高田好胤の情報(たかだこういん) 僧侶 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
高田 好胤さんについて調べます
■名前・氏名 |
高田好胤と関係のある人
橋本凝胤: あるとき弟子の高田好胤がよその家に呼ばれて、レコードで浪曲の「清水港は鬼より怖い、大政・小政の声がする」というくだりを耳にして、薬師寺にはもっと怖い鬼(橋本凝胤)がいると思ったという。 皆川睦男: 薬師寺管長の高田好胤の知遇を得、高田の講演会では皆川も行動を共にする機会が多かった。 皆川睦雄: 薬師寺管長の高田好胤の知遇を得、高田の講演会では皆川も行動を共にする機会が多かった。 山田法胤: 『薬師寺』高田好胤共著、学生社、1980 入江泰吉: 薬師寺の高田好胤もふだんの入江と、撮影に取り組む入江の違いを見て「あんたはジキルとハイドみたいな二重面相の男やなぁ」とひやかしたという。 橋本凝胤: 高田好胤が後を継ぎ、共に金堂や西塔の再建に取り組む。 西岡常一: とくに薬師寺管主高田好胤とは薬師寺伽藍再建との関わりが深く、常一が最も影響を受けた僧侶の一人であった。 入江泰吉: 薬師寺管長だった高田好胤はこうした入江の表現を入江節と呼んだ。 松久保秀胤: 法相宗宗務長、薬師寺副住職を経て1998年、高田好胤前管主の死去に伴い、薬師寺管主。 橋本凝胤: 薬師寺が貧乏寺だったので高田好胤が学校の先生になって寺の財政を助けようとしたら、「食うていけなんだら、食わんといたらええ」と言った。 橋本凝胤: 弟子の高田好胤が、「そうなったらお堂に火をつけて自分は腹を切って死ぬ」というと、凝胤は「わしは仏さんについてアメリカへでも何処へでも行き給仕する」と言った。 |
高田好胤の情報まとめ
高田 好胤(たかだ こういん)さんの誕生日は1924年3月30日です。大阪出身の僧侶のようです。
米朝に一本取られる、略歴などについてまとめました。卒業、現在に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
高田好胤のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)高田 好胤(たかだ こういん、1924年(大正13年)3月30日 - 1998年(平成10年)6月22日)は、法相宗の僧。薬師寺元管主。法相宗管長。分かりやすい法話により「話の面白いお坊さん」、「究極の語りのエンタテイナー」とも呼ばれ、そこから百万巻写経勧進の道を切り開いて金堂、西塔など薬師寺の伽藍の復興に道筋をつけるなど、薬師寺の再生に生涯をささげた。 大阪市出身。本名は高田好一。裕福な家庭に生まれたが、11歳のとき証券会社勤務の父を肺結核で失い困窮した。母方の実家は東大寺龍蔵院で、知人だった薬師寺の管主橋本凝胤が弟子として好胤を引き取った。凝胤の教育は厳しかった。幼少期、友人宅に呼ばれて遊びに行ったとき、レコードで浪曲の「清水港は鬼より怖い、大政・小政の声がする」というくだりを耳にして、薬師寺にはもっと怖い鬼(橋本凝胤)がいると思ったという。夕食後の読経の練習のとき居眠りするとよく火箸でたたかれた。しかし、一方で遠足、運動会のときに弁当を作ってくれるような愛情も持っていたという。旧制奈良県立郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)を経て龍谷大学(旧制)に進学し、1946年に龍谷大学仏教学科を卒業。大学での一期先輩に融通念仏宗管長の倍巌良舜がいる。また、深浦正文に師事して唯識思想を分かりやすく説明する手法を身につけた。 1949年、好胤は副住職に就任。当時の薬師寺は、老朽化が進んで荒れるに任せる状態であった。好胤は「仏法の種をまくことが自分の使命」であると考え、修学旅行の生徒達への法話に力を入れた。18年もの間の長きにわたり、そのユーモアたっぷりで分かりやすい法話は「青空法話」とも呼ばれて人気を呼び、高田の法話を聞いた生徒は、一説には600万人以上にものぼるという。法話は薬師寺境内のみならず、東京の三越劇場などでも行われた。その話術は、のちの人間国宝である落語家の三代目桂米朝も参考にしたほどであった。 1967年、好胤が管主に就任すると金堂の再建を志し、ついで西塔、中門、回廊などを次々と再建した。特に西塔の再建については強い世論の反対があったが小説家でフランス文化相だったアンドレ・マルローの賛意を背景に実現した。その是非については現在も議論が分かれている。再建費用は大きな課題であった。金堂の再建だけでも約10億円が必要だったが檀家組織を持たない薬師寺にはその負担をするのは困難であった。そこで高田は全国の篤志の人々から一人1000円の写経納経の供養料を集める勧進を行い、これを賄おうと考えた(写経勧進)。一人1000円では100万人の写経が必要であった。当初は一年に一万巻しか集まらなかった。好胤は全国、800以上の市町村で8000回におよぶ講演をして周った。好胤の書籍出版が好調だったこと、三越百貨店での月光菩薩展示も追い風となった。これによって復興事業は一挙に進んだ。1976年には念願の100万巻が達成され、同年、金堂が再建された。その後も写経勧進は進み、1997年には600万巻にのぼった。写経勧進は現在も薬師寺の大きな柱の一つとなっている。好胤の没後、大講堂が落成している。建物の再建には法隆寺の宮大工として知られる西岡常一が当り、千年先のことまで考えて建てたという。金堂にコンクリートを使うべきかどうかで行政当局と論争になった。西岡はコンクリートは300年しか持たないが、木は1000年持つと主張したが、結局一部コンクリートを使うことになった。 太平洋戦争における戦没者慰霊にも熱心で各地の戦跡で法要して回った。また、日本を守る国民会議代表委員も務めた。1996年11月に薬師寺で法話中に脳梗塞の症状が現れて一線を離れ、胆石の悪化を併発させて1998年6月22日に胆嚢癌のため死去。死後、母校の龍谷大学から龍谷賞が贈られた。 米朝に一本取られる好胤の話術について米朝は「人を自分の畑に引き込む力、その要領を教わった」と評価し、前述のように大いに参考にして自分の芸に取り入れていった。その米朝が「師」の好胤をうまくやり込めたことがある。 米朝が薬師寺を訪問した時のこと、床の間にあった、凝胤の書による「本来無一物」の掛け軸が目に留まった。米朝はしきりに無心したが、好胤は相手が誰であろうと譲れないとかたくなに断った。ところが、米朝がここで「本来無一物。これが僧のあるべき姿では」とたたみかけたところ、さしもの好胤も一本取られたのか返答に詰まり、掛け軸は米朝に譲渡された。 その後、米朝の手に渡った掛け軸だが直系の弟子達が関心を示さない中、桂枝雀の弟子である(米朝から見て孫弟子)桂南光が「本来無一物」の意味と入手の経緯を米朝から聞き、非常に関心を示したことから死後の贈与を約束された。 米朝の死後、米朝の実子である桂米團治から約束通り南光へ贈られた。 略歴
1935年 薬師寺入寺 。橋本凝胤に師事。 1946年 龍谷大学仏教学科卒業。 1949年 薬師寺副住職。 1967年 薬師寺管主、法相宗管長に就任。金堂復興を発願。 1968年 写経勧進始まる。 1976年 100万巻の写経集まる。金堂復興。 1981年 西塔再建。 1984年 中門落成。 1991年 玄奘三蔵伽藍を造営。 1997年 写経勧進六百万巻を達成。 1998年 死去。後任の管主には松久保秀胤が就任。 2003年 大講堂落成。 2024/06/16 17:16更新
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takada kouin
高田好胤と同じ誕生日3月30日生まれ、同じ大阪出身の人
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