琴櫻傑將の情報(ことざくらまさかつ) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
琴櫻傑將と関係のある人
北葉山英俊: また、栃ノ海晃嘉にも12勝13敗とほぼ互角と健闘しているが、大関昇進前の琴櫻傑將には通算2勝8敗と苦手にしていた。 |
琴櫻傑將の情報まとめ
琴櫻 傑將(ことざくら まさかつ)さんの誕生日は1940年11月26日です。鳥取出身の相撲のようです。
卒業、兄弟、引退、現在、結婚、事件、映画、テレビ、家族に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2007年に亡くなられているようです。
琴櫻傑將のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)琴桜 傑將(ことざくら まさかつ、1940年11月26日 - 2007年8月14日)は、鳥取県東伯郡倉吉町(のちの鳥取県倉吉市)出身で佐渡ヶ嶽部屋に所属した大相撲力士。第53代横綱。本名は鎌谷 紀雄(かまたに のりお)。 1940年11月26日に、鳥取県倉吉町の借家地で警察官の子として誕生する。倉吉町立成徳小学校を卒業後、倉吉町立東中学校時代に実父から柔道を仕込まれ、本来は中学生では取得を認められていない段位を特例で認めてもらうほどの腕前にまで上達する。偶々柔道の全国大会のTV中継を見てその才能を見出し、そうして鳥取にやって来た佐渡ヶ嶽から熱心に勧誘されたが、周囲に反対されるもののどうにか了解を得て佐渡ヶ嶽部屋に入門、1959年1月場所に初土俵を踏んだ。卒業まで3ヶ月程残っていた鳥取県立倉吉農業高等学校には、特別に卒業扱いにさせて貰った。実質的に高校は卒業間近で中退したことに変わりはなく、孫の2代琴ノ若の大関昇進の際には「卒業間際に中退」と報道でも伝えられている。それでも本人は「中学卒業後に入っておけばよかった」「早く入門していれば、もっと早く横綱になっていたかもしれない」と高校に進学したことを悔いていた。なお、相撲部は正部員ではなく助っ人扱いだったといい、それでも相撲の全国大会に出場するなど活躍したとのこと。 四股名は番付に初めて載った時は本名の「鎌谷」だったが、関取昇進時に「琴櫻」へ改名した。これは佐渡ヶ嶽の現役名「琴錦」に、故郷にある「打吹公園」が桜の名所であることから付けられたもの。番付では琴櫻と書かれ、“琴桜”と書かれたものは存在しないが、本人はサインなどでは「琴桜」と書いていたという。師匠たちに目をかけられていたため兄弟子たちからの僻みもあったが、毎日午前3時には土俵に降りて猛稽古に励んだことで力を付けていった。 最初は左下手を取って投げるのを得意としておりどうしても柔道の癖が取り口に表れていたが、指導と琴ヶ濱貞雄との稽古で右四つの型を会得すると、1962年7月場所に十両へ昇進し、その場所を優勝。4場所目の1963年1月場所でも十両優勝を果たして3月場所に新入幕を果たした。1964年1月場所には新三役の場所6日目に、柏戸剛との取組で土俵上で足首を骨折する負傷で途中休場。翌場所も全休したため、十両まで陥落の憂き目に遭う。 休場して以降は本人曰く「まわしを取ると青竹で殴られた」「いつまでも腫れが引かない」という厳しい指導の下に己の相撲を改造し、怒濤の突き押し・強烈なぶちかましとのど輪で一気に攻める押し相撲を得意とし、「猛牛」との異名を取った。1967年9月場所では柏戸と佐田の山・豊山・北の富士と2横綱2大関を倒して11勝4敗という成績を残し、場所後に大関へ昇進する。1968年7月場所は13勝2敗の成績で幕内初優勝を果たした。 強くなるにつれて部屋には稽古相手がいなくなったため、出羽海部屋へ出稽古を行うようになった。琴櫻本人は後に「当時、名門の出羽海に出稽古なんて難しいはずなのに、師匠が頼み込んでくれた。その熱心さはどこにも負けないくらい、偉かった」と振り返っている。 大鵬幸喜には初顔から18連敗と全く歯が立たなかったが、1969年7月場所の初勝利以降は4勝4敗と健闘(最終対戦成績は4勝22敗)。大鵬が最後の幕内優勝を飾った1971年1月場所では唯一の黒星をつけた。