サンドラ=デイ=オコナーの情報(SandraDayO'Conner) 裁判官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png?)
サンドラ=デイ=オコナーさんについて調べます
■名前・氏名 |
サンドラ=デイ=オコナーと同じ1930年生まれの有名人・芸能人 サンドラ=デイ=オコナーと同じ3月26日生まれの有名人・芸能人 サンドラ=デイ=オコナーと同じ出身地の人 |
サンドラ=デイ=オコナーの情報まとめ
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
サンドラ=デイ=オコナー(Sandra Day O'Conner)さんの誕生日は1930年3月26日です。
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
法曹・政治家として、連邦最高裁判事としてなどについてまとめました。引退、卒業、結婚、病気、家族、現在、事件、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。
サンドラ=デイ=オコナーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)サンドラ・デイ・オコナー(英語: Sandra Day O’Connor、1930年3月26日 - 2023年12月1日)は、アメリカ合衆国の法律家。女性として初めて合衆国最高裁判所の判事となった。共和党所属の大統領ロナルド・レーガンによって1981年に最高裁判事に指名され、2006年に引退するまでその職にあった。 最高裁判事に指名される以前には、アリゾナ州の州議会議員や州裁判所の判事等を歴任した。2005年7月1日、後継者の指名承認を待って引退する意思を表明した。同年10月に、ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)大統領は、サミュエル・アリート(Samuel Alito)を後継判事として指名し、アリートは2006年1月31日に最高裁判事に就任した。2012年2月までウィリアム・アンド・メアリー大学総長を務めた。 晩年はフィラデルフィアにある国立憲法センター(National Constitution Center)の理事を務めていた。 2001年には、レディズ・ホーム・ジャーナル(Ladies’ Home Journal)誌によって、アメリカで2番目に影響力のある女性に選ばれた。また、2004年と2005年には、フォーブス誌によって、世界で6番目(2004年)、及び36番目(2005年)に影響力のある女性に選ばれた。2004年にオコナーより上位に選ばれたアメリカ人は、当時の国家安全保障問題担当大統領補佐官のコンドリーザ・ライス、当時上院議員だったヒラリー・クリントン、及び、ローラ・ブッシュ大統領夫人の3名だけである。 テキサス州エルパソで牧場を経営するハリー・アルフレッド・デイ(Harry Alfred Day)とアダ・メイ・ウィルキー(Ada Mae Wilkey)との間に生まれた。その後、アリゾナ州南西部の町、ダンカン近辺の牧場で少女時代を過ごしたが、その時期の生活については、弟であるH・アラン・デイ(H. Alan Day)との共著『レイジーB:アメリカ南西部の牧場育ち(Lazy B: Growing up on a Cattle Ranch in the American Southwest)』に詳述されている。初等教育の大部分については、彼女は、テキサス州エルパソに住む母方の祖母の元から公立学校、次いでラドフォード女子高校に通学した。アルファ・デルタ・パイ・ソロリティのメンバーでもある。 オコナーは、カリフォルニア州パロアルトのスタンフォード大学に学び、1950年に経済学の学士号を授与された。彼女はそのまま同大学のロー・スクール(Stanford University Law School)に進み、スタンフォード・ロー・レビュー(Stanford Law Review)の編集に参画、そして、102人中3位の成績で卒業した。このクラスの卒業生総代は、その後連邦最高裁長官となるウィリアム・レンキスト(William H. Rehnquist)である。在学中、オコナーとレンキストは短期間だけ付き合っていたことがある。 1952年に、ジョン・ジェイ・オコナー三世(John Jay O’Connor, III)と結婚し、スコット、ブライアン、ジェイの三子をもうけた。ジョン・ジェイ・オコナーは、17年以上にわたってアルツハイマー病と闘っており、サンドラ・オコナーは、この病気に関する一般の理解を得る運動に深く関わっている。