荒船清十郎の情報(あらふねせいじゅうろう) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
荒船 清十郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
荒船清十郎の情報まとめ
荒船 清十郎(あらふね せいじゅうろう)さんの誕生日は1907年3月9日です。埼玉出身の政治家のようです。
卒業、事件、映画、テレビ、家族、結婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1980年に亡くなられているようです。
荒船清十郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)荒舩 清十郎(あらふね せいじゅうろう、1907年(明治40年)3月9日 - 1980年(昭和55年)11月25日)は、日本の政治家、実業家。運輸大臣(第33代)、行政管理庁長官(第40・42代)、衆議院副議長(第49代)。衆議院議員(13期)。位階は正三位、勲等は勲一等。東映フライヤーズのプロ野球選手(1970年 - 1972年)、埼玉県議会議員(1期、1979年4月 - 1983年3月)であった荒舩洋資は甥であり後に養子となる。 埼玉県秩父郡高篠村(現秩父市)出身。先代・清十郎の長男。埼玉県立工業学校卒業、明治大学専門部中退。織物製造業を経営。 「清十郎」は先祖代々の襲名で、本人は16代目にあたる(以後は襲名者は出ていない)。ほとんどのメディアでは「荒船」と表記していたが、「荒舩」が正しく、本人は誤記されると怒ったという。先祖は鎌倉で船大工をしており、公家の船しか作らなかったため「舩」の字を用いた、とされる。 秩父銀行頭取となった後、青年団の幹部を務めていたこともあり、当時埼玉県の財政圧迫の主要因となっていた荒川の洪水を防ぐために、各青年団に檄を飛ばし霞堤の取り壊し運動をするも当局の取り締まりにかなわず断念。その際、憲兵隊分隊長に「そういう非常手段をとるよりも、もっと力をあわせて上流にダムをつくるなどの政治手段をとれ」と諭され、荒川の問題を政治の力で解決できると確信し、政界を目指す。1937年(昭和12年)4月、高篠村会議員。1940年(昭和15年)1月、立憲政友会に所属で埼玉県会議員に初当選。1944年(昭和19年)11月から1945年(昭和20年)11月まで副議長。1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)まで高篠村村長。1946年(昭和21年)日本自由党公認で第22回衆議院議員総選挙に埼玉県全県区から立候補して初当選。その後、1947年(昭和22年)3月に公職追放を受け失職したが、1950年(昭和25年)10月に追放を解除され、1952年(昭和27年)10月、第25回総選挙で埼玉県第3区から自由党所属で出馬して返り咲き当選を果たす。保守合同後は自由民主党の石井派に属していたが、第28回衆議院議員総選挙後に大野伴睦(睦政会)派に移り、大野没後は後述の通り、交友クラブの発足に尽力し、川島正次郎とそれを継承した椎名悦三郎からの信任が厚かった。また、1953年(昭和28年)には、議院運営委員会委員として議事進行係を務める。党役職としては副幹事長、総務会副会長、顧問を歴任。 1955年(昭和30年)12月、高篠村立高篠中学校敷地として土地を寄付により1957年(昭和32年)4月24日紺綬褒章受章、功績顕著として木杯一組台付を賜った。 衆議院では1959年(昭和34年)6月議院運営委員長、1960年(昭和35年)12月決算委員長、1963年(昭和38年)10月予算委員長を歴任。 また、容姿に似合わず酒はあまり飲まなかったという。 1966年(昭和41年)8月、第1次佐藤第2次改造内閣の運輸相に抜擢されるが、10月1日からのダイヤ改正に際して、国鉄に要請して自分の選挙区(当時の埼玉3区)にあった深谷駅を急行停車駅に指定させたため、世論の批判を受ける。 問題が表面化した9月3日の夜、荒舩は自宅で新聞記者に「私のいうことを国鉄が一つぐらい聞いてくれても、いいじゃあないか」と発言した。9月12日の参議院運輸委員会でこの問題が取り上げられ、石田礼助国鉄総裁は「いままでいろいろ御希望があったのだが、それを拒絶した手前、一つくらいはよかろうということで、これは私は心底から言えば武士の情けというかね」と答弁した。さらに、この問題を皮切りに、以下のような疑惑が次々と国会で追及されることになる。 衆議院決算委員長在任中の1961年2月、田中彰治が関与したとされる大阪拘置所の土地交換に関わる恐喝疑惑に関し、田中とともに非公式に大阪に赴き、土地交換の関係者に面会していた。 運輸大臣就任直後の1966年8月に各業界との懇談会を開いた際、荒舩の個人後援会「瀞白会」の役員が、業者に後援会への加入を勧誘した。 1966年9月にソウルで開かれた日韓経済閣僚懇談会に出席した際、民間業者2人を同行した。荒舩はかれらが自身らの商用で行くというので口を利いただけだと弁明したが、入管の出国カードには2人が荒舩運輸相随行員と記されていたことや運輸省から駐韓日本大使館に2人は秘書でないが同行させるとの連絡が入っていたことが明らかになった。 後援会の会員と荒舩が上野駅の構内食堂を経営していたが、その後新聞でもとくに名を伏せるとされた女性と荒舩は経営を代わっており、その食堂がはやっているため拡張を計画し、それを国鉄に陳情、国鉄側は困っていると報じられた。 こうした一連の疑惑が積み重なり、荒舩は10月11日に辞表を提出した。辞任時の記者会見では「悪いことがあったとは思わない。ただ、今は世論政治だから、世論の上で佐藤内閣にマイナスになると、党員として申訳ないので辞める」と語っている。所属派閥の領袖であった自民党副総裁川島正次郎は、10月29日の記者会見で「荒船〔ママ〕君はやっぱり“野におけレンゲ草”だったよ」と評した。 『宝石』(光文社)1966年12月号は「'66年度“宝石最低殊勲賞”政界の部“最低放言賞”」に荒舩を選び、選考委員の一人であった評論家大宅壮一は「ダイコンみたいなものだ」と評した。 翌1967年(昭和42年)の第31回総選挙で、埼玉3区から立候補した荒舩は、まず秩父神社で選挙演説を始め、「代議士が地元のために働いてどこが悪い。深谷駅に急行を止めて何が悪い」と演説し喝采を浴びると共に、そのあまりにもストレートな地元至上主義的な内容でマスコミ関係者の度肝を抜いた。 1970年(昭和45年)衆議院副議長に就任した。 1972年(昭和47年)1月8日、自らの後援会「荒舩会」が開催した新年旅行の途上、列車内において講演し、その中で、1971年の沖縄国会(第67回臨時国会)会期中の学生らによる抗議デモに言及し「社会党や共産党はじめとして、あらゆる自由民主党以外の政党は、沖縄返還反対だといって学生をおだてて火炎ビンを投げさせる」「学生に火炎ビンを投げさしたり、竹やりであばれさしたり、町中火をつけたりたのには日当五千円ずつ、一日に五千円ずつ払ってあばれさしたんだ。この金は隣の共産党の国からきている」などと発言した。またこの際、上越新幹線のルート決定について「新潟県では通産大臣をやっている田中角栄、それから群馬県では外務大臣の福田赳夫、埼玉県は荒船〔ママ〕清十郎、この三人でどこに止めるか、どういうふうに通すかという特別委員になりましてきめたわけでございます」とも発言している。この録音テープを日本共産党が入手して1月23日付の党機関紙『赤旗』紙上で暴露するとともに、24日の衆議院議院運営委員会において「公党に対するいわれのないひぼう」として追及した。荒舩は「テープには“といううわさがある”といった個所が消されている」などと釈明したが、25日に副議長辞任に追い込まれた。 1976年(昭和51年)衆議院予算委員長としてロッキード事件の証人喚問を取り仕切った。このとき決して所属政党の都合のみに偏せず、国民の実態を知りたいという要望にも応えた、委員長としての采配ぶりは評判がよく、かつて一連のスキャンダルで、本人自身が政治生命を半分失ったと嘆いていたが、それを取り戻した趣きがあるほど、国民の人気も高まった。同年9月衆議院永年在職議員表彰。同年三木改造内閣、翌年福田改造内閣でそれぞれ行政管理庁長官となり、戦後最大の審議会統廃合を推進。また、ニセ電話事件においては弾劾裁判の裁判長も務めている。1977年(昭和52年)春の叙勲で勲一等旭日大綬章受章。 1980年(昭和55年)11月25日、喘息で入院していた神奈川県相模原市の国立相模原病院で死去、73歳。死没日をもって正三位に叙され、銀杯一組を賜った。また、1981年 (昭和56年) 1月29日、衆議院本会議において高田富之による追悼演説が行われた。 「たとえば社会党と話をして、どういうことをしたら向こうの顔が立つか、こっちだけの主張を通したんじゃ、運営はうまくいかないですね。まあ五分五分勝たなくたっていい。なるべくゴタゴタしないで、運営できるように。しかも、まあ、やっとでもいいから、法案が成立するようにと、こういう考えですね、わたくしは」とあるように野党の主張を踏まえた運営を行うことが多かった。 1976年(昭和51年)、日本社会党の安宅常彦は「武器」の定義をめぐり通商産業省と防衛庁の間における解釈の相違を追求した際には、「委員長から総理に申し上げますが、実は鉄かぶとが兵器で戦車が兵器でないというようなことは世界じゅうの常識から通らないと私も思います。したがいまして、こういう見解は、ひとつ内閣で統一した見解をつくっていただくべきだと思いますが、総理はこれに対して御答弁願います。」と質問者側に立って政府側を追求する一方、答弁に反発する安宅に対して「安宅君に申し上げますが、多少の時間、空白がありましたのをおまけをいたしますから、御承知を願います。」と取引を持ち掛けた。それに対し安宅は「多少のおまけとは何分か」と問い返し、荒舩が「審議中断は正確には四分間だが、政府の不手ぎわもあるから二十分間の延長を認めます。」と返答し、審議はスムーズに進んだという。 徹底して地元への利益誘導型の政治を行った。たとえば、地元から事業について依頼された際には補助金の獲得等に尽力し、地元にとっては事業実現ための大きな力であった。そして、この背景には、故郷である秩父を愛する気持ちがあったという。 1976年(昭和51年)、当時の三木武夫総理大臣から「予算の仕組みをするについて君のいうことを聞くから」、予算委員長に留任するように要請された。その際、荒舩は第1次オイルショックやそれに伴う総需要抑制策による不況によって、市町村の財政へのダメージが大きいとして、地方財政への対策を予算に盛り込むことを条件に出している。 決してクリーンではないが気骨ある政治家として知られ、また品性に欠ける嫌いがあったものの愛嬌があり憎めない党人派として国民から親しまれた。 戦時中に九六式艦上戦闘機を寄付し、荒舩号と名付けられた。 歌手の春日八郎の後援会長も務めていたことがあり、1963年(昭和38年)には日本初の代議士ソングとされる『荒舩清十郎の唄』(作詞森菊蔵、作曲長洲忠彦、歌サニー・トーンズ)をレコード発売した。 まだ入閣したことがなかった荒舩は、内閣改造に際して自らが所属する川島派の大臣候補として首相に推薦されたものの、首相から反対を受け当時総務会長であった赤城宗徳が就任することとなった。そして、この経緯を知る赤城は内閣改造後の派閥の乾杯の際に思わず「すみません」と頭をさげたが、「すみませんということがあるものか。めでたいよ。こんどは赤城さんにがんばってもらって、オレたちを早く押し出してもらうさ」と全く意に介さない様子で真っ先に盃を上げた。この一連の流れを受け、川島はホッと救われた表情をしたという。 衆議院予算委員長在任中の1976年4月に映画『戦場にかける橋』がフジテレビ系「ゴールデン洋画劇場」で放映された際、冒頭のナレーションとイギリス軍指導教官役の日本語吹き替えに起用された。ロッキード事件での小佐野賢治の証人喚問の際に国会中継を見ていたスタッフが起用を決めた。元々は重要な登場人物を演じた早川雪洲を吹き替える予定であったが、当人が忙しく、そもそも俳優・声優などでもないため、当初の予定より出番を大幅に減らして起用された。 1976年にニセ電話事件の弾劾裁判の判事に法曹出身の横路孝弘や寺田熊雄等と共に選出された。そして、裁判長を選出するに際し投票が行われ、荒舩自身は弁護士で法学博士であった田中伊三次に投票した。しかし、投票の前日に荒舩以外の13名の判事は「裁判長は荒舩にしよう彼には黙っていよう。」と密約を交わし、全員が荒舩に投票した。そして、引き受けることを渋った荒舩であったが、周囲の説得を受け裁判長を引き受けた。 1977年に第6回ベストドレッサー賞を受賞している。選考理由はストライプのスーツであったが、本人はそのことを理解しておらず、無地のスーツで受賞式に現れた。 公害国会を経て、混入物質の濃度を示す単位のppmが環境汚染の指標として盛んに使われていた頃、荒舩はppmを汚染物質そのものと勘違いしていた。空気のきれいな当時の北京の空港に降り立った際に「ここはppmがないなあ」と言って同行の竹下登を呆れさせている。そんな荒舩だが環境議員連盟には真っ先に参加。竹下がからかって「今後、この議連は上級・中級・初級に分けます。橋本君は上級、海部君は中級、君(荒舩)は初級だ。」というと、「それはそうだな。おれは何も分ってないんだからな。」と素直に応えたという。 荒舩は川島のことを「生涯の師」と仰ぐ一方、川島も荒舩の人柄や派閥でのはたらきを評価していた。 当時立憲政友会で埼玉県青年部長をしていた荒舩は、裕福な家の出身であったこともあり1939年(昭和14年)9月に実施される貴族院議員多額納税議員に立候補しようとしていた。しかし、立候補を予定していた松本真平、岩田三史は何れも政友会の所属であったため、荒舩の出馬に伴う共倒れを怖れ、関東全体の選挙区を調整する役目にあった鳩山一郎が秩父に赴き出馬を取りやめるよう説得に当たったが、荒舩は承知しなかった。そこで、候補者が前田米蔵の系統ということもあり、前田の代理として川島が秩父へと派遣されることとなった。秩父に着いた川島は、出迎えた荒舩に料理屋へ案内させると芸者を呼び、どんちゃん騒ぎをした。そして、「荒舩クン、貴族院議員は7年だが、一回やればそれで終わりだ。もっと長い方を選んだらどうだい。お互い若いんだから一緒にやろうや。ボクも前田もキミを応応援するよ」「君のような三十歳になったかならないかの若いものが多額納税議員に出るのは自殺行為だ」「この次は必らず〔ママ〕衆議院に公認するから」などと諭し続けた。これを受け、荒舩は貴族院議員に出馬することを諦め、埼玉県会議員に出馬することとした。 1962年(昭和32年)に岸派が分裂する際に、川島の承諾を得ることなく川島を中心とする派閥を結成するために動き出し、一度は資金面で適正規模とされた25人を集めることに成功した。しかし、実際に11月8日に行われた結成大会に集まったのは12人に過ぎず、荒舩は2週間にわたり、松沢雄蔵らとともに奔走し26日に再び行われた結成大会では19人を集めた。 池田内閣で当時法務大臣を務めていた賀屋興宣に頼まれ、メロン2個と引き換えに、「内閣総理大臣、賀屋興宣クーン」と指名した。 1969年2月14日に午前9時40分から開かれる予算委員会では、沖縄問題等に関して有田喜一防衛庁長官に対する質疑が予定されていた。一方、同日の午前10時から開かれる参議院本会議でも8日に起きた自衛隊機墜落事件に関する質疑が予定されており、結果的に衆議院予算委員会と参議院本会議の両方が有田長官に出席を要求する事態となった。このため参議院側から衆議院側が譲歩するように説得が行われたが、荒舩は頑として譲歩しなかった。結果的に、参議院本会議は午前中に予鈴こそ鳴らされたものの、午後1時4分に至るまで開議に至ることができなかった。これに対し参議院の議院運営委員会の理事の一人は、「なにしろ急行列車をとめた人だから本会議をとめるぐらい平気なのだろう」と言い放ったという。 1965年(昭和40年)6月、日韓基本条約が締結され、今後の10年間で3億ドルの無償援助を含む総額8億ドル以上の援助を行うことが決定した。3億ドル(当時のレートで1080億円)は、当時の日本政府の一般会計予算の約3%に相当する。一方、借款は低利とはいえ有利子で、返済期間は20年でこの種の開発プロジェクトの借款としては長いものではなく、既に過去の援助借款に一部焦げ付きを出していたこともあり、危ぶむ声もあったが、韓国政府は返済に自信があるとした。荒舩は運輸相(当時)として、日韓経済閣僚懇談会のメンバーとなり、借款問題等を取り扱ったが、原資は日本の税金ながら、いわゆる紐付き借款であるため、日本側の業者にとっては利益に繋がり、荒舩自身も知り合いの業者を日韓経済閣僚懇談会の行われる韓国ソウルに同行させる等、積極的であった節がある。荒舩は1965年11月20日に、地元選挙区の集会(秩父郡市軍恩連盟招待会。彼らは旧軍人とその家族・遺族への恩給問題を取り扱うため、徴用朝鮮人らとある意味共通の問題を抱え、朝鮮人らの気持ちがよく分かるとともに、同時に外国に金を出すくらいであれば、まず自身らの恩給を確保して欲しいことを願わざるをえない立場でもあった)にて、次のように発言した。 このことは、後に慰安婦問題につながり、国連のマクドゥーガル報告書の日本軍の性奴隷制や虐待死の根拠の一つとされた。 1907年 (明治40年) 3月9日 - 埼玉県秩父郡高篠村、先代荒舩清十郎の長男として生まれる。 1913年 (大正2年) 4月 - 秩父郡高篠村立高等尋常小学校入学。 1920年 (大正9年)
4月 - 埼玉県立工業学校入学。 1925年 (大正14年)
4月 - 織物屋 丸上を経営。 1929年 (昭和4年) 12月 - たけと結婚 1935年 (昭和10年) 11月 - 秩父銀行取締役頭取に就任。 1937年 (昭和12年) 4月 - 高篠村会議員に当選。 1940年 (昭和15年) 1月 - 埼玉県議会議員に当選。 1943年 (昭和18年)
5月 - 明治大学修業。 1944年 (昭和19年) 11月 - 埼玉県議会副議長に就任。 1945年 (昭和20年) 11月 - 日本自由党入党。 1946年 (昭和21年) 4月 - 第22回衆議院議員総選挙に埼玉全県区から出馬し初当選。 1947年 (昭和22年) 3月 - 公職追放を受け失職。 1950年 (昭和25年) 10月 - 公職追放解除。 1952年 (昭和27年) 10月 - 第25回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から出馬し当選。(以後衆議院選挙は、同選挙区より出馬し11回連続当選) 1953年 (昭和28年) 7月 - 衆議院の議事進行係を務める。 1954年 (昭和29年) 8月 - 第5次吉田内閣で建設政務次官に就任。 1957年 (昭和32年) 4月 - 紺綬褒章受章。 1959年 (昭和34年) 6月 - 議院運営委員長に就任。 1960年 (昭和35年) 12月 - 決算委員長に就任。 1963年 (昭和38年) 10月 - 予算委員長に就任。(以後同職を5度務める。) 1966年 (昭和41年)
10月 - 国鉄をめぐる種々の疑惑により運輸大臣を辞任。 1970年 (昭和45年) 1月 - 衆議院副議長に就任。 1972年 (昭和47年) 1月 - 共産党をめぐる放言問題を受け衆議院副議長を辞任。 1976年 (昭和51年)
9月15日 - 三木改造内閣で行政管理庁長官に就任。 9月27日 - 衆議院から衆議院永年在職議員表彰を受ける。 12月 - ニセ電話事件の弾劾裁判所裁判長に選任。 1977年 (昭和52年)
11月 - 福田赳夫改造内閣で行政管理庁長官に就任。 1980年 (昭和55年)
11月25日 - 正三位に叙される。 12月 - 秩父市名誉市民に推戴。 『ロッキード問題と51年度予算』(政財界、1976年) 1957年(昭和32年)4月24日 - 紺綬褒章、木杯一組台付 1977年(昭和52年)4月29日 - 勲一等旭日大綬章 1980年(昭和55年)11月25日 - 正三位、銀杯一組 ^ このとき停車することになったのは、上野発長野行「第3信州」、長野発上野行「第1信州」、上野 - 水上間往復「奥利根2号」の4本だった。なお、国会での荒舩の釈明によれば、深谷駅はかつて1956年3月に急行停車駅となったことがあるが、1961年2月ごろから停車しなくなったという。 ^ 9月4日付『朝日新聞』では「ひと駅ぐらい、いいじゃないか」、9月5日付『朝日新聞』の「天声人語」では「国鉄もひとつぐらいオレのいうことを聞いてくれてもいいじゃないか」。荒舩は後に国会で、「何か一つくらいおれの言うことを聞いてもいいじゃないかと〔引用者注:国鉄に対して〕言ったように新聞には出ておりますが、全くそういうことではございません」と発言しているが、実際は「一つくらい…」は国鉄相手ではなく、記者に対する発言である。 ^ この時の荒舩から国鉄に対する陳情は 1. 深谷駅からの始発列車を設ける事 2. 深谷駅に裏口を設ける事 3. 八高線の輸送力増強 4. 新駅設置 などで、これに対し国鉄は予算措置を伴わず他への影響も少ない事から急行停車を認めたとされる。 ^ 『続近世畸人伝』に紹介されている、滝野瓢水が、知人が遊女を身請けしようとしたのを諫めて詠んだとされる句「手に取るなやはり野に置け蓮華草」を引用したもの。 ^ 荒舩がどの事件を念頭に置いていたのかは不明だが、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)が、11月14日に渋谷暴動事件、19日に日比谷暴動事件(松本楼が炎上)を引き起こしている。 ^ 『赤旗』紙は「発言の間合いをはじめ列車のゴトン、ゴトンという音のリズムなどからみて、なんら作為をほどこしたものでないことが明らかです」と反論している。 ^ 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』28頁。 ^ 「深谷商高出・東映入団した荒舩清十郎副議長の甥」『週刊文春』12(5)、1970年。 ^ 『第廿一版 人事興信録 上』1961年(昭和36年)、あ一一七。 ^ 第94回国会 衆議院 本会議 第4号 昭和56年1月29日 ^ 小川 1985, p. 189. ^ 荒舩清十郎『ロッキード問題と51年度予算』政財界、1976年。 ^ 小川 1985, p. 204. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第22回』431頁。 ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年、61頁。 ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』80頁。 ^ 渡辺恒雄『派閥ー保守党の解剖ー』弘文堂、1958年、140頁。 ^ 『官報』第9099号598頁 昭和32年4月25日号 ^ 大野明男 (1976). “続・虚人列伝ー荒舩清十郎ーロッキード国会で声を売った放言士”. 現代の眼 17: 235頁. ^ “第52回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第1号” (1966年9月12日). 2020年12月9日閲覧。 ^ 「汽笛一声選挙区に 運輸大臣、急行とめる」『毎日新聞』1966年9月4日、15面。 ^ “第52回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第1号” (1966年9月12日). 2020年12月9日閲覧。 ^ 『朝日年鑑 1967年版』朝日新聞社、1967年2月15日、253-254頁。 ^ “第52回国会 参議院 法務委員会 閉会後第1号” (1966年9月10日). 2020年12月9日閲覧。 ^ “第52回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第1号” (1966年9月12日). 2020年12月9日閲覧。 ^ “第52回国会 参議院 決算委員会 閉会後第5号” (1966年9月27日). 2020年12月9日閲覧。 ^ “第52回国会 衆議院 運輸委員会 第4号” (1966年10月11日). 2020年12月9日閲覧。 ^ “第52回国会 参議院 法務委員会 閉会後第3号” (1966年10月11日). 2020年12月9日閲覧。 ^ 「「悪い事をしたと思わぬ」 開き直った荒船〔ママ〕氏」『朝日新聞』1966年10月12日、15面。 ^ 「“野におけレンゲ草だった”荒船〔ママ〕氏更迭 川島氏、帰国して語る」『朝日新聞』1966年10月20日、1面。 ^ 「「急行止めて何が悪い」 荒船〔ママ〕 清十郎氏」『朝日新聞』1967年1月9日、15面。 ^ 「暴力学生問題で公党ひぼうの暴言 またも荒船〔ママ〕衆院副議長」『赤旗』1972年1月23日、1面。 ^ 「「過激派をおだてた社・共」荒船〔ママ〕発言 共産党、追及の方針」『朝日新聞(夕刊)』1972年1月24日、1面。 ^ 「新幹線問題認める 荒船〔ママ〕氏 苦しい言いのがれ」『赤旗』1972年1月25日、1面。 ^ 「荒船〔ママ〕副議長が辞表」『朝日新聞』1972年1月26日、1面。 ^ 『官報』号外第29号1頁 昭和52年5月2日号 ^ 『官報』第16162号12-13頁 昭和55年12月5日号 ^ 「〈森敦対談〉荒舩清十郎『政府高官は必ず出る』」『サンデー毎日』55(19)、1976年。 ^ “第77回国会 衆議院 予算委員会 第7号” (1971年2月4日). 2023年2月14日閲覧。 ^ “第77回国会 衆議院 予算委員会 第7号” (1976年2月4日). 2023年2月14日閲覧。 ^ 荒舩清十郎『ロッキード問題と51年度予算』政財界、1976年、29-30頁。 ^ 小林吉弥 (1975). “荒舩清十郎一代記”. 宝石 3(6): 191. ^ 荒舩清十郎、細川隆元 (1976). “『反三木派』『親三木派』の思惑”. 宝石 4(7). ^ 『荒舩清十郎写真集』両神興業、1985年、64頁。 ^ 小畑伸一によると、1965年(昭和40年)の第1次佐藤(第1次改造)内閣発足の際のこととされるが、赤城が総務会長から農林大臣に横滑りしたのは、1963年(昭和38年)の第2次池田(第3次改造)内閣の際であり、時期については著者の記憶違いが存在する。 ^ 小畑伸一『政界一寸先は闇 : ある川島担当記者の手記』黄帆社、1972年、108-109頁。 ^ 「吹き替えに荒船〔ママ〕代議士」『朝日新聞』1976年2月29日、20面。 ^ 「“声優”荒船〔ママ〕 味なセリフ」『朝日新聞』1976年4月13日、24面。 ^ 小川 1985, p. 192. ^ 荒舩清十郎 (1978). “私の怒り”. 経営コンサルタント 351: 36頁. ^ “歴代ベストドレッサー賞受賞者一覧”. ベストドレッサー賞公式サイト. 2020年12月9日閲覧。 ^ 竹下登『政治とは何か 竹下登回顧録』 第7章2節 pp. 189-190. ^ 「グラビアー目で見る私の履歴書ー衆議院議員荒舩清十郎」”. 『政経人』 25(7). (1978). ^ 小畑伸一『政界一寸先は闇 : ある川島担当記者の手記』黄帆社、1972年、109頁。 ^ 「無競争当選は27名 あす多額議員選挙施行/多額議員無競争当選者<表>」『朝日新聞』1939年9月9日、2面 ^ 荒舩清十郎「親不孝な子」『川島正次郎』交友クラブ、1971年、23-24頁。 ^ 小畑伸一『政界一寸先は闇 : ある川島担当記者の手記』黄帆社、1972年、185-186頁。 ^ 小畑伸一『政界一寸先は闇 : ある川島担当記者の手記』黄帆社、1972年、43-44頁。 ^ 『荒舩清十郎写真集』両神興業、1985年、180頁。 ^ 「[政界メモ]荒船委員長、本会議も止める」『『読売新聞』』1969年2月15日。 ^ 「日韓経済閣僚懇談会ひらく ソウル 借款1億5000万ドル」『読売新聞』1966年9月8日、夕刊、1面。 ^ 「荒舩運輸相また国会でもまれる 韓国(閣僚懇談会)へ業者随行」『読売新聞』1966年10月11日、夕刊、1面。 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第22回』衆議院事務局、1950年。 小川一 編『荒舩清十郎写真集』両神興業、1985年5月。 竹下登『政治とは何か 竹下登回顧録』講談社、2001年1月。ISBN 4-06-210502-0。 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。 荒舩美栄 - 遠縁の親戚。 表 話 編 歴 大江卓 松田正久 佐藤昌蔵 河野広中 箕浦勝人(代理) 石田貫之助 中野武営 阿部興人 武富時敏 星亨 元田肇 江原素六 栗原亮一 石田貫之助 原敬 栗原亮一 大岡育造 栗原亮一 大岡育造 栗原亮一 鳩山和夫 原敬 野田卯太郎 元田肇 井上角五郎 奥繁三郎 改野耕三 井上角五郎 大岡育造 片岡直温 山本悌二郎 小川平吉 斎藤珪次 中村啓次郎 吉植庄一郎 武藤金吉 田辺熊一 東武 山本悌二郎 野田卯太郎 片岡直温 町田忠治 藤沢幾之輔 川原茂輔 頼母木桂吉 武内作平 川原茂輔 堀切善兵衛 井上孝哉 森田茂 武内作平 川崎克 山崎達之輔 大口喜六 岡田忠彦 山崎達之輔 前田米蔵 島田俊雄 砂田重政 若宮貞夫 川崎克 小山松寿 熊谷直太 勝正憲 若宮貞夫 田子一民 桜井兵五郎 三土忠造 増田義一 東郷実 松村謙三 大口喜六 金光庸夫 小川郷太郎 島田俊雄 勝田永吉 太田正孝 中島弥団次 矢野庄太郎 竹田儀一 鈴木茂三郎 上林山榮吉 植原悦二郎 小坂善太郎 塚田十一郎 太田正孝 尾崎末吉 倉石忠雄 山口喜久一郎 牧野良三 三浦一雄 山崎巌 江﨑真澄 楢橋渡 小川半次 西村直己 船田中 山村新治郎 塚原俊郎 荒舩清十郎 青木正 福田一 植木庚子郎 井出一太郎 荒舩清十郎 中野四郎 瀬戸山三男 坪川信三 根本龍太郎 荒舩清十郎 白浜仁吉 坪川信三 田中正巳 中野四郎 小此木彦三郎(代理) 竹下登 田村元 小山長規 栗原祐幸 久野忠治 倉成正 天野光晴 小渕恵三 砂田重民 浜田幸一 奥田敬和 大野明 中尾栄一 越智伊平 渡部恒三 山村新治郎 高鳥修 粕谷茂 山口鶴男 佐藤観樹 上原康助 深谷隆司 松永光 越智通雄 中山正暉 島村宜伸 原田昇左右 野呂田芳成 津島雄二 藤井孝男 笹川堯 甘利明 大島理森 金子一義 逢沢一郎 衛藤征士郎 鹿野道彦 松原仁(代理) 中井洽 山本有二 二階俊博 大島理森 河村建夫 竹下亘 浜田靖一 河村建夫 野田聖子 棚橋泰文 金田勝年 根本匠 小野寺五典 伊藤達也 安住淳 表 話 編 歴 津田真道 曾禰荒助 楠本正隆 安部井磐根 片岡健吉 島田三郎 元田肇 杉田定一 箕浦勝人 肥塚龍 関直彦 花井卓蔵 早速整爾 浜田国松 粕谷義三 松田源治 小泉又次郎 松浦五兵衛 清瀬一郎 小山松寿 増田義一 植原悦二郎 岡田忠彦 金光庸夫 田子一民 内ヶ崎作三郎 勝田永吉 木村小左衛門 井上知治 田中萬逸 岩本信行 原彪 高津正道 杉山元治郎 椎熊三郎 正木清 中村高一 久保田鶴松 原健三郎 田中伊三次 園田直 小平久雄 藤枝泉介 荒舩清十郎 長谷川四郎 秋田大助 三宅正一 岡田春夫 勝間田清一 多賀谷真稔 安井吉典 村山喜一 鯨岡兵輔 渡部恒三 中野寛成 横路孝弘 衛藤征士郎 赤松広隆 川端達夫 赤松広隆 海江田万里 玄葉光一郎 議院 衆議院 貴族院 参議院 表 話 編 歴 創設 斎藤珪次 谷河尚忠 田村順之助 園山勇 田村順之助 古谷新作 安川繁成 石黒涵一郎 滝口帰一 鈴置倉次郎 元田肇 首藤陸三 栗塚省吾 谷沢竜蔵 佐々木正蔵 小川平吉 板倉中 福岡精一 上埜安太郎 斎藤珪次 粕谷義三 板倉中 田中隆三 大津淳一郎 小河源一 鹿島秀麿 加藤彰廉 石黒涵一郎 富島暢夫 武市彰一 秋田清 小田切磐太郎 木下謙次郎 井上敬之助 宮古啓三郎 山口熊野 加藤重三郎 小橋藻三衛 湯浅凡平 河上哲太 磯部尚 井上利八 湯浅凡平 匹田鋭吉 伊坂秀五郎 佐々木平次郎 小山谷蔵 津原武 岡崎久次郎 川口義久 樋口典常 田口文次 山崎猛 丹下茂十郎 池田敬八 村上紋四郎 門田新松 立川太郎 胎中楠右衛門 宮澤裕 菊池良一 西方利馬 小林絹治 土屋清三郎 青木精一 西村茂生 斎藤直橘 手代木隆吉 高橋寿太郎 上田孝吉 小林絹治 川崎末五郎 三浦虎雄 一松定吉 加藤知正 菅又薫 逢沢寛 菅又薫 竹山祐太郎 松原一彦 松浦東介 本間俊一 菅家喜六 中垣國男 田中彰治 庄司一郎 上林與市郎 青野武一 坂本泰良 田中彰治 鈴木正吾 今井耕 荒舩清十郎 鈴木仙八 津雲國利 白浜仁吉 堀川恭平 吉川久衛 鍛冶良作 大石武一 中川俊思 浜野清吾 福田繁芳 笹山茂太郎 宇都宮徳馬 臼井荘一 井原岸高 村山達雄 芳賀貢 楯兼次郎 加藤清二 高田富之 國場幸昌 永田亮一 古屋亨 横山利秋 安井吉典 角屋堅次郎 堀之内久男 野中英二 宮下創平 中村靖 渡辺栄一 渡辺省一 草野威 貝沼次郎 稲垣実男 虎島和夫 石井一 中島衛 草川昭三 冬柴鐵三 廃止 表 話 編 歴 浅沼稲次郎 山口喜久一郎 大村清一 小沢佐重喜 石田博英 福永健司 菅家喜六 中村梅吉 椎熊三郎 保利茂 山村新治郎 江﨑真澄 荒舩清十郎 周東英雄 福永健司 小平久雄 福田一 佐々木秀世 福永健司 坪川信三 塚原俊郎 坪川信三 伊能繁次郎 久野忠治 塚原俊郎 渡海元三郎 田澤吉郎 海部俊樹 佐々木秀世 田澤吉郎 金丸信 細田吉蔵 亀岡高夫 山下元利 内海英男 山村新治郎 小沢一郎 綿貫民輔 越智伊平 三塚博 山口敏夫 小此木彦三郎 山下徳夫 森喜朗 中西啓介 与謝野馨 奥田敬和 中村正三郎 谷垣禎一 平沼赳夫 亀井善之 中川秀直 大島理森 藤井孝男 鈴木宗男 鳩山邦夫 大野功統 武部勤 川崎二郎 佐田玄一郎 逢沢一郎 笹川堯 小坂憲次 松本剛明 川端達夫 小平忠正 高木義明 佐田玄一郎 高木毅 逢沢一郎 林幹雄 河村建夫 佐藤勉 古屋圭司 高市早苗 高木毅 山口俊一 浜田靖一 表 話 編 歴 鬼丸義齋 古島義英 鈴木安孝 角田幸吉 星島二郎 中山福藏 高橋進太郎 星島二郎 小林亦治 長谷山行毅 山本正一 一松定吉 小林錡 下條康麿 鍛冶良作 綾部健太郎 杉浦武雄 花村四郎 井野碩哉 逢澤寛 大竹平八郎 今松治郎 井野碩哉 森田重次郎 吉武恵市 灘尾弘吉 斎藤昇 松平勇雄 大橋武夫 山本利壽 小山長規 小川半次 濱野淸吾 荒舩清十郎 新谷寅三郎 田中伊三次 上原正吉 八木一郎 上村千一郎 臼井莊一 長谷川四郎 源田実 渋谷直蔵 伊藤宗一郎 加藤武徳 熊谷太三郎 奥野誠亮 上村千一郎 岡田広 奥野誠亮 世耕政隆 村田敬次郎 高鳥修 斎藤栄三郎 林田悠紀夫 奥野誠亮 田邊誠 浜本万三 遠藤要 唐沢俊二郎 井上吉夫 堀内光雄 中山正暉 井上裕 野沢太三 綿貫民輔 吉川芳男 岡野裕 上杉光弘 陣内孝雄 葉梨信行 中曽根弘文 中山正暉 武藤嘉文 真鍋賢二 瓦力 竹山裕 保岡興治 松田岩夫 保岡興治 土肥隆一 今野東 牧野聖修 細川律夫 増子輝彦 小川敏夫 谷川秀善 船田元 吉田博美 船田元 吉田博美 船田元 吉田博美 船田元 有村治子 船田元 松山政司 船田元 松山政司 表 話 編 歴 斎藤隆夫 船田享二 船田享二 殖田俊吉 工藤鉄男 本多市郎 岡野清豪 広川弘禅 橋本龍伍 木村篤太郎 野田卯一 本多市郎 塚田十一郎 西田隆男 川島正次郎 河野一郎 大久保留次郎 石井光次郎 山口喜久一郎 益谷秀次 高橋進太郎 小沢佐重喜 川島正次郎 山村新治郎 増原恵吉 福田篤泰 田中茂穂 松平勇雄 木村武雄 荒木万寿夫 中村寅太 浜野清吾 福田赳夫 保利茂 細田吉蔵 松沢雄蔵 荒舩清十郎 西村英一 荒舩清十郎 金井元彦 宇野宗佑 中曽根康弘 斎藤邦吉 後藤田正晴 廃止 表 話 編 歴 小日山直登 田中武雄 三土忠造 村上義一 平塚常次郎 増田甲子七 苫米地義三 北村徳太郎 岡田勢一 小沢佐重喜 大屋晋三 山崎猛 石井光次郎 三木武夫 吉野信次 宮沢胤勇 中村三之丞 永野護 重宗雄三 楢橋渡 南好雄 木暮武太夫 斎藤昇 綾部健太郎 松浦周太郎 中村寅太 荒舩清十郎 藤枝泉介 大橋武夫 中曽根康弘 原田憲 橋本登美三郎 丹羽喬四郎 佐々木秀世 新谷寅三郎 徳永正利 江藤智 木村睦男 石田博英 田村元 福永健司 森山欽司 地崎宇三郎 塩川正十郎 小坂徳三郎 長谷川峻 細田吉蔵 山下徳夫 三塚博 橋本龍太郎 石原慎太郎 佐藤信二 山村新治郎 江藤隆美 大野明 村岡兼造 奥田敬和 越智伊平 伊藤茂 二見伸明 亀井静香 平沼赳夫 亀井善之 古賀誠 藤井孝男 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 木村小左衛門 一松定吉 一松定吉 益谷秀次 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 小沢佐重喜 竹山祐太郎 馬場元治 南条徳男 根本龍太郎 遠藤三郎 村上勇 橋本登美三郎 中村梅吉 河野一郎 小山長規 瀬戸山三男 橋本登美三郎 西村英一 保利茂 坪川信三 根本龍太郎 西村英一 木村武雄 金丸信 亀岡高夫 小沢辰男 仮谷忠男 竹下登 中馬辰猪 長谷川四郎 櫻内義雄 渡海元三郎 渡辺栄一 斉藤滋与史 始関伊平 内海英男 水野清 木部佳昭 江藤隆美 天野光晴 越智伊平 小此木彦三郎 野田毅 原田昇左右 綿貫民輔 大塚雄司 山崎拓 中村喜四郎 五十嵐広三 森本晃司 野坂浩賢 森喜朗 中尾栄一 亀井静香 瓦力 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 大野伴睦 緒方竹虎 三好英之 大久保留次郎 正力松太郎 川村松助 鹿島守之助 石井光次郎 山口喜久一郎 村上勇 西川甚五郎 小沢佐重喜 川島正次郎 佐藤栄作 増原惠吉 福田篤泰 前尾繁三郎 二階堂進 木村武雄 野田武夫 西田信一 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 古賀雷四郎 綿貫民輔 粕谷茂 坂元親男 井上吉夫 阿部文男 砂田重民 木部佳昭 谷洋一 伊江朝雄 北修二 上原康助 佐藤守良 小里貞利 小沢潔 高木正明 岡部三郎 稲垣実男 鈴木宗男 井上吉夫 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 西村英一 丹羽兵助 金丸信 天野光晴 田沢吉郎 櫻内義雄 中野四郎 園田清充 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 山崎平八郎 綿貫民輔 奥野誠亮 内海英男 野中英二 石井一 佐藤守良 西田司 東家嘉幸 井上孝 上原康助 左藤恵 小沢潔 池端清一 鈴木和美 伊藤公介 亀井久興 柳澤伯夫 井上吉夫 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 扇千景 石原伸晃 北側一雄 冬柴鐵三 谷垣禎一 中山成彬 金子一義 前原誠司 馬淵澄夫 大畠章宏 前田武志 羽田雄一郎 太田昭宏 石井啓一 赤羽一嘉 斉藤鉄夫 中野洋昌 表 話 編 歴 青柳高一 関根久蔵 松崎朝治 高田富之 阿左美広治 高間松吉 荒舩清十郎 貫井清憲 阿左美広治 杉村沖治郎 荒舩清十郎 松崎朝治 杉村沖治郎 荒舩清十郎 阿左美広治 荒舩清十郎 高田富之 鴨田宗一 荒舩清十郎 高田富之 鴨田宗一 荒舩清十郎 鴨田宗一 高田富之 荒舩清十郎 鴨田宗一 高田富之 荒舩清十郎 鴨田宗一 高田富之 荒舩清十郎 鴨田宗一 高田富之 荒舩清十郎 高田富之 鴨田宗一 荒舩清十郎 高田富之 鴨田利太郎 荒舩清十郎 鴨田利太郎 高田富之 加藤卓二 田並胤明 糸山英太郎 加藤卓二 糸山英太郎 田並胤明 加藤卓二 田並胤明 増田敏男 増田敏男 加藤卓二 糸山英太郎 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 昭和時代戦後の閣僚 日本の運輸大臣 行政管理庁長官 衆議院副議長 自由民主党の衆議院議員 自由党(日本 1950-1955)の衆議院議員 埼玉県選出の衆議院議員 埼玉県選出の衆議院議員 (帝国議会) 昭和時代戦前の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 在職中に死去した衆議院議員 埼玉県議会議員 埼玉県の市町村議会議員 埼玉県の市町村長 正三位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 紺綬褒章受章者 20世紀日本の実業家 公職追放者 名跡 深谷市の歴史 埼玉県立川越工業高等学校出身の人物 埼玉県出身の人物 1907年生 1980年没 プロジェクト人物伝項目 2024/11/15 16:23更新
|
arafune seijuurou
荒船清十郎と同じ誕生日3月9日生まれ、同じ埼玉出身の人
TOPニュース
荒船清十郎と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「荒船清十郎」を素材として二次利用しています。