もしもし情報局 > 作曲家 > エクトール=ベルリオーズ

エクトール=ベルリオーズの情報 (HectorBerlioz)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【5月19日】今日誕生日の芸能人・有名人

エクトール=ベルリオーズの情報 (HectorBerlioz) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

エクトール=ベルリオーズさんについて調べます

■名前・氏名
エクトール=ベルリオーズ
(Hector Berlioz)
■職業
作曲家
■エクトール=ベルリオーズの誕生日・生年月日
1803年12月11日 (年齢65歳没)
亥年(いのしし)、射手座(いて)
■出身地・都道府県
不明

エクトール=ベルリオーズと同じ年に生まれた芸能人(1803年生まれ)

エクトール=ベルリオーズと同じ誕生日の人(12月11日)

エクトール=ベルリオーズと同じ出身地の人


TOPニュース

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕

嵐の松本潤が事務所を退所し独立を発表!本人メッセージもインスタに投稿

高橋一生飯豊まりえが結婚!「岸辺露伴は動かない」で共演

フジテレビの生田竜聖アナウンサーが再婚

元子役の若山耀人容疑者、殺人容疑で再逮捕

フィギュアスケートの宇野昌磨が引退会見!

落馬した吉田隼人騎手近況。藤井勘一郎元騎手がツーショット写真を公開

水原一平が歯の治療費930万円を…


エクトール=ベルリオーズ

もしもしロボ

エクトール=ベルリオーズ(Hector Berlioz)さんの誕生日は1803年12月11日です。

もしもしロボ

再評価、エピソードなどについてまとめました。母親、父親、結婚、解散、家族、現在に関する情報もありますね。65歳で亡くなられているようです。

ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz、1803年12月11日 - 1869年3月8日)は、フランスのロマン派音楽の作曲家である。『幻想交響曲』でよく知られているが、他にも『死者のための大ミサ曲』(レクイエム、1837年)にみられるように、楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。

ベルリオーズの肖像はかつてフランスの10フラン紙幣に描かれていた。

フランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレ(La Côte-Saint-André)に生まれる。ここはリヨンとグルノーブルのほぼ中間に位置する。母親のマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン、父親で開業医のルイ=ジョセフ・ベルリオーズとの間で、長男として育てられる(このうち6人中2人は早世)。

1809年、6歳の時から町の教会に付属する小さな神学校に入学するが、間もなくして1811年末に閉鎖されてしまい、18歳になるまで家庭で父親の手によって教育された。家庭ではラテン語、文学、歴史、地理、数学、音楽(初歩程度)を習う。

1817年ないし1818年頃、14歳のベルリオーズは父親の机の引き出しからフラジオレットを見つけ、吹く練習をする。息子の様子を見た父親は楽器の使い方を説明し、程なくしてフルートを買い与える。その後15歳になってからはギターも習い始めている。

作曲は同年頃に独学で学び始め、父親の蔵書からラモーの『和声論』を見つけるものの、理論の基礎ですら身につけていない彼にとっては難解なものであった。しかしシャルル・シモン・カテルの『和声概論』を読んだ時は、最初は難解ではあったが徐々にのみ込んでいった。ある程度の知識を得て作曲・編曲に挑戦し、室内楽曲、歌曲、編曲作品を作曲している。

1821年、18歳の時にグルノーブルで行われたバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、家業を継ぐ名目でパリに行き、医科大学に入学する。しかし青年ベルリオーズは解剖学を学んでいる途中で気がひるんでしまい、次第に医学から音楽へ興味が移り、オペラ座に通うようになる。それから1年後の1822年に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。この時期に医学大学に行く代わりに、コンセルヴァトワールの図書館に行っている。そこでは楽譜を複写したり、楽曲の分析などを試みたりしている。同時にベルリオーズは再び作曲を始めており、フランスの詩人ミルヴォワの詩によるカンタータ『アラブの馬』(H.12)と3声部のカノン(H.13)を作曲する。前者のカンタータは独唱と大管弦楽のための作品であるが、カノン(H.13)を含む2つの作品はいずれも紛失している。

1823年にパリ音楽院に入学して、音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールにオペラと作曲を学ぶ。

また早くからフランスのロマン主義運動に一体感を持つようになり、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザックらと親交を結ぶ。後にテオフィル・ゴーチエはこのように述べている。

「エクトル・ベルリオーズは、管見によると、ユーゴーやドラクロワとともに、ロマン主義芸術の三位一体をなしているようだ」

ル・シュウールの下で音楽を学び、2年後の1824年に最初の本格的な作品である『荘厳ミサ曲』(H.20)を作曲する。1825年にパリのサン・ロッシュ寺院で楽長のマッソンによって初演されたが、未熟であるがために失敗する。この後に作品を大幅に加筆修正を行い、同年にオーギュスタン・ドゥ・ポンスに借金をして再演され、成功を収める。またこの頃からローマ賞に挑戦することに意欲を掻き立てている。

1827年からローマ賞に挑戦し、同年の7月に応募作としてカンタータ『オルフェウスの死』(H.25)を作曲する。しかし選外に終わる。その後も以下のように毎年応募する。また9月に当時熱狂的に話題を呼んでいたイギリスから来たシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの出演する舞台を見て、衝撃を受ける。このことが2人の運命的な出会いであった。

1828年3月、音楽院で開かれたフランソワ・アブネックの指揮による第1回のパリ音楽院管弦楽団定期演奏会でベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』を、また同年に第5番『運命』を聴いて、大きな啓示を受ける。6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『エルミニー(フランス語版)』(H.29)を作曲。惜しくも2票の差で第2位となる。

1829年、ゲーテの『ファウスト』(ジェラール・ド・ネルヴァルの仏語訳による)を読んで感銘を受け、このテキストを用いて『ファウストからの8つの情景』(H.33,Op.1)を作曲する。出版の際に「作品1」と番号を付ける。7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータ『クレオパトラの死』を作曲するが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買い、受賞を果たすことが出来ずに終わる。

1830年2月に『幻想交響曲』を作曲を開始し、6月に完成する。また、この頃にピアニストのマリー・モークと出会って恋愛関係となる。4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲する。4度目にしてようやく念願となるローマ賞を受賞する。12月5日に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約に至る。そして受賞者としてローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束を交える。

1831年、ローマに到着した直後に婚約者マリー・モークの母親から手紙が届き、ピアノ製作者イグナツ・プレイエルの長男カミーユ・プレイエル(英語版)と結婚するという報告であった。この報告を知るや否や、再び訪れた破局にベルリオーズは落胆するどころか、逆にひどく怒りを露わにしたといわれる。『回想録』には、マリーとその母とカミーユ・プレイエルを殺して自分も自殺しようと、ベルリオーズは婦人洋服店に急いで行き、女装するために婦人服一式を買い、ピストルと自殺用の毒薬を持参してパリへ向かう馬車に乗り、そのままローマを出発した。しかしイタリア(サルデーニャ王国)とフランスの国境付近でふと我に返り、直後に思い留まって正気を取り戻した。

この出来事の後、ベルリオーズはニース(当時はサルデーニャ王国領でフランス国境の外)で1か月ほど滞在して療養することとなり、回復後はローマへと戻って行く。そして正式にモークとの婚約は解消された。この療養中に『幻想交響曲』の続編と言える抒情的な独白劇『レリオ、あるいは生への復帰』の構想を始めており、ローマに戻った頃には全体の構想を終え、作曲に取り組んだのち7月初旬に完成している。

1832年に上記の事情によってイタリア留学を切り上げる形でパリへ帰国すると、同地で再び音楽活動を始める。またローマ滞在中に作曲した作品(序曲『リア王』や『レリオ』など)を携えて持ち帰っている。

1833年、劇団の女優ハリエット・スミッソンが『幻想交響曲』を聴きに来た際に再会し、結果的に結婚までに至る。ベルリオーズの両親は反対したが、それを押し通してのことであった。パリ郊外のモンマルトルに新居を構え、自作の演奏会の開催、雑誌や新聞の評論を始める。

同年に演奏会に来ていたショパンとパガニーニと出会い、親交を結ぶ。

1834年の初め頃、パガニーニからの依頼でヴィオラと管弦楽のための作品である交響曲『イタリアのハロルド』を作曲する。初演の成功によって金銭的な援助も得られた。またこの年に長男のルイが誕生する。

この年にオペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の作曲に取りかかり、1836年夏に大半が完成する。同時にフランス政府から『レクイエム』の作曲を委嘱され、速いペースで翌1837年に完成する。初演は同年に行われると成功を収め、ベルリオーズは新聞雑誌から賛辞を浴びたり、陸軍大臣からの祝辞を受けたりした。

1838年9月、オペラ座で『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の初演が行われる。しかし序曲を除いて散々な不評に終わる。原因として全体の総練習が4回であったことや、聴衆の趣向に合わなかったことなどが挙げられる。友人たちは失敗の原因を台本の稚拙であると指摘したが、『回想録』の中では「台本は気に入っていたのに、どうして劣っているのか、今でもわからない」と語っている。また初演が失敗した直後に母親が没する。

1839年に、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』を完成させる。初演の後、作品をパガニーニに献呈する。この時期のベルリオーズは莫大な借金を背負っていたため、生活が苦しく、収入が得られなかったが、音楽院側からの助けで、2月頃にパリ音楽院の図書館員となり、僅かな額ではあったがある程度の収入を得る。1852年には館長に任命されている。

1840年に再びフランス政府から依頼を受けて、『葬送と勝利の大交響曲』を作曲・完成、7月28日に200名の軍楽隊を率いて初演を行う。しかしこの時期、ベルリオーズはパリの各劇場から締め出された状態にあった。『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の失敗によるものといわれ、また一部で反感を持たれていたために、パリでの人気は次第に下って行った。

人気が遠ざかっていたため、1842年に演奏旅行を始めることになり、年末にドイツへ向かい、各地で演奏会を催して大きな話題を呼び、旅行は成功を収める。しかし一部からは急進的過ぎるという批評も受けた。

1843年5月末、パリに戻ったベルリオーズは、『ドイツ・イタリア音楽旅行記』や『近代楽器法と管弦楽法』などの著作を著したり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として『ローマの謝肉祭』を作曲する。一方で妻ハリエットとの仲違いが決定的となり、別居へと至る。ハリエットはモンマルトルの小さな家で生活する。ベルリオーズは稼ぐために新聞や雑誌の執筆などに追われ、それまで以上に窮地に瀕していた。

1844年にパリで産業博覧会が開催され、博覧会の終了間際(7月末)に産業館で型破りな演奏会を実施する。8月1日に産業館で行われた演奏会は、新作『フランス讃歌』(H.97)を初演したが、480人のオーケストラ団員と500人の合唱団員を統合したもので、演奏時にはベルリオーズを中心に7人ほどの補助指揮者が指揮棒を持って壇上に登ったという。演奏会は大成功を収めたが、出費が影響して経済的にはわずかなものしかもたらすことができなかった。

1845年10月から翌1846年4月にかけて、2回目の演奏旅行としてウィーンやプラハ、ブダペストなどへ赴き、各地で演奏会を開催して大歓迎を受ける。ブダペストでの演奏会は、『ラコッツィ行進曲』を管弦楽用に編曲した『ハンガリー行進曲』が演奏された際、聴衆から熱狂的な歓声を送られたといわれる。同じ頃にゲーテの『ファウスト』による劇的物語『ファウストの劫罰』の作曲に着手しており、『ハンガリー行進曲』はこの作品に取り入れている。

『ファウストの劫罰』は旅行中の合間を縫って1845年から作曲を始め、パリに帰国した4月の末頃も続けられ、10月に全曲が完成する。12月6日にオペラ=コミック座で初演されたが、20日に行われた再演とともに結果は芳しくなく、成功しなかったという。初演の失敗によって多額の負債が降りかかり、破産の危機に直面したものの、友人たちの尽力によってこれを免れる。だがこれを機にベルリオーズは再び演奏旅行を決意し、ロシアへと赴く。

1847年2月14日、ベルリオーズはパリを離れ1人でロシアへ向かった。ベルリンまで汽車で乗り、滞在中にロシア大公妃エレナ・パヴロヴナ宛ての紹介状を書いて欲しいとプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に懇願する。それを携えて、ようやくロシアに到着する。3月15日と25日にサンクトペテルブルクで、4月にモスクワでそれぞれ行った演奏会は成功し、喝采を浴びるなど大歓迎を受ける。この演奏会で4万フランの大金を手にしたが、ベルリオーズにとってこれほどの大金を得たのは初めてのことである。

パリへの帰途に再度ベルリンへ立ち寄り、ここでも演奏会を催している。プロイセン王の求めで『ファウストの劫罰』を演奏し、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世から赤鷲勲章を授与される。また同夜サンスーシ宮殿での晩餐会にも招待されている。著書『近代楽器法と管弦楽法』はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世に献呈している。

7月初旬にパリに戻ったベルリオーズは、当時イギリスで活躍していた有名なマネージャーのルイ・ジュリアンと出会い、彼の申し出に応じる形でロンドンのドルーリー・レーン劇場の指揮者として活動するため、その年の末頃にロンドンへ向かう。しかしジュリアンと交わした契約は途中で破棄される。ロンドンに到着して4か月後にジュリアンは破産の危機に直面したためであった。

イギリスでの生活が安定する矢先に、1848年2月にパリで勃発した2月革命によって、急遽パリへと舞い戻る。理由として名誉職という名の地位であるパリ音楽院の図書館主事補の職を確保するためであった。

この時期、ベルリオーズの周りに相次いで不幸が襲う。パリへ戻った7月下旬に父ルイが世を去り、また別居中の妻ハリエットが脳卒中の発作で倒れ、パリの音楽界は革命の影響によって劇場は閉鎖され、街は謎の静けさを醸し出した状態であった。このため、作曲活動は一旦中断して評論と執筆活動に集中することに限られる。

しかし1848年末頃に極秘に作曲を始めており、1849年に3群の合唱と大管弦楽のための『テ・デウム』(H.118,Op.22)を完成させる。だが演奏の機会が得られず、1855年4月にパリ万国博覧会でサン・トゥスタッシュ教会での初演まで待たなければならなかった。

この時期は、合唱とピアノ伴奏のための『トリスティア』(H.119)と、2重合唱と管弦楽のための『民の声』(H.120)ぐらいしか作曲していない。また自身の『回想録』も執筆をし始め、そのうちの第1部を書き上げている。

1850年、ロンドン・フィルハーモニック協会を真似する形で「パリ・フィルハーモニック協会」を結成する。パリではこのような協会は無く、これが初めてのことであった。ベルリオーズはこの組織の会長と指揮者に就任して演奏活動を活発に行う。しかし程なくして資金難に陥り、加えて聴衆からの受けがあまり良くなかったため、協会は結局1年後にそのまま解散した。

解散後、1851年から1855年にかけてロンドンに赴き、同地で定期的に指揮活動を行う。

1854年の3月3日、別居中の妻ハリエットがモンマルトルで世を去った。4年前から容体は一層悪くなり、加えて身体は不随になっていた。別居中であったが、彼女を見捨てることができなかったベルリオーズは深い悲しみを味わい、『回想録』と友人フランツ・リストに宛てた手紙には悲痛な言葉がつづられている。

ハリエットを埋葬後、10月19日にマリー・レシオと正式に結婚する。息子ルイに宛てた手紙にはこのように書いている。

「私は一人で生きることもできないし、また14年来一緒に暮らしてきた女性を見捨てることもできなかった」(1854年にルイに宛てた手紙)

1854年3月末にドイツへ旅行に行き、4月1日にハノーファーを再訪する。ハノーファーでの演奏会をはじめとして、ドイツ各地で行った演奏会は立て続けに成功し、気を良くしたベルリオーズはパリに戻ったのち、以前作曲した『エジプトへの逃避』(H.128)を転用する形として、3部からなるオラトリオ『キリストの幼時』(H.130,Op.25)を5年がかりで完成させた。12月10日に初演されると聴衆から拍手を受け、大成功に終わる。

1855年4月、長らく初演の機会を得られなかった『テ・デウム』がパリ万国博覧会において、ベルリオーズの指揮によって初演された。

1856年、5月3日に没したアドルフ・アダンの後任として、フランス学士院会員に選ばれ、これにより収入が増え、生活も安定する。またこの頃にヴァイマルを訪問しており、同地で滞在していた際、フランツ・リストと同棲していたその伴侶ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と面会する。夫人から『アエネーイス』を題材としたグランドオペラ『トロイアの人々』の作曲を勧められ、先のフランス学士院会員に選ばれたことを機に創作意欲を復活させ、同年5月5日に台本を自ら執筆し、わずか2か月足らずで完成させる。さらに、腸神経痛に悩まされつつも作曲を続け、一気呵成に1858年4月12日に2年かけて完成させる。しかし全5幕という長大なオペラ『トロイアの人々』は、ベルリオーズの生前には完全な形で初演ができずに終わる。

1860年夏、バーデン=バーデンで開催される音楽祭に赴き、この地で新しく建設される劇場のために支配人のエドゥアール・ベナゼから委嘱を受け、2幕のオペラ『ベアトリスとベネディクト』(H.138)を作曲する。シェイクスピアの戯曲『空騒ぎ』に基づくが、ベルリオーズ自身がフランス語の台本を執筆している。一時中断もあったが1862年2月に完成させ、同年8月9日にバーデン=バーデンの新劇場で初演が行われている。

『ベアトリスとベネディクト』が初演される2か月前の1862年6月14日、後妻マリーが心臓麻痺のため世を去る。彼の目の前でのことだった。遺体はモンマルトル墓地に埋葬される。ベルリオーズに残された家族は船員となった息子ルイだけとなった。

1863年、苦労の末『トロイアの人々』がオペラ座で第2部のみ初演されたが、生前に第1部が上演されることはなかった。全曲上演は1890年まで待たなければならなかった。また長らく続けていた評論活動を止めてしまう。

60歳を迎えた1864年、筆を折り長年の作曲活動を終える。以降は1人でアパートに住み続けることとなる。また『回想録』を1865年1月1日付で終え、印刷にまわした(ただし、出版されたのは没後である)。

後妻マリーに先立たれ、さらに一人息子のルイも1867年に失って、孤独感を募らせた生活をパリで過ごした。特に息子を失った時は半ば狂乱となった状態で立ち直れなかったと言われる。だが指揮活動を伴う演奏旅行は、1866年にオーストリア、1867年にドイツ、1867年末から1868年にロシアでそれぞれ継続して行われた。

最晩年にロシアのエレナ大公妃から招待されて演奏旅行に赴き、サンクトペテルブルクで演奏会を開いている。ベルリオーズにとってこれが最後の旅行となった。だが元々不健康だったベルリオーズは、ロシアの厳しい寒さで身体に致命的な打撃を受け、帰国後の1868年3月には健康状態はより悪化していた。この間作曲はほとんどできない状態であったが、最後の作品はフランソワ・クープランの作品の編曲であった。

その後、南フランスで保養した後にパリで病床についたが、1869年3月8日の午前0時半に死去した。65歳没。遺体はモンマルトル墓地において2人の妻、ハリエット・スミスソンとマリー・レシオとともに葬られた。

再評価

ベルリオーズの作品は1960年代から1970年代にかけて復活を遂げたが、これはイギリスの指揮者コリン・デイヴィスの奮闘によるところが大きい。デイヴィスがベルリオーズの全作品を録音したため、従来あまり知られていなかった作品にも光が当てられた。歌劇『トロイアの人々』の録音は、最初の全曲録音であった。本作は、ベルリオーズの生前に完全に舞台上演されたことはなかったが、現在では復活を遂げ、定期的に上演されている。

2003年にベルリオーズ生誕200周年を記念して、ベルリオーズをパンテオンに改葬しようとの提議がなされたが、アンドレ・マルローやジャン・ジョレス、アレクサンドル・デュマに比べて、ベルリオーズがフランスの栄光の象徴に値し得るかどうかをめぐる政治的議論の末に、ジャック・シラク大統領によって審議が中断された。

エピソード

生前のベルリオーズは、作曲家としてより指揮者として有名であった。定期的にドイツやイングランドで演奏旅行を行い、オペラや交響曲を指揮した。自作だけでなく他人の作品も指揮しており、中にはリストのピアノ協奏曲第1番の初演なども含まれている。リストによると、指揮者ベルリオーズはリハーサルを多用する“練習魔”だったという。

ヴァイオリンのヴィルトゥオーソにして作曲家のニコロ・パガニーニとの出会いからは『イタリアのハロルド』が生まれ(パガニーニの依頼で書かれたがヴィオラの活躍が少ないのに失望した、という逸話は今日では信憑性が疑われている)、また金銭的援助も得られた。ベルリオーズの『回想録』によるならば、パガニーニは『イタリアのハロルド』の演奏を聴いて感動を表明し、2日後に「ベートーヴェンの後継者はベルリオーズをおいて他にいない」との手紙とともに2万フランを提供した。

2024/05/18 18:37更新

Hector Berlioz


エクトール=ベルリオーズと同じ誕生日12月11日生まれの人

未影(みかげ)
1979年12月11日 岩手

未影(みかげ、1979年12月11日 - )は、イラストレーター、漫画家。岩手県出身。 2005年12月、エンターブレインより画集『そらみみ』を刊行。 仰せのままに★ご主人様!(桜月、キャラクタ…

園田 直(そのだ すなお)
1913年12月11日 熊本

園田 直(そのだ すなお、1913年〈大正2年〉12月11日 - 1984年〈昭和59年〉4月2日)は、日本の政治家、陸軍軍人。位階は正三位。 挺進第1連隊第2中隊長等を務める。階級は陸軍大尉。戦後…

小渕 優子(おぶち ゆうこ)
1973年12月11日 群馬

小渕 優子(おぶち ゆうこ、1973年〈昭和48年〉12月11日 ‐ )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(8期)、自由民主党選挙対策委員長(第11代)、自由民主党水素社会推進議員連盟会長、…

町風 佳奈(まちかぜ かな)
12月11日

町風 佳奈(まちかぜ かな、1963年12月11日 ‐ )は、日本の女優、声優。本名、谷本 佳永こ(たにもと かえこ)。宝塚時代の愛称カーコ(本名から)。 大阪府大阪市出身。浪花女学園出身。身長16…

兒玉 彩伽(こだま あやか)
1970年12月11日 長野

兒玉 彩伽(こだま あやか、1970年12月11日 - )は、日本の女性声優。リベルタ所属。長野県出身。 旧芸名は児玉 孝子(こだま たかこ)。 以前はマウスプロモーションに所属していた。 …

吉本 元喜(よしもと げんき)
1979年12月11日 埼玉

吉本 元喜(よしもと げんき、1979年12月11日 - )は、日本の男性声優、舞台俳優。埼玉県出身。 アミューズメントメディア総合学院卒業。ミディアルタ、遊々団ブランシャを得てピアレスガーベラに…

山岸 快(やまぎし かい)
1981年12月11日 新潟

山岸 快(やまぎし かい、1981年12月11日 - )は、日本の元俳優、声優。東京都青山生まれ、新潟県新潟市育ち。旧名:神崎 快(こうざき かい)。祖父は落語家の桂小金治。 新潟市立小針小学校、…

成田 和史(なりた かずし)
12月11日 山梨

成田 和史(なりた かずし、12月11日 - )は日本の声優。2011年2月までぷろだくしょんバオバブに所属していた。山梨県出身。 ジャングルガール ビンディとゆかいな動物たち(ケレイブ、マーク)…

石母田 史朗(いしもだ しろう)
1973年12月11日 東京

石母田 史朗(いしもだ しろう、1973年12月11日 - )は、日本の男性俳優、声優。劇団青年座所属。東京都出身。血液型はAB型。 東京都立北多摩高等学校卒業。青年座研究所20期卒業。1996年…

洋介(ようすけ)
1978年12月11日 福岡

洋介(ようすけ、1978年12月11日 - )は、日本の男性ファッションモデル。 福岡県出身。ギグマネジメントジャパン所属。 主に広告や数多くのテレビCMなどに出演しモデルとして活躍。モデル以外…

コンタロウ(たかしな みつゆき))
1951年12月11日 兵庫

コンタロウ(本名:高階 光幸(たかしな みつゆき)、1951年12月11日 - )は、日本の漫画家。兵庫県養父市出身。兵庫県立八鹿高等学校から岡山大学薬学部を経て、1977年、千葉大学工学部印刷工学科…


エクトール=ベルリオーズと近い名前の人

上倉 エク(うえくら えく)
6月17日 東京

上倉 エク(うえくら エク、6月17日 - )は、日本のイラストレーター、漫画家。女性。 都内ゲーム会社にて4年半勤務後、フリーランスとして活動。主に描き下ろしイラスト、SDイラスト、漫画、挿絵、…

江口 拓也(えぐち たくや)
1987年5月22日 東京

江口 拓也(えぐち たくや、1987年5月22日 - )は、日本の男性声優、歌手。東京都世田谷区生まれ、茨城県育ち。81プロデュース所属。 高校2年の時、深夜テスト勉強中になんとなくつけた小野坂昌…

ダイアナ・エクストラバガンザ(1975年12月18日 - )
1975年12月18日 大阪

ダイアナ・エクストラバガンザ(本名:土谷 勇輔(つちや ゆうすけ)、1975年12月18日 - )は、日本のドラァグクイーン、女装家である。大阪府大阪市生野区出身。関西大学文学部中退。 「華やかに…

ジョン=エクルズ(John Carew Eccles)
1903年1月27日

ジョン・カリュー・エックルス(ジョン・カルー・エクルズ、John Carew Eccles [- kəˈruː -]、1903年1月27日 - 1997年5月2日)は、オーストラリアのメルボルン生まれ…

エクトル=ルナ(Hector Luna)
1980年2月1日

エクトル・R・ルナ(Hector R. Luna , 1980年2月1日 - )は、ドミニカ共和国モンテ・クリスティ州モンテ・クリスティ出身の元プロ野球選手(内野手)。愛称は"チポ"。 1999年…

ズビグニェフ=ボニエク(Zbigniew Boniek)
1956年3月3日

ズビグニェフ・ボニエク(Zbigniew Boniek, 本名:ズビクニェフ・カジミェシュ・ボニエク、Zbigniew Kazimierz Boniek、1956年3月3日 - )は、ポーランド・ビド…

ヨニー=エクストレム(Johnny Ekstrom)
1965年3月5日

3月5日生まれwiki情報なし(2024/05/17 06:38時点)

ヘクター=メルカド(Hector Mercado)
1974年4月29日

ヘクター・ルイス・メルカド(Hector Luis Mercado , 1974年4月29日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手(投手)である。プエルトリコ出身。左投左打。台湾球界での登録名は…

ヴァン=ヴァルフリート=エクマン(Vagn Walfrid Ekman)
1874年5月3日

ヴァン・ヴァルフリート・エクマン (Vagn Walfrid Ekman、1874年5月3日 - 1954年3月9日)は、スウェーデンの海洋物理学者。いわゆるエクマンの海流理論の提唱者として、現代海洋…

ヘクター=カマチョ(Hector Camacho)
1962年5月24日

ヘクター・カマチョ(Héctor Luiz Camacho Matias、1962年5月24日 - 2012年11月24日)は、プエルトリコの男性プロボクサー。バヤモン出身。身長169cm、リーチ17…

エクトル=ヤサルデ(Hector Yazalde)
1946年5月29日

エクトル・カシミロ・ヤサルデ(Héctor Casimiro Yazalde, 1946年5月29日 - 1997年6月18日)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州アベジャネーダ出身の元アルゼンチン代…

安いカラオケ店

2024年最新カラオケ曲ランキング

『ミュージックジェネレーション』がカラオケランキングを発表

カラオケ夏の曲ランキング(好きな夏うた)

カラオケ店でPayPayや楽天Payなどのキャッシュレス決済は使えるのか

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
エクトール=ベルリオーズ
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

話題の芸能人・有名人

おまかせワード

U  1970年代  1980年代  T  R  Y  S  X  Z  V 

グループ

アイドリング NMB48 赤マルダッシュ☆ AKB48 SUPER☆GiRLS アップアップガールズ(仮) HKT48 SKE48 乃木坂46 ハロプロ 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「エクトール=ベルリオーズ」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました