もしもし情報局 > 1947年 > 8月23日 > ミュージシャン

キース=ムーンの情報 (KeithMoon)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

キース=ムーンの情報(KeithMoon) ミュージシャン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

キース=ムーンさんについて調べます

■名前・氏名
キース=ムーン
(読み:Keith Moon)
■職業
ミュージシャン
■キース=ムーンの誕生日・生年月日
1947年8月23日 (年齢76歳)
亥年(いのしし年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和22年)1947年生まれの人の年齢早見表

キース=ムーンと同じ1947年生まれの有名人・芸能人

キース=ムーンと同じ8月23日生まれの有名人・芸能人

キース=ムーンと同じ出身地の人


キース=ムーンの情報まとめ

もしもしロボ

キース=ムーン(Keith Moon)さんの誕生日は1947年8月23日です。

もしもしロボ

音楽スタイル、人物・エピソードなどについてまとめました。ドラマ、現在、映画、卒業、脱退、テレビ、結婚、事故、事件、再婚、解散、離婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。キース=ムーンの現在の年齢は76歳のようです。

キース=ムーンのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

キース・ムーン(Keith Moon、本名:Keith John Moon, 1946年8月23日 - 1978年9月7日)は、イングランドのロック・ミュージシャン、ドラマー、俳優。

ザ・フーのメンバーとして、「マイ・ジェネレーション」「恋のピンチ・ヒッター」「恋のマジック・アイ」「シー・ミー・フィール・ミー」「サマータイム・ブルース」「ピンボールの魔術師」「ロング・リブ・ロック」などの代表曲でドラムスを担当した。

2016年の「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のドラマー」に於いて、親友のジョン・ボーナムに次ぐ第2位。2013年のギブソン社の選ぶ「史上最高のロック・ドラマー×10人」に於いて第3位と、現在も高く評価されている。

ロンドン北西部、パーク・ロイヤルのセントラル・ミドルセックス公立病院で生まれ、ウェンブリーで育つ。幼少の頃から音楽好きで、3歳の頃にはすでにナット・キング・コールのレコードに聴き入っていたという。1955年、映画『暴力教室』の主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を聴いたことによりロックンロールに目覚める。12歳の頃より、地元の鼓笛隊でラッパやトランペットを吹き始めるが、全く上達しなかった。やがてドラムに転向し、16歳の頃に本格的なドラムキットを購入。地元の学校仲間とバンドを組んでプレイしていたが、やがてセミプロのバンドに加入し、本格的に音楽活動を行うようになった。当時、イギリスの労働者階級の子弟は、中学卒業後すぐに就職するケースが圧倒的に多かった。キースも15歳で学校を卒業し、1964年にザ・フーに加入するまでの間に、印刷工や電気工見習いなど、23回も職を変えた。

1963年4月、ビーチコーマーズというセミプロ・バンドに加入。同年10月にはシングルを発表しているが、このバンドは本格的にプロを目指そうとはしていなかった。このバンドに在籍していた頃からムーンはザ・ディトゥアーズ(後のザ・フー)のことは耳にしていた。1964年、ザ・フーが新ドラマーを探しているという噂を聞きつけ、4月の終わりにザ・フーのギグに訪れた。当時のザ・フーは前任のドラマー、ダグ・サンダムが脱退し、急場しのぎで別のドラマーを雇っていたが、ギグの途中でムーンの友人が「俺の連れのほうが上手い」とムーンをステージに上げた。その場でボー・ディドリーの「ロード・ランナー」を演奏したが、ムーンはそのパワフルな演奏でドラムを壊してしまい、メンバーの度肝を抜いた。ジョン・エントウィッスルは「キースの演奏を見た瞬間、『こいつに決まりだ!』と思った」と当時を振り返っている。ピート・タウンゼントもまた「キースを見出した時が正に俺達のターニングポイントだった」と認めている。

だがムーンは、すぐにはビーチコーマーズを脱退しなかった。メンバーから直接加入を打診されたわけではなく、さらに当時のザ・フーには契約の話が進んでいたフィリップス・レコードから紹介されたブライアン・レッドマンという別のドラマーがいたことが要因だった。だがムーンとレッドマンのプレイを再度比較した結果、レッドマンはメンバーから不適任と判断され、ムーンは晴れてザ・フーのメンバーとなった。

1965年、ザ・フー名義での1stシングル、「アイ・キャント・エクスプレイン」が全英8位という好調なスタートを切るが、バンド内ではドラッグの使用をめぐり、ロジャー・ダルトリーと他の3人の間に深刻な対立が起こっていた。緊張の糸は9月のヨーロッパツアー中についに切れた。ダルトリーはドラッグでハイになったムーンに激怒し、彼の錠剤を全てトイレに流してしまった。ムーンはタンバリンを武器にダルトリーに襲い掛かるが、ダルトリーに殴り返され気絶してしまう。タウンゼント、エントウィッスル、ムーンの3人は全員一致でダルトリーの解雇を決断するが、ダルトリーの謝罪とマネージャーのキット・ランバートの説得により、何とか元の鞘に収まった。65年には「マイ・ジェネレーション」でもドラムをプレイした。同曲はパンクのルーツの1曲として記録されている。

