戸梶正夫の情報(とかじまさお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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戸梶正夫の情報まとめ
戸梶 正夫(とかじ まさお)さんの誕生日は1939年4月17日です。兵庫出身の野球選手のようです。
引退に関する情報もありますね。戸梶正夫の現在の年齢は85歳のようです。
戸梶正夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 戸梶 正夫(とかじ まさお、1939年4月17日 - )は兵庫県神戸市長田区出身の元プロ野球選手(捕手)。 育英高校では3年次の1957年に捕手としてエース・永井進(阪急)とバッテリーを組み、春夏連続で甲子園出場を果たす。春の選抜は初戦となった倉敷工との2回戦で完封負けを喫したが、巨人・阪急が「兵庫県ナンバーワンの大型捕手」として注目。夏の選手権も春と同じく2回戦から出場したが、広島商に延長10回サヨナラ負け。夏の大会終了後には新三菱重工に入社が内定していたが、河西俊雄スカウトの熱心の勧誘もあって1958年に大阪タイガースへ入団。同年7月20日の国鉄戦(甲子園)で初出場を果たし、先発マスクを被って石川良照の完投勝利をアシスト。9月7日の巨人戦(甲子園)では初安打を含む3打数3安打を挙げたほか、安原達佳から初本塁打・初打点も記録。打撃には難があったものの、強肩を買われて1960年から一軍に定着。正捕手・山本哲也の壁を破れなかったが、1962年には自己最多の65試合に先発マスクを被り、チームのリーグ優勝に貢献。東映との日本シリーズでは全7戦中3戦に出場。打撃成績では2打数無安打に終わったが、10月18日の第5戦(後楽園)では滝田政治の代走で出場して1得点を記録。同年オフには他球団への移籍も噂されたが、藤本定義監督が放出を許さずに残留。1963年は福塚勝哉・山本に次ぐチーム3位の60試合に出場し、相性の良かったジーン・バッキーとのバッテリーを中心に起用された。この年の阪神は戸梶ーバッキーのほか、福塚ー村山実や山本ー小山正明など相性の良さで捕手を起用し、今でいう「プラトーン・システム」でやりくりした。1964年には自己最多の5本塁打を放って2年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、南海との日本シリーズでは出場機会が無かった。公式戦で放った5本中4本は巨人戦から放ったものであり、その4本中2本は藤田元司から記録。8月2日に甲子園で行われたダブルヘッダーでは2試合連続で本塁打を記録しており、第1試合では藤田・種部儀康から2本放つなどして2試合で3本放った。1966年に東京オリオンズへ移籍するが、あまり活躍の場はなく1967年限りで引退。 引退後は三宮で食堂を経営。 31 (1958年 - 1965年) 28 (1966年 - 1967年) 兵庫県出身の人物一覧 阪神タイガースの選手一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 日本の野球選手 育英高等学校出身の野球選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 神戸市出身の人物 1939年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目
2024/11/25 04:14更新
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tokaji masao
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