車の支援も無しに夜間に無理な進軍を行うのは止めた方がいいと判断し、ラ・アイユ=デュ=ピュイへ後退した。6月18日朝から要塞への攻撃を開始し、午前8時頃には早々に敵を後退させてシェルブールへの進撃を再開した。 6月18日午後1時頃にはシェルブール南西4.8キロほどのところのシェルブールを防衛する道路要塞から激しい砲撃を受けたが、午後5時頃にはシェルブール西のケルクヴィル(フランス語版)南部の高地を占領し、歩兵連隊と二個装甲中隊がシェルブール郊外に突入した。その日の夜のうちに師団の砲兵連隊が到着したので、翌6月19日朝にシェルブール要塞や海軍ドックに砲撃を加え、要塞の中で最も厄介だった中央要塞を沈黙させた。歩兵部隊は更に郊外深くに侵入した。 激しい砲撃に耐えかねたシェルブールのフランス軍はついに午後5時に降伏した。シェルブールの3万のフランス将兵を捕虜にした。シェルブール戦終了を以って西方電撃戦におけるロンメルの師団の戦闘は終わった。 ヒトラーは一次大戦におけるドイツの雪辱を果たすため、ドイツとフランスの休戦交渉の場を、一次大戦でドイツが屈辱的な休戦協定に調印させられた場所であるコンピエーニュの森の列車(この列車はフランスの一次大戦戦勝記念としてパリに飾られていた。ドイツ軍パリ占領後にドイツに鹵獲された)の中とした。6月21日からここで独仏の休戦交渉が開始された。ドイツ側の過酷な要求にフランス側が調印を渋り、その日はまとまらなかったが、翌6月22日にドイツ側から「調印しないならば戦争続行」と脅迫されたため、フランス側はついに要求を受諾して独仏休戦協定を締結した。 6月25日にフランス全軍に戦闘中止命令が出された。ロンメルがマジノ線を突破してからわずか40日程度で、フランスは敗北したのである。戦闘中止命令が出されたとき、ドイツ軍はフランスの領土の半分以上を占領していた。6月25日は国家の哀悼の日と布告されて、ボルドーの聖アンドレ大聖堂(英語版)に政府および外交関係者が集り、厳粛な礼拝式が行われたが、フランス第4機甲師団長(英語版)としてドイツ軍を最後まで苦しめたシャルル・ド・ゴールは、亡命先のロンドンからフランス国民に向けてラジオ放送で「我々は、戦闘で敗れはしたが、戦争に負けたわけではないのだ!」と抵抗を呼び掛けた。 西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団の戦果は、捕虜9万7000人の他、鹵獲兵器として戦車・装甲車458両、各種砲277門、対戦車砲64門、トラック4000両から5000両、乗用車1500両から2000両、馬車1500両から2000両、バス300両から400両、オートバイ300台から400台がある。また敵航空機を52機撃墜し、うち12機を地上で鹵獲している。師団の進軍スピードが速すぎたため、正確に数えられていないが、鹵獲兵器についてはこの数字よりもっと多かったといわれる。一方で西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団が出した損害は、死傷者2,238人(うち戦死682人)行方不明296人、戦車42両の喪失であった。 ロンメルの評価は賛否両論だった。西方電撃戦中、ロンメルは何度も命令を無視して独断行動を取った。それらはすべて成功したとはいえ、上官たちからは当然不興を買っていた。また、同僚の多くも、時代の寵児となったロンメルに対して嫉妬心から親しみを寄せることはなかった。参謀本部総長フランツ・ハルダー上級大将はロンメルを「命令無視ばかりの気が狂った将軍」と酷評した。また第4軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲ上級大将は「ロンメルは自分の勝利に他の者が寄与していることを認めたがらない」と批判している。ロンメルは著書の中で彼の師団の左側から進軍した第32歩兵師団(ドイツ語版)を実際よりずっと進軍が遅かったかのように書いたり、またドイツ空軍の功績にほとんど触れていなかったり、確かにそうした面が多々見られた。 そのような中でもロンメルの上官であった第15軍団長ヘルマン・ホト大将は冷静に分析しており「機甲師団に新たな道を開いた。特に前線に立とうという意欲とテンポの速い戦闘でも決定的なポイントを察知する彼の天性の素質は称賛に値する」と、ロンメルが「敵側が抵抗できない侮辱的な敗北に直面させる」といった電撃戦の本質を体現したと評していたが、その一方でロンメルが軍団長になるには「もっとたくさんの経験と、より優れた判断力が必要だ」と注文を付けた。 1940年夏を通じてロンメルの師団は来る(と思われていた)イギリス本土上陸作戦に備えた訓練にあたっていた。ロンメルは勤務時間外にはフランスの地主と狩猟に出かけ、それ以外の時間は農家に置いてあった司令部でこれまでの自分の戦史を執筆していた。ロンメルは知人に「私が退役したならば、私はこれらすべてのもの(執筆中の戦史)の整理に没頭することになるだろう。私は「歩兵は攻撃する」の続編を書くのだ」と話していた。 ロンメルの活躍はナチスにとって自らを飾る伝説の源となっており、様々なプロパガンダでその伝説を盛り上げようとした。その一環として、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスから映画『西方における勝利』の撮影に協力してほしいと要請された。ロンメルは承諾して1940年8月中に数日を費やしてこの撮影に参加した。その際にロンメルは事実上の映画監督となり、部下やフランス植民地黒人兵たち(捕虜収容所から連れて来られた)に演技指導をしていた。ずいぶん楽しかったらしく、こだわりの演技指導をしていた。ロンメルの戦車部隊が敵陣に突入するシーンの撮影で、ロンメルは黒人たちに両手をあげて怯えた表情で戦車に向かってくるよう指示したが、黒人たちはオーバーな演技をして白目をむいて悲鳴をあげた。これに不満を感じたロンメルはカメラを止めさせ、通訳を通して黒人たちに「感情を表現するにはもっと微妙な表現方法を取らなければならない」などと説教していたという。 1941年1月1日には中将に昇進、2月には映画『西方における勝利』が公開され、この映画の公開によりロンメルは銀幕のスターになった。 イタリアは19世紀末から地中海の覇者を目指していたが、その要所となる島や町、アフリカの領土などはすべて英仏に奪われた過去があった。イタリア統領ベニート・ムッソリーニはイギリスが本土防衛で手いっぱいな今こそ、エジプト王国(名目上独立国だったが、事実上イギリスの軍事支配下にあった)をイギリスから奪うチャンスと見た。 1940年9月12日にイタリア領リビアのキレナイカ地方からロドルフォ・グラツィアーニ元帥率いるイタリア軍がエジプトへ侵攻した。ヒトラーはドイツ軍一個機甲師団を応援に送ると申し出たが、ムッソリーニはこれを拒否した。ムッソリーニは「ドイツには頼らない。これはドイツのための戦いではない。ドイツと肩を並べるイタリアのための戦いだ」と豪語した。さらにムッソリーニは軍部の反対を押し切り、ドイツにも独断で10月28日にアルバニア(1939年にイタリアが占領しイタリア王がアルバニア王に即位して同君連合を結んでいた)からギリシャに侵攻を開始した。しかし侵攻に動員されたアルバニア駐留軍では兵力が不足していることから本国で召集して急編成された部隊の錬度は低く、また険しい山岳地帯の多いギリシャの地形を考慮した準備も十分になされていないなど、侵攻計画は杜撰なものであり、ゲリラ戦法を採るギリシャ軍の前に進軍は遅々として進まなかった。さらに、イタリア軍部隊の兵力不足から編成したアルバニア人部隊の質は劣悪であり、侵攻部隊は不足する兵力を割いてアルバニア軍の監督や不良部隊の武装解除にまで当たらなければならず、侵攻は頓挫することになる。こうして侵攻から半月後の11月15日にはギリシャ軍が全戦線で攻勢に転じ、12月4日には逆にギリシャ軍がアルバニア領へ侵攻を開始した。