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キミ=ライコネンの情報 (KimiRaikkonen)
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【5月19日】今日誕生日の芸能人・有名人

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キミ=ライコネンさんについて調べます

■名前・氏名
キミ=ライコネン
(Kimi Raikkonen)
■職業
レーシングドライバー
■キミ=ライコネンの誕生日・生年月日
1979年10月17日 (年齢44歳)
未年(ひつじ)、天秤座(てんびん)
■出身地・都道府県
不明

キミ=ライコネンと同じ年に生まれた芸能人(1979年生まれ)

キミ=ライコネンと同じ誕生日の人(10月17日)

キミ=ライコネンと同じ出身地の人


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キミ=ライコネン

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キミ=ライコネン(Kimi Raikkonen)さんの誕生日は1979年10月17日です。

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F1第一期(2001~2009年)、WRC(2009~2011年)などについてまとめました。引退、現在、解散に関する情報もありますね。現在の年齢は44歳のようです。

キミ=マティアス・ライコネン(フィンランド語: Kimi-Matias Räikkönen, 1979年10月17日 - )は、フィンランド・ウーシマー県エスポー出身のレーシングドライバー、元F1ドライバー。2007年のF1ワールドチャンピオン。フィンランド語に近い表記では「キミ゠マティアス・ライッコネン」となる。ニックネームは「アイスマン」。

5歳の時に兄のお下がりのモトクロスバイクに乗り始め、8歳の時に兄とともにカートを始める。12歳の時より本格的なレースに参戦し、1999年までにカートで数々のタイトルを獲得した。

1999年にはフォーミュラ・フォードユーロカップに参戦するが、資金難により数戦で参戦を取りやめている。しかし、同時期に参戦したフォーミュラ・ルノーイギリス選手権のウィンターシリーズではマノー・モータースポーツ・チームのシートを得て4戦4勝し、翌2000年のレギュラーシーズンは10戦中7勝、2位1回、3位2回という圧倒的な成績でチャンピオンを獲得した。

ジュニア・フォーミュラにはこの2年弱の期間に23レースに参戦したに過ぎなかったが、その内13レースで勝利を上げ、53パーセントという高い勝率を記録している。

この後全日本F3からのオファーを受けるが、フォーミュラ・ルノーでの成績に注目したF1ザウバーチームのオーナーペーター・ザウバーは、2000年9月に催された同チームのテストに招き、スペインのヘレス・サーキット、カタロニア・サーキットでテストをさせた。F3の経験すら無いライコネンだったが、テスト2日目ではレギュラードライバーのペドロ・ディニスをコンマ5秒上回るタイムを叩き出し、このテストの様子を見ていたミハエル・シューマッハはペーター・ザウバーに対してライコネンとの契約を推薦している。2度のテストの後のインタビューでは「F1の運転はすごく簡単だった。フォーミュラ・ルノーに戻るより簡単だ」と語っている。この走りに度肝を抜かれたペーター・ザウバーは、「テレメトリーを見てみるとキミはF1マシンを楽々ドライブしている。まるでクルマの中から生まれて来たみたいだよ!」と語り、ライコネンとレギュラードライバー契約を交わした。

F1第一期(2001~2009年)

フォーミュラカーでのレースはフォーミュラ・ルノーの23戦のみで、F3を経験せずにF1に参戦することについて(当時のFIA会長であるマックス・モズレーを含め)他の関係者からの批判は小さなものではなかった。事実、当初ライコネンのスーパーライセンスは4戦限定の仮ライセンスで、危険であれば取り消される可能性もあった。

しかし、デビュー戦オーストラリアグランプリでいきなり6位入賞を果たし、その後正式にスーパーライセンスが発給された。第6戦オーストリアグランプリ、第8戦カナダグランプリではともに4位入賞するなど、全17戦中4戦で入賞して9ポイントを獲得し、ドライバーズランキング10位となる。国際F3000チャンピオン経験のあるチームメイトのニック・ハイドフェルド(12ポイント獲得)と予選、決勝とも互角の成績だったことで、チームスタッフや関係者は度肝を抜かれた。事実、レース中のラップタイム、最速タイムは完全にハイドフェルドを凌いでいた。これは、後にマクラーレンがライコネンを抜擢した決定的な理由となる。そしてこの年、ザウバーチームはコンストラクターズランキング4位というF1参戦開始以来最高成績でシーズンを終えた。

ザウバーでの活躍は、当時ザウバーにエンジンを供給していたフェラーリからもその速さを注目され、2002年についてはフェラーリに移籍する可能性が囁かれていたが、フェラーリよりいち早くアプローチしたマクラーレン・メルセデスが、ミカ・ハッキネンの後任としてライコネンを抜擢した。

開幕戦オーストラリアグランプリで自身初のファステストラップを記録するとともに3位に入賞して初表彰台を獲得するなど、年間で4回の表彰台を獲得し、24ポイントを獲得した。リタイアは10回を記録したが、内ミスによるものは第12戦ドイツグランプリの1度だけで、残りは全てメカニカルトラブルによるものだった。中でも度重なるエンジントラブルに悩まされ、第14戦ベルギーグランプリから第16戦アメリカグランプリにかけての3戦連続を含め、計6戦をエンジントラブルによって失った。

第11戦フランスグランプリでは、首位を走行中に残り6周というところで前を走る周回遅れのアラン・マクニッシュの車から出たオイルによりスリップし、その隙をついたミハエル・シューマッハにオーバーテイクされ2位に終わった。

マクラーレンの新車開発の遅れにより、前年型『MP4-17』の改良型である『MP4-17D』で臨んだ。

第2戦マレーシアグランプリで初優勝を飾ったのち、第9戦ヨーロッパグランプリで自身初のポールポジションを獲得。第15戦アメリカグランプリでも2回目のポールポジションを記録するなど頭角を現し、優勝こそ1回のみであったが、安定してポイントを積み上げたことで、当時ドライバーズタイトル3連覇中のシューマッハと最終戦までタイトル争いを演じた。最終的に2点差で敗れはしたものの、ドライバーズポイントランキングで2位を獲得した。

開幕戦から新車『MP4-19』を投入するものの、車は競争力に乏しく、信頼性にも欠けていた。度々マシントラブルに見舞われ、7戦終了時点で4回のリタイアを喫し、第4戦サンマリノグランプリでの8位入賞による1ポイントしか獲得できなかった。

しかし、第8戦カナダグランプリでは決勝レースで5回ものピットストップをしながらも5位入賞を果たし、第9戦アメリカグランプリでも6位入賞することでシーズン中盤になって復調の兆しを見せた。第10戦フランスグランプリでマクラーレンが改良車『MP4-19B』を投入すると、続く第11戦イギリスグランプリ予選でシーズン初のポールポジションを獲得し、決勝では同年初の表彰台となる2位を獲得した。その後第14戦ベルギーグランプリではシーズン初優勝を飾った。

開幕当初はマクラーレンの新車『MP4-20』の信頼性不足によりやや出遅れた。しかし、第4戦サンマリノグランプリから3戦連続ポールポジションを獲得し、第5戦スペイングランプリ、第6戦モナコグランプリではポール・トゥ・ウィンを達成するなど次第に調子を上げ、チャンピオン争いに絡んでいく。第7戦ヨーロッパグランプリでは、首位で迎えたファイナルラップにおいてサスペンション破損によりリタイア(記録上は11位完走扱い)し、タイトルを争うフェルナンド・アロンソに優勝を許してしまった。

特筆すべきは第18戦日本グランプリ。予選ではタイムアタック直前に雨が降り出すという不運に見舞われ17位スタートとなるが、決勝のオープニングラップで12番手まで順位を上げると、怒濤の追い上げで20周目には7番手までポジションを上げた。その後もじわじわと順位を上げ38周目のジャンカルロ・フィジケラのピットストップと、41周目のジェンソン・バトンのピットストップによりトップに立つが、残り8周でのピットインによって、首位をジャンカルロ・フィジケラに明け渡し2位に後退する。しかし1秒以上速いペースで追い上げその差を取り戻し、ファイナルラップの1コーナーでフィジケラをアウトからオーバーテイクし優勝を果たす、というレースを展開した。

決勝後の記者会見では「今日のレースは間違いなく僕のベストレースに入るだろうね」と語った。

5回のポールポジション獲得や、年間最多タイ記録の10回のファステストラップ獲得、7回の優勝を飾るなどの活躍を見せ、ルノーのアロンソと激しいチャンピオン争いを繰り広げたが最終的に及ばず、ランキング2位でシーズンを終えた。

シーズン7勝は、チャンピオンのアロンソと並び2005年シーズンの最多勝である。また、ワールドチャンピオンを獲得できなかったドライバーがそのシーズン中に挙げた勝利数としては当時の最多タイ記録となるものである。

さらなる飛躍が期待された2006年であったがこの年のマシン、『MP4-21』は信頼性が高いとはいえず様々なトラブルでノーポイントで終えたレースが多かった。開幕戦バーレーングランプリでは予選第1ピリオドでマシンが壊れ最後尾スタートとなったが、素晴らしい追い上げを見せ3位表彰台を獲得したり、予選では3度のポールポジションを獲得するなどしたが、マシントラブルやミス、ライバルの戦略により逆転されるなどしていずれも優勝とはならず、コンスタントにポイントを稼ぎはしたもののこの年は未勝利に終わった。ランキングは5位となった。

第15戦イタリアグランプリ終了後に、この年限りで引退するミハエル・シューマッハの後任として、2007年からフェラーリへの移籍が発表された。ミカ・サロ以来となるフィンランド人フェラーリドライバーとなる。ライコネンは同グランプリで2位表彰台を獲得し、シューマッハの優勝会見での引退発表に同席する形となった。

フェラーリ移籍初戦となった開幕戦オーストラリアグランプリで自身初めてポールポジション・ファステストラップ・優勝を獲得するハットトリックを達成した。移籍初年度でハットトリックを決めたドライバーとしてはフェラーリが1950年からF1参戦してから初となる歴史的快挙である。開幕戦から3戦連続で表彰台に上がる活躍を見せるも、第4戦スペイングランプリではマシントラブルによりリタイヤに終わる。第6戦カナダグランプリ・第7戦アメリカグランプリでもマクラーレンの連勝を許し、ランキング首位のルイス・ハミルトンとのポイント差は26となった。

第8戦フランスグランプリ、第9戦イギリスグランプリを連勝してポイントを挽回した。第14戦ベルギーグランプリにおいてはポールトゥーウィンを果たし、スパ・フランコルシャン3連覇を記録した。ハミルトンとの得点差は残り2戦で17ポイントと依然として大きかったが、第16戦中国グランプリでハミルトンがリタイアし、自身が優勝したことにより望みをつなぎ、最終戦ブラジルグランプリにて予選3位から優勝を果たし、ハミルトンが7位、アロンソが3位に終わったため、ランキング3位から逆転、2位以下と僅か1ポイント差で初のワールドチャンピオンを獲得した。最大26ポイント差を跳ね返す、F1史上最大の逆転劇であった。

ライコネンは中盤から最終戦まで7連続表彰台を獲得し、安定してポイントを獲得したこともチャンピオンに輝いた1つの要因となった。この年のチャンピオン争いは最終的に1位ライコネン110ポイント、2位ハミルトンと3位アロンソが109ポイントであり、さらにシーズン最終戦まで三つ巴の争いが続くというF1史上でも稀に見る激戦であった。なお2021年現在、フェラーリのドライバーが獲得したドライバーズタイトルはこの年のライコネンのタイトルが最後となっている。

2008年は第2戦マレーシアグランプリにおいてシーズン初優勝を飾ると、第4戦スペイングランプリでは自身2度目となるハットトリックで完全勝利を達成した。しかし、この勝利がシーズン最後の勝利となった。

第6戦モナコグランプリでは様々なミスを犯し、後方での戦いを余儀なくされたあげく、予選19番手からスタートし5位走行と健闘していたフォース・インディアのエイドリアン・スーティルに追突し、リタイアに追い込んでいる。続く第7戦カナダグランプリではピットレーン出口でレッドシグナルで停止中に、ハミルトンに追突されリタイアを喫する。更に第8戦フランスグランプリでは首位を快走していたが、エキゾーストの破損によりペースが下がり、2位に終わった。

第12戦ヨーロッパグランプリから第15戦シンガポールグランプリまでトラブルやミスが相次ぎ4戦連続ノーポイントに終わっている。これが影響し、第16戦日本グランプリを終えてタイトル防衛の可能性は消滅した。第17戦中国グランプリではハミルトンとタイトルを争うチームメイトのフェリペ・マッサを先行させ、最終戦ブラジルグランプリにおいてもチームプレーに徹し、2年連続のコンストラクターズタイトルに貢献した。ドライバーズタイトルではロバート・クビサと同点であったものの、優勝回数で上回り3位でシーズンを終えた。

タイトル連覇は逃したものの、レース中には速さを見せた。第4戦スペイングランプリから第9戦イギリスグランプリまで6戦連続でファステストラップを獲得、2005年と同じく年間10回のファステストラップを獲得した。

大幅に変更されたレギュレーションに合わせて開発されたマシン・F60の競争力は低く、開幕から3戦をノーポイントで終えた。第4戦バーレーングランプリでシーズン初ポイントを獲得し、第6戦モナコグランプリを3位で終え、ようやくシーズン初表彰台を獲得した。

第12戦ベルギーグランプリにおいて、ポールポジションからスタートしたフォース・インディアのジャンカルロ・フィジケラを、セーフティカー導入後の再スタート時にKERSを使用してオーバーテイクし、フェラーリにとってシーズン初、ライコネンにとって2008年スペイングランプリ以来約1年4か月ぶりの優勝を得た。

WRC(2009~2011年)

2010年、フェラーリは新たにフェルナンド・アロンソを迎えることを決め、多額の違約金を払ってライコネンとの契約を解除した。その後マクラーレンと契約交渉を行ったがまとまらず、マクラーレンはジェンソン・バトンの獲得を発表した。レッドブル・レーシングやトヨタF1との交渉もあったが、ライコネンのマネージャーであるスティーブ・ロバートソンは「F1での選択肢はマクラーレンだけだった」と語り、他チームからのF1参戦の可能性はなかったことを明らかにしている。しかし、後にロバートソンは「メルセデスはキミと契約したがった」と語ったが「その時には彼はすでにWRCに行くことを決めてしまっていた。」とも語り、メルセデスからのオファーは手遅れであったことを明らかにしている。

そして2009年12月4日、ライコネン本人からシトロエン・ジュニアチームから世界ラリー選手権 (WRC) に参戦することを発表した。契約期間は1年。

この年はフェラーリでF1に参戦しているが、シーズン中のテストが禁止となったこともあり、プライベーターとしてトミ・マキネン・レーシングからフィアット・グランデプント・アバルトS2000を駆ってラリーに挑戦。コ・ドライバーはトミ・マキネンやユホ・ハンニネンのパートナーも務めたカイ・リンドストローム。

まず2009年シーズン前のオフ中に、フィンランドで行われた北極圏ラップランド・ラリーに出場し、ラリー初出場で13位を記録する。さらに同じくフィンランドで開催されたヴァークナ・ラリーにも参戦し17位。F1がシーズンに入ってからは、イタリアで開催されたターマックラリーのラリー・デラ・マルカに参戦するが、クラッシュによりリタイアした。第10戦ハンガリーグランプリを2位表彰台で終えた後の7月末には、母国で開催されたWRC第9戦ラリー・フィンランドにスポット参戦。結果はクラッシュによりリタイアに終わった。

この年はF1を離れ、シトロエン・ジュニアチームとニュージーランドを除くWRC全戦に出場する契約を結んだ。ラリーカーはシトロエンC4 WRCの2009年仕様。コ・ドライバーは2009年に引き続きカイ・リンドストローム。WRC初戦の前にはテストも兼ねて北極圏ラップランド・ラリーに参戦。初日にクラッシュしてしまうも、2日目には再出走し、上々のタイムを記録した。

第1戦ラリー・スウェーデンは慣れないスノーラリーで苦戦するも、WRCで初完走を果たす。そして第3戦ヨルダン・ラリーでは8位に入り初ポイントを獲得する。また、このポイント獲得により、カルロス・ロイテマン以来のF1とWRCでポイントを獲得したドライバーになった。第4戦ラリー・トルコでは終盤のSSでコンディションが極めて悪くなり、上位陣にもトラブルやコースアウトが相次ぐ中で堅実に走行し、5位フィニッシュを果たしている。ラリー・ポルトガル後、次戦ラリー・ブルガリアのターマックラリーに備えたテストの為に、イタリアのローカルラリーであるラリー・ランテルナにチームメイトのセバスチャン・オジェとともに出場した。オジェのタイヤ選択ミスもありトップに出るが最終SSで抜かれてしまい2位で終わった。ラリー・ドイチュラントでは3戦ぶりのポイントを獲得し、市街地で行われた最終SS(SS19)では初のWRCステージ優勝を果たした。ラリー・ジャパン後、ラリー・フランスに備えテストの為にターマックラリーであるフランスで開催のラリー・ヴォージュ (Rallye Vosgien) に出場し、ワークスマシンは他には出走しておらず有利な状況であったものの、全てのステージでトップタイムを記録してラリーでの初優勝を遂げた。ターマックラリーで期待されたラリー・カタルーニャはシェイクダウンでクラッシュしてしまい、次の日のラリー初日のスタートまでには修理不可能だった為、ラリーには参加せずリタイアした。ウェールズ・ラリーGBでは難しいラリーを走りきり、WRC最終戦をポイント獲得で飾った。

2011年は自身のチーム「ICE 1 Racing」を立ち上げ、プライベーターとしてWRCに参戦した。チームマネージャーには解散となったシトロエン・ジュニアチームのマネージャーであったブノワ・ノジェが就任した。チームはマニュファクチャラーチームとしてエントリーを行った。ただし全戦には参戦せず、ヨーロッパで開催のラリーに絞り9戦のみの参戦となった。ラリーカーはシトロエンC4 WRCに代わり今年から使われることになったシトロエンDS3 WRCをワークスより借り受け使用した。コドライバーは引き続きカイ・リンドストロームが務めた。

第1戦ラリー・スウェーデンは8位でポイントを獲得しさい先の良いスタートを切った。第2戦ラリー・メキシコは不参加。第4戦ヨルダンは最後から2つめのSSでタイムを失ってしまい5位は逃したものの6位に入賞した。続くラリー・イタリア・サルディニアとラリー・アルゼンチンの2戦は不参加。第7戦アクロポリスからの3戦に参加し全てでポイントを獲得した。オーストラリアは不参加だったが、その為にヨーロッパ外の2戦参加義務を果たせず、チーム自体は失格処分となった(なお、キミ・ライコネンとカイ・リンドストロームは引き続き参戦可能だが、マニファクチャラーズ・ポイントの取得は不可能である)。残りの3戦は参加したものの、すべてリタイアとなってしまった。

2011年にはWRC出走と並行してNASCARへスポット参戦を行った。

NASCARのキャンピング・ワールド・トラック・シリーズに カイル・ブッシュ・モータースポーツから1戦のみ参戦した。マシンはトヨタ・タンドラ。第7戦シャーロット・モーター・スピードウェイがデビューレースとなった。予選は31位で通過。決勝はコーションが10回もでる荒れたレースとなったが15位で完走した。

ネイションワイド・シリーズにも1戦のみ参加した。キャンピング・ワールド・トラック・シリーズに参戦した1週間後に同サーキットで行われた第13戦にカイル・ブッシュ・モータースポーツが用意したNEMCO Motorsportsのトヨタ・カムリで出場。予選22位、決勝は一時15位まで順位を上げたもののドライブスルーペナルティやデブリ除去の為のピットストップなどのトラブルのため順位を下げ27位となった。

2011年8月にはプジョー908のテストを行い、初めてプロトタイプカーでの走行を行った。ル・マン24時間レースや耐久シリーズへの参戦も噂されたが、実現しなかった。

2024/05/17 23:24更新

Kimi Raikkonen


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