中川比佐子の情報(なかがわひさこ) ファッションモデル 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
中川 比佐子さんについて調べます
■名前・氏名 |
中川比佐子と関係のある人
渡辺真起子: 1989年に日本初のダンス・ミュージック専門レーベル「MAJOR FORCE」から、中西俊夫、高木完、工藤昌之のプロデュースで、中川比佐子とヒップホップユニット「The Orchids」を組んで『Life is a science』を発売した。 |
中川比佐子の情報まとめ
中川 比佐子(なかがわ ひさこ)さんの誕生日は1962年8月14日です。北海道出身のファッションモデルのようです。
卒業、引退、テレビ、映画、結婚、趣味、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。中川比佐子の現在の年齢は62歳のようです。
中川比佐子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)中川 比佐子(なかがわ ひさこ、1962年8月14日 - )は、日本の元女性ファッションモデル、タレント、女優、ミュージシャン。北海道札幌市出身。出生名同じ。兄がいる。19歳(1981年頃)でモデルデビュー。1980年代初頭から1990年代初頭にかけて活動した。 身長165cm、モデル時代の体重は50kg前後であった。モデルとしては身長が低いことを本人はコンプレックスに感じていた。血液型はA型。 リスペクトする女性として、オノ・ヨーコ、山口小夜子、プラスチックス・MELONのボーカリストとしても活躍したスタイリストの佐藤チカ(英語版)を挙げている。長い黒髪に和服をまとい、山口小夜子に続くオリエンタルモデルとして活躍した。また、好きなアーティストとして金子國義、ハンス・ベルメールを挙げている。 16歳(1978年頃)でパリとロンドンを訪れ、初めて本場のファッションカルチャーに触れて、将来ファッション業界の職業に就くことを志す。 高等学校卒業後、19歳(1981年)で故郷の札幌市から上京し、ファッションアドバタイジングを学ぶため文化服装学院に進学する。親元を離れて東京で初めての一人暮らしを始め、昼は通学、夜は派手なファッションに身を包みクラブに通って遊びまくっていた。その姿をDCブランド「MILK」のファッションデザイナー・大川ひとみに見出されて声をかけられ、スカウトされたことがモデルデビューの契機となり、同学院在学中に19歳でファッションモデルとしてデビューする。元はスタイリストなどファッション関係の裏方を目指しており、モデル志望ではなかったが、大川にスカウトされ「自覚が足りないままに」モデルになってしまったと述べている。 モデルデビュー後は「MILK」のファッションショーに出演を重ね、数年後には高校生時代からの憧れだったパリとロンドンでもモデルクラブに所属。パリ、ロンドン、ミラノでもモデル活動を開始し、中川が大好きなファッションブランド・ヴィヴィアン・ウエストウッドのファッションショーに出演。パリ・コレクションをはじめ、ロンドンやミラノのコレクションで、ヴィヴィアン・ウエストウッドのショーに何度も出演した。中川はモデル引退後、ヴィヴィアンのショー出演について「本当に嬉しかった」と語っている。 ファッション雑誌では、『anan』や『流行通信』のモデルを努めたほか、フランス版『PARIS VOGUE』日本特集号のモデルも努めた。また、1989年にJICC出版局(現:宝島社)から創刊された少女向け月刊ファッション雑誌『CUTiE』では、創刊当初から看板モデルを務めた。 一方で、中川はモデルの仕事について「モノみたいに美醜を評価される小道具でしかない」「デザイナーやカメラマンといった表現者と一緒に仕事していても、モデルだけが孤独で疎外されている」と感じるようになり、そのため「モデルには欲求不満の人が多い」と述べた上で「表現者になりたい」と熱心に語っていた。その思いが音楽活動やタレント・女優への道を拓くことになる(後述)。 1986年からテレビ番組にレギュラー出演したのを皮切りに、ファッションモデル以外の活動を積極的に開始。1988年には映画デビュー、トークショー企画・出演、音楽活動を開始するなど、モデル以外の分野にも活動領域を広げた。 テレビタレント活動としては、1986年10月11日から1987年9月26日までフジテレビ系列で放送されていたバラエティ番組『上海紅鯨団が行く』にレギュラー出演、番組中では「上海紅鯨団」団長の片岡鶴太郎のアシスタント「団員番号002」として重要な役どころを担った。 