2007年11月のCNNの報道によると、ジョンは、記憶力が低下してきており、長年の家族との絆の記憶を失ってきた結果、現在収容されている施設に新しく好きな女性ができるなど、家族にとって状況は悪化している。また、2007年11月14日付のニューヨーク・タイムズ紙の記事、『アルツハイマー、そして愛に囚われて(Seized by Alzheimer’s, Then Love)』によると、オコナー家の人たちは、そうであっても彼女の55年来の夫が満足なのであれば幸福であると述べている。 法曹・政治家としてロー・スクールでの実績にもかかわらず、女性であることを理由に、カリフォルニアの法律事務所の中にはオコナーを弁護士として雇おうとするところはなかった。リーガル・セクレタリーとしての雇用オファーをする事務所がひとつあったのみである。そこで彼女は、公務員としてのキャリアを積むこととし、1952年から1953年にかけて、カリフォルニア州サンマテオ郡の郡次席検事を務め、次いで、1954年から1957年の間には、ドイツのフランクフルト・アム・マインにおいて民間人の資格で陸軍補給将校付の弁護士の職にあった。その後、1958年から1960年までの間フェニックス近郊のメアリーヴェールで民間の弁護士業に就いた後、1965年から1969年にはアリゾナ州の司法次官補(アメリカでは連邦政府の司法長官以外に各州政府ごとに司法長官が置かれている。オコナーが務めた州司法次官補は連邦政府の序列と同様に、州司法長官・州司法次官に次ぐ第3番目のポストである。)を務めた。 1969年には、共和党のジャック・リチャード・ウィリアムス(en:Jack Richard Williams)知事によってアリゾナ州議会の上院議員に任命された。その後二度の選挙で再選されて、共和党議員として、二年の任期を二期務めた。この間、1973年には上院多数党院内総務に選出されている。 1975年、オコナーは、マリコパ郡上級裁判所の判事に選出され、1979年まで務めた後、同年、民主党員であるブルース・バビット(Bruce Babbitt)知事によってアリゾナ州最高裁判所の判事に任命された。このように、アリゾナ州の政界に身を置く間に、オコナーは三権のすべてに仕えたこととなる。 連邦最高裁判事として指名と承認レーガン大統領は、1980年の大統領選挙の際、連邦最高裁判事に女性を指名すると公約していたが、1981年7月7日、公約どおり、引退するポッター・スチュワート(Potter Stewart)連邦最高裁判事の後任としてオコナーを指名した。 妊娠中絶反対派や宗教グループは、彼女が、女性が人工妊娠中絶を受ける権利を認めたロー対ウェイド事件の判例を変更しないであろうと考え、この指名に反対した。オクラホマ州選出のドン・ニクルス(Don Nickles)議員、アイダホ州選出のスティーブ・シムズ(Steve Symms)議員、そしてノース・カロライナ州選出のジェシー・ヘルムズ議員を含む共和党上院議員は、この指名に対する不満をホワイトハウスに表明した。ニクルス議員は、オコナー指名を、彼を含む「家族の価値を重んじる共和党上院議員は支持しないだろう」と述べた。オコナー自身は、妊娠中絶に関する姿勢を表明することを拒否し、妊娠中絶の権利を支持するような印象を与えることを注意深く避けた。オコナーはレーガンに対して、アリゾナ州上院議員として妊娠中絶を禁止する州法の撤廃法案に賛成票を投じたかどうか記憶していないと述べた。しかし、1970年に、彼女が州の妊娠中絶に関する刑事法の撤廃に賛成する暫定票を投じていたことは事実である。また、1974年には、アリゾナの病院における妊娠中絶を禁止する措置に反対する票を投じている。 レーガンは、1981年7月6日の日記に次のように記している。「オコナー裁判官に電話をかけ、彼女が私の最高裁判事候補者だと告げた。既に私の支持者から非難の声が上がっている。中絶反対派は彼女が中絶支持派だと言う。彼女によれば、中絶は個人の信条には合わないとのこと。彼女はよい最高裁判事になると思う。」 連邦上院は、9月21日、99対0の賛成多数でオコナーの最高裁判事指名を承認した。最高裁判事としての最初の年、オコナーの元には、史上最多の6万通をこえる手紙が一般市民から寄せられた。 史上初の女性最高裁判事となったことに関して連邦最高裁の「9人の爺さん」(Nine old men)について語ったニューヨーク・タイムズ紙の社説に対して、オコナーは、自称FWOTSC(First Woman On The Supreme Court(最初の最高裁女性判事))として、以下のような短い文書を送った。
C-SPANで全国放送されたスピーチの中で、オコナーは、1983年にもう一人の女性判事ルース・ベイダー・ギンズバーグが最高裁入りして以来、マスコミの興味がいくぶんかでも薄れてほっとしていると述べている。 最高裁判所における判断傾向オコナーは、新連邦主義(New Federalism)派に属しており、個々の案件に関してできるだけ論点を絞ったアプローチを取った。これは、過度な一般論に走ることによって将来の案件で身動きが取れなくなることを避けるためである。就任当初は、彼女の立場はレンキストと同様の保守的なもののように思われた。事実、就任直後の3年間は、全案件の87%においてレンキストと同じ立場を取った。その後、1998年までの彼女のレンキストとの合意率は93.4%に上ることもあれば、63.2%と低い年もあったが、内3年間は90%をこえており、他のどの判事よりもレンキストと同じ立場を取る傾向が高かった。(とはいっても、実は、彼女との合意率が最も高かったのは、別の保守派の判事であった。)1998年以降、連邦最高裁の判事構成がさらに保守化する(アンソニー・ケネディ(Anthony Kennedy)がルイス・パウエル(Lewis Powell)に、そして、クラレンス・トーマス(Clarence Thomas)がサーグッド・マーシャルに取って代わった。)につれて、オコナーは、中間派として、保守・リベラルの意見が分かれる案件において多数派を構成するための最後の一人としてキャスティング・ボート(swing vote))を握ることが多くなった。 オコナーの保守派から中間派へのシフト(それは比較的小さなものではあったが)の原因のひとつには、クラレンス・トーマスの強烈な保守的立場があったように思われる。トーマスと同じ結論に達した場合であっても、オコナーは、トーマスの判決理由に同調することはせずに、独自の意見を書くことが多かった。また、1992年には、トーマスが反対意見を述べた案件において、オコナーが彼と同調することは一度もなかった。 ウィラメット大学法科大学院のスティーブン・グリーン(Steven Green)教授は、9年間にわたって政教分離のためのアメリカ人連合(Americans United for Separation of Church and State)の最高法務責任者として連邦最高裁で何度も弁論を行った法律家であるが、オコナーについて、「彼女は最高裁における調整役であり、法をいずれの方向にも拡散させることについて非常に慎重な態度を取る」と論評している。グリーンはさらに、オコナーは他の判事のうちの何名かとは違って、「それぞれの案件について、開かれた態度で接する」と述べている。 以下、オコナーがキャスティング・ボートを投じた案件をいくつか紹介する。 マコンネル対連邦選挙管理委員会事件(McConnell v. Federal Election Commission, 540 U.S. 93 (2003)) グラッター対ボリンジャー事件(Grutter v. Bollinger, 539 U.S. 306 (2003))、グラッツ対ボリンジャー事件(Gratz v. Bollinger, 539 U.S. 244 (2003)) ゼルマン対シモンズ=ハリス事件(Zelman v. Simmons-Harris, 536 U.S. 649 (2002)) アメリカボーイスカウト連合対デイル事件(Boy Scouts of America v. Dale, 530 U.S. 640 (2000)) 合衆国対ロペス(U.S. v. Lopez, 514 U.S. 549 (1995)) ブッシュ対ゴア事件 (Bush v. Gore, 531 U.S. 98 (2000)) 他にも、オコナーは、著名な判決において重要な役割を果たしている。その例としては次のようなものがある。 ウェブスター対リプロダクティブ・ヘルス・サービシズ事件(Webster v. Reproductive Health Services, 492 U.S. 490 (1989)) ローレンス対テキサス州事件(Lawrence v. Texas, 539 U.S. 558 (2003)) 2005年2月22日、レンキスト長官もジョン・ポール・スティーブンス(John Paul Stevens)判事も欠席のもと、オコナーは、スティーブンス判事に次いで在職期間が長い陪席判事として、ケロ対ニュー・ロンドン市事件(Kelo v. City of New London, 545 U.S. 469 (2005))における口頭弁論を主宰した。これにより彼女は、連邦最高裁における口頭弁論を主宰した最初の女性となった。 連邦最高裁の判事の職についてから1998年までの間、オコナーは、人種に関する案件41件のうち、2件を除く全てにおいて少数民族側の当事者に反対の立場を取った。 