内藤多仲の情報(ないとうたちゅう) 建築学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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内藤多仲の情報まとめ
内藤 多仲(ないとう たちゅう)さんの誕生日は1886年6月12日です。山梨出身の建築学者のようです。
テレビ、現在、卒業、趣味、兄弟に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1970年に亡くなられているようです。
内藤多仲のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月12日 - 1970年〈昭和45年〉8月25日)は、日本の構造家・建築構造技術者・建築構造学者・一級建築士(登録番号第17200号)、建築家。「耐震構造の父」と称されている。名古屋テレビ塔や東京タワーなど、鉄塔の設計を多く手がけ、「塔博士」とも呼ばれている。日本建築学会長、日本地震工学振興会会長などを歴任。 山梨県中巨摩郡榊村(現南アルプス市曲輪田)出身。旧制甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)入学。最初は造船学を専攻していたが、日露戦争後の造船不況を考慮して建築学に転向。佐野利器に師事した。 1910年に東京帝国大学卒業(同期に高松政雄、安井武雄らがいた)、1913年に早稲田大学教授。 1917年-1918年、アメリカへ1年間留学。旅行用トランクの仕切板を外して積んだため、トランクを破壊してしまった体験や船の構造から着想を得て、帰国後に耐震壁による耐震構造理論を考案した。1924年に、「架構建築耐震構造論」で工学博士号を取得。 この耐震構造理論を用いて耐震壁付き鉄骨鉄筋コンクリート構造の日本興業銀行本店(渡辺節設計、1923年竣工)や歌舞伎座、実業之日本社ビル等の構造設計を実施。興銀の竣工3か月後に関東大震災が起こるが、丸の内にあったアメリカ流の鉄骨造ビルが大きな被害を受けたのと対照的に、興銀が無事だったことで内藤の理論が実証された(歌舞伎座は建設工事中で、内部を焼失したが、躯体は無事だった)。 1938年に溶接学会会長 1941年に日本建築学会会長 1943年に早稲田大学理工学部長就任 1954年に日本学術会議会員 1960年に日本学士院会員、東レ科学技術賞受賞 1962年に文化功労者 1964年に勲二等旭日重光章(現・旭日重光章) 1970年に従三位 また、内匠寮工務課の嘱託として、昭和12年竣工の楽部庁舎の設計に関わった。 戦後は、名古屋テレビ塔やさっぽろテレビ塔、東京タワーなど多数(70基)の鉄骨構造の電波塔・観光塔の設計を手がけ、「塔博士」とも呼ばれた。4000メートル塔の構想もあり図面を残している。 次男・内藤多四郎 も構造設計の道に進み、日本建築積算協会顧問。 1970年8月25日9時5分、第一国立病院(現在の国立国際医療センター)で死去。84歳。遺骨は多磨霊園内にある内藤家の墓地に埋葬された。墓地の右側には墓誌が、左側に銅像と顕彰記がある。 唯一の趣味が能であり、自ら演じた。「能を演じるのと構造設計とは同じくやり直しがきかぬ所に無限の味わいがある」とは多仲本人の言葉である。 内藤が作成する構造計算書は、かなり省略や飛躍が多いため、専門家の間でも分からないという評がある。計算の進め方は1枚の写真の全紙大のカレンダーの裏に縦断面を描き、左手に計算尺、右手に万年筆で、上の階から柱・梁・床版・壁などリスト風に個所個所に断面のスケッチを描いていき、楽譜のようにスケッチを仕上げ、図表も公式も神わざのような速さで済ませていたという。 色々と注文をつけられる場合は、大抵言われる通りにデザインを変える。機能上、どうしても設けられない時は残酷だねと述べて、計算のやり直しをする。耐震構造は平面と断面の全体をのみこまれてから方針を決められることが多く、施工が始まると現場をしばしば訪れた。このとき各所を丹念に調べ、補助筋の要か不要を確かめ、補助筋は大抵10パーセントを越えない。 鉄骨の材を被覆なく水平に大きく使用する方法を採用する例も多く配慮は架構に限らず、基礎はことのほか厳重であり、これは基礎下の土質の状態やシートパイルの緊結など耐震考慮のため何回となく考え直すことがあり、杭打の日などは1日中現場から離れず見ることもあったという。 Where there's a will.there's a way-意思ある所に道あり-。内藤が人生を振り返り語った言葉。中学2年の英語で習ったイソップ物語に出てきたと記している。多くの人々から影響を受けながら強い信念をもって研究に取り組み、「日本の耐震構造の父」となった。 【耐震建築五訓】地震学者の今村明恒の言葉を基に内藤が作った耐震建築についての教え 木造 柱には方杖 壁に筋違を 仕口に金具 隅に火打を 鉄筋柱 壁なくて 何の己が柱ぞよ めおとの仲も そんなものぞよ 鉄筋ビル 耐震の壁の力は柱をも 強めてやすき 鉄骨のビル 鉄骨鉄筋ビル 君知るや 壊れたためし 未だ聞かぬ 鉄骨入りの鉄筋のビル 超高層ビル ふらふらと地震のかわす 神業は 電算鉄骨の超高のビル 以下の年には竣工年でないものと竣工年のものが混在する。
日本興業銀行本店(1923年)
東京電灯千住火力発電所(1925年)
大隈講堂(1926年)
大丸心斎橋店本館(1933年)
富山電気ビルデイング(1936年)
山梨県民会館(1957年)
テレビ塔 (1954年)" src="//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/Nagoya_TV_Tower_-_01.JPG/80px-Nagoya_TV_Tower_-_01.JPG" decoding="async" width="80" height="120" class="mw-file-element" srcset="//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/Nagoya_TV_Tower_-_01.JPG/120px-Nagoya_TV_Tower_-_01.JPG 1.5x, //upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/Nagoya_TV_Tower_-_01.JPG/160px-Nagoya_TV_Tower_-_01.JPG 2x" data-file-width="1936" data-file-height="2896" />
名古屋テレビ塔(1954年)
二代目通天閣(1956年)
別府タワー(1956年)
テレビ塔 (1957年)" src="//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6b/Sapporo_television_tower_01.jpg/90px-Sapporo_television_tower_01.jpg" decoding="async" width="90" height="120" class="mw-file-element" srcset="//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6b/Sapporo_television_tower_01.jpg/135px-Sapporo_television_tower_01.jpg 1.5x, //upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6b/Sapporo_television_tower_01.jpg/180px-Sapporo_television_tower_01.jpg 2x" data-file-width="2736" data-file-height="3648" />
さっぽろテレビ塔(1957年)
東京タワー(1958年)
甲府市役所1号館(1961年)
博多ポートタワー(1963年)
山梨県庁舎本館(1963年)
『建築構造学』、1918年 『架構建築耐震構造論』、早稲田大学出版会 1924年 『日本の耐震建築とともに』、雪華社、1965年 『建築と人生』、鹿島出版会、1966年 『内藤多仲博士の業績』、鹿島出版会、1967年 『タワー 内藤多仲と三塔物語』、INAX出版、2006年 『建築雑誌 昭和45年12月号』日本建築学会編・発行、1970年12月20日
「東京タワーを建てた塔博士─内藤多仲」(『技術者という生き方 ― 発見!しごと偉人』上山明博、ぺりかん社、2012年) 「世界一をめざした塔博士の熱き思い─ 内藤多仲」(『ニッポン発明物語』上山明博、Kindle版、2014年) マンガふるさとの偉人「東京タワーをつくった人 内藤多仲」発行 山梨県南アルプス市 南アルプス市教育委員会 南アルプス市立中央図書館 2024年3月 https://www.bgf.or.jp/bgmanga/319/ 日本の風景を変えた男たち 塔博士・内藤多仲 鉄塔三都物語 NHK BShi(2008年2月19日、再放送2016年4月21日、1時間50分)出演:ダンカン 近代建築誕生秘話 塔博士の愛した数式〜東京タワーを作った男・内藤多仲〜(BS朝日、2014年8月17日、再放送2014年10月19日、放送時間1時間54分)出演:菊川怜 タワー六兄弟 ^ 北日本新聞 2019年1月5日付30 - 31面『祝・富山電気ビルディング国登録有形文化財(建造物)登録記念 いつも、いつまでも、富山とともに』より。 ^ 近代建築誕生秘話 塔博士の愛した数式~東京タワーを作った男・内藤多仲~(BS朝日、2014年8月17日放送) ^ 『日新鐘』甲府中学・甲府一高第52回東京同窓会記念誌 p.12 ^ 第13回稲門建築界特別功労賞 ^ 2014年度DOCOMOMO JAPANに選定 ^ 2018年9月より会員制のビジネスイノベーション拠点「kudan house」として運用開始 ^ “塔博士 内藤多仲 鉄塔三都物語”. NHK. 2021年6月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月11日閲覧。 早稲田人名データベース 内藤多仲 『プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 通天閣 熱き7人/商店主と塔博士の挑戦』(日本語) - 著者:NHK『プロジェクトX』制作班、発行:日本放送出版協会 歴史が眠る多磨霊園 内藤多仲(日本語) 表 話 編 歴 初代会長 青木周蔵 1886-1893 第2代 渡辺洪基 1893-1898 第3代 辰野金吾 1898-1904 第4代 渡辺譲 1904-1905 第5代 辰野金吾 1905-1918 第6代 曽禰達蔵 1918-1921 第7代 中村達太郎 1921-1923 第8代 塚本靖 1923-1925 第9代 横河民輔 1925-1927 第10代 塚本靖 1927-1929 第11代 佐野利器 1929-1931 第12代 大熊喜邦 1931-1933 第13代 佐野利器 1933-1935 第14代 内田祥三 1935-1937 第15代 佐野利器 1937-1939 第16代 内田祥三 1939-1941 第17代 内藤多仲 1941-1943 第18代 小林政一 1943-1945 第19代 内藤多仲 1945-1947 第20代 岸田日出刀 1947-1949 第21代 吉田享二 1949-1951 第22代 伊藤滋 1951-1953 第23代 石井桂 1953-1955 第24代 武藤清 1955-1957 第25代 佐藤武夫 1957-1959 第26代 二見秀雄 1959-1961 第27代 木村幸一郎 1961-1963 第28代 棚橋諒 1963-1965 第29代 高山英華 1965-1967 第30代 坪井善勝 1967-1969 第31代 前田敏男 1969-1971 第32代 加藤六美 1971-1973 第33代 吉阪隆正 1973-1975 第34代 横尾義貫 1975-1977 第35代 吉武泰水 1977-1979 第36代 梅村魁 1979-1981 第37代 清家清 1981-1983 第38代 小堀鐸二 1983-1985 第39代 芦原義信 1985-1987 第40代 谷資信 1987-1989 第41代 木下茂徳 1989-1991 第42代 岸谷孝一 1991-1993 第43代 内田祥哉 1993-1995 第44代 中村恒善 1995-1997 第45代 尾島俊雄 1997-1999 第46代 岡田恒男 1999-2001 第47代 仙田満 2001-2003 第48代 秋山宏 2003-2005 第49代 村上周三 2005-2007 第50代 斎藤公男 2007-2009 第51代 佐藤滋 2009-2011 第52代 和田章 2011-2013 第53代 吉野博 2013-2015 第54代 中島正愛 2015-2017 第55代 古谷誠章 2017-2019 第56代 竹脇出 2019-2021 第57代 田辺新一 2021- FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research IdRef 20世紀日本の建築家 日本の建築学者 日本の構造家 日本の構造工学者 日本の宮内省関係者 早稲田大学の教員 日本学士院会員 日本学術会議会員 文化功労者 紫綬褒章受章者 紺綬褒章受章者 従三位受位者 勲二等旭日重光章受章者 日本の塔 東京タワー 造家学会・建築学会会長 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 山梨県立甲府第一高等学校出身の人物 山梨県出身の人物 1886年生 1970年没 多磨霊園に埋葬されている人物 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/21 10:14更新
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naitou tachuu
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