同番組出演により芸能界デビューしたことで、同番組の演出を手掛けた伊藤輝夫(のちのテリー伊藤)と出会い、伊藤から「比佐子ちゃんはファッショナブルでメイクもちょっと強めにしているけれど、すごく普通の部分を持っている。普通のお嬢さんだ。そういう部分を逆に地として出してしまう方が面白い」「(山口)小夜子さんを尊敬していると思うけれど、彼女は70年代のアングラ時代だから良かったんだ」と言われたことで、『上海紅鯨団が行く』では、それまでのモデル活動時代とは一転して「自分のコアを全部見せてしまうのが80年代後半から90年代なんじゃないでしょうか」と考えるようになり、テレビ番組を通して、自分の素顔を見せていこうと思うようになったと語っている。なお、伊藤輝夫は同番組の後継番組『ねるとん紅鯨団』の演出も担当しているが、そちらには中川は出演していない。 その後、1988年1月30日公開の実相寺昭雄監督の日本映画『帝都物語』(荒俣宏の同名小説の映画化)に出演して女優デビュー、「紅巾の女」役を演じた。ただし、映画出演はこの一作のみに留まっている。 1988年4月から1990年まで2年にわたり、青山スパイラルホールにてイベントトークショー「SANYO POW WOW TIME」(冠スポンサー:三洋電機)の企画を手掛け、自らもナビゲーターとして出演。秋元康、いとうせいこう、ケラなど、1980年代を代表する文化人らが出演した。 1988年から1989年にかけて、中川比佐子らをメンバーに、2人組の女性ラップ音楽ユニット「オゥキッド」(The Orchids) を期間限定で結成した。 中川が「自らを素材として」音楽活動をやりたいと表明していたことから、中川を「素材」とした音楽ユニットの企画が立ち上がり、プロデューサーに、プラスチックス・MELONの中西俊夫、MELONの工藤昌之、および高木完を迎え、この3人で設立したインディーズ・レーベル「MAJOR FORCE」から、2枚のレコード(ミニアルバム)を発表した。 『Yes, We Can / I Will Call You / Go! Orchids, Go!』- 7曲入りミニアルバム、1988年12月リリース
『Life Is A Science』- 7曲入りミニアルバム、1989年12月リリース
中川は30歳を前に、モデルとしての年齢的・肉体的タイムリミットに悩み、10代の頃の夢を叶えてやりたいことを果たしたことから、28歳で札幌市の実家にいったん帰郷し、密かにパン工場でアルバイトをしていた。中川は後に著書でこのときの転身を「いままでの(モデルの)中川比佐子ではないものになってみたかった、中途半端ではなく180度の別人になりたかった。そして28歳にして女子労働者になってみたのだ」と語り、「このアルバイトで知ったピュアな汗のおかげで、モデル時代にすっきり終止符が打てた」と回顧している。 『CUTiE』1992年10月号に掲載された、藤原ヒロシの連載「Hiroshi Fujiwara Adjustment (HFA) 」内の「NEWS」コーナーに、ジーン・クレール(英語版)と中川が共同プロデュースする裏原宿系ファッションブランド「Gene Loves Hisako」が新しく発足したことが紹介され、そのブランドの服を着た中川の写真が掲載されている。同誌の写真からは、1980年代に比べてすでに体重が増加していることがわかるが、この頃(30歳頃)が中川のモデル活動の最末期であったと思われる。 中川はモデル引退後、札幌市の実家で過ごしていたが、モデル時代の無理なダイエットがたたってリバウンドを起こし、好きな物を食べたいだけ食べた結果、モデル時代に50kgだった体重は64kgまで増加した。中川は後に著書で当時の心境を「緊張の糸がぷっつり切れた」「自己破壊衝動もあったのかもしれない」「どうでもいい自分を、どこかで楽しんでいるところがあった」と振り返っている。ただし、身長165cmの中川の適正体重は60kgであり、体重64kgでもBMIは23.5(18.5〜25未満は「普通体重」とされる)なので、この数値は決して肥満とは言えない。しかし中川はモデル時代の自分の体型を理想としていたことから、体重増加をひどく気に病むようになり、当時の自分を「山にこもる気持ちで実家にいた」「おしゃれも恋愛も、自分にはその資格がなくなったと、楽しいことはすべて自分で禁じていた」と述べている。 1986年、24歳のときの雑誌『MOGA』掲載のインタビューによれば、出身高校は女子校であった。高校時代は、同じ学校の女生徒から「エスの手紙とかもらいました」と述べており、「いつも見てて素敵だからお話ししたい、お友達になりたい」といったプラトニックな内容の手紙であったという。そうした手紙をもらって中川は「うれしい」と感じつつも、返事を書いたり、自ら他の女生徒にそうした手紙を出して憧れや恋心を伝えることはなかった。 モデル現役時代は、少女向けファッション雑誌『CUTiE』の看板モデルとして活躍したことなどから、少女ファンからのファンレターが届くことを「うれしい」と喜んでいた。またインタビューで「私は精神的な意味で、同性から見てレズビアン的な体質があるみたいなの」と述べるとともに、画家の金子國義が描く美少女が好きで、そうした美少女が自分のファンになり、自分が少女たちから見られることを「気持ちいい」と述べていた。そして、モデル活動を通じて「自分の少女時代を映像の中に封じ込めたい」「いまあえて、もう一度少女をやりたい。大人の女になるのが怖い」とも語っていた。 しかし、インタビュアーに男性との恋愛について質問されると「恋愛とかは人並です」と答え、自らが同性愛者であるとは回答しなかった。さらに結婚について質問されると「(周囲に)結婚してる人で幸せそうな人があまりいないの」と答え、結婚願望が薄いことをほのめかした。またそれとは別に、モデルデビュー直後の文化服装学院在学中のインタビューでは、好きな男性のタイプを聞かれ「男の趣味?そういうのは秘密です。謎が多い方がおもしろいでしょ」と質問をさらりとかわしていた。 一方、モデル引退後の1995年(33歳)の著書では、「(19歳で)上京した頃は、30歳までには結婚を考えていた」ものの、20代後半(モデル現役時代)で恋人とも別れ、結婚の予定もなくなったと述べ、このことも北海道への帰郷とモデル引退を考える契機となったと告白している。 ただしこれらは、いずれも雑誌や著書に掲載された時点(1986年、1995年)時点での発言であり、中川がその後に結婚したかどうかは明らかでない。 モデル活動中にJICC出版局(現:宝島社)から2冊(雑誌扱いのムック)、モデル引退後にマガジンハウスから1冊の著書(書籍)を刊行している。 CUTiE特別編集『別冊宝島 中川比佐子のメイクブック』JICC出版局、1990年3月8日。雑誌コード 65988-70(絶版)
CUTiE特別編集『中川比佐子のチャームブック』JICC出版局(CUTiE BOOKS)、1991年3月10日。ISBN 978-4796601085(絶版) 中川比佐子 著『中川比佐子の4カ月で10キロやせる!』マガジンハウス(ananダイエット)、1995年5月25日。ISBN 978-4838706433(絶版) 「CLOSE UP 中川比佐子 自分を夢見る」月刊『MOGA (モガ) 』第7号(1986年11月号)、東京三世社、1986年11月1日発行。雑誌コード 08751-11(絶版)
「The Futurist Models. ファッションモデルとの密談 1 中川比佐子」別冊宝島『CUTiE』1988年 Vol.2、JICC出版局、1988年7月31日発行(絶版)
^ 同誌上には「Gene Loves Hisako」の問い合わせ先および販売店として、ヴィヴィアン・ウエストウッド原宿本店、その他の販売店として、1982年設立のパンクファッションショップ「A STORE ROBOT」ラフォーレ原宿店、クワトロ店(渋谷パルコ)、アルタ店の3店が挙げられていた。 ^ 同誌インタビュー内では、具体的な出身高校名は明らかにされていない。なお札幌市内の女子高は、北星学園女子高等学校、藤女子高等学校、札幌聖心女子学院高等学校の3校が現存する。また中川が高校入学した1970年代後半には、札幌大谷高等学校、札幌香蘭女子学園高等学校、札幌慈恵女子高等学校、札幌静修高等学校、札幌北斗高等学校、札幌龍谷学園高等学校なども女子高であった(現在はいずれも男女共学化)。 ^ 「CLOSE UP 中川比佐子 自分を夢見る」月刊『MOGA (モガ) 』第7号(1986年11月号)、pp.57-62、東京三世社、1986年11月1日発行。雑誌コード 08751-11 ^ 『週刊テレビ番組』1987年8月14日号「プロフィール」p.26、東京ポスト ^ 「HISAKO' S DIET DIARY」『中川比佐子の4カ月で10キロやせる!』p.210。 ^ 『中川比佐子の4カ月で10キロやせる!』p.1。 ^ 「はじめに」『中川比佐子の4カ月で10キロやせる!』pp.13-19。 ^ 中川比佐子 - Discogs(英語) ^ 別冊宝島『CUTiE』1988年 Vol.2「The Futurist Models. ファッションモデルとの密談 1 中川比佐子」、JICC出版局、1988年7月31日発行。 ^ “CUTiEで紐解く、90年代ストリートファッションのすべて”. treasures. 宝島社 (2014年10月22日). 2014年10月22日閲覧。 ^ 帝都物語 - 作品情報 キネマ旬報WEB、キネマ旬報社、2024年10月24日閲覧。 ^ 帝都物語:作品情報 映画.com、株式会社エイガ・ドット・コム、2024年10月24日閲覧。 ^ 中川比佐子の関連作品 キネマ旬報WEB、キネマ旬報社、2024年10月24日閲覧。 ^ 中川比佐子 関連作品(映画) 映画.com、株式会社エイガ・ドット・コム、2024年10月24日閲覧。 ^ The Orchids – Yes, We Can / I Will Call You / Go! Orchids, Go! Discogs ^ The Orchids – Life Is A Science Discogs ^ 別冊宝島『CUTiE』1992年10月号、JICC出版局 ^ A STORE ROBOT Born in 1982 ^ ロンドン・パンクファッションの始まり。原宿〈A STORE ROBOT〉カルチャーの震源地へ Vol.2 BRUTUS、マガジンハウス、2021年2月2日、2024年11月7日閲覧。 ^ 音楽とファッションの密な関係〜A store Robot ディレクター・宮崎洋寿氏インタビュー 音楽業界総合情報サイト「Musicman」、エフ・ビー・コミュニケーションズ株式会社、2021年3月9日、2024年11月7日閲覧。 ^ 「第1回測定 7月29日」『中川比佐子の4カ月で10キロやせる!』p.22 ^ 「挫折せずに続けられたダンベル運動のすべて!」『中川比佐子の4カ月で10キロやせる!』pp.70-74 ^ 著者名「鈴木正成(すずき まさしげ)」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社。https://kotobank.jp/word/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90%EF%BC%88%E3%81%99%E3%81%9A%E3%81%8D%20%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%92%EF%BC%89。コトバンクより2024年10月24日閲覧。 ^ 『中川比佐子の4カ月で10キロやせる!』pp.2-3。 ^ 中川比佐子 著『中川比佐子の4カ月で10キロやせる!』マガジンハウス、1995年5月25日。ISBN 978-4838706433 ^ 別冊宝島 中川比佐子のメイクブック (SOLD OUT) 宝島チャンネル、宝島社、2024年10月18日閲覧。 ^ 中川比佐子のチャームブック (SOLD OUT) 宝島チャンネル、宝島社、2024年10月18日閲覧。 ^ 中川比佐子の4カ月で10キロやせる! (中川 比佐子 著) マガジンハウスの本、マガジンハウス、2024年10月24日閲覧。 「CLOSE UP 中川比佐子 自分を夢見る」月刊『MOGA (モガ) 』第7号(1986年11月号)、東京三世社、1986年11月1日発行。雑誌コード 08751-11 「The Futurist Models. ファッションモデルとの密談 1 中川比佐子」別冊宝島『CUTiE』1988年 Vol.2、JICC出版局、1988年7月31日発行。 中川比佐子 著『中川比佐子の4カ月で10キロやせる!』マガジンハウス(ananダイエット)、1995年5月25日初版。ISBN 978-4838706433 CUTiE - 創刊当初の看板モデルを務めた 上海紅鯨団が行く - レギュラー出演番組 大川ひとみ - 中川をモデルにスカウトした「MILK」のデザイナー ヴィヴィアン・ウエストウッド - パリコレなどでファッションショーに出演 山口小夜子 - オリエンタルモデルの先駆けで、中川も影響を受けた MELON (バンド) - 音楽ユニットで中西俊夫らがプロデュース、カバー曲も演奏 The Orchids (曖昧さ回避) この項目は、ファッション関係の人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル ファッション)。 VIAF 日本 日本の女性ファッションモデル 女性向けファッション雑誌のモデル パリ・コレクション出演モデル 日本の女性タレント 日本の女性歌手 日本のヒップホップ・ミュージシャン 20世紀日本の女優 札幌市出身の人物 文化服装学院出身の人物 1962年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ すべてのスタブ記事 ファッション関係者に関するスタブ項目 歌手に関するスタブ VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
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