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山内一弘の情報 (やまうちかずひろ)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

山内一弘の情報(やまうちかずひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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山内 一弘さんについて調べます

■名前・氏名
山内 一弘
(読み:やまうち かずひろ)
■職業
野球選手
■山内一弘の誕生日・生年月日
1932年5月1日 (年齢76歳没)
申年(さる年)、牡牛座(おうし座)
■出身地・都道府県
愛知出身

(昭和7年)1932年生まれの人の年齢早見表

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山内一弘の情報まとめ

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山内 一弘(やまうち かずひろ)さんの誕生日は1932年5月1日です。愛知出身の野球選手のようです。

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経歴、プレースタイルなどについてまとめました。引退、病気、結婚、現在に関する情報もありますね。76歳で亡くなられているようです。

山内一弘のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

山内 一弘(やまうち かずひろ、1932年〈昭和7年〉5月1日 - 2009年〈平成21年〉2月2日)は、愛知県一宮市奥町出身のプロ野球選手(外野手、右投右打)・コーチ・監督、野球解説者・評論家。旧名「山内 和弘」(読みは同じ)。

現役選手時代は「打撃の職人」「シュート打ちの名人」「オールスター男」「ミスターオリオンズ」と呼ばれた。また、指導者としてはその熱心な指導ぶりから「かっぱえびせん」の異名を取った。

1952年にパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の毎日オリオンズに入団し、毎日および毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)で「ミサイル打線」の主軸打者として活躍。後にセントラル・リーグ(セ・リーグ)の阪神タイガース・広島東洋カープでもプレーし、通算19年間の現役生活で打点王4回・首位打者1回・本塁打王2回を獲得。通算2271安打・396本塁打・1286打点を記録した。

引退後はロッテオリオンズ(毎日・大毎の後身)や中日ドラゴンズで監督を務め、2002年に野球殿堂入りした。日本プロ野球 (NPB) 史上初の通算300本塁打達成者であり、川上哲治に次ぐNPB史上2人目の通算2000安打達成者(昭和生まれでは初)である。

経歴

幼少期

1932年5月1日、愛知県一宮市奥町で、次男として誕生した。1939年4月に奥国民学校(現:一宮市立奥小学校)に入学。小学校2年生のころ、自宅の近くにあった小学校の校庭で町内の大人たちが野球をしており、そこでボール拾いをしながらキャッチボールを教えてもらったりボールを打たせてもらったりしたことが、野球を知ったきっかけであった。

起工業学校時代

1945年4月、旧制中学の起工業学校(後の愛知県立起工業高等学校、現:愛知県立一宮起工科高等学校)に入学し、野球部に入部する。高校時代は投手および内野手で、1年生のころには元プロ野球選手の玉腰忠義(一宮市出身)から、その後は早稲田大学で活躍した同郷の先輩・長野からそれぞれ指導を受け、「腕ではなく腰で打つ」打撃フォームを教え込まれた。高校時代には飛距離120 - 130 mの特大本塁打を打ったとされる逸話が残っている。また、犬山高校との試合で大飛球を打ったものの、その打球を当時犬山高の野球部に外野手として所属していた森山周一郎(後に俳優・声優として活躍)に捕球されたことがあった。

起工業3年生の時には長野の指導により、レギュラーに定着して4番打者になった。同年の全国中等学校野球大会愛知県地方大会では急遽リリーフを命じられ登板したが、最終的には敗退した。このころは後に中京商業高校や中京大学で監督を務めた瀧正男の指導を受けていた。当時、瀧は投手だった山内について「速球よりカーブに見るべきものがあった」と評していたが、それ以上に豪快さと器用さを兼ね備えた打撃センスや、大柄な体格・リストの強さに一目置いていた。山内は瀧を恩師として慕い、1950年春の愛知県大会の直前に肺結核で倒れた瀧の許へ見舞いに訪れ、後に毎日から阪神へのトレードが決まった際には、発表・報道される前日(1963年12月19日)に瀧へ報告している。

一方で当時、山内の実家は貧しく、修学旅行で東京へ行った時にはクラスで自分だけが革靴を履いていなかったことから、「高い給料が欲しい」とプロ野球選手を志すようになった。地元・愛知に本拠地を置く中日ドラゴンズに憧れており、「できたら中日のユニフォームを着たい」と考えていた。

