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デーモン=ヒルの情報 (DamonGrahamDevereuxHill)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

デーモン=ヒルの情報(DamonGrahamDevereuxHill) レーシングドライバー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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デーモン=ヒルさんについて調べます

■名前・氏名
デーモン=ヒル
(読み:Damon Graham Devereux Hill)
■職業
レーシングドライバー
■デーモン=ヒルの誕生日・生年月日
1960年9月17日 (年齢63歳)
子年(ねずみ年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和35年)1960年生まれの人の年齢早見表

デーモン=ヒルと同じ1960年生まれの有名人・芸能人

デーモン=ヒルと同じ9月17日生まれの有名人・芸能人

デーモン=ヒルと同じ出身地の人


デーモン=ヒルの情報まとめ

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デーモン=ヒル(Damon Graham Devereux Hill)さんの誕生日は1960年9月17日です。

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ドライビングスタイル、他のドライバーとの関係などについてまとめました。引退、家族、テレビ、父親、事故、ドラマに関する情報もありますね。デーモン=ヒルの現在の年齢は63歳のようです。

デーモン=ヒルのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

デイモン・ヒル(デーモン・ヒル、Damon Graham Devereux Hill、OBE、1960年9月17日 - )は、イングランド出身の元レーシングドライバー。

1960年代の名レーサーだったグラハム・ヒル(F1タイトル2回)の息子。自身もF1界で活躍し、1996年にはウィリアムズチームにてドライバーズ・タイトルを獲得した。引退後は、母国レーシングクラブの要職などを務めている。

ロンドンのハムステッドにて、F1ドライバーの父グラハムと、元ボート競技選手の母ベティの間に第二子、長男として生まれた。

父であるグラハムがレーサーとしての才能を開花し始めた1960年に誕生したということもあり、洗礼式では父グラハムの戦友であった当時のトップドライバー仲間に囲まれるなど、幸福な少年時代を送った。

少年時代のヒルはレースに興味が持てなかった。それは、「親父の仕事という認識しか無かった。子供の頃はあれほど退屈なことは無かったんだ。あちこちに連れていかれては、どこに行ってもたくさんの人に囲まれる、その繰り返し。僕と姉、妹の面倒を見る専門の人がいたほどだ。記憶にあることと言えば、毎年夏休みの終わりに家族総出でイタリア・グランプリに行くことになっていた。でも、伝統あるモンツァ・サーキットだと言っても、少年の僕は特別な印象を受けなかったなぁ(笑)。毎年ここに来るとそろそろ新学期がはじまるなという気分だった。」「7歳のとき、父の4回目のモナコGP優勝を友達の家のテレビで見てたんだ。みんなはヒルの優勝は間違いないって騒いでるけど、僕は自分の父親が今トップで走っているのに、テレビの前で2時間も座ってるのが苦痛だったんだ。要するに興味がないんだよね。親父が優勝してトロフィーを受け取る所も見てたけど、親の七光りから逃れて普通の少年でいたかったよ。」と述べている。

1975年、14歳で二輪のトライアル大会に出場し、初の競技会を経験する。しかし、11月末にグラハムがエンバシー・ヒルのチームクルーと共に軽飛行機事故で死亡。飛行機を操縦していたグラハムはイギリスにおける飛行免許(計器飛行証明)を更新しておらず無免許状態であったため、保険金の支払いは認められず、同乗者への補償金支払いのためにヒル家は一転して窮乏生活を強いられる事になった。

青年時代は音楽の道に進もうとした時期もあったが、やがて、「親父が何をやっているのか、ようやくわかってきた感じになった。それで少しずつ興味が湧いてきた。親父があんなことになって目の前から消えてしまった。人間ってそんなふうに何かを失うと、もう一度欲しくなるもんなんだよ。今でも親父が向こうから歩いてくるような気がするんだ。とても死んだなんて信じられていない。そして、猛烈にレースってやつに関わりたくなった」として、父と同じくモータースポーツの道を選び、バイク便のアルバイトをしながら二輪レースに参加した。この時点でも四輪レーサーになろうという考えは全くなかった。バイク便の仕事は楽しかったと言い「その会社のことを探るにはうってつけの仕事だった。ある日「リコー」に行ったんだ。世界有数のコピー機メイカーだと知って、アプローチを掛けたらスポンサーになってくれた。それから何年かサポートしてくれて、バイク便をやったおかげだったね。」との逸話がある。

1980年から1984年まで5シーズンに渡って学業のかたわら2輪レースに参戦し、最終年となる1984年にはブランズハッチのクラブマンカップ350ccクラスにヤマハのマシンで出場しタイトルを獲得した。途中、1983年にフォーミュラ・フォード2200に1戦のみテスト参戦し、23歳で4輪レースデビューした。この時のチームのエースでポール・トゥ・フィニッシュを飾ったのはアンソニー・レイドである。

ブランズハッチのオーナーであるジョン・ウェッブの援助により、1985年には本格的に4輪レースへ転向し、フォーミュラ・フォード1600に参戦した。1986年からイギリスF3にステップアップ。当初はウェストサリー・レーシングから参戦予定だったが、開幕前の2月21日のテスト走行で同僚のベルトラン・ファビ(フランス語版)が事故死してしまったのを受け、チームの同年活動休止が決まったためにマーレイ・テイラー・レーシングに急遽移籍しての参戦となった。1987年にインタースポーツ・レーシングに移籍し、ラルト・トヨタで2勝を挙げランキング5位に入る。同年チャンピオンはFF1600時代から同じレースに出場していたジョニー・ハーバートであり、彼とはF1引退後も友人である。1988年1月末、新人発掘に長けるピーター・コリンズから誘われ、ベネトンのF1テストドライブを経験する。イギリスF3では前年に続いて2勝を挙げ、ランキング3位を獲得。この年には国際F3000選手権へもスポット参戦した。

1988年のシーズン終盤に国際F3000選手権へデビューし、1991年まで3シーズンフル参戦する。1989年はシーズン途中より片山右京に代わりムーンクラフトシャシーを使用するフットワークチームから参戦したが、このシャシーの熟成度が低く目立った成績は残せなかった。同年はル・マン24時間レースや、イギリスF3000選手権にも参戦した。

1990年、ミドルブリッジ・レーシングへ移籍。ポールポジション3回、ファステストラップ2回を獲得し、5戦でレースをリードするなど活躍したが、勝利を挙げることはできなかった。同年にミドルブリッジがF1のブラバムを買収しオーナーとなったことで、ヒルは同年のブラバムテスト&リザーブドライバーとしても指名された。ミドルブリッジF3000チームはブラバムのテスト・チームとなったため、1991年の国際F3000選手権にはエディ・ジョーダン・レーシングとミドルブリッジの提携参戦という形になり、ヒルはバークレイ・チーム・ジョーダンからの参戦となった。

1991年、F1の名門チームウィリアムズにテストドライバーとして起用された。これは前任者のマーク・ブランデルがブラバムのレギュラーシートを得たため、ウィリアムズから離れるという話を小耳に挟んだヒルが、1990年のクリスマスにダメもとでテクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドに電話をかけて問い合わせたのがきっかけであり、エディ・アーバイン、アンドリュー・ギルバート=スコット、ペリー・マッカーシー、デビッド・ブラバム、ジュリアン・ベイリーなどの候補者の中からヒルが抜擢された。このときヒルは四輪レースを始めて以来「初めてほっとできた。戦闘力の低いF3000からいきなりF1のベストマシンに乗れる。テストとは言えこんな貴重な経験はないと思った」とその喜びを語っている。

ウィリアムズでのテスト走行をこなしつつ、1992年スペインGPでジョバンナ・アマティに替わりかつて父グラハムも所属したブラバムからF1デビューを果たした。ミドルブリッジ・グループ傘下の「モーターレーシング・ディベロップメント・プロダクツ」によって運営されているブラバムは92年になると日本企業のスポンサーも減少し深刻な資金難から存続が危ぶまれており、マシンも前年度の小改良に留まるなど競争力に欠け、多くのレースで予選落ちを重ねた。母国イギリスGPで初めて予選を通過し、決勝レースに出走(記録上のF1デビュー)し最下位ながらも完走した。その後ハンガリーGPでも予選通過、最下位で完走を果たした。そのハンガリーGPをもってブラバムは活動を停止し、これ以降ヒルにレース出場の機会は訪れずに終わった。このブラバムでの参戦について、「少なくとも F1のシートだし、チームはひどい資金難で制限が多かったけど、でもF1グランプリにデビューさせてくれたのだから感謝しているんだ。おふくろも純粋なレーシングファンなので、F1デビューを喜んでくれたよ。」と述べている。

