タフィ=ローズの情報(TuffyRhodes) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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タフィ=ローズの情報まとめ
タフィ=ローズ(Tuffy Rhodes)さんの誕生日は1968年8月21日です。
母親、家族、現在、引退、父親、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。タフィ=ローズの現在の年齢は56歳のようです。
タフィ=ローズのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート タフィ・ローズ(Tuffy Rhodes、本名:カール・デリック・ローズ〈Karl Derrick Rhodes〉、1968年8月21日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球コーチ。 NPBでは1996年 - 2003年にパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の大阪近鉄バファローズ(1998年までは「近鉄バファローズ」)で、2004年 - 2005年はセントラル・リーグ(セ・リーグ)の読売ジャイアンツ(巨人)で、2007年 - 2009年はパ・リーグのオリックス・バファローズでそれぞれプレーした。NPBでは通算400本塁打を記録した唯一の外国人選手である。また近鉄時代の2001年にはシーズン55本塁打を記録し、これは翌2002年のアレックス・カブレラ(西武ライオンズ)による記録とともに、パ・リーグのシーズン本塁打数最多記録(55本)となっている。 母親がプレーしていたソフトボールに影響されて野球を始めたという。ケン・グリフィー・ジュニアとは幼馴染で、いつも一緒に野球をプレーし、家族ぐるみの付き合いでもあったという。 1986年のドラフト3巡目でヒューストン・アストロズに入団。俊足の中堅手として、1A時代の1988年には年間65盗塁を記録している。1990年にメジャーリーグ初昇格を果たす。 1993年4月にカンザスシティ・ロイヤルズに移籍。ロイヤルズではメジャー昇格を果たせなかったが、3Aではそれまでマイナーリーグでの自己最多本塁打が4本だったが、この年は88試合目までに23本を放ち、長距離打者として開花した。 1993年7月31日に3球団が絡むトレードでシカゴ・カブスへ移籍。前述のロイヤルズ3Aと合わせてマイナーリーグで計30本塁打を放った。 1994年の対ニューヨーク・メッツ戦で出場し、ドワイト・グッデンから第1打席より3打席連続本塁打を放ち、名が知れ渡る(開幕戦3本塁打は現在もメジャー記録)。しかし、メジャーに定着することはできなかった。 1995年途中にカブスからウェイバー公示され、ボストン・レッドソックスへ移籍。移籍後も成績を残せず、シーズン終了後にFAとなった。 メジャー在籍時代、俊足の持ち主でもあるローズには先頭打者としての活躍が首脳陣から期待されていたが、ローズは長距離打者として出場したかったために首脳陣と折り合わず、その夢を実現するために日本に来ることを決意した。 1995年10月、ローズは近鉄バファローズと入団契約を締結し、同月27日に入団が発表された。1996年シーズンの年俸は4000万円。近鉄は同年オフに本塁打王を3回獲得したラルフ・ブライアントを解雇しており、ローズはブライアントに代わる大砲として期待された。一方で同時に新外国人として近鉄に入団したクリス・ドネルス(登録名は「C・D」)ともども、巧みさはあるが迫力に欠けるという評価もあった。 来日1年目の1996年は、シーズン3本のサヨナラ本塁打など日本野球に適応し、全試合出場、チーム三冠王となる。 1997年も全試合に出場し、8月にはパ・リーグ新記録(当時)となる4試合連続猛打賞を記録。最終的には来日初の打率3割を記録し、初のベストナインに選出された。4月19日の西武ライオンズ戦、同点の4回無死一塁、フルカウントから西口文也の内角低めをストライクと判定されると、何事か叫びながら球審の中村稔に詰め寄り、中村は「私に向かって最高の侮辱的言葉を吐いた」として、ローズに退場をコールした。 1998年は前年より調子を落とし、前年と同じ22本塁打を放ったものの打率.257だった。7月1日の日本ハムファイターズ戦では、9回にストライク判定に不満を爆発させ、球審の山村達也に暴言を吐き、退場になる。山村は「"ファック"と言われた。1、4回にもストライクの判定に不満そうだった。9回は文句を言ったので退場にした」、さらに山村の胸を小突いたことから、1試合出場停止処分も受けた。 球団名が「大阪近鉄バファローズ」に変更された1999年は、シーズン途中からチームが最下位に低迷する中で成績を伸ばした。最終的には40本塁打・101打点を記録し、それぞれ来日後初のタイトルとなる本塁打王・打点王を獲得、パ・リーグ二冠王となる。 2000年もチームは2年連続で最下位となり、自身も前年を下回る成績だったが3年ぶりに全試合に出場した。 2001年は本塁打を量産し、9月5日の対西武戦(西武ドーム)では50号本塁打を放つ。パ・リーグにおけるシーズン50本塁打は1986年に落合博満(ロッテ・オリオンズ)が達成して以来15年ぶり、また外国人選手によるシーズン50本塁打は1985年に阪神タイガースのランディ・バースが達成して以来16年ぶりで、パ・リーグの外国人選手としては初の快挙であった。9月8日の対福岡ダイエーホークス戦(大阪ドーム)では51号と52号の2本塁打を放ち1963年の野村克也(南海ホークス)、1985年の落合の記録に並び、9月9日の対ダイエー戦(大阪ドーム)でパ・リーグの選手としては史上最多本塁打となる53号本塁打を放った。9月12日の対千葉ロッテマリーンズ戦(大阪ドーム)でバースに並ぶ54号を放ってから6試合は本塁打が出なかったが、9月24日の対西武戦(大阪ドーム)で松坂大輔から本塁打を放ち、王貞治以来の当時のNPBタイ記録となるシーズン55本塁打を達成してパ・リーグ優勝に貢献、初のパ・リーグMVPにも選出された。同年にはチームメイトの中村紀洋も46本塁打を記録し、ローズと2人で合計101本塁打を記録した。また打点も131を記録したが、中村(132打点)と1打点差で打点王との二冠王を逃した。日本シリーズでも第2戦で決勝3点本塁打を放つなど活躍し、チームは日本一を逃したが打線の不調の中で気を吐き敢闘選手賞を受賞した。なお第4戦でも本塁打を放ったが、日本一を決められた第5戦ではチームに本塁打が出なかったこと、またこの年のリーグ優勝が近鉄球団として最後のリーグ優勝となり(球団はその後、2004年のプロ野球再編問題でオリックスと合併して消滅したため)、ローズは近鉄球団の日本シリーズで本塁打を放った最後の打者となった。 2002年は117打点で打点王を獲得。また46本塁打を記録したが、同年はアレックス・カブレラ(西武)が前年の自身と同じくパ・リーグ記録となるシーズン55本塁打を記録したため、本塁打王との二冠王は逃した。同年3月12日の日本ハムとのオープン戦では、2回にフルカウントから関根裕之の外角球を球審の丹波幸一にストライクと判定され、思わず「ブル・シット(クソ野郎)!」と吐き捨てた。米国の審判学校で学び、通訳経験もある丹波は、英語のスラングも理解できたので、即座に退場を言い渡した。4月30日の西武戦では、1試合で2度退場の騒ぎを起こした。5回二死、カウント1-2から許銘傑の内角高めを自信たっぷりに見送ったが、球審の山本隆造の判定は「ストライク!」。直後、激しく抗議して退場を宣告される。「内容は言えませんが、英語で汚い言葉を使いました」という山本に対し、ローズは「"ファッキン・ボール"(クソボール)と言ったんだ。