交告弘利のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
交告 弘利(こうけつ ひろとし、1946年8月20日 - )は、岐阜県中津川市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。纐纈 弘利とする文献もある。
岐阜短期大学付属岐阜高等学校(現・岐阜第一高等学校)在学中に、阪神タイガースの熱心なスカウトを受け、高校2年時の1963年に高校を中退して、阪神に入団した。
翌1964年に投手として選手登録。当時の阪神の投手コーチだった、杉下茂が惚れ込んだ逸材だったが、体が硬く全体的にギクシャクしていたため、プロでは伸び悩んだ。スリークォーターよりやや下から繰り出される球には、伸びや切れも感じられなかったと伝わる。1965年10月5日の巨人戦(後楽園球場)がプロ初登板。同年10月25日の広島戦でプロ初先発した(敗戦投手になっている)。プロでは消化試合後の先発や敗戦処理での登板がメインだった。これは当時の阪神が慢性的な左投手不足にあったため、実力的には劣っていたものの、潜在能力の高さを買われていた交告を登板せざるを得なかったためであると言われている。1965年には1試合、いわゆる当て馬として先発出場(一塁手)している。
1967年10月15日のサンケイ戦(東京スタジアム)で先発したが、打ち込まれて敗戦投手になると、翌1968年は登板機会がなく、同年末に自由契約となった。
翌1969年にはグローバルリーグの「東京ドラゴンズ」に参加。しかし、リーグは資金難により僅か1年で解散し、この年を以て現役引退した。
江夏の入団により隅に追いやられた格好となったが、江夏とは仲が良く、一緒に花札で遊んだ事もあると江夏の自伝で記されている。
ドロップ、シュートを武器としたが、制球難であった。
詳細情報
69 (1963年)
58 (1964年)
35 (1965年 - 1968年)