弘田澄男の情報(ひろたすみお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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弘田澄男の情報まとめ
弘田 澄男(ひろた すみお)さんの誕生日は1949年5月13日です。高知出身の野球選手のようです。
卒業、引退、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。弘田澄男の現在の年齢は75歳のようです。
弘田澄男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 弘田 澄男(ひろた すみお、1949年5月13日 - )は、高知県宿毛市出身の元プロ野球選手(外野手)、監督、野球解説者、評論家。 2012年からは、四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスの指導者となり、2014年から2年間、監督を務めた。 高知高では1966年、2年生の時に春の選抜に中堅手として出場するが、2回戦で米子東高に敗退。また2年生の時に阪神タイガースから練習生の話が来たが高校の監督が断り、夏の予選南四国大会では準決勝で土佐高に敗れる。 1967年の春の選抜にも三塁手として連続出場、エース三本隆(日本石油)を擁し、順調に勝ち進み決勝に進出する。しかし津久見高の吉良修一投手に抑えられ延長12回の熱戦の末1-2で惜敗、準優勝に終わった。同年夏の予選南四国大会では準決勝で徳島工に敗れ、夏の甲子園には縁がなかった。高知高の同学年には荒勢永英(大相撲関脇、タレント)がいる。 高校卒業後は、社会人野球の四国銀行に入行する。補強選手として都市対抗野球に4年連続出場。 1971年の都市対抗野球では丸善石油の補強選手となり二番打者として活躍、決勝に進出する。決勝では三沢淳、佐々木恭介のいた新日本製鐵広畑に敗れたが、チームの準優勝に貢献した。 1971年のドラフト3位でロッテオリオンズに指名され、父と会社からはプロ入りを反対されたが、母と前妻からの説得もあり、入団する。身長163cmとNPBで当時一番小さな選手であったが、1年目は内外野兼任のサブプレーヤーに抜擢され、主に中堅手、二塁手として42試合に先発出場。 1973年に監督に就任した金田正一から中堅手のレギュラーに抜擢され、7月11日の日拓ホームフライヤーズ戦ではサイクル安打を達成する。初の規定打席(リーグ10位、打率.295)にも到達し、同年から5年連続でダイヤモンドグラブ賞を獲得。 1974年4月27日対太平洋クラブライオンズ戦の本塁付近で宮寺勝利捕手の出した左足で走者弘田が転倒して遺恨試合に発展した。8月28日の南海ホークス戦(県営宮城球場)にて、上田卓三からランニング満塁本塁打を記録。同年はリーグ優勝を果たし、中日ドラゴンズと対戦をした日本シリーズでは第1戦の4回表三沢淳からソロ本塁打、第2戦の8回表星野仙一から同点タイムリー、第4戦の6回裏の渋谷幸春からソロ本塁打、25打数10安打7打点を記録、最終第6戦では延長10回表に星野仙一から日本一を決める決勝適時二塁打を放ち、シリーズMVPを獲得した。 1975年には打率.301(リーグ5位)と初めて3割越えを果たし、リーグ最多の148安打を記録(当時は最多安打のタイトルはなかった)。同年から2年連続でベストナインに選出される。その後も長くオリオンズのリードオフマンとして活躍し、3度の半期優勝に貢献。闘志あふれるプレーと俊足、好守が持ち味で、入団から11年連続して2桁盗塁を記録している。 1980年には自己最高の41盗塁を記録している。阪急ブレーブスの山田久志と山口高志が得意ではあったが、1981年9月16日には西宮球場でその山田からレフト方向へのホームラン性の当たりを外野フェンスによじ登っていた山森雅文にキャッチをされてアウトになり、弘田は「ホームランを1本損したな」と言っていた。山口との対戦成績は通算打率.386、安打も最多の22本放っている。また「1978年から高畠康真さんが打撃コーチになって、1979年から監督が山内一弘さんで、その時からバッティングについて考えるようになりました。」とも言っていた。一方、1978年からのロッテの本拠地だった川崎球場(1973年から1977年まではロッテに本拠地球場がなく全国各地の球場を転戦するジプシー・ロッテと言われていた)については「外野に穴空いているしボコボコで、暗いし、ネズミが出て、最初はトイレから水流れないし、最悪な球場でした。(1978年時点の)他のパ・リーグの球場も酷くて、良かったのは後楽園球場と西宮球場ぐらいでした。」と述べていた。 1984年に藤倉一雅との交換トレードで阪神タイガースに移籍。弘田はトレードされた理由について「煙たがれていたのでしょうね。私、選手副会長だったので会長の落合博満にも言いたいことは言いました。」と述べている。移籍1年目は主に2番打者として打率.313(リーグ9位)を記録。 1985年のシーズン後半は北村照文、吉竹春樹に定位置を譲るが、21年ぶりのリーグ優勝に貢献。西武ライオンズと対戦をした日本シリーズでも2リーグ制になってから初めての日本一に貢献した(弘田自身、両リーグで日本一を経験したことになる)。同年のシリーズで初めて指名打者制が採用され、同年は全試合指名打者制で行われた。監督の吉田義男はセ・リーグ球団初の指名打者に弘田を起用、全6試合「2番・指名打者」として先発出場。22打数3安打0本塁打で打率.136と指名打者の成績としては物足りなかったものの、3安打の全ては後続のクリーンナップへチャンスをつなげる役割を果たしており、特に第1戦の8回表には真弓明信の二塁打を足掛かりに弘田が送りバントから打球が一、二塁間を抜けるヒットへと作戦を変えるバスターで出塁して、3番打者のランディ・バースが試合を決める3ランホームランを演出した。 1988年に一軍外野守備走塁コーチ兼任となったが、選手としての支配下登録は事実上形式的なもので試合出場はなく、背番号も専任コーチ並みの73に変更していた。同年限りで正式に引退。 弘田は「阪神に来て良かったのは声援の多さです。でも派閥が面倒臭い球団でした。引退の理由は目ですね。動体視力が落ちて、バッティングは何とかなると思いますが、外野守備になると厳しい。バッティングというものが分かってきたのでまだ続けたい気持ちはありましたが」と述べている。1985年から3年間阪神で同僚だった長崎慶一(阪神在籍時の登録名は長崎啓二)は「元々阪神の野球も大雑把だったけど、ロッテから来た弘田澄男さんや僕が配球ノートを付けていたことでみんなの意識が変わり始めたんです。」と述べている。 引退後は、1989年阪神一軍外野守備・走塁コーチ、1990年阪神一軍打撃コーチ、1991年阪神一軍外野守備・走塁コーチ、1992年~1997年に大洋・横浜二軍打撃兼外野守備・走塁コーチ、一軍外野守備コーチ、ヘッドコーチ、一軍野手チーフコーチ、1998年巨人二軍外野守備・走塁コーチ、1999年~2000年巨人一軍外野守備・走塁コーチ、2001年巨人一軍打撃コーチ、2004年~2005年に巨人一軍外野守備・走塁コーチ(2005年は打撃補佐兼任)を歴任した。三宅博は著書の中でセンスを持ったクセ盗みの名人と記している。横浜時代には監督大矢明彦の下でチームの躍進に貢献し、谷繁元信は「弘田さん(当時外野守備走塁コーチ)に外野守備の練習めっちゃさせられたでしょう。弘田さんのノックがまたうまかった。」、佐伯貴弘は「僕が1年目に二軍に行ったときに付きっきりでやってくれたのは竹之内さんです。95年限りで長池さん、竹之内さんが辞められた打撃指導してくれたのはヘッドになった弘田さん。僕にとってはこの3人が恩人です。」と述べている。高橋由伸が一目を置くほどの打撃職人でもあった。 2005年の巨人コーチ時代、タフィ・ローズの緩慢プレーに際しダッグアウトでもみ合いとなり、ローズに突き飛ばされる。ローズは、不甲斐ない投手陣に対し「あいつらが打たれるのも俺のせいなのか」と記者たちの面前で吠えまくり、オーナー命令により罰金を受けた。 その後、2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表外野守備・走塁コーチを務め世界一に貢献し、現場を離れてからは、J SPORTS野球解説者およびスポーツ報知評論家を務める。 2007年からは再び大矢の下、横浜で一軍ヘッド兼打撃コーチに就任したが、チーム成績が最下位と低迷した責任をとる形で2008年限りで解任、その後横浜のフロントで編成部門を担当することになった。 2012年、四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスの球団アドバイザー兼総合コーチに就任。 2014年からは監督を務める。在任中は2014年にチームの連続最下位を止めたが、2015年は再び前後期とも最下位となり、シーズン終了後の10月26日に退任が発表された。 2019年現在は母校の高知高校で土日に野球部のコーチをしている。 163センチの小柄な体型を目いっぱい使ったフルスイング(弘田本人いわく“イケイケ打法” )が魅力。また、入団から11年連続で2ケタ盗塁を記録した俊足と堅実な外野守備も武器であった。ロッテ時代は好球必打のリードオフマンとして活躍。阪神時代は主に中軸につなぐ2番打者として右打ち・犠打を器用にこなす活躍を見せた。コーチ時代もバットコントロール健在で、ノックの名人であった。 小柄な体型ながら、持ち前の負けん気の強さと独自の工夫で飛躍を果たしている。 そろばんを得意としている。また、手先が器用で札束を数えるのが名人芸であったという。 各年度の太字はリーグ最高 最多安打:1回(1975年)※当時連盟表彰なし ベストナイン:2回 (1975年、1976年) ダイヤモンドグラブ賞:5回 (1973年 - 1977年) 日本シリーズMVP:1回 (1974年) 初出場:1972年4月8日、対近鉄バファローズ1回戦(東京スタジアム)、3回表に山崎裕之に代わり二塁手として出場 初安打:1972年5月17日、対近鉄バファローズ5回戦(日生球場)、9回表に西田孝之の代打として出場、鈴木啓示から 初先発出場:1972年7月4日、対南海ホークス13回戦(大阪スタヂアム)、1番・中堅手として先発出場 初打点:1972年7月8日、対近鉄バファローズ11回戦(東京スタジアム)、3回裏に清俊彦から適時打 初本塁打:1972年7月20日、対阪急ブレーブス14回戦(東京スタジアム)、2回裏に石井茂雄から3ラン 1000試合出場:1980年9月30日、対日本ハムファイターズ後期13回戦(川崎球場)、2番・中堅手として先発出場 ※史上220人目 1000安打:1980年10月4日、対西武ライオンズ後期11回戦(川崎球場)、3回裏に森繁和から中前適時打 ※史上119人目 1500試合出場:1985年8月30日、対横浜大洋ホエールズ19回戦(阪神甲子園球場)、4回裏に嶋田宗彦の代打として出場、堀井幹夫から適時打 ※史上82人目 1500安打:1986年9月27日、対ヤクルトスワローズ25回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に黒田真二から右前安打 ※史上52人目 サイクルヒット:1973年7月11日、対日拓ホームフライヤーズ前期12回戦(明治神宮野球場) ※史上26人目 オールスターゲーム出場:3回 (1974年、1975年、1977年) 35 (1972年) 3 (1973年 - 1983年) 1 (1984年 - 1987年) 73 (1988年、1998年 - 2001年、2004年 - 2005年、2012年 - 2015年) 84 (1989年 - 1991年) 71 (1992年 - 1997年) 72 (2007年 - 2008年) 88 (2006年WBC) ^ 弘田は「金田さんからキャンプが終わる10日前に「センターできるか」って言われて、はいと言いました。私が気にいられた理由は「食べっぷりが良かったからって」と言ってましたけど本当かな。その後も金田さんのえこひいきは続き、背番号3が空いてるからつけろと言われて、背番号3は長嶋茂雄さんが着けていた番号で皆がつけたい番号でした」と述べている。なお阪神へのトレードは背番号3の選手同士の交換だったが、阪神では3ではなく1を着用。 ^ 弘田はアンダースローの投手は得意と述べている。 ^ 【完全保存版】ロッテ70年史 1950-2019 ~記憶に残るオリオンズ&マリーンズ全史~ (B.B.MOOK1450) 弘田澄男「カネやんロッテの斬り込み隊長」、40-41頁、ベースボール・マガジン社、2019/5/29 ^ 【ダンカンが訪ねる昭和の侍】弘田澄男さん「いまだに不思議」ホームイン寸前に捕手が足を出し「7、8メートル飛んだ」 (1/3ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ) ^ “直近は小久保、イチローも達成?激レアなランニング満塁ホームラン。”. Number Web (2017年9月28日). 2020年7月26日閲覧。 ^ ベースボールマガジン 2023年4月号、1975-1982 山口高志と阪急ブレーブス、幻の剛球伝説、74-75頁 ^ 田尾5敬遠で首位打者獲得の舞台裏――「大洋ホエールズOB」としての長崎慶一さんに会いに行く(後編)文春野球コラム ペナントレース2019 - 文春オンライン、2019年11月10日 ^ 三宅博著、虎のスコアラーが教える「プロ」の野球観戦術、2013年、祥伝社、P26 ^ ベースボールマガジン 2022年6月号 (横浜ベイスターズ盛衰記)SPECIAL TALK谷繁元信×佐伯貴弘「ベイスターズは一日にしてならず」、22頁 ^ 第1回WBC侍ジャパン外野守備走塁コーチ 弘田 澄男氏が語る『欧州代表』との一戦 - 野球日本代表、侍オフィシャルサイト、2015年3月4日 ^ “高知FD 球団アドバイザー 兼 総合コーチ就任”. 四国アイランドリーグplus (2012年1月31日). 2012年1月31日閲覧。 ^ “【チーム】新監督就任のお知らせ”. 高知ファイティングドッグス (2013年11月25日). 2013年11月25日閲覧。 ^ FD総監督に江本氏が就任 弘田氏は今季限りで退任へ - 高知新聞2015年10月27日 ^ “有藤道世、弘田澄男&横田真之「オリオンズの星となった高知の“いごっそう”たち」/プロ野球20世紀の男たち | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年4月8日閲覧。 ^ “1985 阪神日本一 写真特集:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2021年4月8日閲覧。 ^ 【阪神優勝】1985年開幕投手に選ばれた親さんを襲った悲劇とは?【広島カープ達川光男さん】【慶彦ごめんなさいシリーズ】【高橋慶彦】【池田親興】 - YouTube 高知県出身の人物一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 阪神タイガースの選手一覧 個人年度別成績 弘田澄男 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 藤城和明 2005 - 2007 定岡智秋 2008 - 2013 弘田澄男 2014 - 2015 駒田徳広 2016 - 2019 吉田豊彦 2020 - 2023 定岡智秋 2024 - 表 話 編 歴 89 王貞治 86 鹿取義隆(投手) 84 武田一浩(投手) 87 大島康徳(打撃) 85 辻発彦(内野守備走塁) 88 弘田澄男(外野守備走塁) 11 清水直行 12 藤田宗一 15 久保田智之 18 松坂大輔 19 上原浩治 20 薮田安彦 21 和田毅 24 藤川球児 31 渡辺俊介 40 大塚晶則 41 小林宏之 47 杉内俊哉 61 石井弘寿(途中離脱) 61 馬原孝浩(追加招集) 22 里崎智也 27 谷繁元信 59 相川亮二 1 岩村明憲 2 小笠原道大 3 松中信彦 7 西岡剛 8 今江敏晃 10 宮本慎也 25 新井貴浩 52 川﨑宗則 5 和田一浩 6 多村仁 9 金城龍彦 17 福留孝介 23 青木宣親 51 イチロー 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 南村不可止 1952 別所毅彦 1953 川上哲治 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 近藤昭仁 1961 宮本敏雄 1962 土橋正幸, 種茂雅之 1963 長嶋茂雄 1964 J.スタンカ 1965 長嶋茂雄 1966 柴田勲 1967 森昌彦 1968 高田繁 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 弘田澄男 1975 山口高志 1976 福本豊 1977 山田久志 1978 大杉勝男 1979 高橋慶彦 1980 J.ライトル 1981 西本聖 1982 東尾修 1983 大田卓司 1984 長嶋清幸 1985 R.バース 1986 工藤公康 1987 工藤公康 1988 石毛宏典 1989 駒田徳広 1990 O.デストラーデ 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 川崎憲次郎 1994 槙原寛己 1995 T.オマリー 1996 T.ニール 1997 古田敦也 1998 鈴木尚典 1999 秋山幸二 2000 松井秀喜 2001 古田敦也 2002 二岡智宏 2003 杉内俊哉 2004 石井貴 2005 今江敏晃 2006 稲葉篤紀 2007 中村紀洋 2008 岸孝之 2009 阿部慎之助 2010 今江敏晃 2011 小久保裕紀 2012 内海哲也 2013 美馬学 2014 内川聖一 2015 李大浩 2016 B.レアード 2017 D.サファテ 2018 甲斐拓也 2019 Y.グラシアル 2020 栗原陵矢 2021 中村悠平 2022 杉本裕太郎 2023 近本光司 2024 桑原将志 表 話 編 歴 投 鈴木啓示 捕 野村克也 一 加藤秀司 二 B.マルカーノ 三 有藤道世 遊 大橋穣 外 佐々木恭介 / 白仁天 / 弘田澄男 指 長池徳二 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 野村克也 一 加藤秀司 二 吉岡悟 三 藤原満 遊 大橋穣 外 弘田澄男 / 門田博光 / 福本豊 指 大田卓司 表 話 編 歴 1972 池辺巌, 広瀬叔功, 福本豊 1973 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1974 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1975 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1976 B.ウイリアムス, 弘田澄男, 福本豊 1977 大熊忠義, 弘田澄男, 福本豊 1978 B.ウイリアムス, 福本豊, 簑田浩二 1979 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二 1980 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二 1981 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1982 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1983 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1984 島田誠, 高沢秀昭, 簑田浩二 1985 金森永時, 島田誠, 簑田浩二 1986 西岡良洋, 山本和範, 山森雅文 1987 秋山幸二, 新井宏昌, 島田誠, 高沢秀昭 1988 秋山幸二, 高沢秀昭, 平野謙 1989 秋山幸二, 平野謙, 本西厚博 1990 秋山幸二, 西村徳文, 平野謙 1991 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1992 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1993 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1994 秋山幸二, イチロー, 佐々木誠 1995 秋山幸二, イチロー, 田口壮 1996 秋山幸二, イチロー, 田口壮 1997 イチロー, 井出竜也, 田口壮 1998 イチロー, 大友進, 大村直之 1999 秋山幸二, イチロー, 大友進 2000 イチロー, 柴原洋, 田口壮 2001 柴原洋, 田口壮, 谷佳知 2002 井出竜也, 小関竜也, 谷佳知 2003 大村直之, 柴原洋, 谷佳知, 村松有人 2004 谷佳知, 村松有人, SHINJO 2005 大村直之, サブロー, SHINJO 2006 稲葉篤紀, 森本稀哲, SHINJO 2007 稲葉篤紀, サブロー, 森本稀哲 2008 稲葉篤紀, 坂口智隆, 森本稀哲 2009 糸井嘉男, 稲葉篤紀, 坂口智隆 2010 糸井嘉男, 坂口智隆, 栗山巧 2011 岡田幸文, 糸井嘉男, 坂口智隆 2012 陽岱鋼, 糸井嘉男, 岡田幸文 2013 陽岱鋼, 糸井嘉男, 秋山翔吾 2014 陽岱鋼, 糸井嘉男, 柳田悠岐 2015 柳田悠岐, 秋山翔吾, 清田育宏 2016 秋山翔吾, 陽岱鋼, 糸井嘉男 2017 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝 2018 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝 2019 秋山翔吾, 荻野貴司, 西川遥輝 2020 柳田悠岐, 大田泰示, 西川遥輝 2021 荻野貴司, 辰己涼介, 柳田悠岐 2022 髙部瑛斗, 辰己涼介, 福田周平 2023 辰己涼介, 万波中正, 近藤健介 2024 辰己涼介, 周東佑京, 万波中正 表 話 編 歴 1位:井上圭一 2位:宮脇敏 3位:弘田澄男 4位:倉持明 5位:近藤重雄 6位:松田光保 7位:橋爪昭二(入団拒否) 8位:成重春生 9位:上田容三 10位:佐々木信行 11位:薗部潔史 12位:奥田直也 13位:滝本康正 14位:神農清治 15位:鈴木弘 ISNI VIAF 日本 日本の野球選手 高知高等学校出身の野球選手 四国銀行硬式野球部の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 横浜DeNAベイスターズ関連人物 読売ジャイアンツ関連人物 高知ファイティングドッグス 野球解説者 高知県出身のスポーツ選手 1949年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/17 00:54更新
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