審判を侮辱したんじゃない」と不満をあらわにした。9回に三塁側カメラマン席に現れ、三塁塁審中村稔にヤジを飛ばし、山本が「退場になった選手がグラウンドから見えるところにいてはいけない」と再度退場させる珍事となり、本来なら制裁金10万円程度で済むところ、倍額の20万円を科せられた。 2003年は6月23日と25日に2試合連続満塁本塁打を記録。この記録はNPBでは1993年の秋山幸二(西武)以来10年ぶり4人目、パ・リーグ史上3人目である。最終的には51本塁打を放ち、50本塁打を記録したカブレラとのタイトル争いを制して自身3度目の本塁打王を獲得した。また、3年連続ベストナインにも選出された。打点も117を記録したが、松中信彦(ダイエー)の123打点におよばず、同年も打点王との二冠王は逃した。同年オフの契約更改では、ローズが複数年契約を希望したものの球団は単年契約を提示し、折り合いが付かず交渉は決裂。同年11月10日、退団が発表された。同年の対西武戦では、青木勇人がチームメイトの中村紀洋に死球を与えた際、帽子に手をやることもなかったため、その態度に激高したローズが青木を突き飛ばし、青木はむち打ち症になった。西武・小野賢二球団代表はローズの行動を暴力行為として刑事告訴を示唆したが、青木本人にその意思がなかったことや、リーグとは別に近鉄が独自の処分を科したことから、同代表は「近鉄球団の処置を理解し、これで一件落着としたい」と判断した。 2003年12月26日、セ・リーグの読売ジャイアンツへの移籍が正式決定した。背番号は20。 2004年は落合に次ぐ史上2人目、外国人選手では史上初となる両リーグでの本塁打王を獲得(リーグを跨いでの2年連続本塁打王も史上初)。なお、外国人による4度目の本塁打王獲得も史上初である(2023年シーズン終了時点で史上最多)。この年の巨人はシーズン259本塁打の日本記録を打ち立てた。同年途中にFA権を取得し、翌年から外国人枠の適用外(郭泰源に続き2人目、野手では初)となる。近鉄時代の左翼手・右翼手とは異なり、中堅手としての守備起用が主となる。2005年正月の報知新聞インタビュー上では「登録を狼主(ろうず)にしたい」「引退後は和室を作り、バットを飾りたい」と答えており、野球人生を巨人で終える考えを持っていた。 2005年4月26日の東京ヤクルトスワローズ戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)で、9回表にアレックス・ラミレスが放った左中間への打球を追わなかったことをコーチの弘田澄男に「緩慢プレー」と指摘されると、激高して弘田に掴み掛かるなど激しい口論となった。試合も敗れて5連敗を喫し、試合後も怒りが収まらず、ドームから宿舎に向かう通路で報道陣からこの騒動について問われると必死に宥める通訳を制して「どんどん(記事に)書いて」と前置きした上で「負けたのは俺のせいだと弘田(澄男)さんが言った。日本で10年間やってきたけど尊敬がない。投手があれだけ打たれるのも俺のせい?ピッチャーも悪い。みんな悪い。ジャイアンツ下手くそ。ジャイアンツ大嫌い。東京に帰る」と日本語でまくし立てた。この言動は物議を醸し、罰金を徴収された。5月29日のオリックス戦で退場処分を受け、金田正一の8回を抜いて最多退場(9回)となった。8月に右肩痛の治療で帰国離脱してからは一度も一軍に復帰することなくシーズンを終え、結局この年は101試合の出場で打率.240・27本塁打・70打点と前年より成績を落とし、来日以来初めて規定打席に到達しなかった。11月7日に戦力外通告を受け、この年限りで巨人を退団した。 2006年は帰国してシンシナティ・レッズとマイナー契約を結ぶ。しかし、招待選手としてオープン戦では12試合で27打数6安打と振るわず、レッズから降格を通達された。3月21日に一時は現役引退を表明して、公式戦は1年間プレーしなかった。同年オフに古巣・近鉄の合併先であるオリックス・バファローズの球団関係者に電話で「日本で野球をやりたい。手術した右肩の状態も大丈夫だ」と日本球界への復帰及びオリックスへの入団希望を伝え、入団テストを受けることが決まった。 2007年の春季キャンプで入団テストを実施することが決定し、受験のため来日。当初は体型が以前の87kgから100kgにまで増量していて明らかに身体が丸まっており、関係者一同を不安にさせたが、本人は「少し時間をくれ」と発言。テスト期間中に見事絞り上げ、2月26日に合格。3月1日に入団が決定し、背番号は8に決まった。入団決定時の記者会見の第一声は、日本語での「タダイマ」だった。オリックスでのローズの応援歌は、曲自体は近鉄時代と同じだったものの、歌詞は「再出発」という意味で変更された。 4月4日の千葉ロッテマリーンズ戦で、小野晋吾から4号本塁打を放って日本球界では歴代28人目、外国人選手では初となる通算1000打点を達成。この節目の記録を皮切りに同年はメモリアルが続き、5月10日の対ロッテ戦での1354試合目の出場でロベルト・バルボンが持っていた外国人選手の最多出場記録を更新。5月27日の巨人戦で上原浩治から決勝本塁打を放ち「全球団から本塁打」を達成。6月30日の対日本ハム戦では通算1500本安打を達成。9月2日の対ロッテ戦では通算400本塁打を達成した。 7月17日の対ロッテ戦では3回一死、清水直行の投げた内角高めの球に「危ない」と捕手の里崎智也を睨んだが、里崎が「全然危なくない」と答えたためにエキサイトして里崎を突き飛ばしてパンチ・キックを浴びせ、ジョン・ディーバス(オリックス)、高橋慶彦(ロッテ)両コーチ共々退場処分を受ける(3人同時の退場処分は史上5度目でローズ自身は通算11度目の退場)。9月18日の対西武戦では42号本塁打を放ち、山﨑武司に1本差を付けたものの左股関節を悪化させ、2004年以来の本塁打王獲得間近だった終盤で無念の帰国となった(本塁打王は43本塁打の山崎が獲得)。長打率.603は両リーグ通じてトップ、出塁率.403、四球数88個、三振数147個はパ・リーグ1位であるなど、記録ずくめのシーズンだった。 2008年4月12日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で、レロン・リーが持つ通算1579本安打の外国人選手通算最多安打記録を抜き、外国人通算安打の新記録を達成。5月17日の対ロッテ戦で秋村謙宏球審のストライク判定に抗議、空振り三振での打席完了後に「何か言ってたけど、それは英語で分からない。その時の顔が侮辱行為と感じた」という理由で秋村に退場を宣告された。12回目の退場。5月26日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)では通算1500試合出場を記録、10月1日の福岡ソフトバンクホークス戦では杉内俊哉から40代での40号本塁打を達成し、自身3度目の打点王を獲得。 2009年4月26日の日本ハム戦(スカイマークスタジアム)で、榊原諒から史上12人目となる通算450本塁打を達成。しかし、5月13日の対西武戦(スカイマークスタジアム)で星野智樹から死球を受け、右手第五中手骨折と診断されて離脱した。8月4日の対楽天戦(スカイマークスタジアム)で復帰し、岩隈久志から先制適時打を含む3安打猛打賞を記録。8月7日の対ロッテ戦で通算300二塁打を達成。8月27日の日本ハム戦で、球審の白井一行を「ヘタクソ!」と罵り、通算14度目の退場。10月5日の楽天戦(京セラドーム大阪)が自身にとってシーズン最終戦となり、翌日アメリカへ帰国した。同年は前述の骨折による離脱の影響もあり、日本でプレーした年で最低の成績(84試合出場、91安打・22本塁打、最少となる62打点)で、規定打席数に到達しなかったのも2005年以来、2度目だった(ただし、打率自体は.308と2001年の.327に次ぐ成績)。 