もしもし情報局 > 1917年 > 8月6日 > 写真家

山端庸介の情報 (やまはたようすけ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

山端庸介の情報(やまはたようすけ) 写真家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

山端 庸介さんについて調べます

■名前・氏名
山端 庸介
(読み:やまはた ようすけ)
■職業
写真家
■山端庸介の誕生日・生年月日
1917年8月6日 (年齢1966年没)
巳年(へび年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
不明

山端庸介と同じ1917年生まれの有名人・芸能人

山端庸介と同じ8月6日生まれの有名人・芸能人

山端庸介と同じ出身地の人


山端庸介の情報まとめ

もしもしロボ

山端 庸介(やまはた ようすけ)さんの誕生日は1917年8月6日です。

もしもしロボ

解散、結婚、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1966年に亡くなられているようです。

山端庸介のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

山端 庸介(やまはた ようすけ、1917年8月6日 - 1966年4月18日)は、日本の写真家、従軍カメラマン。法政大学中退。英領シンガポール生まれ。

長崎市への原子爆弾投下直後の1945年8月10日に市内へ入り、被害の状況を撮影した。

1917年(大正6年)、シンガポールで父・山端祥玉、母・フクの長男に生まれる。山端庸介の本名は啓弌けいいち。父は当地で写真スタジオ・写真材料商を営む「サン商会」の経営者だった。祥玉は福井県勝山市生まれで、大阪・東京で写真の修業した写真家だった。1925年(大正14年)に両親、3人の妹と共に南方から帰国後、初台に住んだ。1927年(昭和2年)には父・祥玉が築地で合資会社ジーチーサン商会を設立、日本初の高速度輪転写真を始めて活躍し、国際国際宣伝企業を興して日本文化を世界に紹介した。

庸介は1933年(昭和8年)3月に青山学院中等部を修了し、同年4月に法政大学予科に入学する。1935年(昭和10年)に父からライカを譲り受け、本格的に写真を撮り始めた。1936年(昭和11年)3月に法政大学を中退。同年4月から、父が経営するジーチーサン商会の大阪支店ににカメラマンとして就職したが、その年の12月には本社の築地に転勤した。ジーチーサン商会は1943年(昭和18年)に山端写真科学研究所と改称。1943年(昭和18年)に東京有楽町の日劇および大阪高島屋の正面に掲げられた100畳敷写真大壁画「撃ちてし止まむ」の撮影・制作に関わったことで知られる。その後敗戦に伴い、1945年(昭和20年)8月31日に解散するが、翌年の1946年(昭和21年)には株式会社ジーチーサンとして再建された。

庸介は、1940年(昭和15年)に、ジーチーサン商会の推薦で海軍省軍事普及部従軍写真班員として中国大陸(中支・南支)に赴任した。この時には6か月で任務を終え、帰国したが、翌1941年1月には、支那方面艦隊事務嘱託として上海の海軍武官府に駐在、一旦帰国するが、11月には海軍省軍務局第4課出仕報道事務を命ぜられた。同年5月の重慶爆撃(第5次爆撃)では自ら願って爆撃機に同乗した。当時の山端にとってカメラを使っての戦争協力は当然のことだった。山端の日記には「剣をとつて戦ふ事の出来ない身は、武器でない武器を使用出来る職能技術で国家の進路に突喊する事は、何ん等ムジュンした思想でない」と言った記述がみられる。また、「写真機持つたら、フットボールを撮るのも重慶を撮るのも、そんなに気分は変らないですネ。カメラマンといふものは写真機持つたら写真のことばかりしか考へませんからネ」とも語っている。以後、1942年(昭和17年)には台湾で写真撮影に従事、その後、インドシナ、シンガポールなどに従軍した。1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)の間は従軍しておらず、1944年の6月に大平さく(後に伸子と改名)と結婚

山端は1945年(昭和20年)7月、福岡県福岡市にある陸軍の西部軍管区司令部に報道部員として徴用され、8月1日に博多の西部軍報道部に派遣された。博多への赴任は8月6日のことだった。8月9日、長崎への新型爆弾(原子爆弾)投下の一報を受け、軍の命令により同じ報道部員である作家の東潤、画家の山田栄二、下士官2人の計5人で長崎県長崎市に向う(彼に下された命は「対敵宣伝に役立つ、悲惨な状況を撮影する」ことだった)。8月10日午前3時ごろ、長崎市郊外の長崎本線道ノ尾駅に到着、その地点で列車は不通になっていたため、焦土と化した被災地を徒歩にて縦断し、大きな被害を免れた長崎市中心部の地区憲兵隊本部に赴いた。その後再び被災地にとって返し滞在約14時間で爆心地周辺など100コマを越える写真を撮影した。命令により10日のうちに博多へ戻り、フィルムの現像・焼き付けを行い、12日朝の常会で写真を披露した。当時従軍作家だった、同僚の火野葦平の勧めでネガフィルムを軍へ渡すことをやめ、自身で保管・隠匿した。終戦後は東京へ戻った。終戦後、写真の一部が『毎日新聞』(1945年8月21日)『読売報知新聞』(8月23日)『東京新聞』(8月25日)に掲載されたが、9月以降は連合軍総司令部 (GHQ) によるプレスコードにより、原爆に関するすべての報道が規制された。

1945年(昭和20年)12月、宮内省の依頼によりアメリカの写真誌『LIFE』に掲載される天皇一家の写真を父とともに撮影した(翌年2月4日号掲載)。1946年(昭和21年)12月、父とともに東京築地にて株式会社ジーチーサンを再興(翌年同社社長に就任)。1947年(昭和22年)には名取洋之助らの『週刊サンニュース』創刊に参加した。

1946年春、山端は広島・長崎を訪れ被爆地を撮影した。1952年(昭和27年)にGHQが原爆に関するプレスコードを解き、『LIFE』9月29日号(原爆特集号)に写真が掲載された(アメリカ初の被爆者写真の公開)。また彼の写真が掲載された『記録写真 原爆の長崎』が刊行された。

1955年(昭和30年) - ニューヨーク近代美術館で開催された写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン」に山端の原爆写真「おにぎりを持つ少年」が展示される。同展は翌年日本の会場でも開催されたが、山端はニューヨークで展示したものとは別の、黒焦げになった少年の死体写真を引き延ばしたものを展示したため、昭和天皇の参観に際し主催者が同作品をカーテンで覆い数日後に撤去した。この行動に対し伊藤逸平、渡辺勉、田中雅夫、名取洋之助らが連名で抗議を行った。ただ、山端の反応は淡々としたものだった。

1965年(昭和40年)の誕生日に病に倒れ、十二指腸癌の末期であると診断された。

1966年(昭和41年)4月18日、十二指腸乳頭部癌により死去。享年48歳。

1995年(平成7年) - 原爆記録写真の修復作業がはじまり、アメリカで展覧会「ナガサキ・ジャーニィー」が開催された。

Rupert Jenkins(ed),Nagasaki Journey: The Photographs of Yosuke Yamahata August 10, 1945(長崎ジャーニー・ 山端庸介写真集),Pomegranate,1995 ISBN 0876543603

    アメリカで山端の記録写真のネガを修復し展覧会を開催したジャーナリストの編集による写真集。

    朝日新聞「新聞と報道」取材班『新聞と戦争』(上)、朝日新聞出版(朝日文庫)、2011年。単行本初版2008年。

    NHK取材班 『NHKスペシャル:長崎 よみがえる原爆写真』日本放送出版協会、1995年 ISBN 4140802316

      上記写真集をもとに制作されたNHKスペシャルのプログラム(94年8月放送)を書籍にまとめたもの。

      『日本の写真家 第23巻:山端庸介』岩波書店、1998年 ISBN 4000083635

        原爆写真を含め、写真家として戦前から戦後に至るまでの仕事の全貌を紹介したもの。

        徳山喜雄 『原爆と写真』御茶の水書房、2005年 ISBN 4275003810

          山端のほか、松重美人、土門拳、東松照明などによる「原爆写真」の系譜。

          『長崎の美術1 写真/長崎』長崎県美術館、2005年

            2005年4月 - 5月に開催された、同館所蔵コレクションの展覧会の図録。山端以外に上野彦馬などの作品が収録されている。

            青山雅英 『ナガサキの原爆を撮った男;評伝・山端庸介』論創社、2014年 ISBN 9784846012960

              山端の孫(娘の長男)による初の本格的伝記。

              山端庸介、塩月正雄、山田栄二、塩月正雄、東潤、火野葦平 著、北島宗人 編『原爆の長崎 記録写真』第一出版社、1952年。doi:10.11501/3006462。 

              吉村文庫、山端庸介『被爆翌日 山端庸介 長崎原爆写真117枚全撮影位置解析』吉村文庫、2024年8月10日。 

              ^ 「おにぎりを持つ少年」に映っている男の子は山田伸一、当時3歳。伸一の母はヲミ(ふみこ)29歳(享年74歳で死去)で別の写真「おにぎりを持つ母と子」に2人で映っている。伸一は23才で結婚、鉄工所を立ち上げ、3人の子供、4人の孫に恵まれた。2022年(令和4年)9月16日、肝臓がんのため80歳の生涯を閉じた。

              ^ 『日本の写真家 23 山端庸介』岩波書店、1998年7月28日、ISBN 4-00-008363-5 p.60からの孫引き。オリジナルの出典は「海と空・カメラ従軍記 支那方面艦隊報道部写真班 山端庸介・石毛馨三両氏の対談」『アサヒカメラ』1942年1月号

              ^ かつてこの建物は、「長崎商品陳列所」と呼ばれていた。その後、「長崎商工奨励館」となり、その建物を憲兵隊が使用していた。現在この場所は、「日本銀行 長崎支店」となっている。

              ^ Google ブックス、 LIFE 1946年2月4日号、 75ページから79ページに掲載。「Sunday at Hirohito's Emperor poses for first informal pictures」Time Inc. (1946年). “LIFE 1946年2月4日号(Google ブックス)”. https://books.google.co.jp/. Time Inc.. 2023年7月22日閲覧。

              ^ Google ブックス、 LIFE 1952年9月29日号、 19ページから25ページに掲載。「WHEN ATOM BOMB STRUCK-UNCENSORED」Time Inc. (1952年). “LIFE 1952年9月29日号(Google ブックス)”. https://books.google.co.jp/. Time Inc.. 2023年7月22日閲覧。

              ^ “NBC 長崎放送 "放心した少年の瞳が見たこと" 長崎の被爆写真「おにぎりを持つ少年」死去”. 2022年9月22日閲覧。

              ^ 長野重一、飯沢耕太郎、木下直之 編『日本の写真家 23 山端庸介』岩波書店、1998年7月28日、68頁。ISBN 4-00-008363-5。 

              ^ 山端祥玉頌徳碑 広報かつやま704号、勝山市

              ^ 『日本の写真家 23 山端庸介』岩波書店、p.60.

              ^ 『日本の写真家 23 山端庸介』岩波書店、pp.59-60.

              ^ 鈴木健二『戦争と新聞』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2015年、194頁。ISBN 978-4-480-43295-7。 

              ^ 山端庸介 (1945年). “長崎地区憲兵隊本部”. 2024年8月17日閲覧。

              ^ 山端庸介、塩月正雄、山田栄二、塩月正雄、東潤、火野葦平 著、北島宗人 編『原爆の長崎 記録写真』第一出版社、1952年。doi:10.11501/3006462。 

              ^ 『日本の写真家 23 山端庸介』p.69.

              ^ 『日本の写真家 23 山端庸介』岩波書店、p.64.

              松重美人 - 8月6日被爆当日の広島の被害写真を撮影した報道カメラマン。

              岸田貢宜 - 8月7日被爆翌日の広島の被害写真を撮影した写真館主。

              石川光陽 - 東京大空襲の被害写真を撮影した警察官。

              山田栄二

              東 潤

              THE JAPAN PEACE MUSEUM (平和博物館を創る会) - 「gallery(フォトギャラリー)」のページで、山端の記録写真を多数公開。

                山端庸介撮影の足取り(航空写真上に撮影地点をプロット)

                山端庸介撮影の足取り 翌日の長崎(CONTENTS)

                (英語) 長崎ジャーニィー:Remembering Nagasaki - 山端の記録写真を公開(25枚)しているサイト。

                NHKスペシャル 長崎・映像の証言~よみがえる115枚のネガ~ - NHK名作選 (動画・静止画) NHKアーカイブス

                FAST

                ISNI

                VIAF

                WorldCat

                フランス

                BnF data

                ドイツ

                イスラエル

                アメリカ

                日本

                オランダ

                写真家識別目録

                オランダ美術史研究所データベース

                SNAC

                20世紀日本の写真家

                昭和時代の人物

                日本のフォトジャーナリスト

                太平洋戦争のジャーナリスト

                戦場カメラマン

                長崎原爆の被爆者

                青山学院中等部・高等部出身の人物

                シンガポール出身の人物

                1917年生

                1966年没

                FAST識別子が指定されている記事

                ISNI識別子が指定されている記事

                VIAF識別子が指定されている記事

                WorldCat Entities識別子が指定されている記事

                BNF識別子が指定されている記事

                BNFdata識別子が指定されている記事

                GND識別子が指定されている記事

                J9U識別子が指定されている記事

                LCCN識別子が指定されている記事

                NDL識別子が指定されている記事

                NTA識別子が指定されている記事

                PIC識別子が指定されている記事

                RKDartists識別子が指定されている記事

                SNAC-ID識別子が指定されている記事

                ISBNマジックリンクを使用しているページ

2024/11/17 18:42更新

yamahata yousuke


山端庸介と同じ誕生日8月6日生まれの人

二階堂 高嗣(にかいどう たかし)
【Kis-My-Ft2】
1990年8月6日生まれの有名人 東京出身

二階堂 高嗣(にかいどう たかし、1990年〈平成2年〉8月6日 - )は、日本のアイドル、歌手、俳優、タレント。男性アイドルグループ・Kis-My-Ft2およびその派生グループである舞祭組のメンバー…

秋田 豊(あきた ゆたか)
1970年8月6日生まれの有名人 愛知出身

秋田 豊(あきた ゆたか、1970年8月6日 - )は、愛知県名古屋市中村区出身の元プロサッカー選手、実業家(株式会社サンクトジャパン代表取締役)。現役時代のポジションはディフェンダー(DF)。元日本…

坪井 直樹(つぼい なおき)
1969年8月6日生まれの有名人 東京出身

坪井 直樹(つぼい なおき、1969年8月6日 - )は、テレビ朝日のエグゼクティブアナウンサー。 東京都世田谷区出身。世田谷区立東深沢小学校、世田谷区立東深沢中学校、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学…

榊原 一夫(さかきばら かずお)
1958年8月6日生まれの有名人 出身

榊原 一夫(さかきばら かずお、1958年8月6日 - )は、日本の検察官。大阪高等検察庁検事長。 大阪府出身。洛星高等学校を経て、1982年東京大学法学部卒業。1984年札幌地方検察庁検事任官。2…

結城 さとみ(ゆうき さとみ)
1967年8月6日生まれの有名人 茨城出身

結城 さとみ(ゆうき さとみ、1967年8月6日 - )は茨城県北相馬郡藤代町(現・取手市)出身で、NHKのシニアアナウンサー。 千葉県立東葛飾高等学校を経てお茶の水女子大学文教育学部を卒業後、19…


森下 恵理(もりした えり)
1967年8月6日生まれの有名人 北海道出身

森下 恵理(もりした えり、本名:登恵里、1967年8月6日 - )は日本のシンガーソングライター、タレント。血液型はA型。 北海道札幌市出身。4歳の時からピアノを、小学4年生から中学3年生の時まで…

丸岡 いずみ(まるおか いずみ)
1971年8月6日生まれの有名人 徳島出身

情報ライブ ミヤネ屋  丸岡いずみのまるごとラジオ 丸岡 いずみ(まるおか いずみ、1971年8月6日 - )は、日本のニュースキャスター、フリーアナウンサー。松実高等学園顧問。 元放送局アナウン…

平瀬 美里(ひらせ みさと)
2002年8月6日生まれの有名人 千葉出身

平瀬 美里(ひらせ みさと、2002年8月6日 - )は、日本の女優、歌手、タレントである。 千葉県出身。元スターダストプロモーション所属。以前はアイドルグループ B.O.L.T、ロッカジャポニカ、…

中田 花奈(なかだ かな)
【乃木坂46】
1994年8月6日生まれの有名人 埼玉出身

中田 花奈(なかだ かな、1994年〈平成6年〉8月6日 - )は、日本のタレント、プロ雀士、雀荘カフェ経営者であり、女性アイドルグループ・乃木坂46の元メンバーである。大阪府生まれ、埼玉県出身。乃木…

石田 佳蓮(いしだ かれん)
【アイドリング】
1996年8月6日生まれの有名人 東京出身

石田 佳蓮(いしだ かれん、1996年8月6日 - )は、日本のAV女優。東京都出身、福岡県生まれ。LIGHT所属。AV転身前は、女性タレント、モデル、デザインプロデューサー、女性アイドルグループ・ア…


麻生 夏子(あそう なつこ)
1990年8月6日生まれの有名人 東京出身

麻生 夏子(あそう なつこ、1990年8月6日 - )は、日本の女優、ラジオパーソナリティ、歌手。Wonderwave所属。以前は、スターダストプロモーションに所属していた。 東京都出身。血液型はA…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


山端庸介と近い名前の人

山端 零(やまはた れい)
1985年12月17日生まれの有名人 兵庫出身

山端 零(やまはた れい、1985年12月17日 - )は、日本の男性声優。ゆーりんプロ所属。 小さい頃から変身願望のようなものがあり、中学卒業、高校生くらいの時に役者、職業としての声優に魅力を感じ…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
山端庸介
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

爆笑問題 SKE48 アップアップガールズ(仮) ハロプロ TOKIO WaT Ya-Ya-yah AKB48 NMB48 乃木坂46 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「山端庸介」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました