児玉利一の情報(こだまりいち) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
児玉 利一さんについて調べます
■名前・氏名 |
児玉利一と関係のある人
清水秀雄: 東京六大学リーグでは、児玉利一との継投で1937年春季から1938年秋季にかけてリーグ初の4連覇に貢献。 天知俊一: ベテランの西沢道夫、児玉利一が天知へ「戻ってきてほしい」と懇願して実現したものだが、杉下は天知が肝臓を悪くしているのを知っていたため、日本シリーズを制した直後に「身体のために早く(監督を)辞めて下さい」と言われたという。 中村敏行: 1957年はベテランの児玉利一が移籍入団、その控えに回るがシーズン後半には二塁手も兼ねて活躍した。 森山周一郎: 在学時は野球部に所属しプロ野球選手を目指していたが、先輩である本多逸郎の縁で実現した中日ドラゴンズとの練習試合で、当時の主力選手だった西沢道夫、児玉利一、杉山悟らの前に滅多打ちにされその夢を断念。 |
児玉利一の情報まとめ
児玉 利一(こだま りいち)さんの誕生日は1919年2月19日です。大分出身の野球選手のようです。
卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。2008年に亡くなられているようです。
児玉利一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 児玉 利一(こだま りいち、1919年2月19日 - 2008年9月3日)は、大分県大分市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。 大分商業では1932年の春の選抜に大分県勢として初出場し、1935年の春ではベスト8に進出した。卒業後は1936年に明治大学へ進学し、4番・一塁手として活躍する傍ら、清水秀雄のリリーフ投手も務めた 。岩本義行、杉浦清、吉田正男、藤本英雄ら錚々たるメンバーと共に六大学史上初の4連覇に貢献。1940年の「東亜競技大会」日本代表(東京六大学選抜)に伊藤庄七・加藤春雄と共に選出され、チームは全勝の成績を収めたが、児玉は1995年にユニフォームと入場式で着用した帽子とネクタイを、野球殿堂博物館に寄贈した。卒業後は終戦を満州で迎え、1946年8月に帰国すると地元の全大分でプレー。 1951年に明大の先輩である天知俊一監督に誘われ、32歳で名古屋ドラゴンズへ入団。1年目の同年は内野手としてプレーしつつ、投手としても1試合の先発を含む4試合に投げた。2年目の1952年からは定位置を確保し主力として活躍し、3年目の1953年からは西沢道夫、杉山悟と共に強力クリーンアップを組む。同年にはリーグ8位の打率.303を記録したほか、オールスター初出場も果たす。コーチ兼任となった1954年は4番・三塁手を任されて打率.272、10本塁打、47打点で球団史上初のリーグ優勝及び日本一に貢献。西鉄との日本シリーズでも10月30日の第1戦(中日)で1-1の同点で迎えた8回裏、西村貞朗からバスターで左翼席に勝ち越し2ラン本塁打を放つなど22打数8安打(打率.364)を記録。カーブを打つのが上手く、「カーブ打ちの名人」と言われていた。1955年と1956年には2年連続でオールスター出場とベストナイン獲得を果たし、1955年には川上哲治に次ぐリーグ2位の打率.315、選手専任に戻った1956年には3月25日の巨人戦(後楽園)から4月12日の国鉄戦(長野城山)まで10試合連続四球を選ぶなどリーグ最多の73四球を記録。1957年には大洋ホエールズへ移籍し、4番・一塁手として活躍。同年10月13日の巨人戦(川崎)で大友工、1958年8月3日の国鉄戦(川崎)でも金田正一からサヨナラ本塁打を放った。1958年には39歳で打率.275、10本塁打を放ったが、同年限りで現役を引退。 引退後はラジオ関東、フジテレビ・関西テレビ・東海テレビ・広島テレビ・テレビ西日本、東海ラジオ、千葉テレビ「CTCダイナミックナイター」(1971年)で解説者として活躍し、解説者時代は相次ぐ現場復帰でFNS系列局の解説者が不足した時期には大部分の全国中継を担当。 OBのプロ退団者のコーチが1973年から認められると、島岡吉郎監督の招聘で、後輩の岡田悦哉と共に母校・明大の外部臨時コーチに就任。島岡は日米大学野球選手権でアメリカに遠征した際、南カリフォルニア大学のロッド・デドー監督の「私の野球は戦前の野球。だから新しいものを取り入れるために、ドジャースから良い面を学んでいる」という言葉に胸を打たれ、帰国後の春季リーグで2位に終わって「技術より精神面を重視してきた大学野球のカラを、このあたりで破る時期にきている」と実感。プロ経験者のコーチ解禁第1号として児玉をコーチに起用し、児玉は引退以来15年ぶりのユニフォーム姿で、黄金時代の選手を思わせない温厚さと懐の深さで選手を指導。打者には「腕でボールを打つな。腰で打つこと」、投手には「腰を軸にしての投法を覚えろ」と教えた。後に主将・エースとして活躍する丸山清光がアンダースローに転向したばかりの際、マウンドのプレートの使い方と右打者のインコース低めに沈むシンカーを伝授。丸山は得意のカーブに加え、プレートの使い方とシンカーで投球に幅ができ、1975年には江川卓を擁する法政を抑えて春秋連覇に貢献し、児玉も祝賀会に出席している。 その後は巨人のオーナーと学生時代から親しかったのが縁で、巨人のキャラクター商品を販売する会社「一球」の会長を務めた。 2008年9月3日午前9時30分、前立腺癌のため東京都文京区の病院で死去。89歳没。 各年度の太字はリーグ最高 名古屋(名古屋ドラゴンズ)は、1954年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更 ベストナイン:2回 (三塁手部門:1955年、1956年) オールスターゲーム出場:3回 (1953年、1955年、1956年) 14 (1951年 - 1956年) 5 (1957年 - 1958年) 77 (1976年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、220ページ ^ 週刊ベースボール1973年9月17日号「ワイド特集(1)雪解けの使者児玉臨時明大コーチ」pp24-25 ^ 丸山清光『増補版 なんとかせい! 一事入魂 島岡御大の10の遺言』鳥影社、ISBN 4862659985、2023年1月23日、p232。 ^ 『なんとかせい! 一事入魂 島岡御大の10の遺言』、p83。 ^ 野球殿堂博物館 - The Baseball Museum ^ クロスネット時代にFNS向け。 ^ 『なんとかせい! 一事入魂 島岡御大の10の遺言』、pp76-77。 ^ 週刊ベースボール1973年10月8日号「技術をひもとく…目につく基礎体力不足 …児玉利一…」p37 ^ 朝日新聞縮刷版p299 昭和60年3月8日夕刊3面「プロ野球 あの名選手いまどこに 栄光のプレー記憶は薄れて」 ^ 中日の日本一に貢献 児玉利一さん死去 - スポニチ Sponichi Annex 大分県出身の人物一覧 明治大学の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 メガホン 個人年度別成績 児玉利一 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 投 別所毅彦 捕 広田順 一 川上哲治 二 井上登 三 児玉利一 遊 吉田義男 外 渡辺博之 / 与那嶺要 / 町田行彦 表 話 編 歴 投 別所毅彦 捕 藤尾茂 一 川上哲治 二 井上登 三 児玉利一 遊 吉田義男 外 与那嶺要 / 田宮謙次郎 / 青田昇 日本の野球選手 大分県立大分商業高等学校出身の野球選手 明治大学野球部の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 大分県出身の人物 1919年生 2008年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/19 17:05更新
|
kodama riichi
児玉利一と同じ誕生日2月19日生まれ、同じ大分出身の人
TOPニュース
児玉利一と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「児玉利一」を素材として二次利用しています。