推定年俸3億2000万円からの大幅減俸にローズが納得いかず、シーズン終了後の契約交渉が難航したため、12月2日に球団から発表された次年度契約保留選手名簿から名前が外され、自由契約選手として公示された。ローズ側から連絡がなかったこと、岡田彰布新監督の戦力構想から外れたこと、田口壮外野手の入団もあり、球団は2010年1月23日に交渉を打ち切り、そのまま退団した。その後、どこの球団にも所属することはなく、この年限りで2度目の現役引退。 アメリカに帰国し、テキサス州ヒューストン郊外で父親と2人で暮らしながら、息子のバスケットボールチームのコーチをしていた。 2015年5月25日に、近鉄時代のチームメイトでもある吉岡雄二が監督を務めるルートインBCリーグの富山GRNサンダーバーズからのオファーを機に現役復帰を決意し、野手コーチ兼任で入団。このシーズンは41試合に出場し、打率.315、本塁打5の成績を挙げる。選手としての成績のみならず、その人気からグッズが売れ、富山の観客動員も既存のリーグ6球団の中で唯一前年から増加するなど、営業面にも貢献した。このため、球団側は2016年もチームに残留させる予定であったが、オフにふくらはぎを痛めたことがきっかけで来日が遅れ、開幕時点では出場選手登録に含まれていたものの、医師から制止されて来日が叶わず、8月18日に出場選手登録を抹消され、コーチ専任となった。結局、2016年は来日できずに終わった。オフに富山側は2017年に改めて獲得を検討しているとも報じられたが、コーチとしても、選手としても、契約を結ぶことはなかった。
打撃その他人物
巨人移籍時、発言によるトラブルの発生を避けるため、「記者と会話する際は基本的に通訳を介して話すように」という契約が交わされていた。このため、インタビュアーの質問を通訳を介さずに直接聞き取り、自らの英語の答えを通訳に日本語に訳してもらうという一風変わった場面も見られた(後に入団した李承燁も同様の場面が見られた)。「ヨッシャー!!」も関東の球団に移籍したのに合わせて「ヤッタゼー!!」に変更するプランもあったが実現せず、阿部慎之助がインタビューで発する「最高でーす!」を多用するようになった(オリックス入団後も用いていた)。 自身で「見た目で判断せず、とりあえず食べてみるタイプ」と語っている。 嫌いな食べ物はタコ。理由として「グニャグニャして、ゴムをかんでいるみたいだから」。その他、辛いものも苦手。 オートバイ好きでもあり、2001年にMVPを獲得した際には、カワサキモータースジャパンから1500ccのオートバイを贈呈されたこともあった。 2001年9月24日に松坂大輔からシーズン55本目の本塁打を放ったが、同月29日のロッテ戦、30日のダイエー戦では勝負を避けられた。その後のオリックス戦2試合でも本塁打は出ず、新記録はならなかった。 後にローズは当時ダイエーの監督が王貞治だったことについて「王さんに悪い感情はない。日本の野球は捕手とバッテリーコーチが決めるから。実はあの日、55号を記念して王さんにサインボールを3個もらった。そのボールは今も大切に飾っている」と語っている。 王貞治がNPB歴代最高の打者だと評価しており、村上宗隆が2022年にシーズン55号の本塁打記録に並んだ際にインタビューで「村上以外では、松井(秀喜)が日本の最高の打者だと思うか」と聞かれて「ノー、王貞治さんだ。生で見たわけではなく、ビデオだけれども、王さんこそ史上最高の日本選手だと思う。生で見た中では、イチローがベストかな」と答え、「村上は王さんに近づいていくポテンシャルがあると思うか」と聞かれて「ノー(笑)。すまないが、ノーだ。王さんに近づける選手は誰もいない。いい選手はたくさんいる。清原(和博)さん、松井さん、高橋(由伸)さん、イチローさん、長嶋監督、原監督…。ただ、王さんがNo.1だ」と答えている。 ケン・グリフィー・ジュニアとは幼馴染で、いつも一緒にプレーしていた。グリフィー家とローズ家は母親同士が古くからの友人で、家族ぐるみでの付き合いもあったという。 梨田昌孝には「養子にしたいくらい」と可愛がられていた。近鉄時代にヘッドコーチだった伊勢孝夫を「日本のお父さん」と慕い、ヘッドコーチからフロントへ転身した後もスランプに陥った際は指示を仰いでいた。 清原和博と仲が良く「ジャイアンツ移籍時に、キヨさん(清原)がセ・リーグ投手の特徴を良くアドバイスしてくれた」「(オリックス入団時)キヨさんと野球が出来るのが楽しみ」というコメントを残している。清原が引退した2008年には、足の故障でクライマックスシリーズに出場しないことを明らかにした清原に対して「ベンチに座っているだけで良いから一緒に出てください」と涙ながらに頼んでいた。そして、清原の引退試合で40号本塁打を放ったあと、ベンチ前で清原と抱擁を交わして「キヨさんの最後の試合に一緒に出て、本塁打を打てたことが嬉しい」とコメントしている。 近鉄時代のチームメイトで4番を打っていた中村紀洋とはお互い親友というほど仲がよく、2009年に(二度目の)現役引退を表明してからも電話で連絡し合っているという。中村は近鉄球団消滅後の2005年はアメリカでプレーし、2006年にオリックス入団したが、故障の影響で出場試合数が100試合未満に終わったことで公傷にするかどうかを巡って球団と対立し、交渉が決裂してオリックスを退団した。2007年にローズがオリックスに入団したがチームメイトになることはなった。 1997年から2000年まで同僚のフィル・クラークとは同い年ということもあり仲がよく、ベンチなどで談笑していることが多々あった。 堀内恒夫はローズをあまり快く思っていなかったようであり、2019年の記事で「彼には被害妄想の気があって、俺ばかりが差別されるという先入観があった」と監督時代に手を焼いたと語った。 平下晃司とは、近鉄とオリックスでともにプレーした間柄だった。2008年のオープン戦、平下がホームランを打ったにもかかわらず二軍行きを告げられると、これを知ったローズは激怒。同僚のグレッグ・ラロッカの加勢も受けて、監督のテリー・コリンズに対し猛抗議を行った。 各年度の太字はリーグ最高。 本塁打王:4回(1999年、2001年、2003年、2004年) 打点王:3回(1999年、2002年、2008年) 最高出塁率:1回(2007年) 最優秀選手:1回(2001年) ベストナイン:7回(外野手部門:1997年、1999年、2001年 - 2004年、指名打者部門:2008年) 日本シリーズ敢闘賞:1回(2001年) 月間MVP:3回(1997年7月、2001年6月、2007年7月) ホームランダービー優勝:1回(2008年第1戦) JA全農Go・Go賞:2回(好捕賞:2002年6月 強肩賞:2003年9月) IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:2回(1999年、2001年) 日本プロスポーツ大賞 殊勲賞:1回(2001年) 報知プロスポーツ大賞:1回(2001年) 初出場・初先発出場:1990年8月7日、対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦(ヒューストン・アストロドーム)、7番・左翼手で先発出場 初打席:同上、3回裏にジョン・バーケットから二飛 初安打:同上、8回裏にスティーブ・ベドローシアンから中前安打 初盗塁:1990年8月11日、対サンディエゴ・パドレス戦(ヒューストン・アストロドーム)、3回裏に二盗(投手:カルビン・シラルディ、捕手:ベニート・サンティアゴ) 初本塁打・初打点:1990年8月15日、対シカゴ・カブス戦(リグレー・フィールド)、4回表にマイク・ビーレッキーから左中間越ソロ 初出場・初先発出場:1996年3月30日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、5番・左翼手で先発出場 初打席:同上、2回表に新谷博から空振り三振 初安打・初打点:同上、4回表に新谷博から中前先制適時打 初盗塁:1996年4月2日、対オリックス・ブルーウェーブ1回戦(藤井寺球場)、5回裏に二盗(投手:長谷川滋利、捕手:三輪隆) 初本塁打:1996年4月4日、対オリックス・ブルーウェーブ3回戦(藤井寺球場)、6回裏に清原雄一から右越2ラン 100本塁打:1999年7月20日、対千葉ロッテマリーンズ16回戦(大阪ドーム)、5回裏に川井貴志から右越2ラン ※史上206人目 150本塁打:2001年5月13日、千葉ロッテマリーンズ9回戦(大阪ドーム)、7回裏に小野晋吾から右越2ラン ※史上117人目 200本塁打:2002年4月22日、対日本ハムファイターズ4回戦(東京ドーム)、1回表にカルロス・ミラバルから中越先制ソロ ※史上76人目 1000安打:2002年8月13日、対オリックス・ブルーウェーブ20回戦(グリーンスタジアム神戸)、8回表にエド・ヤーナルから左前安打 ※史上210人目 250本塁打:2003年5月12日、対福岡ダイエーホークス7回戦(福岡ドーム)、5回表に山田秋親から右越ソロ ※史上44人目、外国人史上5人目 1000試合出場:2003年6月10日、対オリックス・ブルーウェーブ13回戦(大阪ドーム)、3番・左翼手で先発出場 ※史上387人目 1000三振:2003年9月13日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(大阪ドーム)、1回裏に小林宏之から ※史上35人目 300本塁打:2004年5月2日、対広島東洋カープ5回戦(東京ドーム)、8回裏にジョン・ベイルから右越ソロ ※史上28人目、外国人史上初 350本塁打:2005年6月14日、対東北楽天ゴールデンイーグルス4回戦(東京ドーム)、4回裏に朝井秀樹から右中間へ2ラン ※史上18人目、外国人史上初 1000打点:2007年4月4日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(京セラドーム大阪)、9回裏に小野晋吾から右越2ラン ※史上28人目、外国人史上初 1500安打:2007年6月30日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(京セラドーム大阪)、7回裏に江尻慎太郎から右前安打 ※史上91人目 3000塁打:2007年8月7日、対千葉ロッテマリーンズ16回戦(千葉マリンスタジアム)、4回裏に久保康友から左越ソロ ※史上41人目、外国人史上初 400本塁打:2007年9月2日、対千葉ロッテマリーンズ19回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に薮田安彦から中越ソロ ※史上14人目、外国人史上初 1000得点:2008年5月21日、対阪神タイガース2回戦(スカイマークスタジアム)、4回裏に後藤光尊の右中間適時二塁打で生還 ※史上34人目、外国人史上初 1500試合出場:2008年5月26日、対横浜ベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)、4番・左翼手で先発出場 ※史上158人目、外国人史上初 1500三振:2008年6月8日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)、7回表に渡辺亮から ※史上6人目、外国人史上初 450本塁打:2009年4月26日、対北海道日本ハムファイターズ5回戦(スカイマークスタジアム)、4回裏に榊原諒から右中間へソロ ※史上12人目、外国人史上初 300二塁打:2009年8月7日、対千葉ロッテマリーンズ13回戦(京セラドーム大阪)、1回裏に渡辺俊介から左中間二塁打 ※史上53人目、外国人史上初 3500塁打:2009年9月25日、対千葉ロッテマリーンズ22回戦(千葉マリンスタジアム)、2回表に成瀬善久から右越安打 ※史上23人目、外国人史上初 シーズン55本塁打:2001年 ※パ・リーグ最多タイ、史上2位タイ シーズン137得点:2001年 ※パ・リーグ最多、史上2位 シーズン364塁打:2001年 ※パ・リーグ最多、史上3位 奪本塁打投手人数:228 ※プロ野球史上3位 シーズン50本塁打以上:2回(2001年・55本、2003年・51本) ※2001年の達成時は平成かつ21世紀初、複数回記録は史上3人目、外国人史上初 2試合連続満塁本塁打:2003年6月23日 - 6月25日 ※史上4人目 10年連続シーズン100三振以上:1996年 - 2005年 ※史上初 在籍12シーズン連続100三振以上:1996年 - 2005年、2007年 - 2008年 全球団から本塁打:2007年5月27日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、11回表に上原浩治から右越決勝2ラン ※史上8人目 通算0犠打 ※史上最多となる通算7320打席での記録 京セラドーム(大阪ドーム)通算最多本塁打:149本(2位は中村紀洋の123本) 京セラドーム(大阪ドーム)通算最多打点:411打点(2位は中村紀洋の373打点) オールスターゲーム出場:10回(1997年、1998年、1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年、2007年、2008年) 4(1990年 - 1993年) 25(1993年 - 1995年) 29(1995年) 20(1996年 - 2005年) 8(2007年 - 2009年) 16(2015年 - 2016年) 2001年、少年サンデー超2001年11月号に「タフィ・ローズ物語」が掲載された。 ^ 5月19日の対西武7回戦(藤井寺球場)では、5対5の同点となっていた9回裏に二死満塁で打席を迎え、潮崎哲也からサヨナラ満塁本塁打、6月23日の対千葉ロッテマリーンズ戦(藤井寺球場)で5-5の同点の9回無死一・二塁の打席で成本年秀からサヨナラ3点本塁打、7月12日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(藤井寺球場)で6-6の同点の延長12回二死無走者の打席で平井正史からサヨナラ本塁打の計3本のサヨナラ本塁打を記録。 ^ 結果としてこの発言が、シーズン後の戦力外通告の遠因になったと言われている。後にローズは、巨人でチームメイトから常に疎外されていたことなどを暴露した。 ^ 8を付けた理由として「近鉄で8年間プレーし、親友の中村紀洋が付けていた番号だから」(当時、中村は中日ドラゴンズへ育成選手として入団) ^ 入団テスト期間中「もし(テストに)合格したなら、背番号は近鉄に入団した(1996)年にちなんで96が良い」と言っていた。 ^ 1325試合目での達成は落合博満、藤村富美男に次ぐ史上3位のスピード記録である。 ^ 外国人選手ではレロン・リーに次ぎ史上2人目。 ^ 日本プロ野球において外国人選手の400号は史上初である。1435試合での400号達成は、王貞治の1422試合に次いで史上2番目のスピード記録。また、39歳4ヶ月での400号到達は門田博光に次ぐ2番目の年長記録である。 ^ 40代での40本塁打、同100打点達成は1988年の門田博光に次いで史上2人目。 ^ 日本プロ野球において外国人選手の450号は史上初(1609試合で450号達成は、王貞治の1559試合に次いで史上2番目のスピード記録)。これによって通算224人の投手から本塁打を記録し、清原和博が持つプロ野球記録を更新した。 ^ この年より福島ホープスと武蔵ヒートベアーズが加入したため、その2球団以外。 ^ なお、中村は2007年に中日に育成枠で入団し、その後支配下登録され2008年までプレー。その年のオフにFA宣言して東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍し、2009年はローズと中村共にパ・リーグでプレーした。 ^ G.G.佐藤と引き分けによる両者優勝。 ^ 2019年6月9日に巨人・阿部が対ロッテ戦で田中から本塁打を放ち更新、さらに同年中村剛也がプロ野球記録およびパ・リーグ記録を更新。 ^ 歴代最高記録 本塁打 【シーズン記録】日本野球機構オフィシャルサイト 2022年10月7日閲覧。 ^ 『毎日新聞』1995年10月19日東京朝刊スポーツ面21頁「プロ野球だより 近鉄 新外国人選手決まる」(毎日新聞東京本社) - 1995年(平成7年)10月号697頁。 ^ 『毎日新聞』1995年10月28日東京朝刊第14版第一スポーツ面25頁「[プロ野球だより]27日 近鉄 新外国人3選手発表」(毎日新聞東京本社) - 『毎日新聞』縮刷版 1995年(平成7年)10月号1075頁。 ^ 『読売新聞』1995年10月20日東京朝刊スポーツA面21頁「近鉄・新外国人2人決まる」(読売新聞東京本社) ^ 『毎日新聞』1996年3月27日東京朝刊第14版第二スポーツ面15頁「プロ野球 外国人補強、今年は派手さより質 目を引く韓国・台湾プロからの移籍組」(毎日新聞東京本社【神保忠弘】) - 『毎日新聞』縮刷版 1996年(平成8年)3月号1099頁。 ^ 『毎日新聞』1996年5月20日東京朝刊第14版第二スポーツ面22頁「ローズ「ヨッシャー」 満塁サヨナラ弾 近鉄9-5西武 7回戦 観衆17,000」(毎日新聞東京本社【藤岡行弘】) - 『毎日新聞』縮刷版 1996年(平成8年)5月号698頁。 ^ 『朝日新聞』1996年3月28日東京朝刊第二スポーツ面30頁「(今年の戦力 パ・リーグ:下)西武・近鉄 近鉄 小粒打線も頼みの綱」(朝日新聞東京本社:川崎友水) ^ 「ローズ、サヨナラ満塁弾」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1996年(平成8年)5月20日付朝刊、20面(スポーツ面)。 ^ 「ローズ3ラン 近鉄サヨナラ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1996年(平成8年)6月24日付朝刊、18面(スポーツ面)。 ^ 「BW今季初サヨナラ負け」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1996年(平成8年)7月13日付朝刊、21面(スポーツ面)。 ^ 「タフィ・ローズ、NPB史上最多14回も退場処分を受けた球史に残る“暴れん坊”」『デイリー新潮』2023年8月12日。2023年9月2日閲覧。 ^ 年度別成績 2001年 パシフィック・リーグ ^ 近鉄、タフィ・ローズ外野手の残留交渉決裂か。 ^ 近鉄のローズ、退団が確定 巨人入り確実 ^ 「当事者ではないのに「乱闘の主役」に 仲間への"無礼"にブチギレたプロ野球選手たち」『AERA dot.』2022年5月28日。2024年2月14日閲覧。 ^ 幻に消ゆ巨人・星野監督 サイン直前で降りた全真相 ^ 巨人のタフィ・ローズ外野手が帰国、今季限りで退団へ。 ^ "乱闘王"タフィ・ローズ…追随許さぬ退場「14」 07年7月17日はロッテ・里崎が… スポーツニッポン、2020年4月27日、2021年3月6日閲覧 ^ 「顔が侮辱行為」ローズ三振即退場 スポーツニッポン、2008年5月18日、2021年3月6日閲覧 ^ 「【オリックス】ローズ1500試合出場達成」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2008年5月26日。2008年5月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月18日閲覧。 ^ 「【オリックス】ローズが通算450号」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年4月26日。2009年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月18日閲覧。 ^ 「オリ痛い、ローズ右手甲骨折で全治2ヶ月」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年5月15日。2010年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月18日閲覧。 ^ 「ローズ復帰即猛打賞!完敗オリに光」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年8月5日。2009年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月18日閲覧。 ^ 「オリックスのローズが今季最終戦で2打点」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年10月6日。2009年11月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月18日閲覧。 ^ 「ローズのオリックス退団が決定的、引退か」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年12月30日。2010年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月18日閲覧。 ^ 「ジェフ、ローズ、スレッジ…自由契約89人」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年12月3日。2009年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月18日閲覧。 ^ 「岡田監督明かす「田口入団、ローズ無理」」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2010年1月10日。2010年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月18日閲覧。 ^ 「ローズ引退も、オリ「オファーしない」」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2010年1月24日。2010年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月18日閲覧。 ^ 【BCリーグ】ローズが日本球界復帰!、スポーツ報知、2015年5月25日掲載。 ^ タフィ・ローズ契約合意のお知らせ、富山GRNサンダーバーズ、2015年5月25日掲載。 ^ 「【BCリーグ】富山、元巨人ローズ再獲得へ…15年兼任コーチで戦力、指導、集客力に貢献」『スポーツ報知』2016年11月26日。2016年11月26日閲覧。 ^ 「【BCリーグ】富山、ローズ効果でグッズバカ売れ…観客も昨季3割増」『スポーツ報知』2016年1月30日。2016年11月26日閲覧。 ^ またいつの日にか - 菊池慶剛「ローズ語り」chapter9(2016年9月14日) ^ 開幕戦出場選手登録一覧 (PDF) - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2016年4月8日) ^ 【8月18日】出場選手登録一覧 - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2016年8月18日) ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2005』白夜書房、2005年、102頁。ISBN 4-86191-015-3。 ^ 【楽天】「退場日本記録14」まで3 日刊スポーツ 2010年7月2日 ^ 「プロ野球の"退場王"は?ロッテ・井口監督は自身2度目【上位一覧】」『デイリースポーツ online』2022年5月14日。2022年6月24日閲覧。 ^ 「パンチョ伊東が直撃!! 助っ人たちのAMERICAN DREAM」『月刊メジャー・リーグ』 1997年12月号 ベースボール・マガジン社 46頁 ^ T.ローズ 日本野球機構 ^ 「頼れる4番タフィ・ローズの素顔を斬る!」『バフィ・バフィTOPICS 99年8月号』。2001年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月2日閲覧。 ^ 中溝康隆「外国人最多の"464発男"タフィ・ローズはなぜコーチの胸ぐらをつかんだのか?/平成助っ人賛歌」『週刊ベースボールONLINE』ベースボール・マガジン社、2021年3月30日。2021年6月5日閲覧。 ^ 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北米・欧州出身の日本プロ野球外国人選手一覧#アメリカ合衆国 大阪近鉄バファローズの選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 富山GRNサンダーバーズの選手一覧 オハイオ州出身著名人の一覧 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube 個人年度別成績 ローズ - NPB.jp 日本野球機構 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE ローズ語り - 2016年に自らの来歴を語ったコラム(編集・菊池慶剛。8回で中断) 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 山本一人 1952 柚木進 1953 岡本伊三美 1954 大下弘 1955 飯田徳治 1956 中西太 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 山内和弘 1961 野村克也 1962 張本勲 1963 野村克也 1964 J.スタンカ 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 足立光宏 1968 米田哲也 1969 長池徳二 1970 木樽正明 1971 長池徳二 1972 福本豊 1973 野村克也 1974 金田留広 1975 加藤秀司 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 C.マニエル 1980 木田勇 1981 江夏豊 1982 落合博満 1983 東尾修 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 石毛宏典 1987 東尾修 1988 門田博光 1989 R.ブライアント 1990 野茂英雄 1991 郭泰源 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 西口文也 1998 松井稼頭央 1999 工藤公康 2000 松中信彦 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 城島健司 2004 松中信彦 2005 杉内俊哉 2006 小笠原道大 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 和田毅 2011 内川聖一 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 柳田悠岐 2016 大谷翔平 2017 D.サファテ 2018 山川穂高 2019 森友哉 2020 柳田悠岐 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 小鶴誠 1951 青田昇 1952 杉山悟 1953 藤村富美男 1954 青田昇 1955 町田行彦 1956 青田昇 1957 青田昇, 佐藤孝夫 1958 長嶋茂雄 1959 桑田武, 森徹 1960 藤本勝巳 1961 長嶋茂雄 1962 王貞治 1963 王貞治 1964 王貞治 1965 王貞治 1966 王貞治 1967 王貞治 1968 王貞治 1969 王貞治 1970 王貞治 1971 王貞治 1972 王貞治 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 田淵幸一 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 山本浩二 1979 掛布雅之 1980 山本浩二 1981 山本浩二 1982 掛布雅之 1983 山本浩二, 大島康徳 1984 宇野勝, 掛布雅之 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 ランス 1988 C.ポンセ 1989 L.パリッシュ 1990 落合博満 1991 落合博満 1992 J.ハウエル 1993 江藤智 1994 大豊泰昭 1995 江藤智 1996 山崎武司 1997 D.ホージー 1998 松井秀喜 1999 R.ペタジーニ 2000 松井秀喜 2001 R.ペタジーニ 2002 松井秀喜 2003 A.ラミレス, T.ウッズ 2004 T.ローズ, T.ウッズ 2005 新井貴浩 2006 T.ウッズ 2007 村田修一 2008 村田修一 2009 T.ブランコ 2010 A.ラミレス 2011 W.バレンティン 2012 W.バレンティン 2013 W.バレンティン 2014 B.エルドレッド 2015 山田哲人 2016 筒香嘉智 2017 A.ゲレーロ 2018 N.ソト 2019 N.ソト 2020 岡本和真 2021 村上宗隆, 岡本和真 2022 村上宗隆 2023 岡本和真 2024 村上宗隆 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 大下弘 1952 深見安博 1953 中西太 1954 中西太 1955 中西太 1956 中西太 1957 野村克也 1958 中西太 1959 山内和弘 1960 山内和弘 1961 野村克也, 中田昌宏 1962 野村克也 1963 野村克也 1964 野村克也 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 野村克也 1968 野村克也 1969 長池徳二 1970 大杉勝男 1971 大杉勝男 1972 長池徳二 1973 長池徳二 1974 C.ジョーンズ 1975 土井正博 1976 C.ジョーンズ 1977 L.リー 1978 B.ミッチェル 1979 C.マニエル 1980 C.マニエル 1981 T.ソレイタ, 門田博光 1982 落合博満 1983 門田博光 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 秋山幸二 1988 門田博光 1989 R.ブライアント 1990 O.デストラーデ 1991 O.デストラーデ 1992 O.デストラーデ 1993 R.ブライアント 1994 R.ブライアント 1995 小久保裕紀 1996 T.ニール 1997 N.ウィルソン 1998 N.ウィルソン 1999 T.ローズ 2000 中村紀洋 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 T.ローズ 2004 松中信彦, F.セギノール 2005 松中信彦 2006 小笠原道大 2007 山﨑武司 2008 中村剛也 2009 中村剛也 2010 T-岡田 2011 中村剛也 2012 中村剛也 2013 M.アブレイユ 2014 E.メヒア, 中村剛也 2015 中村剛也 2016 B.レアード 2017 A.デスパイネ 2018 山川穂高 2019 山川穂高 2020 浅村栄斗 2021 杉本裕太郎 2022 山川穂高 2023 G.ポランコ, 近藤健介, 浅村栄斗 2024 山川穂高 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 飯田徳治 1952 飯田徳治 1953 中西太 1954 山内和弘 1955 山内和弘 1956 中西太 1957 中西太 1958 葛城隆雄 1959 葛城隆雄 1960 山内和弘 1961 山内和弘 1962 野村克也 1963 野村克也 1964 野村克也 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 野村克也 1968 G.アルトマン 1969 長池徳二 1970 大杉勝男 1971 門田博光 1972 野村克也, 大杉勝男 1973 長池徳二 1974 長池徳二 1975 加藤秀司 1976 加藤秀司 1977 L.リー 1978 B.マルカーノ 1979 加藤英司 1980 C.マニエル 1981 T.ソレイタ 1982 落合博満 1983 水谷実雄 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 ブーマー 1988 門田博光 1989 ブーマー 1990 O.デストラーデ, 石嶺和彦 1991 O.デストラーデ, J.トレーバー 1992 ブーマー 1993 R.ブライアント 1994 石井浩郎 1995 イチロー, 初芝清, 田中幸雄 1996 T.ニール 1997 小久保裕紀 1998 N.ウィルソン 1999 T.ローズ 2000 中村紀洋 2001 中村紀洋 2002 T.ローズ 2003 松中信彦 2004 松中信彦 2005 松中信彦 2006 小笠原道大, A.カブレラ 2007 山﨑武司 2008 T.ローズ 2009 中村剛也 2010 小谷野栄一 2011 中村剛也 2012 李大浩 2013 浅村栄斗 2014 中田翔 2015 中村剛也 2016 中田翔 2017 A.デスパイネ 2018 浅村栄斗 2019 中村剛也 2020 中田翔 2021 島内宏明 2022 山川穂高 2023 近藤健介 2024 山川穂高 表 話 編 歴 1962 張本勲 1963 ブルーム 1964 張本勲 1965 D.スペンサー 1966 榎本喜八 1967 張本勲 1968 張本勲 1969 張本勲 1970 張本勲 1971 江藤慎一 1972 張本勲 1973 張本勲 1974 張本勲 1975 小川亨 1976 加藤秀司 1977 加藤秀司 1978 佐々木恭介 1979 加藤英司 1980 栗橋茂 1981 門田博光 1982 落合博満 1983 スティーブ 1984 スティーブ 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 門田博光 1988 門田博光 1989 松永浩美 1990 清原和博 1991 白井一幸 1992 清原和博 1993 辻発彦 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 鈴木健 1998 片岡篤史 1999 イチロー 2000 イチロー 2001 中村紀洋 2002 A.カブレラ 2003 小笠原道大 2004 松中信彦 2005 松中信彦 2006 松中信彦 2007 T.ローズ 2008 中島裕之 2009 中島裕之 2010 A.カブレラ 2011 糸井嘉男 2012 糸井嘉男 2013 E.ヘルマン 2014 糸井嘉男 2015 柳田悠岐 2016 柳田悠岐 2017 柳田悠岐 2018 柳田悠岐 2019 近藤健介 2020 近藤健介 2021 吉田正尚 2022 吉田正尚 2023 近藤健介 2024 近藤健介 表 話 編 歴 1950 青田昇, 岩本義行, 小鶴誠 1951 青田昇, 岩本義行, 金田正泰 1952 杉山悟, 南村不可止, 与那嶺要 1953 金田正泰, 南村不可止, 与那嶺要 1954 杉山悟, 与那嶺要, 渡辺博之 1955 町田行彦, 与那嶺要, 渡辺博之 1956 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要 1957 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要 1958 田宮謙次郎, 森徹, 与那嶺要 1959 大和田明, 坂崎一彦, 森徹 1960 中利夫, 並木輝男, 森徹 1961 江藤慎一, 近藤和彦, 森永勝治 1962 近藤和彦, 並木輝男, 森永勝治 1963 江藤慎一, 近藤和彦, 藤井栄治 1964 江藤慎一, 近藤和彦, 重松省三 1965 江藤慎一, 近藤和彦, 中暁生 1966 江藤慎一, 中暁生, 山本一義 1967 近藤和彦, 柴田勲, 中暁生 1968 江藤慎一, D.ロバーツ, 山内一弘 1969 高田繁, D.ロバーツ, 山本一義 1970 江尻亮, 高田繁, 中暁生 1971 柴田勲, 高田繁, 水谷実雄 1972 柴田勲, 高田繁, 若松勉 1973 江尻亮, 柴田勲, 若松勉 1974 G.マーチン, 末次利光, 若松勉 1975 井上弘昭, 山本浩二, ロジャー 1976 張本勲, 谷沢健一, 若松勉 1977 張本勲, 山本浩二, 若松勉 1978 C.マニエル, 山本浩二, 若松勉 1979 M.ラインバック, 山本浩二, 若松勉 1980 杉浦亨, 山本浩二, 若松勉 1981 J.ライトル, 田尾安志, 山本浩二 1982 田尾安志, 長崎啓二, 山本浩二 1983 田尾安志, 松本匡史, 山本浩二 1984 山崎隆造, 山本浩二, 若松勉 1985 杉浦享, 真弓明信, 山崎隆造 1986 W.クロマティ, 山本浩二, 吉村禎章 1987 W.クロマティ, C.ポンセ, 吉村禎章 1988 C.ポンセ, J.パチョレック, 広沢克己 1989 W.クロマティ, 彦野利勝, 山崎賢一 1990 J.パチョレック, 原辰徳, 広沢克己 1991 R.J.レイノルズ, 原辰徳, 広沢克己 1992 飯田哲也, 前田智徳, L.シーツ 1993 A.パウエル, 新庄剛志, 前田智徳 1994 A.パウエル, G.ブラッグス, 前田智徳 1995 A.パウエル, 金本知憲, 松井秀喜 1996 A.パウエル, 松井秀喜, 山崎武司 1997 鈴木尚典, D.ホージー, 松井秀喜 1998 鈴木尚典, 前田智徳, 松井秀喜 1999 関川浩一, 高橋由伸, 松井秀喜 2000 金本知憲, 新庄剛志, 松井秀喜 2001 稲葉篤紀, 金本知憲, 松井秀喜 2002 清水隆行, 福留孝介, 松井秀喜 2003 赤星憲広, A.ラミレス, 福留孝介 2004 金本知憲, 嶋重宣, T.ローズ 2005 青木宣親, 赤星憲広, 金本知憲 2006 青木宣親, 金本知憲, 福留孝介 2007 青木宣親, A.ラミレス, 高橋由伸 2008 A.ラミレス, 青木宣親, 金本知憲 2009 A.ラミレス, 青木宣親, 内川聖一 2010 M.マートン, 青木宣親, 和田一浩 2011 長野久義, M.マートン, 青木宣親 2012 長野久義, 大島洋平, W.バレンティン 2013 W.バレンティン, M.マートン, 長野久義 2014 M.マートン, 丸佳浩, 雄平 2015 筒香嘉智, 福留孝介, 平田良介 2016 鈴木誠也, 筒香嘉智, 丸佳浩 2017 丸佳浩, 鈴木誠也, 筒香嘉智 2018 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト 2019 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト 2020 佐野恵太, 丸佳浩, 鈴木誠也 2021 鈴木誠也, 近本光司, 塩見泰隆 2022 近本光司, 佐野恵太, 岡林勇希 2023 近本光司, 西川龍馬, 岡林勇希 表 話 編 歴 1950 飯島滋弥, 大下弘, 別当薫 1951 飯島滋弥, 大下弘, 別当薫 1952 飯島滋弥, 大下弘, 別当薫 1953 大下弘, 別当薫, 堀井数男 1954 大下弘, 関口清治, 山内和弘 1955 飯田徳治, 戸倉勝城, 山内和弘 1956 杉山光平, 戸倉勝城, 山内和弘 1957 大下弘, 毒島章一, 山内和弘 1958 杉山光平, 関口清治, 毒島章一 1959 杉山光平, 高倉照幸, 山内和弘 1960 田宮謙次郎, 張本勲, 山内和弘 1961 田宮謙次郎, 張本勲, 山内和弘 1962 張本勲, 山内一弘, 吉田勝豊 1963 張本勲, 広瀬叔功, 山内一弘 1964 高倉照幸, 張本勲, 広瀬叔功 1965 張本勲, 広瀬叔功, 堀込基明 1966 高倉照幸, 張本勲, 毒島章一 1967 土井正博, 長池徳二, 張本勲 1968 G.アルトマン, 土井正博, 張本勲 1969 長池徳二, 永淵洋三, 張本勲 1970 G.アルトマン, 長池徳二, 張本勲 1971 門田博光, G.アルトマン, 長池徳二 1972 長池徳二, 張本勲, 福本豊 1973 長池徳二, 張本勲, 福本豊 1974 D.ビュフォード, 張本勲, 福本豊 1975 佐々木恭介, 白仁天, 弘田澄男 1976 門田博光, 弘田澄男, 福本豊 1977 門田博光, 福本豊, L.リー 1978 佐々木恭介, 福本豊, 簑田浩二 1979 新井宏昌, 栗橋茂, 福本豊 1980 栗橋茂, 福本豊, L.リー 1981 島田誠, テリー, 福本豊 1982 新井宏昌, 栗橋茂, 福本豊 1983 島田誠, テリー, 簑田浩二 1984 高沢秀昭, T.クルーズ, 簑田浩二 1985 金森永時, 熊野輝光, 横田真之 1986 秋山幸二, 新井宏昌, 横田真之 1987 秋山幸二, 新井宏昌, T.ブリューワ 1988 秋山幸二, 高沢秀昭, 平野謙 1989 秋山幸二, 藤井康雄, R.ブライアント 1990 秋山幸二, 石嶺和彦, 西村徳文 1991 秋山幸二, 佐々木誠, 平井光親 1992 秋山幸二, 佐々木誠, 高橋智 1993 秋山幸二, 佐々木誠, 藤井康雄 1994 イチロー, K.ライマー, 佐々木誠 1995 イチロー, 佐々木誠, D.ジャクソン 1996 イチロー, 田口壮, 村松有人 1997 イチロー, 佐々木誠, T.ローズ 1998 イチロー, 大村直之, 柴原洋 1999 イチロー, 谷佳知, T.ローズ 2000 イチロー, 柴原洋, S.オバンドー 2001 礒部公一, 谷佳知, T.ローズ 2002 谷佳知, T.ローズ, 小関竜也 2003 谷佳知, T.ローズ, 和田一浩 2004 和田一浩, SHINJO, 谷佳知 2005 和田一浩, 宮地克彦, M.フランコ 2006 稲葉篤紀, 松中信彦, 和田一浩 2007 稲葉篤紀, 森本稀哲, 大村直之 2008 稲葉篤紀, 栗山巧, リック 2009 鉄平, 糸井嘉男, 稲葉篤紀 2010 多村仁志, T-岡田, 栗山巧 2011 糸井嘉男, 内川聖一, 栗山巧 2012 糸井嘉男, 角中勝也, 内川聖一 2013 長谷川勇也, 内川聖一, 中田翔 2014 柳田悠岐, 糸井嘉男, 中田翔 2015 秋山翔吾, 柳田悠岐, 清田育宏 2016 角中勝也, 糸井嘉男, 西川遥輝 2017 柳田悠岐, 秋山翔吾, 西川遥輝 2018 柳田悠岐, 秋山翔吾, 吉田正尚 2019 荻野貴司, 秋山翔吾, 吉田正尚 2020 柳田悠岐, 吉田正尚, 近藤健介 2021 杉本裕太郎, 吉田正尚, 柳田悠岐 2022 松本剛, 柳田悠岐, 島内宏明 2023 近藤健介, 万波中正, 柳田悠岐 表 話 編 歴 1975 長池徳二 1976 大田卓司 1977 高井保弘 1978 土井正博 1979 C.マニエル 1980 C.マニエル 1981 門田博光 1982 T.ソレイタ 1983 門田博光 1984 L.リー 1985 L.リー 1986 石嶺和彦 1987 石嶺和彦 1988 門田博光 1989 門田博光 1990 O.デストラーデ 1991 O.デストラーデ 1992 O.デストラーデ 1993 R.ブライアント 1994 R.ブライアント 1995 T.ニール 1996 T.ニール 1997 D.マルティネス 1998 N.ウィルソン 1999 P.クラーク 2000 N.ウィルソン 2001 F.ボーリック 2002 和田一浩 2003 A.カブレラ 2004 F.セギノール 2005 松中信彦 2006 F.セギノール 2007 山﨑武司 2008 T.ローズ 2009 山﨑武司 2010 福浦和也 2011 J.フェルナンデス 2012 W.ペーニャ 2013 M.アブレイユ 2014 中村剛也 2015 李大浩 2016 大谷翔平 2017 A.デスパイネ 2018 近藤健介 2019 A.デスパイネ 2020 栗山巧 2021 近藤健介 2022 吉田正尚 2023 G.ポランコ 表 話 編 歴 76 山田久志 77 山田久志 78 鈴木啓示 79 C.マニエル 80 木田勇 81 江夏豊 82 落合博満 83 東尾修 84 ブーマー 85 落合博満 86 落合博満 87 工藤公康 88 門田博光 89 阿波野秀幸 90 野茂英雄 91 秋山幸二 92 石井丈裕 93 辻発彦 94 イチロー 95 イチロー 96 イチロー 97 松井稼頭央 98 イチロー 99 松坂大輔 00 中村紀洋 01 T.ローズ 02 松井稼頭央 03 城島健司 04 松中信彦 05 渡辺俊介 06 ダルビッシュ有 07 山﨑武司 08 岩隈久志 09 鉄平 10 T-岡田 11 内川聖一 12 吉川光夫 13 田中将大 14 大谷翔平 15 柳田悠岐 16 大谷翔平 17 D.サファテ 18 山川穂高 19 森友哉 20-21 中止 アメリカ合衆国の野球選手 アフリカ系アメリカ人の野球選手 ヒューストン・アストロズの選手 シカゴ・カブスの選手 ボストン・レッドソックスの選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 富山GRNサンダーバーズ及びその前身球団の選手 本塁打王 (NPB) 打点王 (NPB) 最優秀選手 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 アメリカ合衆国の野球指導者 アメリカ合衆国のバスケットボール指導者 シンシナティ出身の人物 1968年生 存命人物 最高出塁率 (NPB) 言葉を濁した記述のある記事 (誰2)/2023年 2024/11/23 14:25更新
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Tuffy Rhodes
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