ブルース=スーターのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
ハワード・ブルース・スーター(Howard Bruce Sutter, 1953年1月8日 - 2022年10月13日)アメリカ合衆国ペンシルベニア州ランカスター出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
現役時代は、ローリー・フィンガーズ、ダン・クイゼンベリーと共に、MLBにおけるクローザーの草分け的存在として活躍、通算300セーブを記録した。2006年、アメリカ野球殿堂入りを果たした。スプリットフィンガー・ファストボールを世に最初に広めたとされる。
メディアによっては苗字を「スッター」と記すことがある。
スーターは1953年1月8日にペンシルベニア州ランカスターにて農業団体の支部長を務めるハワード・スーターの五男として生まれる。1970年、ランカスター近郊のマウントジョイにあるドネガル高校を卒業し、ワシントン・セネターズ(現:テキサス・レンジャーズ)からドラフト21巡目指名されるも拒否し、オールド・ドミニオン大学に入学。1年後シカゴ・カブスと契約した。
1976年5月にカブスに昇格しメジャーデビュー。当時まだ一般的でなかったスプリットフィンガー・ファストボール(SFF)を駆使し、抑えとして活躍。1979年自身初のセーブ王に輝き、サイ・ヤング賞を受賞。1980年オフにセントルイス・カージナルスへトレードされ、1982年ワールドシリーズ第7戦を締めくくり、カージナルス15年ぶりの世界一に貢献した。1984年にはフリーエージェントを行使して、当時のレートで「4年契約24億円」という、当時としては破格の契約でアトランタ・ブレーブスへ移籍したが、SFFのリスクともいえる肩の故障を招いて以後、成績は下降、1988年に35歳で引退した。
2006年に資格取得後13年目でようやくアメリカ野球殿堂入りを果たした。リリーフ投手としては4人目、先発経験のない投手としては史上初の殿堂入りで、通算5回のセーブ王獲得はナショナルリーグ最多であり、当時のファイアマン(抑え投手)は9回のみの登板が主流のクローザーとは異なり、8回から登板することも珍しくなく、長いイニングを投げ抜いた。スーターも100イニング以上登板は5回記録しており、この時代を代表する抑え投手だった。
殿堂入りを記念し、スーターのカージナルス在籍時の背番号『42』が同2006年に永久欠番に指定されるが、既にジャッキー・ロビンソンの永久欠番(1997年)となっており、既に永久欠番である背番号の追加指定はモントリオール・エクスポズのラスティ・スタウブとアンドレ・ドーソンの例以来2組目となった。
2022年10月13日、ジョージア州で死去。69歳没。
詳細情報
各年度の太字はリーグ最高
最多セーブ投手:5回(1979年 - 1982年、1984年)
最優秀救援投手:4回(1979年、1981年、1982年、1984年)
サイ・ヤング賞:1回(1979年)
ローレイズ・リリーフマン賞:4回(1979年、1981年、1982年、1984年)
ベーブ・ルース賞:1回(1982年)
MLBオールスターゲーム選出:6回(1977年 - 1981年、1984年)
42(1976年 - 1984年、1988年)※ジャッキー・ロビンソンと共同でセントルイス・カージナルスの永久欠番
40(1985年 - 1986年)