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山内一弘の情報 (やまうちかずひろ)
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【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

山内一弘の情報(やまうちかずひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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山内 一弘さんについて調べます

■名前・氏名
山内 一弘
(読み:やまうち かずひろ)
■職業
野球選手
■山内一弘の誕生日・生年月日
1932年5月1日 (年齢2009年没)
申年(さる年)、牡牛座(おうし座)
■出身地・都道府県
愛知出身

(昭和7年)1932年生まれの人の年齢早見表

山内一弘と同じ1932年生まれの有名人・芸能人

山内一弘と同じ5月1日生まれの有名人・芸能人

山内一弘と同じ出身地愛知県生まれの有名人・芸能人


山内一弘の情報まとめ

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山内 一弘(やまうち かずひろ)さんの誕生日は1932年5月1日です。愛知出身の野球選手のようです。

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引退、病気、結婚、現在、兄弟、趣味、テレビ、卒業、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2009年に亡くなられているようです。

山内一弘のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

山内 一弘(やまうち かずひろ、1932年〈昭和7年〉5月1日 - 2009年〈平成21年〉2月2日)は、愛知県一宮市奥町出身のプロ野球選手(外野手、右投右打)・コーチ・監督、野球解説者・評論家。旧名「山内 和弘」(読みは同じ)。

現役選手時代は「打撃の職人」「シュート打ちの名人」「オールスター男」「ミスターオリオンズ」と呼ばれた。また、指導者としてはその熱心な指導ぶりから「かっぱえびせん」の異名を取った。

1952年にパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の毎日オリオンズに入団し、毎日および毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)で「ミサイル打線」の主軸打者として活躍。後にセントラル・リーグ(セ・リーグ)の阪神タイガース・広島東洋カープでもプレーし、通算19年間の現役生活で打点王4回・首位打者1回・本塁打王2回を獲得。通算2271安打・396本塁打・1286打点を記録した。

引退後はロッテオリオンズ(毎日・大毎の後身)や中日ドラゴンズで監督を務め、2002年に野球殿堂入りした。日本プロ野球 (NPB) 史上初の通算300本塁打達成者であり、川上哲治に次ぐNPB史上2人目の通算2000安打達成者(昭和生まれでは初)である。

1932年5月1日、愛知県一宮市奥町で、次男として誕生した。1939年4月に奥国民学校(現:一宮市立奥小学校)に入学。小学校2年生のころ、自宅の近くにあった小学校の校庭で町内の大人たちが野球をしており、そこでボール拾いをしながらキャッチボールを教えてもらったりボールを打たせてもらったりしたことが、野球を知ったきっかけであった。

1945年4月、旧制中学の起工業学校(後の愛知県立起工業高等学校、現:愛知県立一宮起工科高等学校)に入学し、野球部に入部する。高校時代は投手および内野手で、1年生のころには元プロ野球選手の玉腰忠義(一宮市出身)から、その後は早稲田大学で活躍した同郷の先輩・長野からそれぞれ指導を受け、「腕ではなく腰で打つ」打撃フォームを教え込まれた。高校時代には飛距離120 - 130 mの特大本塁打を打ったとされる逸話が残っている。また、犬山高校との試合で大飛球を打ったものの、その打球を当時犬山高の野球部に外野手として所属していた森山周一郎(後に俳優・声優として活躍)に捕球されたことがあった。

起工業3年生の時には長野の指導により、レギュラーに定着して4番打者になった。同年の全国中等学校野球大会愛知県地方大会では急遽リリーフを命じられ登板したが、最終的には敗退した。このころは後に中京商業高校や中京大学で監督を務めた瀧正男の指導を受けていた。当時、瀧は投手だった山内について「速球よりカーブに見るべきものがあった」と評していたが、それ以上に豪快さと器用さを兼ね備えた打撃センスや、大柄な体格・リストの強さに一目置いていた。山内は瀧を恩師として慕い、1950年春の愛知県大会の直前に肺結核で倒れた瀧の許へ見舞いに訪れ、後に毎日から阪神へのトレードが決まった際には、発表・報道される前日(1963年12月19日)に瀧へ報告している。

一方で当時、山内の実家は貧しく、修学旅行で東京へ行った時にはクラスで自分だけが革靴を履いていなかったことから、「高い給料が欲しい」とプロ野球選手を志すようになった。地元・愛知に本拠地を置く中日ドラゴンズに憧れており、「できたら中日のユニフォームを着たい」と考えていた。

高校2年生だった1949年10月、中日の入団テストを受験する。この時は投手としてテストを受験し、無名選手ながら1次テストには合格したが、二次テストで不合格になった。しかし、これがきっかけで野球への自信を深め、後の川島紡績入社につながる。

また、1950年11月には瀧正男が山内からの「プロ野球に進みたいので、どこかに話をしてほしい」という申し出を受けて中日球団を訪れ、当時球団幹部だった平岩治郎(後の球団代表)に対し、山内に中日の入団テストを受験させるよう申し入れた。しかし、平岩から「山内はスカウトの候補者リストに入っておらず、昨年の入団テストを受験したが不合格だった」と断られた。

なお、近藤唯之は「昭和26年(1951年)のある日、山内は『(できれば中日で)プロ野球選手になりたい』と名古屋市にあった中日球団事務所を訪れたが、応対した球団代表・高田一夫から『人間、何でも修業だよ。君が真剣に修業していれば、いつの日かきっと中日の方から迎えにいくからな』と諭され、門前払いされた」という旨を述べている。

高校3年生の時には先述のように中日へ入団しようとしただけでなく、四日市東洋紡(三重県)野球部の入部テストを投手として受験したが、この時も不合格に終わった。結局、瀧はプロ入りできなかった山内に対し、軟式野球の強豪だった社会人野球チームの川島紡績(岐阜県岐阜市 / 現:カワボウ)を紹介。川島紡績は翌春に硬式野球部を創設することが決まっていたが、瀧は「名門チームでは年功序列などもあって埋没する心配もある。新生チームならば、自由な雰囲気があって(山内が)力を発揮しやすい」と考え、同社を紹介した。山内もこの提案を受け入れ、当時の監督・森弘太郎の計らいで入団テストを受け合格した。

1951年4月に川島紡績に入社。「投手に向いていない」と感じたため、外野手(左翼手)に転向する。打撃面では荒削りながら大飛球を飛ばし、森から注目を受ける。

1951年春、大須球場(愛知県名古屋市)で開かれた試合にて3番打者が捻挫で欠場したため、急遽左翼手で先発出場。ノンプロでのデビュー戦となったこの試合で4打数3安打(2本塁打)を記録し、その後も森から厳しい指導を受けて打撃・守備面ともに成長を果たす。川島紡績は同年8月の都市対抗に出場。大会では2回戦に進むが日鉄二瀬に敗退。この大会時、球審を務めていた井野川利春(後の東急フライヤーズ監督)からプロ野球に誘われる。

1951年11月、パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の毎日オリオンズに入団。テスト生としての入団だった。背番号は8で、阪神時代・広島時代も一貫して着用し続けた。また、プロでは20年間にわたり左翼手で守備に就き続けた。

プロ1年目の1952年、チームの先輩である別当薫の打撃フォームを参考にして熱心に打撃練習に取り組む。やがてその熱心さと素質を見抜いた若林忠志二軍監督は山内を積極的に二軍戦で起用し、6月には一軍戦で初出場を果たす。同シーズンは44試合出場ながら、打率.336の成績を残した。

プロ2年目の1953年にはレギュラー定着を期待されながら長期にわたり病気療養したが、シーズン中盤から3番打者に定着し53試合に先発出場。3年目の1954年にバットをプロ入り当時の35インチ・約940 gの重いルイビルスラッガー社製バットから、34.5インチ、910 - 930 gの短く軽いものに変えた。同年にはクリーンアップに定着して不動のレギュラーを確保し、公式戦にフル出場。打率.308(パ・リーグ4位)、28本塁打(中西太に次ぐ2位)を記録。打点ではラリー・レインズ(阪急ブレーブス・96打点)を制し、97打点を挙げて打点王のタイトルを獲得。当時のパ・リーグ記録となる80四球を選んだ。

翌1955年も打率.325・26本塁打(いずれも中西に次ぐリーグ2位)と活躍し、99打点の成績を残して2年連続の打点王に輝く。

1956年は打率.304・25本塁打・72打点の成績を残す。同年はシーズン47二塁打を記録し、この記録は1998年にフィル・クラーク(近鉄バファローズ)が更新するまで日本プロ野球 (NPB) 記録だった。また、76長打は当時のパ・リーグ記録。

「毎日オリオンズ」としての最終年となった1957年には打率.331の好成績で首位打者を獲得。野村克也(南海ホークス・30本塁打)におよばず本塁打王は逃したが、29本塁打を放っている。同年11月28日、毎日球団は大映ユニオンズと合併して「毎日大映オリオンズ」(大毎オリオンズ)となった。「大毎オリオンズ」元年の1958年はパラチフスにより長期の戦線離脱を余儀なくされ、規定打席にも到達できなかった。

1959年1月30日に結婚。同年は前年の汚名返上に向け、オールスターゲーム第1戦でMVPを獲得し、シーズン途中まで三冠王を狙えるほどの活躍をしていたが、8月27日の対近鉄バファロー戦でグレン・ミケンズから顔面に死球を受けて担架で退場。これにより三冠王の夢は絶たれ、チームも首位から転落した。しかしシーズン後半に復帰し、杉山光平(南海)と首位打者争いを繰り広げ、死球への恐怖も克服した。10月20日に開かれた対南海最終戦(ダブルヘッダー)を迎えたが、2試合で6連続四球を与えられた。最終的な打率は山内が.320(リーグ2位)、杉山は.323(リーグ首位打者)で、山内は安打2本差で首位打者を逃した。しかし、同年は25本塁打を記録して初の本塁打王を獲得。また同年8月16日の対東映フライヤーズ戦では、土橋正幸から通算150号本塁打となる逆転サヨナラ満塁本塁打を放っている。

「闘将」西本幸雄が大毎の新監督に就任した1960年、山内は田宮謙次郎・榎本喜八・葛城隆雄らとともに「大毎ミサイル打線」の中軸を担った。同年は打率.313、32本塁打・103打点の好成績を残し、本塁打王(2年連続・2回目)と打点王(3回目)を獲得して打撃二冠に輝いた。また同年の大毎はパ・リーグ優勝を果たし、山内はMVPを受賞。チームは6月5日の近鉄戦で勝った後、6月29日の近鉄戦までの18試合を92得点、44失点という成績で乗り切り、1954年の南海に並ぶ日本タイ記録となる18連勝を達成している。しかし、同年の大洋ホエールズとの日本シリーズでは「三原魔術」と言われた大洋・三原脩監督の采配の前に、すべて1点差で4連敗を喫した。

翌1961年も打率.311、25本塁打・112打点の成績を残し、2年連続で打点王(4回目)を獲得した。同年の112打点は当時のパ・リーグ記録。同年オフ、ファンから「『和弘』の“和”の字はまるいという表現があり、ぐるぐる回り道をしたり曲がった道を進むようだから変えたほうが良い。“和”の字を音が同じ“一”にすれば一から数が無限に続くので、選手としても良いし将来コーチや監督にもなれるのではないか」とアドバイスを受け、1962年のシーズン途中(30歳の誕生日となった5月1日)に「和弘」から「一弘」に改名。同年はブルーム(近鉄バファローズ・打率.374)に次ぐパ・リーグ2位の打率.334を記録した。

1963年シーズンオフに、10年選手制度での特権を利用して読売ジャイアンツへの移籍に動いたが頓挫した。直後に「世紀の大トレード」と言われた小山正明との交換トレードが成立し、阪神タイガースに移籍。このトレードは、当時の大毎オーナー・永田雅一が大毎球団を「ミサイル打線」のチームから投手を中心とした守りの野球に転換しようとしていたことに加え、貧打に悩んでいた阪神が村山実とともに「2枚看板」とされつつも、不満分子として扱われていた小山を放出してでも山内を獲得しようと考え、好投手を求めていた大毎と思惑が一致したことにより実現したものだった。

移籍後1年目の1964年5月2日、対読売ジャイアンツ(巨人)6回戦(後楽園球場)で宮田征典投手から通算266号本塁打を放ち、青田昇が有していた当時のNPB記録(通算265本塁打)を更新した。同年は開幕当初こそ不振に苦しみ、一時は大毎時代の1960年から苦しんでいた乱視を矯正するための眼鏡をかけて試合に臨んでいたが、同僚の三宅秀史から「今まで眼鏡無しでやってきたのだから、今更(眼鏡を)掛けることはない」とアドバイスされた。そして4月16日の対国鉄スワローズ6回戦(阪神甲子園球場)にて眼鏡を外して打席に立ち、開幕から20試合目にして初本塁打を放つ。同年は全試合に出場し、打率は.257に終わったが、31本塁打・94打点の活躍で阪神をリーグ優勝に導いた。南海との日本シリーズでも全7試合に3番打者として出場。第4戦(大阪球場)で杉浦忠から2本塁打を放つ。チームは最終的に3勝4敗で敗退したが、シリーズの首位打者および打撃賞・敢闘賞を獲得した。

1965年7月4日に対巨人13回戦(後楽園球場)で城之内邦雄投手からシーズン7号本塁打となる先頭打者本塁打を打ち、NPB史上初の通算300本塁打を達成、1967年10月14日の対サンケイスワローズ25回戦(東京スタジアム)では、8回に吉江喜一から通算2000本目の安打を打ち、NPBでは川上哲治に次ぐ史上2人目(昭和生まれでは史上初)の通算2000安打を達成した。

眼が悪かったため、ナイターの多かった阪神時代の4年間はシーズン最高打率が.261と振るわなかったが、その野球に取り組む姿勢は次世代の選手に多大なる影響を与えた。

1967年オフ(12月29日)、広島東洋カープの新監督に就任した根本陸夫に請われ、無償で阪神から広島に移籍。打者としての実力はもちろん、卓越した打撃理論と徹底したプロ意識が、若手の手本になり得る選手というのも獲得された理由だった。

広島に移籍した1968年は全試合に出場し、王貞治・長嶋茂雄(ともに巨人)に次ぐセ・リーグ3位の打率.313を記録。打率3割突破はセ・リーグ移籍後初(6年ぶり)で、同年の広島は球団創設19年目で初のAクラス(セ・リーグ3位)入りを果たし、自身も通算10回目(現役時代最後)となるベストナインを受賞。

1969年4月12日には中日との開幕戦でサヨナラ本塁打を打って健在ぶりをアピール。同年は打撃は好調であったが、シーズン終盤には故障がちになり欠場が多かった。

1970年には持病が再発し、10月8日に同年限りでの現役引退を表明。同月13日の最終戦(対ヤクルトアトムズ戦)が「山内デー」として引退記念試合となった。そして、同月25日の対阪神タイガース戦(最終戦)がプロ最終出場となった。通算本塁打数は396本で、通算400本塁打まであと4本と迫っていた。山内の背番号8は、後の1975年にセ・リーグ初優勝を果たした広島で中心選手として活躍した山本浩司(浩二)に受け継がれた。

また山内の野球に取り組む姿勢は山本や、彼とともに広島の初優勝に貢献した衣笠祥雄に大きな影響を与えた。山本は「山内さんにはもちろんシュート打ちの極意は教わったけど、難しすぎてよく分からなかった。ああ、ヤマさんが言ってたのはこれかと気づくのは何年か後のことよ。」と述べている。

引退後は1979年 - 1981年に古巣のロッテオリオンズ(毎日・大毎の後身)で、1984年 - 1986年には少年時代から憧れていた地元の中日ドラゴンズでそれぞれ監督を務めた。また巨人の打撃コーチ(1971年 - 1973年まで二軍、1974年一軍および1987年 - 1989年まで一軍)、阪神打撃コーチ(1975年 - 1977年および1995年)、オリックス・ブルーウェーブのヘッドコーチ(1991年 - 1993年)、野球評論家を歴任した。また、1994年には約6か月間にわたり、野球フランス代表監督・吉田義男から招聘されて同代表の臨時打撃コーチを務めた。

1994年5月には個人事務所「エイトヤマウチ」(現:エイトワン)を設立し、同社の代表取締役社長に就任した。またプロ野球マスターズリーグ(2001年に開幕)では「札幌アンビシャス」の初代監督を務めた(任期は2001年 - 2002年シーズンおよび2002年 - 2003年シーズンの2期)。

2001年に日本学生野球協会がプロ経験者の大学野球部臨時コーチ、高卒or高卒社会人でプロ入りした者に関しても年三回・一回三週間限定で解禁された事に伴い創価大学臨時コーチを同年から二年間務め小谷野栄一を3年・4年と特訓した。

2002年に野球殿堂入り。2007年3月24日、千葉マリンスタジアムで開催された古巣ロッテの開幕戦(対日本ハム)で始球式を行ったが、表舞台に出たのはこれが最後となった。

訃報 山内一弘氏

2009年(平成21年)2月2日19時26分、肝不全のため東京都内の病院で死去(76歳没)。

苦手な投手のタイプが少なく、内外角のボールを左右へ巧みに打ち分けるバットコントロールの持ち主で、「シュート打ちの名人」と言われる職人的な打撃技術を持っていた。特に内角球に対して肘を折り畳んで振り出す独特の打法は、稲尾和久や野村克也から絶賛されている。野村は現役時代には、捕手守備時のマスク越しやオールスター戦のネクストバッターズサークルにいる時などに、山内の打席を穴があくほど観察し、そのフォームや内角捌きを参考・手本にして、自身の三冠王の獲得にも繋がったと語っている。かつて、田淵幸一に教えを乞われたときには「なあ、田淵、インコースはなあ、腰を回しながら右手で押すんや」と指導したこともある。

同じリーグで同じ右のスラッガーであった中西太とは、互いに認め合うライバル関係であった。2人は当時の球界を代表する強打者であり、かつ打撃のスタイルが全く異なっていたことから、同世代・次世代の右打者たちの間で「中西流」「山内流」という言葉が生まれ、参考にされる存在であった。野村克也は「最初は中西のパワーと豪快な本塁打に憧れ『中西流』を真似したが合わず、業師で知られた山内の無駄な力を一切入れずに距離を測ってスタンドに入れるような『山内流』の技を試したところ、しっくりきた」と述べている。

阪神の捕手を務めていた辻恭彦は、広島時代の山内と対戦した際のことについて、「広島市民球場の試合中、打席で『ダンプ(辻の愛称)、ホームランというのは、そんなに飛ばさんでいいんだよ。これからいいホームラン打つから見とけ』と言って、柿本実さんのシュートをレフトのポールの網のところに当てたことがあります。ほんと一番最短距離です。それでホームに戻ってきたとき、『どうだ、ダンプ。あれがホームランだぞ』って言っていました」と振り返っている。

会田豊彦(中日OBおよび元東京新聞編集委員)は、山内について「1960年に中日球場(現:ナゴヤ球場)で開かれたオープン戦で、初めて山内のフリー打撃を見た際、彼は力み・淀みのないスイングから柵越を連発していた。投球を睨みつけたり、闘う目で見たりするのではなく、柔らかい目線でボールを待っていた」と述べている。

オールスターゲームでは毎年のように快打を放ち、「オールスター男」「賞金泥棒」「大泥棒」などと呼ばれた。オールスターには16回出場してMVPを3回受賞し、通算でも38試合出場・105打数33安打(打率.314)と好成績を残している。またオールスターファン投票においては、両リーグ通じての最多得票を通算6回記録している(1956年、1957年、1959年 - 1962年)。これはパ・リーグの選手としてはイチローの6回(1995年 - 2000年)と並ぶ歴代最多であり、セ・リーグの選手を含めた歴代でも王貞治の7回(1963年 - 1965年、1976年、1978年 - 1980年)に次ぐ。

打低投高の時代で長年にわたって好成績を残し続け、セイバーメトリクスにおける通算RCWIN傑出度、RC27傑出度では歴代4位、同様のXRなどの得点算出能力傑出度の通算指標においても5位以内を記録している歴代屈指の強打者である。1955年の日米野球では、全日本チームのメンバーとして8試合に出場して打率.379、2本塁打の好成績を残し、ニューヨーク・ヤンキース監督のケーシー・ステンゲルから「(山内の打撃は)メジャーリーグ (MLB) でも通用する」と称賛された。

二塁打を得意とし、通算二塁打記録(448本)は福本豊に破られるまで日本記録で、2020年現在もNPB歴代3位(右打者では歴代1位)の記録である。また1956年に記録したシーズン47二塁打も、その後1998年にフィル・クラーク(近鉄バファローズ)が更新するまで40年以上にわたりNPB記録だった。

また、1952年のフランチャイズ制施行以降ではNPB史上最多となる39球場で本塁打を打った記録を有している(それ以前に入団した選手も含めると、最多は小鶴誠の48球場)。

宇佐美徹也は著書『プロ野球記録大鑑〈昭和11年‐平成4年〉』(講談社、1993年)において、死球の少ない打者として、中暁生・近藤昭仁とともに山内の名を挙げ、前記のミケンズから受けた死球の際に「当てられる方がヘタなのさ」とコメントした逸話を紹介している。

プロ入りから引退まで20年間にわたり左翼手を務め、たまに右翼手を守ることもあった。1962年はシーズンを通して中堅手を守り、レンジファクター系の指標でリーグ1位の中堅守備得点を記録。正確な送球にも定評があり、外野手最多通算補殺(175補殺)の日本記録を保持している。

一度教え出すと徹底的に指導することから、「かっぱえびせん」の異名を取った。時には、自軍から見て敵である相手チームの選手にも熱心に指導することもあった。

1979年 - 1981年は古巣のロッテオリオンズ(毎日・大毎の後身)で監督を務めた。ロッテ監督時代の1980年前期は5月下旬に首位に立ちそのまま優勝。後期は3位と健闘したがプレーオフで近鉄バファローズに敗れた。打線は強力で、2人で74発、206打点のレロン・リー、レオン・リー兄弟、復調した有藤道世、そして巨人から移籍してきた張本勲。張本は5月28日の阪急戦(川崎球場)で通算3000安打の大記録を達成している。投では17勝を挙げた仁科時成を中心に、11勝の水谷則博やリーグ最多の18セーブを挙げた倉持明が奮闘した。1981年前期は開幕から11連勝の村田兆治を中心にスタートダッシュに成功し、優勝を果たす。後期は最後まで優勝争いに絡んだ末の3位だったが、シーズン中の対戦成績16勝7敗3分の日本ハムファイターズにプレーオフで敗れた。打では張本がこの年限りで引退、落合博満が打率.326で初の首位打者を獲得、レロン、レオン兄弟はいずれも3割超えと好調を維持、庄司智久が一番打者として打率.293。投は村田が19勝、仁科13勝、水谷12勝ながら、チーム防御率4.16で投打かみ合わず。球団は山内の手腕を評価して留任を決めていたが、山内はコーチの待遇の悪さや、本拠地の川崎球場の設備の劣悪さなどを本腰で改善しようとしなかった球団に不信感を抱き、1981年限りでロッテ監督を辞任した。

中日監督1年目の1984年は、前年のチーム打率がセ・リーグ最下位と低迷していた中日打線を「恐竜打線」と呼ばれるまでに再建し、チーム打率はセ・リーグ1位(.282)を記録した。また、谷沢健一(34本塁打)、ケン・モッカ(31本塁打)、大島康徳(30本塁打)、宇野勝(37本塁打で本塁打王)の打者4人がシーズン30本塁打以上を記録した。同年は開幕当初こそ不振だったが、4月20日からの対巨人戦で3連勝したことで勢いをつけ、5月中旬には6連勝、6月下旬には7連勝を記録して首位・広島に詰め寄った。また「巨人にだけは負けるな」を合言葉に、対巨人戦14連勝を記録していたが、シーズン後半戦突入直後にその連勝が止まってからチームも失速し、8月20日には一時的に立っていた首位から陥落する。8月25日からの広島との直接対決3連戦で勝ち越して首位になったが、9月に入ると再び負け越した。残り10試合を切った9月末には、首位を走る広島と0.5ゲーム差の状態で広島市民球場での天王山を迎えた。連勝すれば逆転優勝もありえた同試合前、山内は相手チームである広島の1番打者であった高橋慶彦に打撃指導し、高橋はその試合で2本塁打を放った。試合は広島がサヨナラ勝ちし、この負けが響いて中日は2位に終わった。相手選手の高橋に打撃のアドバイスをした山内は、新聞などの各メディアで叩かれたという。山内本人はこれについて、「同じ野球人、悩んでいたら助けてやらにゃいかんやろ」と語っている。結局、同年の中日は対広島戦で8勝15敗3引き分けと負け越した。

中日監督2年目の1985年1月24日には、当時中日のスター選手だった田尾安志を杉本正・大石友好との交換トレードで西武ライオンズに放出したが、このトレードにより『中日新聞』(中日球団の親会社である中日新聞社が発行)の不買運動が起こった。同年は開幕から不振の打線を投手陣の踏ん張りによりカバーする戦いで首位争いを繰り広げ、5月15日に首位に返り咲いた。このころには山内自身も「これで打線が活発になればいうことない」と自負していたが、主力投手の都裕次郎や捕手の中尾孝義、主力打者の大島・谷沢と故障による戦線離脱者が相次ぎ、最終的にはリーグ5位に低迷。3年目(1986年)も4月16日から7連敗を喫して下位に低迷。更に不可解な采配(選手のバイオリズムを重視するなど)が目立ってチームは混乱し、一部選手との軋轢も生じ、同年シーズン途中(7月5日)には25勝35敗5引き分けという不振の責任を取って休養した。

打撃コーチとしてはインパクトでの手首の返しに確固たる理論を持ち、リストワークを徹底的に叩き込むことで所属球団の打線を強化した。巨人コーチ時代には『報知新聞』付録のプロ野球名鑑プロフィールの「趣味」欄に「コーチ」と書かれていた。

掛布雅之・水谷実雄・高橋慶彦・高沢秀昭・田淵幸一・真弓明信・原辰徳といった選手たちを指導(キャンプでの臨時コーチのみの接点を含む)し、その打撃理論で数々の名打者を育てた。また、阪神の助っ人選手として活躍したハル・ブリーデンやマイク・ラインバックなどには、「阪神が弱くなったのは山内コーチを辞めさせたせいだ」とまで絶賛されている。特に阪神入団当初に「タイガース史上最低の外国人選手」のレッテルを張られたラインバックは、熱心に自分の面倒を見てくれた山内に強く感謝していた。

ロッテ監督就任後の1978年度のドラフト会議では落合博満を3位指名した。入団後には落合に対し「グリップを前に出せばいい」などと指導したが、当時の落合は山内に反発し、「俺のことはほっといてください」と言い放っている。その後、落合は「自分のやり方でやってみよう」と考えて自らスイングを確立し、1982年に三冠王を獲得したが、その祝賀パーティの席で山内は「やはりお前はいい打者だったが、三冠王になるとまでは想像できなかった」と話した。落合本人は、後に「当時は山内監督の高度な打撃理論が理解できなかった」と語るなど、あくまで当時の山内の指導が自分に合わなかっただけであることを認めており、山内の人柄・打撃理論、また指導してくれたことなどに関して、自著『コーチング 言葉と信念の魔術』で感謝の意を述べているほか、「実際にその後に出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内さんから教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かった」と述べている。その上で、後に西村徳文が台頭してきたところ、落合は「新人時代の自分よりも、山内さんの指導を理解できる土台がある」と考え、西村とともに山内宅を訪れて打撃指導を乞い、後に西村は山内の指導により首位打者を獲得するまでに成長した。落合は山内から伝授された打撃練習法を現役晩年まで実践していた。また、落合は現役時代7人の監督の下でプレーしたが、その中で「野球」を教わったのは山内と稲尾和久だけであると語っている。

打撃理論が非常に高度であるという点は高橋慶彦も同意見で、過去を振り返った際に「『ボールには打つところが5ヶ所ある。内側、外側、上、下、真ん中だ』と言われたが、そんな話は初めて」「打撃練習についても『試合のための練習をしろ。ケージから前に飛ばんでええんや』と言われた」などといったエピソードを披露し、「駆け出しの頃だったら高度すぎてわからなかったと思う」と語っている。

川又米利は中日監督時代の山内から“バケツ指導”を受け、満々と水をたたえたバケツを振って、水をまく練習をさせられた。川又は「体重移動のタイミングとか、バットの始動とかの練習だったようだけど、最初は驚いた」というが、その成果もあり、1985年に7年目で初めて規定打席に到達し、「私にとっては大恩人。プロで19年できたのも、山内さんが使ってくれたから。」と山内に感謝している。彦野利勝には内角打ちの極意を伝授した。彦野は「現役時代、内角打ちを徹底的に指導された。特に右ひじ、左ひじの抜き方なんて、それまで教えてもらったことがなかったから今も印象に残っているし、財産になった」と語り、プロ初出場、初安打、初本塁打に初打点とすべてが山内が指揮を執っていた1985年だった。

若い頃の上田利治の指導者としての能力を高く買い、根本監督との意見の対立から広島を退団して解説者となっていた上田を、毎日時代の先輩である阪急の西本幸雄監督に推薦した(本来は山内が招聘されたが、すでに巨人コーチへの就任が決まっていたため、代わりの人材として挙げた)ことでも知られる。

1987年、巨人に打撃コーチとして復活する。補佐役に松原誠。同年の巨人打線は篠塚利夫(首位打者獲得、打率333)、原辰徳、クロマティ、吉村禎章、中畑清の5人が打率3割を記録し、チーム打率はリーグダントツのチーム打率・281を記録し、さらにその後を打つ捕手の山倉和博は20本塁打を放ち、MVPを獲得する活躍を見せた。王貞治監督4年目にして初の優勝に飾った。翌1988年は、6月中旬にクロマティが死球による左手親指骨折で離脱、この穴は当初、呂明賜が17試合10本塁打の大爆発で埋めたが、7月上旬に吉村が左膝じん帯断裂の大ケガを負った。呂も弱点のインコースを徹底的に攻められようになって急ブレーキ、チーム打率は・268まで落とし、中日の独走優勝を許して2位に王監督は退任し、藤田元司監督が復帰し、1989年はリーグ優勝、日本一になった。

1991年 - 1993年はオリックス・ブルーウェーブのヘッドコーチを務め、当時の土井正三監督とともに、入団後間もないイチロー(当時の登録名は本名の「鈴木一朗」)の打撃スタイルを「これでは打てない」と酷評し、「ゴロを打つダウンスイングに矯正せよ」と指導していた。イチローは彼らの指導を聞き入れず、河村健一郎(ブルーウェーブの二軍打撃コーチ)とともに「振り子打法」を考案したが、土井や山内ら一軍首脳はこれにも否定的な見解を示し、打撃フォーム矯正を求めた。しかしイチローや河村は彼らの求めたフォーム矯正を拒否し、土井の後任として仰木彬監督が就任した1994年以降、イチローはNPB最長記録となる7年連続首位打者を記録し、MLBでも歴代23位の通算3,089安打を記録するなど、大打者としての道を歩んでいく結果となった。これにより、土井は「イチローの才能を見出せなかった」という負のイメージを背負うこととなったが、振り子打法を発案した河村は、「イチローを二軍に落とすよう主張したのは、ダウンスイングに打法改造するよう指示した山内であり、土井は球界の大先輩である山内の意見を尊重せざるを得なかったにすぎない」と述べている。イチロー自身も同様の証言をしており、実際にイチローの打法に対してしつこく干渉してきたのは山内だったという。1994年には野球フランス代表の臨時打撃コーチを務めたが、この時にはフランス語を話せなかったため、フランス人選手に身ぶり手ぶりで打撃指導を行っていた。

1995年には阪神の打撃コーチに就任。主に新庄剛志のフォーム改造を手掛けるが、山内の打撃理論を新庄はまったく理解できず、フォーム改造は裏目に出て、成績を落としてしまう。チーム全体も石嶺和彦や八木裕らの深刻な不振で、貧打に苦しむ結果を生んでしまった。翌1996年シーズン途中(5月20日) - 同シーズン終了まではヤクルトスワローズの臨時巡回コーチを務めた。

愛称は「山さん」「シュート打ちの名人」「オールスター男」。

打撃に対して非常にストイックで、「打撃の職人」とも呼ばれ、現役時代は飲酒・喫煙をしないなど徹底した体調管理を行っていた。オリオンズ時代はチームメイトの榎本喜八から強く慕われていたほか、自身はオープン戦・オールスターゲームで青田昇・広岡達朗から熱心に打撃指導を乞うたエピソードがある。

中日監督時代の山内の下でプレーした谷沢健一は山内の人物像について「現役時代から打撃談義を強く好み、特にベテランになってからはオールスターでもお構いなく、いつ終わるとも知れぬ調子で、ベンチの隣の選手に打撃についてずっと話しかけていた。そのため他のベテラン選手は、山内の近くには腰を下ろさなかった」と述べている。中西太は「ワシもよく喋るが、ワシよりも喋りだしたら止まらんのが山さんだ」と語っている。

釣りが趣味で、中日監督時代にはシマノの釣竿のラジオCMに出演していた。また、中日監督時代は後楽園球場で試合がある際、自宅(文京区白山)近くで大量の稲荷寿司を買い込んで球場入りし、担当記者に「みんなで食べてくれ」と渡していた。

各年度の太字はリーグ最高

毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に球団名を変更

首位打者:1回 (1957年)

本塁打王:2回 (1959年、1960年)

打点王:4回 (1954年、1955年、1960年、1961年)

最多出塁数:4回(1954年 - 1957年)

最高殊勲選手(MVP):1回 (1960年)

ベストナイン:10回 (外野手部門:1954年 - 1957年、1959年 - 1963年、1968年)※1954年は外野手部門での昭和生まれ初の受賞、10度受賞は外野手部門歴代2位タイ

野球殿堂競技者表彰 (2002年)

日本シリーズ敢闘賞:1回 (1964年)

日本シリーズ打撃賞:1回 (1964年)

オールスターゲームMVP:3回 (1954年 第2戦、1955年 第1戦、1959年 第1戦)

オールスターゲーム最高殊勲選手:2回 (1954年、1959年)

初出場・初先発出場:1952年6月28日、対近鉄パールス10回戦(川崎球場)、5番・中堅手で先発出場

初安打:1952年6月29日、対大映スターズ5回戦(川崎球場)、4回裏に林義一から

初打点:1952年7月12日、対近鉄パールス11回戦(藤井寺球場)、6回表に関根潤三から適時打

初本塁打:1952年8月2日、対阪急ブレーブス17回戦(高崎市城南野球場)、5回裏に宮沢基一郎から左越2ラン

100本塁打:1957年6月2日、対南海ホークス11回戦(後楽園球場)、7回裏に木村保から左越ソロ ※史上16人目

150本塁打:1959年8月16日、対東映フライヤーズ19回戦(川崎球場)、9回裏に土橋正幸から左越逆転サヨナラ満塁 ※史上12人目

1000安打:1960年7月16日、対南海ホークス15回戦(後楽園球場)、4回裏に森中千香良から三塁内野安打 ※史上33人目

1000試合出場:1961年4月23日、対東映フライヤーズ5回戦(駒澤野球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上57人目

200本塁打:1961年8月8日、対南海ホークス15回戦(大阪球場)、1回表に後藤修から左越2ラン ※史上8人目

300二塁打:1963年6月27日、対近鉄バファローズ14回戦(日生球場)、8回表に久保征弘から右中間適時二塁打 ※史上3人目

250本塁打:1963年8月19日、対阪急ブレーブス19回戦(阪急西宮球場)、4回表に米田哲也から左越2ラン ※史上2人目

1500安打:1963年9月21日、対阪急ブレーブス25回戦(東京スタジアム)、5回裏に梶本隆夫から ※史上12人目

1500試合出場:1964年8月9日、対中日ドラゴンズ17回戦(中日スタヂアム)、3番・左翼手で先発出場 ※史上16人目

3000塁打:1965年5月16日、対読売ジャイアンツ6回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に金田正一から左越ソロ ※史上3人目

350二塁打:1965年6月29日、対大洋ホエールズ12回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に新治伸治から適時二塁打 ※史上2人目

1000打点:1965年7月3日、対読売ジャイアンツ12回戦(後楽園球場)、4回表に益田昭雄から左越3ラン ※史上4人目

300本塁打:1965年7月4日、対読売ジャイアンツ13回戦(後楽園球場)、1回表に城之内邦雄から左越先頭打者本塁打 ※史上初

1000得点:1966年6月19日、対広島カープ9回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に室山皓之助の代打・藤井栄治の右中間2点適時二塁打で記録 ※史上3人目

3500塁打:1967年8月20日、対広島カープ19回戦(広島市民球場)、3回表に外木場義郎から2ラン本塁打 ※史上2人目

400二塁打:1967年10月4日、対広島カープ27回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に城野勝博から ※史上初

2000安打:1967年10月14日、対サンケイアトムズ25回戦(東京スタジアム)、8回表に吉江喜一から中前安打 ※史上2人目

350本塁打:1968年4月6日、対阪神タイガース1回戦(岡山県野球場)、8回表に権藤正利から左越2ラン ※史上2人目

2000試合出場:1968年8月2日、対阪神タイガース17回戦(阪神甲子園球場)、3番・左翼手で先発出場 ※史上初

4000塁打:1970年8月4日、対中日ドラゴンズ16回戦(中日スタヂアム)、1回表に若生和也から左越ソロ ※史上初

オールスターゲーム出場:16回 (1954年 - 1966年、1968年 - 1970年)

最高出塁率:4回 (1954年 - 1957年) ※当時連盟表彰なし

シーズン打率3割以上:9回(1954年 - 1957年、1959年 - 1962年、1968年)※右打者歴代3位

1イニング2本塁打:1965年10月3日、対広島カープ21回戦(阪神甲子園球場)、4回裏先頭で鵜狩道夫から右中間越ソロ、2死1・2塁で佐々木勝利から左越3ラン ※史上5人目

球場別本塁打:39球場(歴代最多)

3球団で開幕戦本塁打 ※史上初

1試合9打点(1959年7月5日)

最多連続試合二塁打:6試合連続(1959年6月18日 - 6月25日)

リーグ最多二塁打:4回(歴代最多)

リーグ最多長打:4回(1956,1957,1959,1960年) ※パ・リーグ最多タイ

通算外野手補殺:175 ※NPB記録

8 (1952年 - 1970年)

85 (1971年 - 1974年)

72 (1975年 - 1977年)

68 (1979年)

33 (1980年 - 1981年)

65 (1984年 - 1986年)

77 (1987年 - 1989年)

83 (1991年 - 1993年、1995年)

30 (1999年)

「第13回NHK紅白歌合戦」(NHK総合、1962年12月31日) - 審査員。

「DRAMATIC BASEBALL」(日本テレビ系列、1978年、1982年 - 1983年) - 解説、日本テレビのプロ野球中継の現行タイトル。

^ 近藤唯之 (2006) は「身長178 cm・体重82 kg」と述べている。

^ 出身地について「愛知県犬山市出身」とする文献もある。

^ 16回出場したオールスターゲームで計3度のMVPを獲得したことから。

^ 「ミスターオリオンズ」の異称は、山内とともに「ミサイル打線」の中軸として活躍した榎本喜八の異称としても用いられる。

^ 山内の指導ぶりと同商品のキャッチフレーズ「やめられない、とまらない」をかけている。

^ 1956年に川上哲治がNPB史上初の2000安打を達成した当時、2000安打は「今後数年、続くもの望めず」と報じられていた。

^ 起工業学校は山内の入学当時、6年教育の旧制中学校だったが、山内が在学中の1947年(昭和22年)に新しい教育制度が施行されたことにより、1948年4月には愛知県立起工業高等学校に改称した。

^ 2021年(令和3年)4月に現在の校名に改称。

^ 「捕手から三塁手、遊撃手と守備位置を転々とした」とする文献もある。

^ 「同校ではエースかつ4番打者を務めたが、同校の野球部は軟式野球部だったため、甲子園(硬式野球の大会)には縁がなかった」とする文献もある。

^ 肺結核は当時、死亡率の高い病気だったが、当時幼子を抱えた妻を持っていた瀧は肋骨切除手術を受け、医師が驚くほどの回復力により11月末に退院した。

^ 平岩は瀧の名古屋高商の先輩に当たるが、当時は瀧との面識はなかった。

^ 近藤によれば、高田は後の昭和31年(1956年)にも、当時立教大学野球部(2年生)に所属していた杉浦忠(愛知県豊田市出身)が砂押邦信監督についていけなくなり、同期の長嶋茂雄とともに中日球団事務所を訪れ「契約金はいらないから入団させて欲しい」と申し出た際にも「大学生は勉強が本分だ。卒業してからの話にしよう」と諭し、彼らの申し出を断った。ただし、長嶋や杉浦にとって立教大学の先輩に当たる坪内道典(中日OB)は自著『風雪の中の野球半世記』で、その出来事について「1955年9月、杉浦と長嶋が東京・西銀座にあった中日球団事務所を訪れ、『中日に入団させて欲しい』と申し出たが、応対した中村三五郎球団代表に諭されて帰った」と述べている。結局、山内・杉浦・長嶋の3人はいずれも後に野球殿堂入りを果たしている。

^ 森は元阪急の投手で、1941年(昭和16年)に30勝を挙げて最多勝を獲得した(通算112勝)。また一宮市出身で、瀧と面識があった。

^ 元チームメイトは山内の訃報に際し、彼が投手から左翼手に転向した理由について「コントロールが悪かった」と述べている。また、監督を務めていた森は山内に投手としての適性を感じず、外野での球拾いを命じた。

^ チームはこれが同大会初出場。

^ 山内のプロ入り(毎日入団)当時、毎日球団は外野手が不足していた。

^ 黄疸による。

^ ニューヨーク・ヤンキースの捕手ヨギ・ベラモデル。

^ 2年前の飯島滋弥を抜いたが、翌年に榎本喜八が更に更新した

^ パ・リーグ記録としては、ラリー・レインズ(1954年・阪急)の記録を2年ぶりに更新

^ 45二塁打で迎えた同シーズン最終戦(同年10月8日の対高橋ユニオンズ戦・浦和球場)で第2打席に二塁打を打って46本目の二塁打を記録し、大沢清(大洋ホエールズ)が1950年に記録したシーズン45二塁打の記録を更新。6回にも同日2本目の二塁打を打った。

^ 1950年の別当薫を抜き、1985年に落合博満が抜くまで保持

^ また同年7月5日、パ・リーグ優勝を争っていた南海戦では満塁本塁打を含む1試合3本塁打9打点を記録した。

^ 杉山は418打数135安打(打率.323)、山内は425打数136安打(打率.320)。

^ 同僚の葛城と本塁打王争いをしていたが、葛城は最終的に山内(25本塁打)と1本差の24本塁打に終わっている。

^ 同年の大毎打線はチーム打率が12球団中最高の.262を記録。榎本が打率.344で首位打者を獲得し、2位は田宮(打率.317)、3位は山内(打率.313)と、大毎打線が打率ランキングの1位 - 3位を独占した。また、葛城も打率.295でリーグ6位に入り、この4人が打った安打数は600本超に達した。

^ 1950年の別当薫を抜いたが、2年後の1963年に野村克也(南海)が更に更新した。

^ 1960年のオープン戦で乱視に気づき、すぐに眼鏡着用を考えたが、この時は巨人とのオープン戦で川上哲治監督から「(眼鏡を掛けるのは)調子がおかしくなったときでいいんじゃないか」とアドバイスされたため、それ以降は眼鏡無しで試合に臨んでいた。

^ 阪神の打者が31本塁打を記録した年は当時、14年ぶりだった。

^ 打点は王貞治(巨人)・桑田武(大洋)に次ぐセ・リーグ3位。

^ 同年の阪神は初めてチーム本塁打数が100本以上(114本)に達した。

^ 25打数9安打3打点を記録。

^ 正式な入団発表は1968年1月6日。

^ 2年目(2002年 - 2003年)シーズン終了後の2003年4月17日に監督を退任し、後任には古葉竹識が就任。

^ 「賞金泥棒」「大泥棒」の異名は、山内がオールスターで毎年のように活躍しては賞品・賞金などを手にしていくさまから名付けられた。

^ 1954年以前は一部のデータが不十分で正確な数値が割り出せないため、山内は暫定的な概算値が含められる対象選手となる。しかし山内の場合はレギュラーに定着したのが1954年からであり、概算値を含めなかった場合でも歴代5位付近に位置する。

^ 内訳はパ・リーグで317本、セ・リーグで131本。

^ 1位の立浪和義(487本)・2位の福本豊(449本)はいずれも左打者である。

^ 当時のロッテはコーチ陣の待遇が他球団より(年俸が低いなど)悪く、山内が手腕を評価して招聘したコーチが次々と他球団へ好条件で引き抜かれていた。また山内と親しかったロッテ応援団長・松本真一は著書『プロ野球応援団長』で、山内がロッテ監督を辞任した理由について、チームがプレーオフに進出したにもかかわらず、球団が選手の年俸を上げてこなかったことに対し不満を抱いていた旨を述べている。

^ 1983年の中日打線は、大島が36本塁打を放ち初の本塁打王を獲得したほか、田尾が.318(リーグ3位)、谷沢が.315(リーグ5位)の高打率を記録した。しかし中尾(前年にセ・リーグMVPを獲得)やモッカが不調に終わりチーム打率はセ・リーグ最下位(.263)で、順位も5位に低迷し近藤貞雄監督は同年限りで辞任した。

^ 同年6月29日の対横浜大洋ホエールズ戦(横浜スタジアム)では25安打・22点(毎回得点)を記録している。

^ 谷沢は同年セ・リーグ2位の打率.3287を記録。

^ またこのころ、中尾が肩の重傷で戦線離脱した。

^ 高橋慶彦は1983年春季キャンプで広島の臨時コーチを務めた山内から打撃指導を受け、それまでの左打席の際の上から叩きつける打法をレベルスイングに矯正したところ、本塁打数は前年(1982年)の6本から24本に激増した。山内の訃報を受け、高橋(2009年当時はロッテの打撃コーチ)は「プロ野球で活躍し、現在打撃コーチとして選手たちを指導できているのは山内さんのおかげ」と述べている。

^ その後はシーズン終了まで高木守道が監督代理を務め、同年オフには星野仙一が新監督に就任した。高木が代理監督に就任して以降、7月末にはリーグ4位に浮上したが、9月に入って連敗が続き、最終試合で大洋に敗れたことで5位が確定した。

^ これは、初の自主トレーニングでフリー打撃をしていたところ、自身の打撃フォームを酷評した前監督・金田正一の意見に山内が賛同したことに落合が反発したためだった。山内は落合を評価していたためか、熱心に打撃理論を説いたが、当時の落合は山内の打撃理論を理解できなかった。

^ 落合は「山内さんの指導を拒み、自分のスイングを自分自身で作り上げることになった自分は土肥健二さん(3歳年上)のスイングを参考に自身の打撃フォームを作った。しかし首位打者争いをしているころ、自分は『内角球への対処がうまい』と評されていたが、その打撃は現役時代に『シュート打ちの名人』と呼ばれた山内さんの打撃フォームと似ていることに気づいた。自分は無意識のうちに山内さんのスイングを習得していた」「山内さんは(自身が首位打者を獲得した1981年)シーズン終盤、自分に首位打者を取らせようといろいろなサポートをしてくれた」と述べている。

^ 「(上田は)鶴岡一人の推薦もあって西本阪急のコーチに就任した」とする文献もある。

^ 『ホームラン』(日本スポーツ出版社)の選手名鑑では肩書はヘッドコーチ。

^ 『東京新聞』(中日新聞東京本社)は2004年10月1日付の朝刊コラム「筆洗」で、「打撃コーチとしての手腕を買われて各球団を渡り歩いた名伯楽である山内が『君、そのフォームじゃプロでやっていけないよ』とさじを投げた新人選手は落合博満とイチローの2人だった」と述べている。また、会田豊彦は山内の訃報に際し、「イチローのデビューが遅れたのは『名人』(山内)の目に留まらなかったからだと言われている。(山内は)彼(イチロー)のその後をどんな思い出見つめていたのだろうか」と述べている。

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坪内道則「ミスターをマンマと逃した中村代表のお説教」『風雪の中の野球半世記』(第1版第1刷)ベースボール・マガジン社、1987年3月25日、162-163頁。ISBN 978-4583026268。 

永島直樹(原作)・貝塚ひろし(作画) 著、日本プロ野球名球会(監修) 編『山内一弘:打撃一筋名人への道』 31巻(初版発行)、ぎょうせい〈名球会comics〉、1993年1月10日。ISBN 978-4324026601。 

宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑【昭和11年→平成4年】』(第1刷発行)講談社(印刷所:廣済堂)、1993年8月1日。ISBN 978-4062061087。 

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松本真一「第5章 四十年の人の輪 山内一弘」『プロ野球応援団長 オリオンズ誕生から現在まで』(第1刷発行)発行所:株式会社デポルテ(発売所:株式会社星雲社)、1998年4月20日、182-184頁。ISBN 978-4795210349。 

池田哲雄 編『中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡』ベースボール・マガジン社、2005年6月1日。ISBN 978-4583613246。 

近藤唯之「第8話 稲尾和久 VS. 山内一弘」『プロ野球 運命の出会い 男たちの人生を変えたもの』(第1版第1刷)PHP研究所〈PHP文庫〉、2006年4月19日、129-141頁。ISBN 978-4569666082。https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-66608-2。 

瀧正男「第四章 指導者に」『白球に乾杯』(初版発行)中央公論新社、2007年7月25日、54-59頁。ISBN 978-4120038549。 

池田哲雄 編『中日ドラゴンズ80年史 シリーズ1 1974-1999』ベースボール・マガジン社、2016年3月16日。ISBN 978-4583624235。 

愛知県出身の人物一覧

千葉ロッテマリーンズの選手一覧

阪神タイガースの選手一覧

広島東洋カープの選手一覧

学生野球資格回復研修制度、柳川事件

個人年度別成績 山内一弘 - NPB.jp 日本野球機構

池田豊 1936

桝嘉一 1937

根本行都 1938 - 1939

小西得郎 1939 - 1941

本田親喜 1941 - 1942

桝嘉一 1943

三宅大輔 1944

竹内愛一 1946

杉浦清 1946 - 1948

天知俊一 1949 - 1951

坪内道典 1952 - 1953

天知俊一 1954

野口明 1955 - 1956

天知俊一 1957 - 1958

杉下茂 1959 - 1960

濃人貴実 1961 - 1962

杉浦清 1963 - 1964

西沢道夫 1964 - 1967

杉下茂 1968

水原茂 1969 - 1971

与那嶺要 1972 - 1977

中利夫 1978 - 1980

近藤貞雄 1981 - 1983

山内一弘 1984 - 1986

星野仙一 1987 - 1991

高木守道 1992 - 1995

星野仙一 1996 - 2001

山田久志 2002 - 2003

落合博満 2004 - 2011

髙木守道 2012 - 2013

谷繁元信 2014 - 2016

森繁和 2017 - 2018

与田剛 2019 - 2021

立浪和義 2022 - 2024

井上一樹 2025 - 現在

湯浅禎夫 1950 - 1952

別当薫 1952

若林忠志 1953

別当薫 1954 - 1959

西本幸雄 1960

宇野光雄 1961 - 1962

本堂保次 1963 - 1965

田丸仁 1966

戸倉勝城 1967

濃人渉 1967 - 1971

大沢啓二 1971 - 1972

金田正一 1973 - 1978

山内一弘 1979 - 1981

山本一義 1982 - 1983

稲尾和久 1984 - 1986

有藤道世 1987 - 1989

金田正一 1990 - 1991

八木沢荘六 1992 - 1994

ボビー・バレンタイン 1995

江尻亮 1996

近藤昭仁 1997 - 1998

山本功児 1999 - 2003

ボビー・バレンタイン 2004 - 2009

西村徳文 2010 - 2012

伊東勤 2013 - 2017

井口資仁 2018 - 2022

吉井理人 2023 - 現在

60 ヴィクトル・スタルヒン

62 池田豊

63 中島治康

64 若林忠志

65 川上哲治、鶴岡一人

69 苅田久徳

70 天知俊一、二出川延明

72 石本秀一

74 藤本定義、藤村富美男

76 中上英雄

77 水原茂、西沢道夫

78 松木謙治郎、浜崎真二

79 別所毅彦

80 大下弘、小鶴誠

81 飯田徳治、岩本義行

83 三原脩

85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳

88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一

89 島秀之助、野村克也、野口二郎

90 真田重蔵、張本勲

91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎

92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男

93 稲尾和久、村山実

94 王貞治、与那嶺要

95 杉浦忠、石井藤吉郎

96 藤田元司、衣笠祥雄

97 大杉勝男

99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄

00 米田哲也

01 根本陸夫、小山正明

02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎

03 上田利治、関根潤三

04 仰木彬

05 村田兆治、森祇晶

06 門田博光、高木守道、山田久志

07 梶本隆夫

08 山本浩二、堀内恒夫

09 若松勉

10 東尾修

11 落合博満

12 北別府学、津田恒実

13 大野豊

14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩

15 古田敦也

16 斎藤雅樹、工藤公康

17 伊東勤

18 松井秀喜、金本知憲

19 立浪和義

22 髙津臣吾、山本昌

23 アレックス・ラミレス

24 谷繁元信、黒田博樹

09 青田昇

10 江藤慎一

11 皆川睦雄

13 外木場義郎

16 榎本喜八

17 星野仙一、平松政次

18 原辰徳

19 権藤博

20 田淵幸一

23 ランディ・バース

59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿

60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎

62 市岡忠男

64 宮原清

65 井上登、宮武三郎、景浦將

66 守山恒太郎

67 腰本寿

68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三

69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧

70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚

71 小西得郎、水野利八

72 中野武二、太田茂

73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三

74 野田誠三

76 小泉信三

77 森茂雄、西村幸生

78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎

79 平沼亮三、谷口五郎

80 千葉茂

81 佐伯達夫、小川正太郎

82 鈴木龍二、外岡茂十郎

83 内村祐之

84 桐原眞二

85 田中勝雄、山内以九士

86 中河美芳、松方正雄

87 藤田信男、山下実

88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一

89 池田恒雄、伊達正男

90 佐伯勇

91 中澤良夫

92 吉田正男

94 廣岡知男

95 呉昌征、村上實

96 牧野直隆、保坂誠

97 山本英一郎

98 中尾碩志、井口新次郎

99 吉國一郎

00 福島慎太郎

01 武田孟、長谷川良平

02 中澤不二雄、生原昭宏

03 松田耕平

04 秋山登

05 志村正順

06 川島廣守、豊田泰光

07 松永怜一

08 嶋清一

09 大社義規、君島一郎

10 古田昌幸

12 長船騏郎、大本修

13 福嶋一雄

14 相田暢一

15 林和男、村山龍平

16 松本瀧藏、山中正竹

17 郷司裕、鈴木美嶺

18 瀧正男

19 脇村春夫

20 前田祐吉、石井連藏

21 川島勝司、佐山和夫

22 松前重義

23 古関裕而

24 谷村友一

02 フランク・オドール、正岡子規

03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄

金田正一

稲尾和久

小山正明

米田哲也

梶本隆夫

皆川睦雄

村山実

鈴木啓示

堀内恒夫

山田久志

江夏豊

平松政次

東尾修

村田兆治

北別府学

佐々木主浩

高津臣吾

工藤公康

野茂英雄

山本昌広

岩瀬仁紀

黒田博樹

上原浩治

藤川球児

平野佳寿

山内一弘

榎本喜八

野村克也

長嶋茂雄

広瀬叔功

張本勲

王貞治

江藤慎一

土井正博

高木守道

松原誠

柴田勲

大杉勝男

藤田平

衣笠祥雄

福本豊

山崎裕之

山本浩二

有藤通世

若松勉

谷沢健一

加藤秀司

門田博光

大島康徳

新井宏昌

秋山幸二

駒田徳広

立浪和義

鈴木一朗(イチロー)

清原和博

古田敦也

野村謙二郎

石井琢朗

松井秀喜

田中幸雄

前田智徳

金本知憲

松井稼頭央

小笠原道大

稲葉篤紀

宮本慎也

小久保裕紀

アレックス・ラミレス

中村紀洋

谷繁元信

井口資仁

和田一浩

新井貴浩

福留孝介

荒木雅博

青木宣親

阿部慎之助

鳥谷敬

内川聖一

福浦和也

坂本勇人

栗山巧

大島洋平

1953 簑原宏

1954 大下弘

1955 戸川一郎

1956 稲尾和久

1957 宮本敏雄

1958 藤田元司

1959 土屋正孝

1960 田宮謙次郎

1961 J.スタンカ

1962 吉田義男

1963 稲尾和久

1964 山内一弘

1965 森下整鎮

1966 渡辺泰輔

1967 足立光宏

1968 長池徳二

1969 長池徳二

1970 井石礼司

1971 山田久志

1972 足立光宏

1973 野村克也

1974 高木守道

1975 山本浩二

1976 柴田勲

1977 河埜和正

1978 足立光宏

1979 井本隆

1980 小川亨

1981 井上弘昭

1982 上川誠二

1983 西本聖

1984 山沖之彦

1985 石毛宏典

1986 達川光男

1987 篠塚利夫

1988 宇野勝

1989 新井宏昌

1990 岡崎郁

1991 川口和久

1992 岡林洋一

1993 清原和博

1994 清原和博

1995 小林宏

1996 仁志敏久

1997 松井稼頭央

1998 大塚光二

1999 川上憲伸

2000 城島健司

2001 T.ローズ

2002 A.カブレラ

2003 金本知憲

2004 井上一樹

2005 矢野輝弘

2006 川上憲伸

2007 ダルビッシュ有

2008 A.ラミレス

2009 髙橋信二

2010 和田一浩

2011 吉見一起

2012 稲葉篤紀

2013 長野久義

2014 R.メッセンジャー

2015 山田哲人

2016 B.エルドレッド

2017 宮﨑敏郎

2018 鈴木誠也

2019 亀井善行

2020 戸郷翔征

2021 山本由伸

2022 J.オスナ

2023 紅林弘太郎

2024 今宮健太

1952 与那嶺要

1953 川上哲治

1954 日比野武

1955 飯田徳治

1956 豊田泰光

1957 大下弘

1958 豊田泰光

1959 寺田陽介

1960 金光秀憲

1961 宮本敏雄

1962 吉田義男

1963 城戸則文

1964 山内一弘

1965 森昌彦

1966 柴田勲

1967 森本潔

1968 D.スペンサー

1969 長嶋茂雄

1970 長嶋茂雄

1971 末次民夫

1972 王貞治

1973 末次民夫

1974 有藤通世

1975 大橋穣

1976 福本豊, 柴田勲

1977 張本勲

1978 島谷金二

1979 高橋慶彦

1951 川上哲治, 野口明, 林義一

1952 飯島滋弥

1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男

1954 中西太, 山内和弘

1955 山内和弘, 西沢道夫

1956 森下正夫, 吉田義男

1957 大下弘, 宮本敏雄

1958 宮本敏雄, 中西太

1959 山内和弘, 中利夫

1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲

1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎

1962 ブルーム, 張本勲

1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅

1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ

1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一

1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識

1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男

1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司

1969 土井正博, 船田和英

1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎

1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司

1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩

1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之

1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲

1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博

1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司

1977 若松勉, 野村克也, 王貞治

1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之

1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二

1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊

1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博

1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之

1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満

1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓

1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美

1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章

1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博

1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三

1989 村田兆治, 彦野利勝

1990 R.ブライアント, 清原和博

1991 古田敦也, 広沢克己

1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広

1993 清原和博, T.オマリー

1994 秋山幸二, G.ブラッグス

1995 落合博満, 松井秀喜

1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲

1997 松井稼頭央, 清原和博

1998 川上憲伸, 松井秀喜

1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志

2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博

2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋

2002 G.アリアス, 的山哲也

2003 高橋由伸, 金本知憲

2004 松坂大輔, SHINJO

2005 金城龍彦, 前田智徳

2006 青木宣親, 藤本敦士

2007 A.ラミレス, 阿部慎之助

2008 山﨑武司, 荒木雅博

2009 青木宣親, 松中信彦

2010 阿部慎之助, 片岡易之

2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀

2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼

2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一

2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐

2015 藤浪晋太郎, 會澤翼

2016 筒香嘉智, 大谷翔平

2017 内川聖一, A.デスパイネ

2018 森友哉, 源田壮亮

2019 森友哉, 近本光司

2020 (中止)

2021 菊池涼介, 島内宏明

2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐

2023 柳田悠岐, 万波中正

2024 牧秀悟,佐藤都志也

1950 別当薫

1951 山本一人

1952 柚木進

1953 岡本伊三美

1954 大下弘

1955 飯田徳治

1956 中西太

1957 稲尾和久

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 山内和弘

1961 野村克也

1962 張本勲

1963 野村克也

1964 J.スタンカ

1965 野村克也

1966 野村克也

1967 足立光宏

1968 米田哲也

1969 長池徳二

1970 木樽正明

1971 長池徳二

1972 福本豊

1973 野村克也

1974 金田留広

1975 加藤秀司

1976 山田久志

1977 山田久志

1978 山田久志

1979 C.マニエル

1980 木田勇

1981 江夏豊

1982 落合博満

1983 東尾修

1984 ブーマー

1985 落合博満

1986 石毛宏典

1987 東尾修

1988 門田博光

1989 R.ブライアント

1990 野茂英雄

1991 郭泰源

1992 石井丈裕

1993 工藤公康

1994 イチロー

1995 イチロー

1996 イチロー

1997 西口文也

1998 松井稼頭央

1999 工藤公康

2000 松中信彦

2001 T.ローズ

2002 A.カブレラ

2003 城島健司

2004 松中信彦

2005 杉内俊哉

2006 小笠原道大

2007 ダルビッシュ有

2008 岩隈久志

2009 ダルビッシュ有

2010 和田毅

2011 内川聖一

2012 吉川光夫

2013 田中将大

2014 金子千尋

2015 柳田悠岐

2016 大谷翔平

2017 D.サファテ

2018 山川穂高

2019 森友哉

2020 柳田悠岐

2021 山本由伸

2022 山本由伸

2023 山本由伸

1950 別当薫

1951 大下弘

1952 深見安博

1953 中西太

1954 中西太

1955 中西太

1956 中西太

1957 野村克也

1958 中西太

1959 山内和弘

1960 山内和弘

1961 野村克也, 中田昌宏

1962 野村克也

1963 野村克也

1964 野村克也

1965 野村克也

1966 野村克也

1967 野村克也

1968 野村克也

1969 長池徳二

1970 大杉勝男

1971 大杉勝男

1972 長池徳二

1973 長池徳二

1974 C.ジョーンズ

1975 土井正博

1976 C.ジョーンズ

1977 L.リー

1978 B.ミッチェル

1979 C.マニエル

1980 C.マニエル

1981 T.ソレイタ, 門田博光

1982 落合博満

1983 門田博光

1984 ブーマー

1985 落合博満

1986 落合博満

1987 秋山幸二

1988 門田博光

1989 R.ブライアント

1990 O.デストラーデ

1991 O.デストラーデ

1992 O.デストラーデ

1993 R.ブライアント

1994 R.ブライアント

1995 小久保裕紀

1996 T.ニール

1997 N.ウィルソン

1998 N.ウィルソン

1999 T.ローズ

2000 中村紀洋

2001 T.ローズ

2002 A.カブレラ

2003 T.ローズ

2004 松中信彦, F.セギノール

2005 松中信彦

2006 小笠原道大

2007 山﨑武司

2008 中村剛也

2009 中村剛也

2010 T-岡田

2011 中村剛也

2012 中村剛也

2013 M.アブレイユ

2014 E.メヒア, 中村剛也

2015 中村剛也

2016 B.レアード

2017 A.デスパイネ

2018 山川穂高

2019 山川穂高

2020 浅村栄斗

2021 杉本裕太郎

2022 山川穂高

2023 G.ポランコ, 近藤健介, 浅村栄斗

2024 山川穂高

1950 大下弘

1951 大下弘

1952 飯島滋弥

1953 岡本伊三美

1954 L.レインズ

1955 中西太

1956 豊田泰光

1957 山内和弘

1958 中西太

1959 杉山光平

1960 榎本喜八

1961 張本勲

1962 ブルーム

1963 ブルーム

1964 広瀬叔功

1965 野村克也

1966 榎本喜八

1967 張本勲

1968 張本勲

1969 永淵洋三, 張本勲

1970 張本勲

1971 江藤慎一

1972 張本勲

1973 加藤秀司

1974 張本勲

1975 白仁天

1976 吉岡悟

1977 有藤道世

1978 佐々木恭介

1979 加藤英司

1980 L.リー

1981 落合博満

1982 落合博満

1983 落合博満

1984 ブーマー

1985 落合博満

1986 落合博満

1987 新井宏昌

1988 高沢秀昭

1989 ブーマー

1990 西村徳文

1991 平井光親

1992 佐々木誠

1993 辻発彦

1994 イチロー

1995 イチロー

1996 イチロー

1997 イチロー

1998 イチロー

1999 イチロー

2000 イチロー

2001 福浦和也

2002 小笠原道大

2003 小笠原道大

2004 松中信彦

2005 和田一浩

2006 松中信彦

2007 稲葉篤紀

2008 リック

2009 鉄平

2010 西岡剛

2011 内川聖一

2012 角中勝也

2013 長谷川勇也

2014 糸井嘉男

2015 柳田悠岐

2016 角中勝也

2017 秋山翔吾

2018 柳田悠岐

2019 森友哉

2020 吉田正尚

2021 吉田正尚

2022 松本剛

2023 頓宮裕真

2024 近藤健介

1950 別当薫

1951 飯田徳治

1952 飯田徳治

1953 中西太

1954 山内和弘

1955 山内和弘

1956 中西太

1957 中西太

1958 葛城隆雄

1959 葛城隆雄

1960 山内和弘

1961 山内和弘

1962 野村克也

1963 野村克也

1964 野村克也

1965 野村克也

1966 野村克也

1967 野村克也

1968 G.アルトマン

1969 長池徳二

1970 大杉勝男

1971 門田博光

1972 野村克也, 大杉勝男

1973 長池徳二

1974 長池徳二

1975 加藤秀司

1976 加藤秀司

1977 L.リー

1978 B.マルカーノ

1979 加藤英司

1980 C.マニエル

1981 T.ソレイタ

1982 落合博満

1983 水谷実雄

1984 ブーマー

1985 落合博満

1986 落合博満

1987 ブーマー

1988 門田博光

1989 ブーマー

1990 O.デストラーデ, 石嶺和彦

1991 O.デストラーデ, J.トレーバー

1992 ブーマー

1993 R.ブライアント

1994 石井浩郎

1995 イチロー, 初芝清, 田中幸雄

1996 T.ニール

1997 小久保裕紀

1998 N.ウィルソン

1999 T.ローズ

2000 中村紀洋

2001 中村紀洋

2002 T.ローズ

2003 松中信彦

2004 松中信彦

2005 松中信彦

2006 小笠原道大, A.カブレラ

2007 山﨑武司

2008 T.ローズ

2009 中村剛也

2010 小谷野栄一

2011 中村剛也

2012 李大浩

2013 浅村栄斗

2014 中田翔

2015 中村剛也

2016 中田翔

2017 A.デスパイネ

2018 浅村栄斗

2019 中村剛也

2020 中田翔

2021 島内宏明

2022 山川穂高

2023 近藤健介

2024 山川穂高

 投  西村貞朗

 捕  C.ルイス

 一  川合幸三

 二  森下正夫

 三  中西太

 遊  L.レインズ

 外  大下弘 / 関口清治 / 山内和弘

 投  中村大成

 捕  C.ルイス

 一  杉山光平

 二  岡本伊三美

 三  中西太

 遊  木塚忠助

 外  山内和弘 / 飯田徳治 / 戸倉勝城

 投  梶本隆夫

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  佐々木信也

 三  中西太

 遊  豊田泰光

 外  山内和弘 / 杉山光平 / 戸倉勝城

 投  稲尾和久

 捕  野村克也

 一  岡本健一郎

 二  岡本伊三美

 三  中西太

 遊  豊田泰光

 外  山内和弘 / 大下弘 / 毒島章一

 投  杉浦忠

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  岡本伊三美

 三  葛城隆雄

 遊  豊田泰光

 外  杉山光平 / 高倉照幸 / 山内和弘

 投  小野正一

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  仰木彬

 三  小玉明利

 遊  豊田泰光

 外  山内和弘 / 田宮謙次郎 / 張本勲

 投  稲尾和久

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  森下整鎮

 三  中西太

 遊  豊田泰光

 外  山内和弘 / 田宮謙次郎 / 張本勲

 投  稲尾和久

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  J.ブルーム

 三  小玉明利

 遊  豊田泰光

 外  山内一弘 / 張本勲 / 吉田勝豊

 投  稲尾和久

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  J.ブルーム

 三  小玉明利

 遊  小池兼司

 外  山内一弘 / 張本勲 / 広瀬叔功

 投  江夏豊

 捕  森昌彦

 一  王貞治

 二  土井正三

 三  長嶋茂雄

 遊  黒江透修

 外  江藤慎一 / D.ロバーツ / 山内一弘

春日由三

吉本明光

中山晋平

春日由三

吉川義雄

春日由三

吉川義雄

川村専一

狩野近雄

河上英一

笹本恭彦

明瀬裕

池田太郎

牧定忠

春日由三

吉川義雄

渋沢秀雄

横山隆一

西崎緑

貝谷八百子

田付辰子

メイ牛山

春日由三

吉川義雄

岩田専太郎

勅使河原蒼風

千代の山雅信

小山いと子

吉村公三郎

市川翠穂

マヤ片岡

春日由三

吉川義雄

三國連太郎

小西得郎

栃錦清隆

青木茂高

河上牧子

水木洋子

坂西志保

田村佐紀子

吾妻徳穂

吉川義雄

田中角栄

菊田一夫

若乃花勝治

金田正一

奥むめお

森田たま

細川ちか子

近藤百合子

吉川義雄

横山泰三

水原茂

稲垣浩

朝汐太郎

沢田美喜

杉村春子

戸川エマ

赤堀全子

吉川義雄

木下惠介

大宅壮一

杉浦幸雄

若羽黒朋明

長谷川春子

大濱英子

榊淑子

谷桃子

吉川義雄

秋山登

唐島基智三

柏戸剛

松本幸四郎

中村汀女

田中絹代

秋山ちえ子

江上トミ

長沢泰治

土門拳

高田元三郎

仲代達矢

大鵬幸喜

和田夏十

勅使河原霞

村山リウ

森光子

長沢泰治

工藤昭四郎

東郷青児

森英恵

大山康晴

山内一弘

佐田の山晋松

藤間紫

岡田茉莉子

十返千鶴子

浪花千栄子

長沢泰治

細川隆元

丹羽文雄

實川延若

中西太

栃ノ海晃嘉

飯田蝶子

貞閑晴

新珠三千代

花柳壽輔

佐久間良子

長沢泰治

大林清

北葉山英俊

林与一

古賀忠道

春風亭柳橋

岩下志麻

司葉子

長谷川町子

林美智子

吉屋信子

坂本朝一

円地文子

安達曈子

入江美樹

藤村志保

小絲源太郎

松下幸之助

ファイティング原田

緒形拳

坂本朝一

樫山文枝

五代利矢子

浜美枝

山崎豊子

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尾上菊之助

加藤芳郎

鶴ヶ嶺昭男

中山卯郎

福島慎太郎

木村秀政

西本幸雄

石坂浩二

福原美和

栗原小巻

塩月弥栄子

平岩弓枝

中山卯郎

江夏豊

王馬熙純

榊原仟

鈴木俊一

曽野綾子

高田敏子

藤田弓子

三船敏郎

中山卯郎

浅丘ルリ子

市川海老蔵

今井通子

大谷直子

菅野義丸

佐藤愛子

鶴岡一人

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中道定雄

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天海祐希

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出田幸彦

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中村季恵

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西田敏行

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澤穂希

中村勘九郎

樹木希林

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宮本信子

杉良太郎

風吹ジュン

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片岡愛之助

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中園ミホ

尾上松也

蜷川実花

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井上真央

阿部寛

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タモリ

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羽生結弦

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大泉洋

土屋太鳳

三宅宏実

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又吉直樹

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辻沙絵

草刈正雄

新垣結衣

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野球に関する記事

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2024/11/19 01:29更新

yamauchi kazuhiro


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谷垣 綾南(たにがき あやな)
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山内 あゆ(やまのうち あゆ、1976年4月15日 - )は、TBSアナウンサー。 東京大学農学部へ留学していたベトナム人の父親(グエン・ヴァン・チュエン、元日本女子大学家政学部教授)と日本人の女性…

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山内 明日(やまのうち めいび、本名同じ、1987年7月2日 - )は日本の女優、タレント。大阪府出身。所属事務所は放映新社。 芦屋女子短期大学卒業。毎日放送の報道局記者で『VOICE』の元キャスタ…

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山内 佑利子(やまうち ゆりこ、8月10日 - )は、日本のフリーアナウンサー。兵庫県芦屋市出身。 松蔭中学校時代から放送部に所属し、学生放送コンクールで多数受賞経験をもつ。(ラジオ番組部門、テレビ…

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