田原良純の情報(たわらよしずみ) 医学者(薬理学) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
田原 良純さんについて調べます
■名前・氏名 |
田原良純と関係のある人
津田恭介: 1881年(明治14年)に東大医学部薬学科を卒業した田原良純は、長井長義教授の下で苦参塩基マトリンの研究を始めた。 |
田原良純の情報まとめ
田原 良純(たわら よしずみ)さんの誕生日は1855年8月18日です。佐賀出身の医学者(薬理学)のようです。
卒業に関する情報もありますね。1935年に亡くなられているようです。
田原良純のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)田原 良純(たはら よしずみ、1855年8月18日(安政2年7月6日) - 1935年6月3日)は、日本の薬学者。日本最初の薬学博士で、フグ毒の発見者として著名。 佐賀藩士の田原卯源次の長男として生まれる。 1870年、明治政府の公募を受けて、後の東京帝国大学を構成する大学南校ドイツ語科に入学。鉱山学部を卒業し、工部省鉱山寮に勤めていたが、1876年に職を辞して東京医学校製薬学科に入学。1881年に卒業して内務省衛生局東京司薬場に勤め、薬品試験を担当する。 1882年、オランダ人監督のエイクマン (Johan Frederik Eijkman) の指導を受け、日本国産食品の栄養化学分析を始める。約160種類の食品を分析した。栄養分析表を作成し、欧米の食品と比較、国民栄養基準を作る。 1883年、司薬場が改組した東京試験所検明部長となる。食品のほか、大気や水の分析、試験を続ける。当時の長井長義所長と協力して漢方薬牡丹皮に含まれるペオノールの研究を進めた。このとき、欧米で研究が進んでいる植物成分に比べ、動物成分の研究が遅れていることに気づき、フグ毒に着目。フグ毒の成分分析を始める。 1887年、内務省東京衛生試験所所長となる。 1890年から1892年まで3年間ドイツに留学する。まずミュンヘン大学にのバイヤー教授に師事し、主にペオノールの構造を分析した。その後、フライブルク大学に移り、ペオノール合成とアドニンの研究を進めた。アドニンとはフクジュソウの配糖体の一種である。1893年に帰国し、フグ毒の研究を再開する。 1899年、日本国最初の薬学博士となる。以後、東京衛生試験所所長を続けながら、専売特許局技師、内務技師を兼務。 1907年、分離に成功したフグ毒を、フグ科の学名 Tetraodontidae(4枚の歯板を持つものの意)と、毒を意味するトキシン toxin から、テトロドトキシンと命名。その後、テトロドトキシンの薬理作用を解明し、鎮痛効果を実証した。 1914年(大正3年)、第一次世界大戦が始まると、海外からの医薬品の輸入が途絶える。これを受け、衛生試験所内に臨時の製薬所を設け、200種類以上の薬品の製造方法を研究、日本製薬工業の基礎を固めた。 同じ1914年、神奈川県橘樹郡大綱村樽町(今の横浜市港北区樽町)の民家井戸から湧き出した赤黒い水をラジウム鉱泉と鑑定して、結果綱島温泉成立の発端を築く。 1921年、帝国学士院から桂公記念賞を受ける。1935年に死去、多磨霊園に葬られた。 父・‐佐賀藩士 妻・ミノ ‐ 沖縄県士族・青木徳次郎の長女 長男・良郷 ‐ 工学士。岳父に笠井愛次郎 長女・シゲ‐生野団六の妻 1909年(明治42年)12月20日 - 従四位 1915年(大正4年)1月11日 - 正四位 ^ “公益財団法人 大倉精神文化研究所 :: 第62回 綱島温泉の記録-その1-”. www.okuraken.or.jp. 2021年4月7日閲覧。 ^ 田原良純『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年 ^ 『官報』第7949号「叙任及辞令」1909年12月21日。 ^ 『官報』第731号「叙任及辞令」1915年1月12日。 綱島温泉 ラヂウム霊泉湧出記念碑 ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 19世紀日本の化学者 20世紀日本の化学者 日本の薬学者 戦前日本の学者 日本学士院賞受賞者 帝国学士院会員 日本の内務官僚 工部省の人物 国立医薬品食品衛生研究所の人物 1855年生 1935年没 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/10 15:57更新
|
tawara yoshizumi
田原良純と同じ誕生日8月18日生まれ、同じ佐賀出身の人
TOPニュース
田原良純と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「田原良純」を素材として二次利用しています。