しかし、負傷の多さから好不調の波が激しく、綱取り場所で10日目を終わってトップに立っていながら終盤に5連敗するなど不本意な成績が続き、散々な罵声を浴びた上に負け越しもあったため、「横綱に上がることは無理だろう」と、陰口を叩かれていた。蹴手繰りを得意とする海乃山勇にも手を焼き、大関昇進以降は4勝7敗と分が悪かった(最終対戦成績は15勝13敗)。 角番で迎えた1971年7月場所では、11日目の大麒麟戦に勝った一番が「八百長ではないか」とファンから非難が集中しし、大麒麟とともに審判部から「今後このようなことがないよう」との厳重な警告を受けた。 1972年3月場所12日目に大関・前の山に張り手で気絶・転がされた一番が相撲競技監察委員会から「無気力相撲」との警告を受けた。前日の貴ノ花との対戦では二本を差されながら櫓投げに仕留める相撲を見せており、これが状況証拠として扱われてしまった。前の山は翌日から休場し大関から陥落、琴櫻は「自分の気持は休場するぐらいのものではない」と言って出場を続け、14日目に優勝争いの先頭を行く平幕の魁傑を強烈なぶちかましで一蹴し、この場所優勝することになる弟弟子の長谷川の「援護射撃」を果たすが、場所終盤の話題は「無気力相撲」一色となってしまった。さらに5月場所は1勝しただけで残りを休場するなど、引退も噂され始めた。ところが、同じ二所ノ関一門出身であり自身が平素から懇意にしていた、相撲評論家の神風正一と対談した際に元気づけられ、横綱を目指す決意を固める。この年の11月場所では14勝1敗で3度目の優勝を果たすと、綱取りとなる1973年1月場所は前評判の高くない中14勝1敗で連覇を果たす。 1月場所後の横綱審議委員会では約30分の審議の末、過去の角番3回や大関時代の勝率の低さ、年齢からくる将来性が不安視されたものの、連続優勝であること及び1月場所千秋楽の北の富士戦の内容が高く評価され、結果として8人の委員(出席5人、賛成の委任状3人)が全会一致で横綱推薦の答申を出した。横審委員長の舟橋聖一は「もちろん二場所連続優勝が大きなウエートを占めたが、世論も起っていることだし、力量、成績とも抜群ということだ。」と述べ、委員の一人高橋義孝は「ここ2場所の姿は、以前に比べて別人のごとくなったことで、過去のことは吹き飛んだ。丈夫で長持ちする横綱になるだろう。」と述べた。横綱昇進伝達式では「横綱の地位をけがさぬよう、より努力し、一生懸命頑張ります」と口上を述べた。 横綱昇進時の年齢(32歳2ヶ月)は横審の「2場所連続優勝を原則とする」の内規が定められた年6場所制における最高齢で、「遅咲きの桜、ようやく満開」「姥桜の狂い咲き」とも呼ばれた。大関在位32場所の長期在位(豊山勝男の大関在位記録にあと2場所と迫っていた。現在は武蔵丸光洋と並ぶ史上1位タイのスロー出世記録)で晴れて横綱に昇進したが、当時の関取としてはいつ引退してもおかしくない年齢で、2場所連続優勝を果たしたため年齢という不安要素に関係なく昇進したようなものであった。だが高齢での昇進であったことは本人も重々承知していたようで、後援会から贈られた数多くの化粧廻しを見て「こんなに長く務まるか不安だ」と漏らしたという。しかも横綱土俵入りは当時から短命のジンクスが有り後継者が少ない「不知火型」を敢えて選択した(指導は宮城野と大鵬)。 それでも同年7月場所は14勝1敗で、唯一負けた相手である北の富士との優勝決定戦で勝利して優勝を決め、横綱に対する不安の声を一蹴した。しかし琴櫻の不安は的中して、体力の衰えも重なって長く務めることができず、横綱在位は僅か8場所で、持病の左ひざ痛が治らないことから再起ができないと悟り、1974年7月場所初日の3日前に引退を表明した。対戦力士の中で一番苦手としていたのは三重ノ海で、対戦成績は7勝11敗・横綱昇進までは3勝9敗だった。 引退後は年寄・白玉を襲名したが、僅か10日後に佐渡ヶ嶽が死去したため、佐渡ヶ嶽代理を経て「佐渡ヶ嶽」を襲名して部屋を継承した。翌1975年2月1日に引退相撲が開催され、太刀持ちに北の湖、露払いに輪島を従えて最後の横綱土俵入りを執り行った。断髪式では師匠が死去していたため、祖師匠にあたる二所ノ関が止め鋏を入れた。 当初は独立して「白玉部屋」を興す意向であったことから現役時代より内弟子を集めていた。大関では琴風豪規(内弟子として入門)・琴欧洲勝紀(停年退職直後に昇進)・琴光喜啓司・琴奨菊和弘(いずれも停年退職後に昇進)、関脇では琴ヶ梅剛史・琴富士孝也・琴錦功宗・琴ノ若晴將の4人、小結では琴稲妻佳弘を始め、合計22人の関取を育成した。自身が師匠をつとめた間、幕内優勝力士は4人(琴風・琴富士・琴錦・琴光喜)を輩出した。1990年代初頭には幕内力士7人を擁し、「七琴」「佐渡ヶ嶽軍団」と呼ばれて幕内の最大勢力だったこともある。 稽古自体は非常に厳しく、ある時弟子の琴ノ若が腕部の脱臼で稽古を休んだ際は「稽古場に下りてこい、弱い部分は鍛えるしかないんだ」と腕立て伏せを行って筋肉で患部をカバーするように指導した。琴ノ若は、引退後の2023年5月場所7日目のNHK大相撲中継で「もちろん稽古でケガが治るわけじゃないけど、考え方をプラス思考に変えるということがこの教えに含まれている」とただの根性論ではないと、現代では問題になりかねない指導法についてフォローした。一方で、気配りが上手で面倒見が良く、弟子たちからは慕われていた。50歳を過ぎてからも自ら廻しを締めて胸を出すなど、非常に指導熱心であった。解説の際には弟子の取組に対して思わず「そこだ、押せ」「よし、行け」といった具合に声が出てしまう場面も見られた。真面目で誠実な人柄・スカウト熱心で知られ、後援会組織を全国に持っていたこともあるが、いかなる僻地でも最終的には自らが足を運んで勧誘した。その熱心さに、時には相手方が固辞している場合でも半ば強引に口説き落とすこともあったといわれている。また、「元横綱の私より足が大きいからこの子は大物になれる」「お前なら数年で関取になれるぞ」など、はったりのような口説き文句で入門を決意させることも多かったという。引退後、部屋の稽古場に新しく土俵を2面設け、弟子たちの稽古に役立てた。 日本相撲協会では1992年から6期12年に渡って、理事として審判部長・名古屋場所部長を歴任、北の湖理事長1期目には事業部長に就任した。その一方で大相撲放送の解説を務めることも多かった。審判部副部長時代には、1986年5月場所8日目の小錦八十吉 - 北尾光司戦で、VTRでは北尾の足が先に俵を割り込んでいるように見えたにもかかわらず、同体・取り直しの裁決を行い、その取り直しの一番で小錦が鯖折りを受けて致命的な負傷を負ったため後に議論を呼んだ。 1996年には愛娘と結婚した琴ノ若(当時は「琴の若」)を養子として迎え入れた。 2005年11月25日に定年退職を迎えた。同年11月場所の千秋楽までは協会に残ることができたが、部屋持ちの親方が退職するとその部屋の力士が出場できなくなる規定があるため、同日に引退した琴ノ若に年寄・佐渡ヶ嶽を譲り、奇しくも2代続けての本場所途中の部屋継承劇となった。琴風に続く大関が育たなかったのが悩みだったが、退職直後に琴欧州が大関昇進を決め、喜びのコメントが紹介された。なお、場所後に行なわれた琴欧州の大関昇進伝達式では、日本相撲協会の計らいにより、佐渡ヶ嶽親方夫妻と共に同席が認められた。 2000年11月26日に還暦(満60歳)を迎えたものの、この頃から体調不良等が続いた理由により還暦土俵入りは行われず赤い綱を受け取るのみであった。 2004年には糖尿病の悪化に伴う壊疽を発症したため、左足を足首から切断する手術を受けた。そのため、これ以降は杖を付きながら義足での歩行を余儀なくされた。10ヶ月の入院生活を経て2005年に退院するが、手術では弱っていた心臓が止まったこともあった。佐渡ヶ嶽は2007年にも心筋梗塞の手術を受け、入退院を繰り返していた。 2007年7月場所後にも琴光喜が苦労の末に大関昇進を果たした。2007年7月25日に行われた琴光喜の大関昇進伝達式では、後ろの方で椅子に座りながらその光景を見届けている。「自分が大関になった時より嬉しい」と目を潤ませながらコメントを述べたが、これが結果的に佐渡ヶ嶽の生涯最後の仕事となった。 琴光喜の大関昇進決定から僅か20日後の2007年8月14日18時19分、佐渡ヶ嶽は敗血症による多臓器不全のため千葉県松戸市の千葉西総合病院で死去した。66歳没。死の直前、サッカー問題で謹慎処分を受けていた横綱の朝青龍明徳を気に掛け、「土俵に戻って欲しい」とのメッセージを遺していた。佐渡ヶ嶽部屋としての葬儀は、同年8月21日に執り行われた。 墓は東京都立八柱霊園内にある。 1963年(昭和38年)11月11日に発生した佐渡ヶ嶽部屋フグ中毒事件の際、琴櫻は東前頭筆頭としてその場に居合わせていた。本人は件のふぐ入りちゃんことは別に用意されていた鯛入りのちゃんこを食べていた為に難を逃れている。 1967年、英米合作映画「007は二度死ぬ」にて、蔵前国技館で富士錦と取組をする力士として登場している。 琴櫻の「バーン」というカチ上げ音に、取組をテレビで見ていたアンドレ・ザ・ジャイアントが、「あれは何なんだ?」と目を白黒させて驚いたという。自身の現役時代には「上体の力には世界一の自信がある」と語っていた。 親方になってからは新弟子のスカウトに非常に熱心で、素質の良い少年がいると聞くと、いかなる僻地であっても直ちにスカウトに向かうことで知られた。知人から素質のある少年の情報を聞いた当日にその少年の家へ押しかけ、その日のうちに本人を連れて部屋に帰って来たこともあるほどで、最初に情報を提供した知人は琴櫻の行動のあまりの早さに仰天したという。また、後に佐渡ヶ嶽部屋の後継者となる琴ノ若をスカウトした時には、本人が固辞するのも構わず、山形県尾花沢市にある琴ノ若の実家を10回以上も訪れて説得を繰り返したという逸話も伝わっている。 琴櫻の死後、佐渡ヶ嶽部屋の稽古場で琴櫻らしき足音を何人もの力士が聞いたという。琴欧州は「オーラの泉」(2008年9月6日放送分)に出演した際にこの不思議な体験を告白した。佐渡ヶ嶽部屋の力士たちは、先代(琴櫻)が死後も皆のことを心配して稽古場の様子を見に現れたのではないかと話しているという。 2009年4月20日、成徳小学校前の銅像の頭部に女性用下着が付いているのを、当時の倉吉市長が発見した。倉吉警察署は軽犯罪として捜査すると共に、市と連携して再発防止に努めている。 琴櫻の引退以降、2015年3月場所で石浦が十両に昇進するまでの41年間、鳥取県出身の関取が不在であった。 生前、孫の将且(初代琴ノ若の長男)に、大関昇進後であれば「琴櫻」の四股名を継がせてもよいと初代琴ノ若に伝えていたという。将且は2015年11月場所で琴鎌谷の四股名で初土俵、2019年7月場所で新十両昇進を機に琴ノ若を襲名、2024年3月場所で大関に昇進後は、1場所だけ琴ノ若の名で大関を務めた後、翌5月場所より琴櫻を襲名した。 戦前・戦中生まれで横綱に昇進した力士や最高位が横綱の力士が協会に残ったのは琴櫻が最後だった。 定年制が導入して以降、2022年時点で不知火型を経験した横綱が定年を迎えたのは琴櫻のみである(他の横綱は定年前に死亡または退職)。 長男の紀寿は明大中野高校で相撲部に所属、後に佐渡ヶ嶽部屋のサブマネージャーを務めた。 娘婿である初代琴ノ若は、家族として臨終の場に居合わせたが、当時は夏巡業の最中だった。佐渡ヶ嶽は部屋の師匠であると同時に義理の息子であり、葬儀において喪主を務める立場にあったための行動だったが、一方で当時メディアのインタビューに「(巡業を切り上げて戻ってきた自分に対して琴櫻は)本当はかなり怒っているだろう」とも述べた。 生前の琴櫻が「力士たるものは、本場所であれ巡業であれ花相撲であれ、土俵上の務めを最後まで全うしなければならない」という考えを持ち、日頃から弟子たちにもそのように指導していたことが影響しているものと見られている。佐渡ヶ嶽は上述の通り危篤の知らせを受けて巡業を切り上げたものの、その当時現役力士だった琴欧洲・琴光喜・琴奨菊・琴春日は「師匠の教えを守るように」との指示を受けたため葬儀に参列できず、巡業が終わって部屋に戻ってから琴櫻の遺骨が納められた骨壷の前に手を合わせることとなった。 通算成績:723勝428敗77休 勝率.628 幕内成績:553勝345敗77休 勝率.616 横綱成績:66勝34敗20休 勝率.660 大関成績:287勝159敗34休 勝率.643 幕内在位:65場所(番付上では66場所) 横綱在位:8場所(番付上では9場所) 大関在位:32場所 三役在位:15場所(関脇7場所、小結8場所) 連続6場所勝利:72勝(1972年9月場所 - 1973年7月場所、1972年11月場所 - 1973年9月場所) 通算(幕内)連続勝ち越し記録:13場所(1969年3月場所 - 1971年3月場所) 幕内連続2桁勝利記録:5場所(1972年11月場所 - 1973年7月場所) 幕内最高優勝:5回(1968年7月場所、1969年3月場所、1972年11月場所、1973年1月場所、1973年7月場所) 十両優勝:2回(1962年7月場所、1963年1月場所) 三段目優勝:1回(1960年1月場所) 三賞:6回
敢闘賞:2回(1963年9月場所、1967年7月場所) 雷電賞:1回(1963年9月場所) 金星2個(柏戸1個、佐田の山1個) 他に優勝決定戦で北の富士に1勝がある。 鎌谷 紀雄(かまたに のりお):1959年1月場所 琴櫻 紀雄(ことざくら - ):1959年3月場所 - 1965年11月場所 琴櫻 傑將( - まさかつ):1966年1月場所 - 1966年5月場所 琴櫻 紀雄( - のりお):1966年7月場所 - 1967年3月場所 琴櫻 傑將( - まさかつ):1967年5月場所 - 1974年7月場所 白玉 傑將(しらたま まさかつ):1974年7月4日 - 1974年7月26日 佐渡ヶ嶽 慶兼(さどがたけ よしかね):1974年7月26日 - 2005年11月25日 2003年 倉吉市名誉市民 ^ 当時の中継でも「琴櫻、立てません」とアナウンスされ、傍目にも大怪我と分かる負傷だった。 ^ 鳥取県出身者の大関は、明治時代に活躍した荒岩亀之助の引退以来58年ぶりだった。 ^ 千秋楽翌日の朝日新聞1972年3月27日付朝刊スポーツ面では、場所の総評の大半は「無気力相撲」に関してのものであり、優勝した長谷川について全く触れていない。 ^ 朝日新聞1973年1月6日付朝刊スポーツ面では場所の展望として「横綱がダメなら混戦」としつつ、琴櫻について「けいこからはそれほどの意欲がうかがえない」として、むしろ輪島や貴ノ花を優勝争いのキーマンと期待していた。 ^ 三重ノ海・双羽黒光司と並ぶ横綱在位場所数の最短記録2位タイ(ただし番付上では双羽黒と同じく横綱在位9場所)。 ^ 引退・白玉襲名から佐渡ヶ嶽部屋継承の流れが、場所前後のごく短い期間で行われたため、白玉として番付には載らず「琴櫻改メ 佐渡ヶ嶽 慶兼」と翌場所の番付には記載された。 ^ 琴櫻は足のサイズが小さかった。 ^ 右踝骨折・右膝関節脱臼により7日目から途中休場 ^ 左第 5中足骨不全骨折により11日目から途中休場 ^ 後頭部神経痛により6日目から途中休場 ^ 大関角番(全3回) ^ 腰部捻挫により6日目から途中休場 ^ 左第 5指骨中足骨間関節開放性脱臼及び裂傷により3日目から途中休場 ^ 北の富士と優勝決定戦 ^ 左膝蓋骨不全骨折により6日目から途中休場 ^ 根性坐骨神経痛・左膝蓋骨不全骨折後遺症により4日目から途中休場 ^ 7月場所直前に引退を表明 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p22 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p30-31 ^ 中卒入門が既定路線も…「本当に意思固く」琴ノ若は自分と、そして祖父と向き合い高校進学を決断【新大関誕生連載(中)】 中日スポーツ 2024年1月31日 05時00分 (2024年1月31日閲覧) ^ NHK名作選 みのがしなつかし 琴櫻傑將 ^ 朝日新聞1971年7月16日付朝刊スポーツ面 ^ 朝日新聞1972年3月24日付夕刊 ^ 朝日新聞1972年3月25日付朝刊スポーツ面 ^ 朝日新聞1972年3月26日付朝刊スポーツ面 ^ 朝日新聞1973年1月23日付朝刊スポーツ面 ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p63 ^ 先代の琴櫻はなぜ「突然変異」の連続優勝&横綱昇進を果たせたのか…今も忘れない「昭和48年1月」最大の謎(3/4ページ) 現代ビジネス 2024.06.09 (文・堀井憲一郎、2024年6月9日閲覧) ^ 朝日新聞1974年7月5日付朝刊スポーツ面 ^ 雑誌『相撲』2023年7月場所38ページ ^ 琴桜像の顔に下着 発見の市長カンカン 47news 2009/04/21 11:39 ^ 桑原亮 (2015年1月29日). “石浦が新十両 鳥取県勢53年ぶり関取”. 日刊スポーツ. https://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20150129-1427638.html 2018年12月12日閲覧。 ^ 鈴木悟 (2015年10月7日). “佐渡ケ嶽親方の長男が入門!父「琴ノ若」→祖父「琴桜」継承の道”. スポニチ. https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/10/07/kiji/K20151007011272730.html 2018年12月12日閲覧。 ^ 小沼春彦「琴鎌谷改め琴ノ若、3代関取 父のしこ名継承「師匠と先代に追いつきたい」」『スポーツ報知』2019年5月30日。2024年4月30日閲覧。 ^ 「大相撲 大関・琴ノ若が元横綱の祖父のしこ名「琴櫻」を襲名」『NHK』2024年4月30日。2024年4月30日閲覧。 ^ 燃えよ!!明大中野相撲部 ^ ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2020年6月号(開催祈念号) 26頁 ^ “倉吉市名誉市民”. 倉吉市. 2022年8月11日閲覧。 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p88-89 鳥取県出身の人物一覧 横綱一覧 琴櫻 傑将 - 日本相撲協会 琴櫻記念館 - 出身地の鳥取県倉吉市にある記念館。 琴櫻傑將 - NHK人物録 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 初代明石志賀之助 2代綾川五郎次 3代丸山権太左衛門 4代谷風梶之助 5代小野川喜三郎 6代阿武松緑之助 7代稲妻雷五郎 8代不知火諾右衛門 9代秀ノ山雷五郎 10代雲龍久吉 11代不知火光右衛門 12代陣幕久五郎 13代鬼面山谷五郎 14代境川浪右衛門 15代梅ヶ谷藤太郎(初代) 16代西ノ海嘉治郎(初代) 17代小錦八十吉 18代大砲万右エ門 19代常陸山谷右エ門 20代梅ヶ谷藤太郎(2代) 21代若嶌權四郎 22代太刀山峯右エ門 23代大木戸森右エ門 24代鳳谷五郎 25代西ノ海嘉治郎(2代) 26代大錦卯一郎 27代栃木山守也 28代大錦大五郎 29代宮城山福松 30代西ノ海嘉治郎(3代) 31代常ノ花寛市 32代玉錦三右エ門 33代武藏山武 34代男女ノ川登三 35代双葉山定次 36代羽黒山政司 37代安藝ノ海節男 38代照國萬藏 39代前田山英五郎 40代東富士欽壹 41代千代の山雅信 42代鏡里喜代治 43代吉葉山潤之輔 44代栃錦清隆 45代若乃花幹士(初代) 46代朝潮太郎 47代柏戸剛 48代大鵬幸喜 49代栃ノ海晃嘉 50代佐田の山晋松 51代玉の海正洋 52代北の富士勝昭 53代琴櫻傑將 54代輪島大士 55代北の湖敏満 56代若乃花幹士(2代) 57代三重ノ海剛司 58代千代の富士貢 59代隆の里俊英 60代双羽黒光司 61代北勝海信芳 62代大乃国康 63代旭富士正也 64代曙太郎 65代貴乃花光司 66代若乃花勝 67代武蔵丸光洋 68代朝青龍明徳 69代白鵬翔 70代日馬富士公平 71代鶴竜力三郎 72代稀勢の里寛 73代照ノ富士春雄 雷電爲右エ門 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 人物の画像提供依頼 鳥取県出身の人物 鳥取県出身の大相撲力士 1940年生 2007年没 佐渡ヶ嶽部屋 日本相撲協会の役員 横綱 切断障害を持つ人物 ウィキデータにある日本相撲協会識別子 ウィキデータと異なるNHK人物録ID
2024/11/23 13:38更新
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kotozakura masakatsu
琴櫻傑將と同じ誕生日11月26日生まれ、同じ鳥取出身の人
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