上原晃の情報(うえはらあきら) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
上原晃の情報まとめ
上原 晃(うえはら あきら)さんの誕生日は1969年5月16日です。沖縄出身の野球選手のようです。
引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。上原晃の現在の年齢は55歳のようです。
上原晃のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 上原 晃(うえはら あきら、1969年5月16日 - )は、沖縄県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 沖縄水産高では甲子園に4回出場。1年時の1985年夏の甲子園では3回戦で鹿児島商工に敗退、控え投手ながら2試合にリリーフとして登板した。 1986年春の選抜からエースとして出場、しかし1回戦で上宮高に敗れる。同年夏の選手権は準々決勝に進むが、水口栄二、佐野重樹のいた松山商に9回裏サヨナラ負け。 1987年夏の甲子園は1回戦で函館大有斗の盛田幸妃に投げ勝つが、2回戦では常総学院の島田直也に完封を喫する。 完成度の高い速球に「オキナワの星」として注目を集め、阪神タイガースがドラフト1位で指名すると噂されるも、明治大学への進学を希望。しかし、1987年のドラフト会議で中日ドラゴンズが3位で強行指名し、監督の星野仙一の説得もあり中日への入団を決意する。 1988年、背番号17を与えられたルーキーの上原は、ウエスタン・リーグ最優秀防御率及び最多勝率を記録し、ジュニアオールスターゲームでも活躍。一軍に抜擢された後は、抑えの郭源治に繋ぐ前のセットアッパーを任せられ、8月7日にはプロ初勝利を挙げる。同年は24試合に登板、防御率2.35と堂々の成績を残し日本シリーズでも登板。 1991年にセットアッパーに戻って8勝を挙げる。しかし指先の血行障害で手術を余儀なくされ、その後は登板機会も少なくなった。 1996年には中日を自由契約となる。広島東洋カープ(1997年)、ヤクルトスワローズ(1998年)と球団を転々とするが一軍登板はなく、1998年限りで引退。 引退した年から整体師に転身し、2008年に名古屋市守山区内に整体院を開設して患者の治療にあたっている。 2023年より東海学園大学硬式野球部のコーチに就任した。 初登板:1988年7月31日、対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)、7回裏に救援登板、2回無失点 初勝利:1988年8月7日、対阪神タイガース戦(ナゴヤ球場)、8回表に救援登板、2回無失点 初セーブ:1988年9月4日、対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)、7回裏に救援登板・完了、3回無失点 17(1988年 - 1996年) 43(1997年) 40(1998年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、78ページ ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ “元中日・上原晃さん 引退から十数年たち蘇った情熱「野球を通して故郷沖縄に恩返しを」”. 東スポWeb – 東京スポーツ新聞社 (2019年5月11日). 2021年3月3日閲覧。 ^ “元中日の上原晃さんが東海学園大コーチに就任「ワクワク感大きい」立浪監督とドラフト同期”. 中日スポーツ (2023年2月8日). 2023年5月2日閲覧。 沖縄県出身の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 広島東洋カープの選手一覧 東京ヤクルトスワローズの選手一覧 個人年度別成績 上原晃 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1位:立浪和義 2位:鎌仲政昭 3位:上原晃 4位:小美濃武芳 5位:音重鎮 6位:高橋幸二 日本の野球選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 沖縄県立沖縄水産高等学校出身の野球選手 大学野球指導者 沖縄県出身のスポーツ選手 1969年生 存命人物 2024/11/21 06:27更新
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uehara akira
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