谷口浩美の情報(たにぐちひろみ) 陸上競技/マラソン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
谷口 浩美さんについて調べます
■名前・氏名 |
谷口浩美と関係のある人
中山竹通: 1986年にはソウルアジア大会では、序盤から銀メダルとなる谷口浩美らを振り切り独走、2時間8分21秒のタイムで圧勝した。 足立知弥: 同マラソンでの初マラソンは谷口浩美や森下広一以来のことであった。 師岡正雄: 2000年シドニーオリンピックで、ジャパンコンソーシアムの中継派遣として閉会式の中継を担当した際、放送時間を超えてもディレクターがOKを出さず、集中力を切らした師岡は「原住民のアボリジニの皆さんが、上半身丸ハダカで入場してきました」と表現擦るつもりが、言い間違えて「アボリジニの方々が下半身丸ハダカで出てきました」と発言して解説の谷口浩美からツッコまれ、NHKでも放送された 廣島日出国: 2002年には沖電気陸上部監督の座を、旭化成時代の愛弟子である谷口浩美に譲り、総監督に就任した。 森下広一: 8月のオリンピック本番では、旭化成のチームメイトだった谷口浩美や前述の中山とともに出場。 有森裕子: また世界陸上最終日の男子マラソンで、谷口浩美が金メダル獲得の快挙を成し遂げた際、競技場のスタンドで有森の横に座っていたモタは、谷口の優勝の瞬間自分のことのように喜んだ、という。 浅利純子: 2007年8月25日、2007年世界陸上選手権(大阪市)の開会式に、谷口浩美・鈴木博美と共に世界陸上の歴代優勝者としてゲスト出演した。 廣島日出国: 旭化成陸上部の監督時代には男子では宗茂、宗猛、児玉泰介、谷口浩美、森下広一、女子では宮原美佐子といった数多くの名選手を発掘し育て、全日本実業団駅伝(ニューイヤー駅伝)では6連覇するなど、旭化成の黄金時代を作り上げた。 島村俊治: 金メダル実況以外には1992年のバルセロナオリンピックでは男子フルマラソンで谷口浩美が中間点過ぎの給水時に転倒し、さらにシューズが脱げて履き直すアクシデントが起きた実況も担当した。 中山竹通: 1980年代後半に瀬古利彦や宗茂、宗猛兄弟、新宅雅也らと、1990年代前半には谷口浩美、森下広一らと日本マラソン界をリードした。 三村仁司: 君原健二、瀬古利彦、谷口浩美、森下広一、高橋尚子、有森裕子、野口みずき、イチロー、長谷川穂積、尾崎好美、小崎まり、青木宣親、内川聖一、香川真司、木﨑良子などのシューズ製作を担当した。 アーメド=サラ: 谷口浩美( |
谷口浩美の情報まとめ
谷口 浩美(たにぐち ひろみ)さんの誕生日は1960年4月5日です。宮崎出身の陸上競技
マラソンのようです。
主な成績、著書などについてまとめました。現在、引退に関する情報もありますね。谷口浩美の現在の年齢は64歳のようです。
谷口浩美のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)谷口 浩美(たにぐち ひろみ、男性、1960年4月5日 - )は、元男子マラソン選手、指導者。宮崎県南那珂郡南郷町(現日南市)出身。宮崎県立小林高等学校-日本体育大学体育学部体育学科卒。TOSS PLANNING所属。東京電力長距離・駅伝チーム監督、東京農業大学陸上競技部助監督を歴任し、現在は宮崎大学特別教授。 マラソンの自己最高記録は 2時間7分40秒(1988年・北京国際マラソン)で、日本男子歴代19位。 小林高校では1976年-1978年の全国高等学校駅伝競走大会(全国高校駅伝)に3年連続出場、1年次は区間14位と不本意な走りに終わったが、2-3年次はいずれも区間2位の成績で同校の2連覇に貢献した。 日本体育大学進学後には箱根駅伝(57回〜59回)で2年次より3年連続で6区を走り、いずれも区間賞を獲得した。特に3-4年次には当時の区間記録を2年連続で更新して「山下りのスペシャリスト」と呼ばれ、1983年第59回大会での日体大総合優勝9回目の原動力として活躍した。 元々は高校教員を目指しており、大学陸上を最後に現役選手を辞めるつもりだったが、教員採用試験で不合格となり、再受験準備のため旭化成に2年間だけ在籍という約束で入社する。 旭化成陸上部では、1985年の別府大分毎日マラソンで初マラソン初優勝を達成。その後、再び教員採用試験に臨むも不合格となり、やむなく現役続行を決意するが、1987年に東京国際マラソンで優勝、更にロンドンマラソンで海外初優勝を飾るなど更に活躍を続ける。しかし1987年の福岡国際マラソン(翌1988年のソウルオリンピック男子マラソン代表選考レース)では、雨と寒さに苦しめられた上、優勝した中山竹通のハイペースについてゆけず6位と完敗。1988年の東京国際マラソンで選考レースに再挑戦するも、レース前に嘔吐する体調不良も響いて9位に敗れ、ソウル五輪代表には選出されなかった。 その後、同年10月に行われた北京国際マラソンでは、優勝したエチオピアのアベベ・メコネンに僅か5秒及ばなかったが、マラソン自己ベスト記録となる2時間7分40秒の世界歴代7位(当時)で準優勝を果たした。1989年には東京国際マラソンで2度目の優勝を飾ったほか、夏の北海道マラソンでも優勝。1990年にはロッテルダムマラソンで海外2度目の優勝を達成するなど好成績を残した。 そして、競技生活最大のハイライトとなったのが、1991年9月に開催された世界陸上東京大会の男子マラソンだった。大会最終日に行われたレースは、気温30度を超す高温多湿の過酷なコンディションとなり、中山竹通やメコネンら60人中24人が途中棄権する中、谷口は39km手前でスパートしてジブチのアーメド・サラなどを置き去りにし、2時間14分57秒で優勝を飾り、日本人選手として世界陸上大会史上初の金メダルを獲得した。2019年現在、世界陸上選手権で優勝した日本人男子選手は谷口と室伏広治と鈴木雄介だけである。 1992年のバルセロナオリンピック男子マラソンでは優勝候補の1人とされていたが、20km過ぎの給水地点で後続選手に左足シューズの踵を踏まれて転倒し、さらにシューズが脱げて履き直すアクシデントに見舞われ30秒余りのタイムロスを負ったことが大きく影響し、優勝争いから脱落。しかしレース後半で順位を上げ、結果8位入賞を果たした。ゴール後のインタビューで、苦笑いを浮かべつつも「途中で、こけちゃいました」「これも運ですね。精いっぱいやりました。」とコメントした。 以降のフルマラソン出場レースでは優勝を果たせなかったものの、これまでの実績が評価されて1996年のアトランタオリンピックに五輪二大会連続出場を果たし、選手団主将も務めた。しかし同五輪の男子マラソンは日本人トップではあったが、入賞争いには絡めず19位に終わった。 1997年に現役を引退、旭化成陸上競技部コーチとなり指導者への道を歩む。1999年にヘッドコーチに昇格。 2001年に沖電気陸上競技部(2009年3月に廃部)に移り助監督、2002年に監督に就任した。 2008年4月より、東京電力 長距離・駅伝チーム監督に就任。2009年には同チームを全日本実業団対抗駅伝競走大会(ニューイヤー駅伝)初出場に導いた。2010年9月末をもって、同チームの監督を退任した。 2011年4月1日、東京農業大学の陸上競技部助監督として就任。また同大学の国際食料情報学部准教授へ就任。2012年1月末をもって、同大の陸上競技部助監督および准教授を退任した。 2017年8月1日、宮崎大学の特別教授に就任した。 2022年4月23日、遠山修平のシングル曲として谷口浩美イメージソングがMerrow Recordsよりデジタル配信リリースされる。曲名:希望のひと ~「コケちゃいました! 」谷口浩美イメージソング~。(作詞)森下かおり、(作曲)遠山修平、(編曲)的場英也。遠山修平セルフ・プロデュース作品。 主な成績駅伝1976年 第27回 全国高等学校駅伝競走大会(全国高校駅伝) 3区 区間14位(25分58秒) 1977年 第28回 全国高校駅伝 3区 区間2位(25分04秒) 1978年 第29回 全国高校駅伝 1区 区間2位(30分34秒、1位と同タイム) 1981年 第57回 東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝) 6区 区間1位(59分33秒) 1982年 第58回 箱根駅伝 6区 区間1位(58分04秒・当時区間新記録) 1983年 第59回 箱根駅伝 6区 区間1位(57分47秒・当時区間新記録) マラソン著書『雑草のごとく 転んでも踏まれても立ち上がれ!』(出版芸術社、1992/12、ISBN 978-4882930488) 2024/06/05 10:55更新
|
taniguchi hiromi
谷口浩美と同じ誕生日4月5日生まれ、同じ宮崎出身の人
TOPニュース
Hey! Say! JUMPの有岡大貴と松岡茉優が結婚を発表
NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に
King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表
平野紫耀、神宮寺勇太、岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。
元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕
谷口浩美と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「谷口浩美」を素材として二次利用しています。