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アレックス=ラミレスの情報 (AlexRamirez)
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【5月19日】今日誕生日の芸能人・有名人

アレックス=ラミレスの情報 (AlexRamirez) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]

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アレックス=ラミレスさんについて調べます

■名前・氏名
アレックス=ラミレス
(Alex Ramirez)
■職業
野球選手
■アレックス=ラミレスの誕生日・生年月日
1974年10月3日 (年齢49歳)
寅年(とら)、天秤座(てんびん)
■出身地・都道府県
不明

アレックス=ラミレスと同じ年に生まれた芸能人(1974年生まれ)

アレックス=ラミレスと同じ誕生日の人(10月3日)

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アレックス=ラミレス

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アレックス=ラミレス(Alex Ramirez)さんの誕生日は1974年10月3日です。

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選手としての特徴、監督・指導者としての特徴などについてまとめました。引退、結婚、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。現在の年齢は49歳のようです。

アレクサンダー・ラモン・ラミレス・キニョネス(スペイン語: Alexander Ramón Ramírez Quiñónez、1974年10月3日 - )は、ベネズエラ・カラカス出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)、YouTuber。

ヤクルト時代は入団1年目の2001年にチームのリーグ優勝・日本一に貢献。以降も主力選手として活躍し2003年には、本塁打王・打点王・最多安打のタイトルを獲得。2007年には外国人選手、右打者としては史上初のシーズン200本安打を達成し2度目の最多安打を獲得した。

巨人時代は主力として2008年に打点王、2009年に首位打者、2010年に本塁打王・打点王のタイトルを獲得するとともに2年連続でMVPを受賞し、2度のリーグ優勝・日本一(2009)に大きく貢献した。

DeNA時代は2013年に日本通算2000安打を達成し、外国人選手では史上初の名球会への入会を果たした。8年連続100打点超えの記録を持つ。

引退後、2016年シーズンから2020年シーズンまで横浜DeNAベイスターズ監督も務め(第30代)、就任時点で外国籍を有する監督としてはNPB史上9人目で、NPB史上初の米国籍以外の外国人監督であった。2019年に日本に帰化した。『官報』における掲載氏名はラミレス・カプリレス・アレクサンダー・ラモン。2022年外務大臣表彰時の氏名はアレクサンデル・ラモン・ラミレス・カプリレス。

実家はベネズエラの首都・カラカス近郊の「ピニャンゴ・デ・ジャレ」という小さな町にある。人口は約200人で、そのうち4分の3程がラミレスの一族だという。

5歳で兄の影響を受け野球を始め、8歳で地元リトルリーグの監督にスカウトされチームに所属。15歳になると本格的に野球選手を目指すため学校を退学。当時は主に投手を務めていた。

18歳でベネズエラの国内選手権に出場した際に外野手として試合に出ていたところをクリーブランド・インディアンスのスカウトの目に留まりマイナーリーグ契約をする。

1994年2月に結婚し、8月から1995年4月までメジャーリーグ史上最長のストライキが実施された影響で、1995年のメジャーリーグスプリングトレーニングにはオーナー側の命令で代替選手として参加。そのため、スト破りを行った報復措置としてメジャーリーグ選手会への加入を認められなかった。

1998年はAAA級バッファロー・バイソンズで121試合に出場。34本塁打103打点6盗塁、打率.299と結果を残し、9月19日に初のメジャーリーグ昇格を果たした。同日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーデビュー。1打数無安打1三振に終わった。

1999年は6月にメジャー再昇格すると、マニー・ラミレスの控え右翼手としてプレーし、48試合ながら打率.299を残した。

2000年は初めて開幕ロースター入りを果たすと、マニー・ラミレス休養時の代役や代打などで7月下旬までに41試合に出場し、打率.286と結果を残した。

2000年7月28日にウィル・コルデロとのトレードでエンリケ・ウィルソンと共にピッツバーグ・パイレーツへ移籍。しかし、移籍前の好調は影を潜め、打率は徐々に下降していき、スタメンから外されるようになる。ラミレスによれば「打撃コーチ(ロイド・マクレンドン)に打席でのスタンスを変えるよう指示され、それに従ったところスランプに陥ったため、コーチに『スタンスを元に戻したい』と言ったら、次の日からスタメンを外された」という。しかし、9月に入ると一転して4番で起用されるが、2割8分台あった打率は最終的に.247にまで落ち込んだ(移籍後のみでは.209)。

2000年11月1日、ヤクルトスワローズに入団。背番号は3。ただし、当時ラミレスはフロリダ州で家と車を購入したばかりでそのローンが残っていたため、当初は「1年だけ日本で金を稼いで、(ローンを)返済したらすぐに戻る」つもりだったという。

2001年は138試合出場、打率.280・29本塁打・88打点の好成績をマークし、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。当初の契約では「5番・右翼手」での出場を確約されていたが、キャンプ初日に当時右翼手のレギュラーだった稲葉篤紀の守備を見て「自分は彼(稲葉)には勝てない」と感じ、左翼手に転向した。

日本球界の練習量には当初「練習しすぎて頭がどうかしてると思った!」と戸惑いを見せていた。また、来日して最初の3ヶ月はとにかくフォークボールが打てず、三振ばかりだったと振り返っている。日本の野球に戸惑う中で当時一軍打撃コーチを務めていた八重樫幸雄の「しっかり引いて逆方向に打つ」指導は身に染みたといい「フォークやスライダーは振らなければいいじゃないか」という彼の助言からストレートにフォーカスしたと語っている。地方球場試合の時のケータリングがおにぎりやラーメンのような日本食ばかりで、最初は「食べる物がない」と適応に苦労したが、チームに適応するには日本人が食べている物に文句を言うのではなく適応するしかないと腹を括った。

2002年も139試合に出場し、3割近い打率を残した。一方でリーグ最多の146三振を喫した。

2003年は読売ジャイアンツへ移籍したロベルト・ペタジーニに替わって4番打者を任され全140試合に出場、打率.333・40本塁打・124打点の成績を収めて打点王・本塁打王・最多安打・ベストナインの各タイトルを獲得。来日3年目で初の3割達成となった。同年の349塁打は平成時代のセ・リーグ記録。

2004年8月21日の対阪神タイガース戦(明治神宮野球場)ではトレイ・ホッジスからランニング本塁打を放った。この年は故障離脱もあり、ヤクルト時代では最も少ない129試合の出場だったが打率.305、31本塁打、110打点の成績を残した。終盤にはコロラド・ロッキーズなどからのオファーを受け、代理人の意向もあって移籍が取り沙汰されたが、本人の希望もあって残留。その際、義理の息子であるアレックス・ラミレス・ジュニアの入団が決め手となった。

2005年は打率3割は逃したが、引き続きチームの4番打者としてチームに貢献した。

2006年は26本塁打・112打点を記録するものの636打席で四球はわずか19個と選球眼の悪さが露呈し、出塁率.289は両リーグで最低だった。

2007年10月4日の対横浜ベイスターズ21回戦(明治神宮野球場)において、外国人選手・右打者としては史上初のシーズン200本安打を達成、打率も.343、安打数は最終的に204安打まで達した。オフに球団側からラミレス側への残留要請が行われたが、提示された条件は契約年数1年、推定年俸4億円というラミレス側の希望とはかけ離れたものであった。7年在籍した球団に対する彼の希望は高年俸ではなく、契約年数で、ラミレスは球団側が複数年契約を認めれば、ヤクルトに残留する選択も考えていた。実際、ラミレスは後に「現状維持の2年契約の提示があれば残留していた」と記しているが、最終的に球団側は複数年契約を提示しなかったため球団側との契約交渉が決裂したことを機にヤクルトからの退団が決まり、11月30日に自由契約公示された。

2007年12月29日、右の大砲を探していた読売ジャイアンツとオリックス・バファローズが獲得を検討していたが、オリックスはアレックス・カブレラの獲得を発表したため、巨人が獲得を発表した。入団会見は巨人初のビデオレターによるものとなり、「このチーム(巨人)に足りないものを加えに来た」とコメントした。推定年俸は5億円(契約年数2年、総額10億円)。背番号は3が長嶋茂雄の永久欠番となっているため、5となった。ラミレスは以前から「巨人では外国人選手が大変な思いをしている」と聞かされていたため、巨人は一番行きたくないチームだったが、巨人がラミレス自身が希望する複数年契約を提示したことに加え、ラミレス自身が原辰徳の指揮に以前から興味を持っていたこともあって巨人入りを決めたという。

2008年は開幕から5番打者としてシーズンを迎えたが、開幕から結果を残したことと4番候補の李承燁・高橋由伸の不振により主に4番で起用されるようになった。前年の高打率を維持しながら長打力も発揮し、45本塁打、125打点で2年連続3度目の打点王を獲得したが、本塁打王は1本差で村田修一に届かなかった。しかしチームのリーグ連覇に貢献した。そして2008年のセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。交流戦はパ・リーグのチームの主催試合が指名打者制のため、この試合では主に指名打者として起用された。中日ドラゴンズとのCS第2ステージでは第4戦に8回に勝ち越しの2ラン本塁打を放って勝利し、6年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。埼玉西武ライオンズとの日本シリーズでは第3戦は指名打者で出場し、第4・5戦では阿部慎之助が負傷して指名打者で出場したため左翼手として出場した。第7戦で最後の打者として遊撃ゴロに打ち取られ日本一を逃したが、第1戦ではチーム唯一の得点となる適時打、第2戦ではサヨナラ本塁打、第3戦でもソロ本塁打を放ち、第5戦では逆転のきっかけを作る二塁打を放つなど随所で活躍したことが評価されシリーズ敢闘賞を受賞した。この年にフリーエージェント資格を取得したため、2009年から外国人枠の適用外となった。

2009年は144試合全てで4番に座り、前年に続く活躍。3割30本100打点を達成したほか、打率.322で自身初の首位打者と3度目の最多安打を獲得。チームの3連覇に貢献し、2年連続の最優秀選手に選ばれた。シーズン通しての調子の波も少なく、6月以外の月間打率は全て3割以上だった。巨人の右打者の首位打者獲得は1971年の長嶋茂雄以来38年ぶりである。日本シリーズで、観戦に来た小笠原道大の娘にファウルボールを当ててしまうが、翌日「ゴメンナサイ」と書いた自身のサインボールを小笠原に渡した。同シリーズでは第4戦の7点ビハインド場面で金森敬之から打った3点本塁打が同シリーズでのラミレスにとって唯一の本塁打だった。チームはこの試合は敗れたが、第5・6戦と勝利し、巨人での日本一を達成した。

2010年4月に孫のD・J・ラミレスが誕生(夫人の連れ子であるアレックス・ラミレス・ジュニアの子)。好不調の波が少なかった過去2年と違ってシーズン当初は低打率に苦しんだが、その中でも得点圏においては勝負強い打撃を見せ、本塁打と打点を量産。夏場に入ると一気に調子を上げて打率も向上させ、最終的に打率.304・49本塁打・129打点で本塁打・打点の二冠王に輝いた。49本塁打は巨人軍の右打者における1シーズン最多本塁打であり、巨人の外国人打者においても最多本塁打記録である。また2003年から続くシーズン100打点を8年連続とし、王貞治の7年連続(1963年~1969年)を抜いてプロ野球新記録を樹立した。しかし、首位打者の青木宣親(ヤクルト)、シーズンMVPの和田一浩(中日)、シーズン安打数の日本新記録を挙げたマット・マートン(阪神)の3人に阻まれ、ベストナインには選出されなかった。打撃二冠のタイトルを獲得しながらベストナインに選ばれなかったのは1953年の藤村富美男・1960年の藤本勝巳・1981年のトニー・ソレイタに次いで四人目である。そして、このシーズンで自身4度目の年間120打点超えを記録した(これは松中信彦と並んで日本プロ野球歴代1位である)。

2011年5月1日に4番としての連続先発出場記録を416試合として松井秀喜が持つ415試合を抜き球団新記録を達成する。しかし7月13日の対阪神戦で受けた死球の影響で7月14日に先発から外れ、長野久義が4番で先発出場し、記録は469試合で途切れた。代打で途中出場したため連続試合出場は続いたが、翌日の試合では途中出場もなかったため連続試合出場は985試合で止まった。この記録は外国人選手としては歴代最長記録となった。8月5日、3回表に内野安打を放ち、NPB通算1793安打を記録。タフィ・ローズの1792安打を越え、歴代外国人選手の通算最多安打記録を更新した。シーズン成績は137試合、打率(.279)が巨人入団以来初めて3割を切り、打点(73)は連続100打点が8年で止まり、来日以来最低の数字となった。本塁打数(23)も来日以来最低の数字となり、打撃三部門で来日以来最低の記録となった。ただし、本塁打数はリーグ2位でチーム内では1位である。これは「飛ばないボール」(統一球)に変わったこともあり、セ・リーグの選手全体の本塁打数も減少したため、本塁打数に関しては決して不振とは言える数字ではなかった(最多は、ウラディミール・バレンティン(ヤクルト)の31本)。10月31日のクライマックスシリーズ・ファーストステージ終了をもって退団することを表明した。この年から導入された統一球によって本塁打が減少したことで大量得点を期待できず、いかに守備で失点を防いでいくかの戦いになったことでラミレスの守備難はネックとなった。お世辞にも上手い守備とは言えず、終盤は打順の降格だけでなく、スタメンを外れる試合もあった。ラミレス自身は打撃でチームに貢献したかったが、チームとしては守備面を重視する方針となっていたためチームにとって絶対的な存在ではなくなっていた。

2011年12月8日、横浜DeNAベイスターズが獲得を発表し、入団会見を行った。背番号はヤクルト時代と同じ3。

2012年はオープン戦での肉離れにより開幕スタメンこそ逃すも、4月4日より新チームの4番として定着。しばらくは調子が上がらない時期が続いたが、徐々に調子を上げると、7月5日にはNPB/MLB通算2000安打を達成(MLBで86安打・NPBで1914安打)。14日、外国人選手最高記録となる12年連続2桁本塁打を達成。7月にはDeNA移籍後初、通算9回目の月間MVPを受賞した。3球団で月間MVPを受賞するのは史上初。前年と同じ137試合の出場で打率は3割ちょうどだったが、規定打席に到達した年では初めて本塁打が20本未満となり、19本塁打に留まった。

2013年はトニ・ブランコの入団により、5番に回り、4月6日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)で6回表に元チームメイトである石川雅規から左翼席へ弾丸ライナーで飛び込む本塁打を放ち、外国人枠で入団した選手としては史上初のNPB通算2000安打を達成した。しかし、巨人退団の要因となった守備難が顕著になってきたことに加え、特に2000安打を達成してからは打撃面でも精彩を欠いたことから、4月25日の対巨人戦を最後にスタメン落ち。その後は代打や交流戦での指名打者として出場していたが、代打には不慣れなこともあって結果を残せず、6月2日の日本ハム戦で本塁打を放ったのを最後に22打席連続凡退のまま、前半戦終了後の7月18日に来日13年目にして初の二軍降格となった。結局、来日1年目から12年連続で続けてきたシーズン100試合出場・規定打席到達・シーズン100安打・シーズン二桁本塁打の全てが途切れた。9月27日、戦力外通告を受けていたことが判明。10月2日、球団側が2014年シーズンは契約しないことを正式に発表した。この年は来日後最低の出場試合数56、打率.185、2本塁打、14打点に終わった。

DeNAから戦力外通告を受けた後は、KOYO都市開発の社長に就任する一方で、NPBの他球団で現役生活を続けることを希望。好物の炭酸飲料を断つなど、例年以上に節制と自主トレーニングに努めることで、他球団からのオファーに備えていた。

2014年2月13日にベースボール・チャレンジ・リーグの群馬ダイヤモンドペガサスが、ラミレスを打撃コーチ兼任の外野手として入団させることを発表した。背番号はヤクルト・DeNA時代と同じ3。なお、打撃コーチ料を含めた推定年俸は、巨人時代の最高額(5億円)の100分の1に相当する500万円(選手としての月給にはリーグ規定上限額の40万円を適用)。また、ラミレスにNPB復帰への意向が強いことから、群馬との契約には「シーズン途中にNPBの球団から(ラミレスの)獲得を打診された場合には契約を解除できる」という旨の付帯条項が添えられた(なお、NPBの支配下選手登録の新規獲得可能期間は7月31日までである)。

入団した群馬では、4番・指名打者として5番カラバイヨとの強力クリーンナップを形成。4月にまたも西武が獲得を検討していると報道されたものの、契約は見送られた。6月23日に球団がラミレスの緊急帰国を発表。帰国に至った経緯として、「家族の病気療養に付き添うため」としている。その後、チームに再合流して7月11日の試合より一度復帰するも、同様の理由のため9月4日に球団が2回目の緊急帰国を発表した。2度目の帰国後は、復帰することなく、シーズンを終えた。シーズン通算では、45試合の出場で、打率.305、7本塁打、38打点。10月14日に、球団を通じて現役引退を表明した。

2014年10月29日から、群馬のシニアディレクターに就任した。就任後の11月9日に第1回トライアウトを視察して、年内限りとDeNAから戦力外通告を受けていた元チームメイトの伊藤拓郎を群馬に入団させるなど、編成面で手腕を発揮していた。

2015年4月3日にNPB時代の古巣、DeNA対ヤクルト戦(横浜スタジアム)の試合前に引退セレモニーが行われ、ファンや関係者に感謝の言葉を伝えた。

2015年6月22日からオリックス・バファローズと3ヶ月間の契約を結び、同球団の巡回アドバイザーを兼務した。群馬で指導していたフランシスコ・カラバイヨとヨヘルミン・チャベスが相次いでオリックスへ移籍したことによる就任で、外国人選手のサポートを中心に、月に数回のペースで一・二軍を指導していた。

オリックスは2015年10月5日に、ラミレスと巡回アドバイザー契約を延長しないことを発表した。球団本部長の瀬戸山隆三は、契約期間の満了を機に別のポストへの就任をラミレスへ打診したところ、就任の辞退と退団の申し出があった、としている。

2015年10月19日にDeNA球団がラミレスの一軍監督就任を発表した。同球団の監督に外国人が就任するのは前身の横浜大洋ホエールズと横浜ベイスターズ時代を含めても初めて。

現役時代に横浜DeNAベイスターズおよび前身球団に在籍していた人物が同球団の監督に就任するのは2004年に退任した山下大輔以来で、DeNA球団のOBとして監督に就任するのは球団史上初となる。

現役時から「日本のプロ野球で監督をやってみたい」と願っており、就任当時12球団で唯一CS出場実績がなかったことから80勝への願いを込めて背番号は80とし、「来季優勝するために必要な数字」と語った。

2016年シーズンは5月3日時点で借金11と低迷するが、そこから15勝4敗1分の驚異的な巻き返しで5月28日に借金を完済し、シーズン3位で球団初のクライマックスシリーズへ進出した。1stステージで2位の巨人に2勝1敗で勝利してクライマックスシリーズ・ファイナルステージに進出したが、シーズン1位の広島に1勝4敗(広島に1勝のアドバンテージ含む)で敗れて日本シリーズ進出はならなかった。

2017年シーズンも3位でリーグ戦を終え、クライマックスシリーズへ進出。また、球団として16年ぶりの2年連続Aクラスとなった。3位が確定したのは10月1日の広島戦(横浜スタジアム。13 - 7で勝利)で、この日に1年契約で2018年シーズンの続投が決まった。クライマックスシリーズでは1stステージで2位の阪神に2勝1敗で勝利し、クライマックスシリーズ・ファイナルステージへ進出。シーズン1位の広島に4勝2敗(広島に1勝のアドバンテージ含む)で勝利し球団として19年ぶりの日本シリーズ進出を果たした。これにより、2010年代でセ・リーグはすべてのチームが1回は日本シリーズを経験することになった。またセ・リーグにおける外国籍監督の日本シリーズ出場は1987年の王貞治以来30年ぶりであった。日本シリーズではソフトバンクと戦い、2勝4敗に終わった。

2018年シーズンは先発投手陣の不調など誤算もあり優勝争いから早々と脱落し、クライマックスシリーズ争いにも敗れ4位に終わり、就任3年目で初めてAクラスを逃した。苦戦のシーズンであったが、得失点-70で4位を堅持しており、ラミレス監督の手腕を評価する声が上がった。同じシーズンから監督就任した巨人の監督高橋由伸、阪神の監督金本知憲は成績不振で3年目で辞任したが、ラミレスは4年目も続投が決まった。

2019年は開幕カードを監督就任後初めて2勝1敗で勝ち越したものの、4月16日の中日戦から28日の巨人戦まで2015年以来となる10連敗、5月3日の阪神戦から8日の巨人戦まで5連敗を喫するなど春先に大きく躓いた。しかし毎年鬼門といわれるセ・パ交流戦を監督就任後初めて10勝7敗1分と勝ち越すなど持ち直し、前半戦を首位・巨人と9.5ゲーム差の2位で終える。後半戦に入ってからも7月19日の中日戦から引き分け1を挟んで7連勝するなど好調を維持。8月2日からの首位・巨人との直接対決に3連勝し、最大10.5あったゲーム差を0.5にまで縮めた。最後まで優勝争いに絡んだものの、9月21日の直接対決で巨人に敗れたことで優勝を逃す。同24日の中日戦に勝利し、シーズン2位を確定させ、2年ぶりのAクラス&クライマックスシリーズ進出が決まった。2位以上につけるのは最後に優勝した1998年以来で、2位自体は1997年以来22年ぶりだった。また球団史上初めて、クライマックスシリーズを本拠地で開催することとなった(これにて12球団すべてが本拠地でクライマックスシリーズ主催経験を持つ事となった)。そのクライマックスシリーズでは3位の阪神と対戦したが、第1戦に6点差を逆転され敗れるなど苦戦を強いられ、第2戦こそ乙坂智のサヨナラ2ラン本塁打で勝利したものの第3戦では打線が湿ってしまい1点しか奪えず、1勝2敗で敗退した。DeNAがファーストステージで敗退するのは初めてである。しかし南場智子オーナーから「優勝はできなかったけども、ここまで持ってくれたことは評価をしたい」と実績を評価され、翌年の2020年の続投が決まった。

2020年はMLBへ移籍した筒香嘉智に代わってキャプテン及び4番打者に指名した佐野恵太が台頭し、貯金1桁を保ちながら首位・巨人を追っていた。8月5日には球団史上3人目となる監督通算300勝を達成するも、直後に先発投手陣の中心だった今永昇太、平良拳太郎がそれぞれ長期離脱。さらに9月3日にはスペンサー・パットンをオープナーとして先発起用するも2回途中9失点と炎上し、巨人に3タテを喫して以降は優勝争いに絡むことが出来なかった。その後は勝率5割前後を保っていたが、10月23日にリーグ優勝の可能性が完全消滅すると、試合後に三原一晃球団代表に辞任を申し入れ、翌24日にシーズンいっぱいでの退任が発表された。11月5日の中日戦に敗れて2年ぶりのBクラスが確定、同14日のシーズン最終戦はサヨナラ勝ちで収め、56勝58敗6分の4位で終えた。

2020年11月14日、DeNA監督としての最終試合が行われた後、YouTuberとして最初の動画が公開された。所属事務所はサイバーエージェントグループの株式会社CV Projectで、タレント活動も行う。

2022年12月9日にアジアリーグアイスホッケーの横浜GRITSの共同代表に就任した。

2023年1月13日、プレーヤー部門で野球殿堂入り。NPBで外国人枠で入団した選手としてはエキスパート部門で殿堂入りしたランディ・バースと共に初の事例である。また、BCリーグでプレーした選手としては前年にプレイヤー部門で殿堂入りした高津臣吾に続いて2人目である。7月28日よりPrime Videoで配信される『相席食堂プライムビデオSP もし有名監督が相席食堂のディレクターだったら』にて、野球監督ではなく初めて番組ディレクターとして演出を手掛けた。9月、日本アイスホッケー連盟理事・広報委員長に就任。

選手としての特徴

現役時代は故障が少なく、長期離脱したことがほとんどなかった。2004年8月8日以降、2011年7月15日に欠場するまで全試合に出場。日本の外国人枠選手の連続出場試合記録(985試合連続出場)、日本人選手を含めても歴代8位の記録を保持している。

首位打者を1度、本塁打王を2度、打点王を4度、さらに最多安打を3度獲得するなど打撃に優れている。早打ちの傾向があり、2007年の初球打ちの打率は5割を超えたが、それゆえに四球が非常に少ない。2012年に至っては、シーズンの約3分の1を消化した6月14日の試合の183打席目でようやくシーズン初四球を記録するという有り様だった。ヤクルト時代は三振が多く、7年連続100三振以上を記録していた。しかし巨人移籍後は出場試合が多いながらも全てのシーズンで100を下回るようになった。

本塁打の凄さは落合博満からも認められていたが、それだけに「本塁打を狙わないで遠慮しながらやっているように見えた」ともいわれており、慎重なプレイをしていたとも言われている。

来日当初は典型的なプルヒッターだったが、2008年前後にはボールを手元まで呼び込んで外角球を捌くことができるようになった。追い込まれると右方向に流し打つ柔軟さも兼ね備える。球種的な弱点も少なく、巨人移籍以降2010年までの通算得点圏打率.347とチャンスに強い他、同じく通算対左打率.337と左投手にも強い。

逆方向に打つ打撃は巨人に移籍してからより成熟し、ある時に捕手寄りから投手寄りに打席で構えるようになってから変化球が曲がり切る前に打てるようになったと語っている。引退後の江川卓との対談では、江川も解説者としてラミレスのその工夫には気付かなかったと感心していた。

また、名球会入りした打者で唯一犠打を一度も記録していない(メジャー時代には通算2犠打を記録)。

ラミレス本人は「タフィー・ローズやアレックス・カブレラ、マット・マートン、ロベルト・ペタジーニのほうが野球の能力だけで言えば私以上の選手。私が長くプレーし、監督まで務められたのは、日本野球へのリスペクトや、オフ・ザ・フィールドの姿勢といった部分にあるのかなと思います」と述べている。

主に左翼を守る機会が多かったが、守備範囲は非常に狭く、2010年には得点換算で両リーグワーストであった。

巨人時代の2009年シーズンオフに監督の原辰徳から一塁への挑戦を打診されたり、DeNAに移籍した直後にも監督の中畑清が「ラミレスに外野を守らせるという固定観念はない。一塁も考えている」と発言するなど、守備の負担が軽減される一塁へコンバートする案もたびたび出たが実現しなかった。

DeNA時代は余りの守備の衰えに酷評が相次いだが、里崎智也は「ずっと打ってたから守備何も言われなかったけど、守備ずっと一緒だよ?」と、ラミレスの元々の守備力を否定しており、野手の守備力の評価は打撃に付随するものだとの立場を示している。

走塁面は企図も含めて盗塁数が少なく、ベースランニングで手を抜くことが多いが、右打者ながら一塁到達4.2秒台前半を記録するなど走力は劣らない。200安打を達成した2007年は内野安打22本を記録し、200本目は三塁への内野安打であった。後年の鈍足のイメージとは異なり、2001年のころはかなりの俊足で内野安打を量産した。

監督・指導者としての特徴

DeNA監督としての就任会見(2015年10月)、及び、DeNA監督としてのインタビュー記事(2016年5月)において、自身の監督観、あるいは自身が目指すチーム作りにおいて、下記のことを述べている。

「ご存じの通り、若く将来有望な選手が多い中で、積極的な野球ができればと思っています。必要なときに積極性を出し、個々の選手が力を合わせて協力して、みんなが1つの目標に向かっていければいいと思います」

「できるだけ多くのコミュニケーションを選手ととれる監督になりたいと思います。同時に積極性をもって、多くの選手にいろいろ教えたいと思います。野球は身体的なものよりメンタルな面が大事だと思いますので、そういうところも含めて指導していけたらと思います」

「監督は選手より有名になるべきじゃないというのが、僕の持論。選手が注目されるべきだと思うんだ。監督はゲームに集中して、必要以上に目立ったパフォーマンスをしない」

試合終了後の監督会見、選手に対する日々のミーティング、各種メディアにおけるインタビューにおいて、下記のことを折に触れて述べている。

「凡事徹底」(基本的なこと、当たり前のことを徹底的に大切にする)

「どう始まるかより、どう終わるかが大事だ」(試合が終わった瞬間から、次の試合に対しての準備が始まる)

「Tomorrow is Another Day.」(明日は明日、また頑張ります)

「That happens.」(そういうこともある。終わったことは気にしない)

「Cross the Line.」(線を越えろ。一度でもその線を越えれば風景が、意識が変わる)

また、下記のように、中長期的な視点を意識したコメントも、しばしば発信している。

「経験がこのチームをより一層、強くしていくと思う」(2016年10月、クライマックスシリーズファイナルステージで広島に1勝4敗で敗退が決まったことを受けての、シーズン終了会見にて)

「最後の20試合が重要だと多くの監督が言うが、首位とのゲーム差が10ゲーム以上あることを考えれば、残り20試合では追いつけない。『残り20試合の時点でどういう状態にチームを持って行くか』が最も重要だ」(2016年7月、オールスターを終えてシーズン後半戦を迎えるにあたってのコメントにて)

チームの一体感を生み出す「雰囲気作り」を重要視すること、基本的なことを大切にする重要性、前向きなメッセージを常に発信し続けること、を通して「(選手を)やる気にさせてくれた。それがあってこそ、選手全員が自信をもってできたと思う」(筒香嘉智)という効果をもたらし、監督就任1年目の2016年、DeNAを球団史上初のクライマックスシリーズ進出に導いた。この年のDeNAは選手の年俸総額が12球団で最下位であった。

一方で就任以来初めてAクラスを逃した2018年シーズン終了後には、コーチ陣との意思疎通をしないで独断で選手起用や作戦指示をしていたことを明かし、コーチ陣に対して異例の謝罪をした。当時一軍総合コーチとしてラミレスと現場を共にした青山道雄は2017年の記事で「自分の信念を貫く監督です。とにかく選手たちを強く信頼していて、そういった部分では頑固者かもしれません。バントをしないなど、いろいろと批判を受けましたが、ラミレス監督はそれを承知の上で、データに基づいて采配しています」と語っていた。また、2019年シーズン中の取材には「でも、(試合中に)ベンチ内でゆっくり会話なんかしている時間はないわけですよ」「いろいろな話をするけど、瞬時の判断は任せている。だから、コミュニケーションは量の問題じゃない。(コーチたちの)意見をどう解釈してどう決めていくかは監督だから」と回答していた。

采配はデータに基づく緻密な「分析野球」の傾向が強いが、「情に厚い」面もある。DeNAの功労者である三浦大輔は引退試合で先発起用して7回途中まで登板させた。2016年シーズンの山﨑康晃、梶谷隆幸、ホセ・ロペスなど主力と位置付けているが不調に苦しむ選手は、復調を信じて辛抱強く起用し続けて「スランプは誰しもがある。大きなスランプの後には大きな波がくる。自分の現役時代の経験でもそうだった」と述べている。その後も2019年シーズンの宮崎敏郎、2020年シーズンのタイラー・オースティンなどが辛抱強く起用し続けた例として挙げられ、彼らは後に復調している。

また、佐野恵太の才能を見出した事でも知られる。佐野はドラフト9位という最下位指名だったが、1年目には開幕一軍に起用、2年目以降は代打として一軍に定着させた。4年目の2020年にはキャプテン及び4番打者に指名、佐野はその年首位打者を獲得して飛躍を果たした。

自身の現役時代の経験から「外国人選手のメンタルケアは監督の大きな仕事」と考えており、「ここ日本では、全てやり方が違う。メンタルも全くも違う。野球は野球で同じだけど、全く違うやり方なんだ。僕らは日本の野球に合わせなければならない。そんな中で大事なのは、そういうことをきっちり伝えるコミュニケーションだね。新しく入ってきた選手とは必ず、日本での違いについて話をするようにしている」と述べている。

自身の形に拘らない柔軟性もあり、就任当初は梶谷を2番打者として起用することをチームの基軸の一つとしていたが、チーム状況や梶谷自身の状態に応じて起用法を変化させ、2016年シーズンはレギュラーシーズンで梶谷の2番打者起用は8試合であった。この年の梶谷は107試合に出場して最多は3番としての47試合で、ポストシーズンは出場7試合中5試合で2番打者として起用された。

攻撃面では、就任当初から盗塁や犠打の増加を画策していたが、最終的には俊足でない強打者が揃うチーム事情を考えてスモールベースボールを断念している。在任期間中のチーム犠打数は全ての年でリーグ最少で、盗塁数もリーグ最下位を3度(17年、19年、20年)記録している。

打順に関しては、2017年からは投手を8番、倉本寿彦ら勝負強さのある野手を9番に置く独自の打線を形成した。一般的には走力のない捕手などを8番、投手を9番に置くが、「俊足ではない8番の野手が出塁しても、9番の投手の犠打でダブルプレーになるリスクが高い。それなら最初から8番に投手、9番に野手を置いて、トップバッターに良い流れでつないだほうが得点の可能性は広がる。」という持論を根拠としている。8番・投手の犠打の確率を向上させるため、7番には出塁能力と俊足を兼ね備えた選手を置いた。また打順が多く回ることや、出塁した野手の9番打者をホームに返す意図から、2番打者には梶谷、ネフタリ・ソト、筒香嘉智、オースティンといった強打者を配置することも多かった。

捕手起用への拘りも強い。就任当初の練習試合や2018年にはベンチからラミレス自身が試合中に配球を指示していた。更に試合序盤に「流れを変えるため」などの理由でバッテリーではなく先発捕手のみを交代する事も度々あった。また、データとして「バッテリー毎の防御率」を重視し2020年は前年最も出場していた伊藤光を「マスクをかぶった時の防御率が悪い」事を理由に二軍へ降格させたほか、打率.327と打撃好調だった嶺井博希ではなく打率.212の戸柱恭孝を正捕手として起用した。戸柱に関しては監督退任後も能力を高く評価する発言が見受けられる。

先発投手には故障離脱のリスクから完投勝利を求めず、「基本的には1試合で100球以上投げさせるべきではない」「5回までしっかりと投げてくれれば合格だ」と自著で述べている。先発が好投していても100球に到達する前に交代させる事もあった。また、監督後期には先発投手に故障者が続出したこともあって試合序盤の短いイニングを中継ぎに任せるオープナーを採用した(正確にはブルペンデー)。

先発投手の交代判断が早いことや、イニング途中での継投を好んだことも起因し救援投手の登板数は毎年多かった。2017年は山崎康晃、三上朋也、砂田毅樹、パットン、田中健二朗の5人が60試合以上登板し、2018年は砂田が、2019年はエドウィン・エスコバーと三嶋一輝が70試合以上登板した。小刻みな継投策は各紙から「マシンガン継投」とも評された。一方で2017年のCSファイナルステージでは先発の今永昇太、濱口遥大を中継ぎに回した継投策が功を奏し、チームを19年振りの日本シリーズ出場へ導いている。

また、在任期間中全ての年で「12球団最多故意四球」を記録した。申告敬遠が導入されると急増し、導入初年度の2018年には前年の14敬遠の4倍となる56敬遠を記録した。

監督としての通算成績は692試合で336勝337敗19分、勝率.499。通算336勝は別当薫、三原脩に次いで球団3位、3度のAクラス入りも別当、三原、権藤博に次ぐ球団4人目の快挙だった。在任中はセ・リーグ4球団から勝ち越した一方で、阪神タイガースには通算44勝74敗6分と苦戦し続けた。2020年のトークショーでは 「毎回、阪神のことを話すと悪夢がよみがえる」と苦笑いを浮かべた。

2024/05/16 07:52更新

Alex Ramirez


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