ムッソリーニは、セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ将軍を罷免し、軍の増派を決定するが、その後数ヶ月に渡って泥沼の山岳戦を継続する結果を招き、その間に本来得られた増援戦力を得られなかったエジプト侵攻軍は壊滅することになる。 エジプトの英軍は、イタリアのギリシャ侵攻までは守勢に立っていたが、ギリシャに増援を送ってイタリア軍をギリシャ戦に釘付けにするとともに、12月9日には「コンパス作戦」を発動し、大英帝国植民地から集めた部隊を含む3個師団(9万人)でもってイタリア軍3個軍団(25万人)を壊滅に近い状態に追いやった。この結果、イタリア領であったリビアにまで英軍の侵攻を許すことになり、ついにはキレナイカ地方全域が英軍に占領されてしまった。ムッソリーニは地中海沿岸に独自の支配権を確立することに執着しており、北アフリカに加えて、バルカン半島にも侵攻していたが、どちらもダンケルクやバトル・オブ・ブリテンなどで余裕のなかったイギリス軍のわずかな部隊に手ひどく撃退されることになった。バルカン半島については、ヒトラーが支援を申し出ていたのに対して、ムッソリーニはそれを断っていた。ヒトラーを始めとして、ドイツの上層部はこの同盟国に対していかなる幻想も抱いていなかったが、ファシスト体制崩壊にも繋がりかねない威信の低下を見逃すことはできず、やむなく北アフリカとバルカン半島でのイタリア支援を決定した。 ヒトラーはイタリアの身勝手さや無能ぶりに呆れながらも、イタリアを支援することを決めた。ヒトラーは「北アフリカの喪失は軍事的には耐えられるが、イタリアに強い精神的影響を及ぼす。イギリスはイタリアに拳銃を突きつけて講和を結ばせることも、単に空爆することも可能となる。我々に不利なのはこの点である」と述べているが、ヒトラーは、イタリア軍の侵攻をわずかな戦力で撃退し、結果的に地中海沿岸を制圧しつつあるイギリス軍を見て、自分の世界帝国支配の足掛かりとしては、地中海を通ることがもっとも安上がりではないかという考えに惹かれていた。これは、ドイツ帝国海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥が提唱していた戦略でもあった。また、地中海沿岸のイギリス支配権を破壊することにより、イギリスに講和を検討させる間接アプローチになるという判断もあったとされる。1940年12月13日にヒトラーはギリシャのイタリア軍を救出するための「マリータ作戦」を発令し、ついで1941年1月11日には地中海のイタリア軍支援のための「ゾネンブルーメ作戦(ひまわり作戦)」を発動した。 イタリアの救援が決定したときには、リビアの重要拠点トリポリにイギリス軍が迫りつつあった。ドイツ軍は「阻止師団」(師団長ハンス・フォン・フンク(ドイツ語版)少将、のちに「第5軽師団」に再編成される)を派遣した。1月25日フンクは送られた戦力ではリビアの事態を収拾することは困難という報告を行った。ヒトラーはこの報告に基づき装甲師団1個師団の増派を決めたが、同時にその指揮官としてはフンクは悲観的すぎで不適格と考えて更迭を決め、後任の人選を始めた。装甲部隊の経験が豊かな師団長や軍司令官は、バルバロッサ作戦に投入しようと計画しており、候補者は限られていた。その中で、この冒険的な任務に相応しい将官として当初はエーリッヒ・フォン・マンシュタイン歩兵大将の名前も挙がったが、過酷な気候条件の下でもっとも重要だとヒトラーが考えている兵士の士気を奮い立たせる能力に長けていたロンメルに白羽の矢が立った。 ロンメルは遅いクリスマス休暇の代休を消化しており、ヴィーナー・ノイシュタットの私邸で寛いでいたが、休暇の2日目の夜に総統大本営から連絡があり、休暇を中止し2月6日に総統大本営に出頭するよう命じられた。ロンメルはそこで陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥から、同盟国イタリアが危険な状況にあり、その支援のためドイツ軍2個師団を率いて可及的速やかにリビアに赴くよう命じられた。午後からはヒトラーの謁見を受け、ヒトラーからは北アフリカ戦線の詳しい戦況の説明と、ロンメルを全く状況の異なるアフリカの戦場で最も迅速に適応できる人物だと評価し、軍司令官に抜擢したという説明もあった。このロンメルの部隊は、2月25日付けで「ドイツ・アフリカ軍団」(Deutsches Afrikakorps、略称:DAK)という戦史に名を残す名前に改名された アフリカ軍団は第5軽師団(のちに第21装甲師団(ドイツ語版)に改組)と第15装甲師団(ドイツ語版)の2個師団から成る。両師団とも戦車の数は150台程度にすぎない。あとはイタリア軍から一部の部隊の指揮を任されているというだけだった。後の戦果が信じられぬほどアフリカ軍団は貧弱な戦力であった。 ロンメルはリビアに赴く前に妻女に対して、新しい任地に向かうことと「これは持病のリュウマチ治療法のひとつだ」と手紙で書き送っているが、これは妻女に自分が乾燥した砂漠に行くことをひそかに告げているものであった。ロンメルが赴く北アフリカの気候は温暖な気候に慣れているヨーロッパ人には極めて過酷で、日中は酷暑であり、夜は厳寒であった(真夏の日中には気温が60度近くになるが、逆に夜は零度近くにまで気温が下がった)。しかも夏だけ長く、他の季節は短い。長期に干ばつが続くかと思えば、突然に豪雨が来る。脱水症状、熱中症、赤痢、皮膚病などになる者が多く、また砂塵で眼病になる者も多い(防護眼鏡を付けていても小さい粒子が入り込んでくる)。この様な砂漠の過酷な環境に、敵味方全てが苦しめられていたが、ロンメルは青年期に登山とスキーで身体を鍛えていたうえ、缶詰の肉と黒パンだけの質素な食事にわずかの睡眠時間でも耐えることができ、砂漠への順応も速かった。またヒトラーの期待通り、戦闘の矢面に立つ若い兵士たちには深い思いやりを示し、兵士とともに困苦を分かち合ったので、若い兵士らの尊敬を勝ち取ることができた。 1941年2月12日昼にロンメルは北アフリカ・リビアのトリポリ空港に降り立った。しかし戦車の輸送は困難であり、アフリカ軍団の戦車部隊が最初に到着したのは3月11日、第15装甲師団は5月にならねば到着しなかった。 ロンメルはただちにイタリア北アフリカ派遣軍司令官イータロ・ガリボルディ大将(解任されたグラツィアーニ元帥の後任)と会談した。この時英軍はエル・アゲイラ(英語版)で停止していたが、更に西進してくると思われた。ガリボルディ将軍はトリポリ近くに防衛線を築く事を希望したが、ロンメルはエル・アゲイラ西方300キロのシルテに陣を置いて英軍に攻勢をかけることを希望した。ロンメルはベルリンとローマにシルテへの進軍を認めさせた。シルテにイタリア軍2個歩兵師団と戦車師団を派遣し、ここに陣地を作らせた。2月14日にドイツ軍の偵察大隊と戦車猟兵(対戦車砲)大隊がトリポリに到着し、ロンメルはトラック、装甲車、大砲など6000トンの揚げ降ろしを夜通しで行わせた。とはいえ戦車はまだ到着しなかったので、ロンメルはフォルクスワーゲンの車に細工して偽装戦車を作らせている。 北アフリカに上陸した初のドイツ軍部隊となる第3捜索大隊と戦車猟兵1個大隊は、翌日午前11時には総督府ビル前広場での閲兵式を行い、休む間もなくロンメル自らこの部隊を率いて先行するイタリア軍を追って進撃を開始した。2月24日には北アフリカ戦線で初のドイツ軍とイギリス軍の戦闘が行われた。この戦闘でドイツ軍はイギリス軍の装甲車2輌、軍用車両3台を撃破し将校を含む3人を捕虜としたが、ロンメルが感じたのはイギリス軍は予想より脆弱で前進の意思がないということだった。実はエル・アゲイラの英軍はウィンストン・チャーチルの要望でギリシャに兵力を割かれていたため、弱体化していた。加えてリチャード・オコーナー中将がエジプト司令官に栄転し、砂漠戦に不慣れなフィリップ・ニーム(英語版)中将がキレナイカ駐留英軍の司令官に就任していた。またイギリス軍側の北アフリカ戦線責任者である英軍中東軍司令官アーチボルド・ウェーヴェル大将はドイツ軍の集中状況から見て5月以前にドイツ軍が攻勢に出てくることはなかろうと判断していた。 この後ロンメルは2年以上に渡って北アフリカでイギリス軍を散々苦しめることになるが、自分たちを散々に苦しめたロンメルを高く評価したイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、このロンメルの登場を以下の様に振り返っている。 1941年3月11日から第5装甲連隊(第5軽師団隷下の唯一の機甲連隊)のトリポリへの揚陸作業が完了した。この連隊は、当時のドイツ軍のなかでも最新鋭の装備を与えられており、イタリア軍に強い印象を与えている。ロンメルはエル・アゲイラを攻撃する準備を命じてから3月19日にベルリンへ飛び、翌20日にヒトラーに報告を行った。ヒトラーはまずロンメルがかねてから欲しがっていた騎士鉄十字章の柏葉章を授与した。ロンメルはエル・アゲイラ攻略の許可や戦力増強も求めていたが、ブラウヒッチュからは、しばらくはアフリカのイギリス軍に対して決定的な打撃を与えるという企図はなく、予見しうる将来においては増援を得られることは期待しないでほしいと釘を刺されている。 ロンメルは知らされていなかったが、独ソ戦の準備を進めていたヒトラーや軍中央にアフリカに余分な戦力を割く余裕はなかった。ロンメルは、結局エル・アゲイラ攻撃は5月に第15装甲師団が到着するまで待てと命じられた。ロンメルには改めて「目的を限定した攻撃を実施しうる準備をせよ」とする正式な命令書が届き、落胆しながらドイツを後にしたが、心の中ではこの約束には従わないと決意していた。 北アフリカに戻ったロンメルは、イギリス軍の戦力が分散して弱体化している今こそキレナイカ地方奪還の好機と考え、決意の通りに命令を無視して進撃することを決めた。1941年3月24日早朝にロンメルは「攻撃ではなく偵察」として戦車や装甲車を率いてエル・アゲイラに進軍した。驚いたエル・アゲイラの英軍は、ほとんど戦闘すること無く約50キロ後方のメルサ・エル・ブレガヘ撤退した。ロンメルはそのままエル・アゲイラを占領したが、総統命令もあり、さすがにこれ以上の進軍はためらった。ロンメルは1週間ほどエル・アゲイラに留まったが、その間、イギリス軍の無線を傍受し、イギリス軍が陣地の強化や兵力の増強を開始した事を知った。ロンメルはやはり5月まで待つことはできないと確信した。 3月31日にロンメルは独断で第5軽師団主力を率いてメルサ・エル・ブレガに攻撃を開始し、イギリス軍の第3機甲旅団と第2機械化旅団と交戦した。夕方まで続く激戦の末、イギリス軍はメルサ・エル・ブレガを放棄して撤退していった。ロンメルは更に進撃を続け、4月1日にはメルサ・エル・ブレガの東80キロにあるキレナイカの交通の要衝アジェダビア村をイギリス軍から奪取した。 4月2日、ロンメルの独断行動に激怒したガリボルディ将軍は進軍停止を命じたが、ロンメルはこれを無視して4月3日に兵力を3つに分けて3ルートからイギリス軍の追撃を開始させた。同日ガリボルディはアジェダビアの司令部にいるロンメルの下に怒鳴りこみに来たが、ロンメルはのらりくらりとかわした。その時、部下が国防軍最高司令部総長カイテル元帥からの電報の命令書をロンメルに届けた。そこには「ただちに進軍を停止しろ」と書いてあったが、ロンメルはガリボルディに向き直ると「総統が私に完全な行動の自由を認めた電報です」と大ぼらを吹いて話を打ち切った。しかし、ロンメルの後の回想ではこの日に「ドイツ最高司令部から一通の電報が天使の裁定のように私の手元に届けられた」「その内容は、私が要求していた完全な行動の自由を認めるというものであった」としており、この電文は正式なものであったとなっている。4月3日のうちに北ルートを向かった第3装甲偵察大隊が戦略的要衝である港町ベンガジを占領した。ロンメルも装甲車に乗って北ルート軍を追い、4月4日早朝にベンガジを通過した。 一方、4月3日にエジプト・カイロではキレナイカのイギリス軍の不甲斐なさに激昂したイギリス軍中東軍司令官ウェーヴェル大将がニーム中将を解任してオコーナー中将をキレナイカ英軍司令官に復帰させると命じていたが、オコーナーはこのような流動的戦況において司令官を挿げ替えるのは危険であるとして自分とニームの二人で当たるべきであると主張した。ウェーヴェルも了承して二人にキレナイカ防衛を任せた。しかしあまりに電撃的に侵攻してくるロンメルの軍団を前にキレナイカのイギリス軍司令官は次々と捕虜になっており、オコーナー中将とニーム中将を乗せた車も4月6日夜に道に迷っていたところをロンメル軍団のオートバイ部隊に発見されて捕虜になってしまった。 ロンメルはイギリス軍の補給拠点となっている「キレナイカの心臓」と呼ばれるメキリ(英語版)の占領を狙い、三手に分けて進軍させている三部隊をメキリに結集させることにした。4月7日にメキリは完全包囲された。ロンメルはメキリのイギリス軍に降伏を勧告したが、イギリス軍は降伏を拒否した。イギリス軍は暗くなったのを見計らって強引な包囲突破を図ろうとしたがドイツ軍に阻まれて失敗し、イギリス軍第2機甲師団長マイケル・ギャムビエ-ペリー(英語版)准将以下、イギリス軍将兵2000人が捕虜となったが、このギャムビエ-ペリーから後のロンメルのトレードマークになる対ガス用ゴーグル(アイシールド)を受け取っている。(詳細は#逸話で後述) メキリを失ったイギリス軍は総崩れになり、トブルクを除くキレナイカ地方からの撤退を余儀なくされた。イギリス軍中東軍司令官ウェーヴェルが二カ月かかって占領したキレナイカをロンメルは10日間で奪い返した。英軍が進軍ルートに立てていた「ウェーヴェルの道(ウェーヴェルズ・ウェイ)」の看板はドイツ兵によって「ロンメルの道(ロンメルス・ヴェーク)」と書き替えられた。 トブルクはキレナイカ東部の港町であり、戦略的要衝だった。ロンメルももちろんトブルク陥落を狙ったが、チャーチルはトブルクからの撤退は認めないとして同市の英軍に死守命令を下していた。チャーチルの命令通り英軍は決死の覚悟で抵抗したため、ロンメル軍団の攻撃はことごとく失敗した。ロンメル軍団は多くの損害を出し、北アフリカに到着したばかりだった第15装甲師団長ハインリヒ・フォン・プリトヴィッツ・ウント・ガフロン(ドイツ語版)少将もこの戦いで戦死した。 ロンメルは「イタリア軍が全く当てにならない。イタリア人はイギリス戦車を極度に恐れている。イギリス戦車をみると逃げだしてしまうのだ。まるで1917年の時を見ているようだ。」「私は師団長からも本当に共同作戦らしい協力を得ていないのだ。だから彼らのうち何人かを解任してほしいと要請しているところだ」と妻への手紙に書いている。 独断で進攻作戦を起こしておいてトブルク攻略に失敗して多くの損害を出したロンメルに参謀総長ハルダー上級大将は警戒を強めた。1941年4月25日に参謀次長フリードリヒ・パウルス中将を現地に派遣している。ロンメルはパウルスを説得してトブルク再攻撃の許可を得た。4月30日から5月1日にかけてパウルスの監視の下にトブルク攻撃が行われたが、この頃には英軍はトブルクを地雷原で固めきっており、ドイツ軍の進軍は阻止された。パウルスは5月早々にはベルリンへ戻った。彼は「ドイツアフリカ軍団は補給に問題があり、エジプトが占領できるかは極めて疑問だ」「トブルク攻撃は陸軍総司令部の許可なしにやってはならないと命じるべきだ」と報告している。その後もロンメルの軍団はトブルクに包囲だけを続け、その間ドイツ空軍が1000回にも及ぶという空爆を加えたが、1941年のうちには占領はできなかった。 ロンメルは険悪な関係になっていた第5軽師団師団長ヨハネス・シュトライヒ(英語版)少将を更迭し、代わりに5月20日よりヨハン・フォン・ラーフェンシュタイン(ドイツ語版)少将が師団長に着任した。 トブルク陥落は困難と判断したロンメルはトブルクを包囲させたまま、マクシミリアン・フォン・ヘルフ大佐を指揮官とするドイツ軍第5軽師団の先遣部隊「ヘルフ戦闘団」を東進させた。