新海幸藏の情報(しんかいこうぞう) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
新海 幸藏さんについて調べます
■名前・氏名 |
新海幸藏と関係のある人
宮城山福松: しかし、持病の瘭疽は完治しないまま、1928年10月場所において9勝2敗で2度目の優勝を果たしたのを最後に賜盃を抱くことが出来ず、1931年1月場所は初日から藤ノ里栄藏・新海幸藏・玉碇佐太郎・山錦善治郎と4日連続で金星を献上する事態となり、さらに3度目となる皆勤負け越し(5勝6敗)を記録、この場所が最終出場となった。 |
新海幸藏の情報まとめ
新海 幸藏(しんかい こうぞう)さんの誕生日は1904年2月29日です。秋田出身の相撲のようです。
現在、卒業、事件、脱退、引退、結婚に関する情報もありますね。1976年に亡くなられているようです。
新海幸藏のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)新海 幸藏(しんかい こうぞう、1904年2月29日 - 1976年2月17日)は、秋田県河辺郡新屋町 (現秋田市新屋)出身で出羽海部屋(入門時は入間川部屋)に所属した大相撲力士。本名は中野 幸藏(なかの こうぞう)。新海という四股名は「あらうみ」と読まれていたが、何故かいつの間にか「しんかい」と読まれるようになり、現在ではこちらのほうが通りがよい。最高位は東関脇。 日新小学校高等科を卒業後に、地元の高堂茶店に勤めた。最初、茶店に母に連れられて訪れた時に、体格を見た主人から幸蔵本人ではなく父と勘違いされた。1920年の暮れに単身で上京して、入間川部屋に入門した。1921年1月場所に初土俵を踏むが、その後に出羽海部屋へ移籍した。1925年5月場所に十両昇進、1927年5月場所で新入幕を果たした。入幕後、しばらくは幕内上位に行っては負け越して降格することを繰り返していたが、宮城山福松から金星を3個獲得する活躍を見せた。 1932年1月6日に勃発した春秋園事件によって脱退し、関西角力協会主催のトーナメント戦で優勝した。1933年1月場所に於いて幕内格別席で帰参すると、1934年5月場所で7勝4敗と勝ち越して関脇に昇進し、1935年1月場所も6勝5敗と勝ち越した。 次の5月場所では2勝9敗と大きく負け越して以後三役には戻れなかったが、1936年1月場所初日に双葉山定次を破った。ところが、翌1937年の九州巡業中に、酒に酔って綾櫻由太郎をビール瓶で殴ってしまい、5月場所を最後として強制的に引退させられた。不祥事を起こした矢先の引退相撲でも祝儀の分配を巡って師匠の出羽海と揉めては師匠をも殴ったと言われている。 引退後は年寄・荒磯を襲名し、検査役を務めていた。 1951年の廃業後は不動産業・米菓製造業など様々な事業に手を出したが、全て失敗した。1975年からは生活保護の対象になってしまい、神奈川県川崎市のアパートに移り住んで一人暮らしをしていた。廃業した理由として、当時訪ねてきたケースワーカーに対し、「(相撲の)年寄株を巡ってこじれ、相撲から足を洗った」「若い頃に結婚したが、『子どもが出来なければ10年で別れる』という契約に従って別れて、それからは一人だった」「三鷹で不動産業をしていたが、不況で思うようにいかなり、川崎に引っ越してきた。国の世話にはなりたくないが、生きていけないんでねぇ…」などと話していたそうである。 1976年2月17日、自身が吸っていた煙草の不始末からアパートを全焼させる火災を起こし、新海は自分の部屋で焼死した。71歳没。 しつこい足癖で鳴らした力士で、「タコ足の新海」とも称された。その代表的なスタイルは顎を引いて相手の前廻しを取って食い下がり、足を掛けたら絶対に離さず、そのままもたれ込むものだった。相手が低く腰を割った体勢でも構わず足を掛けた。だが、その取り口は相手力士に怪我を負わせることも多く、前述のビール瓶事件に象徴されるように、気性が荒く酒が入ると手がつけられなかったため、力士仲間からは嫌われていた。気性の荒さを物語る具体的なエピソードは他にも存在し、新国劇の沢田正二郎が中耳炎で亡くなった際には、「新海に殴られたせいだ」という噂が立った。 寺山修司に新海の晩年を扱った短編小説がある。 粗暴さの一方で親孝行で知られ、巡業先から親に衣類を贈ったり、戦時中でありながら親に約40日の日本一周旅行をさせたりした。 通算成績:206勝191敗1分 勝率.519 幕内成績:145勝164敗1分 勝率.469 現役在位:42場所 ※春秋園事件で脱退した1932年1月場所を含まず。 幕内在位:28場所 ※春秋園事件で脱退した1932年1月場所を含まず。 三役在位:2場所(関脇2場所) 金星:3個(宮城山3個) 新海 幸藏(しんかい こうぞう)1921年1月場所 - 1937年5月場所 荒磯 幸藏(あらいそ こうぞう)1937年5月 - 1951年9月(廃業) ^ 寶川政治、真鶴秀五郎、銚子灘傳右エ門、玉錦三右衛門、そして自身を表す総称であり、いずれも気性が荒く喧嘩っ早い力士であった。 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p25 ^ この場所、7日目から双葉山の69連勝は始まっているが、6日目の玉錦三右エ門戦の前に土を付けたのが新海だった。 ^ 『朝日新聞』1976年2月17日付東京本社版夕刊8頁 ^ 水野尚文・京須利敏編著『平成22年版大相撲力士名鑑』共同通信社、2009年、74頁 関脇一覧 秋田県出身の大相撲力士 入間川部屋 出羽海部屋 不祥事により引退した大相撲力士 1904年生 1976年没 秋田県出身の人物 火災で死亡した人物
2024/11/22 16:03更新
|
shinkai kouzou
新海幸藏と同じ誕生日2月29日生まれ、同じ秋田出身の人
TOPニュース
新海幸藏と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「新海幸藏」を素材として二次利用しています。