1993年、前年にチャンピオンを獲得したナイジェル・マンセルとチームとの交渉が決裂し、リカルド・パトレーゼもチーム体制に不満を抱き、両者揃ってウィリアムズを離脱する。チームは1992年休養中の身であったアラン・プロストを招聘する一方、ヒルをテストドライバーから昇格させた。序盤は経験不足を露呈する場面も見られたが、3度のチャンピオンを相手に次第に存在感を見せるようになる。プロストの地元フランスGPで初ポールポジションを獲得し、決勝ではプロストを猛追する場面もあったがチームオーダーにより2位キープ。続く母国イギリスGPにおいて予選ではプロストに敗れるもスタートで首位に躍り出てトラブルでリタイアするまでは快走。ドイツGPでも残り3周でタイヤバーストで涙を呑んだ。しかし第11戦ハンガリーGPでは2位以下を1分以上引き離し、F1参戦19戦目(決勝レース出場は13戦目)にして初優勝を達成した。これを皮切りにベルギーGP、イタリアGPと3連勝し、この時点ではチャンピオン獲得の可能性も残っていた。ポルトガルGPでもポールポジションを獲得したが、フォーメーションラップにスタートできず最後尾にまわり好機を逸した。結局年間ランキングはプロスト、セナに続く3位で終えた。

翌1994年、アラン・プロストと入れ替わってエース・ドライバーとなったアイルトン・セナとともにウィリアムズから継続参戦。しかし、開幕前の下馬評を覆す形でベネトンのミハエル・シューマッハが開幕3連勝し、チャンピオンシップの主導権を握った。そんな中第3戦サンマリノGPでセナが事故死し、これによりヒルは唐突にエースドライバーになった。

その後シューマッハは第4戦モナコGP、第6戦カナダGP、第7戦フランスGPで勝利するなど、シューマッハ優勢のレースが続き、前半戦終了時点でポイントはシューマッハの66点に対し、ヒルは29点と劣勢に立たされていた。しかし、ヒルが制したイギリスGPにて、シューマッハはフォーメーションラップでヒルを追い越したレギュレーション違反行為、およびその後のレース中に課せられたペナルティ指示を無視し続けたことに対し、FIAがシューマッハにイギリスGPのリザルトから除外および2戦出場停止と言う厳罰を課したことで事態は一変した。ヒルはシューマッハが出場停止となったレースをいずれも制し、更に日本GPでは雨天下で変則2ヒート制になった中で勝利を収め、最終戦直前では1点差まで追い上げた。

最終戦オーストラリアGPでは、スタートでポールシッターのマンセルがホイールスピンにより出遅れ、シューマッハがトップに立った。シューマッハは得意の先行逃げ切りを図るが、ヒルも遅れることなく追走し、先頭の2台がファステストラップを出し合いながら3位以下を引き離す展開となった。しかし、ヒルに追われて焦ったシューマッハがコースアウト、シューマッハは無理やりコースに戻り次の右コーナーでヒルがシューマッハのインを突くが、シューマッハはアウトから被せて両者激突、シューマッハは車体の右半分が浮き上がりコントロールを失い、そのままコース脇のタイヤバリアに直行して激突した。ヒルも左フロントサスペンションを破損し、ピットへ戻るがそこでストップした。この結果2人ともリタイアし、初のワールドチャンピオンはシューマッハに奪われたが、シューマッハは激しい非難を受けることとなった。

1995年は4勝7ポールポジションを獲得し、ハンガリーGPでは優勝・ポールポジション・ファステストラップ・全周回1位のグランドスラムを達成したが、決勝ではマシントラブルや他マシンとの接触、自分自身とチーム戦略のミスなどが重なり、ポイントを取れない展開となった。

スペインGPではゴール直前リタイア(結果は完走扱いの4位)。モナコGPでは桜井淑敏をもってして「プロストをも凌ぐ」という走りでポールポジションを獲得するも、決勝では1ストップ作戦をとったシューマッハに逆転負けで2位に終わった。イギリスGPとイタリアGPではチャンピオン争いをしているシューマッハに追突して両者リタイアとなった。イタリアGPではレース後に1戦執行猶予付き出場停止処分を受けた。ドイツGPとヨーロッパGPと日本GPでは単独スピンでリタイア(ドイツはパトリック・ヘッドが「原因はリアのジョイント磨耗」と発表)。後半戦はサスペンションを改良したFW17Bを投入するも、チームメイトのデビッド・クルサードに4戦連続ポールポジションを奪われる場面もあり、最終的にはシューマッハの2年連続チャンピオン獲得を阻止できなかった。

これについてヒルは「ウィリアムズは勝つ為なら手段を選ばないチームではなかった」「ベネトンは実質的にミハエル・シューマッハーのワンマンチームだから、彼を徹底的にマークすれば当然勝機は増す。でもウイリアムズはそう言う戦い方を選ばない矜持を持っていた」と当時を語っている。

1996年はマクラーレンに移籍したクルサードの後釜として、前年のCARTチャンピオンで「驚異の新人」と言われたジャック・ヴィルヌーヴが加入した。FW18が他チームを圧倒する戦闘力だった事もあり、奇しくも「2世ドライバー」同士にしてチームメイト同士のチャンピオン争いと言う展開となった。ヒルは開幕戦オーストラリアGPからの3連勝など前半9戦中6勝を挙げたが、後半戦はやや精彩を欠いてヴィルヌーヴの猛追を受け、タイトル争いは最終戦の日本GPまでもつれ込んだ。

しかし、この時点でヒルとヴィルヌーブとの得点差は9点、ヒル7勝に対してヴィルヌーヴ4勝であり、日本GPでヴィルヌーブが優勝してもヒルは6位1ポイント以上を獲得すると、勝利数の差により無条件でチャンピオン決定と言う非常に有利な状況にあった。ヒルは予選2番手ながらスタート時にポールポジションのヴィルヌーヴをかわして先頭に立って一気に優位に立ち、ヴィルヌーヴがタイヤ脱落トラブルでリタイアした瞬間に自身初のワールドチャンピオンが決定し、その後は一度も先頭を譲らず完勝した。「イギリスで勝ったことより96年最終戦の鈴鹿での勝利が一番嬉しかった」と喜びを語っている。F1史上初となる親子2代でワールドチャンピオンとなった。なおヒルはこの年の全レースでフロントローを獲得しており、ヴィルヌーヴとは安定感で決定的な差を付けた。

しかし、この年のイタリアGP直前の8月26日にヒルはチームから翌年の契約を行わないことを通告され、その後、ヒルの後任としてドイツ人のハインツ=ハラルド・フレンツェンが起用されることが発表された。このヒルの解雇劇についてあまり語られておらず、本人も当時はこの件について語りたくないと沈黙し、後年のインタビューでいくつか語ったものの、詳細は不明である。これに関して書かれた当時の記事の内容では、契約金の交渉が行われていないことからウィリアムズはヒルの放出を内定している可能性があり、ヒルが大きく譲歩しないと残留は難しい考えられており、当時のストーブリーグの噂でもヒルが1997年もウィリアムズ残留できるか怪しいという見解が占めていた。また、ウィリアムズから見れば、1994年と1995年はヒルがドライバーズタイトル獲得の可能性があったにもかかわらず、ミハエル・シューマッハに敗れる結果になったことから今年度で見切りをつけることにしたという見方もあった。他にもフレンツェンの起用に関しては、フジテレビの1996年のF1総集編にて将来のエンジン獲得に有利なドライバーとしてフレンツェンを起用するというコメントがナレーションで語られたことや1994年にセナがチームに対し、1995年のドライバーとしてフレンツェンの起用を提案していたという噂があり、チームはそれをここにきて実現することを選んだという考察を挙げている(1996年時点では一連のウィリアムズの動きからBMWが将来的に参戦するのではという噂話にとどまっており、BMWが2000年からウィリアムズにエンジン供給を行うことが発表されたのは1997年9月になってからである)。また、ヒルの後年のインタビューによれば、1997年の契約がないことについてチームから詳細な説明はなかったと語り、ヒル自身は契約金に関しては弁護士に任せていたため、契約金に関する問題に関しては自身の関わっていなかったとコメント。むしろ、この年(1996年)の好成績は(ヒルを放出する予定であった)ウィリアムズ側にとっては予想外で行き詰まってしまったのだろうと語っている。

このヒル解雇劇はチーフデザイナーを務めていたエイドリアン・ニューウェイの逆鱗に触れ(チームからは事前の相談も無かった)、チーム株買収に対するチームとの意見の不一致も加わり、ニューウェイはマクラーレンへ移籍を決断。来期のFW19の設計を終えたあと、シーズン終了後の11月8日、ニューウェイは「ウィリアムズは契約不履行している」と主張して出社拒否し、これに対してウィリアムズ側とは法廷闘争にまで発展した。また、長年ウィリアムズの広報を担当していたアン・ブラッドショーほかヒルを慕っていた数人のスタッフも離脱した。なおこの一件に関しては後年フランク・ウィリアムズ自身が「あれは大きな失敗だったな」と認め、この年を境にウィリアムズの勢いは次第に下降傾向に入ったと評されている。

日本GP直後、ウィリアムズを離脱したヒルは翌年F1参戦となるブリヂストンのタイヤテストに参加した。

1997年、トム・ウォーキンショーが買収したアロウズに誘われ移籍。移籍先を決めるまでには同年よりF1参戦するスチュワート・グランプリからもオファーを受け興味を抱いたが、「F1参戦初年度と言う事もあり、リスクが高すぎる」「(成績がひどかった場合に)古くから続くヒル家とジャッキー・スチュワート一家との関わりを拗れさせたくなかった」との理由で加入を見送った。他にジョーダン、プロストからのオファーも届いたがどちらも提示が2年契約で、ニューウェイが移籍したマクラーレンへの翌年移籍を視野に入れていたヒルの意向とは合わなかった。

フランク・ダーニーが設計したシャーシA18はテストでも満足に走り込みが出来ず、当時としては破格の軽量設計を追求したヤマハV10エンジンにもトラブルが続出したうえ、ブレーキに致命的な欠陥を抱えたまま、開幕戦のオーストラリアGPではあわや予選落ちの危機に立たされ、決勝ではフォーメーションラップ中にマシントラブルでリタイアの憂き目にあった。第2戦ブラジルGPでは予選9位を獲得し、決勝では一時期はシューマッハを従え4位を走っていたが、残り4周でリタイヤした(結果は完走扱いの17位)。その後も第6戦のスペインGPまでリタイヤが続き、マシンがまともに走らない間、ヒルはモチベーションを失っていた。その当時を「あれは私ではなく、F1が受けた辱めだったと思う。前年度王者をこんな風に扱いたかったら好きにすればいいと思うしかなかった」「私は与えられた環境でベストを尽くすしかなかった。本当に悔しかったが、これも仕事であり、サラリーを貰っている以上は耐えた」と振り返っている。

5月10日付けでフェラーリから移籍したジョン・バーナードがテクニカル・ディレクターに就任し、テストの方向性を決めてから、A18の信頼性は向上。ヒルも第7戦カナダGPでチームメイトのペドロ・ディニスと共に完走してから、第9戦イギリスGPで6位入賞と初ポイントを獲得した。

第11戦ハンガリーGPではただ1人ブリヂストンタイヤの性能を生かし、予選3位に食い込んだ。決勝では序盤でグッドイヤータイヤとのマッチングに苦しむフェラーリのミハエル・シューマッハを1コーナーで抜き、そのまま2位のヴィルヌーブに35秒の差を付ける独走態勢をキープし、アロウズチーム・ヤマハエンジン・ブリヂストンタイヤにとっては初優勝の時が迫っていた。しかしレース終盤に油圧系の不調が引き金となってスロットルが戻らなくなったうえ、ギヤボックスが3速に固まったことで急失速した結果、ファイナルラップで前年のチームメイトだったヴィルヌーヴに抜かれ、優勝を逃した。しかしレース前の下馬評を覆す2位に入り、「非力なマシンでもレースを支配出来る力」を見せ付けるターニングポイントとなった。ヒル自身はマシンの改良の積み上げやブリヂストンタイヤの性能もさる事ながら、「(ハンガロリンクは)一定曲率の180度ターンがいくつもあり、そこでのタイムロスを出来るだけ抑える走法が要求される。あの週末、私はそんな風にマシンを走せられる方法を発見した。まるでゴーカートに乗っているみたいに自在にドライブ出来た」と語っている。なお終盤の失速の原因は価格にして1ポンドに満たない「ハイドロ系のポンプに付いていたワッシャー」の破損であったと後年明かされている。

最終戦ヨーロッパGPではトップと0.058秒差の予選4位に入った。このとき、上位の3台は全くの同一タイムであったが、ヒル自身は「ヘレスはハンガロリンクとコース特性が似ており、私のマシンもバッチリ決まった」「でも決勝でミハエルとジャックとの間に起こったドラマが余りに強烈で、自分の好結果も含めて他の全てが吹き飛んでしまった」と語っている。なお、このタイムアタックの際、ミナルディの片山右京がスピンしてヒルの邪魔をする形になっており、後年片山は「前戦日本GPで引退発表した事で気が抜けて、予選を戦うと言うよりF1を楽しんでいる感じだった。だからスピンしてしまったと思う」とヒルへの謝罪を込めながら振り返っている。

1998年はジョーダン無限ホンダに移籍。マクラーレンからのオファーはあったが、当時のオーナーのロン・デニスから出された「年俸ゼロ、1勝ごとの報酬制」「年間100日の無償プロモーション活動」などの条件を受け入れられずに拒否した。他にザウバーやプロストからもオファーを受けていた。

前半戦こそショートホイールベース化や、信頼性の問題を抱えていた198で苦戦を強いられた。カナダGPでは一時2位を走行するが、電気系トラブルのためリタイアした。しかし後半戦はコンスタントにポイントを獲得し、雨の波乱含みのベルギーGPでジョーダンに初勝利をもたらした。これはヒル本人にとって現役最後の勝利であり、また、F1ではウィリアムズ以外のチームで挙げた初めての勝利でもあった。最終戦日本GPでは最終ラップまで奮闘して4位入賞し、チームをコンストラクターズ4位に導いた。

1999年は新規定の4本溝タイヤの扱いに苦戦し、成績もチームメイトのハインツ=ハラルド・フレンツェンに圧倒された(予選2勝14敗、ポイント7対54)。カナダGP後に今季限りでの引退を表明したが、チームオーナーのエディ・ジョーダンは「シーズン途中での引退の可能性」を示唆。地元のイギリスGPが最後のレースとなると報道され、チームも後釜としてニック・ハイドフェルドや中野信治、ヨス・フェルスタッペンを検討していたが、5位入賞したイギリスGP後に最終戦までの現役続行を表明した。その後はハンガリーGPとベルギーGPで6位に入賞するものの、全体的に精彩を欠いていた。ヨーロッパGPではスタート直後にレコードライン上でスローダウンし、ディニスがアレクサンダー・ヴルツと接触して横転、ロールバーが折れて一時はディニスの生命の危機が危ぶまれる大クラッシュの原因になってしまった。引退レースとなった日本GPではコースアウトしたのち戦意喪失による「レース棄権」で終えることになり、一部ジャーナリストからは批判を浴びた。

引退後はBMWのディーラー経営と、メンテナンスを含むスーパーカーのレンタルを行う会員制クラブ、P1インターナショナルを主催しながら、2012年からSkySportsのF1解説者として世界各地を回る多忙な日々を送っている。

2005年にはF3000に代わる新シリーズGP2のエンジン供給先であるルノー・スポールからのテスト走行を依頼され、F1時代を彷彿させる勇姿を見せた。

2006年の4月末、イギリスGPのマネジメントを行うブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ (BRDC) は次期会長選挙を実施し、ヒルをジャッキー・スチュワートに代わり会長に選出。会長就任の5年間にシルバーストン・サーキットの近代化や、同サーキットにおける17年間のイギリスGP開催契約締結の実績を残している。また同年、6月にロンドンで開催されたブリティッシュ・モーターショーにおいて、前年度のチャンピオンマシンであるルノーR25のデモランを担当し、出席したトニー・ブレア首相とも握手を交わした。

2011年、8月25日に開催されるBRDCの年次総会で会長職を退任。退任の理由について「家族や自分の関心事、息子ジョシュのレーシング・キャリアにもっと時間をかける正しいタイミングだ」を語っており、後任にはデレック・ワーウィックが選出された。新会長に就任したワーウィックは前任者のヒルに「まずは会長として活動する中でBRDCに対する忠誠と献身を発揮したデイモンに感謝を述べたい。数々の困難を抱えたにもかかわらず、われわれを導き、最終的には成果を納めてくれた。私の目標はデイモンが去ったところから継続することだ」 と今までの労をねぎらった。

2012年7月、デイモンが古巣ウィリアムズの新代表になるとのうわさが流れたが、同チームの共同オーナーであるトト・ヴォルフはこの件を否定した。また同年、1862年に設立したスイスの名門ブランド「CYMA(シーマ)」のアンバサダーに就任した。

ドライビングスタイル

F1デビュー当時、下位カテゴリーでの成績が平凡だった上に31歳とすでにベテランの年齢だったため、期待される存在ではなかった。ウィリアムズ在籍時には「ヒルの成績はトップチームであるウィリアムズのマシンパワーのおかげ」とする声も少なくなく、ブリヂストンのF1プロジェクトリーダーだった浜島裕英も、初めて眼の前でヒルの走りを見るまでは、そう思っていたと語る。

ミハエル・シューマッハはヒルのドライバーとしての評価について「カート経験者との差を感じたね。いざバトルとなると、デイモンはいつもどこか自信がないようだった。私は相手を限界ギリギリまで追い込むのが得意だったが、彼は明らかにそういう状況が苦手だった」と語っている。また、浜島も「(プレッシャーに晒された時の)デイモンはちょっと弱い、M.シューマッハやベッテルとはそこが違う」、「余りチームを引っ張って行くタイプではない、与えられた状況でベストを尽くすタイプ」と評している。

しかし、先述の1997年ハンガリーGPで「マシンのおかげのチャンピオン」「シューマッハをオーバーテイク出来ない」「ウィリアムズ以外では活躍出来ない」と言った、それまでのイメージを悉く覆し、そこに至る道程が「偉大なドライバーはどんな状況でも必ず輝く」事を証明するものであったこと、上記のヒル解雇が招いたニューウェイ離脱がウィリアムズ衰退への始まりであったなど、後年ヒルへの過小評価は覆されて行った。

アロウズ時代のチームメイト、ペドロ・ディニスも「如何なる状況でも淡々と仕事に挑み、マシンの状況をいつ、どこで、どんな症状かをエンジニアに答えている」「マシンが遅くても怒らないし、トラブルが起きても慌てない。今までに見たチームメイトとは明らかに違った」と述べ、ヒルからの影響を認め「デイモンから学んだことは多かった」と感謝の意を述べている。

ウィリアムズのテストドライバー時代にはアクティブサスペンションの熟成を担当し、ナイジェル・マンセルやアラン・プロストのチャンピオン獲得にも貢献している。プロストは「デイモンは、マシンを仕上げてゆくという面で、非常に優れたドライバーだ。そういうドライバーは、F1にもほとんどいないと言っていい」と賞賛している。プロストとチームメイトであった1993年には、自分と同じセッティングで走っていたプロストのハンドル操作が極めて少ない(タイヤを痛めない)ことをデータから知り、プロストの走法を研究するようになったと言われている。それゆえ第2期ルノーF1の開発責任者であるベルナール・デュドによると、「デイモンのドライビングスタイルは、他のだれよりもアラン・プロストに近い。とても滑らかで、丁寧だ。エンジンの使い方も適切で、決してアクセルを乱暴に何度も踏んだりすることはしない。ヒルのスタイルは華々しさは全く持っていない。だが効率的なことは確かだ」と語っている。

パトリック・ヘッドはヒルについて、「デイモンはマシンを分析するのが、とても上手い。(中略)そしてそれ以上に、彼はものすごく速いんだ。これは本当さ。だったらジャック・ヴィルヌーヴにデイモンの速さについて聞いてみるといい」と語り、また「普通のドライバーは、レース中に集中するために無線であまり話をしたりはしない。でもデイモンは、静かにしなくても集中できるようで、いつも我々と話をしてくる。(中略)でも、これは彼がドライビングをしながらもリラックスできている証拠だし、ハードプッシュしているときでもマシンの状態を感じ取れているということの表れなんだ。これは本当にまれな資質だよ」評している。

タイヤに優しいドライバーでもある。94年の日本GPではトラブルのためタイヤ交換が3本しかできず、大雨のトリッキーなコンディションで他のドライバーがスピン、リタイアする中、交換出来なかった1本が磨耗しきった状態で2ヒート制のレースを走り切り、優勝している(ヒル本人はレース中4本全て交換したと思っており、この事実をレース後に聞かされた)。

浜島もトラクションの掛け方の的確さを賞賛、1996年の日本GP後に行われたブリヂストンのタイヤテストに参加したヒルが、同じマシンでテストしたリカルド・ロセットより2秒ほど速いタイムをマークしたことに「タイヤメーカーの立場からすると1秒の違いはタイヤが根本的に変わるくらいの差」「やはりチャンピオンになるドライバーはレベルが違う」と発言している。また、アライヘルメットの福田毅によると「ヘルメットの内装はそれぞれの人間に合わせて作るカスタムフィットなのですが、どうしても誤差が出てしまう。ほとんどのドライバーはその誤差に気付かないんですが、ヒルはその指摘ができるんですよ。そんな指摘ができるのは世界で彼だけでしょうね。ヘルメットつくりから見ると彼の開発能力は非常に優れていて、チャンピオンになる人間は違うなというのが率直な意見です」と述べている。

なお、ヒル自身は引退後に自らのドライビングスタイルに一番合っていたレーシングカーを問われた際、FW18と回答している。その特徴を、「FW17より明らかに乗り心地がよくなり、タイムアタックしやすくなった。」と述べ、「珠玉の1台と言っていいと思う。少しも複雑じゃないところが最大の長所で、ステアリングには無線とドリンクとニュートラルのNボタン、あとは裏側のシフトパドルだけしか装備がない。素晴らしい時間を過ごさせてもらったよ。」と最大限の評価を与えている。

他のドライバーとの関係

名付け親は父グラハムと同年代ドライバーのジョー・ボニエ。

スターリング・モスとは誕生日が同じである。また父グラハムとフィル・ヒルは “ヒル”という同じ苗字のため仲が良かったようで、デイモンは一時期フィルの自宅にホームステイした経験がある。

どのチームメイトとも良好な関係を築いており、ミカ・ハッキネンと並び人格的にバランスの取れたナイスガイであった。また、ウィリアムズの広報だったアン・ブラッドショーによれば、素顔のデイモンは父グラハム似のひょうきんな性格だという。

    1996年のチームメイトで同じ2世ドライバーでもあるジャック・ヴィルヌーヴとも関係は良好で、翌1997年のハンガリーGPでデイモンがトップ独走しながらもレース終盤で油圧トラブルで急失速し、ファイナルラップでジャックに抜かれる際にスピードの遅いマシンでダートに押しやる幅寄せを行なうも2位に後退するが、レース後は何事も無かったかのように両者抱擁しながら表彰台に登り、観衆から盛大な歓声を受けた。

    プロストのような滑らかな走行が目標であると公言しており、引退していたプロストが1995年にマクラーレンのテストに参加した際、「僕はプロストファン(Je suis Prostophile)」と復帰を願う発言をしてフランスのスポーツ新聞「レキップ」の見出しを飾った。またプロスト自身も「93年から同じチームで戦って以来、ヒルの大ファン」と語っている。

    一方で多くのイギリス人ドライバーの例に漏れずマンセルは憧れの存在であり、マンセルは93年シーズン、自身の後任にヒルを強く推薦した。これについてヒルは「このことは一生忘れない。ずっと感謝し続けるだろう」と感謝の言葉を述べている。

      1994年、セナ亡きあとのウィリアムズでヒルはエースドライバーに昇格したが、セットアップについてチームに進言していたのを無視され続けた。その後、フランスGPにスポット参戦したマンセルが同じ点に気づき「何でデイモンの言う通りにしないんだ!早くしろ!」と一喝した。結果、ヒルはこのレースでシーズン初のポールポジションを獲得した。

      ファン・パブロ・モントーヤのファンであることも公言している。

      1996年の日本GPで優勝しタイトルを決めたとき、3位入賞したハッキネンに「君にも同じ日が来る」と一言。2年後、ハッキネンは最終戦、同じ日本GPで優勝して初のチャンピオンを決めた。その場でヒルは「ミカのタイトルは、まだ最初の一歩に過ぎない。彼はこれから何度もチャンピオンに輝く力を持っている」と賞賛している。

      1994年5月5日のセナの葬儀に参列した。また、いわゆる「アイルトン・セナ裁判」に出廷し証言した。セナの事故死については後年「多くの人が彼はミスをしないというが、私はそれが分からない。冷えたタイヤで走り多くのミスを犯した。」と英オートスポーツ紙のインタビューで語っている。

      1994年のドイツGPでは片山右京を抜こうとして接触し、レース後の記者会見で不満を述べた。しかし、同席していた片山に「だって君遅いんだもん」と言われ相手にされなかった。ただし後年は「デイモンはその後、腕を磨いたと思う」と感じるようになり、特にチャンピオンを取った後にアロウズに移籍したころは「こんなに良いドライバーだったんだ…と驚いた」と率直に語っている。

      シューマッハとの関係

      ミハエル・シューマッハは1994年、1995年にチャンピオンを争ったライバルであり、接触による相討ちなど因縁を残している。他方、1998年には弟のラルフ・シューマッハとコンビを組んでいる。

2024/06/24 02:18更新

Damon Graham Devereux Hill


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