山村宏樹の情報(やまむらひろき) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
山村宏樹の情報まとめ
山村 宏樹(やまむら ひろき)さんの誕生日は1976年5月2日です。山梨出身の野球選手のようです。
引退、テレビ、現在、結婚、父親に関する情報もありますね。今年の情報もありました。山村宏樹の現在の年齢は48歳のようです。
山村宏樹のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 山村 宏樹(やまむら ひろき、1976年5月2日 - )は、山梨県甲斐市(旧・中巨摩郡敷島町)出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、高校野球指導者。 甲府工業高校で、エース兼4番打者として活躍していた2年時(1993年)の夏に第75回全国高等学校野球選手権大会へ出場。修徳高校との2回戦で、高橋尚成と投げ合った末に敗れたが、「北別府二世」と呼ばれるほど制球力が高く評価されていた。 1994年のNPBドラフト会議で、阪神タイガースから1巡目で指名されたことを機に入団。球団関係者からの期待は高く、入団当初は背番号17を着用していた。 1995年は高卒1年目ながら、首脳陣から後半戦の一軍デビューを期待されていた。しかし、右肘を痛めたため、1996年までは二軍生活に終始。 1997年には、6月22日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)でのデビューを皮切りに、オール救援で一軍公式戦5試合に登板した。 1998年は一軍公式戦で先発・救援を5試合ずつ経験。9月17日の対広島東洋カープ戦(阪神甲子園球場)に先発で登板すると、一軍公式戦での初勝利を記録した。 1999年は背番号を21に変更。しかし、公式戦開幕前の二軍練習中に、先輩投手の中込伸に首筋を踏まれた。その影響で目眩や吐き気に悩まされたため、精密検査を受けた結果、自律神経失調症と診断された。一時は野球に臨めないほど精神状態が安定しなかったことから、シーズン中の6月には、球団の許可を受けて実家に帰省。結局、一軍公式戦への登板機会がないまま、10月初旬に球団から戦力外通告を受けた。 大阪近鉄バファローズの一軍監督に梨田昌孝が就任した2000年に、近鉄の春季キャンプへ参加。キャンプ中に入団テストを受けたところ、2月29日に合格が決まった。梨田は、前年までの二軍監督時代にウエスタン・リーグの阪神戦で山村が投げていたスライダーや、山村の潜在能力をかねてから高く評価。一軍監督への就任を機に、入団テストへの受験を山村に要請していた。背番号は65。 2000年はチームの開幕9戦目であった4月9日の対千葉ロッテマリーンズ戦(大阪ドーム)に、先発投手としてパシフィック・リーグ(パ・リーグ)公式戦にデビュー。この試合で一軍公式戦における完封勝利を初めて記録すると、先発ローテーションに定着したほか、オールスターゲームに同リーグの監督推薦選手として現役生活唯一の出場を果たした。結局、阪神時代の通算勝利数を上回る6勝をこの年だけで挙げたほか、リーグの最終規定投球回に到達。防御率はリーグ10位となる5.01を記録。 2001年には前年を上回る7勝を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、第2戦に中継ぎで登板すると、球団史上最後のポストシーズン勝利に貢献した。 2002年から背番号を12に変更したが、近鉄がオリックスブルーウェーブへの吸収合併によって消滅することが決まった2004年まで、一軍公式戦での登板機会に恵まれなかった。球団合併に伴う2004年の分配ドラフト会議で東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。背番号も16に変更した。 2005年は一軍公式戦16試合に登板。一軍公式戦での2桁試合登板は近鉄時代の2001年以来4年振りであったが、2勝7敗、防御率5.64と振るわなかった。6月1日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)では先発を任されながら1回裏に4本の本塁打を浴びたため1死も取れずに降板した。同一投手による1イニング4被本塁打は、日本プロ野球の公式戦最多タイ記録である。 2006年は阪神を戦力外となった時の監督である野村克也が監督に就任。開幕から先発ローテーションに入った。5月30日の古巣・阪神戦では先発すると7回まで1失点の好投を見せる。8回裏に追加点を取られたことで敗戦投手となったが、かつて阪神時代の山村をウエスタン・リーグで指導していた対戦相手である阪神の岡田彰布監督は試合後のインタビューで「(山村は)素晴らしいピッチングだった」と称賛するコメントした。その後も先発として登板を重ねるが調子の波が激しく、8月24日の北海道日本ハムファイターズ戦に先発した際は6回で11失点を喫し、試合後に野村から「ただ淡々と投げてしまうのが山村の問題。リリーフ陣は毎日投げて疲れている。責任を取らせたかった」と大量失点した後も続投させた理由を語った。8月30日の日本ハム戦にも再び先発登板したが、またしても4回5失点と乱調でとりわけ左打者を克服できないことから中継ぎに降格となった。以降、シーズン終了まで中継ぎとして勝ち試合や一打同点などの重要な場面で登板した。シーズン全体では30試合に登板し、6年ぶりに規定投球回に到達し、リーグワーストの防御率5.35と投球自体は不安定だったがライアン・グリン、一場靖弘と並ぶチームトップタイの7勝を挙げた。山村にとっても自己最多タイの勝利数である。 2007年は開幕ローテーションには入らなかったものの中継ぎとして4月7日の千葉ロッテマリーンズ戦で初勝利、5月11日のオリックス・バファローズ戦を中継ぎで2勝目、5月17日の日本ハム戦では先発復帰を果たして3勝目、5月27日の横浜戦でも勝利と、無傷の4勝を挙げる。7月1日の西武ライオンズ戦のマウンドに上ったが無傷の5勝目とはいかなかった。9月1日の西武戦では小山伸一郎が9回2死から危険球退場となったために急遽マウンドへ上ったが危なげなく抑え、思わぬ形でプロ初セーブを挙げた。試合後、野村は「彼(山村)しかいないでしょ。(肩を)作るのも早いし器用だしね」とコメントした。後半戦は小山につなげるセットアッパー的存在として有銘兼久と共に積極的に起用され、後半戦だけで25試合に登板。最終的に34試合に登板し6勝を挙げプロ13年目で初の防御率3点台となる3.26と1軍成績では初めて1つ以上の貯金を作り、最も安定したシーズンとなった。 2008年は右肩関節唇痛で二軍スタート。5月にはブルペンで投球できるようになったが痛みが再発すると以後はリハビリに費やした。実戦登板は二軍で数試合投げただけで、一軍登板は9年ぶりに0に終わる。 2009年もほぼ治療に専念したが、実戦の試合勘テストとして9月2日に一試合のみ2年ぶりとなる一軍での登板を果たしたが、この年の一軍登板はこの1試合だけだった。オフの契約更改では球団史上最大率の55.6パーセント減額で契約した。この年のオフに野村が監督を辞任した。 2010年4月9日のオリックス戦にて一軍復帰。5月14日には自身2個目となるセーブを挙げ、シーズンを通して自己最多の36試合に登板し防御率3.53を記録。怪我からの復活を果たした。 2011年8月25日の日本ハム戦(札幌ドーム)にて史上32人目となる1球勝利を達成。この勝利は2007年9月9日のロッテ戦以来4年ぶりの勝利であった。この年は21試合に登板したが防御率4点台に終わった。 2012年4月に右手首を痛めた影響で一軍昇格の機会がないまま、10月7日に現役引退を発表、11月24日には、球団のファン感謝祭で引退セレモニーが催された。 2013年からは楽天の本拠地でもある仙台を拠点に、東北放送、ミヤギテレビ、東日本放送、J SPORTSの野球解説者として活動。同年1月から、河北新報の夕刊で連載コラムを執筆していた。この年には、楽天が田中将大のレギュラーシーズン無敗(日本プロ野球史上初のシーズン開幕24連勝)などで球団史上初のパ・リーグ優勝(後に日本シリーズ制覇)を成し遂げたことから、リーグ優勝決定後の10月11日には、初めての著書「楽天イーグルス 優勝への3251日 ――球団創設、震災、田中の大記録・・・苦難と栄光の日々」が角川マガジンズから発売された。 その一方で、学生野球資格回復研修制度を通じて、2014年3月4日付で日本学生野球協会から資格回復の適性を認定。同協会に加盟する高校・大学の野球部での指導が可能になったため、同年4月から、かつて在籍していた甲府工業高校硬式野球部の非常勤コーチに就任(2023年8月退任)した。 近鉄の投手時代に出生した長男が中学校へ入学した2015年からは、野球解説者としての活動を仙台で続けながら、山梨県内での生活を再開。現在は、「株式会社フォーカス」の営業職や「fose」「株式会社サンキョウテクノスタッフ」のアドバイザーも務めている。
詳細情報年度別投手成績
記録
初奪三振:同上、7回裏に河原純一から 初先発:1998年5月7日、対中日ドラゴンズ6回戦(阪神甲子園球場)、1/3回3失点で敗戦投手 初勝利・初先発勝利:1998年9月17日、対広島東洋カープ25回戦(阪神甲子園球場)、7回1失点 初完投勝利・初完封勝利:2000年4月9日、対千葉ロッテマリーンズ3回戦(大阪ドーム) 初ホールド:2006年9月11日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(千葉マリンスタジアム)、7回裏2死に3番手で救援登板・完了、1/3回無失点 初セーブ:2007年9月1日、対西武ライオンズ18回戦(フルキャストスタジアム宮城)、9回表2死に4番手で救援登板・完了、1/3回無失点 1球勝利投手:2011年8月25日、対北海道日本ハムファイターズ17回戦(札幌ドーム)、7回裏2死に中田翔を左飛 ※史上32人目 オールスターゲーム出場:1回 (2000年) 17 (1995年 - 1998年) 21 (1999年) 65 (2000年 - 2001年) 12 (2002年 - 2004年) 16 (2005年 - 2012年) 「楽天イーグルス 優勝への3251日 ――球団創設、震災、田中の大記録・・・苦難と栄光の日々」(角川マガジンズ「角川SSC新書」、2013年10月11日初版刊行、ISBN 978-4047316232) ^ 日本ハムファイターズも1巡目で指名を予定していたが、山村と同じ高校生の右投手・金村秀雄(金村 曉)に変更した。奇しくも、金村は2007年まで日本ハムへ在籍した後に、2008年から2010年まで阪神でプレー。現役引退後の2016年から、投手コーチとして阪神へ復帰している。 ^ “元阪神ドラフト1位、病を克服し晴れてバファローズ合格”. スポーツニッポン. (2008年2月29日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0802/kiji/K20080216Z00002190.html 2020年7月24日閲覧。 ^ “年度別成績 2000年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2024年5月6日閲覧。 ^ “山村引退 創設から球団支える”. nikkansports.com. (2012年10月7日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121007-1029423.html 2012年10月7日閲覧。 ^ “山村宏樹選手の現役引退に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2012年10月7日). 2012年10月7日閲覧。 ^ “山村ファン感謝祭でスピーチ”. nikkansports.com. (2012年11月24日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121124-1051445.html 2012年11月25日閲覧。 ^ 学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者日本学生野球協会 ^ “コロナが奪った親子鷹の夏 元楽天・山村氏、中止発表後も仲間を励ます息子の姿に「父親として嬉しかった」”. デイリースポーツ. (2020年5月22日). https://www.daily.co.jp/society/life/2020/05/22/0013361745.shtml 2020年7月24日閲覧。 ^ “甲府工・山村親子「ふたりの夏物語」(前編:2)”. Sportiva. (2020年7月23日). https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2020/07/23/___split_73/?page=2 2020年7月24日閲覧。 ^ ベースボールマガジン社発行・ベースボールレコードブック1999より ^ “【野球】梨田さん回復で安ど…「恩人の中の恩人」との再会願う山村宏樹氏”. デイリースポーツ. (2020年4月30日). http://origin.daily.co.jp/opinion-d/2020/04/30/0013307298.shtml 2030年7月24日閲覧。 山梨県出身の人物一覧 阪神タイガースの選手一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧 個人年度別成績 山村宏樹 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube 貫 - Ameba Blog - オフィシャルブログ(2013年2月 - ) 貫 - オフィシャルブログ(2009年6月 - 2013年2月) 山村宏樹 OFFICIAL SAIT PITCH FOR YOU 山村宏樹 (@yama5152) - X(旧Twitter) 表 話 編 歴 1位:山村宏樹 2位:北川博敏(逆指名) 3位:田中秀太 4位:川尻哲郎 5位:矢野正之 VIAF 日本 日本の野球選手 山梨県立甲府工業高等学校出身の野球選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 東北楽天ゴールデンイーグルスの選手 NPBオールスターゲーム選出選手 野球解説者 山梨県出身のスポーツ選手 1976年生 存命人物 2024/11/21 04:50更新
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yamamura hiroki
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