内藤幸三の情報(ないとうこうぞう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
内藤 幸三さんについて調べます
■名前・氏名 |
内藤幸三と関係のある人
松本利一: 1940年7月13日の阪急戦(後楽園球場)で、長尾貞利、内藤幸三の後を受けて3番手投手でプロ初登板。 岡村孝雄: 1950年に新球団・広島カープが創設されるに当たり、初代監督を務める事となった石本秀一の誘いで、阪急時代のチームメイトだった内藤幸三,武智修,竹村元雄と共に広島に入団した。 石本秀一: 手塩にかけた大陽の二軍選手をごっそり連れてこようとしたが、大陽・松竹の合併でオジャンとなり、数選手のみを譲り受け、広商の後輩、浜崎真二の好意で阪急から内藤幸三、武智修らをもらったが、武智は長谷川良平を執拗に虐めるなど、実際は問題選手の厄介払いであった。1950年1月15日に西練兵場跡(現在の広島県庁一帯)で行われた有名なチーム結成披露式では、石本による選手紹介があったが、目玉の白石勝巳は当日不在で、辻井弘、武智修、岩本章、内藤幸三、磯田憲一の後は、広島市民が知らない選手ばかりで、石本の紹介は「え~、もう二年、三年すると活躍するでしょう」「彼は将来カープをしょって立つ…」「彼は努力を怠らない…」などの苦しい枕詞のオンパレードだったといわれる。 武智修: 移籍1年目の1950年は前年に引き続き投手を兼任し、開幕当初は内藤幸三と共に主戦投手扱いであった。 浜崎真二: 翌1949年には低い下馬評を覆し武智修、内藤幸三、中谷準志、玉腰忠義ら、効果的な補強と天保義夫、今西錬太郎両投手をうまく使いこなし、シーズンを独走した巨人に唯一勝ち越すなど2位と躍進させた。 竹村元雄: 翌1950年に新球団・広島カープが創設されるに当たり、初代監督を務める事となった石本秀一の誘いで、阪急時代のチームメイトだった内藤幸三、武智修、岡村孝雄と共に広島に入団した。 長谷川良平: 1949年末に設立された広島カープの石本秀一監督が選手集めをしていたところへ、広島への入団が決まっていた内藤幸三が新田建設時代の監督・横沢七郎経由で聞いた長谷川の噂を石本へ伝えたところ、1950年1月に長谷川は広島の入団テストを受けることになる。 岩田次男: 1936年9月23日、甲子園球場で行われた名古屋金鯱軍戦にて内藤幸三からプロ野球初の満塁本塁打を放った。 |
内藤幸三の情報まとめ
内藤 幸三(ないとう こうぞう)さんの誕生日は1916年3月25日です。三重出身の野球選手のようです。
卒業、引退に関する情報もありますね。2002年に亡くなられているようです。
内藤幸三のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 内藤 幸三(ないとう こうぞう、1916年3月25日 - 2002年1月31日)は、三重県出身のプロ野球選手(投手)・審判員。日本プロ野球最初の本格派左腕投手である。 宇治山田市立明倫小学校では沢村栄治と同級生。北海道立小樽商業学校、東京市立商業学校(転校)時代から投手であったが、硬球を握っておらず、卒業後は軟式社会人クラブ「東京リーガル倶楽部」でプレー。1934年・1935年の全国社会人軟式野球大会連覇に貢献した。中でも35年の東京予選では37イニング (全111アウト) を投げて98奪三振、決勝では26奪三振の完全試合を達成している。 その年、日本国中にプロ野球球団設立の機運が高まると、名古屋新聞関係者と共に名古屋金鯱軍設立に奔走。金鯱軍設立後は投手となり、ここで初めて硬球を握った。1936年秋シーズンに投球イニング数を超える139奪三振をマークし、初代の奪三振王となる(当時はタイトルではない)。 兵役で2年間ブランクの後、1939年から本格的にエースとして活躍するが、1941年のシーズン直前にチームが翼軍と合併し、大洋軍となるときに金鯱を離れて朝日軍に移籍し、1944年の休止までプレーした。戦後は朝日軍(この時点でパシフィックと変更していた)の仲間と共に新球団ゴールドスター(1947年から金星スターズ)を立ち上げ、エースとなるが、永田雅一率いる大映に買収されるや「ラッパ(永田のあだ名)」から逃走するかのごとく阪急ブレーブスへ移籍。 1949年オフ、広島カープが設立されると第一次選手として移籍。球団創設の開幕投手や球団勝利第1号投手としてチームの歴史に名を残すが、戦中戦後の混乱と度重なる移籍から体がボロボロになっており、結局、1951年限りで現役を引退した。 引退後の1954年、セントラル・リーグの審判部へ所属し、審判に転向。審判部が東京・関西の二部制となると東京審判部に所属。1966年まで審判を務めた。 2002年1月31日、脳梗塞のため86歳で死去。 投手としての球種はドロップ、スローカーブ。 各年度の太字はリーグ最高 ゴールドスターは、1947年に金星(金星スターズ)に球団名を変更 最多奪三振:1回(1936年秋)※当時連盟表彰なし 1イニング12失点:1946年7月15日、対グレートリング3回戦(高岡工専グラウンド)、8回裏に記録 ※プロ野球記録 14 (1936年) 15 (1940年、1950年 - 1951年) 19 (1941年 - 1943年) 2 (1946年 - 1947年) 17 (1948年) 12 (1949年) 1944年は背番号廃止 ^ 鳴海球場 1936年、日本初のプロ野球試合 巨人の沢村がKO 西日本新聞 2016年12月12日 ^ “カープ50年史 よみがえる熱球 <15>内藤幸三”. 2021年3月27日閲覧。 三重県出身の人物一覧 名古屋金鯱軍の選手一覧 松竹ロビンスの選手一覧 大映ユニオンズの選手一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 広島東洋カープの選手一覧 プロ野球審判員一覧 個人年度別成績 内藤幸三 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1936秋 内藤幸三 1937春 沢村栄治 1937秋 沢村栄治 1938春 亀田忠 1938秋 V.スタルヒン 1939 V.スタルヒン 1940 亀田忠 1941 中尾輝三 1942 野口二郎 1943 藤本英雄 1944 藤本英雄 1946 真田重蔵 1947 別所昭 1948 中尾碩志 1949 武末悉昌 表 話 編 歴 1936春夏 古谷倉之助 1936秋 内藤幸三 1937春 古谷倉之助 1937秋 鈴木鶴雄 1938春 鈴木鶴雄 1938秋 中山正嘉 1939 古谷倉之助 1940 中山正嘉 表 話 編 歴 1936春夏 近藤久 1936秋 桜井七之助 1937春 遠藤忠二郎 1937秋 菊矢吉男 1938春 菊矢吉男 1938秋 菊矢吉男 1939 菊矢吉男 1940 福士勇 1941 菊矢吉男 1942 内藤幸三 1943 林安夫 1944 内藤幸三 1946 井筒研一 1947 池田善蔵 1948 真田重男 1949 井筒研一 1950 小林恒夫 1951 井筒研一 1952 荻原隆 表 話 編 歴 1950 内藤幸三 1951 杉浦竜太郎 1952 大田垣喜夫 1953 長谷川良平 1954 長谷川良平 1955 長谷川良平 1956 長谷川良平 1957 長谷川良平 1958 長谷川良平 1959 備前喜夫 1960 備前喜夫 1961 河村英文 1962 大石清 1963 大石清 1964 池田英俊 1965 大石清 1966 池田英俊 1967 安仁屋宗八 1968 大石弥太郎 1969 安仁屋宗八 1970 外木場義郎 1971 大石弥太郎 1972 白石静生 1973 外木場義郎 1974 佐伯和司 1975 外木場義郎 1976 外木場義郎 1977 外木場義郎 1978 高橋里志 1979 福士明夫 1980 池谷公二郎 1981 池谷公二郎 1982 北別府学 1983 北別府学 1984 北別府学 1985 大野豊 1986 北別府学 1987 北別府学 1988 北別府学 1989 北別府学 1990 大野豊 1991 長冨浩志 1992 川口和久 1993 北別府学 1994 北別府学 1995 佐々岡真司 1996 大野豊 1997 山内泰幸 1998 大野豊 1999 N.ミンチー 2000 佐々岡真司 2001 佐々岡真司 2002 佐々岡真司 2003 黒田博樹 2004 黒田博樹 2005 黒田博樹 2006 黒田博樹 2007 黒田博樹 2008 大竹寛 2009 C.ルイス 2010 前田健太 2011 前田健太 2012 前田健太 2013 B.バリントン 2014 前田健太 2015 前田健太 2016 K.ジョンソン 2017 K.ジョンソン 2018 野村祐輔 2019 大瀬良大地 2020 大瀬良大地 2021 大瀬良大地 2022 大瀬良大地 2023 大瀬良大地 2024 九里亜蓮 日本の野球選手 名古屋金鯱軍の選手 松竹ロビンス及びその前身球団の選手 大映ユニオンズ及びその前身球団の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 最多奪三振 (NPB) 日本のプロ野球審判員 三重県出身の人物 1916年生 2002年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/03 16:15更新
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