もしもし情報局 > 1914年 > 8月9日 > 児童文学作家

トーベ=ヤンソンの情報 (ToveJansson)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【7月3日】今日誕生日の芸能人・有名人

トーベ=ヤンソンの情報(ToveJansson) 児童文学作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

トーベ=ヤンソンさんについて調べます

■名前・氏名
トーベ=ヤンソン
(読み:Tove Jansson)
■職業
児童文学作家
■トーベ=ヤンソンの誕生日・生年月日
1914年8月9日
寅年(とら年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
不明

トーベ=ヤンソンと同じ1914年生まれの有名人・芸能人

トーベ=ヤンソンと同じ8月9日生まれの有名人・芸能人

トーベ=ヤンソンと同じ出身地の人


トーベ=ヤンソンの情報まとめ

もしもしロボ

トーベ=ヤンソン(Tove Jansson)さんの誕生日は1914年8月9日です。

もしもしロボ

作品、制作環境などについてまとめました。母親、父親、結婚、卒業、家族、趣味、映画、テレビ、ドラマ、病気に関する情報もありますね。

トーベ=ヤンソンのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

トーベ・マリカ・ヤンソン(Tove Marika Jansson [tuːve mariːka jɑːnsɔn] ( 音声ファイル)1914年8月9日 - 2001年6月27日)は、フィンランドのヘルシンキ生まれのスウェーデン系フィンランド人の画家、小説家、ファンタジー作家、児童文学作家。日本語表記にはトーヴェ・ヤンソンもある。

創作領域は絵画、小説、コミックス、脚本、詩、作詞、広告など多岐にわたり、『ムーミン』シリーズの作者として世界的に有名となった。読者層は幅広く、「9歳から90歳まで」とも表現される。フィンランドでは画家としての評価も高く、水彩画や油彩画、雑誌の風刺画や公共建築の壁画など多くの作品を残している。

1914年8月9日、フィンランド大公国ヘルシンキで生まれた。母親はスウェーデン=ノルウェー出身の画家のシグネ・ハンマシュティエン=ヤンソン、父親はスウェーデン語系フィンランド人の彫刻家のヴィクトル・ヤンソン(英語版)だった。1910年、シグネとヴィクトルはパリのグランド・ショミエール芸術学校に留学した時に出会い、1913年に結婚してモンパルナスで生活を始めた。しかし生活費がかさんで国からの留学資金が尽きるという経済的な事情や、1914年の第一次世界大戦の勃発によって、フィンランドへと引っ越した。フィンランドではフィンランド語とスウェーデン語が公用語だったが、スウェーデン語の話者は少なく、ヤンソン家は言語面で少数派だった。

トーベが誕生した8月9日は日曜日で、シグネは翌8月10日に「私たちの日曜日の子についての本」を書き、娘の姿を似顔絵と文章で表した。トーベという名前は、北欧神話の神トールに由来するデンマーク系の表記から付けられた。シグネがスケッチをした1歳半のトーベはテーブルの紙に絵を描いており、歩くより前に描くことを覚えていた様子がうかがえる。

フィンランドは1917年2月の独立宣言でロシアから独立し、1918年にはフィンランド内戦が起きた。ヴィクトルも兵士となり、シグネは戦火を避けて娘とともに故郷のストックホルムで暮らした。シグネはトーベの写真や、トーベが描いた絵を戦地のヴィクトルに送った。ヴィクトルは戦地からの手紙で、娘が芸術家になると思うと書き残している。幼少期のトーベは、シグネの仕事を見ているうちに真似をするようになり、やがて話を考えるところから本を作るところまでを1人でするようになった。

ヤンソン家はヘルシンキのルオッツィ通り4番のアトリエで暮らしたのち、芸術家向けの集合住宅ラッルッカに引っ越した。トーベや弟たちは、芸術と家庭が混ざり合う環境で育った。ヴィクトルの彫刻家としての生計は不安定で、作品の依頼と助成金の他ではコンペの賞金が重要だった。シグネは1924年にフィンランド銀行印刷局のパートに採用され、それが家庭で唯一の定収入だった。1920年代のシグネは小説、詩集、辞典などの挿絵も描いていた。トーベは子供の頃から家計を心配し、絵の仕事で母を助けたいと口にしたり、日記に書いている。

学校はコルケアヴオリ通り23番にあり、ヴィクトルの母校でもあるスウェーデン語系の共学校だった。しかしトーベには規律と詰め込み教育が合わず、のちに「学校のことでよい記憶はほとんどない、というよりも、ほとんど記憶がない」と語っている。トーベはロフトを使って挿絵付きの冊子を自作し、1927年に『サボテンのこぶ』、1928年に『クリスマスソーセージ』という雑誌を作って学校で販売した。夏になると、ヤンソン家はスウェーデンの親戚がいるペッリンゲ群島のブリデー島に行き、トーベは島の暮らしを好んだ。ペッリンゲ群島での体験は、のちのムーミン・シリーズなどの作品の題材となった。

1927年にヒューヴドスタッドブラーデット紙がヤンソン家の取材に訪れた際、トーベは記者のエステル・オーケソンと知り合った。オーケソンの仲介で、トーベは14歳の時にスウェーデン語系の週刊誌『アッラス・クレーニカ(みんなの記録)』に詩と絵を発表し、これが作家デビューとなった。1928年5月にはマンネルヘイム大統領の讃歌を制作し、作者名はトット(Totto)という若い女性として紹介された。

1929年11月には政治風刺を中心とするスウェーデン語系の雑誌『ガルム』に最初の風刺画が掲載された。絵につける文章はシグネとともに考え、出版記録をつけ始めた。オーケソンの担当によって同誌で絵物語の連載が始まり、『プリッキナとファビアナの冒険』という2匹の幼虫を主人公にしたラブコメディーだった。作者名にはトーベ(Tove)が使われ、プロとしてのスタートとなった。トーベは作品が家計の助けになることを経験したが、印刷された表紙の出来が想像と違っていたため失望した。それ以降、色などの指示を編集者や出版社、印刷担当者に伝えるようになった。

挿絵や物語の仕事と並行して、本の自作を続けた。物語への関心が高まったトーベは、『見えない力』というノート2冊分の長い物語も描くようになった。出版社に作品の持ち込みを始め、『サラとペッレと水の精のタコ(フィンランド語版)』という作品はティグルマン社で出版が決まる。しかし企画は5年間延期され、1933年に出版された時の作者名はヴェーラ・ハイとなった。

1930年5月にトーベは学校を自主退学し、9月30日にシグネの母校でもあるストックホルム工芸専門学校(スウェーデン語版)に入学した。叔父のエイナルの家から通学し、女子学生クラスB部で美術学生として広告やデザインを勉強して技法の授業を特に楽しみとした。型にはまった授業や生活には慣れなかったが、芸術家を目指す仲間との出会いは楽しんだ。家計を助けたいという考えもあり、進級について悩み続けた。進級後は美術工芸と印刷を学び、1933年に修了した際には装飾絵画で最高成績が与えられた。絵画クラスには名物教授として知られるオスカル・ブランドベリがおり、ブランドベリはトーベのテンペラ画を見て美大への受験を薦めた。しかし、トーベは美大を受験せず、卒業後は家族のもとへ帰ることを決める。トーベが1933年に工芸専門学校を卒業した際、旅費の問題でシグネは卒業式に出席できなかった。

1933年に帰国したトーベはヘルシンキで家族と暮らし、ヴィクトルの母校でもあるフィンランド芸術協会美術学校(フィンランド語版)(アテネウム)に通った。アテネウムもトーベにとって居心地は良くなかったため、休学をへて夜間コースを選んだ。アテネウムに通いながら挿絵、表紙、ポスター、絵葉書、装飾、宣伝などの仕事を手がけ、画家としての収入が増えていった。文章も書き続けており、1934年には最初の短編小説「大通り」を執筆して『ヘルシンキ・ジャーナル』に掲載された。1935年に画家のサミュエル・ペプロスヴァンニ(サム・ヴァンニ(フィンランド語版))と知り合い、交際した。のちに交際するタピオ・タピオヴァーラ(フィンランド語版)ともアテネウムで出会っている。

アテネウムの絵画コースでは性差別を経験した。男性が優先される状況によってクラスの女性は減っていき、トーベとエヴァ・セーデルストレムの2人だけとなった。トーベは1935年春の絵画コースで1等を獲得したが、12月の展示では男性の作品の方が良い場所に飾られた。校内で起きたフィンランド語とスウェーデン語に関する言語闘争(フィンランド語版)もトーベを悩ませた。トーベは「ここで続けても何にもならない」と日記に書き、学生仲間とタハティトルニ通りにアトリエを構えた。ここがトーベにとって最初の自分のアトリエとなる。欠席や休学を繰り返してアテネウムを卒業したあとは、より自分に合った自由芸術学校に入学した。この学校は現代美術の動向や国際性を重視しており、トーベはヒャルマル・ハーゲルスタム(フィンランド語版)らに学んだ。1935年に画家協会会員、1937年には芸術協会会員に属し、1930年代にはヤンソン家は芸術家一家として取材を受けるようになった。

フィンランド国内の言語闘争が続いていた1938年1月、トーベはパリで生活を始めた。留学費用は、クレヨン・コンテ社の絵画コンクールに入賞した賞金などでまかなった。モンパルナスとセーヌ川の左岸を拠点とし、日中はリュクサンブール公園で過ごした。家族に向けた手紙には地図を描いて送り、学んだことをフランス語で記録した。この時期に、かつて両親が住んでいたモンパルナスの一角も訪ねている。

フィンランド人の芸術家が集まるサン・ジャック通り(フランス語版)のオテル・デ・テラスに引っ越したトーベは、美術学校のエコール・デ・ボザールに入学した。アンリ・マティスを敬愛するトーベは、マティスにゆかりがある学校として期待していたが、教授の指導や先輩との関係になじめず2週間で通うのをやめた。他方でスイス人のアドリアン・オリーが設立したアトリエでは自分のペースで制作ができたので、トーベはそこに留まった。オリーは芸術家自身に自分の道を決めさせる教育方針をとっており、トーベが自分のスタイルを決める助けになった。6月にはブルターニュも旅行した。

1939年には新たな奨学金を得てイタリア王国を旅行し、パドヴァやフィレンツェの美術館、博物館、修道院、教会をめぐった。トーベはジョットをはじめとするルネサンス芸術を好んだ。イタリア旅行の時期には戦争の気配も近づいており、黒シャツ隊やナチス・ドイツを批判する意見を書き残している。イタリアで最も印象に残ったのはヴェスヴィオ火山の噴火と月の光で、手紙で詳しく描写している。

イタリアからフィンランドに帰って1ヶ月後の1939年9月に第二次世界大戦が始まった。弟のペル・ウーロフやラルス、友人たちが招集されて兵士となり、1941年にソビエト連邦と継続戦争が始まった。トーベは写真家のエヴァ・コニコフと親友になるが、フィンランド政府はナチス・ドイツと協力していたため、ユダヤ人のエヴァはアメリカ合衆国へ亡命した。トーベは自分のアトリエでパーティーを催して戦争以外のことに関心を向けようとし、他方でエヴァに手紙を書いて心の支えにした。開戦の頃からタピオ・タピオヴァーラと交際したが、意見が異なったため関係は解消された。トーベは政治的な意見の違いでヴィクトルと対立し、1942年には口論が原因でヴァンリッキ・ストール通り3番地にアトリエを借り、家族と離れて住んだ。 1943年には哲学者で政治家のアトス・ヴィルタネン(フィンランド語版)と知り合い、交際した。

パリ生活をヒントにして芸術家の暮らしを書いた短編「あごひげ」などの作品が好評を呼び、トーベの名は次第に知られていった。また、『ガルム』誌の風刺画はヒトラーやスターリンも題材にして、風刺画家として人気を呼んだ。のちのムーミンとなるキャラクターも『ガルム』で1943年に初登場した(後述)。親戚や友人に会うことを避け、戦意高揚的なものからは距離を置いて制作に集中した。空襲対策の灯火制限の中でも制作を続け、1943年にはレオナルド・バックスバッカのギャラリーで最初の個展を開き、戦時中に80点以上の絵画を売った。1944年にはウッランリンナ(フィンランド語版)1番地のアトリエに移った。トーベは塔のように天井が高いアトリエに満足し、このアトリエを生涯を通して使うことになった。イラストをはじめとして多くの仕事を手がけたが、経済的には苦しく、この状況はムーミン・コミックスの連載が始まるまで続いた。

トーベは以前からスノークと呼んでいたキャラクターを、1944年春にムーミントロールとしてあらためて物語に書いた。原稿を読んだアトスは好意的なコメントをして、5月になるとトーベは原稿をセーデルストレム社に持ち込んだ。1945年に最初のムーミンの物語が『小さなトロールと大きな洪水』という書名で出版され、スウェーデンでもハッセルグレン社から出版された。フィンランドではトーベは有望な芸術家とみなされていたが、『小さなトロールと大きな洪水』の出版時に書評をしたのはグールドン・モーネだけだった。スウェーデンでは『小さなトロールと大きな洪水』は注目されなかった。当地では同年に出版されたアストリッド・リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』が人気を呼んでおり、戦争の影響がない『ピッピ』に対して、『小さなトロール』は戦争の影響が見て取れるため系統が違うと解釈されたのが原因だった。

ムーミンの物語はトーベの励みになり、2作目の執筆を始める。トーベはアトスとともに彼の故郷のオーランド諸島を訪ねて、北部のサルトヴィーク(英語版)で1945年の夏をすごし、オーランドの風景をムーミンの世界に活かした。当初のタイトルは『ムーミントロールと恐怖の彗星』で、アトスはトーベの草稿に肯定的なアドバイスを書き、トーベは執筆に熱中した。1946年秋に2作目が『彗星追跡』(のちの『ムーミン谷の彗星』)というタイトルで出版された頃には、トーベは3作目の『たのしいムーミン一家』の執筆を始めていた。1946年の秋には、演出家のヴィヴィカ・バンドレル(英語版)と出会った。トーベにとってヴィヴィカは初の同性の恋人となった。トーベはヴィヴィカによって絵が豊かになり、無駄な名誉欲から解放されたと感じた。

『彗星追跡』もセーデルストレム社で出版されたが、初版の売り上げは芳しくなく続編が検討されなかったため、『たのしいムーミン一家』の原稿はシルツ社に持ち込んだ。1947年10月からは最初のムーミン・コミックスにあたる『ムーミントロールと地球の終わり』の連載を『ニュー・ティード(英語版)』誌で始めた。連載は1948年4月まで掲載されて好評となり、書籍のファンも増えていった。3作目の『たのしいムーミン一家』は1948年のクリスマス商戦で出版され、スウェーデンでは1949年にフーゴ・イェーベル社が出版し、多くの評論家が高く評価した。1950年には『たのしいムーミン一家』の英訳がイギリスのベン社から出版され、1951年にはアメリカでも出版された。イギリスの新聞『イブニング・ニュース(英語版)』はムーミンの連載漫画を申し出て、経済的な利点を重視したトーベは契約を交わした。1954年に連載が始まったムーミン・コミックスは世界的に読まれるようになった。スウェーデンやイギリスで人気が出た影響を受けて、フィンランド語への翻訳も進んだ。しかしムーミン・コミックスは連載の重圧や他の活動との掛け持ちのためトーベにとって苦痛となり、弟のラルスが1960年から1975年まで連載を引き継いだ。

1958年にヴィクトルが亡くなった。『ムーミンパパ海へいく』(1965年)は「ある父親に捧げる」と書かれており、ヴィクトルを指している。1970年にシグネが亡くなり、以前から執筆を進めていた『ムーミン谷の十一月』(1970年)を発表した。小説としてのムーミン・シリーズは終了し、以後のトーベは大人向け小説の執筆を続ける。

トーベは1947年からブレッドシャール島で夏をすごすようになった。ラルスの協力で「風配図」と呼ぶ小屋を建て、旗にはムーミンを描いた。島の暮らしはトーベに平安をもたらしたが、次第に住む人数が増えて手狭になった。1955年にフィンランド芸術協会のクリスマスパーティでトゥーリッキ・ピエティラと出会い、1956年にトゥーリッキはブレッドシャール島のトーベの住まいを訪れた。トーベとトゥーリッキは芸術の方向性が異なっていたが人生の価値観は共通しており、同棲生活を始めた。2人とも手作業を好み、旅行やビデオ撮影、のちには縮尺模型を共通の趣味とした。ムーミンの人気によってブレッドシャール島への記者やファンの訪問が増えると、トーベとトゥーリッキは離れ小島のクルーヴ島(フィンランド語版)(小さな小さな獣の爪岩島)に小屋を建てて移り住んだ。2人は夏をクルーヴ島ですごし、冬はヘルシンキのアトリエで寝泊まりしながら制作した。

画業では1960年に再出発を決め、絵画作品の署名は「Tove」から「Jansson」に変えた。執筆業では大人向けの小説が増え、最初の短編小説集『聴く女』(1971年)から1980年代にかけて長編小説3冊と短編小説集5冊を発表した。それまでの作品を演劇、映画テレビ、ラジオなどのメディアに合わせるための脚本も執筆した。1971年にはフジテレビ放送のアニメ『ムーミン』放映の仕事でトゥーリッキと来日し、その後世界一周旅行を続けた。1990年にはテレビ東京放送のアニメ『楽しいムーミン一家』の監修で来日した。

クルーヴ島での暮らしには不自由な点も多く、年齢による体力の変化も気がかりとなった。トーベとトゥーリッキは1992年に島を明け渡し、1965年から毎年続けてきた島の暮らしを終えた。1990年代に癌をわずらい、公の場に姿を見せたのは1994年にタンペレで開催された国際会議が最後となった。最後の作品として短編小説集『メッセージ』(1998年)を発表したのち、2001年にヘルシンキで死去した。

作品

芸術家としてのトーベのアイデンティティは、画家と作家の2つだった。職業を聞かれた時には画家と答えた。自分は個人主義者だとしばしば主張しており、集団の中で同じ方向を向くことは好まなかった。抽象画のような芸術の新しい流れや運動からは距離をおきながら、自分にとって正しい道を選ぼうとした。

トーベの活動には、働くという姿勢が一貫していた。12歳から書き始めた日記には「働く」という言葉が多く使われていた。ヘルシンキのアトリエでは、「創造」や「インスピレーション」という言葉の代わりに「働くこと」や「意欲」が語られた。

トーベが好んでいた芸術書として、フィレンツェの画家チェンニーノ・チェンニーニ(英語版)の『絵画術の書』がある。チェンニーニは刑務所の服役中にルネサンス絵画の手引書としてこの本を書き、フレスコ画やテンペラ画の筆づかいや彩色方法を解説している。また、チェンニーニは「40歳までに何かを成し遂げたなら、自分の手で伝記を書かなければならない」と書いており、『ムーミンパパの思い出』に活かされている。

ムーミン・シリーズが広まったのち、児童文学作家について書くことを編集者に打診されたトーベは、『偽者(エセ)児童文学作家』(1961年)というエッセイ集を発表した。講演をもとにした内容で、子供の感性や、クリエイティブであるために必要なことが書かれている。作家は書きたいという想いがあるから表現するのであり、子供の読者があるから書くのではないというトーベの作家論となっている。

ムーミン・シリーズ

ムーミンの原型となるキャラクターは雑誌『ガルム』の風刺画で1943年に初登場しており、当初の名前はスノークだった。スノークは夢や幻覚などファンタジーに関する文章とともに登場し、風刺画向けの怒った顔をしていた。1944年には『ガルム』以外の絵にもスノークが登場して、作家のサインとしての役割も果たした。1945年8月にトーベは「私の新しい肩書きはスノーク夫人」と書き、『ガルム』のクリスマス号でスノーク姿の自画像を描いた。1952年のインタビューによれば、ムーミントロールという名前は、トーベが16歳の時に叔父のエイナルから聞いた話がもとになっている。

ムーミンの物語は文章と挿絵をともにトーベが手がけ、著者、挿絵画家、デザイナーの全てを自分の役割とした。切り貼りでサンプル本を作り、バランスを見ながら指定を書き込み、絵に番号をつけて配置を指定した。レイアウトではページ構成と絵の配置、文章と余白部分を検討した。ムーミン絵本の『それからどうなるの?』では幼少期の体験をもとに仕掛け絵本を作り、これもレイアウトと製本作業の指示を全て行った。

トーベはムーミンの舞台化やテレビ化にも関わった。初の戯曲は、1949年にヴィヴィカのすすめで執筆した『ムーミントロールと彗星』の舞台版だった。フィンランドではイルッカ・クーシスト作曲のムーミン・オペラが1974年に国立オペラ劇場で上演され、スウェーデンでは1982年にストックホルム王立ドラマ劇場で冒険劇が上演された。舞台監督はヴィヴィカが務めた。スウェーデンのテレビ番組用の脚本も執筆した。1965年にはトーベ作詞、エルナ・タウロ(英語版)作曲の "Höstvisa" (フィンランド語 "Syyslaulu" 、日本語で『秋の歌』) がフィンランド国営放送音楽賞で3位を受賞した。

トーベにとってムーミンの物語は、戦争中に自分の楽しみとして始めた趣味だった。しかし、ムーミン・コミックスのヒットによって絵画に使える時間が減ると、人々の期待とのバランスを取ることが悩みとなった。コミックス連載中の苦労については、のちに短編小説「連載漫画家」(『メッセージ』収録)で題材にした。

絵画、イラスト

小さい頃からスケッチブックや日記に家族や自分を描いた。トーベが展示した最初の作品は自画像で、1933年のヘルシンキで開催されたユーモリスト展で発表した。アテネウム時代に描いた『藤の椅子に座る自画像』(1937年)では、背後の壁に絵がかけられており、イーゼルがあり、画家としてのアイデンティティが強調されている。戦争をきっかけに家族から離れた1940年代に最も多数の自画像を描いており、『毛皮の帽子をかぶった自画像』(1941年)、『オオヤマネコの襟巻きの自画像』(1942年)などがある。画家としての再出発の際にも、手始めに自画像『初心者』(1959年)を描いている。1975年の最後の展示会でも自画像を発表した。

家族や友人、パートナーの肖像も描いた。エヴァ・コニコフの肖像画のように、買い取られないように高値をつけることもあった。戦争中のヤンソン家を描いた『家族』(1942年)という作品もあるが、のちに自ら失敗作として評価している。

『ガルム』誌で描いた風刺画は人気を呼び、フィンランドでは一流の風刺画家としても知られた。『ガルム』の編集者ヘンリー・レイン(フィンランド語版、スウェーデン語版)との仕事は良好で、トーベは約24年間この雑誌に関わって表紙画を100枚、風刺画や挿絵を500枚ほど制作した。

1938年のミュンヘン会議をテーマにした絵では、ヒトラーを甘やかされた子供として描き、民族主義者の抗議を呼んだ。ソビエト連邦を風刺した1940年の絵では、スターリンに似た顔の兵士が検閲を受け、修正させられた。1944年のラップランド戦争をテーマにした絵では、複数のヒトラーがラップランドの街で略奪や破壊をしている。日本への原子爆弾投下から1年後の1946年8月には、核戦争を暗示する世界から平和の天使が去っていく絵を描いた。

トーベの作風は過激とみなされて検閲にかかった時もあったが、トーベ自身は『ガルム』の仕事で良かった点として、ヒトラーやスターリンに対して悪態をつけたことを挙げている。トーベは仕事が早く、『ガルム』で培われた技術は、他の新聞や雑誌の仕事にもつながった。

第二次大戦後のヨーロッパでは、公共空間に芸術作品を展示するパブリック・アートの活動が起こった。トーベはパブリック・アートの技法を学んでおり、多くの依頼を受けた。1947年にヘルシンキ市庁舎の地下に2点のフレスコ画『田舎のパーティー』と『都会のパーティー』、1949年にはフィンランド南部のコトカの幼稚園で7メートルの壁画を描いたほか、レストラン、社員食堂、工場、ホテル、学校、小児科病院などで制作した。最盛期は1953年で、その後70歳になっても描いた。『田舎のパーティー』と『都会のパーティー』には、当時の恋人ヴィヴィカとトーベ自身をモデルにした人物や小さなムーミンも描かれている。

1958年にルイス・キャロルの『スナーク狩り』のスウェーデン語版の挿絵を描いた。トーベはこの作品を難解だけれど面白いと評価し、原作の詩だけを読み、他の挿絵を参考にせずに制作した。1965年にキャロルの『不思議の国のアリス』の挿絵を依頼されると、トーベは素晴らしい物語だと評価してホラー仕立てにする提案をした。トーベはキャロルの作品にはホラー的な要素があると考えていたが、出版社に反対された。

1961年にはトールキンの『ホビットの冒険』のスウェーデン語版の挿絵を描いた。これはアストリッド・リンドグレーンからの依頼がきっかけだった。トーベはトールキンの作品にもホラーの要素を見出して魅力的だと考えたが、トーベの表紙案は子供向けではないと出版社が反対し、修正に応じた。できあがった本は結果的に注目されず、後年に挿絵は批判も受けた。トーベは、他の作家の挿絵なら誰の作品を描きたいかという質問で、エドガー・アラン・ポーと答えている。

1960年代に画家として再出発をした際は、自然主義的な写実画から次第に変化していった。1950年代から1960年代のフィンランドでは抽象絵画が流行しており、1961年の国際展ではほとんどがアンフォルメルの作品の中で、トーベは静物画を出展した。写実画のスタイルを保ちつつも、次第に抽象化を進めていった。積極的に個展を開き、1960年から1970年までに5回の個展と1回の共同展を行った。

物語・小説

トーベは自分の物語に人気がある理由として、「スクルット(ひとりぼっち)」について書いているからではないかと語っている。スクルットとは、どこにいても居心地が悪く、人の輪の外に立っている恥ずかしがり屋を指す。人間は幸せな時もどこかに恐怖感があり、それを認めることでシンプルな世界や穏やかな心を手に入れたり、恐れる気持ちを楽しむことができるとトーベは考えていた。そのためトーベの物語には不安や脅威が描かれている。当時は子供向けと大人向けの本が分かれていたが、トーベの作品は児童書として出版したムーミン・シリーズも大人が読んで楽しめる内容になっており、出版社が戸惑うこともあった。

子供時代の1921年から1924年の間に作った本は14冊が残っており、番号が振られていて、作者名としてトーベ・マリカ・ヤンソンと書いてある。内容はおとぎ話やファンタジー、聖書風の設定や、お化けやぞっとするような出来事が多い。7歳で書いた『プリックはあっという間に息を引き取る』(1921年)は、プリックという犬の病気と死の話だった。『青い騎士』という本の裏表紙には、「トーベの少年少女向け作品」という刊行予定の作品リストがついていた。

1934年に初の短編小説「大通り」を発表したのち、1〜2年に1作のペースで短編を書き続けた。1970年代から大人の読者を想定した物語を執筆し、初の小説集『聴く女』(1971年)を発表した。1970年代以降の小説には孤独や老い、精神の暗部やサスペンス、スリラーも描かれており、ムーミンでは描けなかったことやさらに発展させた内容が含まれている。

長編小説としては『誠実な詐欺師』(1982年)、『石の原野』(1984年)、『フェアプレイ』(1984年)の3冊を発表した。『誠実な詐欺師』は女友達との奇妙な関係、『石の原野』は新聞記者だった男の物書きについての苦悩、『フェアプレイ』は芸術家の関係をもとに共同生活の難しさを描いた。1970年代以降の小説には女性や男性の同性愛がしばしば描かれ、特別ではないこととして扱われている。

自伝的作品

トーベは自伝そのものは書かず、自伝的な作品として、『彫刻家の娘』(1968年)や『島暮らしの記録』(1993年)を発表した。『彫刻家の娘』は子供時代を中心とした内容で、書名にある彫刻家とは父ヴィクトルを指す。『島暮らしの記録』はトゥーリッキとのクルーヴ島での暮らしが書かれており、トゥーリッキが挿し絵を描いた。

1970年代から1990年代にかけてトゥーリッキとヤンソンが撮影した映像をもとにした映像作品として、『Matkalla Toven kanssa(トーベ・ヤンソンの世界旅行)』(1993年)、『Haru – yksinäisten saari(ハル、孤独の島)』(1998年)、『トーベとトゥーティの欧州旅行(Tove ja Tooti Euroopassa)』(2004年)のドキュメンタリー3部作がある。

模型

トーベとトゥーリッキは、ムーミン世界の模型を作った。きっかけは医師のペンッティ・エイストラが趣味で作ったムーミン屋敷のミニチュア模型を見せたことだった。2人はより大きなムーミン屋敷の模型に取りかかり、夏はクルーヴ島で作業をした。3年間をかけて2メートルの模型を完成させ、各地の展示会をめぐった。木工が得意なトゥーリッキはその後も制作し、ムーミン・シリーズの41の場面が模型になった。この屋敷は短編小説「人形の家」や、写真絵本『ムーミンやしきはひみつのにおい』のもとになった。

制作環境

制作ノート

制作において詳細なノートを作った。絵画の制作ノートでは、1930年代のスケッチブックに「金の皮と皮の染色」というタイトルで皮革の染色について書かれている。羊皮紙、ステンドグラスや特殊な素材、テキスタイル、油彩についての覚書もある。1943年のノートには「素材」というタイトルでバレットの手入れや、フレスコ画の技法について書いている。

登場人物の登場の仕方や変化の仕方、展開などもノートに記録した。たとえば『ムーミンパパ海へ行く』の準備では、風向きが変わる時間や鳥の渡りについて書いている。絵本『それからどうなるの?』では印刷技術の指示、色の組み合わせについて書いている。

アトリエ

1944年から約60年間にわたって使ったウッランリンナ1番地の住宅兼アトリエは、ビルの最上階の角部屋にあり、天井は約7メートルあった。トーベはこのアトリエを気に入って多額の借金をして買い取り、絵画制作やムーミン・コミックスの連載によって返済した。かつてトーベが絵画を学んだハーゲルスタムが使っていた場所でもあり、トーベが入居した時期にはすでにハーゲルステムは戦死していた。

1960年頃にアトリエの改装をおこない、パートナーだったトゥーリッキの弟夫妻であるレイマとライリ・ピエティラ(英語版)が設計した。高窓の下にベンチを置き、天井に欄干を渡して吊り戸棚やロフトを追加した。螺旋階段は鏡がある部屋に続き、寝椅子、本棚、キャビネットがあった。アトリエ部分にはベンチ、テーブルと本棚、絵画や父ヴィクトルの彫刻、模型などが置かれた。キッチンとバスルームのどちらかしか置けず、トーベはバスルームを選んだ。改装が終わる頃にトゥーリッキが隣の建物に引っ越してきたので、アトリエとトゥーリッキの部屋を屋根裏の通路でつないだ。窓からはヘルシンキの海が見え、ロフトにベッドを置いていた。トーベは昼間から強い酒とタバコをたしなんでいたという。

クルーヴ島の小屋では、1964年から1992年まで毎年の夏をトゥーリッキと暮らした。レイマとライリ・ピエティラが設計し、トゥーリッキが木材関係、トーベが石材関係を分担して建てた。ワンルームと地下室があり、2人はムーミンのパペット・アニメのための模型や人形を小屋で制作した。

蔵書

ヤンソン家には、シグネの仕事の影響もあり蔵書が豊富だった。子供時代のトーベはセルマ・ラーゲルレーフ『ニルスのふしぎな旅』やルイス・キャロル、エルサ・ベスコフを読んだ。トーベは冒険譚が好きでラドヤード・キップリングの『ジャングル・ブック』を特に好んだ。子供時代に書いた物語『見えない力』は、ジュール・ヴェルヌやコナン・ドイル、エドガー・ライス・バロウズらにヒントを得ている。大人向けの作品では、エドガー・アラン・ポーの恐怖小説を9歳の時に読み、他にヴィクトル・ユーゴー、トーマス・ハーディー、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジョセフ・コンラッドなどを読んだ。

トーベは蔵書票を自分でデザインし、職業、性別、情熱、海、錨などをシンボルとして描いた。ラテン語で「LABORA ET AMARE」と書かれており、文法的に正確ではないものの「働け、そして愛せよ」というメッセージだった。

手紙

トーベは読者から届く手紙に全て目を通し、自分で返事を書いた。時間はかかったが、返事を書かない方が負担になると考えていた。手紙のやりとりは、「文通」「クララからの手紙」「メッセージ」(いずれも『メッセージ』収録)などの小説の源泉にもなった。最多では年間2000通に達した。

2024/07/03 03:37更新

Tove Jansson


トーベ=ヤンソンと同じ誕生日8月9日生まれの人

石田 敦子_(漫画家)(いしだ あつこ)
1963年8月9日生まれの有名人 広島出身

石田 敦子(いしだ あつこ、1963年8月9日 - )は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、漫画家、イラストレーター。広島県福山市出身、血液型A型。 高校1年生当時、安彦良和が描いたイラ…

松本 典子_(女優)(まつもと のりこ)
1935年8月9日生まれの有名人 東京出身

松本 典子(まつもと のりこ、1935年(昭和10年)8月9日 - 2014年(平成26年)3月26日)は、日本の女優。本名、清水 和子(しみず かずこ)。夫は劇作家の清水邦夫。 東京出身。劇団俳…

大橋 和也(おおはし かずや)
【なにわ男子】
1997年8月9日生まれの有名人 福岡出身

大橋 和也(おおはし かずや、1997年〈平成9年〉8月9日 - )は、日本のアイドル、俳優。男性アイドルグループ・なにわ男子のメンバーでリーダー。愛称は、はっすん。 福岡県出身。STARTO EN…

北村 悠(きたむら ゆう)
【FLAME】
1985年8月9日生まれの有名人 栃木出身

日本映画『Wednesday 〜アナザーワールド〜』 北村 悠(きたむら ゆう、1985年8月9日 - )は、栃木県小山市出身の日本の俳優・歌手。 小山市立小山城東小学校を経て、小山市立小山第三…

賀川 太郎(かがわ たろう)
1922年8月9日生まれの有名人 兵庫出身

賀川 太郎(かがわ たろう、1922年8月9日 - 1990年3月6日)は兵庫県神戸市出身の元サッカー選手。 神戸一中(現・県立神戸高校)、神戸経済大学(現・神戸大学)を経て、1948年に田辺製薬…

篠田 潤子(しのだ じゅんこ)
1965年8月9日生まれの有名人 東京出身

篠田 潤子(しのだ じゅんこ、1965年8月9日 - )は日本の社会心理学博士。フリーアナウンサー、ラジオパーソナリティ、タレント。元テレビ朝日アナウンサー、元慶應義塾大学文学部非常勤講師、元東京通信…

千野 志麻(ちの しお)
1977年8月9日生まれの有名人 静岡出身

千野 志麻(ちの しお、1977年8月9日 - )は、静岡県沼津市出身のフリーアナウンサー、タレント。元フジテレビジョンアナウンサー。身長167センチメートル。 不二聖心女子学院中学校・高等学校、…

松尾 由美子(まつお ゆみこ)
1979年8月9日生まれの有名人 宮崎出身

松尾 由美子(まつお ゆみこ、1979年8月9日 - )は、テレビ朝日アナウンサー。 宮崎県宮崎市出身。父親の仕事の都合で、幼少時代に一年間ほど家族でニューヨークとオックスフォードで暮らしたことも…

山本 紘之(やまもと ひろゆき)
1988年8月9日生まれの有名人 千葉出身

山本 紘之(やまもと ひろゆき、1988年8月9日 - )は、日本テレビのアナウンサー。 中学1年からサッカーを始め、柏レイソルのユースに所属(高校3年の時の2年後輩に、のちにサッカー日本代表とな…

桜井 洋子(さくらい ようこ)
1951年8月9日生まれの有名人 新潟出身

桜井 洋子(さくらい ようこ、1951年8月9日 - )は、NHKの元エグゼクティブアナウンサー(局長級)。現在は嘱託職。 新潟県上越市出身。新潟県立高田高等学校を経て、1975年に明治大学文学部…

藤原 夏姫(ふじわら なつき)
8月9日生まれの有名人 北海道出身

藤原 夏姫(ふじわら なつき、8月9日 - )は、北海道札幌市 出身の日本の声優、グラビアアイドル、コスプレイヤー。メイド喫茶「@ほぉ〜むカフェ」の元メイド。趣味はコスプレ、美少女観察、百合アニメ鑑賞…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


トーベ=ヤンソンと近い名前の人

ベティ=ストーブ(Betty Stove)
1945年6月24日生まれの有名人 出身

ベティ・ストーブ(Betty Stöve, 1945年6月24日 - )は、オランダ・ロッテルダム出身の元女子プロテニス選手。1977年のウィンブルドン準優勝者で、4大大会女子ダブルス6勝・混合ダブル…

ロバート=オーバーマイヤー(Robert Overmyer)
1936年7月14日生まれの有名人 出身

7月14日生まれwiki情報なし(2024/07/02 14:39時点)

ランヒルト=ヘーゲル(Ragnhild Tove Hveger)
1920年12月10日生まれの有名人 出身

12月10日生まれwiki情報なし(2024/06/23 13:06時点)

フランク=トーマス_(アニメーター)(Frank Thomas)
1912年9月14日生まれの有名人 出身

フランク・トーマス(Franklin "Frank" Thomas、1912年9月5日 - 2004年9月8日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州フレズノ出身のアニメーター。ウォルト・ディズニー・プロ…

工藤 えみ(くどう えみ)
1993年2月7日生まれの有名人 出身

工藤 えみ(くどう えみ、1993年2月7日 - ) は、日本の女性ファッションモデル、歌手。フロント所属。 大分県竹田市で生まれ、5歳の時に大分市に移住。 2007年より地元大分で学生情報誌『…

モトーラ 世理奈(もとーら せりな)
1998年10月9日生まれの有名人 東京出身

モトーラ 世理奈(モトーラ せりな、Serena Motola、1998年10月9日 - )は、日本のファッションモデル、女優、歌手。 東京都出身。東京都立石神井高等学校卒業。ボックスコーポレーショ…

トーマス サリー(本名:さりー・れな・とーます)
1985年6月27日生まれの有名人 兵庫出身

トーマス サリー(本名:サリー・レナ・トーマス、1985年6月27日 - )は、日本のフリーアナウンサー。ノースプロダクション所属。元テレビ神奈川(tvk)の契約アナウンサーおよび元静岡第一テレビのア…

湯川 トーベン(ゆかわ とーべん)
1953年9月4日生まれの有名人 東京出身

湯川トーベン(ゆかわトーベン、1953年9月4日 - )は日本のミュージシャン、ベーシスト。東京都出身。ミュージシャンの湯川潮音は娘。 子供ばんどを経て、遠藤賢司バンド(エンケンバンド)・フォークロ…

伊藤麻希(いとう まき)
【LinQ】
1995年7月22日生まれの有名人 福岡出身

伊藤 麻希(いとう まき、1995年(平成7年)7月22日 - )は、日本のアイドルタレント、女子プロレスラー。東京女子プロレスに定期参戦。NEO伊藤リスペクト軍団リーダー。本名は非公開。 7月、…

オトーヌ=パヴィア(Automne Pavia)
1989年1月3日生まれの有名人 出身

オトーヌ・パヴィア(Automne Pavia、1989年1月3日 - )は、フランスの柔道選手。階級は57kg級。身長173cm。得意技は大外刈。2段。 ソンム県ペロンヌの出身。父親が柔道の指導…

パニー・ヤートートゥー(らーお語: ປານີ ຢ່າທໍ່ຕູ້ / Pany Yathortu, )
1951年2月18日生まれの有名人 出身

パニー・ヤートートゥー(ラーオ語: ປານີ ຢ່າທໍ່ຕູ້ / Pany Yathortu, 1951年2月18日 - )はラオスの政治家。ラオス人民革命党政治局員。中央銀行総裁、国民議…

トーマス=フィンケ(Thomas Fincke)
1561年1月6日生まれの有名人 出身

トーマス・フィンケ(Thomas Fincke、1561年1月6日 - 1656年4月24日)は、デンマークの数学者、物理学者。60年以上にわたりコペンハーゲン大学の教授を務めた。 シュレースヴィ…

ケルビン=トーベ(Kelvin Torve)
1960年1月10日生まれの有名人 出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート ケルビン・カーティス・トーベ(Kelvin Curtis Torve, 1960年1月10日 - )は、アメリカ合衆国・サウスダコタ州…

トーマス=アルスゴール(Thomas Alsgaard)
1972年1月10日生まれの有名人 出身

トーマス・アルスゴール(Thomas Alsgaard、1972年1月10日 - )は、ノルウェー、アーケシュフース県Flateby出身の元クロスカントリースキー選手。1990年代から2000年代にか…

トーマス=J=ワトソン Jr.(Thomas John Watson,Jr.)
1914年1月14日生まれの有名人 出身

1月14日生まれwiki情報なし(2024/06/30 06:09時点)

ビクトール=バルデス(Victor Valdes Arribas)
1982年1月14日生まれの有名人 出身

ビクトル・バルデス・アリーバス(Víctor Valdés Arribas スペイン語発音: [ˈbiktoɾ βalˈdes aˈriβas]、 1982年1月14日 - )は、スペイン・…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
トーベ=ヤンソン
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

WEST. GALETTe FLAME Travis Japan GEM BABYMETAL Da-iCE HEADS 放課後プリンセス さんみゅ~ 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「トーベ=ヤンソン」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました