上野旬也の情報(うえのじゅんや) ミュージシャン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
上野旬也の情報まとめ
上野 旬也(うえの じゅんや)さんの誕生日は1948年12月18日です。神奈川出身のミュージシャンのようです。
脱退、解散、父親、ドラマ、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。上野旬也の現在の年齢は75歳のようです。
上野旬也のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)ロス・プリモス作品 (日本クラウン株式会社) 上野旬也作品 2013年12月(株式会社フリーボード) 上野旬也とロス・プリメーロ オルケスタ 上野旬也(うえの しゅんや、本名:上野 哲雄、1948年12月18日 - )は神奈川県横浜市出身の歌手・ミュージシャン・作曲家・俳優。血液型A型。身長172cm。 元ロス・プリモスメンバー。 1975年、男性デュオ「サウンド・スペース」のボーカル兼ピアノとしてビクターレコードからアルバム『鏡の中の肖像』でデビュー。日本で初めて、シンセサイザーを使用したレコーディングで話題を呼ぶ。編曲は佐藤允彦が手掛けた。 当初は上野 哲の芸名で活動。その後NHK教育『うたって・ゴー』のピアノのお兄さんを経て、1978年、黒沢明とロス・プリモスへ加入、ロス・プリモスではサイドヴォーカル兼キーボード、サウンドアドバイザーとして森聖二の右腕になり31年間活動し支えた。 2008年自身が還暦となる年に、清里卓矢名義で作品を残している。 2009年10月18日にリーダーでメインヴォーカルの森聖二が心筋梗塞で亡くなり、その後半年間2代目メインヴォーカルを務めた。 2010年5月13日の北海道公演を最後に、音楽性・方向性の違いからロス・プリモスを脱退している。6月から、「ラブユー東京」の作曲者である中川博之と共に、ムード歌謡界の発展と育成の為に活動。11月、中川博之の愛弟子青山ひかると、年の差30歳の男性デュオノーチェ・アルバーナを結成。 2012年3月、作曲:中川博之、作詞:髙畠じゅん子 「東京の夜はムーチョ」を発売。 2013年4月、ノーチェ・アルバーナを解散し、5月からソロ活動を開始。12月25日、松森棚三 の「涙を残して」「愛の旅立ち」を新録し、ソロ第一弾として発売。 2015年春から上野旬也とロス・プリメーロ オルケスタを結成。銀座のライブハウスを中心に活動開始。 2016年10月、黒沢明とロス・プリモスデビュー50周年をオマージュして、カバーアルバム『銀座Night倶楽部Vol.1』を発売した。 自身ではラテンにも力を入れており、Luis Miguelのカバー「ある恋の物語」「カーニバルの朝」を得意とする。 4歳からクラシックピアノを始める。父親の仕事柄転勤が多く、高校までに16回もの転校を余儀無くされる。そんな環境の中でもピアノを続ける事が出来たのは、何よりも音楽が好きでピアノが好きだった。思春期に出逢ったカーメン・キャバレロの繊細なピアノの音に感銘を受け、かなり影響された。高校時代は、ハモンドオルガンのジミー・スミスを聞き、クラシックでは教えないコードネームを独学で覚えた。そのお陰で、当時販売されたばかりのエレクトーンのデモストレーターを頼まれ、人前で演奏する事の素晴らしさを覚える。10代半ばで漠然と歌手と言うよりは、今で言うシンガーソングライターになる夢を持ちはじめていたと言う。 様々な文化が目まぐるしく変化していた1960年代。そんな時代背景の中、まずはクラシックピアノを極める為に音大入学。と、同時に学生運動勃発。長期の学校閉鎖。 「指が鈍らないように」と、軽い気持ちで始めたビッグバンドのエキストラだったが、そこでミュージシャンの血が騒ぎ出しどんどんのめり込んでしまう。結果、大学の教授に「アクセントの取り方が違う!!」と、指摘されながらも、ダンスホール・キャバレー・クラブと、あらゆるスタイルやジャンルの音楽を体に叩き込む日々。中でも『レイモンド・コンデ』率いるビッグバンドで学んだ技術は宝物だという。(このバンド出身のピアニストは、皆有名なJAZZピアニストになると言うジンクスがあった。)気が付けば学校に通うことを忘れJAZZやポピュラー音楽に没頭していた。当時の大卒初任給2万円の頃、10倍の収入になった。「好きな音楽の道で稼げるのなら」と、あっさり大学を中退してしまう。 1970年代に入り、高度成長期に突入。20代の上野は引く手数多のピアノマンになっていた。山口洋子の『クラブ姫』では、再デビュー直前の島津ゆたかと出逢い歌の上手さに衝撃を受けた。この頃になると、プレーヤーとしてだけではなく歌にも目覚め、色々な人の曲を聴き勉強した。最初は3曲しか無かったレパートリーを何千曲へと膨らまし、毎日80曲は歌っていたと言う。カラオケが無かった時代に、その演奏と歌がバックグラウンドミュージックとなっていた。一晩で銀座・赤坂・六本木と駆け巡り、演出を手伝いながら、世の中を観察していたと言う。 山口洋子が『ミニクラブ姫』をオープンする時の逸話がある。「銀座一のピアノマンを探して来い!!」の一声で、上野が探し出され、ここで幾つものドラマが生まれた。山口洋子が五木ひろしに書いた曲の中には、上野が初見で弾き語って録音した仮歌もある。(後にロス・プリモスへ加入し、森が歌う全ての歌の仮歌を上野が担当した。森は上野の歌を聴きイメージを膨らまし、レコーディングしていた。)山口洋子の著書の中に「最近の若いもんは、女か男か解らない…。ピンクのレースのスーツを着ている男子がいる。」と、書かれているのが上野である。サウンド・スペースデビューも、この店での出来事だった。 そして、森が独立する前の事務所社長の目に留まる。 上野は1年間断り続けていた。しかし、社長の熱烈なラブコールに根負けし、ロス・プリモス加入を決める。森は、上野の歌とピアノの腕に惚れ込んだと言う。 30代突入と共にロス・プリモスへ加入。 以降、31年間森と共に歌い奏でながら、森へ少しでも近づく為に、森の間と息使いを徹底的に体へ染み込ませた。その結果、ステージで唯一ソロを取る事を許され、絶対的な信頼感を得ていた。(ステージで上野が歌唱していた作品は『新潟ブルース』『信濃川慕情』『雨の銀座』『小雨のアムール』、楽曲提供した作品は『新宿ワルツ』『霧の灯台』・35周年記念曲『灯りの中で』は、森聖二が作詞を担当し上野が作曲した共同作品がある。) 31年間を振り返ると、生真面目な性格からか責任感の強さからか“無遅刻無欠勤”でスケジュールをこなしたのは、上野だけだった。 2013年5月、紆余曲折を経て元ロス・プリモス2代目ヴォーカル上野旬也として本格的にソロ活動を開始。 8月、上野東天紅サマーライブで、鶴岡雅義と東京ロマンチカとの共演をきっかけとなり、CD制作の話が浮上する。森の死後から見守っていた3大ムードコーラスグループのヴォーカル(松平直樹・棚橋静雄・三條正人)と作曲家でもある鶴岡雅義の熱いエールで2012年12月25日『涙を残して』『愛の旅立ち』の新曲を発表する。 「レコーディング秘話」 この作品は、レコーディング直前に亡くなったロス・プリモス森に敬意を表して『ロス・プリモス森聖二追悼盤』というサブタイトルが付いていた。当時ロス・プリモスのメンバーだった上野は、コーラスとして参加していた。今回の録音に際し当時の譜面を見直したところ、森のうたうはずだった歌詞が目に入った。 ~君らしく 君らしく これからも君らしく 明るい笑顔絶やさぬように 生きて欲しいよ 君らしく~ まるで森から語りかけられている気がする事を、レコーディングスタジオにいた関係者に打ち明けたところ、森を知る全ての人達が涙した。そして上野自信今でもこの歌を唄うたびに胸が熱くなると言う。 2015年春から上野旬也とロス・プリメーロ オルケスタを結成。銀座のライブハウスを中心に活動開始。 作曲家としての顔を持ち、ロス・プリモスを始め、瀬川瑛子・真咲よう子…etc.に楽曲提供している。近年は、叙情溢れる市町村の歌も残している。 私生活では、“ムード歌謡”の原点銀座で2003年7月~2011年5月まで、Bar『Ginzaロス・プリモス』を経営していた。 2011年3月11日の東日本大震災以降、人生観に変化が起こり知人の紹介で移転を決意する。 2011年7月11日から2014年12月まで東急池上線久が原駅・末広商店街の一角で、大人が楽しめる事をコンセプトにした カラオケCafé&Bar『Ginzaロス・プリモスSegundo』を営んでいた。 2015年1月から古巣の銀座に戻り、銀座の文化遺産ともいえる“ムード歌謡”の為に一念発起し、昔懐かしいナイトクラブを彷彿させ、大人が楽しめる空間を提供する為、「銀座Night倶楽部」と題したライブ活動を開始する。 「銀座Night倶楽部Vol.1」 NHK教育『うたって・ゴー』(1978年) 日本テレビ『火曜サスペンス劇場』 - 片平なぎさ主演〜小京都ミステリーシリーズ4〜『京都山口殺人旅行』(1991年7月30日)に田中努役で出演。この依頼は、JAZZピアノが弾けるタレントが条件だったという。
日本クラウン株式会社 株式会社フリーボード 日本の男性シンガーソングライター 日本のキーボーディスト 横浜市出身の人物 1948年生 存命人物 2024/11/21 23:16更新
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ueno junya
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