だがバンドの内紛はこれで収まった訳ではなかった。1966年になると今度はムーンが脱退を考えるようになる。2月、彼はちょうど前任のドラマーが脱退したばかりのアニマルズへの加入を目論んでいた。同年5月、ジェフ・ベックに招かれセッションに参加。他のメンバーはジミー・ペイジ(ギター)、ジョン・ポール・ジョーンズ(ベース)、ニッキー・ホプキンス(ピアノ)。ムーンはこのバンドをレッド・ツェッペリンと命名。このセッションで「ベックス・ボレロ(英語版)」を録音した。これがムーンにとってプロデビュー後初めてのザ・フー以外での仕事となったが、タウンゼントはこのセッションについて「あれは政治的な動きだった。キースはこうすることで俺達にザ・フーに戻って欲しいと言わせようとしてたのさ」と語っている。なお「ベックス・ボレロ」は、ベックの1stソロシングル「ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング(英語版)」のB面として発表され、後に第一期ジェフ・ベック・グループの1stアルバム『トゥルース』に収録された。

このセッションから間もない5月20日、テレビ番組『レディ・ステディ・ゴー』のパーティーに出席してエントウィッスルと共にライブに2時間以上遅刻。するとダルトリーとタウンゼントが二人を待たずに、前座を務めたバンドのベーシストとドラマーを代わりに入れて勝手にライブを始めていたので、ムーンは激怒して大喧嘩を起こして、足を3針縫う怪我を負った。彼はその場にいた記者たちにエントウィッスルと共にザ・フーを脱退すると宣言し、1週間ほどライブをボイコットしたが、25日までには仲直りして脱退を取り下げた。

この年の3月、17歳のキム・ケリガン(Kim Kerrigan)と結婚。7月に娘のアマンダ・ジェーンが生まれている。

1966年から1969年までの間、ムーンは「恋のピンチ・ヒッター」「マジック・アイ」「ボリス・ザ・スパイダー」などのザ・フーの代表曲の演奏に参加した。彼等は、モンタレーやウッドストック などのロック・フェスティバルに積極的に出演して、世界のロック・ファンに知られるようになり、ムーンの豪快なドラミングも人々に強烈な印象を与えた。

1970年1月、あるパーティの帰りに、彼や妻キムの乗る車が若者の集団に囲まれて襲撃を受ける。彼の運転手だったコーネリアス・ボランドが道を空けさせようと車から降りたところを、彼は誤って車を発進させ、ボランドを轢いて死なせてしまう。彼は謹慎の身となるが、2月に裁判所でボランドの死は事故と断定され、彼は無罪となった。なお、当時彼は飲酒した上に無免許であったが、これについても情状酌量により刑罰は与えられなかった。だがこの事件は彼に暗い影を落とし、以後彼の行動はさらに厄介なものになっていった。

ムーンはザ・フーの「サマータイム・ブルース」(1970年)でも秀逸なドラミングを披露した。同曲はエディ・コクランの原曲(1959年)をカバーしたもので、ウッドストックでの演奏場面が映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』(1970年)に収録されて人気を呼び、彼等の代表曲となった。

1971年、フランク・ザッパの映画『200モーテルズ(英語版)』に尼僧役で出演。後に本格的に俳優としても活動したダルトリーに先んじた俳優デビューを果たし、以後数年に渡って、その強烈なキャラクターを生かして脇役として活躍した。翌1972年12月にロンドンで開かれたロンドン交響楽団とイギリス室内合唱団の『トミー』のチャリティー・コンサートに、リンゴ・スターの代役でトミーの叔父アーニー役で出演。

1973年、ムーンの乱行に耐えられなくなった妻キムが娘のアマンダを連れて家を出て行き、彼はさらに自暴自棄になっていく。アルバム『四重人格』発表に伴う北米ツアーの初日に当たる11月20日のカリフォルニア州デイリー・シティ公演では、ファンからもらった酒と動物用の鎮静剤の混ぜ物を本番前に飲んでしまい、本番中に意識を失って担ぎ出された。残ったメンバーは、観客からドラムを叩ける者を彼の代役に募って急場を凌がざるを得なかった。12月2日のモントリオール公演の後には、滞在先のホテルで破壊騒ぎを起こして、タウンゼントやエントウィッスルを含めた関係者16人と共に一晩牢屋に入れられた。

1974年4月、イギリスを離れ、ガールフレンドでスウェーデン人モデルのアネット・ウォルター=ラックス(Annette Walter-Lax)と共にロサンゼルス郊外のマリブに移住。ジョン・レノンやハリー・ニルソンと毎晩のように飲み歩く。レノンのプロデュースによって同年に発表されたニルソンのアルバム『プシー・キャッツ』にドラマーとして参加。彼はザ・フーのメンバーの中で唯一ソロ作品を発表していなかったが、二人に影響されてソロ・アルバムを製作し始めた。また4月に始まった映画『トミー』(1975年公開)の撮影で叔父アーニーを演じた。

1975年3月、唯一のソロ・アルバム『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン(英語版)』を発表。リンゴ・スターやジョー・ウォルシュなど豪華ゲストを迎え、自らボーカルをとった。200,000ドルもの制作費が費やされたものの、アルバムはチャートインを果たせず、制作費を回収するには至らなかった。しかし彼は懲りずに、同年9月、周囲の反対を押し切って2枚目のソロアルバムのためのレコーディングセッションを行う。アルバムは結局完成せず、この時に録音された楽曲は、後に『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』のCDにボーナストラックとして収録された。

アルバム『ザ・フー・バイ・ナンバーズ』の発表に伴って、ザ・フーが1975年の年10月初めから翌1976年10月末までヨーロッパと北米で行なったツアーは大きな成功に終わり、彼等はローリング・ストーン誌の1976年最優秀グループに選ばれた。しかしムーンはツアーの合間の1976年1月、ロンドンでアルコールの禁断症状を起こし一時意識不明に陥る。また同年3月9日、二巡目のアメリカ・ツアーの初日のボストン公演では、開始間もなく倒れてコンサートを中止させてしまった。同年8月にはマイアミで致死量に至るほどの飲酒をし、8日間の入院を余儀なくされている。その際に医師から「飲酒を控えなければ3か月以内に死ぬだろう」と警告された。10月21日のトロント公演で終わったこのツアーが、ムーンの生涯で最後のものになった。10月23日にはイギリスの報道機関が、彼が12月15日にロサンゼルスでウォルター=ラックスと再婚する予定であると報じたが、彼の生活が改まることはなく、健康状態は悪化の一途をたどり、ザ・フーはライブ活動から遠ざかっていった。

1977年9月、ザ・フーは新作アルバムの為のリハーサルを開始し、翌1978年5月までレコーディングを行なった。この頃になると彼はもはや6/8拍子を叩くことができなくなっていたという。彼がミスを連発するのに堪えかねて、タウンゼントが「真面目にやらないなら辞めろ」と怒ると、彼は「俺は世界一のキース・ムーン・スタイルのドラマーだ!」と怒り返してきたという。5月25日にはシェパートン・スタジオ(英語版)に500人ほどの聴衆を特別に招待して、ザ・フーのドキュメンタリー映画『キッズ・アー・オールライト』の為のライブが行われた。彼の体調は優れなかったが演奏は上手くいき、聴衆も非常に熱狂して撮影は成功した。このライブが彼の最後のステージとなった。8月、3年ぶりの新作『フー・アー・ユー』発表。このアルバムが彼の在籍中にザ・フーが発表した最後のオリジナル・アルバムになった。

1978年9月1日、ムーンは映画『キッズ・アー・オールライト』の無音部分に音を重ねるためのレコーディングに参加したが、2、3時間もするとスティックを握るのがやっとの状態になったという。

9月6日、バディー・ホリーを記念してポール・マッカートニーがロンドンで主催したパーティーにウォルター=ラックスと出席。メイフェアにあるフラットに戻って、翌7日の朝、彼女が作った朝食をとり、アルコール依存症の離脱症状を抑えるヘミネブリン(クロメチアゾール(英語版))を32錠も飲んで、昼寝についた。ウォルター=ラックスは彼のうるさい鼾から逃れるために別の部屋にいたが、彼女が午後3時ごろ寝室を覗くと、彼はうつぶせのまま動かなくなっていた。すぐさま病院に担ぎ込まれたが死亡が確認された。享年32歳。警察は検死の後、死因は飲み込んだ32錠のヘミネブリンのうち6錠が消化されたことによるオーバードーズであると発表した。彼が最期を迎えたフラットは、1974年にママス・アンド・パパスのキャス・エリオットが死亡した場所だった。

遺体は11日にロンドンのゴルダーズグリーン火葬場(英語版)にて荼毘に付された。13日に行われた葬儀にはウォルター=ラックス、元妻のキムと娘のアマンダ、タウンゼント、ダルトリー、エントウィッスル、エリック・クラプトン、ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツらが出席した。

ムーンの死の翌日、タウンゼントは「俺達はロック界きっての天性のドラマーを失った。俺達は彼を愛していたが、彼は逝ってしまった。だが俺達は、かつてないほど活動続行へ燃えている。キースがバンドに注いでくれた精神を持ち続けてこうと思ってる。例え彼の代わりになる人間などいないとわかっていても」という声明文を発表して、ザ・フーの活動継続を宣言した。翌1979年、彼等は元フェイセズのケニー・ジョーンズを加入させ本格的に活動を再開するが、やはりムーンを失った影響の大きさには耐えられず、1982年9月から12月までフェアウェル・ツアーを行なって解散した。

タウンゼント、ダルトリー、エントウィッスルはライブ・エイド(1985年)、英国レコード産業協会の特別功労賞の受賞式(1988年)、結成25周年記念ツアー(1989年)で結集してザ・フー名義の一時的な活動を行なった。そして1996年、3人はプリンス・トラスト(英語版)のコンサートでアルバム『四重人格』を完全再現する為に再結集したことをきっかけに、ザ・フーの本格的な復活を果たした。彼等がサポート・メンバーとして迎えたドラマーは、リンゴ・スターの長男で、少年時代にムーンに可愛がられてドラムを教えてもらったザック・スターキーだった。以後2023年現在まで、ザ・フーのステージでは幾つかの例外を除いてスターキーがドラムを叩き続けている。

音楽スタイル

ドラマーとして

ムーンの非常に個性的なプレイスタイルは、同時代及び後進の数多のドラマーに多大な影響を与えた。それまでドラマーの主な役割がリズム・キープに終止していたのに対し、ムーンのプレイは、ある意味でリード・ボーカルよりも先行した「リード楽器」として、タウンゼントのパワーコードと重なり合い、見事に引き立ちあっていた。タウンゼントもまた「ベースやドラムがリード楽器となりギターがリズム楽器と、本来の役割が逆転していたのが、ザ・フーのユニークさだった」と認めている。そのラウドなドラムはマイクなしでも十分なほどであり、エントウィッスルは「キースの音がやたらでかいから、俺もピートもマーシャルを積み上げなきゃならなかった」と語っている。ステージでは並々ならぬ技量と共にショーマンシップを発揮、スティックを廻したり空中に放り投げてはキャッチ、という「芸」も披露。ギターを破壊するタウンゼントに影響される形で、ムーンもまたステージでドラムを破壊した。まさに「ドラム革命」とも呼べる、ドラマーの新たな役割を示した。また、ムーンのドラムプレイは半ばアドリブといえるようなものであり、同じ曲でも演奏のたびに細部が異なっていた。

ムーンのプレイの大きな特徴として、ハイハットをほとんど使用しないことが挙げられるが、エントウィッスル曰く「キースはハイハットが使えなかった」のだという。リズムキープには大体クラッシュシンバルもしくはライドシンバルを使い、ハイハットはただ置いてあるだけということも多かった。また、ムーンのドラムスはスネア、タム、バスドラムそれぞれの音量がほとんど同じという特徴がある。エントウィッスルは「全て同じようにチューニングしてあるから、キースのドラムはどれも同じ音に聞こえるんだ」と語っている。

ムーンの「リードドラム」と共に「リードベース」を担当してきたエントウィッスルは、ムーンのドラミングについて「キースはタイムキープが出来なかった。調子が悪いと遅くなり、調子がいいと速くなる。タイムキーパーは俺の役目だった。キースは自分がどんなに馬鹿をやっても俺がついて来ることがわかっていたから、好き放題にやっていた」と語っている。また彼のドラミングを一番よく表している曲として、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』に収録された「ジ・オックス」を挙げている。

ムーンは最も影響を受けたドラマーに、D・J・フォンタナやシャドウズのトニー・ミーハン(英語版)と共に、リンゴ・スターの名前を挙げている。また1972年のインタビューでは、アージェントのボブ・ヘンリット(英語版)も挙げている。

ボーカル

ムーンは歌唱力に問題があったとされ、ほとんどの場合ボーカル録りには参加させてもらえなかった。ムーンは1972年のインタビューで「他のメンバーがスタジオで歌ってると、皆が俺に『失せろ』って言うんだ」と告白している。無論それでおとなしく引き下がる彼ではなく、「ハッピー・ジャック」のレコーディング時にはこっそりマイクの前に忍び込んで無理やり歌おうとした。この曲の終盤部でタウンゼントが「I saw ya!(見つけたぞ!)」と叫んでいるのはそのためである。また、他のメンバーが歌っている前でハチの格好をし、メンバーを笑わせるいたずらをしたこともあるという。一方で自作曲の「アイ・ニード・ユー」(2ndアルバム『ア・クイック・ワン』収録)や、デビュー当時からザ・フーのレパートリーだった「バーバラ・アン」等でリードを取ることもあった。

ステージでは1960年代の終わり頃から「アイ・キャント・エクスプレイン」のコーラスに参加するようになった。1973年10月に始まった『四重人格』ツアーでは、アルバム『四重人格』の収録曲「ベルボーイ」でスタジオ録音と同様にベルボーイの役を担って、ダルトリーからマイクを受け取ってバッキング・テープの再生音に合わせて独唱した。1975年10月に始まった『ザ・フー・バイ・ナンバーズ』ツアーでは、『トミー』の叔父のアーニーの役を担って、「フィドル・アバウト」と「トミーのホリディ・キャンプ」でリード・ボーカルを担当した。

作曲

作曲に関わることはあまりなかった。彼の名前が作曲者としてクレジットされているザ・フーの楽曲は前述の「ジ・オックス」「アイ・ニード・ユー」を含めた以下の8曲で、ダルトリーの4曲に次いで少ない。

「ジ・オックス」(アルバム『マイ・ジェネレーション』収録。タウンゼント、エントウィッスル、ニッキー・ホプキンスとの共作)

「アイ・ニード・ユー」(アルバム『ア・クイック・ワン』収録)

「くもの巣と謎」(アルバム『ア・クイック・ワン』収録)

「イン・ザ・シティ」(シングル「アイム・ア・ボーイ」B面曲。エントウィッスルとの共作)

「ガールズ・アイズ」(『ア・クイック・ワン』1995年リイシュー版に収録)

「ドッグス(パート2)」(シングル「ピンボールの魔術師」B面曲)

「トミーのホリデイ・キャンプ」(アルバム『トミー』収録)

「ワスプ・マン」(シングル「奴等に伝えろ!(英語版)」B面曲)

このうち「トミーのホリデイ・キャンプ」は、ホリデイ・キャンプというムーンのアイデアにインスピレーションを得てタウンゼントが作詞作曲した曲で、タウンゼントの計らいでムーンが作者としてクレジットされた。

セッション活動

ムーンの初めての課外活動は、前述のとおり1966年の「レッド・ツェッペリン・セッション」だった。この時5人中4人がかなりの手ごたえを掴み、パーマネントなバンドとしての活動を希望したが、ジョン・ポール・ジョーンズが乗り気でなかったことと、良いシンガーが見つからなかったことを理由に実現しなかった。だがその後もジェフ・ベックは彼の引抜きを考え、第一期ジェフ・ベック・グループのファーストアルバム『トゥルース』の録音に彼を招聘したが、ザ・フーの活動が多忙になりお流れになった。

その後も、ビートルズの「愛こそはすべて」(1967年)にコーラスで参加したり、プラスティック・オノ・バンドの公演(1969年)に客演したり、課外活動も精力的にこなした。

人物・エピソード

ドラムプレイ同様、性格的にも非常に個性の強い人物だった。子供の頃からやんちゃな性格で、よく授業中に悪ふざけをしては教師達から怒りを買っていた。また、戦後のブリティッシュ・ユーモアを確立したといわれるBBCラジオのお笑い番組『ザ・グーン・ショー』にも、ロックと同様に強い影響を受けている。

ザ・フーの最初のプロダクション・マネージャーを務めたマイク・ショウは、デビュー当時のムーンについて「内気な男だった」と振り返っている。その頃はメンバーの中で最も女性ファンからの人気が高かった。だが20代半ばに差し掛かると容姿がかなり老け込んでしまい、バンドのセックスシンボルはダルトリーに取って代わられることとなった。

タウンゼントによれば「キースは凄く難しいタイプだった」らしく、懐柔の為に彼が好きなビーチ・ボーイズの音楽性を取り入れたと語っている。一方、彼は他のメンバーに対して深い愛着を持っており、1972年のインタビューでは「(他のメンバーとは)もっとしょっちゅう会いたい」「俺は一生ずっとみんなと一緒にやっていけると思ってる。他に一緒にやりたい奴なんていないし」という発言を残している。長期のオフなどで他のメンバーに会えない時期が続くと、彼は孤独感からかタウンゼントの家に明け方におやすみの挨拶と愛していることを伝えるためによく電話をかけてきたという。ある時、通話中に彼が寝てしまい、タウンゼントは話が終ったと思って電話を切ったつもりだったが、受話器をきちんと元の位置に置かなかったので、数時間後にタウンゼントの妻が電話をかけようと受話器を取るとムーンの鼾が聴こえてきたというエピソードもある。

1974年3月、ムーンはイギリス映画『スターダスト (1974年の映画)(英語版)』の撮影中に受けたインタビューで「自分が役者じゃなかったことなんてないと思う。ドラムを叩いてる時だって演じてるんだよ。俺は俳優じゃないが、演奏にだって演技の要素があって、ただ少し手法が違うだけなんだ。俺が演じてない時なんてほとんどないよ…寝てる時以外はね」と語っている。

生前に年齢を1歳偽っていた。その為、プロフィールに「1947年に生まれて、31歳で没」となっている文献が幾つかある。

『ムーン・ザ・ルーン』

人々はムーンを『ムーン・ザ・ルーン』(Moon the Loon)と呼んだ。ルーンとはcrazyの意味である。

彼は「ドラムを100セット壊すことが目標」と豪語して、その生涯を通じて「壊し屋」としての名声を欲しいままにした。タウンゼントもギターやアンプも壊したりしたので、機材の弁償額が、たびたびバンドのギャラを上回った。彼は、ホテルの窓や友人の家、あまつさえ自分の家でさえも、高窓から家具を投げ捨て配管に爆竹を仕掛け、廃墟にしてしまった。特に有名なのが1967年、テレビ番組「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」での出来事で、彼は自分のバスドラムに安全基準を超える閃光粉を仕込み、曲の最後に爆発させたが、この爆発でタウンゼントの耳が一時聞こえなくなり、ダルトリーも鼓膜が破れるほどの怪我を負う。さらに出番待ちをしていたベティ・デイヴィスが気絶し、彼自身も脳震盪を起こし、腕に切り傷を負った。同じ67年には、自分の誕生パーティーで消火器をまき散らす、ピアノを破壊するなどの騒乱状態となり、バンドは2万4千ドル(当時のレートで860万円)を弁償せざるをえなくなった。また、すべてのホリデイ・インから出入り禁止の処分を受けてしまう。ザ・フーの活動開始から彼が死去するまでの14年間で、彼の破壊行動による被害額は約50万ドルとも言われている。

この他にも、爆竹でトイレを破壊する、退屈しのぎに自宅の窓をショットガンで吹き飛ばす、等々、彼の度の過ぎたいたずらは枚挙に暇がない。ホテルに泊まれば必ず部屋を破壊するため、全てのホテルチェーンから出入り禁止を喰らっていると自ら語っている。その後も世界のホテルで破壊行動を起こし、「破壊王」という有り難くないニック・ネームもつけられてしまった。ムーン自身が開いたパーティでもそうでないパーティでも、彼が参加したパーティは必ずむちゃくちゃに破壊され、そして本人は必ず全裸になった。ミック・ジャガーが、とあるパーティに招待されて会場へと入ったところ、ムーンの姿を見かけた瞬間逃げ帰った、という逸話もある。あまりにも彼の振る舞いがひどく、入れるパブが無くなったので自ら出資してパブを作ったこともある。1974年に、出会って間もないガールフレンドだったウォルター=ラックスと共にカリフォルニアに移住してからもムーンの悪行はやまず、隣人のスティーヴ・マックイーンの邸宅にバイクで突っ込んだり、マックイーンの息子にマリファナを勧め、拒否されるとつかみ合いの喧嘩を始めるという有様だった。また女装癖もあり、多数の女装写真が残されている。ボンデージを着用してSM嬢にムチで叩かれながらインタビューを受けたこともある。この様子は映画『キッズ・アー・オールライト』にも収録されている。死の直前の1978年7月にも、飛行機内で操縦室に乱入し操縦台でドラミングの真似をして、飛行機から降ろされた。

数々の蛮行に、インタビューアーから「ドラマーとしての評判に傷がついたりしないか」と質問されたが、それに対しムーンは「俺は偉大なドラマーになろうなんて思わない。ザ・フーでドラムスが出来ればそれでいいんだ」と答えた。

私生活

ムーンはデビューする頃にはすでにアルコールとドラッグに浸かっていた。ダルトリー以外のメンバーはドラッグに手を出していたが、ムーンは特にひどく、前述した運転手ボランドの死亡、妻キムとの別居と離婚を経て、飲酒と薬物摂取はますますひどくなり、幾度となくコンサートを中断せざるを得ないほどにまで依存症状が悪化した。ウォルター=ラックスとの生活が始まっても依存症状は酷く、晩年になると「特殊部隊が小さな宇宙人を使って俺を監視している」という幻覚を見るまでになる。彼の健康状態の悪化は、『ザ・フー・ハイ・ナンバーズ』ツアーが終わった1976年10月末から彼が死亡する1978年9月まで、ザ・フーがコンサートツアーを行なえなかった理由の一つである。

晩年は、これまでの生活習慣を改めようとアルコール依存症の治療を受けており、死の前日に参加したパーティーでも彼は酔ってはいなかった。だが皮肉にも治療薬として処方されていたヘミネブリンの過剰服用が、結果的に彼を死に至らしめることとなってしまった。ダルトリーは後に「キースを救ってあげられなかったことを非常に後悔している」と語っている。

交友関係

2024/06/21 04:44更新

Keith Moon


キース=ムーンと同じ誕生日8月23日生まれの人

鈴木 章夫_(オートレース選手)(すずき あきお)
1946年8月23日生まれの有名人 静岡出身

鈴木 章夫(すずき あきお、1946年8月23日 - )は、日本のオートレース選手。 プロフィール(2023年1月現在) 静岡県出身 2期 浜松オートレース場所属 1964年9月15日選手登録 身…

佐藤 しのぶ_(歌手)(さとう しのぶ)
1958年8月23日生まれの有名人 東京出身

佐藤 しのぶ(さとう しのぶ、1958年〈昭和33年〉8月23日 - 2019年〈令和元年〉9月29日)は、日本のソプラノ歌手、声楽家。夫は指揮者の現田茂夫。 東京都生まれ。その後、大阪府高槻市に…

森保 一(もりやす はじめ)
1968年8月23日生まれの有名人 静岡出身

森保 一(もりやす はじめ、1968年8月23日 - )は、静岡県掛川市生まれ、長崎県長崎市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはミッドフィールダー…

中島 翔哉(なかじま しょうや)
1994年8月23日生まれの有名人 東京出身

中島 翔哉(なかじま しょうや、1994年8月23日 - )は、東京都八王子市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・浦和レッズ所属。ポジションはミッドフィールダー(攻撃的ミッドフィールダー、左サイドハーフ…

古川 小百合(ふるかわ さゆり)
8月23日生まれの有名人 長崎出身

古川 小百合(ふるかわ さゆり、1984年8月23日 - )は、日本の声優、文化人、実業家。長崎県出身。トイプリッズ代表取締役社長、美声ラボ代表。 テレビの世界に憧れており、8歳で少女漫画誌で見つ…

棚橋 麻衣(たなはし まい)
1983年8月23日生まれの有名人 栃木出身

ホリプロ アナウンサーズプロモーション|棚橋麻衣 棚橋 麻衣(たなはし まい、1983年8月23日 - )は、日本の女性タレント。 ホリプロアナウンサーズプロモーション所属。栃木県出身。血液型はA…

岡江 久美子(おかえ くみこ)
1956年8月23日生まれの有名人 東京出身

岡江 久美子(おかえ くみこ、1956年〈昭和31年〉8月23日 - 2020年〈令和2年〉4月23日)は、日本の女優、タレント、司会者。本名は、大和田 久美子。スタッフ・アップ所属。東京都世田谷区出…

石川 真琴(いしかわ まこと)
1985年8月23日生まれの有名人 愛知出身

石川 真琴(いしかわ まこと、1985年8月23日 - )は日本のグラビアアイドル。所属事務所は東京プロデュースセンター。 体型的には巨乳および樽ドルの範疇に入る。 2000年代前半から撮影会モ…

アサヌマ 理紗(あさぬま りさ)
1991年8月23日生まれの有名人 宮城出身

アサヌマ 理紗(あさぬま りさ、1991年8月23日 - )は、日本の女優。出身地は宮城県・仙台市。株式会社G-STAR.PRO所属。 趣味はアニメ制作、料理、英会話の勉強、ウクレレ、お笑い、パス…

シトウ レイ(Rei Shito)
1979年8月23日生まれの有名人 石川出身

シトウ レイ(Rei Shito、1979年8月23日 - )は、日本の女性フォトグラファー、ジャーナリスト。石川県加賀市出身。石川県立小松高等学校、早稲田大学教育学部卒。 世界各地のストリートスタ…

佐田 真由美(さだ まゆみ)
1977年8月23日生まれの有名人 東京出身

佐田 真由美(さだ まゆみ、1977年8月23日 - )は、日本のファッションモデル、女優、ジュエリーブランド「Enasoluna」のトータルディレクター。東京都出身。LDH JAPAN所属。 3…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


キース=ムーンと近い名前の人

ゲイリー=スタークウェザー(Gary Keith Starkweather)
1938年1月9日生まれの有名人 出身

ゲイリー・キース・スタークウェザー(Gary Keith Starkweather、1938年1月9日 - )はアメリカの技術者で、レーザープリンターとカラーマネージメントシステムの発明者として知られ…

メアリー=ケイタニー(Mary Jepkosgei Keitany)
1982年1月18日生まれの有名人 出身

1月18日生まれwiki情報なし(2024/06/24 01:50時点)

キース=ストローン(Keith Strachan)
1944年1月21日生まれの有名人 出身

1月21日生まれwiki情報なし(2024/06/22 00:21時点)

キース=デブリン(Keith Devlin)
1947年3月16日生まれの有名人 出身

3月16日生まれwiki情報なし(2024/06/26 17:48時点)

今井 翼(いまい つばさ)
【タッキー&翼】
1981年10月17日生まれの有名人 神奈川出身

今井 翼(いまい つばさ、1981年〈昭和56年〉10月17日 - )は、日本の俳優、タレント、歌手。男性アイドルデュオ・タッキー&翼の全活動期(2002年 - 2018年)のメンバー。 神…

滝沢 秀明(たきざわ ひであき)
【タッキー&翼】
1982年3月29日生まれの有名人 東京出身

滝沢 秀明(たきざわ ひであき、1982年3月29日 - )は、日本の音楽プロデューサー、演出家、実業家。株式会社TOBE(トゥービー)代表取締役。元タレント、元歌手、元俳優。ジャニーズ事務所旧所属の…

若原 麻希(わかはら まき)
11月16日生まれの有名人 京都出身

若原 麻希(わかはら まき、1985年11月16日 - )は、日本のグラビアアイドル。京都府出身。血液型B型。夢幻堂株式会社所属。 アイドルユニットKNU23のメンバーとしてデビュー。現在KNU2…

ベッキー(Becky)
1984年3月6日生まれの有名人 神奈川出身

ベッキー(Becky、1984年3月6日 - )は、日本のタレント、女優、歌手、YouTuberである。歌手活動時の名義は「ベッキー♪♯」である。 神奈川県川崎市出身。亜細亜大学経営学部卒業。GAT…

坪木 菜果(つぼき さいか)
1987年10月3日生まれの有名人 東京出身

坪木 菜果(つぼき さいか、1987年10月3日 - )は、日本のグラビアアイドル・タレント。松竹芸能所属。東京都出身。 東京都立玉川高等学校卒業。 『音楽ば〜か』の「昭和歌謡デュオオーディション…

空風 マイキ(そらかぜ まいき)
1989年9月11日生まれの有名人 群馬出身

空風 マイキ(そらかぜ マイキ、1989年9月11日 - )は、日本のモデル、レースクイーン、タレント。群馬県高崎市出身。 高崎健康福祉大学高崎高等学校卒業。専門学校在学中にスカウトされ、モデルと…

占部 佑季(うらべ ゆき)
1991年11月13日生まれの有名人 埼玉出身

占部 佑季(うらべ ゆき、1991年11月13日 - )は、日本の元女性ファッションモデル、元タレント、元女優。埼玉県出身。タンバリンアーティスツに所属していた。本庄第一高等学校卒業。血液型は不明。 …

竹田 美沙紀(たけだ みさき)
1994年1月16日生まれの有名人 大阪出身

竹田 美沙紀(たけだ みさき、1994年1月16日 - )は、日本の元ファッションモデル。エヴァーグリーン・エンタテイメントに所属していた。大阪府守口市出身。 いとこが芸能関係の仕事をしていたので…

石田 雪乃(いしだ ゆきの)
1988年9月13日生まれの有名人 大阪出身

石田 雪乃(いしだ ゆきの、1988年9月13日 - )は日本のファッションモデルである。所属事務所はチェルシー・エンターテインメント。愛称はゆっきー。大阪府大阪市出身。B型。 中国人の母を持つ、…

にわ みきほ(にわみきほ)
1989年9月27日生まれの有名人 愛知出身

にわ みきほ(1989年9月27日 - )は、日本のファッションモデル、アイドル。出生名および旧芸名は丹羽 未来帆(読み同じ)。 愛知県出身。スペースクラフト所属。夫は日本テレビアナウンサーの田中毅…

三樹 レイカ(みき れいか)
1985年9月27日生まれの有名人 神奈川出身

三樹 レイカ(みき れいか、1985年9月27日 - )は、日本のタレント、レースクイーン。神奈川県出身。プラチナムプロダクション(パスポート)所属であったが、2017年1月現在同事務所のサイトに所属…

吉江 幸貴(よしえ ゆき)
1992年8月16日生まれの有名人 愛知出身

吉江 幸貴(よしえ ゆき、1992年8月16日- )は日本のモデル、レースクイーン、イベントコンパニオンである。 福井県坂井市三国町(旧:坂井郡三国町)出身。福井県立大学社会福祉学科卒業。所属事務所…

渡辺 美優紀(わたなべ みゆき)
【SKE48】
1993年9月19日生まれの有名人 奈良出身

渡辺 美優紀(わたなべ みゆき、1993年〈平成5年〉9月19日 - )は、日本の元アイドル、ファッションモデル、ダンサー、YouTuber、歌手、プロデューサー。ガールズユニット・Ange et F…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
キース=ムーン
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

Prizmmy☆ Silent Siren 風男塾 LinQ ひめキュンフルーツ缶 乙女新党 CoverGirls からっと☆ 愛乙女★DOLL 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「キース=ムーン」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました