照国万蔵の情報(てるくにまんぞう) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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照国万蔵の情報まとめ
照国 万蔵(てるくに まんぞう)さんの誕生日は1919年1月10日です。秋田出身の相撲のようです。
卒業、事件、引退、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1977年に亡くなられているようです。
照国万蔵のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)照國 萬藏(てるくに まんぞう、1919年1月10日 - 1977年3月20日)は、秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現:秋田県湯沢市)出身で伊勢ヶ濱部屋に所属した大相撲力士。第38代横綱。本名は菅 萬藏(すが まんぞう)で、のちに大野 萬蔵(おおの まんぞう)となる。 1919年1月10日に秋田県雄勝郡秋ノ宮村の農家で生まれ、秋ノ宮第一尋常小学校を卒業後は家業である農業を手伝う。畑作業で土を掘ったり、収穫した野菜などを運搬するうちに力が付き、1930年の夏に「秋田に怪童あり」との評判を聞きつけた母の遠縁である5代伊勢ヶ濱から熱心に勧誘されたが、入門が嫌で逃げ回り、5代伊勢ヶ濱が訪問している間は実家に近寄らなかったほどだった。やがて話し合いの結果、体重は24貫に達していたものの身長が5尺3寸で、検査基準の5尺5寸に達しなかったことから、高等小学校を卒業するまで待つことが決定した。しかし、1932年1月6日に勃発した春秋園事件に相撲協会全体が対応せざるを得なくなったため、5代伊勢ヶ濱も巡業に行く余裕など無かったことから、秋田の怪童のことなどすっかり忘れていた。 1934年の冬に5代伊勢ヶ濱の一行が湯沢へ巡業した際に、秋田の怪童のことを思い出し、巡業の合間に怪童の元へ再び出向いた。今度は全く逃げ回ることが無く、怪童の父が亡くなった直後だったことで家計が苦しく、自らの体格を活かす仕事に就きたいと考えていたため、猛反対する母を強引に押し切って伊勢ヶ濱部屋へ入門した。 1935年1月場所で初土俵を踏む。四股名は、同郷で同部屋の國光鉄太郎を逆にしたのが元であるという。最初はなかなか番付が上がらず苦労していたが、幡瀬川邦七郎からエビオス錠の服用を勧められてから強くなり、以降は伊勢ヶ濵との二人三脚の指導で順調に出世した。 当時の史上最年少記録を全て更新したまま、1939年5月場所で新入幕を果たすと、その場所を11勝4敗の好成績で注目される。場所後虫垂炎を悪化させたことで手術を受ける必要に追われ、一時は生命の危機に瀕するも母が上京して看病したおかげで1週間の昏睡状態から意識を取り戻し、4ヶ月の入院を経て見事回復する。退院後の巡業では塞がりきらない傷口にガーゼを当てながら土俵に立った。翌場所は男女ノ川登三から金星を奪って12勝3敗の好成績を挙げると、僅か所要2場所で小結を飛び越して関脇に昇進した。照國の快進撃は留まることを知らず、その後3場所を11勝4敗・12勝3敗・13勝2敗として大関に昇進。22歳0か月での大関昇進は当時としては史上最年少。特に1941年1月場所は母が脳溢血で逝去した心労で風邪に罹り40度の熱を出した中での活躍であった。新大関でも12勝3敗の好成績を挙げた。 大関2場所目となった1942年5月場所、番付を見た照國はそれまで双葉山定次と同じ片屋にいたが、この場所は反対側に回されていたため、本人曰く「こっち(反対側)に回ったら双葉山に勝たないと横綱になれない。でも自分には到底勝てそうにない」と弱音を吐いていたが、14日目にその双葉山を下手投げで倒して12勝2敗とするが、当時は「番付上位優勝制度」が存在した時代だったため、千秋楽を迎えた時点で張出大関の照國には優勝の可能性が無かった。結局、この場所の優勝は正大関である安藝ノ海節男(1敗)と双葉山(2敗)の対戦で決まることになり、双葉山が勝利して両者とも13勝2敗、番付上位優勝制度によって双葉山が優勝した。照國は前田山英五郎を倒して13勝2敗で、安藝ノ海と優勝同点とした。 ここまで照國に優勝経験は無いが、安定感のある成績と双葉山を倒した星が買われて「事実上の優勝者」と判定されたため、場所後に安藝ノ海と揃って横綱へ昇進。この時23歳4ヶ月で第20代横綱・梅ヶ谷藤太郎の持つ最年少横綱の記録を39年ぶりに更新した。 新横綱となった1943年1月場所は、双葉山に唯一の黒星を付けられて14勝1敗に終わり、双葉山が全勝のため初優勝を逃す。その後も成績は安定しているが、第二次世界大戦による食料事情の悪化に加えて敗戦による影響もあって体重が激減したり、終戦直後も糖尿病や左肩・左膝の故障が多発して優勝は出来なかった。東京大空襲で持ち家を3件焼失する、1948年10月には引退後の部屋新設に向けて土地を購入するも詐欺に遭い代金の二重払いを強いられるなど私生活でも災難に見舞われた。 それでも1950年9月場所は13勝2敗で吉葉山潤之輔との優勝決定戦を制し、横綱昇進から8年後に悲願の初優勝を達成した。1951年1月場所には全勝優勝を達成し、この連覇によって「優勝なき横綱」の汚名を返上すると同時に、優勝額復活第1号を飾ることになった。その後は無傷だった右膝も故障して優勝が無く、1953年1月場所には糖尿病の悪化に胃潰瘍が加わって3日目から休場、同場所14日目に「回復の見込みがない」として現役引退を表明した。引退は照國の自発的な意思とされたが、14日目の夜に横綱審議委員会の例会が開催されることから、報道機関からの強硬論も相まって引退勧告されるものと誤解したのではないかと横審では指摘された。 引退後は年寄・荒磯を襲名し、同時に師匠から全弟子を譲り受けて荒磯部屋の看板を掲げ、伊勢ヶ濱の退職後は「伊勢ヶ濱」の名跡を継いで伊勢ヶ濱部屋を経営した。部屋では稽古土俵を2面設ける(1963年以降) などの新しい方式を打ち出したほか、郷里・秋田県を中心にスカウト活動も広げ、清國勝雄・開隆山勘之亟を始めとして何人もの幕内力士を育てた。伊勢ヶ濱部屋は増築を重ねた結果1968年以降は6階建てにまで達し、3階は弟子の再就職窓口となった。また、日本相撲協会では理事として長く大阪場所部長を担当したほか、9代春日野が協会理事長に就任する際に対立候補として擁立する動きがあり、予備選では春日野と1票差まで詰め寄るが照國本人が辞退したために実現しなかった。 1977年3月20日、春場所開催中の理事会を終え、大阪市内の宿舎に戻った直後に突然倒れて救急搬送されたが、急性心筋梗塞によって58歳で急死した。墓所は杉並区築地本願寺和田堀廟所。 第48代横綱・大鵬幸喜の登場以前に多くの最年少記録を書き換えた名横綱である。 相撲人形のような色白の巨体が徐々に赤みを増していく様子とリズミカルな取り口から「桜色(の)音楽」と呼ばれた。太鼓腹が土俵に付きそうなほどに低い平蜘蛛型の仕切りからの突き押しと出足は双葉山でも捌くのに苦労したほどで、対双葉山戦の成績(3勝2敗)にも現れている。双葉山が横綱免許を授与された翌年に死亡した第32代横綱・玉錦と、横綱時代は休場ばかりだった第33代横綱・武藏山を除けば、双葉山に唯一勝ち越した力士である。 双葉山の横綱昇進以降、3回敗れたのも横綱同士の対戦で敗れたのも照國だけだった。重心が低くて足腰が柔らかく、下手に吊り上げたりすれば43貫(161kg)の体重が相手に被さり押し潰されたという。第36代横綱・羽黒山には通算で6勝8敗と負け越しているが、これは戦後の照國が体調を崩していた時期(羽黒山の全盛期と重なっていた)に6連敗したことが響いている。 照國が肥満体になったのは、三段目時代に心臓病を患ったことで医師から激しい稽古を制限させられたためとも言われている。 小坂秀二の著した「昭和の横綱」によると、照国は非常に慎重な人柄で相撲ぶりにも表れていたという。終戦直後、大阪へ行くときには3時間前から東京駅に行って列車を待っていた。戦後の混乱期といってもそこまでする人はいなかったが、照國曰く「(東京 - 大阪間の)8時間を立ち通しで行くことを考えれば、はるかに楽」。 照國を語る上で欠かせないのが成績の安定感で、15日皆勤して10勝未満で終わった場所が1度も無いのはそうそう真似できるものではなく、10勝5敗でさえ晩年に2度(うち1度は千秋楽不戦敗)記録したのみで、他の場所は全て11勝以上を達成している。見方によっては、戦前まで行われていた15日皆勤の場所に慣れたまま、戦争の影響で15日間の本場所を開催できない時期と不調が重なったとも考えられる(ただし、前記のとおり不調そのものも戦争の影響が一因だった)。 1935年5月場所終了後に師匠の5代伊勢ヶ濱から「穏和すぎて闘志がなく見込みがない」として一旦人員整理され、泣きながら帰郷する途中に両国橋で幡瀬川に助けられる。翌1936年1月場所に帰参を許されるまで清美川とともに幡瀬川の家に住み、帰参後も幡瀬川から個人指導を受けていた。のちに幡瀬川の養子となるが、幡瀬川は「(照國は)私の最高の芸術作品」と周囲に語ったという。照國は5代伊勢ヶ濵の縁戚だったことから、養子縁組を聞いた5代伊勢ヶ濵は激怒したと伝わる。 人気も高かったが、それを表すものの中にあだ名の多さがある。取組の最中に廻しが緩みやすいことから「ゆるふん」と付けられたが、それでも本人曰く「よく締まるように水の含ませ方にも注意してきつく締めていたのだ」という。 現役時代に、サザエさんで「当時の横綱」として描かれたことがあった。 1944年5月、横綱は免除されていた勤労奉仕を力士の代表として率先して行い、港の荷揚げなど重労働に従事した。 1950年春場所に照國、羽黒山、東富士の3横綱が途中休場して横綱批判が高まったため横綱の降格制度案がまとまったが、当の現役横綱の照国は「ありがたい。楽に取れる。大関からやり直す」と歓迎したそうである。 1959年には癌の疑いで入院するも、手術日に病院を抜け出し横綱時代から馴染みがある奈良の神社で3ヶ月の修行を敢行。再検査後、癌が見つからなくなり果たして自然療法に成功した。 1965年に実施された完全部屋別総当たり制は自身が予てより提唱していた改革案であった。 通算成績:318勝112敗74休 勝率.740 幕内成績:271勝91敗74休 勝率.749 横綱成績:187勝70敗74休 勝率.728 大関成績:25勝5敗 勝率.833 通算在位:41場所 幕内在位:32場所 横綱在位:25場所 大関在位:2場所 三役在位:3場所(関脇3場所、小結なし) 金星:1個(男女ノ川1個) 各段優勝
十両優勝:1回(1939年1月場所) 幕下優勝:1回(1937年5月場所) 他に優勝決定戦で吉葉山に1勝がある。 照國 万藏(てるくに まんぞう)1935年1月場所 - 1944年1月場所 照國 萬藏(てるくに まんぞう)1944年5月場所 - 1949年5月場所 照國 万藏(てるくに まんぞう)1949年10月場所 - 1953年1月場所 荒磯 万藏 (あらいそ まんぞう)1953年1月 - 1961年1月 伊勢ヶ濱 万藏 (いせがはま -)1961年1月 - 1977年3月20日 「秋田が生んだ横綱 照国物語」簗瀬均著、秋田魁新報・日曜連載(2011年4月 - 2012年3月) ※こちらは本項の参考資料でもある。 『横綱 照国物語』 簗瀬均著、無明舎出版、ISBN 978-4-89544-574-0 ^ 当時は、東西制であり、番付の東西は画然と別れていて、同じ側の取組はなかった ^ 1961年9月場所後に同時昇進の柏戸剛・大鵬幸喜が当時それぞれ22歳9ヶ月と21歳3ヶ月で照國の記録を更新。2015年現在の記録は北の湖敏満の21歳2ヶ月。 ^ この時、賜杯を抱いて優勝額(全勝額)を背後に撮影された写真が現存する。 ^ 左肩関節打撲及び捻挫により6日目から途中休場 ^ 神経痛・歯痛により6日目から途中休場 ^ 心臓脚気により7日目から途中休場 ^ 左膝関節打撲により10日目から途中休場 ^ 左膝関節負傷により4日目から途中休場 ^ 右膝関節負傷・糖尿病・顔面神経痛により全休 ^ 糖尿病により12日目から途中休場 ^ 糖尿病・感冒により3日目から途中休場 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p30 ^ 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)32ページから33ページ ^ 秋田魁新報・日曜連載「秋田が生んだ横綱照国物語」 ^ 朝日新聞1953年1月23日付社会面 ^ 朝日新聞1953年1月24日付スポーツ面 ^ 「降格の規則ができていたら楽に取れた」双葉山が明かした“背水の重圧”(1/2ページ) 日刊ゲンダイDIGITAL 2023/03/17 06:00 (2023年3月18日閲覧) 横綱一覧 大相撲優勝力士一覧 照國 萬藏 - 日本相撲協会 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 初代明石志賀之助 2代綾川五郎次 3代丸山権太左衛門 4代谷風梶之助 5代小野川喜三郎 6代阿武松緑之助 7代稲妻雷五郎 8代不知火諾右衛門 9代秀ノ山雷五郎 10代雲龍久吉 11代不知火光右衛門 12代陣幕久五郎 13代鬼面山谷五郎 14代境川浪右衛門 15代梅ヶ谷藤太郎(初代) 16代西ノ海嘉治郎(初代) 17代小錦八十吉 18代大砲万右エ門 19代常陸山谷右エ門 20代梅ヶ谷藤太郎(2代) 21代若嶌權四郎 22代太刀山峯右エ門 23代大木戸森右エ門 24代鳳谷五郎 25代西ノ海嘉治郎(2代) 26代大錦卯一郎 27代栃木山守也 28代大錦大五郎 29代宮城山福松 30代西ノ海嘉治郎(3代) 31代常ノ花寛市 32代玉錦三右エ門 33代武藏山武 34代男女ノ川登三 35代双葉山定次 36代羽黒山政司 37代安藝ノ海節男 38代照國萬藏 39代前田山英五郎 40代東富士欽壹 41代千代の山雅信 42代鏡里喜代治 43代吉葉山潤之輔 44代栃錦清隆 45代若乃花幹士(初代) 46代朝潮太郎 47代柏戸剛 48代大鵬幸喜 49代栃ノ海晃嘉 50代佐田の山晋松 51代玉の海正洋 52代北の富士勝昭 53代琴櫻傑將 54代輪島大士 55代北の湖敏満 56代若乃花幹士(2代) 57代三重ノ海剛司 58代千代の富士貢 59代隆の里俊英 60代双羽黒光司 61代北勝海信芳 62代大乃国康 63代旭富士正也 64代曙太郎 65代貴乃花光司 66代若乃花勝 67代武蔵丸光洋 68代朝青龍明徳 69代白鵬翔 70代日馬富士公平 71代鶴竜力三郎 72代稀勢の里寛 73代照ノ富士春雄 雷電爲右エ門 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 秋田県出身の大相撲力士 伊勢ヶ濱部屋 荒磯部屋 日本相撲協会の役員 横綱 湯沢市の歴史 秋田県出身の人物 1919年生 1977年没 心筋梗塞で亡くなった人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/21 20:08更新
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terukuni manzou
照国万蔵と同じ誕生日1月10日生まれ、同じ秋田出身の人
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