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エドガー=アラン=ポーの情報 (EdgarAllanPoe)
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【5月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

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エドガー=アラン=ポーさんについて調べます

■名前・氏名
エドガー=アラン=ポー
(Edgar Allan Poe)
■職業
推理小説作家
■エドガー=アラン=ポーの誕生日・生年月日
1809年1月19日
巳年(へび)、山羊座(やぎ)
■出身地・都道府県
不明

エドガー=アラン=ポーと同じ年に生まれた芸能人(1809年生まれ)

エドガー=アラン=ポーと同じ誕生日の人(1月19日)

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エドガー=アラン=ポー

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エドガー=アラン=ポー(Edgar Allan Poe)さんの誕生日は1809年1月19日です。

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生涯、作風とジャンルなどについてまとめました。父親、母親、結婚、兄弟、家族、解散、現在に関する情報もありますね。

エドガー・アラン・ポー(英語: Edgar Allan Poe, 1809年1月19日 - 1849年10月7日)は、アメリカ合衆国の小説家、詩人、評論家。

マサチューセッツ州ボストンに生まれる。旅役者であった両親を早くに失い(父親は蒸発、母親は死亡)、名づけ親の商人アラン家に引き取られ、幼少期の一時期をロンドンで過ごした。帰国後17歳でヴァージニア大学に進む。学業成績は極めて優秀で、詩人としても認められるが、賭博、大酒で悪名を馳せる。養父アランと賭博の借金が原因で仲たがいになり退学。家を出て陸軍に入隊。いったん除隊して養父とのよりを戻し、こんどは士官学校に入学するもなじめず、規則違反行為で退学処分。その後、文筆で身をたてるべく詩や短編小説を創作し始める。(筆名には、養家名のアランをそのまま名乗ることはなく、ほとんどエドガー・A・ポー、あるいはエドガー・ポーとしている) ゴシック風の恐怖小説「アッシャー家の崩壊」「黒猫」、世界初の推理小説と言われる「モルグ街の殺人」、暗号小説の草分け「黄金虫」など多数の短編作品を発表、また1845年の詩「大鴉」でも評判を取った。また同時に有能な雑誌編集者であり、文芸批評家でもあったが、飲酒の悪癖などでトラブルを起こす癖はなおらず、いくつもの出版社を渡り歩いた。1833年、当時まだ13歳だった従妹ヴァージニア・クレムと結婚するが、1847年に貧苦の中で結核によって彼女を失い、その2年後にポー自身も謎めいた死を遂げた。

ポーはアメリカにおいて文筆だけで身を立てようとした最初の著名な作家であったが、文名を得てからもその生活はほぼ常に貧窮の中にあった。その作品は当初は本国よりもむしろヨーロッパで評価され、特にボードレールによるポーの翻訳はフランス象徴派の文学観形成に大きく寄与した。またポーが「モルグ街の殺人」で作り出したC・オーギュスト・デュパンの人物像は以後の推理小説における探偵の原型となっており、ポーは近代推理小説の開祖とみなされている。そのほか科学的知見を取り入れた『アーサー・ゴードン・ピムの物語』などの冒険譚はジュール・ヴェルヌら後世のSF作家にも影響を与えている。

生涯

エドガー・アラン・ポーは1809年、マサチューセッツ州ボストン市に、女優エリザベス・ポーと俳優デイヴィッド・ポーの息子エドガー・ポーとして生を受けた。両親は共にスコットランド系アイルランド人で、父方の祖父のデイヴィッド・ポーは独立戦争時に活躍して歩兵から少佐に昇級し、私財を投じて独立軍のために食料を賄ったことから兵士たちに「ポー将軍」と尊称されていた人物であった。ポーの父デイヴィッドは彼の名を継いだ四男であり、当初は法律を学んだもののその後演劇を志し、ボルティモアの素人劇団で俳優として活動していた。一方母エリザベス・ポー(旧姓アーノルド)はこの頃ボルティモアの「新劇場」で活躍しており、1802年頃に同じ一座で活動していたチャールズ・ホプキンスと結婚するも1年で離婚、その後一座に出演するようになったデイヴィッド・ポーと1806年に結婚した。

エドガー・ポーは次男であり、兄に2つ上のウィリアム・ヘンリー・レナードがおり、また1年後にやや知恵遅れの妹ロザリーが生まれるが、巡業に忙しい両親は子育てをしている暇がなく、幼い兄弟はボルティモアの父の実家に預けられていた。「エドガー」の名は、おそらく、両親が1809年に公演したシェイクスピア『リア王』から取られたものと思われる。

しかし1810年10月、バージニア州リッチモンドでの公演を終えた直後に、父デイヴィッドが突如家族を捨て失踪してしまう。当時エリザベスは長女ロザリーを身ごもっており、また夫の実家からエドガーのみを引き取ってきた後だったが、出産の準備のために収入が途絶え、出産の前後は貧困生活に苦しまねばならなかった。産後の肥立ちも悪く、1811年1月には舞台に復帰していたが、結核にかかり同年12月に他界する。両親を失った子供たちは、兄ウィリアムが父方の実家に、エドガーが両親と親交のあったリッチモンドのアラン家に、ロザリーがアランの友人宅にそれぞれ引き取られることになった。

エドガーを引き取ったジョン・アランは成功した商人であり、タバコや織物、小麦、墓石から奴隷まで幅広い商品を扱う輸入業者であった。彼は1803年にフランセス・ヴァレンタインと結婚していたが子宝に恵まれず、自身たちと同じスコットランド系の孤児を望んでいた夫人が特に希望してエドガーを養子にしたいと申し出たのである。ポーはこの際に「エドガー・アラン・ポー」の名が与えられるが、しかし養子とするための正式な手続きは行なわれていなかった。

1815年、前年に米英戦争が終結し時局が安定したため、アラン一家は事業拡大のためイギリスに渡った。ポーはアランの生まれ故郷であるスコットランドのアーヴィンで短期間グラマースクールに通った後、1816年に一家とともにロンドンのチェルシーに移りここで寄宿舎生活を送った。しかし養母フランセスが健康を害したため転地療養を繰り返し、これに併せてポーも転校を余儀なくされた。1817年の秋季からはロンドン郊外のストーク・ニューイーストンにあるマナー・ハウス学校に通った。ここでの寄宿舎生活はのちに「ウィリアム・ウィルソン」で生かされることになる。

1820年になるとアランのロンドンでの事業拡大が失敗に終わったことがはっきりし、6月に一家はリッチモンドに戻ることになった。アメリカに戻ったポーはアイルランド人の経営する英語・古典学校に通い、ここでフランス語、ギリシャ語、ラテン語や古典文学を学んだ。ポーは外国語では抜群の成績を収めており、また詩作もこの頃に始めている。一方義父アランはリッチモンドでの経営も思わしくなく、1825年には商会を解散したうえ自宅も売却せざるを得なくなった。しかしちょうどその頃にアランの伯父にあたるウィリアム・ゴールドが死去し、アラン家に75万ドルと見積もられる莫大な遺産が転がり込んだ。アラン家はふたたび金満家になり、その祝いにリッチモンドの本通りに豪奢な2階建ての家を購入することができた。

1826年、ポーは前年に開校したばかりのヴァージニア大学に入学した。大統領から退いたトマス・ジェファーソンが設立し自ら総長を任じていた大学で、学生の自主的活動を重んじ、学課も自由選択制をとっていた。ポーはここの学生寮で生活しながら、ギリシア語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語を学び、そのほか古代地理、美文学、修辞学なども受講し、文学ではウェルギリウス、トゥキディデス、ユウェナリス、ホメロス、ヘシオドスといった古典文学の他、シュレーゲル兄弟、ノヴァーリス、ティーク、ホフマン、ゲーテ、シラーなどのドイツ文学に親しみ、図書館にも熱心に通った。

しかし、大学生活は心楽しいことばかりではなかった。ポーは大学に入る前年、近所に住む美少女サラ・エルマイラ・ロイスターと恋に落ち、密かに婚約を交わしていたのだが、大学に入って以降に彼女へ送った恋文の返事がまったく来なかったのである。ポーは知らなかったのだが、彼の送った手紙はエルマイラの父親に破り捨てられていたのである。その後、エルマイラは父親により豪商の息子に嫁がされることが決まった。

失恋に続き金銭面での問題が起こった。義父アランからの送金が遅れたために生活が困窮し始め、ポーは小遣い銭を得るためにトランプ賭博に手を出すようになった。その後義父の送金が届いてからも賭博をやっては負け続け、その負債額は2000ドルに及んだ。事情を知ったアランはポーの生活費の借金は返済してやったが、賭博の負けは絶対に返済しようとしなかった。

借金を抱え大学を辞めざるをえなくなったポーは、1827年3月に家出同然にリッチモンドの実家を出てボストンに向かった。ボストンに着いてからはアンリ・ル・ランネという偽名を使い、店員や新聞記者のアルバイトをして生活費を得ていたが、5月になってエドガー・A・ペリーという偽名を使い、また年齢も18歳を22歳と偽って、アメリカ合衆国陸軍に入隊した。最初の配属先はボストン港内にある砦で、給与は月5ドルであった。その一方で、ポーはボストンで自分の詩集を出版するための印刷業者を探し、同年7月に第一詩集『タマレーン、その他の詩集』を出版している。しかし「一ボストン人」の名で出版された40ページのこの詩集は、事実上何の反響も起こさなかった。

1827年11月、ポーの連隊はウォールタム号に乗ってサウスカロライナ州のムールリ砦に移動した。ポーは大砲の弾を準備する特別技術兵に昇進し、給与も二倍になった。1828年にはヴァージニア州にあるモンロー要塞に移り、ポーは翌年1月、下士官が到達できる最高の階級である特務曹長に昇進した。しかしポーは5年ある勤務期間の早期除隊を希望するようになり、指揮官のハワード中尉に自分の本名と年齢を明かした上で相談した。彼はポーに、義父のジョン・アランに連絡を取るよう指示し、ポーはアランに手紙を送ったが、この手紙は無視された。しかし1829年2月28日に義母のフランセスが死去し(ポーは電報を受けてリッチモンドに戻ったが、既に死去した後だった)、このことがアランの態度を和らげたのか、彼はようやくポーの希望通り除隊の上でウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学することを許可した。

ポーは4月に除隊したが、しかし士官学校の入学者は既に定員に達しており、入学は翌年の7月まで待たなければならなくなった。その間リッチモンドで生活する気になれなかったポーは、実兄ヘンリーが引き取られているボルティモアの父の実家を訪れることにした。祖父にあたる「ポー将軍」は既に死去しており、ここには祖母にあたるエリザベス・ポー、その娘のマライア・クレム、その子供のヘンリーとヴァージニア、そしてポーの実兄ウィリアムが住んでいたが、ポーの予想に反し、祖母の年金と叔母のわずかな収入を頼りに非常に貧しい生活をしていた。ポーはこの家での滞在を諦め、ボルティモアに安アパートを探すことに決めた。またこの間、ポーは第二詩集の出版を計画していたが、義父アランに頼んだ出版費用が送金されず企画倒れに終わった。しかしその後、長詩「アル・アーラーフ」が複数の雑誌に掲載されたことから世間の注目を集め、12月にボルティモアのハッチ・アンド・ダニング社から『アル・アーラーフ、タマレーン、および小詩集』と題した第二詩集を出版することができた。

1830年7月、ポーは入学試験を経てウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学した。しかしここでの生活はポーが想像したほど自由なものではなく、詩も小説も読むことを禁じられていた。この年の10月、義父ジョン・アランはルイザ・パターソンと再婚するが、この結婚と、さらに彼が別の恋人との間に婚外子をもうけていた問題でポーと口論になり、その結果義父により勘当が言い渡された。遺産相続の可能性がなくなったポーは士官学校を去ることを決意、1831年1月にアランへ手紙でその旨を伝えた後、意図的な怠業を行なって軍法会議にかけられ、放校処分となった。

2月にウェストポイントを出たポーは、3月中ごろまでニューヨークの安ホテルに滞在し、エラム・ブリス社を訪れた。エラム・ブリスはウェストポイントに出入りしていた業者で、ポーの評判を聞いて詩集の出版を引き受けたのである。出版費用はウェストポイント士官学校の生徒のカンパで賄われており、一人につき75セントずつ、合計で170ドルに達した(彼らはこの詩集を、ポーが以前書いて見せたような上官に対する風刺詩を集めたものと思っていたらしい)。ポーの第三詩集『ポー詩集』は「アル・アーラーフ」や「タマレーン」を再録していたほか、「ヘレンへ」「海の中の都市」「イスラフェル」などの新詩を含んでいたが、あまり好評は得られなかった。

ポーはジャーナリズムの活発なボルティモアを生活の場に定め、クレム叔母の家に居候をしながら(実兄のウィリアム=ヘンリーは結核で1831年8月に死去していた)短編小説の執筆を始めた。1832年の1月、『サタデー・クオリア』誌に「メッツェンガーシュタイン」が採用され、以後同誌に「オムレット侯爵」「エルサレムの物語」「息の喪失」「バーゲンの損失(のち「ボンボン」として改筆)」が掲載、1833年からは『サタデー・ヴィジター』誌に詩や短文を掲載した。この頃ちょうど同『サタデー・ヴィジター』誌が短編と詩の懸賞を打ち出したため、ポーは『フォーリオ・クラブ物語』と名づけた短編6編と詩を投稿、このうち短編「壜の中の手記」が最優秀作に選ばれ賞金50ドルを獲得した。

さらにポーは、このとき審査員を務めていたボルティモアの著名な政治家であり作家であった、ジョン・P・ケネディと親しくなり、彼の斡旋でリッチモンドの『サザン・リテラリー・メッセンジャー』誌に作品を掲載するようになった。さらにその後同誌の編集長が退職すると、ケネディの推薦で『メッセンジャー』誌の主筆編集者として迎えられることになった。しかしこの頃、ポーはまだ少女であった従妹のヴァージニアへ求婚し、それを叔母マライアに拒絶されていたことから飲酒の量が増えるなどして心情が荒れており、『メッセンジャー』誌の職を短期間で辞してしまった。しかし度重なるポーの説得にマライアが折れ、1833年9月にボルティモアの郡裁判所から結婚許可を受けた。当時ポーは26歳、ヴァージニアはまだ結婚不可能な13歳1か月であったが、結婚誓約書には21歳と記されていた。

その後ポーは『メッセンジャー』誌の創刊者トマス・ホワイトに再就職の希望を伝えて受け入れられ、10月に妻となったヴァージニアと叔母マライアとともにリッチモンドに移り住んだ。『メッセンジャー』主筆としてポーは自作の短編を発表していっただけでなく、毎号広い分野におよぶ論壇時評を書き、また苛烈な作品評を行なって評判を取った。『メッセンジャー』はポーが主筆になったことによって、500程度だった発行部数が3500まではね上がり、南部の主導的な文芸雑誌の地位にまでのし上がった。仕事が軌道に乗ったことから、1836年5月にポーはクレム叔母やホワイト、トマス・クリーランド知事など9名を招いてヴァージニアとの公開の結婚式を挙げた。

『メッセンジャー』誌は好評を取り続けたが、しかしポーは実績に見合った昇給をしてもらえず、また編集に口出しがされ始めたことで創刊者のホワイトと不仲になり始めた。就職から1年経った1837年1月、ポーは『メッセンジャー』を辞し、2月末に家族を連れてニューヨークに移った。ここで編集の仕事をするつもりだったのだが、しかし依頼しておいた『ニューヨーク評論』編集のポストが不採用になり、代わりに以前『メッセンジャー』に2度掲載した長編『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の完成に力を注いだ。翌年7月に出版された『ピムの物語』はアメリカの20誌以上の新聞・雑誌に言及するなど話題作となったものの売り上げは伸びず、すでに収入減からフィラデルフィアに移っていた一家の生活はみるみる窮乏していった。

ポーは『アメリカン・ミュージアム』誌に「ライジーア」などいくつかの作品を発表したのち、1839年、喜劇俳優ウィリアム・バートンが創刊した雑誌『ジェントルマンズ・マガジン』に依頼され、週給10ドルでこの雑誌の編集者となった。ポーは『メッセンジャー』時代の編集の経験を生かしつつ、「ウィリアム・ウィルスン」「アッシャー家の崩壊」などの短編や詩を同誌に掲載していき、その傍らリー・アンド・ブランチャード社より初の小説作品集『グロテスクとアラベスクの物語』を同年9月に刊行した。25編からなるこの作品集は非常に多数の雑誌が書評を行なったが、評価は賛否両論であった。

その後バートンと編集方針などで対立したため、翌年6月にポーは『ジェントルマンズ・マガジン』を辞めるが、バートンが雑誌を弁護士ジョージ・グレアムに譲渡し新たに『グレアムズ・マガジン』が創刊されるとポーは新雑誌の編集者として迎えられた。こうして11月に創刊した『グレアムズ・マガジン』では「群集の人」「モルグ街の殺人」「メエルシュトレエムに呑まれて」などの短編のほか多数の評論を発表し、1年半後には『グレアムズ・マガジン』は発行部数3万7000部を誇る、アメリカ合衆国最大の雑誌へと成長した。なおポーは『グレアムズ・マガジン』時代の1842年3月には、渡米してきたチャールズ・ディケンズと面会を果たしている。

またこの間、ポーは雑誌の編集に携わりながら、自らも雑誌を創刊することを夢見て様々な画策を行なっていた。すでに『ジェントルマンズ・マガジン』時代に『ペン・マガジン』の名づけた自分の雑誌を構想しており、1840年には『スタイラス』と名を変えたこの雑誌の設立趣意書を発表したが、この雑誌はポーの生存中に創刊されることはついになかった。自分の雑誌の構想に腐心する一方、1842年1月には妻ヴァージニアが自宅でピアノを弾いていた最中に喀血、結核の最初の兆候であり、以後ヴァージニアの病状にも気を取られ、また酒の量も増えた。こうした事情でポーは『グレアムズ・マガジン』の仕事を休みがちになり、4月になると編集長の地位を『アメリカの詩人たちと詩』を出版したばかりのルーファス・ウィルモット・グリスウォルドに奪われてしまっていた。ポーは5月まで同誌に勤めた後、職を辞した。

『グレアムズ・マガジン』を去った後も、ポーは『ダラーズ・ニュースペーパー』の懸賞で「黄金虫」により100ドルの賞金を受けた他、「マリー・ロジェの謎」「落し穴と振り子」などの作品を各誌に発表し、1843年9月には作品集『散文物語集』を刊行するが、依然として生活は窮乏していた。新規まき直しを図るため1844年6月にニューヨークに移り、「軽気球夢譚」(『ザ・サン』紙にまるで実話であるかのように掲載され大当たりを取った)「早すぎた埋葬」「催眠術の掲示」などを発表していき、1845年10月には週刊誌『イヴニング・ミラー』の記者として迎えられた。1845年にポーが同誌に発表した詩「大鴉」は絶賛を博し、他誌にも次々に掲載されポーの文名を大いに高めたが、この詩の出版に対しポーに支払われた報酬はわずか9ドルであった。

1845年2月よりポーは『ブロードウェイ・ジャーナル』に職場を移し、自作を寄稿したほか文芸時評を担当した。同誌でポーはヘンリー・ワズワース・ロングフェローを剽窃者として論難しており、ロングフェローの擁護者との間での論争に発展したが、この論争はポーの分が悪いままに終わっている。6月には作品集『物語集』を出版して予想外の売り上げを収めた。文名が高まるとともに雑誌経営への希望を依然として持ち続けていたポーは、12月に『ブロードウェイ・ジャーナル』の経営権を譲り受けたが、しかし資金繰りに苦しんだ結果わずか1ヶ月で手放さなければならなくなった(翌年に廃刊)。生活は窮乏し、1846年には妻を連れてブロンクス区にある木造家屋に転居した。1847年1月、ヴァージニアは貧苦の最中この小屋で息を引き取った。

この年よりポーは「散文詩」と銘うった壮大な宇宙論『ユリイカ』の完成に精力を傾けた。しかし翌年この論文をもとに行なった講演は明らかな失敗に終り、7月に刊行された書籍も売れ行きは伸びなかった。この頃、ポーは夜会で出合ったサラ・ヘレン・ホイットマン夫人や、講演で出合ったアニー・リッチモンド夫人と恋愛関係を持った。特にホイットマン夫人に対しては再三の求婚を行い、ポーが酒を絶つことを条件に9月に婚約が成立したものの、その後文学愛好家とバーで酒を飲んだことが夫人の耳に入り、このために婚約は破談となってしまった。1849年、ポーは仕事のために戻ったリッチモンドで青年時代の恋人で未亡人となっていたエルマイラ・ロイスターと再会し、再三の求婚の後に彼女と婚約した。

10月に結婚式を控えた1849年9月、ポーは自分の選集の出版準備を始め、それに関してルーファス・グリズウォールドの協力を得るために、久しぶりにニューヨークに戻ることにした。27日にリッチモンドを出、48時間の船旅のあとにボルティモアに着くと、ポーはなぜかそこに数日滞在した。ちょうどメリーランド州議会選挙のまっただ中であり、10月3日が投票日に当たっていた。

しかし、10月3日、ポーはライアン区第4投票所にあたる酒場「グース・サージェンツ」にて、ひどい泥酔状態でいるところを旧知の文学者にたまたま発見され、ただちにワシントン・カレッジ病院に担ぎ込まれたが、4日間の危篤状態が続いたのち、10月7日早朝5時に死去した。その間ポーは理路整然とした会話ができる状態でなく、なぜそのような場所で、そのような状態に陥っていたのかを話すことはなかった。ポーは発見された際、他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいたが、それが誰を指しているのかも分からなかった。一説にはポーの最期の言葉は「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ(Lord help my poor soul)」であったという。新聞各紙はポーの死を「脳溢血」や「脳炎」のためと報道したが、これは当時、アルコールなどのような外聞の悪い死因を婉曲に伝えるためにしばしば用いられた言葉でもあった。

死亡証明書を含め、ポーの診断書は現在ではすべて紛失してしまっており、死の真相は謎のままであるが、1872年の早い時期から、クーピング(cooping、選挙の立候補者に雇われたならず者が、旅行者やホームレスに無理矢理酒を飲ませるなどして自己判断ができない状態にして投票所に連れて行き、場合によっては複数回投票させること。当時は有権者の身元確認がしっかりと行なわれていなかった)の犠牲になったのだとする説が広く信じられている。それ以外にも、急性アルコール中毒による振戦譫妄、心臓病、てんかん、梅毒、髄膜炎、コレラ、狂犬病などが死因として推測されている。

作風とジャンル

ポーの作品のうち最もよく知られているものは「アッシャー家の崩壊」「黒猫」「ライジーア」「赤死病の仮面」「ウィリアム・ウィルソン」などのゴシック小説ないし恐怖小説であり、特に死に対する疑問、病や腐敗、早すぎた埋葬、死からの再生といったテーマが好んで取り上げられ、その創作の大部分はダーク・ロマンティシズム(英語版)に属するものと考えられている。ダーク・ロマンティシズムは超絶主義から起こった文学的な潮流だが、ポーは超絶主義の思想自体は毛嫌いしており、この思想運動の追随者たちを「池の蛙たち」と呼んで批判していた。これらに加えてポーは「オムレット侯爵」「ボンボン」「息の喪失」「××だらけの社説」といった、風刺小説やパロディなどに類するユーモア小説も手がけている。ポーのデビュー作「メッツェンガーシュタイン」ももともと「ドイツ人に倣びて」という副題が付けられたゴシック小説のパロディとして書かれていたもので、作家活動を始めたばかりのポーは「フォリオクラブ物語」の総題で一連のパロディ作品を書いていく構想も持っていた。

1841年に発表された「モルグ街の殺人」はしばしば史上初の推理小説とされており、この作品で生み出されたC・オーギュスト・デュパンの天才的探偵像、怪奇性と結末の意外性、物語の前半で推理の材料を読者の前に公開し、最後になって推理を披露する構成、不可能犯罪とトリックなどは、アーサー・コナン・ドイルを初めとする後世の作家にこのジャンルの約束事として受け継がれている。ポー自身の推理小説(ポー自身は「推理物語(the tales of rasiocination)」と呼んでいた)は、「モルグ街の殺人」とその続編の「マリー・ロジェの謎」「盗まれた手紙」の3作、広く見積もっても「黄金虫」「お前が犯人だ」の5作程度しか書かれていないが、「メルツェルの将棋指し」「暗号論」といったエッセイ、論考などを合わせて考えると、推理・分析というテーマはポーの作家人生のほぼ全体を通じて存在していたことがわかる。なおポーは「モルグ街の殺人」の前年の1840年に作品集『グロテスクとアラベスクの物語』の序文に、自身の作品が批評家から「ドイツ的」で陰惨だと批判されたことを記し、もうこの種の作品は書かないだろうと宣言しており(この宣言は必ずしも守られなかったが)、ポーは病的な作風を変えようとした結果、推理小説という形式に行き着いたのではないかとも言われている。

また『アーサー・ゴードン・ピムの物語』『ハンス・プファールの無類の冒険』などの冒険小説はジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズに少なからぬ影響を与えており、ポーはこれらによってSF小説のパイオニアとしての評価もなされている。ポーにはこのほかに「アルンハイムの地所」「ランダーの別荘」など、風景庭園小説として括られる数編の作品がある。

雑誌編集者であったポーは、雑誌という媒体を強く意識して作品を書いた最初の近代作家の一人でもあった。彼は雑誌の読者である大衆の興味を鋭敏に察知して作品に反映させており、その結果として骨相学や観相術、催眠術といった疑似科学をしばしば作品で取り上げた。ゴシック小説もまた一面では当時の大衆の好みを反映したものである。

『サザン・リテラリー・メッセンジャー』誌時代より、ポーは短編作品とともに多数のエッセイや書評を自分の勤める雑誌に寄稿しており、存命中は歯に衣着せぬ批評家としてよく知られていた。1830年代から40年代のアメリカ合衆国の文壇はヘンリー・ワズワース・ロングフェローを中心としたニューイングランド出身の作家たちが中心となっており、その書評・批評は身内びいきのいい加減なものが多かった。このような現状に業を煮やしたポーは文芸批評に「原理」という基準を持ち込み、文学に必要な要素を明らかにしようとしたのである。

例えばポーは詩に関しては、その唯一正当な領域が「美」にあるとし、「美」は「義務や真実」とは依存関係を持たないという考えから、詩における教訓主義を正当な文学から排除している。また詩におけるリズムは「真実」を追究する表現のためには障害となるが、他方物語においては「真実」はしばしば極めて重大な目的となるとしている。そしてポーはこれらの創作における「効果の統一性」や「印象の統一性」を強調しており、その統一性をもたらすために作品の長さが「一気に読めるようなもの」でなくてはならないとして、詩については長大な叙事詩を時代遅れのものとして退け、小説については1、2時間で読める短編小説(物語)を長編小説よりも優位においている。初期の書評で展開されたポーの批評原理は晩年に「詩作の哲学」「詩の原理」という講演で纏められており、「詩作の哲学」では自作「大鴉」の各詩行がどのような意図で語を選択しているのかを逐次的に明らかにしていき、「詩の原理」では前述したような詩の本質を説きながらポーの愛読するさまざまな詩を解説している。

2024/05/17 11:39更新

Edgar Allan Poe


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1993年1月19日 東京

久野 美咲(くの みさき、1993年1月19日 - )は、日本の女性声優。東京都出身。大沢事務所所属。声優としての代表作に、『世界征服〜謀略のズヴィズダー〜』(星宮ケイト)、『七つの大罪』(ホーク)、…

金子 有希
(かねこ ゆうき)
1月19日 福岡

金子 有希(かねこ ゆうき、1987年1月19日 - )は、日本の声優、舞台女優。福岡県北九州市出身。青二プロダクション所属。 テレビ番組やCM、企業VPなどのナレーションを中心に活動している。 …

小薗江 愛理
(おそのえ えり)
1994年1月19日

小薗江 愛理(おそのえ えり、1994年1月19日 - )は、日本の女優、声優。 土曜ワイド劇場25周年記念 松本清張没後10年企画 疑惑(2003年、テレビ朝日)白河永子 役 世にも奇妙な物語 …

丘 みつ子
(おか みつこ)
1948年1月19日 東京

丘 みつ子(おか みつこ、1948年1月19日 - )は、日本の女優、陶芸家。本名:森田 光子。旧姓:武笠。東京都北区王子出身。ホリプロ・ブッキング・エージェンシー所属。 北豊島高等学校卒業。三浦…

永野 愛理
(えいの あいり)
1993年1月19日 宮城

永野 愛理(えいの あいり、1993年1月19日 - )は、日本の女性声優。宮城県仙台市出身。81プロデュースに所属。 アニメが好きで、高校の頃から深夜アニメを見ており、テレビアニメ『涼宮ハルヒの…


エドガー=アラン=ポーと近い名前の人

エド・はるみ
(えど はるみ)
1964年5月14日 千葉

エド・はるみ(1964年〈昭和39年〉5月14日 - )は、日本の女性タレントで、女優、お笑い芸人、YouTuber、研究者である。 東京都出身。吉本興業東京本社(東京吉本)所属。41歳でお笑い養成…

エドワード=フォースター
(Edward Morgan Forster)
1879年1月1日

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ジョン=エドガー=フーバー
(John Edgar Hoover)
1895年1月1日

ジョン・エドガー・フーヴァー(John Edgar Hoover, 1895年1月1日 - 1972年5月2日)は、アメリカ合衆国の政治家。 ジョン・エドガー・フーヴァー、J・エドガー・フーヴァーなど…

エドガー=マルチネス
(Edgar Martinez)
1963年1月2日

エドガー・マルティネス(Edgar Martínez, 1963年1月2日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市出身(プエルトリコ・ドラド(英語版)育ち)の元プロ野球選手(指名打者、三…

エドワード=ティチナー
(Edward Titchner)
1867年1月11日

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エドワード=マーフィー
(Edward Aloysius Murphy,Jr.)
1918年1月11日

1月11日生まれwiki情報なし(2024/05/16 22:46時点)

エドマンド=バーク
(Edmund Burke)
1729年1月12日

エドマンド・バーク(英: Edmund Burke、1729年1月12日 - 1797年7月9日)は、アイルランド王国生まれのイギリスの政治思想家、哲学者、政治家。「保守思想の父」として知られ…

エドレッド=コーナー
(Edred John Henry Corner)
1906年1月12日

1月12日生まれwiki情報なし(2024/05/17 12:02時点)

エドワード=テラー
(Edward Teller)
1908年1月15日

エドワード・テラー(Edward Teller、 もとのハンガリー名ではテッレル・エデ(Teller Ede)、 1908年1月15日 - 2003年9月9日)は、ハンガリー生まれでアメリカ合衆国に亡…

エドゥアール=ド=ラブライエ
(Edouard Rene de Laboulaye)
1811年1月18日

1月18日生まれwiki情報なし(2024/05/17 11:57時点)

ニコラス・エドワーズ
(Nicholas Edwards, 1992年7月31日 - )
1992年7月31日 静岡

ニコラス・エドワーズ(Nicholas Edwards, 1992年7月31日 - )は、アメリカ人の男性歌手、俳優。日本テレビ系列の特別番組「のどじまん THE ワールド!」に出場したことがきっかけ…

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エドガー=アラン=ポー
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