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ボブ=レモン
ボブ=レモン(Robert Granville “Bob” Lemon)さんの誕生日は1920年9月22日です。
詳細情報などについてまとめました。引退に関する情報もありますね。79歳で亡くなられているようです。
ロバート・グランビル・レモン(Robert Granville Lemon, 1920年9月22日 - 2000年1月11日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンバーナーディーノ出身のメジャーリーグベースボール選手(投手)。右投左打。 1940年代から1950年代にかけてクリーブランド・インディアンス一筋で活躍し、シンカーを得意球として通算207勝を挙げた。現役引退後、3球団で監督を務め、ニューヨーク・ヤンキースでは1978年にチームをワールドシリーズ制覇に導いている。 1938年にクリーブランド・インディアンスと契約。1941年9月9日の対フィラデルフィア・アスレチックス戦(シャイブ・パーク)で、試合終盤からケン・ケルトナーに代わり三塁の守備に就いてメジャーデビューを果たす。翌1942年にかけての2年間は10試合に出場したが、すべて三塁手または代打としての起用であった。再度メジャーに昇格した1946年には、投手として32試合に登板し、4勝を挙げる一方で、中堅手や代打としても起用され、合計55試合に出場。11勝を挙げた1947年より投手に専念することになるが、打力にも優れ、その後も代打での出場は多かった。 1948年は6月30日の対デトロイト・タイガース戦(ブリッグス・スタジアム)でノーヒットノーランを達成。20勝を挙げ、チームのワールドシリーズ制覇に貢献。以後、シーズン20勝以上を7回記録し、ア・リーグ最多勝利を3回受賞。MLBオールスターゲームにも7回出場した。1950年には自己最多の23勝を挙げた。この頃のインディアンスはボブ・フェラー、アーリー・ウィン、マイク・ガルシアと共に「四本柱」を形成。1954年には再び自己最多タイの23勝を挙げ、チームのワールドシリーズ進出に貢献。しかし、ニューヨーク・ジャイアンツに敗れ、チームは以後1997年までの41年間にわたってワールドシリーズから遠ざかることとなる。 1956年には通算200勝を達成、達成試合では自ら本塁打を打っており、200勝達成試合での本塁打はメジャーリーグ史上初。この年の20勝を最後に成績は下降し、0勝に終わった1958年限りで現役を引退。 引退後、1960年にインディアンスの投手コーチを務めた。その後はインディアンス、フィラデルフィア・フィリーズ、カリフォルニア・エンゼルスの傘下マイナーリーグで監督を務め、1966年にはエンゼルス傘下のAAA級シアトル・エンゼルスをパシフィック・コースト・リーグ優勝に導く。1970年シーズン途中にカンザスシティ・ロイヤルズの監督に就任。1971年には85勝76敗で創設3年目のチームをア・リーグ西地区2位に導き、最優秀監督賞を受賞するが、4位に終わった1972年限りで退任。 1976年には全米記者協会の投票でアメリカ野球殿堂入りを果たす。同年、ニューヨーク・ヤンキースの投手コーチに就任し、ビリー・マーチンが監督の下、ワールドシリーズ進出(シンシナティ・レッズに敗北)に貢献。1977年にはシカゴ・ホワイトソックスの監督に就任。同年は90勝72敗で地区3位と健闘したが、1978年は開幕から34勝40敗となった6月30日にオーナーのビル・ベックに解任された。ところが翌7月24日、ヤンキースの球団社長アル・ローゼンは監督を解任されたマーチンの後任として、前月に他球団の監督を解任されたばかりのレモンを招聘。この時点でチームは首位ボストン・レッドソックスと10.5ゲーム差の4位だったが、残り67試合で47勝20敗と猛追しレッドソックスに追いつき、ワンゲームプレイオフでレッドソックスを下し地区優勝。更にリーグチャンピオンシップシリーズ(ALCS)でもロイヤルズを倒し、ワールドシリーズでもロサンゼルス・ドジャースを倒して、ワールドチャンピオンに輝く。翌1979年途中に解任され、再びマーチンが監督となる。1981年途中に、ジーン・マイケルの監督解任の後を受けて再度ヤンキースの監督に就任。この時には11勝14敗に終わったが、この年は50日間に及ぶストライキによってシーズンが前期・後期と二分されており、前期優勝したチームは、ディビジョンシリーズを制して地区優勝。リーグチャンピオンシップシリーズでもマーチン率いるオークランド・アスレチックスを破って、再び途中就任でワールドシリーズに進出。しかし、ドジャースに敗れ、監督として2度目のワールドチャンピオンはならなかった。1982年に開幕からわずか14試合(6勝8敗)で解任。その後はマイケルが代理監督を務め、更にシーズン途中でクライド・キングが代理監督を務めてシーズンを全うした。結局、ヤンキースでは2度のワールドシリーズを経験したが、全て年度途中での交代のため、指揮を執ったのはわずか172試合であった。 1998年に古巣インディアンスはレモンの在籍時の背番号「21」を永久欠番に指定したが、指定当時「21」は当時インディアンス監督を務めていた、チームでの後輩にあたるマイク・ハーグローヴがつけていた。 2000年1月11日にカリフォルニア州ロングビーチで死去。79歳没。 投手としての主な球種はストレート、カーブ、スライダー、シンカー「米書 guide to pitchersより」 詳細情報各年度の太字はリーグ最高 順位は最終順位 順位の太字はワールドシリーズ制覇 ノーヒットノーラン:1回 (1948年6月30日、対デトロイト・タイガース戦) 最多勝利:3回 (1950年、1954年、1955年) 最多奪三振:1回 (1950年) MLBオールスターゲーム出場:7回 (1948年 - 1954年) 最優秀監督賞:1回 (1971年) アメリカ野球殿堂入り(1976年) 38 (1941年) 42 (1942年) 6 (1946年) 21 (1947年 - 1958年、1960年、1971年 - 1972年、1976年 - 1979年、1980年 - 1981年) 2 (1970年) 2024/05/25 13:15更新
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Robert Granville “Bob” Lemon
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