1941年4月末にヘルフ戦闘団はエジプト国境の戦略的要衝(戦車が通過できる場所だった)であるハルファヤ峠(英語版)とサルーム(英語版)の英軍を撃退して占領し、英軍の防衛ラインをブク=ブクとソファフィの線まで後退させた。これにより英軍がトブルク救援に向かおうと思えばまずハルファヤ峠とサルームを攻略せねばならなくなった。 この後ヘルフ戦闘団は英軍からハルファヤ峠を防衛するのに活躍した。5月15日に英軍中東軍司令官ウェーヴェルは「ブレヴィティ作戦(簡潔作戦)」を発動して攻勢をかけ、ハルファヤ峠を取り戻したが、ヘルフ戦闘団は英軍のそれ以上の進撃は阻止した。そして5月27日にヘルフ戦闘団が反撃に転じ、ハルファヤ峠の英軍を掃討して再占領している。 その後、エジプトの英軍は英本土からマチルダ歩兵戦車やクルセーダー巡航戦車など238両の戦車の増援を受けて強化された。チャーチルはウェーヴェルにこの戦力を使ってトブルクの包囲を解くための反撃作戦「バトルアクス作戦(戦斧作戦)」を開始するよう命じた。イギリス側はパウルスの報告書を傍受してエジプト国境のドイツ軍部隊が軽装備であることを掴んでいた。しかしドイツ側も無線の傍受で英軍が攻勢をかけようとしている事を察知した。ロンメルはエジプト国境付近の防備を整えさせ。 英軍は第4機甲旅団と第7機甲旅団の南北二手に分かれて進軍し、1941年6月15日早朝からハルファヤ峠に攻撃を開始した。アラスの戦いでも悩まされた重装甲戦車マチルダII歩兵戦車も動員されていたが、アラスの戦いの時と同様に88ミリ高射砲を対戦車砲として使うことでこれに対抗した。88ミリ高射砲の存在を悟られぬように隠し、また指揮官ヴィルヘルム・バッハ少佐の88ミリ高射砲の適切な運用によりマチルダII歩兵戦車を午前中の戦闘で11両、午後の戦闘で17両も破壊することに成功した。その後もハルファヤ峠のドイツ軍は88ミリ高射砲を最大の武器として峠を死守した。88ミリ高射砲の恐るべき火力に英軍はハルファヤ峠を「ヘルファイヤ(地獄の業火)峠」と呼んで恐れた。 英軍は頑強なハルファヤ峠を迂回し、サルーム西方カプッツォ砦(英語版)に40両のマチルダII歩兵戦車でもって襲撃をかけてきた。オートバイ部隊が早々に潰走させられたが、ヨハネス・キュンメル大尉(Johannes Kümmel)の指揮の下にIV号戦車2両と88ミリ高射砲1門だけでマチルダII歩兵戦車を9両も破壊し、英軍を敗走させている。キュンメル大尉はこの活躍で騎士鉄十字章柏葉章を受け、また「カプッツォの獅子」の異名を得た。 ロンメルは英軍の第4機甲旅団と第7機甲旅団がほとんど連携が取れていないことを見抜き、第5軽師団と第8装甲連隊を並行して進軍させ、英軍の二つの旅団の間隙を突破するよう命じた。第5軽師団と第8装甲連隊は10キロも離れていたため、まず両部隊は目前の敵と交戦を続けたが、徐々に移動を開始し、6月16日夕刻にはシジ・オマール東に到着した。そして6月17日の夕方にはハルファヤ峠に展開する英軍の背後に回り込むことに成功した。インド第4歩兵師団(英語版)師団長のフランク・メサーヴィ(英語版)少将は、ウェーヴェルとの連絡はつかなかったが、自分の責任でイギリス軍の撤退を命じ、イギリス軍はロンメルによる包囲殲滅を逃れることができた。メサーヴィはインド出身ながら初めてイギリス本国の師団を率いた優秀な軍人であり、その賢明な判断がイギリス軍の危機を救い、人的損失を最低限(1,000人弱)に抑えることに成功したが、越権行為の罰として更迭は覚悟していた。しかしウェーヴェルは「貴官が撤退したのは正しかったと思う」と擁護し、その越権行為は不問とされた。 物量的にはイギリス軍が圧倒していたはずであった。またこの戦域はイギリス空軍が制空権を握っており、英軍は航空支援をたくさん受けていた。にもかかわらず、3日間に及んだ英軍の反撃作戦「バトルアクス作戦」は完全なる失敗に終わった。この作戦で英軍戦車は100両以上大破した。対してドイツ軍戦車はわずか12両が大破しただけだった。敗れたイギリス軍は整然と撤退して行ったが、ロンメルはイギリス空軍からの空襲を警戒して深追いをすることはなかった。イギリス本国ではチャーチルが悪い予感を感じながら自宅に帰り、ひとりきりでいたかったので家を全部締め切って息をひそめていたが、やがて予感通りにウェーヴェル敗北の報告が入ってきたので、やるせない気分となって家を出ると、数時間もの間、谷間の辺りをうろついて感情を抑えなければならなかった。 「バトルアクス作戦」への勝利は、すぐにプロパガンダに利用され、ドイツ支配圏下の新聞やニュース映画で大々的に取り上げられ、ロンメルの評価はさらに高まっていった。ヒトラーのロンメルに対する寵愛も増しており、1941年7月1日付けでロンメルを装甲大将に昇進させた。ロンメルのこれまでの勝利は、迂回戦術と一翼包囲戦術を駆使して優位に立つイギリス軍を撃破して成し遂げたものであり、いつしか「砂漠の狐」(ドイツ語:Wüstenfuchs、英語:Desert Fox)の異名で呼ばれるようになっていた。 砂漠には遮蔽物がほとんどないので見晴らしがよい。すなわち遠方からでもすぐに敵に発見されるので遠距離の戦闘になる事が多く、射程が極めて重要な要素である。したがって歩兵は力を発揮しにくく、戦車が砂漠戦の主兵器である。また自然障害物がほとんどないので大量の地雷と障害物資材が必要となる。また目印になる物が無いために部隊移動の際に方向維持が難しく、しばしば推測航法に頼らねばならなかった。これは陸上戦というより海戦に近いとロンメルは考えており、その海戦に似た砂漠戦で勝利を重ねたことを以下のように誇っている。 航空支援が受けられるように、敵味方が混戦状態とならないように距離をとって戦うこと。 ロンメルは8月31日に攻撃開始を命じ、まずは防衛線北端の海岸沿いでイタリア軍歩兵師団が攻撃を開始したが、モントゴメリーはこれをロンメルの陽動攻撃と見抜いており放置した。このときのことをのちにモントゴメリーは「そして待っていた、正しい場所で、正しい時刻に。」と振り返っている。そして、いつもと同じ時間に就寝したが、ロンメルはモントゴメリーが予想していた真夜中に進撃を開始した。副官は就寝中のモントゴメリーを起こして報告したが、報告を受けたモントゴメリーは「大へん結構、こんなにすごいことはない」と答えただけで再び就寝してしまった。 ロンメルはまるでモントゴメリーの罠にはまるように進撃を開始した。進撃を開始して間もなく、モントゴメリーが埋設させた厚い地雷原に掴まって進撃は停滞、夜明けまでに50km進む計画であったが、実際には15kmしか進めなかった。ロンメルはやむなくその地点から北上を命じたが、これもモントゴメリーの目論み通りであった。イギリス軍戦車隊は計画通り、砂の中から飛び出すと、予定の間隙部に向かってロンメルを待ち受けた。ロンメルは体調不良に悩まされ、この日は後方から作戦指揮を執っていたが、厳しい戦況になったため最前線に進出して陣頭指揮を行った。激しい砂嵐のなかで、目標のアラム・ハルファ高地10km手前までどうにかたどり着いたが、そこで待ち構えていたイギリス軍からの激しい対戦車砲の砲撃が浴びせられた。 進撃が停止したドイツ軍戦車隊に対し、制空権を握っていたイギリス空軍の戦闘爆撃機多数が飛来し銃爆撃を開始した。激しい爆撃で損害が続出しドイツアフリカ軍団司令官ヴァルター・ネーリング中将が負傷、ドイツ第21装甲師団(英語版)長ゲオルク・フォン・ビスマルク(英語版)中将は戦死してしまった。イギリス軍戦車隊も戦場に現れて、対戦車砲やその他火砲と見事な連携攻撃を行い、視界不良の中で不意にイギリス軍陣地から攻撃されたドイツ軍戦車隊を圧倒した。激しい戦車戦となり、両軍戦車や対戦車砲が次々と撃破されたが、ドイツ軍と、後から戦場に到着したイタリア軍は全く前進できなかった。日没で一旦戦闘は終わったが、燃料の備蓄が乏しくなっていたうえに、ロンメルに眼前のアラム・ハルファ高地の堅陣を突破する妙案はなく打つ手はなかった。ロンメルは完全に行き詰っていたが、冷静なモントゴメリーは、追い詰めたドイツ軍の反撃で無用な損害を避けるため、戦線の整理だけを命じて、追撃は厳禁した。 9月1日の夜が明けても、ロンメルは小規模な攻撃しかできなかった。動きの止まったロンメルにイギリス軍戦闘爆撃機が襲い掛かり、次々と戦車や車両が地上で撃破された。ロンメル自身も昨日のビスマルクのようにあわや爆死かという危機も味わった。戦況が完全に優勢になったことを確認したモントゴメリーは、防衛線南端を守っていた第2ニュージーランド師団にロンメルの後方に回り込んで退路を遮断するように命じた。包囲されることを恐れたロンメルは突破した地雷原まで後退していったが、モントゴメリーはここでも追撃をさせなかった。9月1日夜には、ロンメルはアラム・ハルファ高地の攻略をあきらめて、軍の撤退を命じた。しかし、突破した地雷原の一部や、占拠した見通しのよい展望点いくつかには部隊を残させた。その状況を報告してきたイギリス第13軍団(英語版)司令官ブライアン・ホロックス中将に対しモントゴメリーは「君の軍団が新たな地雷原をどんどん作りたまえ」と答えている。 モントゴメリーがホロックスに余裕を見せたのも、ロンメルのこの行動が計算通りであったからだった。既にモントゴメリーの頭の中にはロンメルを撃破する作戦計画があり、それでは、防衛線南部で攻勢すると見せかけて、ロンメルを欺いた後、防衛線北部で大攻勢を行い、一気にロンメルを撃破するというものであった。従ってロンメルが戦力を南部に残しておくことはモントゴメリーの目論見通りであったし、展望点を残しておくことは、これから進めようと計画している大規模欺瞞作戦「バートラム作戦(英語版)」でロンメルを謀るには好都合であり、モントゴメリーは敗走するロンメルを見逃すことにした(#悪魔の庭を構築するで後述)。追撃しなかったことでモントゴメリーは軍の一部から批判されたが、のちにモントゴメリーは追撃をしなかった理由を、第8軍の戦力や訓練度がまだ期待しているレベルにはなかったため、無理はさせなかったことと、ロンメルを再び立ち上がらせ、再攻勢させて、イギリス軍の補給拠点により近く、ドイツ軍には補給線が伸び切った有利な戦場までロンメルを誘い出してから確実に殲滅するためと述べている。実際にこのモントゴメリーの構想は、わずか2か月後にエル・アラメインで実現することとなった。 ロンメルは大事な局面なのにもかかわらず、これまでの過酷な砂漠での生活によって肝臓病と高血圧に悩まされており、主治医からの報告もあって、ヒトラーの配慮でロンメルは一旦帰国して病気療養することとなった。イギリス軍を舐めてかかっていたロンメルも、アラム・ハルファの戦いの敗北で戦いの主導権を失ったことは認識しており、これまでの攻勢から徹底した防御体制への移行を命じていた。まずは歩兵6個師団(ドイツ軍1、イタリア軍5)とラムケ降下猟兵旅団に60kmに渡るエル・アラメイン戦線に渡って塹壕を掘らせ、戦線中央部の歩兵陣地後方に、防衛線を強化するため、ドイツ第15装甲師団(英語版)の戦車を砂の中に埋めて待機させた。また、一部の戦車は岩地に配置し、周辺に石を積んで隠した。他の機械化部隊は機動的な防御を行うこととし、海岸道路にはドイツ第90軽アフリカ師団が置かれ、ドイツ第21装甲師団(英語版)は戦線の南翼に配置された。さらに、イタリア軍の戦車師団と機械化師団もそれぞれ、ドイツ軍戦車師団、機械化師団の近くに配置され、北から、ドイツ第90軽アフリカ師団の近くには、第101自動車化師団「トリエステ」(英語版)、ドイツ第15装甲師団の近くには第133機甲師団「リットリオ」(英語版)、ドイツ第21装甲師団の近くには第132機甲師団「アリエテ」が配置された。これで、これまでリビアからエジプトまで前進に次ぐ前進を続けてきた、ロンメルはついに陣地での防衛戦を強いられることになった。 ロンメルはさらに陣地を強化するため、自身で考案した「悪魔の庭(英語版)」の設営を命じた。50万個もの大量の対戦車地雷と対人地雷S-マイン、航空爆弾、鉄条網、鉄製の杭、針金を準備させると、まずは従来の主防衛線を後退させ、旧主防衛線まえに対戦車地雷を2列並べ、旧主防衛線を起点として凹型に鉄条網を設置、その鉄条網の内側10mに同じように凹型で対戦車地雷を埋設した。しかし「悪魔の庭」が恐ろしいのは、この対戦車地雷はあくまでも地下に設置した垣根のようなものに過ぎず、対戦車地雷に囲まれた凹の内部部分には、大量の100㎏と500㎏の航空爆弾に対人地雷に手榴弾がチェス盤状に並べて埋設されており、その爆発物はそれぞれ針金で連結していた。従って、イギリス兵がどこかの針金に触れれば、連鎖的な大爆発がおきる仕掛けとなっていた。また、地雷処理対策として、地雷は地下3層に渡って埋設されており、一気に第3層までの地雷を処理しないと爆発する仕組みとなっており、簡単に地雷処理ができなかった。そして「悪魔の庭」の後方には、新防衛線が構築されており、地雷処理で足止めされているイギリス軍を効果的に叩くことができた。 対するモントゴメリーは入念に戦力充実を進めており、いまやイギリス第8軍(英語版)は可能な限りで強化されていた。中でもこれまで性能差で苦杯を舐めさせられていた戦車は、アメリカからレンドリースされた新鋭M4中戦車とM3中戦車500輌が次々と揚陸され、合計1,000輌に達した。兵員も195,000人、航空機は750機といずれもドイツ、イタリア軍を圧倒していた。圧倒的な戦力を持ったモントゴメリーは、ロンメルに引導を渡すための「ライトフット作戦」を策定した。作戦計画では、まずはイギリス第30軍団(英語版)が、防衛線北部に2つの突破口を開き、その突破口を、2個機甲師団を擁する主力のイギリス第10軍団(英語版)が突破して、ドイツ、イタリア装甲軍の背後に回り込んで、補給路を分断する計画であった。ここでドイツ軍の戦車隊が反撃してくる可能性が高いが、イギリス軍戦車部隊は大量のM4中戦車の供与で、性能も数もドイツ軍を圧倒しており、ドイツ軍戦車隊を返り討ちにする計画であった。 モントゴメリーはロンメルに防錆戦南部からイギリス軍が攻撃をしかけると誤認させるため、上述のとおり欺瞞作戦「バートラム作戦(英語版)」を行った。この欺瞞作戦は極めて巧妙なもので、給水パイプに見せかけたフェイクのパイプをわざわざエル・アラメインの補給基地から戦線南部まで張り巡らしたり、張りぼての戦車や軍用車や火砲などが大量に作られて砂漠に並べられ、あたかも大部隊が南部地区に集結しているようにも見せかけた。さらに、モントゴメリーはロンメルに作戦開始時期を誤認させるような工作も行った。カイロで摘発していたドイツ軍スパイ団の暗号を利用して、ドイツ軍側に「イギリス軍の攻撃開始は11月中旬の予定」という偽情報を流し続けた。そしてこの偽情報をロンメルに信用させるため、南部へのフェイク給水パイプの工事を、ドイツ軍側が11月中旬に完成と思い込ませるような作業速度にわざと遅らせたり、フェイクの部隊行動を防衛線南部で行わせたりした。 ロンメルは「バートラム作戦」の欺瞞工作に騙され、イギリス軍の攻撃開始時期を11月と見誤っていたことと、モントゴメリーは絶対に悪魔の庭を突破できないとの確信で病気療養を決め、軍の指揮はヒトラーの配慮で東部戦線から転任してきたゲオルク・シュトゥンメ装甲兵大将に一時的に任せることとし、9月22日にエジプトを発ち、ローマでムッソリーニに面会した後、ドイツに向かった。9月25日には総統官邸でヒトラーから元帥杖を下賜され、その後にはヒトラー以下幹部が集まってお祝いのパーティが開催されて、ヒトラーは自らロンメルをもてなした。 しかし、厳しくなる一方の戦況にロンメルは元帥昇格の喜びも既に吹き飛んでしまっており、その後に行われた総統大本営での作戦会議においてロンメルは、第一次エル・アラメイン会戦で撃退された経緯と、そのもっとも大きな要因となったイギリス軍の圧倒的航空優勢について報告した。しかしヒトラーを始め総統大本営の空気は楽観的で、ロンメルがいかに悲観的な話をしても「とっくの昔に、貴官はやってのけたではないか」とあしらわれてしまい、ヒトラーやその重臣からの信頼がかえってロンメルを苦しめることとなってしまった。それでもロンメルは諦めることはなく、戦力増強の必要性を訴えてようやくヒトラーから戦力増強の約束を取り付けた。その約束というのは、500門もの新兵器ネーベルヴェルファーと40輌のティーガーI重戦車と多数の突撃砲を北アフリカに送るというもので、アシカ作戦用に開発したジーベルフェリー(英語版)を大量に生産のうえで、地中海に集中配備してヨーロッパからピストン輸送するというものであった。ロンメルはようやく引き出した戦力増強の約束に満足し、オーストリアウィーナー・ノイシュタットの私邸で静養に入ったが、ジーベルフェリーの大量生産計画などは存在せず、そもそも小型船に過ぎないジーベルフェリーにティーガーIや突撃砲を大量に長距離を輸送する能力などはなく、この戦力増強は初めからヒトラーの空手形に過ぎなかった。 10月23日午後8時40分、イギリス軍がドイツ第164軽機械化師団(英語版)とイタリア第102自動車化師団「トレント」(英語版)が守る防衛線北部戦区約10kmの範囲に約1,000門もの火砲で5時間もの準備砲撃を浴びせた。これは防衛線10mごとに1門の火砲が砲撃した計算になり、ロンメルが絶対の自信を持っていた「悪魔の庭」も砲弾によってすっかりと鋤き返された。このような地雷処理はロンメルには想像もできなかったもので、ドイツ兵とイタリア兵はイギリス軍の砲弾に加え、誘爆する地雷や航空爆弾の爆発で、土砂に埋もれてしまった。その激しい砲撃後にイギリス軍歩兵師団が前進を開始し、残った地雷の処理を開始したが、激しい砲撃でも多くのドイツ兵、イタリア兵が生存しており、イギリス軍歩兵と激戦となった。モントゴメリーの作戦計画はまる1日遅れることとなり、苛立ったモントゴメリーはイギリス第10軍団(英語版)司令官ハーバード・ラムズデン(英語版)中将に更迭を匂わした督戦を行い、イギリス軍戦車隊は自らで地雷の処理をしながら進撃した。激戦の中で、ロンメルの代理の軍司令官であったシュトゥンメは、自ら戦況を把握するため、軍用車に乗って前線司令部に出かけたが、途中でイギリス軍歩兵の銃撃を浴びて戦死してしまった。 イギリス軍攻勢開始とシュトゥンメの戦死の件は、攻勢開始の翌日の24日午後に国防軍最高司令部(OKW)総長ヴィルヘルム・カイテル元帥から、ウィーンで療養中であったロンメルに報告があり、ロンメルは即アフリカに帰ることを決意した。その夕方にはヒトラーからも電話があり、「ゆっくり静養させてやりたいがすぐにでもアフリカに帰れるか?」との打診があった。ロンメルは25日にイタリアを経由して空路で前線に向かうよう手配したが、不安であったヒトラーは24日真夜中にも電話で「エル・アラメインの情勢は重大ですぐにでもアフリカに帰ってもらわなければならない」とロンメルに前線復帰を促している。ロンメルはローマを経由してクレタ島からDo 217でアフリカまで飛び、さらにFi 156 シュトルヒで25日中には前線司令部にたどり着いた。ロンメルが帰りつくまでは、2度の世界大戦に従軍して20回も負傷し、スペイン内戦でも東部戦線でも常に最前線で戦ってきた勇将ヴィルヘルム・フォン・トーマ装甲兵大将がどうにかモントゴメリーの攻勢を支え、防衛線の完全崩壊を防いでいた。 司令部についたロンメルはトーマから「情勢は我が軍にすごぶる不利に展開しております。敵の圧倒的砲火のためのに悪魔の庭は破壊され、我が軍は敵をくいとめはしたものの撃退はできませんでした」という報告を受けて戦況を把握すると、これまでの勝利体験の通りに、戦車で打って出て、広い砂漠で機動戦を行ってイギリス軍を撃破し、当初の防衛線を回復させようと考えた。しかし、このロンメルの作戦計画は、陣地に籠って激しく抵抗するドイツ軍装甲師団をおびき出して、イギリス軍の堅陣にぶつけて消耗させることを目論んでいたモントゴメリーの思い通りとなる破滅的なものであった。ロンメルがこのような決断に至った大きな理由が、ロンメルに燃料を届けるべくリビアに向かっていたタンカーが撃沈されたという衝撃的な報告を受けており、燃料が枯渇する前に短期決戦を挑む以外の選択肢がなくなっていたこともあった。ロンメルもこの反撃が困難であることを認識しており、愛妻ルーシーに「誰も私の肩の上の重荷を理解することはできない」と弱音を吐露する一方で「私にとって不利な条件がそろっている。それでも、私は何とか切り抜けたいと思っている」と自らを奮い立たせるような手紙を書いている。 そして10月27日、ロンメルはドイツ第21装甲師団を北上させると、どうにかイギリス軍戦車部隊の戦線突破を食い止めていたドイツ第15装甲師団とイタリア第133機甲師団「リットリオ」の両師団の残存兵力と共同で、イギリス軍に奪われていたキドニー高地を攻撃させた。イギリス軍はこの低い高地に砲兵観測所を置き、アフリカ装甲軍に猛砲撃を浴びせており、早急な奪還が必要であった。モントゴメリーはキドニー高地とその周辺を陣地化してロンメルを待ち構えており、ロンメルが言うところの「平時ならば極貧のアラブ人さえ一顧だにしないような、やせた一握りの土地」に過ぎない低い高地を巡って激戦が繰り広げられた。特に激戦となったのが、キドニー高地前面に構築されていたスナイプ前哨陣地(英語版)であり、アフリカ装甲軍団の戦車は、ビクター・ターナー(英語版)臨時中佐指揮の元でスナイプ前哨陣地を守るライフル旅団1個大隊と王立対戦車砲隊1個大隊19門に襲いかかった。ターナーはオードナンス QF 6ポンド砲を巧みに駆使して、ドイツ軍、イタリア軍の戦車を次々と撃破、終日続いたこの攻防戦でターナーの対戦車砲大隊は壊滅状態となったが、実に60輌ものドイツ・イタリア軍の戦車と自走砲を撃破してロンメルの反撃を完全に打ち砕き、ターナーはこの活躍でヴィクトリア十字章を受章した。一方ロンメルは、この反撃によって240輌あった戦車のうち160輌を失ない、このあと反撃に出ることが不可能となってしまった。 ロンメルの反撃が失敗した後、北部の海岸道路沿いではオーストラリア第9師団(英語版)が、歴戦の第2ニュージーランド師団と連携し、大損害を被っていたドイツ第164軽機械化師団とイタリア第102自動車化師団「トレント」を西方に押しやりながら、前進を続けていた。ロンメルはこれらの動きから、イギリス軍は海岸道路沿いに戦線突破を図っていると考えて、ドイツ軍師団を北方に集中させつつあった。しかし、これもモントゴメリーの巧妙な罠で、ドイツ軍が戦線北部、イタリア軍が戦線南部に集まっていることを確認すると、ドイツ軍とイタリア軍の間隙部から防衛線を突破する「スーパーチャージ作戦」を決定した。11月2日の午前1時、300門のイギリス軍火砲の支援のもと、イギリス軍2個旅団の増援と第9機甲旅団の支援を受けた第2ニュージーランド師団が進撃を開始した。ロンメルは強固なパックフロントを構築させており、モントゴメリーに防衛線の強行突破を命じられていた第9機甲旅団は翌3日までに94輌の戦車のうち70輌を撃破されるという大損害を被った。またこれまで痛い目にあわされ続けたニュージーランド軍に対しても、第21装甲師団と第15装甲師団の残存戦車隊を向かわせて必死の防衛を行って、その突貫をどうにか防いで、突破口の構築を遅らせることに成功した。これらささやかな勝利は、これまでロンメルの下で栄光を重ねてきたドイツアフリカ軍団の最期の栄光となった。 多少の足止めをしたところで、もはや防衛線の崩壊は時間の問題となっており、ロンメルは「スーパーチャージ作戦」が開始された11月2日には敗北を悟って総統大本営向けに撤退の許可を求める戦況報告の電報を打ち、翌3日にヒトラーから返信があったが、送られてきた命令にロンメル以下軍参謀らは目を疑った オランダのデスメタルバンド、ヘイル・オブ・ブレッツは、ロンメルの一生をテーマにしたコンセプト・アルバム『III: The Rommel Chronicles』を2013年にリリースしている。 『熱砂の秘密』(原題:Five Graves to Cairo、アメリカ映画、ビリー・ワイルダー監督、1943年) - トブルク包囲戦で生き残ったイギリス軍下士官が、ロンメルの秘密物資貯蔵地点5か所(これが原題のFive Graves)の機密を掴むべく活躍するストーリー、ロンメル役はエリッヒ・フォン・シュトロハイムだが、戦時中の作品でもあり敵役としての怪演が印象的。 『砂漠の鬼将軍』(原題:The Desert Fox: The Story of Rommel、アメリカ映画、ヘンリー・ハサウェイ監督、1951年) - 捕虜となったデズモンド・ヤング准将によるロンメル伝記の映画化。ジェームズ・メイソンがロンメルを演じる。劇中でメイソンが着ている軍服は、ロンメル家から借りた実物だった。 『砂漠の鼠』(原題:The Desert Rats、アメリカ映画、ロバート・ワイズ監督、1953年)- トブルク包囲戦とそれを戦う豪州軍兵士を描いた戦争映画。ロンメル役は、『砂漠の鬼将軍』と同じジェームズ・メイソン。なお砂漠のネズミとは北アフリカのイギリス軍のこと。 『史上最大の作戦』(原題:The Longest Day、アメリカ映画、コーネリアス・ライアン原作・脚本、1962年) - ノルマンディー上陸作戦を描いたライアン原作の戦記『The Longest Day』の映画化。ロンメル(配役:ヴェルナー・ヒンツ(英語版))も史実通りB軍集団長で登場。なお、原作と映画の原題「The Longest Day」はロンメルが語ったとされる言葉「この日こそは、連合軍にとっても、我々にとっても最も長い一日(Der längste Tag)になる」に基づいている。 『トブルク戦線』(原題:Tobruk、アメリカ映画、アーサー・ヒラー監督、1966年)- 1942年、ドイツ軍に占領されたトブルクの燃料貯蔵施設を破壊して、ドイツアフリカ軍団の補給路を断つ作戦を命じられたイギリス軍コマンド部隊の物語。 『パットン大戦車軍団』(原題:Patton、アメリカ映画、フランクリン・J・シャフナー監督、1970年)- カール・ミヒャエル・フォーグラー(de:Karl-Michael Vogler)がロンメルを演じた。 『ロンメル軍団を叩け』(原題:Raid on Rommel、アメリカ映画、ヘンリー・ハサウェイ監督、1971年)- 『熱砂の秘密』や『トブルク戦線』と同様にエル・アラメインの戦いの前日譚のエピソードで、イギリス軍の反撃のため、ドイツ軍に奪われていたトブルク要塞の沿岸砲の破壊を命じられたコマンド部隊の物語、ロンメル(配役:ヴォルフガング・プライス)も登場する。 『ロンメル 第3帝国最後の英雄』(原題:Rommel、ドイツ・テレビ映画、ニキ・スティン(ドイツ語版)監督 2012年) - 晩年のロンメル元帥を描いた作品。ロンメル役はウルリッヒ・トゥクル。 『悲将ロンメル』、日本の小説、岡本好古原作。ロンメルの人生を史実と創作を織り交ぜながら語っていくノンフィクション小説。 『ジャングル大帝』、日本の漫画とアニメ、手塚治虫原作。B国探検隊長ロンメル将軍というキャラクターが登場するが、「有名なナチスの鬼将軍の血筋」とのキャラクター設定があり、ロンメルの血縁者であることを匂わせてる。このキャラクターは原作者の手塚が映画『熱砂の秘密』におけるロンメル役の俳優シュトロハイムの怪演に強く印象付けられて登場させたものであるが、手塚独特の「スター・システム」によって、その後の作品にも繰り返し登場している。 『宇宙戦艦ヤマト』およびリメイク『宇宙戦艦ヤマト2199』、日本のアニメ、西崎義展原作。ガミラス帝国の将軍にロンメルをオマージュ元とするドメル将軍(監督・メカニックデザイン担当松本零士のコミカライズ版ではロメル)が登場しヤマトを苦しめる。 『紺碧の艦隊』、日本の小説とその漫画家とアニメ化、荒巻義雄原作。いわゆる架空戦記というジャンルであるが、ロンメルが異世界に転生したコンラッド・フォン・ロンメルというキャラクターとして登場。 『ロンメル・中東大戦略』、日本の小説、田中光二原作。架空戦記小説、田中の架空戦記シリーズ『新世界大戦記』の第3作目、史実よりもロンメルは勝ち進み、カイロにモントゴメリーを追い詰める。 『大戦略 日独決戦 完結編』、日本の小説、檜山良昭原作。ソ連を下したドイツ軍が満州に攻め込み、日本とドイツが開戦するという架空戦記『大戦略 日独決戦』シリーズ。北アフリカでモントゴメリーを撃破したロンメルがシベリア軍集団を率いて石原莞爾大将率いる関東軍と激突する。檜山の架空戦記では『大逆転連合艦隊ドーバー大海戦』シリーズにもロンメルが登場する。 『レッドサン ブラッククロス』、日本のボードシミュレーションゲームとそのノベライズ。ゲーム版原案・高梨俊一、開発・佐藤大輔、福田誠ほか、小説の原作は佐藤。歴史を大幅に改変し、第二次世界大戦に勝利したドイツと、日本・イギリスの同盟間で第三次世界大戦が勃発、中東やインドで激突するという架空戦記。ロンメルは名将として日本軍に立ちふさがる。 『機動戦士ガンダムΖΖ』、日本のテレビアニメ、日本サンライズ制作。第25話「ロンメルの顔」にデザート・ロンメルというキャラクターが登場。「砂漠のロンメル」の異名を持ち「砂漠の狐」ことエルヴィン・ロンメルに因んだキャラクターである。ジオン公国の軍人で終戦後もジオン公国の再興を目指して地球連邦軍に対してゲリラ活動をしていたが、ネオ・ジオンの地球進攻に応じて蜂起し、主人公ジュドー・アーシタらガンダム・チームに敗北した。 『ガンダムビルドダイバーズ』、日本のテレビアニメ、サンライズ制作。ガンプラを使用して行うネットワークゲーム「ガンプラバトル・ネクサスオンライン」 (GBN) のプレイヤー集団(フォースと呼ばれる)第七機甲師団のリーダーロンメルというキャラクターで登場。なぜか白いフェレットの姿をしている。 『ガールズ&パンツァー』、日本のアニメ、アクタス製作。戦車同士の模擬戦を戦車道と呼んで競技化している世界の物語。大洗女子学園カバさんチーム所属のエルヴィンというキャラクターが登場、名前通りエルヴィン・ロンメルに傾倒しているという設定。 本文中に記述の通り、ロンメルは結婚前にはルーシー・マリア・モーリン(Lucia Maria Mollin)とヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との二股交際をしており、ヴァルブルガとの間には娘ゲルトルートをもうけている。ヴァルブルガはロンメルの息子マンフレート・ロンメルが誕生した年に自殺をしたが、その後もロンメルはゲルトルートを「親類」として面倒を見続け、ゲルトルートもロンメルのことを「エルヴィンおじさん」と呼んで慕った。事情を教えられていなかった息子のマンフレートは、ゲルトルートを「従姉妹」と呼び、戦中から戦後まで一家と親しく付き合った。ロンメルはこの経験からルーシーと結婚したあとは一切他の女性には興味を示さなかった。戦争となって他の多くのドイツ軍人の性的な規律が乱れる中でロンメルは例外であり、戦場で活躍して国民的英雄となり、多くの誘惑があるなかでも愛妻ルーシー1人を愛し続けた。休暇には必ず私邸に帰りルーシーと過ごしていたため、エル・アラメインの戦いとノルマンディー上陸のロンメルにとって運命的な戦い開戦の第一報は、いずれも私邸でルーシーと過ごしているときに受けることとなった。 ロンメルは北アフリカ戦線のリビアでの戦いの際に手に入れたイギリス軍のゴーグルを好んで着用し、これは彼のトレードマークとなった。しばしばゴーグル自体が防塵用であるかのように言われるが、正確には「Anti-Gas Eye Shield Mk.II」と称される、柔らかな合成樹脂製の対毒ガス用ゴーグルで、イギリス軍のガスマスクの標準的な付属品である。このゴーグルは、メキリ(英語版)で捕虜としたイギリス軍第2機甲師団長マイケル・ギャムビエ-ペリー(英語版)准将に礼を尽くしてディナーに招待した際に、ギャムビエ-ペリーがドイツ兵に盗難された軍帽の返却をロンメルに依頼、部下兵士の犯罪行為に激怒したロンメルが、後日犯人を探し出して軍帽を返却し、そのロンメルの誠実さに感動したギャムビエ-ペリーがプレゼントしたもので、これを気に入ったロンメルは自分の将官帽に取り付け、以降このゴーグルはロンメルのトレードマークとなった。 ロンメルが活躍した北アフリカの戦場に従軍した者はそこを「騎士道の残った戦場」として記憶している者が多い。戦場となった場所が広大な砂漠であったので巻き込まれた民間人は少なかったのに加えて、アフリカにはSSが来なかったので、アインザッツグルッペンが付随してきてユダヤ人虐殺を行うといったことも無かった。そしてなんといってもロンメルが騎士道を重んじる人物だったことが大きかった。ロンメルは交戦の国際条約を遵守して捕虜を丁重に取り扱った。これを感じ取ったイギリス軍もこの戦域では比較的国際条約を遵守したのである。ただし激戦が続く中でそれも次第に崩れていき、ガザラの戦いの際にイギリス軍の文書から「ドイツ軍捕虜を従順にさせる方法」などという文書が発見されており、それを読んだロンメルは捕虜に対するイギリス軍の非人道的取り扱いに激怒し、マルサ・マトルーフの戦いではニュージーランド軍のマオリ族兵士が、マチェテでドイツ兵を切り刻んだり、さらにはドイツ軍野戦病院にも突入し、負傷兵や軍医や衛生兵の区別なく殺害したので、憤慨したロンメルは、無関係のニュージーランド兵の捕虜を砂漠に6時間も屹立させるという虐待を行った。 ロンメルは多趣味であり、その一つがカメラ撮影であった。趣味を通り越して“カメラマニア”となっており、第一次世界大戦後には、妻女ルーシーと2人でオートバイでイタリアに撮影旅行に出かけ、自分が戦ったイタリアの戦場を撮影している。第二次世界大戦においても、北アフリカに乗り込んだ時に手にはカメラ(エルンスト・ライツ社のライカ)が握られていた。そして偵察機に乗り込むと自ら手にしたカメラで上空から写真を撮って、これから戦うであろう戦場の地形を把握した。その後も無数の写真を撮影し、ロンメルが写真撮影する姿を撮影した写真や映像も残っている。ロンメルが熱心に写真撮影した目的は、戦後に執筆を考えていた戦記の挿入写真に使うためであったが、残念ながらその夢がかなうことはなかった。撮影好きのロンメルでも唯一撮影しない写真があり、それを息子のマンフレートに「自分が撤退するところは決して撮影しない」と説明している。 身体を動かすことが好きなロンメルの趣味の一つが狩猟であった。フランス侵攻が終わりアシカ作戦に備えている間、休日になるとフランスの地主と狩猟に出かけていた。北アフリカ戦線においても、副官のハインツ・ヴェルナー・シュミットやイタリア軍将校と2台の軍用車に乗ってガザラでカモシカの狩猟をしている。ガザラの大地は凹凸が激しかったが、ロンメルは構わず運転手に全速で走行するように命じたので、シュミットはたかだか狩猟で、ドイツ軍の将官が車から投げ出されて死亡したら大問題になると冷や冷やしながらロンメルを見ていたが、そのうちにロンメルは正々堂々とスポーツをしており、戦闘と同様に狩猟にも命を賭けていると理解した。やがてロンメルは1頭のカモシカを仕留めると、自ら狩猟ナイフを取り出して食肉処理し、部下将兵にふるまっている。ロンメルの望みはヨーロッパに帰った時、息子のマンフレートと一緒に狩猟をすることであった。 「汗を流せ、血は流すな」 「指揮官は部下のなかに入っていき、彼らとともに感じ、ともに考えなければならない」 「軍事的名声を有するということは、ときとして不利である。自分の限界はわかっているのに、他からは奇跡を要求され、敗れるたびに悪意にとられる。」 ^ ファーストネームのErwinは日本語では「エルウィン」「エルヴィン」と表記される事が多い。より実際の発音に近く「エアヴィン」、英語読みで「アーウィン」とカタカナ表記されることもある。姓のRommelは、実際の発音は「ロメル」に近い。 ^ ロンメルはアラスの戦いで「III号戦車6両」を失ったと書いているが、恐らく38(t)戦車の間違いである。 ^ 迂回戦術とは敵陣地正面から歩兵が助攻撃をして陣地内の敵部隊を拘束しつつ、その間に主力の機甲部隊が敵陣地の後方に回り込み、戦闘を継続するのに必要な後方連絡線を遮断し、敵部隊が敵陣地から出てくるよう差し向ける戦術である。敵が入念に準備しているであろう敵陣地内での決戦を避け、陣地外での決戦を強要するのに有効な戦術である。 ^ 一翼包囲戦術とは迂回戦術が取れない場合に使用する戦術である。敵陣地の中では防御力が弱い部分である側面部分(この側面部分のことを一翼と称している)に主力の機甲部隊が攻撃を加え、そのまま側面部分を通って敵中枢や補給拠点に攻撃を加える戦術である。ただし敵が入念に準備しているであろう地域内での戦闘になるから迂回以上に歩兵の助攻撃がしっかりしていないといけない。 ^ リビア、エジプト国境に張られている鉄条網のこと。 ^ また、前線の防備施設や配置兵力を強化するためヒトラーに直談判する予定でもあった。 ^ “北フランスの英仏海峡沿いにドイツが築いた…:ノルマンディー上陸作戦”. 時事ドットコム. https://www.jiji.com/jc/d4?p=ddy601-000_SAPA990119147990&d=d4_mili 2020年11月30日閲覧。 ^ チャーチル② 1975, p. 199. ^ マクセイ 1971, p. 6 ^ マクセイ 1971, p. 7 ^ 大木毅 (2019年4月2日). “「名将」ロンメルの名声はいかにして堕ちたか 「砂漠の狐」ロンメルの知られざる姿 第1回”. 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公文書館(アメリカ) SNAC IdRef エルヴィン・ロンメル ドイツ陸軍 (国防軍)の元帥 ドイツ帝国陸軍の軍人 第一次世界大戦期ドイツの軍人 ヴァイマル共和国陸軍の軍人 20世紀の軍人 ドイツ第三帝国の戦車隊指揮官 プール・ル・メリット勲章戦功章受章者 騎士鉄十字章受章者 自殺したドイツの人物 毒死した人物 バーデン=ヴュルテンベルク州出身の人物 1891年生 1944年没 Pages using the JsonConfig extension Reflistで3列を指定しているページ FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BIBSYS識別子が指定されている記事 BNC識別子が指定されている記事 BNE識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 CANTICN識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 ICCU識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 Libris識別子が指定されている記事 LNB識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 NLA識別子が指定されている記事 NLG識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NSK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 PLWABN識別子が指定されている記事 PortugalA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 DTBIO識別子が指定されている記事 Trove識別子が指定されている記事 NARA識別子が指定されている記事 SNAC-ID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事 良質な記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/23 15:32更新
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