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ビル=ラッセルの情報 (WilliamFelton“Bill”Russell)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

ビル=ラッセルの情報(WilliamFelton“Bill”Russell) バスケットボール 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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ビル=ラッセルさんについて調べます

■名前・氏名
ビル=ラッセル
(読み:William Felton “Bill” Russell)
■職業
バスケットボール
■ビル=ラッセルの誕生日・生年月日
1934年2月12日 (年齢90歳)
戌年(いぬ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和9年)1934年生まれの人の年齢早見表

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ビル=ラッセルの情報まとめ

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ビル=ラッセル(William Felton “Bill” Russell)さんの誕生日は1934年2月12日です。

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個人成績、コーチキャリアなどについてまとめました。引退、卒業、事件、病気、現在、テレビ、離婚に関する情報もありますね。ビル=ラッセルの現在の年齢は90歳のようです。

ビル=ラッセルのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

選手時代

11×NBAチャンピオン:1957, 1959-1966, 1968, 1969

5×MVP:1958, 1961-1963, 1965

12×NBAオールスター:1958-1969

オールスターMVP:1963

オールNBAチーム

    3×1stチーム:1959, 1963, 1965

    8×2ndチーム:1958, 1960-1962, 1964, 1966-1968

    オールディフェンシブ1stチーム:1969

    4×リバウンド王:1958, 1959, 1964, 1965

    NBA25周年オールタイムチーム:1971

    NBA35周年オールタイムチーム:1980

    NBA50周年オールタイムチーム:1996

    NBA75周年オールタイムチーム:2021

    2×NCAAチャンピオン:1955, 1956

    NCAAトーナメントMVP:1955

    2×ヘルムズ年間最優秀選手:1955, 1956

    2×オールアメリカ1stチーム:1955, 1956

    No. 6 ボストン・セルティックス永久欠番

    No. 6 NBA全チーム永久欠番

    No. 6 サンフランシスコ大学永久欠番

    大統領自由勲章 : 2011

    コーチ時代

    2×NBAチャンピオン:1968, 1969

    ビル・ラッセル(Bill Russell)ことウィリアム・フェルトン・ラッセル(William Felton Russell, 1934年2月12日 - 2022年7月31日)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州モンロー出身の元プロバスケットボール選手。1950年代から1960年代にかけてNBAで活躍した伝説的選手であり、ボストン・セルティックスを11回の優勝に導いたことで知られる。恵まれた身体能力と抜群のバスケセンスを武器にリバウンドやブロックショットで才能を発揮し、特にディフェンスの側面では競技に革新的な影響をもたらしたとされ、しばしば歴代最高のディフェンダー、延いては史上最も偉大なバスケットボール選手の一人にあげられる。自身の死去の際、アダム・シルバーは「私は彼を、時間を超越したバスケットボール界のベーブ・ルースとよく呼んでいました」と惜しみない賛辞を贈った。

    サンフランシスコ大学時代に全米大学トーナメント(NCAAトーナメント)を連覇、1956年メルボルンオリンピックでは金メダルを獲得し、NBAファイナルは八連覇を含む11回の優勝と当時のアメリカバスケットボール界の主要タイトルを全て制覇しており、特にNBAファイナルは彼のNBAキャリア13年の間で優勝を逃したのはわずか2回のみで、古今あらゆるNBA選手の中で彼以上にチャンピオンリングを持っている者は存在しない。個人でもNBAオールスターゲーム出場12回、シーズンMVP5回、オールNBAチーム選出11回。ディフェンスに長けた選手だったが、当時は守備関連の賞が充実していなかったためオールディフェンシブチーム選出は1回のみ、またファイナルMVPも彼が引退する年に創設されたため受賞することはなかったが、2009年にはラッセルの功績を讃えてファイナルMVPは彼の名を冠した「ビル ・ラッセル・NBAファイナルMVP賞(Bill Russell NBA Finals Most Valuable Player Award)」と改名された。NBA25周年、35周年、50周年に発表されたオールタイムチーム全てに名を連ね、1975年にはバスケットボール殿堂入り、2007年にはFIBAバスケットボール殿堂入りを果たした。背番号『6』はボストン・セルティックスの永久欠番となっていたが、2022年にはNBAの全チームで永久欠番となった。

    現役最後の3年間は選手兼コーチとしてセルティックスを指揮し、現役引退後もシアトル・スーパーソニックス、サクラメント・キングスのヘッドコーチを歴任した。

    ラッセルの功績の中で特筆すべき点として、11回の優勝に代表される選手としての功績だけでなく、当時リーグの内外で蔓延していた人種差別に毅然と立ち向かい、アフリカ系アメリカ人選手の地位を向上させた公民権運動家としての功績があげられる。ラッセルは黒人初のNBAスター選手であり、またアメリカ四大メジャースポーツ初の黒人ヘッドコーチだった。一方でマスメディアとは険悪な関係が長年続いた。

    ビル・ラッセルことウィリアム・フェルトン・ラッセルが生まれたルイジアナ州ウェストモンローは厳格な人種隔離政策が敷かれていた地で、幼い頃のラッセルの身近にも様々な人種差別が取り巻いていた。ラッセルが8歳の頃、周囲の多くの黒人が第二次世界大戦中のこの時期に職を求めてオークランドに移住したのに倣い、ラッセル一家もオークランドに引っ越したが、この移住計画は上手くいかず、一家は貧困に陥り、ラッセルは幼少期の大半を低所得者向けの公営住宅で過ごした。ラッセルが12歳の時には母が亡くなり、彼は悲しみに暮れたが、父、チャーリー・ラッセルは製紙工場管理人、トラック運転手、製鉄所工員と職を転々としながらも一家を支え、幼い頃のラッセルのヒーローとなった。

    後に偉大なバスケットボール選手となるラッセルだが、少年時代のラッセルはあまり将来有望なバスケ選手には見えなかった。走力も跳躍力もあり、バスケには有利な大きな手も持っていたが、試合に対する理解度が足りず、中学時代はチームから追い出された。マククライモンズ高校2年の時にもチームから追い出されかけたが、コーチのジョージ・パウルスがラッセルの才能を見出し、彼に基礎から取り組むよう奨励した。白人の口からは差別的な発言しか聞いたことがなかったラッセルは、白人コーチの教示を喜んで受け入れた。ラッセルは熱心に練習に励み、後にバスケット界に革命をもたらすことになるディフェンススタイルの基礎を学んでいくことになるが、高校在学中の間に彼の才能が開花することはなく、無名選手のまま高校卒業の時期を迎えた。なお、高校時代のチームメイトに後のアメリカ野球殿堂入り選手、フランク・ロビンソンがいる。また当時のラッセルの憧れのバスケット選手はジョージ・マイカンであり、高校在学中には面会する機会も与えられた。

    地元のサンフランシスコ大学(USF)のハル・デ・ジュリオが高校の試合でラッセルを目撃するまで、ラッセルは全くの無名選手であり、彼のもとには一つの勧誘の話もこなかった。ラッセルはジュリオの目にでさえ、得点能力に乏しく、根本的に酷い、と映ったが、ジュリオはラッセルが特にクラッチタイムにおいては素晴らしい才能を発揮することを発見し、彼に奨学金の提供を申し入れた。ジュリオによるラッセル発掘は、ラッセルの人生の分水嶺となった。

    USFのバスケットコーチ、フィル・ウールパートはラッセルを先発センターに抜擢。ウールパートが標榜するディフェンスに主眼を置いたハーフコートバスケットはラッセルの燻っていた才能を大いに引き出すことになる。またウールパートは皮膚の色に頓着しないコーチで、USFの先発にはラッセル、そしてラッセルの生涯の盟友となるK.C.ジョーンズ、ハル・ペリーの3人の黒人選手がいた。

    ウールパート指導のもと、ラッセルが確立したプレイスタイルは当時は非常に珍しいものだった。ラッセルは本来守るべき敵チームのセンターを常にはマークせず、積極的に前へ出てヘルプディフェンスに回った。センターが主な得点源だった当時のバスケットにおいてセンターをフリーにすることは自殺行為に等しかったが、センターとしての長身にガード並みの脚力を備えるラッセルは、この戦術により彼の生涯最大の武器となるブロックショットを身に付け、敵チームの大きな脅威となり、ラッセルは瞬く間にカレッジバスケ界の新星となった。ある試合でラッセルがホーリークロス大学のスター選手で、後にボストン・セルティックスでチームメイトとなるトム・ヘインソーンを無得点に抑えた時は、メジャースポーツ誌、『スポーツ・イラストレイテッド』は「もしラッセルがシュートを打つことを覚えたならば、ルールを書き換えなければならなくなる」とラッセルの能力を絶賛した。

    バスケットの才能を一気に開花させたラッセルだったが、大学生活においても人種差別の問題に直面した。黒人選手を多く擁するUSFは彼らがただ黒人という理由だけで常に嘲笑の対象だった。一つの顕著な例として1954年のNCAAトーナメントで、訪れた町のホテルではUSFの選手のうち黒人選手だけ宿泊を拒否されたため、白人選手も含めた全員が宿泊を取りやめ、閉校された大学の寄宿舎に泊まった。辛い出来事ではあったが、この事件がかえってUSFの結束を強め、USF男子バスケットボールチームの黄金期を築くことになる。

    インサイドにラッセル、ペリメーターにやはり優秀なディフェンダーだったガードのK.C.ジョーンズを擁するUSFは無敵を誇り、1955年から1956年にかけて55連勝を飾り、NCAAトーナメントも連覇した。特にゴール下に陣取るラッセルのディフェンス技術は全米のカレッジバスケ界に轟き、伝説的なコーチ、ジョン・ウッデンは「私が出会った中で最も偉大なディフェンシブマン」と評した。ラッセルのUSFでの3年間の成績(当時は1年生は公式試合には出場できないので、2年生から4年生までの成績が公式記録となる)は、平均20.7得点20.3リバウンドだった。

    大学時代はその身体能力を活かして陸上選手としても活躍した。440ヤード(402m)走では49.6秒を記録。走高跳では『トラック&フィールド・ニュース』誌において1956年の世界ランキング7位にランクされ、同年にはアマチュア・アスレチック・ユニオンの複数の大会で優勝し、うち一つの西海岸競技大会では彼の自己ベストとなる206cmを記録している。

    大学を卒業する頃にはハーレム・グローブトロッターズからの勧誘を受けたが、ラッセルはNBAドラフトへのエントリーを決意した。

    1950年代前半のボストン・セルティックスはレッド・アワーバック指揮のもと、毎年アシスト王になっていたボブ・クージー、フリースローの名手だったビル・シャーマンと、リーグを代表する選手2人をバックコートに、インサイドにはやはりリーグを代表するセンターだったエド・マコーレーを擁し、プレーオフ常連のチームではあったが、優勝には程遠く、中堅チームとして長らく燻っていた。優勝するために最後のピースを探していたアワーバックにとって、カリフォルニア大学のビル・ラッセルは究極のチームプレイヤーのように見えた。ラッセルのタフネスとリバウンド力はセルティックスに欠けていたものだったのである。このアワーバックの考えは、当時のバスケ界では異端とされていた。当時のセンターはあくまでチームの主要な得点源であって、ディフェンスなどは二の次であった。

    ぜひともラッセルを欲したアワーバックだったが、セルティックスがラッセルを指名できる確率は低いように思えた。彼らがラッセルがエントリーした1956年のNBAドラフトで持っていた指名権はとても低いもので、彼らの順に回ってくるまでにラッセルが指名されずに残っている可能性はほぼ無かった。さらにアワーバックはセルティックスが持つ1巡目指名権を放棄し、地域指名でトム・ヘインソーンを指名する予定だったため、彼らがただ座して待っているだけでは、ラッセルを指名できるのは不可能だった。そこでアワーバックでは、ある取り引きを行うことでラッセルをまんまと手中に収める事に成功する。この取り引きは毎年指名権を巡って熾烈な駆け引きが行われるNBAドラフトの歴史において、最も巧妙な取り引きの一つとなり、またセルティックス史上、さらに史上類を見ない王朝チームを築き上げたという点においてはNBA史上最も重要な取り引きの一つとなる。

    まず、アワーバックはこの年の全体1位指名権を持つロチェスター・ロイヤルズはラッセルを指名しないと踏んだ。何故ならロイヤルズにはすでにモーリス・ストークスという屈強なビッグマンがいるためラッセルを指名する必要はなく、また彼らは優秀なシューティングガードを探しており、さらにラッセルの要求する25,000ドルの契約を払う気がなかったからである。そしてアワーバックが目を付けたのが2位指名権を持つセントルイス・ホークスだった。ホークスはラッセルを指名する予定だったが、彼らにはドラフト候補生以外でもう一人欲しい人材が居た。セルティックスのセンター、エド・マコーレーである。マコーレーはセントルイス生まれのセントルイス育ち、セントルイス大学の出身で、ホークスにとってはこの地元出身のスター選手を是非とも招き入れたかった。またマコーレー自身も病気がちの息子のためにセントルイスに帰りたいという希望を持っていた。相思相愛となったセルティックスとホークスは、ホークスにラッセルを指名してもらい、後にマコーレーとのトレードでラッセルがセルティックスに入団するという手はずを整えた。その後ホークスはセルティックスの足許を見てマコーレーに、クリフ・ヘイガン(セルティックスに指名された後2年間の兵役に就いていた為、NBAではまだプレイしていない)も加えるよう要求し、セルティックスはこの要求を渋々呑んで、ビル・ラッセルに対し、エド・マコーレーとクリフ・ヘイガンというトレードが仮成立した。

    そしてドラフト当日。1位指名権を持つロイヤルズは、アワーバックの目論見どおり、ラッセルではなくドゥケイン大学のシー・グリーンを指名。そしてホークスは約束通り、2位指名権を使ってラッセルを指名した。そして直後にセルティックスとのトレードが交わされ、ラッセルはめでたく、セルティックスに入団したのである。さらにセルティックスは当初の予定通りに1巡目指名権を放棄して地域指名によってトム・ヘインソーンを指名。さらに2巡目指名権を使ってラッセルと同じUSF出身であるK.C.ジョーンズを指名。アワーバックはたった1度のドラフトで、後に殿堂入りする選手3人を手に入れてしまったのである。

    アワーバックはラッセルを入団させるために多大な労力を払ったが、彼の選択はセルティックスにとっては最高の選択となり、そして他チームにとっては悪魔の選択となる。ラッセルのセルティックス入団により、ここにボストンに数々の栄光を、他の地にはそれと同数の挫折をもたらす王朝チームが完成したのである。なお、互いに満足のいく取り引きを行ったセルティックスとホークスだが、新シーズンを迎えると一転して激しいライバル関係を演じることになる。

    セルティックスにとっては待ち望んだラッセルの入団だが、彼らは暫くお預けを食らうことになる。ラッセルがアメリカ代表チームのキャプテンとして、1956年メルボルンオリンピックに出場したからである。オリンピックが開催される11月の時にはすでにセルティックスと契約を結んでいるため、国際オリンピック委員会からはもはやアマチュアではないラッセルの出場を問題視する意見もあったが、彼の出場は無事認められ、またラッセルにもセルティックスに新シーズン開幕から参加する選択もあったが、オリンピック出場を選んだ。なお、ラッセルはもし代表チームで冷遇されるようなことがあれば、走高跳での出場も考えていたという。ジェラルド・タッカーコーチのもと、ラッセルに彼の同窓生K.C.ジョーンズも加わった代表チームは平均53.5点差をつけて他国を圧倒、決勝での対ソ連戦では89-55で完勝し、見事に金メダルを獲得した。ラッセルはチームのリーディングスコアラーとして活躍し、平均14.1得点を記録、K.C.ジョーンズも10.9得点をあげて金メダル獲得に貢献した。

    オフェンスのみに重点を置いた極端な戦力バランスとなっていたセルティックスが優勝するには、この戦力の不均衡を是正する必要があったが、そんな時に現れたラッセルはまさにチームに劇的な変革をもたらす改革者だった。

    アワーバックはチームの戦術に変更を加え、チームに攻撃的なディフェンスを仕掛けさせ、相手チームにターンオーバーを強いることで、セルティックスが最も得意としたオフェンスパターンである速攻を、より容易に出させようとした。攻撃的なディフェンスはかえってディフェンスに隙を生じさせ、相手のドライブを容易にしてしまう可能性があるが、アワーバックとセルティックスの選手たちはペリメーターのディフェンスラインを突破されようとも、慌てる必要はなかった。何故なら彼らが突破した先には、ビル・ラッセルが待ち構えているからである。ラッセルは言わばヘルプ・ディフェンスのエリートだった。その長身には似つかわしくない俊敏性を誇るラッセルは、チームのディフェンスに隙間が生じればすぐさまカバーに行き、味方が不利と悟れば援助に走ってダブルチームに付き、たとえディフェンスラインを突破されても、ラッセルの最大の武器であるブロックショットで敵のシュートを次々と叩き落した。ラッセルが後ろに控えているという事は、チームメイトのディフェンスをよりアグレッシブにさせた。たとえ抜かれても、ラッセルが止めてくれるという信頼があったからである。そしてよりアグレッシブになればよりターンオーバーを引き出すことができ、より簡単に速攻を出すことができる。もしシュートを打たれても、外れたらそのリバウンドは必ずラッセルが拾う。彼が拾えば、即ちそれは速攻のチャンスとなる。後に無敵を誇ることになるセルティックスの攻防一体の戦術は、全てがラッセルを基盤としていた。このセルティックスの戦術は、『Hey, Bill!』と呼ばれた。ディフェンスにおいてチームメイトがラッセルの助けを必要とした時、ラッセルをこう呼ぶことから名づけられた。またラッセルのブロックショットはスポーツブランドのウィルソンが「敵シューターの顔面に押し込むようだ」と評したことから、『ウィルソンバーガー』と呼ばれた。

    1年目からセルティックスの大黒柱となったラッセルは1956-57シーズンを14.7得点19.6リバウンドの成績を残し、平均リバウンドはリーグトップだったが、当時のリバウンド王は平均ではなく通算で決められており、オリンピック出場のために24試合を欠場したラッセルは1年目でのリバウンド王の栄誉は逃した。

    また、ニューヨーク・ニックス戦では問題行動を起こした。この試合でニックスのレイ・フェリックスから絶えず挑発行為を受けたラッセルは、アワーバックに相談したところ、「自分で対処するように」と言われたため、再びフェリックスから挑発を受けたとき、ぶん殴ってフェリックスを黙らせた。当然悪質な行為として25ドルの罰金を課せられた。また同じルーキーのチームメイト、トム・ヘインソーンとはやや険悪な関係となった。このシーズンの新人王を獲得したのはラッセルではなく、チームメイトのヘインソーンだった(評価はラッセルの方が上だったが、シーズン前半の欠場が響いた)。納得いかないラッセルは、ある時ヘインソーンがいとこのためにサインを書いて欲しいと頼まれても断り、またある時はヘインソーンが新人王の賞金として貰った300ドルの半分を自分が得られる権利があると主張した。2人のルーキーは暫く打ち解けることはなかったが、ボブ・クージーとは人種の壁があったにもかかわらず、良好な関係を築くことができた。

    個人としてはやや不満の残る1年目のシーズンとなったが、チームはラッセル効果により歴代2位の勝率となる44勝28敗の好成績を残し、レギュラーシーズンの勝率ではリーグトップとなった。

    第1シードで臨んだプレーオフデビジョン決勝(当時の第1シードはデビジョン決勝から参加)ではドルフ・シェイズ率いるシラキュース・ナショナルズと対決。ルーキーのラッセルはプレーオフデビュー戦でいきなりリーグを代表するビッグマンとのマッチアップを任せられたが、16得点31リバウンド7ブロック(当時はブロックを計測していなかったため、公式記録ではない)という堂々たる数字を残し、セルティックスを108-89の完勝に導いた。勢いに乗ったセルティックスは3戦全勝でナショナルズを破り、念願のNBAファイナルに進出する。

    ファイナルでは因縁のセントルイス・ホークスと対決。実力伯仲の両者は最初の6試合をそれぞれ3勝分け合い(第3戦ではアワーバックが緊張のあまり同僚のベン・ケルナーをぶん殴り、300ドルの罰金を課せられるというハプニングが起きた)、シリーズは第7戦に突入。この大一番でラッセルはホークスのエース、ボブ・ペティットを懸命に抑え込んでいたが、試合の主役はこの日37得点をあげたトム・ヘインソーンだった。ラッセルが後に『コールマン・プレイ』と呼ばれるブロックショットを繰り出すまでは。100-101とセルティックスの1点ビハインドで迎えた第4Q、残り40秒。ミッドラインからのスローインを受け取ったホークスのジャック・コールマンのシュートを、ベースラインに立っていたはずのラッセルが何処からともなく飛んできて、見事にブロック。さらにラッセルは自ら速攻に走って、土壇場でチームを逆転に導くシュートを決めた。その後ペティットの執念でホークスに追いつかれたため、試合はオーバータイムに突入。さらに2つ目のオーバータイムを重ねたが、セルティックスはホークスの懸命の追撃を振り切って、125-123で勝利。この試合で19得点32リバウンドに加え、第4Qでチームを救う名ブロックショットを叩き出したラッセルは、NBA1年目にしてチームを初優勝に導いた。しかしこの優勝は後に続く栄光の時代の、ほんの序章に過ぎなかった。なお、この年のセルティックスには大黒柱のラッセル、プレイメーカーのボブ・クージー、名シューターのビル・シャーマン、得点力に長けたフォワード、トム・ヘインソーン、名シックスマンのフランク・ラムジー、優れたディフェンダーのジム・ロスカトフと、後にセルティックスのアリーナの天井を永久欠番のバナーで飾る選手が6人も居た(K.C.ジョーンズは兵役に就いていたため、このシーズンは参加せず)。

    翌1957-58シーズン、開幕からフル参戦したラッセルは16.6得点22.7リバウンドをあげて初のリバウンド王に輝き(平均20リバウンド突破は史上初の快挙)、オールスターにも初選出され(ラッセルは引退する年まで12年連続でオールスターに出場する)、チームも前年に引き続き49勝23敗と好調を維持した。奇妙なことはレギュラーシーズン終了後、各賞の発表で起こった。2年連続でチームを勝率リーグトップに導き、自身も会心の成績を残したラッセルは、NBA2年目で早くも一つ目のシーズンMVPを獲得するが、オールNBAチームでは2ndチームの選出だった。選考員はMVPを受賞したラッセルよりも、まだ優秀なセンターが居ると判断したのである(1stチームのセンターはドルフ・シェイズだった)。この現象は後も繰り返し起こる事になる。

    とは言え、たとえラッセルより優秀なセンターが他に居ようとも、ラッセルがセルティックスに居ることが肝心だった。勝率リーグトップの成績を残したセルティックスはデビジョン決勝でフィラデルフィア・ウォリアーズを破ると、NBAファイナルでは2年連続で宿敵セントルイス・ホークスと対決。セルティックスにはミネアポリス・レイカーズ以来となる連覇の期待が掛かったシリーズとなったが、1勝1敗で迎えた第3戦で不幸が襲った。ラッセルがリバウンドの着地でペティットの足を踏んで足首を捻挫してしまい、そのままコートを去ってしまったのである。ラッセルの不在をセルティックスは辛うじて1勝2敗で切り抜け、第6戦にはラッセルが足を引き摺りながらも戻ってきたが、ペティットの一世一代のプレイ、50得点でセルティックスは破れ、連覇の夢は叶わなかった。

    ファイナルという最も大事な場面でチームを援護できなかったラッセルは、新シーズンで名誉を取り戻すために復活。自身は16.7得点23.0リバウンドを記録し、チームも当時のNBA歴代最高勝利数となる52勝20敗をあげた。ラッセルは2年連続のMVPこそならなかったが、オールNBAチームではめでたく初の1stチーム入りを果たしている。

    プレーオフではデビジョン決勝でシラキュース・ナショナルズに思わぬ苦戦を強いられたが、4勝3敗で退け、3年連続でファイナルに進出。ファイナルではお馴染みのライバルだった、この年セルティックスに次ぐ49勝をあげたセントルイス・ホークスが待っているはずだったが、彼らはデビジョン決勝で不覚を取った。ホークスを破ってファイナルに勝ち上がったのはミネアポリス・レイカーズ(後のロサンゼルス・レイカーズ)。後に時代を跨いでセルティックスの最大のライバルとなるレイカーズとの、初の頂上決戦が実現した。記念すべき最初の対決は、しかし両者のチームとしての完成度は天と地ほどの開きがあり、エルジン・ベイラーのワンマンチームであったレイカーズを、セルティックスは4戦全勝で一蹴。あっさりと王座に返り咲いた。完敗したレイカーズのヘッドコーチ、ジョン・クンドラは「我々はビルの居ないセルティックスを恐れない。彼をどこかへやってくれ。そうすれば我々は彼らを倒すことが出来る。彼は精神的にも我々を鞭打ってくれた」とラッセルのプレイに舌を巻いた。

    1シーズンを置いて再び王座に返り咲いたセルティックスは、今後7シーズン続けてこの椅子に座り続けることになる。アメリカプロスポーツ史上最長となる八連覇の時代は、こうして幕を開けた。

    セルティックスは前年をさらに上回る59勝16敗(当時のNBA最長記録となる17連勝も記録した)、ラッセルは18.2得点24.0リバウンドを記録。2度目の優勝を経て自身もチームも絶頂期を迎えつつあるこのシーズン、NBAはかつてない新人を迎える。216cmの長身を誇るウィルト・チェンバレンである。チェンバレンはルーキーイヤーから37.6得点27.0リバウンドという先例のない数字を残し、新人王のみならずシーズンMVPを受賞。得点王に加え、リバウンド王の座もラッセルから奪った。

    ラッセルとチェンバレン、両者は選手のタイプとしては対極に立つ2人だった。ラッセルはリーグ随一のディフェンダーであり、そしてチェンバレンはオフェンスに特化した最強のスコアリングマシーンだった。その2人のビッグマンが同じ時代に同じリーグに並び立つ。そこにライバル関係が成立しないはずはなく、チェンバレンの登場はラッセルにとって2人と居ない好敵手の登場を意味した。1959年11月7日、ラッセルのセルティックスとチェンバレンのフィラデルフィア・ウォリアーズが対戦、両者は初めて相見え、ラッセルの22得点に対し、チェンバレンは30得点をあげ、試合は115-106でセルティックスの勝利という形で、後にNBA史上最大のライバル関係の一つとされる2人の最初のThe Big Collisionは幕を閉じた。ラッセルとチェンバレンの対決は『The Big Collision(大激突)』、あるいは『Battle Of Titans(巨人たちの戦い)』と呼ばれ、当時のNBAの最大の呼び物として人気を集めることになる。

    プレーオフ・デビジョン決勝では再びウォリアーズとの対戦が実現したが、ラッセル率いるセルティックスは4勝2敗でウォリアーズを退けた。以後、ラッセルとチェンバレンのライバル関係は、個人成績ではチェンバレンが上回りながらも、チームとしての対決ではラッセルの居るセルティックスがチェンバレン率いるウォリアーズを駆逐するという関係が続く。

    ファイナルではお馴染みのホークスが待っていた。当時最大のライバルチームだった両者3度目の対決は第7戦までもつれた末に、セルティックスが4勝3敗でホークスを降し、ミネアポリス・レイカーズが1954年に達成して以来となる連覇を成し遂げた。このシリーズでラッセルは第2戦ではファイナル史上最多となる40リバウンド、第7戦では22得点35リバウンドと大活躍だった。

    連覇を成し遂げてもなおラッセルのモチベーションは落ちず、1960-61シーズンも16.9得点23.9リバウンドと安定した成績を残し、2度目のシーズンMVPを受賞。チームも57勝22敗と5年連続でリーグトップの勝率を記録した。プレーオフ・デビジョン決勝でシラキュース・ナショナルズを破ったセルティックスは、ファイナルではホークスと5度目にして最後の対決を4勝1敗で制して4回目の優勝を果たし、NBA史上2度目となる三連覇を達成した。

    この5年間で三連覇を含む計4回の優勝を成し遂げたセルティックスだが、王朝の基盤をより磐石なものにするためにも、チーム内の世代交代を進めなければならなかった。そして新シーズン開幕前に、セルティックスの主要得点源だったビル・シャーマンが引退。彼にかわってサム・ジョーンズがチーム内で台頭した。このようにセルティックスは連覇記録を伸ばすために絶えず選手の入れ替えを行っていくが、王朝終焉を迎えるその時まで、ラッセルの大黒柱としての存在は不動のものだった。

    1961-62シーズンはウィルト・チェンバレンが平均50.4得点、1試合100得点を達成した伝説的なシーズンとして記憶されるが、このシーズンのMVPを獲得したの2年連続の受賞となるラッセルだった。ラッセルは18.9得点23.6リバウンドと例年通りの数字を残した上で、チームを史上初の60勝越えとなる60勝20敗の成績に導いていた。プレーオフ・デビジョン決勝では伝説のシーズンを過ごしたチェンバレン率いるウォリアーズと2度目の対決となったが、チェンバレンが毎戦50得点あげようとも、最後に笑うのはセルティックスだった。ラッセル率いるセルティックスは第7戦までもつれたこのシリーズを、サム・ジョーンズのクラッチシュートという形で締めくくり、4勝3敗で制して6年連続のファイナル進出を決めた。

    ファイナルでは3年ぶり2度目となるレイカーズとの対決が待っていた。前回のレイカーズはエルジン・ベイラーのほぼワンマンチームだったが、今回はジェリー・ウェストという強力な仲間を得てセルティックスとのリベンジマッチに備えていた。このファイナルで両者は初めてライバルらしい激戦を演じ、2勝2敗のタイで迎えた第5戦ではベイラーのファイナル記録となる61得点にやられ、2勝3敗とシリーズをリードされた。第6戦ではセルティックスが勝利し、優勝の行方は第7戦に委ねられる。そして勝った方が優勝という緊張感みなぎるこの試合で、セルティックスを八連覇時代最大の危機が襲った。

    100-100の同点で迎え第4Q終盤。レイカーズのオフェンスにセルティックスは当然得点源のベイラーとウェストにディフェンスを集中させたが、ボールはオープンのフランク・セルヴィに渡り、セルヴィは7フィートの位置からシュートを打った。残り時間は5秒を切り、これが決まればレイカーズの勝利と優勝がほぼ決定付けられたが、セルヴィのシュートは幸運にも外れ、試合はオーバータイムに突入した。命拾いしたセルティックスだったが、彼らは追い込まれていた。ベイラーらへの懸命なディフェンスが仇となり、オーバータイムに入った時点でトム・ヘインソーン、ジム・ロスカトフ、サッチ・サンダースらセルティックスの主力フォワード3人がファウルアウトに追いやられていたのだ。そしてオーバータイムではさらにフランク・ラムジーもファウルアウトとなり、セルティックスの陣容は壊滅的な状況となった。しかしこのチームの危機にラッセルの真価が発揮され、ラッセルはコート上に残された4選手を見事に統率。ベイラーにマッチアップする普段殆ど出番の無いジーン・グアリアにも巧みにヘルプディフェンスに走ってベイラーを抑え込むと、自身は30得点と自身が持つファイナル最多記録タイとなる40リバウンドを記録し、110-107でセルティックスを勝利に導いた。ついに前人未到の四連覇を達成したセルティックスは(この時代のセルティックスを除き、2019年現在に至るまで四連覇以上を達成したチームは一つも存在しない)、今後もさらに連覇記録を伸ばすことになるが、このシーズンのプレーオフは2つのシリーズいずれもが第7戦までもつれる接戦となり、八連覇時代のセルティックスが優勝する上で最も苦労したシーズンとなった。

    シーズン前のドラフトでは王朝後期にエースとして活躍するジョン・ハブリチェックが指名され、また新しい血を注ぐのみでなくウィリー・ナオルス、クライド・ラブレットというベテラン獲得もそつ無くこなし、1962-63シーズンも7年連続リーグトップとなる58勝22敗を記録。ラッセルは変わらず16.8得点23.6リバウンドと大黒柱としての役割を完遂して3年連続4度目のシーズンMVPを獲得し、19得点24リバウンドをあげたオールスターでは初のMVPに輝いた。プレーオフ・デビジョン決勝ではオスカー・ロバートソン率いるシンシナティ・ロイヤルズに苦戦を強いられ、7戦中2試合がオーバータイムにもつれる接戦だったが、4勝3敗で辛うじて退けると、ファイナルでは2年連続となるレイカーズとの対戦を4勝2敗で制し、五連覇を達成した。

    長年セルティックスの司令塔を務めたボブ・クージーが引退し、彼のかわりにラッセルの学生時代からの戦友だったK.C.ジョーンズが先発ガードに昇格。円熟期を迎えたラッセルは15.0得点24.7リバウンドをあげてウィルト・チェンバレンから5年ぶりにリバウンド王の座を奪回、セルティックスはクージーを失ってもなお8年連続リーグトップとなる59勝21敗の成績を残した。ファイナルではチェンバレン率いるウォリアーズ(フィラデルフィアからサンフランシスコに本拠地を移し、ウェスタン・デビジョン王者としてファイナルに進出した)と対決。Battle Of Titans第3幕となったこのシリーズ、ラッセルは第1戦でウォリアーズの誇る2人のビッグマン、チェンバレンとネイト・サーモンドのシュートを立て続けにブロックするという離れ業をやってのけ、チームを波に乗せると、セルティックスは4勝1敗でウォリアーズを粉砕し、当時、アメリカのどのプロスポーツチームも成し遂げたことのない六連覇を達成した。

    セルティックスは自らが保持する記録を再び更新する62勝18敗をあげ、14.1得点24.1リバウンド5.3アシストを記録し、2年連続のリバウンド王に輝いたラッセルは、30歳の節目の年に自身5度目のシーズンMVPを獲得。5回のシーズンMVP獲得はカリーム・アブドゥル=ジャバーに破られるまでの歴代最多受賞だった。プレーオフ・デビジョン決勝ではフィラデルフィア・76ersと対戦。シーズン中に76ersに移籍してきたチェンバレンとの2年連続の対決が実現した。プレーオフ4度目の大激突は激戦となり、第3戦ではラッセルがチェンバレンを第3Qまでフィールドゴールをわずか2本に抑えると、第5戦28リバウンド7アシスト10ブロック6スティールを記録。第7戦ではチェンバレンが30得点32リバウンドをあげると、ラッセルも16得点27リバウンド8アシストを記録した。ここまでこのシリーズはラッセル、チェンバレンのNBAが誇る2人の巨人のための舞台となっていたが、第7戦、シリーズの行方を決する最後の場面で輝いたのはラッセルでもチェンバレンでもなかった。110-109のわずか1点リードで迎えた試合終盤、この大事な場面でラッセルはスローインをミスしてしまい、ボールの保持権を76ersに与えてしまう。逆転を狙う76ersはハル・グリアがスローインを入れたが、そのボールをジョン・ハブリチェックが見事にスティールし、チームを勝利とファイナルに導いた。ハブリチェックのスティールは実況のジョニー・モストが叫んだ「ハブリチェックがボールを奪った!試合終了!ジョン・ハブリチェックがボールをスティールしました!(Havlicek stole the ball! It's all over! Johnny Havlicek stole the ball!)」という言葉と共に八連覇時代の伝説の一つとなった。

    ファイナルではベイラー、ウェストのレイカーズと4度目の対決となったが、4勝1敗で危なげなくシリーズを制し、ファイナル七連覇を達成した。

    どの王朝にも終焉の時はやってくるが、1960年代に我が世の春を謳歌していたボストン王朝もその例外ではなく、王朝チームの衰退期は着々と訪れているように思えた。七連覇を達成した後のオフ、ラッセルとは同期のトム・ヘインソーンと、名ディフェンダーだったジム・ロスカトフが引退。これでセルティックスの全ての優勝を知るのはラッセルのみとなった。サム・ジョーンズはまだまだチームのリーディングスコアラーとして活躍し、先発に定着したハブリチェックは益々存在感を高めてはいたが、このシーズン54勝26敗だったセルティックスは、10年ぶりに勝率首位の座を他チームに明け渡した。そしてセルティックスのかわりにリーグ首位の座に座ったのが、チェンバレンのフィラデルフィア・76ersだった。

    毎年第1シードの特権としてプレーオフ1回戦(デビジョン準決勝)を免除されてきたセルティックスだが、この年は10年ぶりに1回戦からの参加となった。初戦の相手、シンシナティ・ロイヤルズはオスカー・ロバートソンにジェリー・ルーカス擁する強敵で、セルティックスは3戦先勝制の1回戦で1勝2敗と先に王手を掛けられ、いきなりピンチに陥った。しかしその後2連勝を飾ったセルティックスが、辛うじてデビジョン決勝に進出、76ersとの対決を迎えた。Battle Of Titansは今度こそチェンバレンの勝利かに見えたが、しかしロイヤルズに対する2連勝で波に乗ったセルティックスは、76ersに苦戦するどころか4勝1敗で降し、10年連続のファイナル進出を果たした。

    ファイナルは2年連続5回目となるレイカーズと対戦。第1戦にセルティックスはオーバータイムの末に敗れるが、敗戦のショックも覚めやらぬ試合終了後、コーチ・アワーバックから衝撃的なコメントが発表された。アワーバックはこのシーズン限りをもってヘッドコーチの座から退くことを宣言し、さらに後任にビル・ラッセルを指名したのである。ラッセルは未だ現役の選手であり、この発表はラッセルが選手兼任のままヘッドコーチの重責を担うこと、さらにはアメリカプロスポーツ史上初の黒人ヘッドコーチ誕生を意味した。名コーチ、アワーバックの引退、ラッセルのコーチ就任、初の黒人ヘッドコーチの誕生と驚き尽くめの発表は、セルティックスの選手に敗戦のショックを忘れさせ、続く第2戦以降を3連勝させた。悲願の優勝に向けて粘るレイカーズもその後2連勝し、シリーズは第7戦に突入。最後はこの日足に骨折を抱えたままでプレイを続けたラッセルの32リバウンドの活躍でセルティックスが勝利。早まったファンがコートにオレンジジュースをぶちまけ、サッチ・サンダースが興奮したファンたちにユニフォームを奪われるなか、セルティックスが空前絶後の八連覇を達成した。八連覇はNBAはもちろんのこと、アメリカプロスポーツ史上どのチームも成し遂げていない金字塔である。

    セルティックスを伝説的な八連覇、9度の優勝に導いたレッド・アワーバックは、1965-66シーズンの優勝を最後に兼任していたゼネラルマネージャーに専念するため、ヘッドコーチから勇退した。アワーバックは後任としてまず考えたのがフランク・ラムジーだったが、彼は経営する3つの福祉施設経営に忙しかったため、これを辞退した。アワーバックは次にボブ・クージーにヘッドコーチ就任を打診したが、クージーも元チームメイトたちを指導したくないことを理由に断り、そして3人目の候補者、トム・ヘインソーンはラッセルの扱い難さを理由にやはりヘッドコーチ就任を断った。しかしヘインソーンはアワーバックに対してある貴重な助言を与えた。それは、ラッセル自身をそのままヘッドコーチにしてみてはどうか、という提案だった。そのことをアワーバックはラッセルに伝えてみたところ、ラッセルの答えは「Yes」だった。こうしてアメリカプロスポーツ史上初の黒人ヘッドコーチが誕生したのである。未だ人種差別が当たり前のように横行する時代、当然のように周囲は黒人のラッセルにヘッドコーチが務まるか疑問視したが、ラッセルは周囲の疑問に「私は黒人だからという理由でこの職を与えられたのではない。レッドが私が出来ると計算したから、この職を与えたのだ」と答えた。

    周囲の不安は杞憂に過ぎなかった。ラッセル体制となった1年目の1966-67シーズン、セルティックスは八連覇時代と何ら変わらぬ成績の60勝21敗をあげた。ゼネラルマネージャーのアワーバックもベイリー・ハウエルを新戦力としてセルティックスの戦列に並べ、ラッセルの援護をし、選手としてのラッセルはハウエル加入によりオフェンス面での負担が軽減されたため、得点アベレージはキャリア最低となる13.3得点となったが、リバウンドでは平均21.0本を記録し、大黒柱としての役割を果たした。

    好調なシーズンを送ったセルティックスだが、セルティックス以上に絶好調のシーズンを送ったのが、ラッセルのライバル、ウィルト・チェンバレンが所属するフィラデルフィア・76ersである。76ersは新たにアレックス・ハナムをヘッドコーチに招聘、チーム改革に成功し、当時の歴代最高勝率となる68勝をあげていた。セルティックスはプレーオフ・デビジョン準決勝でウィリス・リード、ウォルト・ベラミー擁するニューヨーク・ニックスを3勝1敗で破ると、デビジョン決勝で76ersと対決。過去の対決では何度も勝利を重ねてきたセルティックスでも、この年の76ersにはかなわず、1勝4敗で破れ、ついに8年間続いた連覇が途絶えた。セルティックスが王座を明け渡すのは9年ぶりのことであり、さらにファイナル進出を逃したのは実に11年ぶりのことだった。またラッセルにとってもNBA入り以来ファイナル進出を逃したのは初めての経験だった。敗戦の将となったラッセルは、第5戦の試合後76ersのロッカールームを訪れ、彼の終生のライバルであり、そして親友でもあったチェンバレンの手を取り、「Great!」と、ただそれのみを祝福の言葉として奉げた。

    選手兼コーチとしては悔しいシーズンの幕切れとなったが、試合終了後にはささやかで、かつ重要な幸福の場面が待っていた。第5戦を終えたセルティックスのロッカールームに、この日観戦に来ていたラッセルの祖父が訪れた。その祖父の目に、信じられない光景が飛び込んだ。白人のジョン・ハブリチェックと、黒人のサム・ジョーンズが、隣同士でシャワーを浴びながら、今日の試合について活発かつ対等に議論していたのである。祖父はまるで取り乱したようにその場で泣き崩れた。そして「何か悪いことでもあったのか?」と尋ねる孫に、お前が黒人と白人が調和する組織のコーチであることをどれほど誇りに思うか、と答えた。

    連覇が途切れたことは、ボストン王朝崩壊を意味したかと言えば、そうではなかった。1966-67シーズンも優勝を逃したものの勝ち星は60勝と優勝を狙うには十分な力を有していることを証明しており、未だ他チームには危険な存在だった。

    チームの大黒柱とヘッドコーチという重責を担うラッセルは、1967-68シーズンを12.5得点18.6リバウンドの成績で過ごし、リバウンドが平均20本を下回ったのはルーキーイヤー以来となり、平均出場時間もNBAキャリア2年目の1957-58シーズン以来となる平均40分割れとなるなど、33歳を迎えていたラッセルはシーズンを通してプレーをセーブした。チームは前年を下回る54勝28敗の成績に終わったが、76ersに次ぐデビジョン2位の座を堅守した。

    プレーオフではデビジョン準決勝でデイブ・ビン、デイブ・ディバッシャー擁するデトロイト・ピストンズを破り、デビジョン決勝で宿敵の76ersと対決した。ここで両雄の対決は思わぬ所から横槍を受ける。1968年の4月4日、公民権運動指導者のキング牧師が暗殺されたのである。この悲劇を受けて、セルティックスと76ersの先発選手10人のうち8人が喪に服するため試合をキャンセルしたいという申し出があり、結局試合は予定通りに行われたが、「感情を欠いたような」試合と評されたシリーズ第1戦は、127-118でセルティックスが勝利した。しかし第2戦以降は76ersが3連勝を飾った。過去に1勝3敗からシリーズを覆したチームはおらず、セルティックスの2年連続デビジョン決勝敗退が濃厚となったが、ここからセルティックスの新エース、ジョン・ハブリチェックが驚異的な巻き返しを演じ、セルティックスが2連勝を飾ってシリーズは第7戦へと持ち込まれた。第3戦、第4戦はチェンバレンのマッチアップをウェイン・エンブリーに任せており、記者団からはあるいはラッセルは疲労しているのではと言われていたが、第7戦ではそのラッセルが大活躍を見せる。ラッセルはこの大一番でチェンバレンを後半フィールドゴールわずかに2本のみに抑えると、試合終盤ではクラッチプレイを連発。試合残り34秒でセルティックスのリードを98-96に広げるフリースローを決めると、続く76ersにオフェンス、チェット・ウォーカーのシュートを見事にブロックし、今度はルーズボールを拾ってそのままシュートを打ったハル・グリアのミスショットをしっかりとリバウンド。敵ゴールに目掛けて走るサム・ジョーンズにパスを送り、セルティックスの真骨頂とも言える速攻で勝利を決定付ける得点を演出した。セルティックスはこの試合を100-96、シリーズを4勝3敗で76ersに勝利し、2年ぶりのファイナル進出を果たした。

    セルティックスと76ersの死闘をテレビ観戦していた西の王者、レイカーズは、セルティックスの勝利を願っていた。彼らにはセルティックスの方が制し易い相手と踏んでいたのだ。しかし彼らは過去、5回にわたってセルティックスに苦杯を舐めさせられたことを忘れていた。セルティックスは油断した旧来のライバル、レイカーズを4勝2敗で破り、1年前に明け渡した王座を見事に奪回した。ラッセルはキャリア12年で記念すべき10回目の優勝を果たし、両手の指全てに嵌められるほどのチャンピオンリングを手に入れたの同時に、黒人としては初の優勝チームのヘッドコーチになる栄誉も手に入れた。ラッセルの名声も頂点を極め、この年のスポーツ・イラストレイテッドのスポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。レイカーズのジェリー・ウェストは「もし私がリーグのバスケットボール選手から一人を選ぶなら、私の一番の選択はビル・ラッセルでなければならない。ビル・ラッセルは我々を驚嘆させることを決して止めようとしない」とラッセルを絶賛した。

    10回の優勝に5回のMVP受賞と常に第一線で戦い続けてきたラッセルも、長年蓄積された疲労を隠せなくなっていた。1968-69シーズンを迎え、34歳となっていたラッセルはコンディションの維持も難しくなり、このシーズンは通常よりも15ポンド(約6.8kg)多い状態だった。またシーズン前の6月6日に発生したロバート・ケネディの暗殺、ベトナム戦争の激化など、世情不安に襲われていたこの時代のアメリカにラッセルは大いに幻滅しており、さらに私生活では妻のローズとの関係が崩れかけていた(後に離婚)。

    心身共に疲労の極みに達していたラッセルは、レギュラーシーズン中のニューヨーク・ニックス戦の後、激しい痛みを訴え、急性疲労と診断された。痛みと疲労に耐えながらこのシーズンを戦い通したラッセルは、初の平均10得点割れとなる9.9得点19.3リバウンドの成績だった。前年見事に王座に返り咲いたセルティックスも、ラッセルは34歳、サム・ジョーンズは35歳、ベイリー・ハウエルは32歳と決して若いチームではなかった。加えて大黒柱の不調も重なり、このシーズンのセルティックスはラッセル加入以来最低勝率となる48勝34敗に終わり、1970年代を間近に控えて急速に台頭を見せてきたボルティモア・ブレッツやニックス、ライバルチームの76ersに大きく水をあけられた。

    第4シードと王朝チームとしては屈辱の位置から始まったプレーオフだったが、彼らは戦い慣れたこの舞台で本来の姿を取り戻し、デビジョン準決勝でチェンバレンの居ない76ersを4勝1敗で降すと、デビジョン決勝ではニックスを4勝2敗で破って、終わってみれば2年連続、この13年間で12回目のファイナル進出を果たしていた。

    76ersに居なかったチェンバレンが何処に居たかと言えば、セルティックス永遠のライバルチーム、レイカーズだった。ジェリー・ウェストにエルジン・ベイラー、そしてウィルト・チェンバレンが加わって強力なビッグスリーが形勢されたレイカーズは55勝をあげ、初めてホームコートアドバンテージを獲得した上でセルティックスの頂上決戦を迎えた。このシリーズはこの時代のセルティックス、レイカーズのファイナル最後の対決であり、またラッセルとチェンバレンの最後の直接対決となった。

    コーチも兼任するラッセルは最初、ジェリー・ウェストにダブルチームしないよう指示したが、これが裏目に出てウェストに第1戦で53得点、第2戦で41得点と立て続けに大量得点を許し、セルティックスは2連敗を喫した。第3戦からはようやくウェストに対するダブルチームを命じ、セルティックスは第3戦を勝利した。第4戦終盤、セルティックスは追い込まれていた。試合残り7秒で1点ビハインドを抱え、さらにボールはレイカーズが保持と、セルティックスには極めて分が悪いように見えた。しかし幸運にもレイカーズはベイラーがボールを外に出してしまい、保持権はセルティックスに移る。ラッセルがコーディネートしたオフェンスはハウエル、ラリー・ジークフリード、ハブリチェックによる三重のスクリーンであり、ボールを託されたサム・ジョーンズのシュートがブザービーターとなって、セルティックスの劇的な逆転勝利となった。

    その後両チームとも1勝ずつして迎えた、ロサンゼルスでの第7戦。レイカーズはあるミスを犯した。まるですでにレイカーズの優勝が決まっているかのように、レイカーズのホーム・アリーナ、ザ・フォーラムを何千もの風船で飾り立てたのである。これがセルティックスの逆鱗に触れた。セルティックスは第7戦を優位に進め、第4Qに入った時点で91-79の大差をつけた。その後レイカーズはウェストが懸命な巻き返しをみせたが、チェンバレンを第4Qに殆ど起用しないというレイカーズ側の不可解な采配もあり、セルティックスが108-106で逃げ切り、シリーズを4勝3敗で制した。

    この日21リバウンドの活躍でセルティックスの勝利に貢献したラッセルは、キャリア13年目にして11回目の優勝を果たした。試合終了後、ラッセルは数居るライバルの一人でこのシリーズ中も大活躍だったウェストの側へ行き、彼の手を握って健闘を讃えつつ、酷く気落ちし、取り乱していたウェストを宥めた。

    見事にチャンピオントロフィーを持ち帰ってきた我らのチームを迎えるべく、セルティックスの凱旋を3万人のボストン市民が迎えた。しかしそこに、この場に居るセルティックスのどの選手よりも、多くのチャンピオンリングを持つラッセルの姿はなかった。

    ラッセルの引退はあまりにも突然だった。そしてそれは誰もが羨むような優勝しての引退という形だったが、しかし記録の上では華やかであっても、実際のところラッセルの引退は華やかでも、穏便でもなかった。ラッセルは一方的に引退を宣言すると、ボストン市民には何の恩もないと凱旋パレードにも参加せず、そしてセルティックスとの関係を一切断ち、ボストンには困惑のみが残された。その後ファンに対し何のコメントないままだったラッセルが、スポーツ・イラストレイテッドに1万ドルと引き換えにインタビューに応じたことに、ボストンのファンと記者たちは裏切られたと感じた。

    苦楽を共にしてきたアワーバックですらも、ラッセルから引退を知らされていなかった。それはアワーバックのチーム経営史において最大の誤算の一つとなり、アワーバックはこの年のドラフトでジョ・ジョ・ホワイトを指名するという過ちを犯してしまう。ホワイトはその後セルティックスの第二期黄金期とも言える時代の中心選手となるので、アワーバックの指名は決して失敗であったわけではないが、ラッセルが引退するのであればまずは何よりも彼に代わるセンターを手に入れなければならなかった。結果的にラッセルが引退するのと同時に、13年の間に11回の優勝と栄華を極めたボストン王朝は一瞬で瓦解する。ラッセルが引退した翌シーズンのセルティックスは34勝48敗に沈み、優勝を争うどころかプレーオフ進出すら逃したのである。

    またNBAに13年に渡って続いたボストン王朝時代に幕を降ろしたラッセルの引退は、NBAに新たな時代の到来を告げ、後のリーグの流れを形作った。すなわち、群雄割拠の戦国時代である。この年のセルティックスの連覇を最後に、NBAに再び連覇を果たすチームが現れるのは1980年代後半であり、チャンピオンチームは毎年のように入れ替わっていく。

    なお、セルティックスには引退を一切告げていなかったラッセルだったが、サム・ジョーンズやチームメイトは皆彼の引退をそれとなく察しており、そのことがチームを団結させ、この年の優勝に繋がったと語っている。

    個人成績

    NBAレギュラーシーズン

    コーチキャリア

    セルティックスの最後の3シーズンをヘッドコーチとしても指揮したラッセルは、チームを2度の優勝に導く実績を残したものの、その後指揮したシアトル・スーパーソニックス、サクラメント・キングスではいずれも大きな成功は掴めなかった。1973年から1977年までをの4シーズンを指揮したスーパーソニックスでは、2年目の1974-75シーズンにフランチャイズ史上初のプレーオフに導いたが、その後のチーム成績は横ばい状態が続き、4年目の1976-77シーズンにプレーオフを逃したの契機にコーチの任を解かれた。彼の後任となったレニー・ウィルケンズは就任1年目でチームをファイナルに導き、さらに翌シーズンには優勝を果たしている。スーパーソニックスでの成績は162勝166敗だった。

    キングスでは1977-78シーズンの1シーズンのみを指揮し、17勝41敗の成績と振るわなかった。

    セルティックス時代も含めたラッセルのコーチキャリアの通算成績は8シーズン631試合で341勝290敗、プレーオフ出場5回、優勝2回だった。

2024/06/22 17:54更新

William Felton “Bill” Russell


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ケン・ウィリアムズ_(外野手)(Kenneth Roy “Ken” Williams)
1890年6月28日生まれの有名人 出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート ケン・ウィリアムズ(Kenneth Roy Williams , 1890年6月28日 - 1959年1月22日)は、元メジャーリーグ…

ウィレム1世_(オランダ王)(Willem I)
1772年8月24日生まれの有名人 出身

ウィレム1世(オランダ語: Willem I, ドイツ語: Wilhelm I., 1772年8月24日 - 1843年12月12日)は、初代オランダ国王(在位:1815年3月16日…

ウィレム1世_(オラニエ公)(Willem I)
1533年4月16日生まれの有名人 出身

ウィレム1世(Willem I, 1533年4月24日 - 1584年7月10日)は、オラニエ公。八十年戦争勃発時の中心人物で、オランダ独立国家(ネーデルラント連邦共和国)の事実上の初代君主。ホラント…

ウィリアム・ダニエル・フィリップス(William D. Phillips)
1948年11月5日生まれの有名人 出身

ウィリアム・ダニエル・フィリップス(William Daniel Phillips, 1948年11月5日 – )はアメリカ人の物理学者。メリーランド大学カレッジパーク校の物理学教授。レーザー光を用い…

ウィリアム=フィリップス(地質学者)(William Phillips)
1775年5月10日生まれの有名人 出身

5月10日生まれwiki情報なし(2024/06/18 21:42時点)

ビル=タピア(Bill “Tappy” Tapia)
1908年1月1日生まれの有名人 出身

1月1日生まれwiki情報なし(2024/06/23 04:48時点)

フィル=リード(Phillip William “Phil” Read)
1939年1月1日生まれの有名人 出身

フィル・リード(Phil Read)ことフィリップ・ウィリアム・リード (Phillip William Read、1939年1月1日 - 2022年10月6日)は、イングランドのルートン出身の元オー…

ウィリアム=レンショー(William Charles Renshaw)
1861年1月3日生まれの有名人 出身

ウィリアム・レンショー(William Renshaw, 1861年1月3日 - 1904年8月12日)は、イングランド・レミントン出身の男子テニス選手。フルネームはウィリアム・チャールズ・レンショー…

ポープ・ウィリアム(Popp William)
1994年10月21日生まれの有名人 東京出身

ポープ・ウィリアム(Popp William、1994年10月21日 - )は、東京都日野市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・横浜F・マリノス所属。ポジションはゴールキーパー(GK)。マネジメント会社…

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