1990年と1995年の、ミズーリ対ジェンキンス事件(Missouri v. Jenkins, 515 U.S. 70 (1995))において、オコナーは、ミズーリ州に対して過去の人種間の不平等を是正するために学校関係の予算を増加することを命ずる権限は連邦地方裁判所にはないとした多数意見に同調した。また、1991年のフリーマン対ピッツ事件(Freeman v. Pitts, 503 U.S. 467 (1992))においては、以前に人種分離政策(racial segregation)の疑いで法的調査の対象となった学区において全ての人種統合目標が達成されていなかったとしても、当該学区は当該調査の対象から外されることはありうるとした相対的多数意見に同意する補足意見を述べた。ハーマン・シュワーツ(Herman Schwartz)教授は、この2件は「未だに人種分離政策の事実と影響が残存している」案件であったとして、これらの判断を批判している。 1987年のマクレスキー対ケンプ事件(McCleskey v. Kemp, 481 U.S. 279 (1987))は5対4の僅差で判決が下されたが、オコナーは、白人の警察官を殺害したとして有罪判決を受けたアフリカ系アメリカ人の被告人、ウォーレン・マクレスキー(Warren McCleskey)に対する下級審の死刑判決を維持する多数意見に賛成した。本件においては、第一審判決のあったジョージア州のみならず合衆国全体において、黒人の被告人の方が他の人種の被告人よりも死刑判決を受ける可能性が高いという統計上の証拠が被告人の弁護人から提出されていた。 1996年の、ショー対ハント事件(Shaw v. Hunt, 517 U.S. 899, (1996))及びショー対リノ事件(Shaw v. Reno, 509 U.S. 630 (1996))においては、オコナーはレンキストの書いた多数意見(これは、1993年にオコナーが残した画期的判決を踏襲するものである。)に賛成した。これは、ノース・カロライナ州の二つの選挙区を違法とするものであった。ノース・カロライナ州の12選挙区のうち、これら二つは黒人の候補者の選出を容易にするために作られたものである。同州では、約20%の住民が黒人であるにもかかわらず、独立戦争以降当時まで黒人の議員は全く選出されていなかった。最高裁判決は、これらの選挙区は違法なゲリマンダーであるとした。オコナーは、問題の選挙区の形は「不気味だ(bizarre)」と述べた オコナーは、人種に基づく大学入学者選抜制度の合憲性を認めた判事であるにもかかわらず、ハーマン・シュワーツ教授は、彼女を「連邦最高裁における人種に関するアファーマティブ・アクション攻撃の旗手」と呼んだ。 2008年末に、オコナーは、アファーマティブ・アクションは継続すべきだと信ずると述べている。 オコナーは、その指名承認手続におけるのと同様、最高裁判事着任後の初期の段階においては、妊娠中絶に関しては注意深くその立場を明らかにしなかった。これは、一部の保守派が、彼女のアリゾナ州議会における投票傾向から彼女の反妊娠中絶の立場に疑義を表明していたからである。1980年代に連邦最高裁はロー対ウェイド判決の対象を拡張する判決をいくつか下したが、オコナーはこれらの判決に反対の立場を取ることが多かった。1983年のアクロン市対アクロン・リプロダクティブ・ヘルス・センター事件(City of Akron v. Acron Center for Reproductive Health, 462 U.S. 416 (1983))の反対意見においては、彼女は、ロー判決の取った「妊娠3期に基づく規制」を鋭く批判した。また、ソーンバーグ対アメリカ産婦人科学会事件(Thornburgh v. American College of Obstetricians and Gynecologists, 476 U.S. 747 (1986))においては、ロー判決を批判し、「州の妊娠中絶規制の利点やインパクトにもかかわらず、最高裁がその効果と効用を頭ごなしに否定することについては、私は、それが賢明であるとは考えないのみならず、正統であることさえ疑うものである」と述べた。 一方、1989年のウェブスター事件の審議においては、オコナーはロー判決を覆すつもりはないと述べている。 連邦最高裁判事在任中、オコナーは、1990年のホジソン対ミネソタ事件(Hodgson v. Minnesota, 497 U.S. 417 (1990))に至るまで、妊娠中絶の規制を違憲とすることはなかった。 プランド・ペアレントフッド対ケイシー事件(Planned Parenthood v. Casey, 505 U.S. 833 (1992))において、オコナー、はアクロン市事件で自らが打ち立てた理論を使ってロー判決に風穴を開けようとした。ケイシー事件までは、州は妊娠初期における中絶に介入する権限がなかった。しかし、オコナーは、ケイシー判決によって、女性の妊娠中絶に対する権利に「不当な足かせ」をはめない限り州の規制立法を認める可能性を開いた。 オコナーは、アメリカにおける司法判断において外国法を引用することを強く支持した。2003年10月28日に南部国際法研究センター(Southern Center for International Studies)で彼女が行ったスピーチは有名である。 この世界で我々が与える印象は重要なものであり、歴史に足跡を残すものです。現在、「法的関係の国際化」が論じられており、これはアメリカの裁判所でも現実に起こっていることですが、この傾向は今後も強化されるべきであります。勿論、これは、裁判所がその機関としての内国性を放棄すべきだという意味ではありません。しかし、他の国や国際的コミュニティが達した結論は、形式的には我々の判断にあたり強制力を持つものではありませんが、時によってはアメリカの裁判所でも参考にすべき先例として扱うべきであります。これは、「国際的法治主義(trans judicialism)」とでも呼べるものです。 このスピーチの中で、彼女は、2003年のアトキンス対バージニア事件(Atkins v. Virginia, 536 U.S. 304 (2003))に触れた。この事件において、オコナーを含む多数意見は、知的障害者の処刑を違憲としたが、その根拠の一部としてヨーロッパにおける死刑の廃止を引用していた。 このスピーチのように、外国の法律や判決に依拠するという立場に対しては保守派からの批判がある。2004年5月には、アメリカの独立を再確認する決議と称する、強制力のない決議が 連邦下院を通過した。同決議によると、「外国の法律や判例、または外国政府の表明する意見は、それらがアメリカの憲法や法律の意味するところを決定するにあたって関係がある場合を除いて、アメリカの法律判断の根拠となるべきではない。」 オコナーは、中東の国、バーレーンの憲法の次の規定を引用したことがある。「裁判官の判断に優先する権力はなく、いかなる場合にも裁判手続に対する干渉があってはならない。」さらに、オコナーは、「法の支配という考え方の進化発達を醸成することは全ての者の利益になる。」として、アメリカのロー・スクール、高校、大学はこうした考え方を教えるべきだと主張している。これに批判的な者は、そうした考え方は合衆国憲法に反するもので、法の支配ではなく、人の支配を重んじるものだとしている。 しかし、オコナーは、引退後も、裁判官の独立の問題に関する会議を組織し、スピーチを続けている。 保守派からの批判オコナーは、案件ごとに論点を絞って判断を下すというアプローチをとったが、その結果として最高裁では中間派に位置することになった。これを賞賛する者もいれば、批判する者もいた。例えば、ワシントン・ポスト紙の保守派コラムニスト、チャールズ・クラウトハマーは、オコナーには法的哲学が欠如しており、「社会的問題に関する立場に内包された政治的な位置取り」をしていたに過ぎないと批判している。また、もう一人の保守派のコメンテーターであるラメッシュ・ポンヌル(Ramesh Ponnuru)は、オコナーは、保守派の立場からすると「そこそこ悪くない結論を出している」としながらも、彼女の案件ごとのアプローチに関しては、「予見可能性を損ね、裁判官の役割を過大評価することになる」と書いている。 キリスト教の伝統1989年には、オコナーがキリスト教の伝統に関する三件の連邦最高裁判決について書いた手紙が、アリゾナ州の保守的な共和党員によって、アメリカが「キリスト教国家」であることの証左として利用された。オコナー自身は米国聖公会派のキリスト教信者であるが、この件に関して、「その問題に関して私的な見解を述べるのは私の意図ではない」と言っている。 引退オコナーは乳癌と診断されたが、これは1988年に治癒した。なお、同年彼女は虫垂摘出手術も受けている。この結果、実際に引退するまでの17年間、彼女が引退するのではないかとの憶測は常に存在していた。 2000年12月12日のウォール・ストリート・ジャーナル紙は、オコナーは、民主党の政権の元では引退することをためらっていると報じた。
2005年までの11年間、連邦最高裁の構成には全く変化がなかった。これは、最高裁の判事の変化がなかった期間としては史上2番目の長さであった。ウィリアム・レンキスト長官は、その高齢と長期間の癌との闘いから、当時のブッシュ大統領の任期中に最初に引退する判事なのではないかと広く信じられていた。しかし、 2005年, 7月1日に、オコナーは彼よりも早く引退を表明した。同日付のブッシュ大統領への手紙の中で、オコナーは、後任者の指名が上院で承認され次第、連邦最高裁判事の職を引退すると述べた。 7月19日、ブッシュ大統領は、コロンビア特別区巡回区連邦高等裁判所(United States Court of Appeals for the District of Columbia Circuitの判事、ジョン・ロバーツ(John Glover Roberts, Jr.)をオコナーの後継者として指名した。オコナーは、釣りに行った旅行の帰りにこのニュースをカーラジオで聞いた。彼女は、自らの在職期間何度もロバーツの弁論を聞いており、この選択は優れたものであり彼の資格には全く問題ないと感じたが、同時に、自分の交代が女性でないことに若干の失望を感じた。 7月21日、オコナーは、第9巡回区連邦高等裁判所(9th U.S. Circuit)で行われた会合で演説を行い、判事の指名を審議する上院司法委員会(Senate Judiciary Committee)の公聴会をテレビ中継することが、判事選任に関する争いに拍車をかける元凶となっていると述べた。彼女は、司法権の独立に対する攻撃に遺憾の意を表し、また、女性の進出の扉を開いたとしてレーガン大統領を賞賛した。 オコナーは、2005-2006年の回期の始まる2005年 10月3日までには最高裁を去るつもりでいた。しかし、9月3日にレンキストが死去した(オコナーは彼の葬儀で弔辞を詠んだ)ため、その2日後、ブッシュ大統領はオコナーの後任としてのロバーツの指名を撤回し、彼を空席となった最高裁判所長官として指名し直した。そのため、オコナーは、自らの後任の指名が承認されるまで最高裁に留まることに合意した。10月3日、ブッシュ大統領は、大統領法律顧問(White House Counsel)のハリエット・マイヤーズ(Harriet Miers)をオコナーの後任に指名した。ところが、10月27日、マイヤーズはその指名を撤回するようブッシュ大統領に要請し、大統領はこれを受けて、10月31日、第3巡回区連邦高等裁判所(United States Court of Appeals for the Third Circuit)判事、サミュエル・アリートを指名した。アリートの指名は承認され、彼は 2006年 1月31日に、連邦最高裁裁判官に就任した。 オコナーが最後に書いた判決文は、アヨッテ対プランド・ペアレントフッド・オブ・ニュー・イングランド事件(Ayotte v. Planned Parenthood of New England, 546 U.S. 320 (2006))である。これは、妊娠中絶に関する案件であるが、中絶規制に関する実体的判断をしたものではなく、手続的論点に基づき全員一致の結論が出された事件である。 引退後の計画について彼女は、旅行をしたり家族と過ごす他、立法府による裁判官への攻撃に対処するために、アメリカ法曹協会と協力して三権分立と裁判官の役割についての啓蒙活動に携わりたいと述べた。また、連邦最高裁の黎明期の歴史に焦点をあてた本を執筆中であることも発表している。彼女は現在ロックフェラー財団の理事である。オコナーは、あと数年最高裁に残り、病気で「本当にダメになる」まで執務したいと思っていたが、夫がアルツハイマー病に冒されたため、彼とより多くの時間を過ごすために引退を決意した。オコナーは現在でも心身ともに健康であるが、元々は、次の発言のように、他の多くの前任判事の例にならって終身任命の特権を生かすつもりでいたようである。「病気になり本当にダメになるまで居続けた判事がほとんどで、私もおそらくそうなっていたのではないでしょうか。ただ、私の場合には夫が病気になったために、そこで結論を出さなければならなくなっただけなのです。」 フェニックスの連邦裁判所の建物は、彼女の名を冠している。 2024/06/28 02:27更新
|
Sandra Day O'Conner
サンドラ=デイ=オコナーと同じ誕生日3月26日生まれの人
TOPニュース
Hey! Say! JUMPの有岡大貴と松岡茉優が結婚を発表
NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に
King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表
平野紫耀、神宮寺勇太、岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。
元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕
サンドラ=デイ=オコナーと近い名前の人
話題のアホネイター
![サンドラ=デイ=オコナー](https://if2.info/geinou/logo/サンドラ=デイ=オコナー.gif)
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「サンドラ=デイ=オコナー」を素材として二次利用しています。