石野径一郎の情報(いしのけいいちろう) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
石野径一郎の情報まとめ
石野 径一郎(いしの けいいちろう)さんの誕生日は1909年3月28日です。沖縄出身の作家のようです。
映画、事件、卒業、結婚、解散に関する情報もありますね。1990年に亡くなられているようです。
石野径一郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)石野 径一郎(いしの けいいちろう、1909年(明治42年)3月28日 - 1990年(平成2年)8月3日)は日本の作家。沖縄県出身。本名は石野 朝和。もとは高江洲朝和であったが、石野へ改姓し、筆名は径一郎とした。代表作は沖縄戦を題材にした『ひめゆりの塔』で、戯曲化・映画化もされた。また、直木賞候補にもなった対馬丸事件を描いた『沖縄の民』や『残波岬の決闘』などもある。 沖縄県首里区寒川町(現那覇市)で首里士族の両親のもとに、高江洲家8代目として生まれる。9歳の時に母が亡くなり、祖父の住む真和志村古島に移る。1921年(大正10年)に旧制沖縄県立第一中学(現沖縄県立首里高等学校)入学。14歳の時に古島の中学生翁長助静(のち真和志市長)、内間安清、平良良松らと同人誌『はるがん(原神)』を発行。1926年中学卒業後東京の叔父のもとへ行き、東京市教員講習所に合格。翌年東京府小学校本科正教員の検定試験に合格し、日本橋区に赴任、64円の手当を受け、これ以後毎月父へ5円を送金した。1928年に児童劇に熱中し、指導をする傍ら坪内逍遥に師事する。 1929年(昭和4年)に法政大学高等師範科入学、同級生とともに左傾化していく。1931年に復員した教員が職を失っていたという事件で教員200人を動員した首謀者として検挙される。1932年に高等師範科卒業し、文学部国文科入学、同人誌『玄鳥』を、林信一、生田花世、田中令三らと始める。また徴兵検査で甲種合格となるが、籤で徴兵からは外れる。1934年本庄陸男の紹介で打木村治の『作家群』同人となる。1936年に中塚君子と結婚、『作家群』にエッセイを発表。岩元迭、永野滉、鈴木清次郎らと同人誌『双紙』創刊。1939年『三田文学』に「呂律」「両国界隈」掲載。 1942年に横河電機株式会社青年学校教諭を経て、帝国教育会出版部編集員となり、絵本、童話の編集に従事、帝国教育会出版部から長篇小説『南島経営』を出版し作家デビュー。この頃比嘉春潮に郷土史、宇野浩二、川端康成、青野季吉に小説を師事。1943年に東京都立京橋実業学校教諭に就職、1944年に学徒勤労動員される生徒についての随筆を『東京新聞』に連載。6月に召集され東都第二部隊に入るが1週間で除隊。1945年3月9日の空襲で自宅全焼し、妻の実家の石川県小松市に疎開、石川県労務報国会主事となる。終戦後10月に単身帰京し、翌年妻子も戻る。 新興芸術社東京編集室勤めとなり、『文化ウィークリー』誌編集。1949年に「ひめゆりの塔」を宝文館『令女界』誌に連載、新興芸術社が解散したため岐阜市の双葉社請負編集となり、『東京タイムス』内に式場隆三郎会長の沖縄懇話会を発足し理事となる。1950年、沖縄芸能保存会主催の舞踏劇「宮古島縁起」の原作、脚本を担当し、読売ホールで上演。以後沖縄史に関する小説、エッセイを発表。1963年メニエール病で倒れる。1970年に「多良間紀行」でNHK脚色芸術祭最優秀賞受賞。 『ひめゆりの塔』は1950年に東横映画と映画化契約し、1953年に東映で公開。また1951年に都立白鷗高等学校演劇部により最初の舞台化が行われ、同年石井みどり舞踏団により東京、沖縄で公演。1953年には内山惣十郎脚色で二葉百合子により浪曲化、1962年に文化放送で放送される。 南島経営 帝国教育会出版部 1942 若い槌 ふもと社 1946 ひめゆりの塔 山雅房 1950 のち旺文社文庫、講談社文庫 ひめゆり部隊 出版東京 1952 火の花の島 現代社 1956 (現代新書) 沖繩の民 鱒書房、角川小説新書 1956 「疎開船対馬丸」旺文社文庫、「対馬丸事件」講談社文庫 夜の沼 五月書房 1958 東京下町(上・下) 琉球新報 1960年 守礼の国 朝日新聞社 1968 ひめゆりの国 朝日書院 1968 沖縄空路の女 東邦出版社 1971 日本の島 座右宝刊行会 1971年 沖縄の顔 三笠書房 1971年 実説ひめゆりの塔 沖縄の心・復帰・民 現代出版社 1973 残波岬の決闘 傑作倶楽部 1952年連載 台風圏の女 東京タイムス 1960年連載 生きている罠 沖縄タイムス 1962年連載 憂愁劇場 琉球新報 1964年連載 沖縄空路の女 琉球新報 1964年連載 琉歌つれづれ サンデー沖縄 1970-71年連載 『ひめゆりの塔』東映、今井正監督、1953年 『沖縄の民』日活、古川卓巳監督、1956年 『あゝひめゆりの塔』日活、舛田利雄監督、1968年 『ひめゆりの塔』東宝、今井正監督、1982年 『太平洋戦争と姫ゆり部隊』大蔵映画、小森白監督、1962年 「自筆年譜」(『ひめゆりの塔』旺文社文庫 1972年) ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 20世紀日本の小説家 日本の雑誌編集者 メニエール病に罹患した人物 法政大学出身の人物 沖縄県立首里高等学校出身の人物 沖縄県出身の人物 1909年生 1990年没 単一の出典 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/20 10:26更新
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ishino keiichirou
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