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フランツ=シューベルト
フランツ=シューベルト(Franz Schubert)さんの誕生日は1797年1月31日です。
歴史的位置、作品演奏の諸問題などについてまとめました。結婚、家族、現在、父親、兄弟、映画に関する情報もありますね。31歳で亡くなられているようです。
フランツ・ペーター・シューベルト(ドイツ語: Franz Peter Schubert, 1797年1月31日 - 1828年11月19日)は、オーストリアの作曲家。 シューベルトはウィーン郊外のリヒテンタールで生まれた。メーレン(モラヴィア)から移住したドイツ系植民の農夫の息子である父のフランツ・テオドール(1763年 - 1830年)は教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツ(1756年 - 1812年)は結婚前にウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785年 - 1844年)、次男フェルディナント(1794年 - 1859年)、三男カール(1795年 - 1855年)、次いで第12子のフランツ、娘のテレジア(1801年 - 1878年)だった。父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。 フランツは5歳のときに父から普通教育を受け始め、6歳のときにリヒテンタールの学校に入学した。このころ、父は末息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。フランツは7歳ごろになると父の手に余るほどの才能を発揮し始めたため、父はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。聖歌隊の仲間たちは、フランツの音楽的才能に一目を置いた。当時は演奏家として聴衆に注目されなければ音楽家としての成功の機会はないという時代だったため、しばしば聖歌隊の建物に隣接するピアノ倉庫にフランツを案内して、ピアノの練習を自由にできるように便宜を図った。そのおかげで、貧しい彼には触れられなかったような良質な楽器で練習、勉強をすることができた。 1808年10月、フランツはコンヴィクト(ドイツ語版)(寄宿制神学校)の奨学金を得た。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。ここにフランツはおよそ17歳まで所属、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが聖シュテファン大聖堂で得た教育とほとんど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。フランツを支えた友人たちの多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun、1788年 - 1865年)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多くの友人たちが貧しいフランツを助け、彼には買えない五線紙など、誠実な支持と励ましを与えた。また、このコンヴィクトでヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。一方、才能は作曲の分野ですでに示しつつあった。1810年4月8日 - 5月1日の日付がある32ページにわたりびっしりと書かれた四手ピアノのための『幻想曲 ト長調』(D 1)、続いて1811年にはヨハン・ルドルフ・ツムシュテーク(1760年 - 1802年)が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、弦楽五重奏のための『序曲 ハ短調』(D 8)、『弦楽四重奏曲第1番 ト短調/変ロ長調』(D 18)、『幻想曲 ト短調』(D 9)がある。室内楽曲が目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でカルテット演奏会が行われていたためである。これは後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものだった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残した。また野心的に力を注いだのは、1812年の母の葬儀用と言われる『キリエ』(D 31)と『サルヴェ・レジーナ』(D 106)(それぞれ合唱聖歌)、『管楽八重奏曲 ヘ長調』(D 72)である。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなるカンタータ『父の聖名の祝日のために』(D 80)を残した。学校生活の最後には最初の交響曲である『交響曲第1番 ニ長調』(D 82)が生まれた。 1813年の終わりにシューベルトは、変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったためコンヴィクトを去り、兵役を避けるために父の学校に教師として就職した。このころ、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。彼は2年以上この仕事に就いていたが、あまり関心を持てなかったようで、その代償を別の興味で補った。サリエリから個人的な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難してシューベルトを悩ませた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。またシューベルトはグロープ一家と親密に交際しており、その家の娘テレーゼ・グロープ(1798年 - 1875年)は歌がうまくよい友人だった。彼は時間があれば素早く大量に作曲をした。完成された最初のオペラ『悪魔の別荘』(Des Teufels Lustschloß, D 84)と、最初の『ミサ曲第1番 ヘ長調』(D 105)はともに1814年に書かれ、同じ年に3曲の弦楽四重奏曲(第4番 ハ短調 D 46、第6番 ニ長調 D 74、第10番 変ホ長調 D 87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲第1番』の第1楽章、『潜水者』(D 77)や『糸を紡ぐグレートヒェン』(D 118)といった傑作を含む7つの歌曲が書かれた。 1815年には、学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。『交響曲第2番 変ロ長調』(D 125)が完成し、『交響曲第3番 ニ長調』(D 200)もそれに続いた。また、『ミサ曲第2番 ト長調』(D 167)と『ミサ曲第3番 変ロ長調』(D 324)の2つのミサ曲(前者は6日間で書き上げられた)、その他『ミサ曲第1番』のための新しい『ドナ・ノビス』(D 185)、『スターバト・マーテル イ短調』(D 383)、『サルヴェ・レジナ ヘ長調』(D 379)、オペラは『4年間の歩哨兵勤務』(Der Vierjahrige Posten, D 190)、『フェルナンド』(Fernando, D 220)、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ』(Claudine von Villa Bella, D 239)、『アドラスト』(Adrast, D 137、研究により1819年の作曲と推定)、『サラマンカの友人たち』(Die Freunde von Salamanka, D 326、会話の部分が失われている)の5曲が作曲された。他に『弦楽四重奏曲第9番 ト短調』(D 173)、3曲のピアノソナタ(第1番 ホ長調 D 157、第2番 ハ長調 D 279、第3番 ホ長調 D 459)、数曲のピアノ小品がある。これらの最盛期をなすのは146曲もの歌曲で、中にはかなり長い曲もあり、そのうち8曲は10月15日、7曲は10月19日の日付がある。 1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(英語版)(1787年 - 1836年)と知り合った。この出会いは間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱のときもあったが、突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方でマイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。2人の関係は、シューベルトに対して一方的に奉仕するものだったという。 シューベルトの運命に最初の変化が見えた。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いていた法律学生フランツ・フォン・ショーバー(1796年 - 1882年)がシューベルトを訪問し、教師を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛りつけられているという思いが強まっていた。父親の了解はすぐに得られ、春が去るころにはシューベルトはショーバーの客人になった。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成させるとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていたという。 1816年に作曲された作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のためのカンタータ『サリエリ氏の音楽活動50周年を祝して』(D 407)、もう1つのカンタータ『プロメテウス』(D 451)はハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒たちのためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。彼は雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『ヨーゼフ・シュペンドゥを讃えるカンタータ』(作品128, D 472)である。もっとも重要な作品は、シューベルト自身の手によって『悲劇的』と名付けられた『交響曲第4番 ハ短調《悲劇的》』(D 417) であり、次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『交響曲第5番 変ロ長調』(D 485)、その他多少の教会音楽であった。これらはゲーテやシラーからシューベルト自身が選んだ詩だった。 この時期、友人の輪が次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグル(1768年 - 1840年)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタや幻想曲を演奏した。ゾンライトナー家は裕福な商人で、長男がコンヴィクトに所属していた縁もあって自宅を自由に使わせていたが、それは間もなく「シューベルティアーデ(ドイツ語版)」と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。 シューベルトは貧しかった。それというのも教師を辞めたうえ、公演で稼ぐこともできなかったからである。しかも、音楽作品をただでももらうという出版社はなかった。しかし、友人たちは真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分たちの食事を分け合って食べ、裕福な者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい人が紹介されたときの、「彼ができることは何か?」という質問がこの会の特徴をよく表している。 1818年は前年と同様、創作上は比較的実りがなかったものの、2つの点で特筆すべき年だった。1つ目は作品の公演が初めて行われたことである。演目は『イタリア風序曲第1番 ニ長調』(D 590)で、これはジョアキーノ・ロッシーニをパロディ化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏された。2つ目は初めて公式の招聘があったことである。これは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。 この年の作品には『ミサ曲第4番 ハ長調』(D 452)や『交響曲第6番 ハ長調』(D 589)、ツェレスでの生徒たちのための一連の四手ピアノのための作品、『孤独に』(D 620)、『聖母マリア像』(D 623)などを含む歌曲がある。秋のウィーンへの帰りに、ショーバーのところには滞在する部屋がないことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになった。ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食のあと田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、あるいはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。歌曲の作曲家としての最初の公演は1819年2月28日で、『羊飼いの嘆きの歌』(D121)が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取り、フォーグルとともに北部オーストリアを旅行した。シュタイアーでは『ピアノ五重奏曲 イ長調《ます》』(作品114, D 667)のパート譜をスコアなしで書き、友人を驚かせた。秋に自作の3曲をヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに送ったが、返事はなかった。 1820年に作られた作品には、進歩と形式の成熟が見られる。小品の数々に混じって、『水上を飛ぶ霊たちの歌』(D 705)や『詩篇第23《主は私の牧者で》』(作品132, D 706)などの声楽曲や、『弦楽四重奏曲第12番 ハ短調《四重奏断章》』(D 703)、ピアノ曲『幻想曲 ハ長調《さすらい人》』(作品15, D 760)などが誕生している。 6月14日にオペラ『双子の兄弟』(Die Zwillingsbrüder, D 647)が、8月19日に劇付随音楽『魔法の竪琴』(Die Zauberharfe, D 644)が公演された。それまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭でのカルテット演奏会から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接することが求められ始めた。相変わらず出版社は冷淡だったが、友人のフォーグルが1821年2月8日にケルントナートーア劇場で歌曲『魔王』(作品1, D 328)を歌い、ようやくアントン・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781年 - 1858年)がシューベルトの作品の取次販売に同意した。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後、この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてわずかな版権を受け取り始めた。シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについては、多くの記事が見られる。2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより舞台に向けられた。 1821年の年の瀬にかけて、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『アンフォンゾとエストレッラ』(Alfonso und Estrella, D 732)は受け入れられず、『フィエラブラス』(Fierrabras, D 796)も同じだった。『謀反人たち』(Die Verschworenen, D 787)は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠だった)。劇付随音楽『キプロスの女王ロザムンデ』(Rosamunde, Prinzessin von Zypern, D 797)は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アンフォンゾとエストレッラ』と『フィエラブラス』は、規模の点で公演が困難だった(たとえば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜)。しかし、『謀反人たち』は明るく魅力的な喜劇であり、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。 1822年にカール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと知り合う。両者ともに親しい関係にはならなかったが、ベートーヴェンはシューベルトの才能を認めていた。シューベルトもベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による8つの変奏曲 ホ短調』(作品10, D 624)を同年に出版するにあたり献呈している。しかしウェーバーはウィーンを離れ、新しい友人も現れなかった。この2年は全体として、彼の人生でもっとも暗い年月だった。 1824年春、シューベルトは壮麗な『八重奏曲 ヘ長調』(作品166, D 803)や『大交響曲』のためのスケッチを書き、再びツェレスに戻った。また、ハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風ディヴェルティメント ト短調』(作品54, D 818)を作曲した。 舞台作品や公的な義務で忙しかったが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。まず1822年に『ミサ曲第5番 変イ長調』(D 678)が完成。さらに同年には『未完成交響曲』として知られる『交響曲第7番(旧第8番)ロ短調《未完成》』(D 759)にも着手している。さらにヴィルヘルム・ミュラー(1794年 - 1827年)の詩による歌曲集『美しき水車小屋の娘』(作品25, D 795)と、素晴らしい歌曲の数々が1825年に書かれた。 1824年までに、前記の作品を除き『《萎れた花》の主題による序奏と変奏曲 ホ短調』(D 802)、『弦楽四重奏曲第13番 イ短調《ロザムンデ》』(作品29, D 804)と『弦楽四重奏曲第14番 ニ短調《死と乙女》』(D 810)の2つの弦楽四重奏曲が作られている。また、同年11月に完成した『アルペジオーネソナタ イ短調』(D 821)は、当時、ウィーンのギター製作家であるヨハン・ゲオルク・シュタウファー(1778年 – 1853年)により開発されたばかりの新しい楽器「アルペジオーネ」を用いた試みである。 過去数年の苦難は1825年の幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスからしばらくは解放された。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中にはウォルター・スコット(1771年 - 1832年)の詩による、有名な『エレンの歌第3番(アヴェ・マリア)』(D 839)を含む歌曲集『湖上の美人』(作品52)や歌曲『ノルマンの歌』(D 846)、『囚われし狩人の歌』(D 843)や『ピアノソナタ第16番 イ短調』(作品42, D 845)を作曲。スコットの詩による歌曲では、それまでの作品で最高額の収入を得ることができた。 1827年にグラーツへ短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてウィーンに留まった。その間、たびたび体調不良に襲われている。 晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。1つ目は1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。2つ目はオペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけ、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したが拒否され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。そして3つ目は1828年3月26日(ベートーヴェンの命日)に行われた、人生で初めてで生前唯一の、彼自身の作品の演奏会である。 1827年に、シューベルトは歌曲集『冬の旅』(作品89, D 911)やヴァイオリンとピアノのための『幻想曲 ハ長調』(作品159, D 934)、2つのピアノ三重奏曲(第1番 変ロ長調 作品99, D 898、第2番 変ホ長調 作品100, D 929)を書いた。 1827年3月26日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトはウィーン市民2万人の大葬列の中の一人として葬儀に参列した。その後、友人たちと酒場に行き、「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。このとき友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたという。そして、彼の寿命はその翌年で尽きた。 最晩年の1828年、『ミサ曲第6番 変ホ長調』(D 950)、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ』(D 962)、『弦楽五重奏曲 ハ長調』(D 956)、『ミサ曲第4番』のための2度目の『ベネディクトス』(D 961)、最後の3つのピアノソナタ(第19番 ハ短調 D 958、第20番 イ長調 D 959、第21番 変ロ長調 D 960)、『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D 957/965A)を完成させた。この歌曲集の内の6曲はハインリヒ・ハイネの詩につけられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集『歌の本』は1827年秋に出版されている。 また上記の通り、同年3月26日のベートーヴェンの命日には、シューベルトにとって最初で最後の自作による演奏会が行われており、演奏会自体は大衆的にも財政的にも成功したものの、直後にニコロ・パガニーニがウィーンで演奏会を行ったことで影が薄くなってしまった。 シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(のちにアントン・ブルックナーの師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いた。しかし何度かのレッスンのあと、ゼヒターはその知人からシューベルトは重病と知らされた。11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトの最後の手紙となった。 その後、シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。31歳没。フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。 遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあったヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。1888年に両者の遺骸はウィーン中央墓地に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も2人の当時の墓石が残っている。 死後間もなく小品が出版されたが、当時の出版社はシューベルトを「シューベルティアーデ(ドイツ語版)のための作曲家」とみなして、大規模作品を出版することはなかった。 シューベルトの死因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われている。シューベルト生誕200年の1997年には、改めてその人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開された。 没後は「歌曲の王」という位置づけがなされ、歌曲以外の作品は『未完成交響曲』や『弦楽四重奏曲《死と乙女》』のような重要作を除いて放置に等しい状況だった。 その他の埋もれていた作品の復活に、1867年にウィーンを旅行したジョージ・グローヴ(1820年 - 1900年)とアーサー・サリヴァン(1842年 - 1900年)の2人が大きな功績を挙げた。この2人は7曲の交響曲、『ロザムンデ』の音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を発見し、世に送り出した。こうして聴衆は埋もれていた音楽に興味を抱くようになり、最終的には楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルによる決定版として世に送り出された。 グローヴとサリヴァンに由来し、長年にわたって《失われた》交響曲にまつわる論争が続いてきた。シューベルトの死の直前、彼の友人エドゥアルト・フォン・バウエルンフェルトが別の交響曲の存在を1828年の日付で記録しており(必ずしも作曲年代を示すものではないが)、《最後の》交響曲と名付けられていた。《最後の》交響曲が「ニ長調」(D 963A)のスケッチを指していることは、音楽学者によってある程度受け入れられている。これは1970年代に発見され、ブライアン・ニューボールド(英語版)によって『交響曲第10番』として理解されている。シューベルトはリストの言葉でよく要約されている。曰く、「シューベルトはもっとも詩情豊かな音楽家である」。 シューベルトの多くの作品に即興性が見られるが、これは彼が筆にインクの染みをつけたことがないほどの速筆だったことも関係している。 シューベルトは歌曲以外にも、未公開作品や未出版作品を大量に遺したため、研究は難航した。 ピアノソナタなど、その他の作品が脚光を浴びるようになるのはシューベルト没後百年国際作曲コンクール(優勝者はクット・アッテルベリ)が1927年に開催される頃からであり、同時期にエルンスト・クルシェネクがシューベルトのピアノソナタの補筆完成版を出版した。 シューベルトのピアノソナタはベートーヴェンより格下に見られていたために、録音しようというピアニストは少数だったが、その黎明期に録音を果たした人物にヴァルター・ギーゼキングがいる。没後150年を迎えた1977年ごろになると、シューベルトのピアノソナタは演奏会で聴かれるようになり、長大なピアノソナタを繰り返しなしで演奏することが可能になった(かつては省略が当たり前だった)。現在は初期から後期までの作品が演奏会に現れる。補筆して演奏するパウル・バドゥラ=スコダ(ピアノソナタ第11番)のようなピアニストも珍しくない。 新シューベルト全集(英語版)は現在、ベーレンライター出版社が全責任を取る形で出版に努めているが、オペラなどの部分はこれからも順次刊行予定である。音符の形やスコア全体のレイアウトはすべてコンピュータ出力で修正されているが、合唱作品はCarus社なども新しい版を出版している。 現在の浄書技術をもってしても、デクレッシェンドなのかアクセントなのかの謎は、完全には解明されていない。そのため、『未完成交響曲』の管楽器についた音は、いまだに奏者や指揮者によって解釈が異なり定着していない。 小惑星(3917) Franz Schubertはフランツ・シューベルトにちなんで命名された。 歴史的位置シューベルトは一般的にロマン派の枠に入れられるが、その音楽、人生はウィーン古典派の強い影響下にあり、記譜法、基本的な作曲法も古典派に属している。貴族社会の作曲家から市民社会の作曲家へという点ではロマン派的であり、音楽史的には古典派とロマン派の橋渡し的位置にあるが、年代的にはシューベルトの一生はベートーヴェンの後半生とほぼ重なっており、音楽的にも後期のベートーヴェンより時に古典的である。 同様に、時期的にも様式的にも古典派にかかる部分が大きいにもかかわらず、初期ロマン派として挙げられることの多い作曲家としてカール・マリア・フォン・ウェーバーがいるが、シューベルトにも自国語詞へのこだわりがあった。ドイツ語オペラの確立者としての功績を評価されるウェーバーと比べると大きな成果は挙げられなかったものの、オペラ分野ではイタリア・オペラの大家サリエリの門下でありながら、未完も含めてドイツ語ジングシュピールに取り組みつづけた。当時のウィーンではドイツ語オペラの需要は低く、ただでさえ知名度の低いシューベルトは上演機会すら得られないことが多かったにもかかわらず、この姿勢は変わらなかった。教会音楽は特性上ラテン語詞の曲が多いものの、それでも数曲のドイツ語曲を残し、歌曲に至ってはイタリア語曲が9曲に対してドイツ語曲が576曲という比率となっている。 「ドイツの国民的、民族的な詩」に対し「もっともふさわしい曲をつけて、本当にロマン的な歌曲を歌いだしたのはシューベルトである」とし、ウェーバーらとともに、言語を介した民族主義をロマン派幕開けの一要素とする見解もある。 シューベルトは幼いころからハイドンやその弟のミヒャエル、モーツァルトやベートーヴェンの弦楽四重奏曲を家族で演奏し、コンヴィクトでもそれらの作曲家の交響曲をオーケストラで演奏、指揮していた。 シューベルトは当時ウィーンでもっとも偉大な音楽家だったベートーヴェンを尊敬していたが、それは畏怖の念に近いもので、ベートーヴェンの音楽自体は日記の中で「今日多くの作曲家に共通して見られる奇矯さの原因」としてむしろ敬遠していた。シューベルトは主題労作といった構築的な作曲法が苦手だったと考えられているが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来シューベルトの作風ではなかった。 むしろシューベルトが愛した作曲家はモーツァルトである。1816年6月14日、モーツァルトの音楽を聴いた日の日記でシューベルトはモーツァルトをこれ以上ないほど賞賛している。またザルツブルクへの旅行時、聖ペーター教会のミヒャエル・ハイドンの記念碑を訪れ、感動とともに涙を流したという日記も残されている。 コンヴィクトからの友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンが書き残した回想文は、シューベルトが11歳のとき、「ベートーヴェンのあとで、何ができるだろう」と言ったと伝えている。さらにオーケストラでハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲を演奏したときにはハイドンの交響曲のアダージョ楽章に深く心が動かされ、モーツァルトのト短調の交響曲(おそらく『第40番 K. 550』)については、なぜか全身が震えると言い、さらにメヌエットのトリオでは天使が歌っているようだと言った。ベートーヴェンについてはニ長調(第2番)、変ロ長調(第4番)、イ長調(第7番)に対して夢中になっていたが、のちにはハ短調(第5番)の方が一層優れていると言ったと伝えている。 ウェーバーとも生前に親交があった。1822年のウィーンでの『魔弾の射手』上演の際に知り合い、シューベルトのオペラ『アルフォンソとエステレッラ』をドレスデンで上演する協力を約束したが、のちの『オイリアンテ』についてシューベルトが、「『魔弾の射手』の方がメロディがずっと好きだ」と言ったために、その約束は果たされなかった。 シューベルトはのちの作曲家に大きな影響を与えた。『ザ・グレート』を発見したシューマンは言うに及ばず、特に歌曲、交響曲においてフェリックス・メンデルスゾーン、ヨハネス・ブラームス、アントン・ブルックナー、ヨーゼフ・シュトラウス、フーゴ・ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウス、アントニン・ドヴォルザークなど、シューベルトの音楽を愛し、影響を受けた作曲家は多い。 シューベルトが私的に行った夜会は、彼の名前にちなんで「シューベルティアーデ(ドイツ語版)」と呼ばれた。現在もキャッチフレーズとして使われることがある。彼は協奏曲を作曲することはほとんどなく、その慎ましいイメージも「シューベルティアーデ」の性格を助長させた。 生前に出版された最後の作品が、1828年に出版された四手ピアノのための『ロンド イ長調』(作品107, D 951)だったことからうかがえるように、生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。同じ時代に、これと同数の作品を作曲できたライバルはカール・チェルニーのみである(31歳前後のチェルニーにはオペラや交響曲などの大規模出版作品は見当たらない)。それらに大規模作品は含まれず、極端な場合は委嘱作すら生前の出版はなく(『アルペジオーネソナタ』など)、没後も長期間にわたり出版が継続されている。最後の作品番号は1867年に出版された「作品173」であり、すでにシューベルト死去から30年以上が経過していた。 31歳でこの膨大な量は無名の作曲家では不可能であり、作曲家としてすでに成功と考えてよいという理由から、シューベルトが本当に貧しかったのか疑問視する声もある。また、シューベルトを描いた肖像画は何点も作成されており、それらは対象を美化している。名士であれば肖像画を実物より美しく描くことが当時の画家の責務だったため、こうした待遇は、シューベルトが名士であった証拠と考えることができる。シューベルトはグラーツ楽友協会から名誉ディプロマを授与された(未完成交響曲)ときには25歳に過ぎず、この時点で彼は無名ではなかったと考えられる。 また、シューベルトの死に際して、新聞は訃報を出している。 作品演奏の諸問題シューベルト作品の校訂は21世紀に入った現在でも簡単ではない。とくに「ヘアピン」とも呼ばれえる特大のアクセントのような記号をどう解釈するかが問題になっている。小節間をまたぐようにヘアピンがわたっているものもある。これをデクレッシェンドと解釈するか、もしくはアクセントと解釈するかが問題となる。また、シューベルトは鋭いスタッカティシモのような縦線を使う(「未完成」の第2楽章)こともあり、19世紀の出版譜では通常のスタッカートに直されている。これも元に戻す動きが見られる。 シューベルトはMM表記を出版作品以外は全く行っていないため、演奏家によって解釈の開きが大きい。 ピアノ作品には、現代ピアノでは非常に難しいオクターヴの連続が『さすらい人幻想曲』ほかで頻繁に現れるが、これは当時の軽いダブル・エスケープメント発案以前のシングル・アクションではオクターヴ・グリッサンドが可能だったためである。親指と小指をアーチの形にして、横にスライドするだけでオクターブのレガートが達成できるが、ダブル・エスケープメントを含めたダブル・アクションを持ち鍵盤の深さが倍になった現代ピアノでは困難である。 ラテン語のミサ曲では6曲すべてで典礼文の一部が欠落しているが、これも理由がわかっていない。典礼文の写しを所持しておりそれに誤脱があったという見解が一般的だが、聖歌隊で数多くのミサ曲を歌ってきたシューベルトが、クレドでのカトリック教会の信仰の本質的な部分の欠如に気づかなかったという説には無理があると思われる。おそらく自身はプロテスタント教会やカトリック教会に対して一線を引いたキリスト教信者という意味で、あえて削除したという説を唱える学者もいる。 2024/05/17 10:37更新
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Franz Schubert
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