城之内早苗のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
城之内 早苗(じょうのうち さなえ、1968年5月17日 - )は、日本の演歌歌手、元アイドル。本名、木村 早苗(きむら さなえ)。旧姓、城之内。おニャン子クラブ時代の愛称は、お城(おじょう)。旧所属事務所はプロダクション尾木であった。現在は個人事務所。所属レコード会社は徳間ジャパンコミュニケーションズ。
茨城県鹿島郡神栖村(後に神栖町、現:神栖市)出身。明治大学付属中野高校夜間部卒業。
幼少の頃より民謡と三味線を習う。中学2年生の時に東京12チャンネル(現:テレビ東京)とCBS・ソニー主催の『全日本演歌選手権』に応募したのをきっかけにスカウトされる。
その後、1984年に「神栖町民音頭」をレコーディングした 以外は特に何も音沙汰が無かったが、1985年5月、スタッフの勧めでフジテレビ『夕やけニャンニャン』のオーディションコーナー、「ザ・スカウト アイドルを探せ!」に出場。105点を獲得して見事合格を果たし、おニャン子クラブの会員番号17番となる。在籍中から演歌歌手志向が強く、1986年6月に「あじさい橋」でソロデビュー。メンバーでは唯一の演歌界進出となった。同曲はオリコンチャートにおいて、演歌で初の初登場1位の記録を作った。
同グループ解散後、文化放送『走れ!歌謡曲』木曜日(水曜深夜)のパーソナリティや、フジテレビ『ものまね王座決定戦』にレギュラー出演、優勝も経験。
女優として1994年に放送されたナショナル劇場『江戸を斬る(第8部)』に、ゆき役で出演。
1995年7月より地方局向けラジオ番組『城之内早苗のハートフル・ダイアリー』を担当中。
2001年7月リリース「うずまき音頭」は「アース渦巻香」(アース製薬)CMソングとなり、本人も出演。
2004年12月、36歳の時に、『夕やけニャンニャン』のディレクターで、『ものまね王座決定戦』のプロデューサーでもあった16歳年上の木村忠寛(現:フジテレビライツ開発局企画部長)と結婚。
2008年2月、レコード会社をユニバーサルシグマに移籍し、シングル「この街で」(テレビ東京『いい旅・夢気分』エンディングテーマ)をリリースした。
2010年9月22日、レコード会社をテイチクエンタテインメントに移籍し、移籍第一弾シングル「泣き砂 海風」を発売。USENリクエストチャートで歌謡曲、演歌部門さらには総合部門でも1位を獲得した。
2011年7月20日、西馬音内 盆唄を発売。日本三大盆踊りとして国指定重要無形民俗文化財にも指定されている、秋田県西馬音内の盆踊を題材にした曲である。
2016年11月18日、第58回日本レコード大賞日本作曲家協会奨励賞受賞することが発表された。
2018年9月26日、レコード会社を徳間ジャパンコミュニケーションズに移籍、シングル「よりそい蛍」を発売。
2019年10月23日、新録オリジナル・アルバムとして1987年発売の「石畳の街」以来、32年ぶりとなるニュー・アルバム「早苗歌」を発売。
2021年8月31日、全国の通信カラオケDAMにおいて、カラオケ演奏の曲間に配信している演歌・歌謡に特化した情報コンテンツ「DAM CHANNEL演歌」の5代目MCに就任。
人物
鹿島郡神栖町で会社経営をする父と母、4歳年下の弟の4人家族。小学生の頃女子プロレスが大人気だったことから、当時はビューティ・ペアに憧れていた。当時はお転婆な性格で弟にプロレス技をかけて時々泣かしていたが、弟が他の男の子にいじめられると助けに行っていた。
小学4年生の頃に母が近所の人たちと民謡を習い始め、見学に行ったことで本人も習い始める。同時期に父に連れられていったスナックのカラオケで小林幸子の「おもいで酒」や石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」などを歌うようになる。
中学2年生の時の「全日本演歌選手権」では、松原のぶえの「おんなの出船」を歌唱してテープに録音して応募したが、3次審査で落選。しかし、CBS・ソニーから歌のレッスンへの参加を勧められ、当時市ヶ谷にあったCBS・ソニーに月2回のレッスンに通い始める。
2年後、CBS・ソニーから『夕やけニャンニャン』のアイドルオーディションコーナーへの誘いに躊躇したが、スタッフから「絶対に受からないから安心して」と言われ、軽い気持ちで参加を決める。おニャン子クラブ加入後から忙しくなって実家から通えなくなったため、明治大学付属中野高校夜間部に転入、文京区白山のCBS・ソニーの寮で生活を始めた。
1987年に同グループの解散を機に本格的に演歌歌手として活動を始めるが、当時は「おニャン子にしては歌が上手い」というレベルであり、本人の中では、ミスしても誰かがフォローしてくれる、というおニャン子時代の甘さが抜けていなかった。しかし先輩演歌歌手たちとの歌番組の収録で失敗したことで猛省し、その後の仕事では甘えず全力で取り組むことを決意。その後は真剣に歌に取り組んだが空回りする日々が続き、次第に歌うことが楽しくなくなった。ある日スタッフからの勧めでちあきなおみのアルバム(詳細不明)を聴いたことで歌声に衝撃を受け、スランプから抜け出した。
エピソード
読売ジャイアンツで活躍した城之内邦雄は大叔父(祖父の弟)にあたる。
俳優の地井武男とは親戚になる。
出身地の茨城県に本拠を置くJリーグ・鹿島アントラーズの熱狂的サポーターである。
出身地である当時の神栖町を歌った「神栖町民音頭」(作詞:村田さち子、作曲:寺内タケシ)は、おニャン子クラブでデビューする前の1984年にレコーディングしたもので、市販の音盤は存在しない。
国生さゆり曰く、おニャン子クラブのなかで一番歌が上手かった。
「夕やけニャンニャン」にて、当時放送中の「影の軍団」のファンであることをとんねるずにいじられていた。
おニャン子クラブのオーディションの際は、高校生でない河合その子と演歌の城之内とで、「私たちは絶対に受からないよね。もう会えないかもね。」と話して記念に一緒に東京タワーに上って別れた。その後、CBS・ソニーの寮で再会し2人ともビックリしたという。
上記のこともあり、河合その子と仲が良く、寮は1人部屋であったが布団を2枚敷いて一緒に寝ていた。また、おニャン子クラブ解散後も城之内がフジテレビ『森田一義アワー 笑っていいとも!』内「テレフォンショッキング」に出演した際には河合から花が贈られた。
自身と同じく元おニャン子クラブの布川智子とは高校の同級生でとても仲が良く、その布川も自身の後におニャン子のオーディションを受けて合格し、それから自身と同じくおニャン子のメンバーとなった。夜のヒットスタジオ初登場時、初恋の人と対面した城之内は、放心状態だった歌唱後、布川の兄の事務所の先輩だった近藤真彦に隣席でフォロー(今みんな拍手してるよ、と教えるなど)して頂いたと後日談にて語っていた。
自身のYouTubeチャンネルでおニャン子のメンバーの歌をカバーする事もあり、動画の最後に「〇〇ちゃん、御免なさい。」と締めくくるのが恒例となっている。
配偶者・夫は元フジテレビプロデューサー・演出の木村忠寛。