孝乃富士忠雄の情報(たかのふじただお) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
孝乃富士 忠雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
孝乃富士忠雄の情報まとめ
孝乃富士 忠雄(たかのふじ ただお)さんの誕生日は1963年10月9日です。東京出身の相撲のようです。
引退、兄弟、家族、現在、卒業に関する情報もありますね。孝乃富士忠雄の現在の年齢は61歳のようです。
孝乃富士忠雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)安田 忠夫(やすだ ただお、1963年10月9日 - )は、日本の元男性プロレスラー、元総合格闘家、元大相撲力士、元YouTuber、タレント。東京都大田区出身。娘は元レースクイーンのAYAMI。大相撲力士時代は、身長192cm、体重143kg。 中学3年生の1学期に大きな体を見込まれて九重部屋からの勧誘を受ける。最初は運動経験がないことを理由に断るが、「料理を覚えることもできるぞ」と九重に説得されて入門に至り、1979年3月場所初土俵。入門当初の四股名は本名と同じ安田だったが、1980年3月場所には富士の森、1984年3月場所以降は孝乃富士(たかのふじ)と名乗り、1986年5月場所に新入幕。懐が深く、胸を合わせての左四つが得意であったが立合いを苦手としていた。若手の頃は同部屋同期入門の北勝海信芳や、双羽黒(北尾光司)、寺尾常史、琴ヶ梅剛史、小錦八十吉らとともに「花のサンパチ組」と称された。 1986年9月場所、入幕3場所目に双羽黒から金星を挙げ、更に1987年9月場所にも双羽黒から金星を取った。1990年5月場所に東前頭9枚目で11勝4敗の好成績を挙げ敢闘賞を受賞し、翌7月場所に小結に昇進するが、2勝13敗の大敗に終わり、三役経験は同場所のみに終わった。1992年5月場所を最後に28歳で力士を廃業。なお引退相撲の断髪式では、当時の師匠かつ兄弟子の九重親方(元横綱・千代の富士)ではなく、自身が引退する直前の1992年4月まで師匠だった陣幕親方(元横綱・北の富士、現NHK相撲解説者)が止め鋏を入れていた。これは本人が「陣幕親方(北の富士)に切って欲しい」と希望し聞き入れられたためである。 力士を廃業した後、プロレスラーへ転向。1993年6月、新日本プロレスに入門。日本武道館での馳浩戦でデビュー。恵まれた体格と格闘センスでポスト坂口征二(坂口から赤いコスチュームと入場曲「燃えよ荒鷲」を受け継いだ)として期待されたものの、大きなチャンスを与えられることもなく、結果を出せない中堅レスラーとしての日々が長く続く。穏やかな人柄で橋本真也らからはヤスティの愛称で呼ばれ可愛がられた。 私生活では根っからのギャンブル好きで借金苦に陥っていたこともあり、家族とも離縁。 のちにアントニオ猪木によって再生され、2001年に総合格闘技デビュー。3月25日のPRIDE.13で佐竹雅昭に判定勝ちを収めて白星デビューを飾る。12月31日の「INOKI BOM-BA-YE 2001」ではメインイベントに大抜擢され、生中継でジェロム・レ・バンナから大金星を挙げた。2002年2月にはIWGPヘビー級王座も獲得した。その後悪役に転向し魔界倶楽部のリーダーとなるが素行不良が顕著となり、2004年に精神修行の旅に出て、正統派に戻るはずだった。しかし復帰から間もない9月15日、新日本プロレスから無期限出場停止処分を受け、当時の社長草間政一より2005年1月18日に解雇された。 その後はIWA・JAPAN、フーテン・プロモーション、ZERO1-MAX、ハッスルに参戦。出場停止からちょうど1年にあたる2005年9月15日、ZERO1-MAXを運営するファーストオンステージ社長・中村祥之が新日本プロレス社長・サイモン猪木と会談し、新日本に置きっぱなし状態になっていた安田忠夫の契約書を譲渡してもらい、中村が一切のマネージメントを受け持つこととなり、ファーストオンステージ所属(預かり)となった。事実上のZERO1-MAX所属であるが、ヒールレスラーであること、素行面の心配が解消されないこと、最初に参戦していたIWA・JAPANの興行を優先することなどの理由により、正式所属とはならなかった。 2005年12月、予定されていたIWA・JAPANの興行を諸事情により取りやめ、IWA・JAPAN社長の浅野起州はトラブルを否定しながらも今後の参戦がないことを示唆した。 アントニオ猪木主催のIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)旗揚げ戦(6月)でジョシュ・バーネット、9月の興行第2戦でマーク・コールマンと対戦するも共に負けを喫した。 2007年10月5日、都内の自宅で倒れているところを田山正雄に発見され、救急車で病院に運ばれていたことが判明した。警視庁田園調布警察署によると、練炭を使って自殺を図った模様。発見が早かったため一命は取り留めた。その後、東京スポーツによると、意識が戻った安田は自殺説を否定し「焼肉をしようと思ったが、ガスが止められていたので七輪を買った。そうしたら今度は肉を買う金がなくなってしまい、独り空しく“エア焼肉”を楽しんでいたら、不覚にも眠ってしまって…」と語った。10月14日には翌週に退院できるほどに回復した姿が報道された。退院後は12月20日に行われるIGF有明コロシアム大会で小川直也と対戦するも敗北。暫く音沙汰がなかったが、2008年5月にZERO1-MAXへ参戦する蝶野正洋のタッグパートナーとして出場することが明らかとなった。2008年7月には東海プロレスに参戦し、小仲=ペールワンとシングルマッチを行い勝利した。 2008年11月4日付東京スポーツに2008年10月より岩手県八幡平市にある石澤常光(ケンドー・カシン)の実兄が経営する養鶏・養豚場で働いていると掲載されたが、2010年7月27日発売の週刊アサヒ芸能おいて、2010年7月をもって解雇となったことが報じられた。また、同記事では力士時代の大相撲の賭博に関して暴露した。 その後同年9月には嵐の自主興行に参戦し約1年ぶりにプロレスに復帰したものの、10月には東京スポーツで2011年初めに自身の引退興行を行うと発表した。 2011年2月4日、有志による引退興行実行委員会の助力で安田忠夫引退記念興行「日本とプロレスにおさらばします。」を後楽園ホールで開催。オープニングマッチで曙と、第4試合でのタッグマッチで大谷晋二郎とタッグを組んで高山善廣・鈴木みのる組と、メインイベントでは天龍源一郎と3試合を戦った。試合終了後には引退式が行なわれ、娘・AYAMIが手紙を読み上げ、10カウントゴングが鳴らされた。 引退後はブラジルに渡り、農場で働きつつ、相撲を教えると待遇の職務を斡旋されていたが、引退興行実行委員会との金銭トラブルを理由に、渡航予定日に空港に姿を現すことはなかった。 その後、カンボジアの国際的カジノ企業「ゴールデン・パームグループ」に就職が決まったと報じられたが、10月末には同社を辞職し帰国していたことが発覚した。 2012年3月25日放送の『クイズ☆タレント名鑑』の企画「USC 〜史上最大ガチ相撲トーナメント 2012 春〜」に出場、決勝で元若麒麟の鈴川真一に敗れ準優勝となった。 2017年末、芸能事務所「アフロディーテ プロモーション」に所属しタレント業を開始。ツイッターも開設(2021年現在は閉鎖)。また2018年5月よりYouTubeチャンネル「安田忠夫の人生劇場」を開設したが、こちらも2021年9月に閉鎖した。 2022年3月現在、列車見張員の仕事をしているという。 同年12月9日、都内で行われたアントニオ猪木追悼興行の記者会見に貴賢神を連れて登場。久々に姿を見せた。 角界出身で有りながら、それを生かしたパワーファイトが身上であった。それ以降は、総合での格闘技も身に付けていた。 通算成績:418勝459敗4休 勝率.477 幕内成績:212勝281敗2休 勝率.430 現役在位:79場所 幕内在位:33場所 三役在位:1場所(小結1場所) 三賞:1回
金星:2個(双羽黒2個) IWGPヘビー級王座(第30代) HHH: 1回 ハッスル・スーパータッグ:1回(&天龍源一郎) 「孝乃富士」の四股名は姓名判断者に「あなたは全然親孝行していないですね」と指摘され、その通りだと思ったことに由来する。 元来のギャンブル好きで、相撲時代は九重部屋に極道まがいの借金取りが度々取り立てに訪れていたとされる(廃業の一因も借金問題があったと指摘するライターもいる)。 ギャンブル好き・無気力・ドタキャンなど、素行や性格の粗が取沙汰されることが多い一方で、時間の約束は必ず守ったり、旅行の準備を出発前日にすべて済ませたりする、几帳面な一面も伝えられている。 プロレス界では北尾光司のプロレス転向失敗もあり、北尾の新日本プロレス離脱の後に入門した安田に対しては特別扱いせず、他の新弟子と同じように一からしごき始める方針を採った。 さいたまスーパーアリーナで行われた、レネ・ローゼとの最初の対戦では、ハイキックを受け失神KO負けを喫した。目を覚ました安田に、医師が状態を確認するため「ここがどこだかわかりますか?」と問いかけると、混濁状態にあった安田は「両国国技館」と答えた。 天龍源一郎によると、ボートレースの日は人が変わったように折り目正しくなり、スーツを着込んで第1レースからきちんとレース場にいるその様に天龍も驚いていた。 気ままでマイペースな性格で知られるが、そんな安田が天龍にハッスルについて「天龍さん、この団体はとんでもないところですよ……」と忠告したことには天龍も「え!お前がそんなこと言うの!?」と驚きを隠せず、様々なプロレス団体での経験により胆力を身に付けていた天龍もしばらくハッスルには疑心暗鬼になっていた。 ^ 安田忠夫引退記念興行「日本とプロレスにおさらばします。」 引退式 スポーツナビ 2011年2月4日 ^ ““借金王”安田忠夫練炭で自殺未遂”. デイリースポーツ. 2007年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年10月5日閲覧。 ^ ““自殺未遂の安田「死ぬ気で頑張る」”. 日刊スポーツ. 2007年10月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年10月14日閲覧。 ^ 【お詫び及びご報告】安田忠夫引退興行その後について 安田忠夫引退興行実行委員会のブログ 2011年3月1日 2011年3月1日閲覧 ^ 東京スポーツ 2011年3月2日 ^ 東京スポーツ 2011年10月29日 ^ 柴田惣一 (2021年9月8日). “「安田忠夫の人生劇場」はどうなる? YouTubeをいったん卒業する元格闘家の波瀾万丈な人生”. ENCOUNT. 2022年1月17日閲覧。 ^ "58歳元プロレスラーが人生初の資格取得 大企業並みの月給も 放浪生活に終止符". encount.press. 29 March 2022. 2022年3月30日閲覧。 ^ “小川直也氏また激怒 猪木さん追悼興行に矢地&貴賢神参戦も「肝心のプロレスラーが」”. デイリー (2022年12月10日). 2022年12月9日閲覧。 ^ 右膝関節捻挫により7日目から途中休場、10日目から再出場 ^ 天龍さんが語る“気晴らし” 相撲時代は兄弟子に勝つこと、プロレス時代は馬場さんやジャンボの悪口で気分爽快(4/5ページ) AERAdot. 2022/06/26 07:00 (2022年7月3日閲覧) 小結一覧 プロレスラー一覧 PRIDE選手一覧 PRIDE 選手データ - Internet Archive バウトレビュー 選手データ SHERDOG 選手データ 孝乃富士 忠雄 - 相撲レファレンス 表 話 編 歴 1 アントニオ猪木 2 藤波辰巳 3 藤波辰巳 4 ビッグバン・ベイダー 5 サルマン・ハシミコフ 6 長州力 7 ビッグバン・ベイダー 8 長州力 9 藤波辰爾 10 ビッグバン・ベイダー 11 藤波辰爾 12 長州力 13 グレート・ムタ 14 橋本真也 15 藤波辰爾 16 橋本真也 17 武藤敬司 18 高田延彦 19 橋本真也 20 佐々木健介 21 藤波辰爾 22 蝶野正洋 23 スコット・ノートン 24 武藤敬司 25 天龍源一郎 26 佐々木健介 27 佐々木健介 28 スコット・ノートン 29 藤田和之 30 安田忠夫 31 永田裕志 32 高山善廣 33 天山広吉 34 中邑真輔 35 天山広吉 36 佐々木健介 37 ボブ・サップ 38 藤田和之 39 佐々木健介 40 天山広吉 41 小島聡 42 天山広吉 43 藤田和之 44 ブロック・レスナー 45 棚橋弘至 46 永田裕志 47 棚橋弘至 48 中邑真輔 49 武藤敬司 50 棚橋弘至 51 中西学 52 棚橋弘至 53 中邑真輔 54 真壁刀義 55 小島聡 56 棚橋弘至 57 オカダ・カズチカ 58 棚橋弘至 59 オカダ・カズチカ 60 AJスタイルズ 61 棚橋弘至 62 AJスタイルズ 63 オカダ・カズチカ 64 内藤哲也 65 オカダ・カズチカ 66 ケニー・オメガ 67 棚橋弘至 68 ジェイ・ホワイト 69 オカダ・カズチカ 70 内藤哲也 71 EVIL 72 内藤哲也 73 飯伏幸太 1 ハルク・ホーガン 2 アントニオ猪木 3 アントニオ猪木 1 ブロック・レスナー 2 カート・アングル 3 中邑真輔 東京都出身の大相撲力士 九重部屋 日本のプロレスラー 大相撲出身のプロレスラー 新日本プロレスに所属したプロレスラー ハッスルの人物 日本の総合格闘家 大相撲出身の総合格闘家 プロレス出身の総合格闘家 IGFに参戦した選手 GPWA 元大相撲力士のタレント 東京都出身のスポーツ選手 東京都区部出身の人物 1963年生 存命人物 外部リンクがリンク切れになっている記事/2012年2月 ウィキデータにある相撲レファレンス識別子
2024/11/23 13:48更新
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