高校2年生だった1949年10月、中日の入団テストを受験する。この時は投手としてテストを受験し、無名選手ながら1次テストには合格したが、二次テストで不合格になった。しかし、これがきっかけで野球への自信を深め、後の川島紡績入社につながる。

また、1950年11月には瀧正男が山内からの「プロ野球に進みたいので、どこかに話をしてほしい」という申し出を受けて中日球団を訪れ、当時球団幹部だった平岩治郎(後の球団代表)に対し、山内に中日の入団テストを受験させるよう申し入れた。しかし、平岩から「山内はスカウトの候補者リストに入っておらず、昨年の入団テストを受験したが不合格だった」と断られた。

なお、近藤唯之は「昭和26年(1951年)のある日、山内は『(できれば中日で)プロ野球選手になりたい』と名古屋市にあった中日球団事務所を訪れたが、応対した球団代表・高田一夫から『人間、何でも修業だよ。君が真剣に修業していれば、いつの日かきっと中日の方から迎えにいくからな』と諭され、門前払いされた」という旨を述べている。

川島紡績時代

高校3年生の時には先述のように中日へ入団しようとしただけでなく、四日市東洋紡(三重県)野球部の入部テストを投手として受験したが、この時も不合格に終わった。結局、瀧はプロ入りできなかった山内に対し、軟式野球の強豪だった社会人野球チームの川島紡績(岐阜県岐阜市 / 現:カワボウ)を紹介。川島紡績は翌春に硬式野球部を創設することが決まっていたが、瀧は「名門チームでは年功序列などもあって埋没する心配もある。新生チームならば、自由な雰囲気があって(山内が)力を発揮しやすい」と考え、同社を紹介した。山内もこの提案を受け入れ、当時の監督・森弘太郎の計らいで入団テストを受け合格した。

1951年4月に川島紡績に入社。「投手に向いていない」と感じたため、外野手(左翼手)に転向する。打撃面では荒削りながら大飛球を飛ばし、森から注目を受ける。

1951年春、大須球場(愛知県名古屋市)で開かれた試合にて3番打者が捻挫で欠場したため、急遽左翼手で先発出場。ノンプロでのデビュー戦となったこの試合で4打数3安打(2本塁打)を記録し、その後も森から厳しい指導を受けて打撃・守備面ともに成長を果たす。川島紡績は同年8月の都市対抗に出場。大会では2回戦に進むが日鉄二瀬に敗退。この大会時、球審を務めていた井野川利春(後の東急フライヤーズ監督)からプロ野球に誘われる。

1951年11月、パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の毎日オリオンズに入団。テスト生としての入団だった。背番号は8で、阪神時代・広島時代も一貫して着用し続けた。また、プロでは20年間にわたり左翼手で守備に就き続けた。

プロ野球選手時代

プロ1年目の1952年、チームの先輩である別当薫の打撃フォームを参考にして熱心に打撃練習に取り組む。やがてその熱心さと素質を見抜いた若林忠志二軍監督は山内を積極的に二軍戦で起用し、6月には一軍戦で初出場を果たす。同シーズンは44試合出場ながら、打率.336の成績を残した。

プロ2年目の1953年にはレギュラー定着を期待されながら長期にわたり病気療養したが、シーズン中盤から3番打者に定着し53試合に先発出場。3年目の1954年にバットをプロ入り当時の35インチ・約940 gの重いルイビルスラッガー社製バットから、34.5インチ、910 - 930 gの短く軽いものに変えた。同年にはクリーンアップに定着して不動のレギュラーを確保し、公式戦にフル出場。打率.308(パ・リーグ4位)、28本塁打(中西太に次ぐ2位)を記録。打点ではラリー・レインズ(阪急ブレーブス・96打点)を制し、97打点を挙げて打点王のタイトルを獲得。当時のパ・リーグ記録となる80四球を選んだ。

翌1955年も打率.325・26本塁打(いずれも中西に次ぐリーグ2位)と活躍し、99打点の成績を残して2年連続の打点王に輝く。

1956年は打率.304・25本塁打・72打点の成績を残す。同年はシーズン47二塁打を記録し、この記録は1998年にフィル・クラーク(近鉄バファローズ)が更新するまで日本プロ野球 (NPB) 記録だった。また、76長打は当時のパ・リーグ記録。

「毎日オリオンズ」としての最終年となった1957年には打率.331の好成績で首位打者を獲得。野村克也(南海ホークス・30本塁打)におよばず本塁打王は逃したが、29本塁打を放っている。同年11月28日、毎日球団は大映ユニオンズと合併して「毎日大映オリオンズ」(大毎オリオンズ)となった。「大毎オリオンズ」元年の1958年はパラチフスにより長期の戦線離脱を余儀なくされ、規定打席にも到達できなかった。

1959年1月30日に結婚。同年は前年の汚名返上に向け、オールスターゲーム第1戦でMVPを獲得し、シーズン途中まで三冠王を狙えるほどの活躍をしていたが、8月27日の対近鉄バファロー戦でグレン・ミケンズから顔面に死球を受けて担架で退場。これにより三冠王の夢は絶たれ、チームも首位から転落した。しかしシーズン後半に復帰し、杉山光平(南海)と首位打者争いを繰り広げ、死球への恐怖も克服した。10月20日に開かれた対南海最終戦(ダブルヘッダー)を迎えたが、2試合で6連続四球を与えられた。最終的な打率は山内が.320(リーグ2位)、杉山は.323(リーグ首位打者)で、山内は安打2本差で首位打者を逃した。しかし、同年は25本塁打を記録して初の本塁打王を獲得。また同年8月16日の対東映フライヤーズ戦では、土橋正幸から通算150号本塁打となる逆転サヨナラ満塁本塁打を放っている。

「闘将」西本幸雄が大毎の新監督に就任した1960年、山内は田宮謙次郎・榎本喜八・葛城隆雄らとともに「大毎ミサイル打線」の中軸を担った。同年は打率.313、32本塁打・103打点の好成績を残し、本塁打王(2年連続・2回目)と打点王(3回目)を獲得して打撃二冠に輝いた。また同年の大毎はパ・リーグ優勝を果たし、山内はMVPを受賞。チームは6月5日の近鉄戦で勝った後、6月29日の近鉄戦までの18試合を92得点、44失点という成績で乗り切り、1954年の南海に並ぶ日本タイ記録となる18連勝を達成している。しかし、同年の大洋ホエールズとの日本シリーズでは「三原魔術」と言われた大洋・三原脩監督の采配の前に、すべて1点差で4連敗を喫した。

翌1961年も打率.311、25本塁打・112打点の成績を残し、2年連続で打点王(4回目)を獲得した。同年の112打点は当時のパ・リーグ記録。同年オフ、ファンから「『和弘』の“和”の字はまるいという表現があり、ぐるぐる回り道をしたり曲がった道を進むようだから変えたほうが良い。“和”の字を音が同じ“一”にすれば一から数が無限に続くので、選手としても良いし将来コーチや監督にもなれるのではないか」とアドバイスを受け、1962年のシーズン途中(30歳の誕生日となった5月1日)に「和弘」から「一弘」に改名。同年はブルーム(近鉄バファローズ・打率.374)に次ぐパ・リーグ2位の打率.334を記録した。

1963年シーズンオフに、10年選手制度での特権を利用して読売ジャイアンツへの移籍に動いたが頓挫した。直後に「世紀の大トレード」と言われた小山正明との交換トレードが成立し、阪神タイガースに移籍。このトレードは、当時の大毎オーナー・永田雅一が大毎球団を「ミサイル打線」のチームから投手を中心とした守りの野球に転換しようとしていたことに加え、貧打に悩んでいた阪神が村山実とともに「2枚看板」とされつつも、不満分子として扱われていた小山を放出してでも山内を獲得しようと考え、好投手を求めていた大毎と思惑が一致したことにより実現したものだった。

移籍後1年目の1964年5月2日、対読売ジャイアンツ(巨人)6回戦(後楽園球場)で宮田征典投手から通算266号本塁打を放ち、青田昇が有していた当時のNPB記録(通算265本塁打)を更新した。同年は開幕当初こそ不振に苦しみ、一時は大毎時代の1960年から苦しんでいた乱視を矯正するための眼鏡をかけて試合に臨んでいたが、同僚の三宅秀史から「今まで眼鏡無しでやってきたのだから、今更(眼鏡を)掛けることはない」とアドバイスされた。そして4月16日の対国鉄スワローズ6回戦(阪神甲子園球場)にて眼鏡を外して打席に立ち、開幕から20試合目にして初本塁打を放つ。同年は全試合に出場し、打率は.257に終わったが、31本塁打・94打点の活躍で阪神をリーグ優勝に導いた。南海との日本シリーズでも全7試合に3番打者として出場。第4戦(大阪球場)で杉浦忠から2本塁打を放つ。チームは最終的に3勝4敗で敗退したが、シリーズの首位打者および打撃賞・敢闘賞を獲得した。

1965年7月4日に対巨人13回戦(後楽園球場)で城之内邦雄投手からシーズン7号本塁打となる先頭打者本塁打を打ち、NPB史上初の通算300本塁打を達成、1967年10月14日の対サンケイスワローズ25回戦(東京スタジアム)では、8回に吉江喜一から通算2000本目の安打を打ち、NPBでは川上哲治に次ぐ史上2人目(昭和生まれでは史上初)の通算2000安打を達成した。

眼が悪かったため、ナイターの多かった阪神時代の4年間はシーズン最高打率が.261と振るわなかったが、その野球に取り組む姿勢は次世代の選手に多大なる影響を与えた。

1967年オフ(12月29日)、広島東洋カープの新監督に就任した根本陸夫に請われ、無償で阪神から広島に移籍。打者としての実力はもちろん、卓越した打撃理論と徹底したプロ意識が、若手の手本になり得る選手というのも獲得された理由だった。

広島に移籍した1968年は全試合に出場し、王貞治・長嶋茂雄(ともに巨人)に次ぐセ・リーグ3位の打率.313を記録。打率3割突破はセ・リーグ移籍後初(6年ぶり)で、同年の広島は球団創設19年目で初のAクラス(セ・リーグ3位)入りを果たし、自身も通算10回目(現役時代最後)となるベストナインを受賞。

1969年4月12日には中日との開幕戦でサヨナラ本塁打を打って健在ぶりをアピール。同年は打撃は好調であったが、シーズン終盤には故障がちになり欠場が多かった。

1970年には持病が再発し、10月8日に同年限りでの現役引退を表明。同月13日の最終戦(対ヤクルトアトムズ戦)が「山内デー」として引退記念試合となった。そして、同月25日の対阪神タイガース戦(最終戦)がプロ最終出場となった。通算本塁打数は396本で、通算400本塁打まであと4本と迫っていた。山内の背番号8は、後の1975年にセ・リーグ初優勝を果たした広島で中心選手として活躍した山本浩司(浩二)に受け継がれた。

また山内の野球に取り組む姿勢は山本や、彼とともに広島の初優勝に貢献した衣笠祥雄に大きな影響を与えた。山本は「山内さんにはもちろんシュート打ちの極意は教わったけど、難しすぎてよく分からなかった。ああ、ヤマさんが言ってたのはこれかと気づくのは何年か後のことよ。」と述べている。

現役引退

引退後は1979年 - 1981年に古巣のロッテオリオンズ(毎日・大毎の後身)で、1984年 - 1986年には少年時代から憧れていた地元の中日ドラゴンズでそれぞれ監督を務めた。また巨人の打撃コーチ(1971年 - 1973年まで二軍、1974年一軍および1987年 - 1989年まで一軍)、阪神打撃コーチ(1975年 - 1977年および1995年)、オリックス・ブルーウェーブのヘッドコーチ(1991年 - 1993年)、野球評論家を歴任した。また、1994年には約6か月間にわたり、野球フランス代表監督・吉田義男から招聘されて同代表の臨時打撃コーチを務めた。

1994年5月には個人事務所「エイトヤマウチ」(現:エイトワン)を設立し、同社の代表取締役社長に就任した。またプロ野球マスターズリーグ(2001年に開幕)では「札幌アンビシャス」の初代監督を務めた(任期は2001年 - 2002年シーズンおよび2002年 - 2003年シーズンの2期)。

2001年に日本学生野球協会がプロ経験者の大学野球部臨時コーチ、高卒or高卒社会人でプロ入りした者に関しても年三回・一回三週間限定で解禁された事に伴い創価大学臨時コーチを同年から二年間務め小谷野栄一を3年・4年と特訓した。

2002年に野球殿堂入り。2007年3月24日、千葉マリンスタジアムで開催された古巣ロッテの開幕戦(対日本ハム)で始球式を行ったが、表舞台に出たのはこれが最後となった。

訃報 山内一弘氏

2009年(平成21年)2月2日19時26分、肝不全のため東京都内の病院で死去(76歳没)。

プレースタイル

打撃

苦手な投手のタイプが少なく、内外角のボールを左右へ巧みに打ち分けるバットコントロールの持ち主で、「シュート打ちの名人」と言われる職人的な打撃技術を持っていた。特に内角球に対して肘を折り畳んで振り出す独特の打法は、稲尾和久や野村克也から絶賛されている。野村は現役時代には、捕手守備時のマスク越しやオールスター戦のネクストバッターズサークルにいる時などに、山内の打席を穴があくほど観察し、そのフォームや内角捌きを参考・手本にして、自身の三冠王の獲得にも繋がったと語っている。かつて、田淵幸一に教えを乞われたときには「なあ、田淵、インコースはなあ、腰を回しながら右手で押すんや」と指導したこともある。

同じリーグで同じ右のスラッガーであった中西太とは、互いに認め合うライバル関係であった。2人は当時の球界を代表する強打者であり、かつ打撃のスタイルが全く異なっていたことから、同世代・次世代の右打者たちの間で「中西流」「山内流」という言葉が生まれ、参考にされる存在であった。野村克也は「最初は中西のパワーと豪快な本塁打に憧れ『中西流』を真似したが合わず、業師で知られた山内の無駄な力を一切入れずに距離を測ってスタンドに入れるような『山内流』の技を試したところ、しっくりきた」と述べている。

阪神の捕手を務めていた辻恭彦は、広島時代の山内と対戦した際のことについて、「広島市民球場の試合中、打席で『ダンプ(辻の愛称)、ホームランというのは、そんなに飛ばさんでいいんだよ。これからいいホームラン打つから見とけ』と言って、柿本実さんのシュートをレフトのポールの網のところに当てたことがあります。ほんと一番最短距離です。それでホームに戻ってきたとき、『どうだ、ダンプ。あれがホームランだぞ』って言っていました」と振り返っている。

会田豊彦(中日OBおよび元東京新聞編集委員)は、山内について「1960年に中日球場(現:ナゴヤ球場)で開かれたオープン戦で、初めて山内のフリー打撃を見た際、彼は力み・淀みのないスイングから柵越を連発していた。投球を睨みつけたり、闘う目で見たりするのではなく、柔らかい目線でボールを待っていた」と述べている。

オールスターゲームでは毎年のように快打を放ち、「オールスター男」「賞金泥棒」「大泥棒」などと呼ばれた。オールスターには16回出場してMVPを3回受賞し、通算でも38試合出場・105打数33安打(打率.314)と好成績を残している。またオールスターファン投票においては、両リーグ通じての最多得票を通算6回記録している(1956年、1957年、1959年 - 1962年)。これはパ・リーグの選手としてはイチローの6回(1995年 - 2000年)と並ぶ歴代最多であり、セ・リーグの選手を含めた歴代でも王貞治の7回(1963年 - 1965年、1976年、1978年 - 1980年)に次ぐ。

打低投高の時代で長年にわたって好成績を残し続け、セイバーメトリクスにおける通算RCWIN傑出度、RC27傑出度では歴代4位、同様のXRなどの得点算出能力傑出度の通算指標においても5位以内を記録している歴代屈指の強打者である。1955年の日米野球では、全日本チームのメンバーとして8試合に出場して打率.379、2本塁打の好成績を残し、ニューヨーク・ヤンキース監督のケーシー・ステンゲルから「(山内の打撃は)メジャーリーグ (MLB) でも通用する」と称賛された。

二塁打を得意とし、通算二塁打記録(448本)は福本豊に破られるまで日本記録で、2020年現在もNPB歴代3位(右打者では歴代1位)の記録である。また1956年に記録したシーズン47二塁打も、その後1998年にフィル・クラーク(近鉄バファローズ)が更新するまで40年以上にわたりNPB記録だった。

また、1952年のフランチャイズ制施行以降ではNPB史上最多となる39球場で本塁打を打った記録を有している(それ以前に入団した選手も含めると、最多は小鶴誠の48球場)。

宇佐美徹也は著書『プロ野球記録大鑑〈昭和11年‐平成4年〉』(講談社、1993年)において、死球の少ない打者として、中暁生・近藤昭仁とともに山内の名を挙げ、前記のミケンズから受けた死球の際に「当てられる方がヘタなのさ」とコメントした逸話を紹介している。

守備

プロ入りから引退まで20年間にわたり左翼手を務め、たまに右翼手を守ることもあった。1962年はシーズンを通して中堅手を守り、レンジファクター系の指標でリーグ1位の中堅守備得点を記録。正確な送球にも定評があり、外野手最多通算補殺(175補殺)の日本記録を保持している。

2024/06/22 18:11更新

yamauchi kazuhiro


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小山内 鈴奈(おさない れいな、1996年9月18日 - )は、フジテレビのアナウンサー、YouTuber、ゲーマー。 リセットボタンはオサナイで! 生まれてからずっと青森県で育ち、就職とともに上…

山内 あゆ(やまのうち あゆ)
1976年4月15日生まれの有名人 東京出身

山内 あゆ(やまのうち あゆ、1976年4月15日 - )は、TBSアナウンサー。 東京大学農学部へ留学していたベトナム人の父親(グエン・ヴァン・チュエン、元日本女子大学家政学部教授)と日本人の女…

山内 明日(やまのうち めいび)
1987年7月2日生まれの有名人 大阪出身

山内 明日(やまのうち めいび、本名同じ、1987年7月2日 - )は日本の女優、タレント。大阪府出身。所属事務所は放映新社。 芦屋女子短期大学卒業。毎日放送の報道局記者で『VOICE』の元キャス…

山内 佑利子(やまうち ゆりこ)
8月10日生まれの有名人 兵庫出身

山内 佑利子(やまうち ゆりこ、8月10日 - )は、日本のフリーアナウンサー。兵庫県芦屋市出身。 松蔭中学校時代から放送部に所属し、学生放送コンクールで多数受賞経験をもつ。(ラジオ番組部門、テレ…

山内 木の実(やまうち このみ)
1972年6月25日生まれの有名人 兵庫出身

山内 木の実(やまうち このみ、1972年6月25日 - )は、フリーアナウンサー。身長165cm。過去には、ホリプロやセント・フォース、シー・フォルダに所属。東京都出身。

山内 鉄也(やまのうち てつや)
1934年7月20日生まれの有名人 広島出身

山内 鉄也(やまのうち てつや、1934年7月20日 - 2010年4月2日)は、映画監督、テレビ演出家、脚本家。広島県広島市生まれ。テレビ時代劇『水戸黄門』『大岡越前』のメイン監督。 叔父は時代…

山内 重保(やまうち しげやす)
1953年4月10日生まれの有名人 北海道出身

山内 重保(やまうち しげやす、1953年4月10日 - )は、日本の男性アニメーション演出家、アニメーション監督。北海道函館市出身。葦プロダクションから東映動画を経て現在はフリーである。 超合体…

山内 順仁(やまうち よりひと)
1959年1月31日生まれの有名人 千葉出身

山内 順仁(やまうち よりひと、1959年1月31日 - )は千葉県生まれ倉敷市育ちの日本の男性写真家 千葉市生まれで小学3年生からは父親の転勤により岡山県倉敷市で高校まで生活。 卒業後、倉敷市…

山内 一郎(やまのうち いちろう)
1913年2月15日生まれの有名人 福井出身

山内 一郎(やまのうち いちろう、1913年2月15日 - 2005年3月6日)は、日本の政治家、建設官僚。参議院議員(4期)。位階は従三位。勲等は勲一等 現在の福井県勝山市出身。姫路高等学校理科…

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