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鹿野 道彦さんについて調べます
■名前・氏名 |
鹿野道彦と関係のある人
北澤俊美: その後、1997年末の新進党解党により誕生した元首相細川護熙らのフロム・ファイブ、鹿野道彦や岡田克也、原口一博ら国民の声が合併し1998年に民政党を結成するが、間もなく民政党は旧民主党に合流し、新たに民主党が結成された。 佐々木満: 鹿野道彦 大西正男: 鹿野道彦 増子輝彦: 菅の辞任に伴う代表選挙(8月29日投開票)では鹿野道彦の推薦人に名を連ねた。 天野公義: 鹿野道彦 大野元裕: 菅の辞任に伴う代表選挙(8月29日実施)では鹿野道彦の推薦人に名を連ねた。 西田司: 得票数2位で初当選した(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正らがいる)。 原田昇左右: 1974年に運輸省大臣官房審議官を最後に退官、1976年の衆院選に西村直己の後継者として旧静岡1区から出馬し初当選(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正など)。 遠藤利明: 小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された1996年の第41回衆議院議員総選挙では山形1区から出馬し、小選挙区では鹿野道彦に敗れたが、重複立候補していた比例東北ブロックで復活した。 岩崎純三: 鹿野道彦 小林武治: 鹿野道彦 北脇保之: 1997年末に新進党が解党すると、翌年には鹿野道彦、石井一、岡田克也らとともに国民の声の創立に参加した。 谷川寛三: 愛知和男・中村喜四郎・鳩山邦夫・西田司・中島衛・池田行彦・堀内光雄・相沢英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直。 辻英雄: 1976年、第34回衆議院議員総選挙に、自民党公認で旧福岡1区から立候補し衆議院議員に当選、以後当選4回(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正など)。 中山義活: 2011年民主党代表選挙では、鳩山グループや小沢グループが推す海江田万里経済産業大臣を支持せず、鹿野道彦農林水産大臣の擁立を積極的に主張し、鳩山グループながら鹿野陣営の中枢をになった。 小山展弘: 菅の辞任に伴う代表選挙(8月29日実施)では鹿野道彦の推薦人に名を連ねた。 古賀一成: 1997年末の新進党解党後は鹿野道彦を代表とする国民の声に所属し、民政党を経て民主党に合流。 森本哲生: 「第一次産業の状況など非常に大事な課題は多いが、人間的にも 尊敬できる鹿野道彦農水大臣の下、しっかり頑張りたい」と抱負を話した。しかし、2011年(平成23年)に鹿野道彦や山田正彦など多くの農林族議員がTPP参加に反対したのに対し、森本はTPP参加に反対署名しなかった。 菅直人: 当時の諫早市長や雲仙市長、長崎県知事は地元に何の相談もなく、今まで国策として勧められた干拓事業の大きな見直しを発表されたとして、強く反発し、仙谷由人官房長官(当時)や鹿野道彦農水相(当時)が菅を説得しようとしたが菅は持論を変えようとしなかった。 海江田万里: この要因として、選挙戦で鹿野道彦陣営から山田正彦を引き抜き反発を招いたことや、TPPを推進する姿勢がぶれたことが挙げられている。 檜垣徳太郎: 鹿野道彦 大塚雄司: 新進党参加の記者会見は新党みらいの党本部で行ったが、新党みらいの代表は1976年当選同期で、同じ清和政策研究会に所属していた鹿野道彦であった。 中井洽: 農林水産大臣に起用された鹿野道彦に代わり、衆議院予算委員長に就任した。 愛野興一郎: 新進党分党後の1998年1月には、同じく反小沢の旗頭であった鹿野道彦を代表とする新党国民の声に参加、同月中に民政党となる。 牧山弘恵: 2012年9月の民主党代表選挙では、現職の野田佳彦首相の再選を支持して野田の推薦人に名を連ね、野田が赤松広隆、鹿野道彦、原口一博を大差で破り再選された。 大畠章宏: 菅総理の退陣に伴う8月の民主党代表選では、農林水産大臣の鹿野道彦を「尊敬する政治家」と評価し推薦人となるが、鹿野は1回目の投票で4位に終わる。 篠原孝: 2011年9月の民主党代表選挙では、現職の農林水産大臣であった鹿野道彦を支持し、代表選出馬に際して鹿野が旗揚げした素交会の結成に参加(鹿野は野田佳彦らに敗れ、1回目の投票で4位に終わった)。 小里貞利: 鹿野道彦 北川正恭: 自民党時代は福田派→安倍派→三塚派に所属していたが、1994年(平成6年)の細川内閣総辞職を機に、鹿野道彦ら自民党議員5名と共に離党して、鹿野を党首とする新党みらいを結党。 渋谷直蔵: 鹿野道彦 |
鹿野道彦の情報まとめ
鹿野 道彦(かの みちひこ)さんの誕生日は1942年1月24日です。山形出身の政治家のようです。
事件、卒業、引退、解散、趣味に関する情報もありますね。去年の情報もありました。2021年に亡くなられているようです。
鹿野道彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)鹿野 道彦(かの みちひこ、1942年〈昭和17年〉1月24日 - 2021年〈令和3年〉10月21日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(11期)、衆議院運輸委員長、農林水産大臣(第14・51・52代)、総務庁長官(第12代)、運輸政務次官、新党みらい代表、国民の声代表、民政党幹事長、民主党国会対策委員長、常任幹事会議長、副代表、自由民主党青年局長、総務局長などを歴任した。父は衆議院議員を5期務めた鹿野彦吉。 民主党内では珍しい、自民党清和政策研究会出身。自民党時代は「清和会のプリンス」と呼ばれ47歳で初入閣するなど、将来の総裁候補として期待されていた。離党後も新党みらい・国民の声で代表を務め、新進党・民主党でも党首(代表)候補としてたびたび名前が挙がった。 農林水産行政に精通しており、海部・菅・野田の3内閣で農林水産大臣を務めた。また、党内では自民党で総合農政調査会長、民主党では農業再生本部長等を歴任している。農業政策の方針として、アジア地域での食糧輸出・技術連携を重視した「攻めの農業」を掲げ、農業者戸別所得補償制度を基本として農業の持続可能な発展を目指していた。一方、アメリカが議論を主導する環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)には懐疑的な立場をとることが多かった。なお、農水相通算在任期間は828日に及び、農林省から農林水産省に名称が変更した後では歴代1位の記録である(ただし連続在任1位は田名部匡省で、鹿野より12日多い)。 古くから政治改革を志向し、自民党では政治倫理委員長や選挙制度部会長代理などを歴任した。1993年の政界再編では、現職の閣僚(総務庁長官)であったため表立った動きはとれなかったが、翌年には新党みらいを結成し離党、新進党時代には衆議院行政改革特別委員会の筆頭理事を務めた。民主党では入党直後から政治改革本部長に就任、2002年に業際研事件の責任をとり離党する直前まで在職した。 憲法問題にも明るく、民主党憲法調査会長に加え、長く衆議院憲法調査会の幹事を務めた。やや改憲寄りのスタンスで知られる。民主党憲法調査会では、2005年に落選し議員でなくなった後も顧問として名を連ねた。 父である衆議院議員鹿野彦吉の秘書を経て政界入りした二世政治家である。衆議院当選11回は、党内では羽田孜・渡部恒三の14回に次ぐ。 山形県山形市生まれ。山形大学附属小学校、山形大学附属中学校、山形県立山形東高等学校を経て学習院大学政経学部政治学科卒業。その後、父である衆議院議員鹿野彦吉の秘書となる。父・彦吉は1972年の第33回衆議院議員総選挙での落選を受けて政界引退した。次の第34回衆議院議員総選挙に後継として旧山形1区から自由民主党公認で出馬し、初当選した(当選同期に愛知和男・中村喜四郎・鳩山邦夫・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正など)。当選後は福田赳夫率いる清和会(現・清和政策研究会)に入会。1980年の第2次大平内閣不信任決議案採決では反主流派として他の福田派の議員と共に本会議を欠席、ハプニング解散の一因となった。 第36回衆議院議員総選挙後には将来有望な若手が任命される衆議院議事進行係も経験した。1981年に鈴木改造内閣の運輸政務次官、1983年からは自民党交通部会長を3期連続務め、1986年には衆議院運輸委員長を務め、新幹線直行特急を公約として発表し、1992年の山形新幹線開業に奔走するなど、当初は運輸族議員としてキャリアを重ねた。 竹下、宇野総裁のときには師と慕う安倍晋太郎幹事長のもとで総務局長を3期連続務める。1989年、リクルート事件で政界が揺れる中、リクルートと関係の深い政治家が謹慎を余儀なくされ(リクルート・パージ)、リクルートと縁が薄い鹿野は第1次海部内閣で農林水産大臣に任命され、初入閣を果たした。農林水産大臣在任中はGATTのウルグアイ・ラウンドや、日米貿易紛争の一つであった牛肉・オレンジなどの農産物輸入自由化問題に取り組み、農林水産省を代表して食糧安全保障論を展開した。退任後も総合農政調査会長や山村振興対策特別委員長を務める。 この頃から清和会において、ポスト安倍の座を争う安倍派四天王に続く世代のリーダー候補と目されるようになり(清和会事務総長代理)、安倍が首相就任を目前に死去した際には、派の分裂を抑えようと次の領袖候補として石原慎太郎・小泉純一郎と共に名前が挙がったこともある(最終的には四天王の1人である三塚博が就任)。 農林水産大臣退任後は、党副幹事長や党政治改革本部政治倫理委員長や党運営に関する小委員長、選挙制度部会長代理、総務副会長として政策提言を行う。このことから、1992年の東京佐川急便事件に端を発する政治改革の動きを受けて組閣された宮澤改造内閣で総務庁長官に任命され、2度目の入閣を果たした。総務庁長官在任中は、主に許認可権の削減や規制改革に取り組み、政治改革を推進する立場から、海部俊樹前首相が会長を務める政治改革推進議員連盟のメンバーにも名を連ねた。しかし、首相の宮澤喜一は政治改革の法制化にあまり積極的でなく、結局宮澤内閣の不信任決議案が羽田派の羽田孜、小沢一郎らの造反により可決されたため、宮澤は衆議院を解散した(嘘つき解散)。自民党を離党した羽田派は新生党を結成した。第40回衆議院議員総選挙では新生党に加え、不信任案には反対したものの自民党を離党した武村正義、田中秀征、鳩山由紀夫らの新党さきがけ、細川護煕が前年に結成し支持を伸ばしていた日本新党が大勝し、宮澤自民党は過半数を割り込む。総選挙後、宮澤内閣は退陣した。 鹿野は内閣の閣僚であったことや、派閥の領袖であり宮澤の下で政務調査会長を務める三塚への配慮から、不信任案への賛成や離党の行動は取らなかったが、次第に執行部への不信感を募らせるようになった。 1994年、総務会長代理であった鹿野は細川内閣総辞職直前の4月15日に自民党を離党した。3日後の18日に新党みらいを結成し、党代表に就任した。細川内閣の後を継いだ羽田内閣には新党みらいも参画(閣外協力)したものの、内閣は日本社会党の連立離脱により少数与党に転落し、わずか2ヶ月で退陣する。その後の首班指名選挙では自民党を離党した海部俊樹に投票するも、自民・社会・さきがけ3党が擁立した村山富市社会党委員長に決選投票で敗れ、自社さ連立政権の村山内閣が誕生。新党みらいは海部を代表とした政党連合の自由改革連合を結成した後、12月10日の新進党結党に参画する。 新進党では海部党首の下で「明日の内閣(新進党版影の内閣)」外務大臣を務め、日本の国連安保理常任理事国加入を主張、核開発を続ける中国に対するODAに疑問を呈するなど積極的に活動した。また当時は、政府の提出した不戦決議に対して新進党の外交政策担当として「一元的には対応できない問題」として反対する姿勢を示し、村山首相が「朝鮮半島が南北に分断されたのは我々にも責任がある」と発言したとされることについても予算委員会で厳しく追及するといった(当時の社会党政権に対し、対立軸を鮮明にするという意図もあるが)保守的な姿勢を強く打ち出していた。 海部党首退任後の第2回党首選では小沢一郎の推薦人となり、小沢が当選後の明日の内閣では総務庁長官となった。しかし鹿野らが推し進めてきた小選挙区制での初の選挙である第41回衆議院議員総選挙で新進党は敗北。この結果を受け、小沢ら執行部の運営に不満を持った羽田孜や奥田敬和らが離党し太陽党を結成するなど党内情勢が不安定に。更に小沢や自民党の梶山静六・亀井静香らが提唱した保保連合構想によって小沢の求心力はさらに低下する。1997年、このような状況を受けて小沢の再選を阻止すべく、旧民社党・日本新党出身者からの支持を取り付け第3回党首選に出馬。「今こそ新進党は生まれ変わらなければならない」と訴え、政権交代可能な2大政党の必要性を唱えた(この時、落選中であった野田佳彦も鹿野の応援演説を行っている)。選挙は小沢と一騎討ちとなり、結果的には再選を許すも小沢230票・鹿野182票と善戦した。選挙後、鹿野は小沢の手を取って選挙後の党の団結をアピールするが、小沢は鹿野に投票した議員の排除をはかる「純化路線」に走り選挙9日後の12月27日に一方的に新進党解党を宣言する。 新進党解党後、党内の反小沢系の保守派議員を集め、1998年1月4日に国民の声を結成し代表に就任。さらに同月23日、太陽党、フロム・ファイブ(細川護煕代表)と合流し、民政党を結党。羽田を党首にかついで、鹿野は党幹事長に就任する。 1998年3月12日、院内会派「民主友愛太陽国民連合」を構成する民政党・旧・民主党(菅直人代表)・新党友愛(中野寛成代表)・民主改革連合(笹野貞子代表)の4党は夏に予定されている参院選前の統一新党結成に合意し、3月16日に「統一準備会」を設置。鹿野はその座長に就任し、各党の折衝にあたった。 4月27日、民主党が他の3党を吸収する形で新・民主党が結成。入党後、民政党出身者で党内グループの政権戦略研究会(羽田グループ)を立ち上げる。当初は領袖である羽田の首相再登板を目指していたが、離脱者の続出や羽田の高齢化などから、その後のグループの行動は見られなくなった。 鹿野自身は入党直後から政治改革本部長を務め、1999年1月に菅代表が再選された後には国会対策委員長に就任。国対委員長在任中の7月22日に衆議院本会議で行われた国旗国歌法採決では、民主党の党議拘束をはずして自身は賛成に回った。同年10月、鳩山由紀夫が民主党の新代表に就任し、これに伴い国対委員長を離任、民主党副代表となる。更に11月には民主党憲法調査会が発足し初代会長に就任。翌年1月、衆議院に憲法調査会が設置されると幹事として名を連ね、中山太郎会長の下で会長代理も務めた。 2002年、元秘書の経営するコンサルタント会社が公共工事の口利きに関与し、多額の手数料を得ていたという汚職が発覚(業際研事件)。元秘書が競争入札妨害罪及び収賄罪の疑いで逮捕された。秘書在任中の事件ではなく鹿野本人の関与も否定されたが、後に鹿野が9年間にわたり親族が経営する企業に元秘書3人の給与3390万円を肩代わりさせていた事実が発覚し、2月4日に政治改革本部長の辞任を、さらに2月6日には民主党離党を表明した。離党後の4月8日には予算委員会で参考人招致を受けている。 約1年半の無所属暮らしを経た後、2003年9月23日に民主党の岡田克也幹事長が鹿野に復党を要請、鹿野もこれに応じ、民由合併に合わせる形で民主党に復党した。直後の第43回衆議院議員総選挙では初めて自民党の遠藤利明に小選挙区で敗れ、比例復活により当選(過去2回は小選挙区で鹿野が勝利)。 2004年9月、民主党に常任幹事会議長が新設され、これに鹿野が就任するも翌年の第44回衆議院議員総選挙では要職にありながら小泉旋風の煽りを受けて再び遠藤に敗れ、比例復活もできず初の落選を喫する。 2009年の第45回衆議院議員総選挙では遠藤を破り、国政復帰を果たした。ただし、過去に遠藤を破った第42回衆議院議員総選挙に比べて票差は小さく、約2,000票の僅差まで詰め寄られた(遠藤も比例復活)。この選挙により民主党は政権交代を果たし、鹿野も羽田内閣以来15年ぶりに与党復帰を果たした。9月、衆議院予算委員長に就任。12月に発生した天皇特例会見問題では予算委員長として政府に対し、天皇の公的行為に関する統一見解を出すよう要請した。 2010年9月、菅改造内閣で21年ぶりに農林水産大臣に就任し、通算3度目の入閣を果たした。なお、この内閣改造に先駆けて行われた民主党代表選挙では、支持する候補者を明らかにしていなかったが、菅直人の再選により一時は鹿野の民主党幹事長への起用も取り沙汰された(結局は岡田克也外相が就任)。 2011年1月の菅再改造内閣発足に際し、菅直人首相が推進の立場を取るTPP(環太平洋パートナーシップ協定)に対して、「アジア太平洋の経済連携にはTPP以外の選択肢もある」と態度を明確にしていなかったため留任は微妙との見方もあったが、最終的に留任した。 諫早湾干拓事業で漁業関係者らによる有明海の環境変化とそれによる漁業被害を巡る裁判で福岡高等裁判所は2010年12月6日、「5年間の潮受け堤防排水門開放」を国に命じる判決を言い渡した。2011年1月15日、菅首相は農林水産省の考えを覆し、上告を断念すると表明したことで判決が確定した。佐賀県はこの上告断念を高く評価したが、長崎県は防災、農業経営の継続という観点から強く反発した。鹿野の意思とは異なる総理決断であったが、1989年に諫早湾干拓事業が着工した際の農林水産大臣であったこともあり、閣僚の一人として長崎県の開門反対派に謝罪するため1月23日長崎県諫早市を訪問した。中村法道長崎県知事の抗議をはじめ2時間半にわたる怒声の中で鹿野は「皆様方に申し訳ない」と何度も謝罪した。 2011年2月、反捕鯨団体「シーシェパード(SS)」が南極海で日本の調査捕鯨船に妨害行為を続けている問題で、執拗な攻撃からの調査団員、船員の安全確保が第一であるとし、南極海での調査捕鯨活動をやむなく中止し船団を早期に帰国させることを決めたが、同年12月には調査を再開させ2012年の調査は日程通り実施されている。 閣僚の不祥事・不手際などで低迷が続いた菅直人内閣の中では安定した仕事ぶりで、農林水産大臣として事務方の評価も高かった。民主党参加以降は必ずしも代表候補とはみなされていなかったが、党内で数少ない経験豊富な議員であること、激しい対立を繰り広げていた菅執行部・小沢派どちらとも等距離を保つ中間派とみなされていたことから、2011年初頭から「ポスト菅」として鹿野の名前が一部で報じられていた。同年8月に菅首相が退陣の意向を表明すると、有志議員が19日に代表選への立候補を要請、鹿野も「政治人生の中で最も重い要請を頂いた」と前向きに応じる構えを見せ熟慮を重ねていた。 8月26日に首相が退陣を正式に発表したことを受け、2011年民主党代表選挙への出馬を正式に表明。大畠章宏国土交通大臣を選対本部長に迎え、翌日立候補を届け出る。記者会見において、消費税は経済状況が好転しない限り増税しないことや、原発は安全を点検し情報を開示した上で再稼動に理解を求めることを主張した。選挙戦では、海江田万里経済産業大臣との決選投票になった場合に反小沢票が鹿野に集まることを警戒した海江田陣営の切り崩しに遭う。8月29日に行われた投票では立候補者5人中52票で4位。野田佳彦と海江田万里の2名による決選投票では、上着を脱いで野田への投票を合図し、野田代表選出に一役買った(鹿野は事前に「決選投票になった場合に、最後の演説を聴いて上着を脱げば2位の候補に、脱がなかったら1位の候補を支持」と伝えていた。また、鹿野を支持するグループは一致して投票することを確認しており、事実上この行動が代表選の勝敗を決めたといえる)。 代表選後の8月31日、自身を支持した議員35名と共に政策グループ(鹿野グループ)を立ち上げ、9月16日に「素交会」と命名。9月2日の野田内閣発足に際しては、当初農水相退任の意向を示し、後任に筒井信隆農林水産副大臣を推薦していたが、野田首相の強い意向を受け、農林水産大臣に再任。また、鹿野グループからは前田武志が国土交通大臣として入閣を果たした。2012年1月の野田改造内閣においても鹿野・前田共に留任した。 鹿野は農水相就任直後から農産物の海外輸出を推進し、特に中国に対しては筒井副大臣がその実務にあたってきた。しかし、その運営には疑惑の目が向けられることがあり、2012年2月には衆院予算委員会で、鹿野グループに属する樋口俊一衆院議員の公設第一秘書(当時)が、農水省顧問を秘書の身分のまま就任し、社団法人を設立後、その代表理事に就任したことについて、自民党議員より「自作自演の天下りみたいなものだ」と追及されている。このときには大きな問題とはならなかったが、同年5月には中国の一等書記官がこの事業を通じて農水省の機密資料を入手したとの報道がなされ(李春光事件)、スパイ疑惑のある人物と接触したことで激しい批判を浴びた。農水省は岩本司副大臣をトップとする調査チームを発足させ、一気に政治問題化した。最終的には農水省の調査チームにより機密漏えいが確認されなかったことが報告されたが、直後の6月に行われた内閣改造で鹿野は留任せず、農水相を退任した(同時に筒井副大臣、問責決議を受けていた鹿野グループの前田国交相も交代)。「呪われたポスト」と呼ばれ汚職や罷免、果ては自殺により短期間で交代することの多かった農水相を、近年では珍しく1年9か月にわたり勤めあげた。 農水相退任後の7月24日、鹿野は篠原孝(元農水副大臣)、山下正行(農水省大臣官房総括審議官)と共にフランス政府より農事功労章(シュヴァリエ)を授与された。 2012年9月に行われた民主党代表の任期満了に伴う代表選挙において、鹿野グループとしては「民主党復活会議」の推す候補を支持する動きや、細野豪志環境大臣の立候補をめざす動きが見られたものの、最終的に「復活会議」は候補者擁立を断念、細野環境相も不出馬を表明したことから、代表の鹿野が昨年に引き続き立候補。「おおらかで、あたたかい国・日本」というキャッチフレーズを掲げて支持を訴えたものの、出馬が遅れたことなどから立候補者4名(鹿野、野田、原口一博、赤松広隆)中の最下位に終わる(ただし、国会議員票は現職の野田に次ぐ2位)。選挙後、「党内融和」を唱える野田代表のもと、10年ぶりに党副代表へ復帰した。 2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では、遠藤との6度目の対決を迎えるも、民主党に対する激しい逆風の中敗北。比例復活もならず、7年ぶりに落選した。また、この選挙の結果、民主党は惨敗して下野することとなり、再び自民党政権となった。 選挙前から民主党不利、自民党の政権復帰が半ば確実視されていたが、週刊誌などでは鹿野の衆議院副議長就任が予想されていた。同じく山形県の選出であり、当選13回を数えた自民党の重鎮加藤紘一(山形3区)の衆議院議長就任の可能性も予想され、同一県内での議長副議長独占も考えられた。しかし、加藤も支援団体の分裂により保守系無所属の阿部寿一に票を奪われ、高齢により党規で比例重複が出来なかったことから落選が確定。鹿野と揃って議長・副議長就任は幻となった。同年の落選後は人材育成のため「愛山塾」を開いた。 2013年7月21日の第23回参議院議員通常選挙に民主党の比例区から立候補するも、落選した。また、同時に政界からの引退を表明した。 2014年4月、旭日大綬章を受章。 2021年10月21日、真性多血症のため、山形市内の病院で死去。79歳没。死没日をもって正三位に叙された。 基本政策は「公平な社会」、「地方主権社会」、「日本人の心を大切にする社会」としている。 民主党の農林漁業の再生を考える運動本部本部長を務めていた際に、「国の水産予算3000億円のうち、2000億円が漁港予算。この使い方を根本的に改めなければならない。海を生き返らせるための『海中の森』の造成や、漁村集落の実施する資源回復事業への直接支払いなど、資源管理を基本とした漁業政策を確立する」との見解を示している。農林水産大臣就任以降は、「攻めの農林水産業」「強い農林水産業」を旗印に、成長産業としての農林水産業を確立すべく新しい時代の農政づくりを目指した。 2009年の衆院選の際、永住外国人に地方参政権を認めることについて「どちらかと言えば賛成」、憲法の改正についても「どちらかといえば賛成」と回答した。ただし、憲法9条の改正には反対している。なお、憲法改正については、政治的な休戦の中で改正を行うことが必要であると主張している。 TPP参加については、反対を表明したことはないが慎重な立場をとる。この理由として、国が一致して大震災への対応をせねばならない時に国論が割れることは避けねばならないこと、農林水産業のみならず医療、労働等その他の分野への影響を判断すべきであること、TPPに参加すれば日本の制度を大幅に変えなければならなくなること等を挙げている。 消費者金融業界の政治団体である「全国貸金業政治連盟」(全政連)が作成したパーティー券購入リストに記載されていると日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」で伝えられた。 日印友好議員連盟(顧問) 日本ベトナム友好議員連盟(顧問) 食と農の再生議員連盟(顧問) 弁理士制度の改革推進に関する議員連盟(顧問) 生活衛生業振興議員連盟(顧問) 太陽光発電推進議員連盟 国際観光産業振興議員連盟 憲法調査推進議員連盟 日本・クウェート友好議員連盟(名誉会長) 協同組合振興研究議員連盟(会長) 臨海部立地産業の競争力強化を推進するための超党派議連(二階俊博と共同代表) 国際人口問題議員懇談会(会長代行) 座右の銘は「慎始敬終(しんしけいしゅう)」。 趣味はへらぶな釣り。毎年「鹿野杯」と称した釣り大会を地元山形で開催している。また、将棋も2段の腕前だという。 身長は180cm。 代議士当選前からメガネを着用しており、2011年には日本メガネベストドレッサー賞を政界部門で受賞している。 2011年3月11日に発生した東日本大震災への対応について、4月10日投開票の東京都知事選挙で当選した石原慎太郎知事は、当選後のインタビューの中で「鹿野君というのはね、実務の分かっている大臣だから。珍しい大臣ですよ、今の内閣では」と鹿野の対応を肯定的に評価した。 2011年の民主党代表選の際、出馬を熟慮する鹿野に対し野党である自民党の丸山和也・山田俊男両参議院議員が8月24日に農林水産省を訪ね「他の候補は力量不足だ。(他候補と比べ)鹿野さんが一番ふさわしい」と異例の出馬催促を行った。また、同じく自民党の長谷川岳参院議員からも8月23日の参議院農林水産委員会で「一次産業を守られるという姿勢は見えて、共感の持てる方であると思っている」、「一次産業を守るという姿勢で代表選でメッセージを発してほしい」と出馬を呼び掛けられるという一幕があった。 余計な事を話さない性格から「ブリキのパンツ」との愛称がある(農水相在任中も、森喜朗から「何も言わない農水相」と評されるほど政局に関する発言を公の場ですることは少なかった)。 元自民党の議員であったため、年末恒例であった永田町闇鍋では他の自民党議員からミッちゃんと呼ばれていた。 政治評論家の三宅久之が当時、清和会会長であった安倍晋太郎に「あなたの部下で役に立つのは誰か」と聞いた際に真っ先に「鹿野君だ」といった。 2004年、小国町に暮らす舟山康江を訪ね、「日本の農業はこのままで良いんですか」と参院選への立候補を説得した。 父 鹿野彦吉 長男 鹿野雄一 - 九州大学准教授。 『明日を翔る男たち : 闘う自民党青年部』 愛山政経調査会、1982年7月 『農の復権 : 21世紀農林水産業の活力を求めて』 翠嵐社、1991年10月 『山形新幹線 : 鉄路の復権』 翠嵐社、1992年6月 『農・林・漁 復権の戦い : 1年9ヵ月の軌跡』 財界研究所、2013年6月 ^ “鹿野道彦・元農水相死去 新幹線・政治改革・震災…ぶれず奔走”. 朝日新聞デジタル. (2021年10月23日). https://www.asahi.com/articles/ASPBQ76Z8PBQUZHB00C.html 2021年10月25日閲覧。 ^ “元衆院議員、鹿野道彦氏死去 79歳、農相など歴任”. 山形新聞. (2021年10月23日). https://www.yamagata-np.jp/news/202110/23/kj_2021102300504.php 2021年10月25日閲覧。 ^ 日本経済新聞2011年8月28日朝刊 ^ 時事ドットコム2011年8月28日 ^ “海江田氏と野田氏で決選投票に…民主代表選”. 読売新聞. (2011年8月29日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110829-OYT1T00637.htm 2012年3月13日閲覧。 ^ “ドキュメント・民主党代表選:鹿野氏のサイン「上着を脱いだら2位に投票」”. 毎日新聞. (2011年8月30日). http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110830ddm003010124000c.html ^ “民主党:鹿野グループ発足 設立総会に35人が出席”. 毎日新聞. (2011年9月1日). http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110901ddm005010140000c.html ^ “鹿野農水相が不可解な人事に関与? 自民・稲田氏が追及”. 産経新聞. (2012年2月9日). https://web.archive.org/web/20120210021443/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120209/plc12020920410024-n1.htm 2012年3月13日閲覧。 ^ “鹿野、篠原、山下3氏が農事功労章を受章”. 駐日フランス大使館 (2019年1月17日). 2021年6月22日閲覧。 ^ “参院選2013比例区開票速報(改選数48)”. 朝日新聞. 2023年5月5日閲覧。 ^ 「参院選比例 民主・鹿野氏、政界引退へ」 『河北新報』 2013年7月23日 ^ “春の叙勲4104人 旭日大綬章に葛西氏ら”. 日本経済新聞. (2014年4月29日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS28023_Y4A420C1PP8000/ 2014年5月12日閲覧。 ^ “鹿野元農水相死去、79歳 政治改革を標ぼう”. 時事通信社. (2021年10月22日). https://web.archive.org/web/20211022041115/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021102200587&g=pol 2021年10月22日閲覧。 ^ 『官報』第621号7頁 令和3年11月22日号 ^ 民主党:農林漁業の再生を考える運動本部、茨城県の漁業者と意見交換[1] ^ 2009年衆院選挙時 朝日新聞アンケート回答 ^ “戦闘態勢「五者五様」 変節攻撃か焦り露呈か”. 産経新聞. (2011年8月28日). https://web.archive.org/web/20110829052546/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110828/stt11082822440020-n1.htm 2012年3月13日閲覧。 ^ しんぶん赤旗2003年9月12日 ^ “鹿野道彦研究 かつてのプリンス最後のチャンス 寡黙さゆえに担がれる存在に”. 産経新聞. (2011年7月21日). https://web.archive.org/web/20110721035247/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110721/plc11072100100000-n3.htm 2012年3月13日閲覧。 ^ 時事ドットコム2011年8月27日 素交会 業際研事件 李春光事件 鹿野道彦(かのみちひこ) - ウェイバックマシン(2009年10月4日アーカイブ分) 鹿野道彦 今日の主張(公式ブログ) 民主党山形県総支部連合会 表 話 編 歴 大江卓 松田正久 佐藤昌蔵 河野広中 箕浦勝人(代理) 石田貫之助 中野武営 阿部興人 武富時敏 星亨 元田肇 江原素六 栗原亮一 石田貫之助 原敬 栗原亮一 大岡育造 栗原亮一 大岡育造 栗原亮一 鳩山和夫 原敬 野田卯太郎 元田肇 井上角五郎 奥繁三郎 改野耕三 井上角五郎 大岡育造 片岡直温 山本悌二郎 小川平吉 斎藤珪次 中村啓次郎 吉植庄一郎 武藤金吉 田辺熊一 東武 山本悌二郎 野田卯太郎 片岡直温 町田忠治 藤沢幾之輔 川原茂輔 頼母木桂吉 武内作平 川原茂輔 堀切善兵衛 井上孝哉 森田茂 武内作平 川崎克 山崎達之輔 大口喜六 岡田忠彦 山崎達之輔 前田米蔵 島田俊雄 砂田重政 若宮貞夫 川崎克 小山松寿 熊谷直太 勝正憲 若宮貞夫 田子一民 桜井兵五郎 三土忠造 増田義一 東郷実 松村謙三 大口喜六 金光庸夫 小川郷太郎 島田俊雄 勝田永吉 太田正孝 中島弥団次 矢野庄太郎 竹田儀一 鈴木茂三郎 上林山榮吉 植原悦二郎 小坂善太郎 塚田十一郎 太田正孝 尾崎末吉 倉石忠雄 山口喜久一郎 牧野良三 三浦一雄 山崎巌 江﨑真澄 楢橋渡 小川半次 西村直己 船田中 山村新治郎 塚原俊郎 荒舩清十郎 青木正 福田一 植木庚子郎 井出一太郎 荒舩清十郎 中野四郎 瀬戸山三男 坪川信三 根本龍太郎 荒舩清十郎 白浜仁吉 坪川信三 田中正巳 中野四郎 小此木彦三郎(代理) 竹下登 田村元 小山長規 栗原祐幸 久野忠治 倉成正 天野光晴 小渕恵三 砂田重民 浜田幸一 奥田敬和 大野明 中尾栄一 越智伊平 渡部恒三 山村新治郎 高鳥修 粕谷茂 山口鶴男 佐藤観樹 上原康助 深谷隆司 松永光 越智通雄 中山正暉 島村宜伸 原田昇左右 野呂田芳成 津島雄二 藤井孝男 笹川堯 甘利明 大島理森 金子一義 逢沢一郎 衛藤征士郎 鹿野道彦 松原仁(代理) 中井洽 山本有二 二階俊博 大島理森 河村建夫 竹下亘 浜田靖一 河村建夫 野田聖子 棚橋泰文 金田勝年 根本匠 小野寺五典 伊藤達也 表 話 編 歴 有田二郎 稻田直道 前田郁 岡村利右衞門 逢澤寛 關内正一 竹谷源太郎 原健三郎 松山義雄 淵上房太郎 赤澤正道 塚原俊郎 平井義一 永田亮一 三池信 簡牛凡夫 木村俊夫 川野芳滿 長谷川峻 古川丈吉 内藤隆 大野市郎 砂原格 福井勇 小峰柳多 細田吉蔵 井原岸高 三池信 木部佳昭 中川一郎 大野明 増岡博之 箕輪登 古屋亨 小此木彦三郎 越智伊平 原田憲 福家俊一 三ッ林弥太郎 山下徳夫 鹿野道彦 関谷勝嗣 小里貞利 島村宜伸 田名部匡省 亀井善之 久間章生 森田一 近江巳記夫 井上一成 辻一彦 杉山憲夫 大野功統 石破茂 仲村正治 赤城徳彦 廃止 表 話 編 歴 高橋是清 岡崎邦輔 早速整爾 町田忠治 山本悌二郎 町田忠治 山本悌二郎 後藤文夫 山崎達之輔 島田俊雄 山崎達之輔 有馬頼寧 櫻内幸雄 伍堂卓雄 酒井忠正 島田俊雄 近衛文麿 石黒忠篤 井野碩哉 山崎達之輔 千石興太郎 松村謙三 副島千八 和田博雄 吉田茂 木村小左衛門 平野力三 波多野鼎 永江一夫 周東英雄 森幸太郎 広川弘禅 根本龍太郎 広川弘禅 小笠原三九郎 広川弘禅 田子一民 内田信也 保利茂 河野一郎 井出一太郎 赤城宗徳 三浦一雄 福田赳夫 南条徳男 周東英雄 河野一郎 重政誠之 赤城宗徳 坂田英一 松野頼三 倉石忠雄 西村直己 長谷川四郎 倉石忠雄 赤城宗徳 足立篤郎 櫻内義雄 倉石忠雄 安倍晋太郎 大石武一 鈴木善幸 中川一郎 中川一郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 亀岡高夫 田沢吉郎 金子岩三 山村新治郎 佐藤守良 羽田孜 加藤六月 佐藤隆 羽田孜 堀之内久男 鹿野道彦 山本富雄 近藤元次 田名部匡省 宮澤喜一 畑英次郎 加藤六月 大河原太一郎 野呂田芳成 大原一三 藤本孝雄 越智伊平 島村宜伸 中川昭一 玉澤徳一郎 谷洋一 谷津義男 武部勤 大島理森 亀井善之 島村宜伸 小泉純一郎 岩永峯一 中川昭一 松岡利勝 赤城徳彦 若林正俊 遠藤武彦 若林正俊 太田誠一 石破茂 赤松広隆 山田正彦 鹿野道彦 郡司彰 林芳正 西川公也 林芳正 森山裕 山本有二 齋藤健 吉川貴盛 江藤拓 野上浩太郎 金子原二郎 野村哲郎 宮下一郎 坂本哲志 小里泰弘 江藤拓 表 話 編 歴 小沢佐重喜 田村文吉 佐藤栄作 高瀬荘太郎 塚田十一郎 武知勇記 松田竹千代 村上勇 石橋湛山 平井太郎 田中角栄 寺尾豊 植竹春彦 鈴木善幸 小金義照 迫水久常 手島栄 小沢久太郎 古池信三 徳安実蔵 郡祐一 新谷寅三郎 小林武治 河本敏夫 井出一太郎 広瀬正雄 三池信 久野忠治 原田憲 鹿島俊雄 村上勇 福田篤泰 小宮山重四郎 服部安司 白浜仁吉 大西正男 山内一郎 箕輪登 檜垣徳太郎 奥田敬和 左藤恵 佐藤文生 唐沢俊二郎 中山正暉 片岡清一 村岡兼造 大石千八 深谷隆司 関谷勝嗣 渡辺秀央 小泉純一郎 宮澤喜一 神崎武法 日笠勝之 大出俊 井上一成 日野市朗 堀之内久男 自見庄三郎 野田聖子 八代英太 平林鴻三 片山虎之助 竹田儀一 野溝勝 岩本信行 木村小左衛門 木村小左衛門 本多市郎 岡野清豪 岡野清豪 本多市郎 塚田十一郎 西田隆男 川島正次郎 太田正孝 田中伊三次 郡祐一 青木正 愛知揆一 青木正 石原幹市郎 石原幹市郎 山崎巌 周東英雄 安井謙 篠田弘作 早川崇 赤沢正道 吉武恵市 永山忠則 塩見俊二 藤枝泉介 赤沢正道 野田武夫 秋田大助 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 石破二朗 安孫子藤吉 世耕政隆 山本幸雄 田川誠一 古屋亨 小沢一郎 葉梨信行 梶山静六 坂野重信 渡部恒三 奥田敬和 吹田愰 塩川正十郎 村田敬次郎 佐藤観樹 石井一 野中広務 深谷隆司 倉田寛之 白川勝彦 上杉光弘 西田司 野田毅 保利耕輔 西田司 片山虎之助 後藤田正晴 江﨑真澄 玉置和郎 山下徳夫 高鳥修 金丸三郎 池田行彦 水野清 塩崎潤 佐々木満 岩崎純三 鹿野道彦 石田幸四郎 山口鶴男 江藤隆美 中山正暉 中西績介 武藤嘉文 佐藤孝行 小里貞利 太田誠一 続訓弘 片山虎之助 片山虎之助 麻生太郎 竹中平蔵 菅義偉 増田寛也 鳩山邦夫 佐藤勉 原口一博 片山善博 川端達夫 樽床伸二 新藤義孝 高市早苗 野田聖子 石田真敏 高市早苗 武田良太 金子恭之 寺田稔 松本剛明 鈴木淳司 松本剛明 村上誠一郎 表 話 編 歴 小野孝 大滝亀代司 松浦東介 海野三朗 牧野寛索 鹿野彦吉 松浦東介 小野孝 黒金泰美 西村力弥 木村武雄 松浦東介 西村力弥 木村武雄 牧野寛索 黒金泰美 松浦東介 黒金泰美 西村力弥 鹿野彦吉 鹿野彦吉 西村力弥 木村武雄 黒金泰美 黒金泰美 西村力弥 牧野寛索 松浦東介 黒金泰美 木村武雄 華山親義 松浦東介 黒金泰美 木村武雄 鹿野彦吉 華山親義 木村武雄 堀田政孝↓ 鹿野彦吉 華山親義↓ 近藤鉄雄↑ 黒金泰美↑ 渡辺三郎 近藤鉄雄 木村武雄 黒金泰美 渡辺三郎 近藤鉄雄 木村武雄 鹿野道彦 鹿野道彦 渡辺三郎 近藤鉄雄 渡部正郎 鹿野道彦 木村武雄 渡辺三郎 近藤鉄雄 鹿野道彦 渡辺三郎 近藤鉄雄 榎本和平 鹿野道彦 近藤鉄雄 遠藤武彦 榎本和平 遠藤登 鹿野道彦 遠藤武彦 近藤鉄雄 鹿野道彦 近藤鉄雄 遠藤利明 遠藤登 表 話 編 歴 鹿野道彦 遠藤利明 鹿野道彦 遠藤利明 遠藤武彦 近藤洋介 鈴木憲和 近岡理一郎 加藤紘一 阿部寿一 加藤鮎子 加藤紘一 斉藤淳 (2002年廃止) 表 話 編 歴 穂積良行 御法川英文 熊谷市雄 二田孝治 遠藤利明 玉澤徳一郎 菅原喜重郎 木幡弘道 井上義久 笹山登生 今田保典 萩野浩基 日野市朗 玄葉光一郎 松本善明 畠山健治郎 御法川英文↓ 荒井広幸 萩野浩基 坂本剛二 熊谷市雄 津島恭一↑ 日野市朗↓ 今田保典 佐藤敬夫 田名部匡代↑ 菅原喜重郎↓ 工藤堅太郎 高橋嘉信 石原健太郎↑ 菅野哲雄 井上義久 松本善明 吉野正芳 二田孝治 萩野浩基 津島恭一 玉澤徳一郎 中野正志 橋本清仁 増子輝彦 近藤洋介 吉田泉 鹿野道彦 井上義久 高橋千鶴子 山本喜代宏 坂本剛二 中野正志 佐藤剛男 玉澤徳一郎 渡部篤 二田孝治 郡和子 横山北斗 吉田泉 近藤洋介 田名部匡代 井上義久 菅野哲雄 高橋千鶴子 田名部匡代 津島恭一 中野渡詔子 和嶋未希↓ 高松和夫 菊池長右ェ門 山口和之 渡部一夫↑ 吉野正芳 秋葉賢也 遠藤利明 金田勝年 井上義久 吉泉秀男 高橋千鶴子 高橋比奈子 藤原崇 橋本英教 大久保三代 菅野佐智子 吉田泉 近藤洋介 郡和子 小熊慎司 村岡敏英 井上義久 畑浩治 林宙紀 高橋千鶴子 菅家一郎 藤原崇 高橋比奈子 橋本英教 勝沼栄明 金子恵美 近藤洋介 寺田学 郡和子↓ 吉田泉↑ 升田世喜男 村岡敏英 井上義久 真山祐一 高橋千鶴子 江渡聡徳 亀岡偉民 藤原崇 高橋比奈子 上杉謙太郎 寺田学 小熊慎司 緑川貴士 岡本章子 山崎誠 阿久津幸彦 井上義久 高橋千鶴子 津島淳 秋葉賢也 菅家一郎 亀岡偉民 金田勝年 上杉謙太郎 岡本章子 寺田学 小沢一郎 馬場雄基 庄子賢一 高橋千鶴子 早坂敦 江渡聡徳 森下千里 福原淳嗣 御法川信英 根本拓 馬場雄基 寺田学 升田世喜男 齋藤裕喜 菊池大二郎 庄子賢一 佐原若子 ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research 平成時代の閣僚 日本の農林水産大臣 総務庁長官 民主党の衆議院議員 新進党の衆議院議員 自由民主党の衆議院議員 山形県選出の衆議院議員 比例東北ブロック選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 平成時代の衆議院議員 正三位受位者 旭日大綬章受章者 学習院大学出身の人物 山形県立山形東高等学校出身の人物 山形県出身の人物 世襲政治家 李春光事件 1942年生 2021年没 2024/11/11 22:06更新
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kano michihiko
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