稲嶺一郎の情報(いなみねいちろう) 経営者、政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
稲嶺 一郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
稲嶺一郎と関係のある人
稲嶺恵一: 父は、琉球石油(現・りゅうせき)創業者で元参議院議員の稲嶺一郎。 |
稲嶺一郎の情報まとめ
稲嶺 一郎(いなみね いちろう)さんの誕生日は1905年9月23日です。沖縄出身の経営者、政治家のようです。
結婚、卒業、現在に関する情報もありますね。1989年に亡くなられているようです。
稲嶺一郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家、実業家。沖縄県国頭郡本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父。 1929年早稲田大学に入り、その後下宿先となった早稲田大学の恩師、西村眞次の長女と結婚。卒業後は南満洲鉄道に入社。満鉄青年同志会に参加し、用務部長として十河信二や山崎元幹という満鉄有力者と個人的な関係を結んだ。満鉄駐在員としてバンコクに滞在し、タイの王族、華僑、現地有力者などとの間で親交を結ぶ。東南アジアの新しいリーダーと戦中に交際を深めたことが、戦後のアセアン人脈となる。 第二次世界大戦中は、海軍武官府に出向しインドネシアのジャカルタに赴任。敗戦後にはジャカルタ在住の沖縄県出身者コミュニティーの中心的人物となり、インドネシア人に漁業技術等を伝授。インドネシア独立戦争を支援した容疑でオランダ当局によって投獄された。 日本本土に帰国後は戦後すぐに結成された沖縄人連盟に参加し、英語能力を生かしGHQ琉球課との接触の窓口を勤める。GHQ琉球課長ウェッカリングの依頼を受け、戦後初めて沖縄人連盟を代表して、地上戦で荒廃した沖縄本島を1947年に訪問。沖縄県民から大歓迎を受ける。当時の沖縄本島は、米軍基地拡大により耕地を接収される一方、南洋群島や満洲から強制的に引揚民が帰還させられたため、過剰人口で溢れかえっていると稲嶺には見えた。ただし、引揚の積極推進を率先して行ったのは、当の沖縄人連盟であった。 そのため稲嶺は、沖縄県の復興を、戦前の最大の産業ともいうべき移民事業の再興によって、しかも、旧南洋諸島への再移民許可によって行うべしとする報告書をまとめ、琉球課に提出し受理される。米国海軍の反対でその案が否定されると、ブラジル・アルゼンチンへの移民送出事業のため、沖縄民政府を代表し南米視察に出かける。移民事業は、旧南洋群島と共にアメリカの信託統治領に沖縄県を編入して欲しいとする、稲嶺の考えを支える経済的社会的土台であった。稲嶺が移民へ深く係わったのは、大東亜共栄圏時代に人口再配置による計画経済の影響を受けたことと、戦前の沖縄県が移民を主産業として成立していた事実からであった。 屋良朝苗率いる沖縄教職員会主催の矢内原忠雄による1957年の沖縄訪問にも、移民事業は沖縄県再興の切り札として期待され、実際、ボリビア等に沖縄県民が送出された(オキナワ移住地)。後に、移民は瀬長亀次郎などの沖縄人民党から、「棄民」であるとの批判を浴び、日本本土への出稼ぎが本格化すると衰退していった。 1950年、琉球水産連合会会長の就任要請を受けて、沖縄へ帰還した。帰還後すぐに、「戦後復興を図るためには、石油製品の安定供給が必要だ。」と考え、石油販売権を握っていた米民政府と交渉し、民間移管の承認を得た。1950年9月に琉球石油(現在のりゅうせき)を創立、代表取締役社長に就任した。その後、正妻の内助の功に支えられながら、沖縄県随一の企業へと育て上げる。そこから得た収益を、沖縄産業振興や奨学金制度、国際親善に投入した。産業振興の功績として、大規模畜産業や柑橘類のタンカン(北部地域などでは“一郎ミカン”とも呼ばれる)、牧草用のネピアグラス、薬草のクミスクチン、黒真珠などが挙げられる。 1970年の国政参加選挙(第8回参議院議員補欠選挙)に自由民主党から参議院議員に当選。3期13年務め、沖縄県の発展に尽力。沖縄県保守勢力の中心的存在となる。議員時代は、海洋博覧会の誘致や沖縄自動車道の設置などに尽力した。 政界屈指のアセアン人脈の持ち主として知られた。独立闘争を支援したことから、インドネシアの建国記念式典に国賓待遇で迎えられたこともある。日本インドネシア友好団体協議会会長、日本カンボジア協会会長などの要職を歴任した。 1976年にサンパウロ市民文化章受章、同年秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章、1988年に海外移住功労賞受賞、同年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章。 1989年6月19日死去、83歳。死没日をもって従三位に叙される。 稲嶺一郎『世界を舞台に』(沖縄タイムス、1988年) 金城達己『ボリビアコロニア沖縄入植二十五年誌』(ボリビアコロニア沖縄入植二十五周年祭典委員会、1980年) 浅野豊美編『南洋群島と帝国・国際秩序』(慈学社、2007年) 若槻泰雄『発展途上国への移住の研究』(玉川大学出版部、1987年) ^ 『官報』第14949号7頁 昭和51年11月5日号 ^ 『官報』号外第53号4頁 昭和63年4月30日号 ^ 「稲嶺 一郎」。https://kotobank.jp/word/%E7%A8%B2%E5%B6%BA%20%E4%B8%80%E9%83%8E。コトバンクより2022年12月15日閲覧。 ^ 『官報』第134号12-13頁 平成元年7月5日号 表 話 編 歴 佐藤尚武 野田俊作 櫻内辰郎 大隈信幸 有馬英二 徳川頼貞 佐藤尚武 石黒忠篤 山川良一 梶原茂嘉 小瀧彬 笹森順造 寺本広作 青柳秀夫 杉原荒太 鹿島守之助 草葉隆圓 木内四郎 近藤鶴代 井上清一 岡崎真一 黒川武雄 青柳秀夫 小柳牧衞 寺尾豊 木内四郎 赤間文三 三木與吉郎 山本利壽 長谷川仁 松平勇雄 八木一郎 平島敏夫 伊藤五郎 二木謙吾 高橋雄之助 寺本広作 安孫子藤吉 菅野儀作 石破二朗 秦野章 稲嶺一郎 増田盛 後藤正夫 平井卓志 最上進 宮澤弘 森山眞弓 堀江正夫 山東昭子 岡野裕 大鷹淑子 野沢太三 井上章平 田村秀昭 木庭健太郎 釘宮磐 寺澤芳男 大久保直彦 廃止 表 話 編 歴 山本利寿 伊藤五郎 山本茂一郎 塚田十一郎 米田正文 長谷川仁 星野重次 金井元彦 古賀雷四郎 稲嶺一郎 岡田広 西村尚治 志村愛子 上田稔 大鷹淑子 佐々木満 板垣正 堀江正夫 夏目忠雄 矢野俊比古 川原新次郎 守住有信 田代由紀男 田沢智治 福田宏一 大浜方栄 木宮和彦 坪井一宇 成瀬守重 楢崎泰昌 志村哲良 中尾則幸 立木洋 笠井亮 沓掛哲男 佐藤雄平 本田良一 谷林正昭 木俣佳丈 高橋千秋 黒岩宇洋 市川一朗 中川雅治 岸信夫 猪口邦子 羽田雄一郎 林久美子 風間直樹 江崎孝 石田昌宏 藤井基之 石井浩郎 石橋通宏 小西洋之 鈴木宗男 榛葉賀津也 表 話 編 歴 稲嶺一郎 喜屋武眞榮 照屋寛徳 西銘順志郎 糸数慶子 高良鉄美 喜屋武眞榮 大城眞順 島袋宗康 糸数慶子 島尻安伊子 伊波洋一 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 沖縄県選出の参議院議員 自由民主党の参議院議員 昭和時代の参議院議員 20世紀日本の実業家 南満洲鉄道の人物 従三位受位者 勲一等瑞宝章受章者 勲二等瑞宝章受章者 日本の引揚者 早稲田大学出身の人物 沖縄県出身の人物 久米三十六姓出身の人物 1905年生 1989年没 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事
2024/11/19 14:37更新
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inamine ichirou
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