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東国原英夫の情報 (ひがしこくばるひでお)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

東国原英夫の情報(ひがしこくばるひでお) タレント 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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東国原英夫さんについて調べます

■名前・氏名
東国原英夫
(読み:ひがしこくばる ひでお)
■職業
タレント
■東国原英夫の誕生日・生年月日
不明
射手座(いて座)
■出身地・都道府県
宮崎出身

東国原英夫と同じ出身地宮崎県生まれの有名人・芸能人


東国原英夫の情報まとめ

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東国原英夫(ひがしこくばる ひでお)さんの誕生日は不明です。宮崎出身のタレントのようです。

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経歴、発言・主張などについてまとめました。趣味、卒業、テレビ、現在、引退、解散、事件、ドラマ、結婚、退社、脱退に関する情報もありますね。

東国原英夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

東国原 英夫(ひがしこくばる ひでお、1957年〈昭和32年〉9月16日 - )は、日本の政治評論家、タレント、作家、俳人、政治家。宮崎県知事(公選第17代)、衆議院議員(1期)を歴任した。

ビートたけしに師事し、たけし軍団の一員としてタレントデビュー。『そのまんま東』(そのまんまひがし)の芸名で活動していた。

政界入り後は本名「東国原英夫」名義で活動しており、各メディアにも本名で出演している。

芸能活動における所属事務所は、そのまんま東時代はオフィス北野だったが、政界入り前の2006年12月に退所し、その後フリーを経て2011年4月よりシンクバンクに所属している。

ジョギングが趣味

経歴

生い立ち

宮崎県都城市出身。身長は170cm。血液型はB型。都城市立東小学校、都城市立妻ケ丘中学校、宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校、専修大学経済学部経済学科卒業、早稲田大学第二文学部卒業、早稲田大学政治経済学部中退。

タレント“そのまんま東”として

1980年、フジテレビ『笑ってる場合ですよ!』のお笑いオーディションコーナー「お笑い君こそスターだ!」に「オスカル・メスカル」という漫才コンビで出場した際に、同番組に出演していたビートたけしの楽屋を訪ねて弟子入りを願い出て(初回出演が水曜日だったため、火曜レギュラーだったたけしと会うには4日勝ち抜かなければならなかった)、1981年1月に付き人となる。現在までに数多くいるたけしの弟子の第1号である。デビュー当初の芸名は東英夫だった。

その後、相方の芸能界引退に伴いコンビは解散。丸山昭範と3か月だけという約束で、「ツーツーレロレロ」というコンビを結成。3か月後、大森うたえもんとコンビを組み「ツーツーレロレロ」を続ける。1983年にたけし軍団の一員となり、「ツーツーレロレロ」のコンビを解消。

上岡龍太郎に誘われ、石田純一らとマラソンに打ち込んだ時期があり、それが現在にも生かされている。

作家活動

不祥事で芸能活動を自粛していた1987年に書いた推理小説『ビートたけし殺人事件』がベストセラーになり、1988年にTBSでドラマ化され、東国原自身もたけし軍団の面々と共に出演。後に結婚することになるかとうかず子もヒロイン役で出演していた。

不祥事・前科

1997年に催されたオフィス北野の新年会において、当時たけし軍団に在籍していた男性の側頭部を蹴って頭部打撲等のけがを負わせたとして、1999年11月22日に傷害容疑で書類送検された。東国原は暴行の事実を認め、略式起訴で罰金を払い、芸能活動を再度自粛した。東国原の公式ウェブサイトでの説明によると、先輩として規律を正す意味(鉄拳制裁)で蹴ったとし、自著の中で件の後輩が事務所の経費を無断で使い込んでいた疑惑に対して「先輩として」怒ってしまったと明かし、暴行傷害行為に至った事については全面的に認め反省を表している。ただし、男性はブログで暴行事件について反論し、後に東国原に500万円の慰謝料などを求める訴訟を起こしている。以降、たけし軍団では、鉄拳制裁が禁止となった。

1998年10月13日、東京都内のイメージクラブ店が未成年の従業員を使っていたことで、児童福祉法違反並びに東京都青少年健全育成条例違反の容疑で経営者が逮捕された。その当時16歳であった従業員の少女が、性的なサービスをした客として東国原の名前を供述したことで、東国原も同容疑で警察から任意の事情聴取を1回受けたが、「18歳未満とは知らなかった」と釈明した。当時の妻のかとうもマスコミを通じ、謝罪の文書を発表した。以後芸能活動を5か月間自粛した。東国原自身は法的責任を問われなかったが、倫理的な性質の問題からマスコミでは「淫行事件」として大々的に報道され、社会の激しい批判を浴びることとなった。その後も一部で「東国原は少女への淫行で逮捕された」と誤解されることがあるが、前述の通り、任意の事情聴取のみであるため逮捕と訴追の事実はなく実際は犯罪歴ではない。

政治家“東国原英夫”に転身

2006年に本人を代表とする政治研究会「そのまんま会」を設立、12月4日に故郷宮崎県の県選挙管理委員会に政治団体としての届け出を行い、地元での事務所開きにおいて、支援者を前に自らの出馬にかける思いを語った際は過去の不祥事についても自ら切り出し語った。その数日後に、所属していたオフィス北野を退社。官製談合事件で当時の現職知事安藤忠恕が逮捕されたことに伴う第17回宮崎県知事選挙(2007年1月21日投開票)へ無所属で立候補。当初は過去の問題行動や言動などのイメージもあって出馬を疑問視する声や東国原を泡沫候補とする声もあった。

東国原は選挙活動において、タレント候補にありがちなタレントの選挙応援を一切受けないこと、遊説や立会演説では宮崎弁を使いさらに早稲田大学出身をアピールし、愚直なまでに宮崎に関する政策を訴えるなど「脱タレント」を印象付ける選挙活動を展開した。得意のマラソンも選挙活動最終日まで封印。最後の最後でマラソンをしながら選挙活動を行った。宮崎再建・宮崎自立のための具体策を打ち出した『そのまんまマニフェスト』や無所属であることの「しがらみのなさ」を強調しての県政批判などは政治に無関心な無党派層の関心を呼び起こしただけではなく、現状に不満を持つ政党支持層へも支持を拡大していくこととなった。マニフェストの作成には渡瀬裕哉が参加した。

東国原をサポートする政務秘書に元たけし軍団の吉川敏夫が就任する。早川伸吾と共に、多忙な東国原の生活面を助けている。

こうして、「しがらみのなさ」や「宮崎を変える」という期待感が県民に好印象を与えたことに加え、保守陣営の分裂という追い風も幸いして、投票のうち約45%を得て当選した。各マスコミによる出口調査では無党派層だけでなく各政党支持層からも一定の票を獲得したことが窺える。小学校の卒業文集に「夢は政治家とお笑い芸人」と書いていたが、その夢を2つとも叶えることとなった。

宮崎県知事として

早稲田大学受験にあたって、政治家への転身の希望までは告げぬまま、ビートたけしに相談を持ちかけたところ、「どんな政権になっても生き延びるのが芸人であり、社会の問題をただすのは芸人ではない。政治家として活動するのであれば、たけし軍団を脱退し、師弟関係を一度解消すること。」と、政治家への転身の希望を見透かしていたビートたけしから条件付きで承諾を得た。このため、選挙活動は芸名の「そのまんま東」で行なったが、県知事に就任してからは本名で活動している。一方、返上された「そのまんま東」の芸名は、2007年3月にたけしの付き人であるゾマホン・ルフィンが「2代目」として襲名した。

作業服で初登庁したり、「椅子をパイプ椅子に替える」「こんな立派な机もいらない」「退職金は出来高払い。議会がいらないと言えばいらない」などの言動が地元では好意的に受け止められている。知事専用の公用車について、当初は「廃止する」と述べていたが、燃費や他の手段を使った場合のコストなどの問題を考え、車種をトヨタの「センチュリー」から、ハイブリッドカーである「トヨタ・エスティマ」へ乗り換え、これにより年60万円の公費削減となった。似たような理由で知事公舎にも住んでいない(置き換えられたセンチュリーは競売に掛けられ、255万円で落札(譲渡)された。また副知事車両、出納長車両も同様に競売に掛けられ落札された)。

報道番組やワイドショーに連日報道されたり多くの特集が組まれると、積極的に出演して宮崎県の宣伝を行い、自らを「宮崎県のセールスマン」と称した。バラエティー番組への出演も多く「テレビに出演しすぎだ」「知事になってもタレントのつもりでいる」などの批判が一部からも挙がるも、本人は宮崎県の全国に対する効果的なPR活動として重点を置いた。就任後のテレビ番組出演はすべて宮崎県のPR目的であるため、スケジュール、時間的にどうしても不可能な場合を除き、極力出演依頼を断らないようにしていた。出演料もタレント時代では考えられないような低い条件でも出演を断ることはほぼなかった。仕事によっては、ほぼノーギャラで交通費など雑費のオファー側負担だけでもテレビ番組やイベントに出演することもあった。

2007年1月23日の知事就任直前に清武町で、直後に日向市、新富町でそれぞれ鳥インフルエンザが発生した。この状況に素早く対処すべく、1月29日に中央省庁を訪れて国からの財政支援などを要請した。県内の民放局で流す、県内産の鶏肉や鶏卵の安全性を訴えるCMに自ら出演したり、宮崎県の巨人軍キャンプとソフトバンクの練習場を訪れて宮崎県産地鶏などを贈呈するなど、風評被害対策のために鶏肉の安全性と県内特産品を売り込んだ。ソフトバンクのキャンプで監督の王貞治と会って、「王監督の手は神のようだ」と言っていた。

2007年2月15日に「オール野党」とも評される県議会で所信表明演説を行なった。その様子は宮崎放送(MRT、TBS系列)で午前9時55分から生中継(所信表明演説の中継は県議会史上初)され、普段は埋まることのない60の傍聴席を求めて93人の市民が訪れるなど、異例づくめの所信表明演説となった。その際に発した「宮崎をどげんかせんと(どうにかしないと)いかん」というフレーズは幾度となくマスコミに取り上げられ、注目を集めた。この言葉は流行語大賞にも選ばれた。実際は「どげんかせんないかん」が正しく、本人もそう発声している。地元都城では、「どげんかせんといかん」と発声することはまずない。「どげんか」と発声するのは都城など旧薩摩藩領だった地域で話される薩隅方言系の諸県弁の特徴であり、宮崎市などで話される豊日方言系の宮崎弁では「どんげか」と発声する。こういったことが間違った形で広まり、流行語大賞も間違った形でノミネート・受賞に至った。

2003年に4億9600万円の公費を費やして建設された知事公舎を批判し、選挙前から住んでいるマンションに知事に当選後も住んでいたが、当選後は自宅マンションや近隣住民へのいたずらが多く迷惑を掛けているとの理由で勤務先の県庁に歩いて行ける近場のマンションをローンで購入し、2007年3月29日から住んでいる。

知事選で争った、自民党推薦の持永哲志を副知事に迎えるという人事構想を抱く。自民党会派が勢力を占める県議会とのパイプ役や中央省庁とのパイプ役を模索していると報道されるが、「脱・官僚」を期待して東国原に投票した県民の反発を招き、起用を断念した。副知事に総務省出身で宮崎県に出向中の河野俊嗣(現・宮崎県知事)を起用した。

2007年4月16日の定例記者会見において、「特に発表することがない場合は(会見を)カットしてもよいのではないか」「毎日取材に答えているので、改めて話す内容はない。それでもやる意義はあるのか」などとして、各社の記者と20分間にわたり問答を繰り返した。

後に出演した『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)4月29日放送分でも「特に発表することがない場合でも、わざわざ12時まで会見時間を設けるのは効率が悪く、浮いた時間を公務に回すべき」(通常の定例記者会見が11:00〜12:00の1時間で行われるため)と発言したが、かつての長野県知事である田中康夫のように記者クラブを撤廃させようというものではなく、あくまでも県政の効率化のための提案であることを述べている。その際は一部保守系メディアから非難を受けた。

2007年7月に宮崎日日新聞社が行なった世論調査は、支持95.2%だった。

2008年1月20日に、「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)を母体とする「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合」(通称:せんたく)の設立に発起人として参加。

道路特定財源問題では「暫定税率維持」の方針を明確に打ち出し、「暫定税率撤廃」を主張する政党(主に民主党)や議員に対して、連日テレビで批判を繰り返した。この為、東国原は新「道路族」と呼ばれることもある。

2008年6月、宮崎県議会の一般質問に於いて、現在は予定額250万円以上の全ての工事を一般競争入札であるのに対して、「今の方法がベストではない。検証結果を踏まえ、その都度見直す」と指名競争入札の復活も検討する方針を示した。

2007年1月から2008年9月30日までの間に政治資金パーティーを11回開き、約6000万円を集金した。東国原の前任者で、競売入札妨害容疑によって逮捕された安藤忠恕の政治団体(明日の宮崎を創る会)に寄付していた県建設業政治連盟(宮崎県内の建設業界による政治団体)も、東国原のパーティ券を購入していた。

衆院選出馬騒動

2008年10月、地元宮崎県選出の代議士・中山成彬(宮崎1区)が次期衆議院議員総選挙に出馬せず、引退を表明した際に宮崎県政界の中に東国原を後継候補者として擁立する動きがあった。しかし、東国原は10月6日、「現時点で(衆議院の)総選挙に出る意思はない。知事の任期を全うしたい」と衆議院総選挙出馬をしないことを表明した。しかし、程なく変節し、11月20日夜に延岡市内で行われた講演で、「なるからには閣僚か、トップです。初当選、初入閣」と述べた。

2009年6月23日、当時自由民主党選挙対策委員長であった古賀誠と会談し、次期衆議院議員選挙への出馬を要請された。それに対して、全国知事会の改革案を一言一句違わずに受入れることや自身を「自民党総裁候補」とすることを条件として提示した。一方で、同日FNNスーパーニュースに出演し、「民主党で出馬する方が、早く改革できるのでは?」と問われたのに対し、「党としての経験が蓄積されていることを重視し、自民党が下野することになっても民主党で出馬することはない」と発言し、相対的に自民党を支持していることを示唆した。

2009年7月1日、毎日新聞の朝刊において、地方分権担当大臣または無任所の大臣としての入閣との報道がされた。これを受けて、同日、宮崎県高千穂町で報道陣の問いかけに対し、「大臣であろうがなかろうが、自民党が変わるならお受けします」旨返答し、改めて次期衆議院議員選挙へ出馬する意向を示した。さらに、翌日付の朝日新聞において、民主党が自らを代表に選ぶことはないとの見込みを理由に、自民党から出馬することを改めて表明し、「自分が自民党から出馬すれば自民党は負けない、負けさせない」「(国会議員になった場合)次期県知事には自分の継承者を指名した上で口出しするから、事実上の県知事は自分であり、次期県知事は傀儡政権である」旨の発言をしたと報道された。

2009年7月01日、政治資金パーティーにて、「(国政に)行くなと言うんだったら行かない。1年半プラーっとさせてもらう」「(2010年度の)予算編成して来年2月に議会に示し、採決されれば事実上、僕の仕事は終わり」と発言していたことが報じられた。

2010年日本における口蹄疫の流行は宮崎県畜産家を直撃した。県の対応については、3月下旬に感染が疑われる牛が見つかったにもかかわらず最初の感染事例として公表したのが4月20日であったことから、3月に対策をとっていれば感染拡大は防げたと指摘されている。

2010年6月、対アジア戦略に関するインタビューで「僕は福岡と韓国の釜山に海底トンネルを掘り、新幹線、あるいは高速道路を通せないかと考えています」との日韓トンネルに関する持論を展開している。

2010年11月下旬に県内への企業誘致社数が99社に達し、マニフェストに掲げていた100社まで後1社となっていた。2010年12月2日、遂に企業誘致社数がマニフェストに掲げていた100社に達する。

スポーツ報知が2010年8月27日付け裏一面で「次期知事選不出馬、都知事選出馬を検討」と報道。2010年9月29日の県議会本会議答弁で、任期限りの退任を正式表明し、2011年1月20日に任期を満了して退任した。

知事退任後

2011年2月10日、政治団体「英(はなぶさ)の会」を設立した。同年4月実施の2011年東京都知事選挙へ立候補し、1,690,669票を集めたが、前職の石原慎太郎知事に90万票強の大差を付けられ、落選した。ただし、得票数は全立候補者中、石原に次ぐ2位であった。知事退任後もテレビ出演等での名義は「そのまんま東」ではなく、東国原英夫名義である。

2012年12月に行われた第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会から比例近畿ブロックに出馬、比例単独の名簿順位1位として当選した。

衆議院議員として

2013年2月8日、国会デビューとも言える予算委員会初質問に立った。内容は『地方公務員給与の削減は「国の横暴」だ』 というものであった。

2013年10月8日、日本維新の会の広報委員長に就任。

2013年12月17日、「日本維新の会の原点である理念、政策、方向性が変質・変容している感が否めない」 として党を離党し議員辞職した。

現在

衆議院議員辞職後は政治家としての活動から一線を退き、報道・情報番組に評論家・コメンテーターとして出演したり、タレントとしてバラエティ番組や講演会にも数多く出演したりしている。政治家転身前の芸名「そのまんま東」はたけしに返上しているため、本名「東国原英夫」の名義で活動している。政界復帰に関しては2017年時点では否定していた。2014年9月に一般女性と再々婚、2017年10月5日に男児が誕生している。

2022年8月17日、宮崎市で記者会見を行い、2022年12月25日投開票予定の宮崎県知事選挙へ立候補する意向を正式表明した。会見で「疲弊した地域経済を回復させ、県民の心に明るい未来志向の光をともしたい。4年で辞めたことへのおしかりもあり、重い十字架としてのしかかっていた。最後のチャンスをいただけるのならば、自分の全てを注ぎ全力で頑張りたい」と述べた。同日、自民党宮崎県連に推薦願を提出したが、8月20日に自民党宮崎県連は現職の河野俊嗣を推薦することを決定した。

2022年12月25日に宮崎県知事選挙が行われ即日開票の結果、当初の現職圧倒的優位の下馬評を覆す猛追を見せ、接戦に持ち込んだものの、次点で落選した。県知事選以降も宮崎県内に軸足を置き、政治評論家としてメディアに出演したり講演会で全国をまわる一方、自身のYoutubeチャンネルで宮崎県の県産品や観光地を紹介するなど宮崎県をPRする活動も行っている。

発言・主張

国会について

国会議員の本会議・委員会・勉強会への遅刻や(特に携帯電話に出るための)途中退席・私語・野次・居眠りが常態化していることを厳しく批判している。

弘大日本人女性暴行事件

2019年(令和元年)8月27日のテレビ番組の放送で日韓関係を特集した際に、韓国で日本人女性が韓国人男性に髪をつかまれるなどした映像が拡散していることについて、当時火曜レギュラーだった武田邦彦が「路上で日本人の女性観光客を襲うなんていうのは、世界で韓国しかありませんよ」などと発言し、さらに同月29日の放送では東国原がコメントする途中で、東海大学教授でコメンテーターの金慶珠が意見を述べようとした事で、東国原が「黙ってろ、お前は。黙っとけ、この野郎。しゃべりすぎだよ、お前。僕、あの人が来たらね、今日欠席してる。事前に言ってよ今度ね」などと激昂した。その後、同月30日の放送の冒頭で、石井亮次(当時CBCアナウンサー)が「ヘイト(スピーチ)や犯罪の助長を容認することはできません。不快な思いをされた方々におわびいたします」と謝罪し、9月5日の放送でも東国原が「おっしゃった通り声を荒らげたことは大変申し訳なかったと思います。改めてお詫び申し上げたいと思います」と謝罪した。

首相指名選挙での発言

2021年(令和3年)10月4日のテレビ番組内で衆議院の総理大臣指名選挙で自民党衆院議員の高市早苗に1票入っていたことを紹介した際に、東国原が「入れたのは衛藤征士郎さんではないかと推察する」と発言。その後、NHK党衆院議員の丸山穂高(当時)が自身のYouTubeチャンネルで自分が高市に投票したことを明らかにしたため、翌5日の放送の冒頭で石井亮次が「事実ではありませんでした。お詫びして訂正致します。大変失礼致しました」と謝罪した。

2024/06/25 10:08更新

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