小錦八十吉_(初代)の情報(こにしきやそきち) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
小錦 八十吉_(初代)さんについて調べます
■名前・氏名 |
小錦八十吉_(初代)の情報まとめ
小錦 八十吉_(初代)(こにしき やそきち)さんの誕生日は1866年11月21日です。千葉出身の相撲のようです。
父親、引退、現在に関する情報もありますね。1914年に亡くなられているようです。
小錦八十吉_(初代)のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)小錦 八十吉(こにしき やそきち、1866年11月21日(慶応2年10月15日) - 1914年(大正3年)10月22日)は、上総国武射郡(現:千葉県山武郡横芝光町)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。第17代横綱。本名は岩井 八十吉(いわい やそきち)。 1866年11月21日(慶応2年10月15日)に、上総国武射郡で料理屋「岩城屋」を営む家に生まれる。土地相撲で岩城川と名乗って大関だった父親は何とか息子を力士にしたいと考え、1881年に佐倉へ巡業に来ていた土地相撲仲間の高見山宗五郎に頼んで入門させた。当初は厳しい稽古に耐え切れず2、3度実家へ逃げ帰ったが、父親の激励によって1883年に再入門を決意し、小錦の四股名で前相撲から取り直し、稽古に励んで順調に出世した。体力不足を猛稽古で補って三段目に昇進した頃から頭角を現した。 1888年5月場所の新入幕から足かけ4年で39連勝を達成し、その間に優勝相当成績を7回記録するなど、入幕当時の勢いは凄まじかった。1896年5月場所後に吉田司家から横綱免許を授与された時には史上初となる20代での授与だった。しかし昇進後は全盛期を過ぎており、一度も優勝相当成績を残すことが出来なかった。この頃から師匠・高砂が脳を患っており、小錦がその面倒を見ていたことも影響している。小錦の上昇時には周囲は四つ相撲が主で、小錦のような速攻力士は稀であった。ところが、小錦よりさらに敏捷な荒岩が登場してきて小錦は苦しんだ。重くて素早くて柔らかい梅ノ谷にも勝てなくなった。 1900年1月場所は5勝3敗1分、1900年4月に師匠の高砂が没し、5月場所、1901年1月場所と全休し、現役を引退して年寄・二十山を襲名、二十山部屋を創立した。年寄としては2代小錦・千葉ヶ崎などを育成した。引退後も7年間は髷を付けたまま勝負検査役・取締役に就任し、その腰低く、誠実・真面目な人柄で平年寄と変わらぬ働き振りであったため、人望を集めた。1914年7月に高砂が死去したことで後継者に内定していたが、同年10月22日に巡業中の広島で悪性の筋肉炎にかかり博多で療養したが死去、47歳没。「高砂」を正式に襲名する直前に死去したため、高砂の代数には数えられていない。没後、「高砂」は部屋頭の2代目朝潮が継いだ。 立合いの素早さと突き押し、そして俊敏な動きで知られ、「軍配が返る前に小錦の勝ち」「行司が『ハッケ』と軍配を引き、『ヨーイ』と言わないうちに勝負が決した」とも評された。その一方で、精神面に弱点があり小心者であるゆえに初日によく星を落とすため、「小錦と当たるなら初日」と願う力士も多かったという。横綱として出場した8場所中4度初日に敗れている。その相撲振りと相撲人形のような色白の風貌から「荒れ狂う白象の如し」と称された。 当時としては非常に早い相撲を取る力士だったが、梅ヶ谷藤太郎(2代)・荒岩亀之助といった、自分より早い相撲を取る力士にはついて行けずに敗れることが多かった。 色白・童顔の愛嬌のある風貌から人気者となり、錦絵が飛ぶように売れたという。その人気のため、東京では「小錦織」なる織物も販売された。 1883年の夏に奥州で巡業が行われ、東京の部屋から栃木県大田原市まで徒歩で向かったが、太っているので股擦れが酷く、痛くてゆっくり歩いているうちに仲間に置いて行かれた。さらに空腹を感じたものの、早朝に餅を買ったために5〜6銭の小遣いは無く一文無しの状態だった。ある地点で、地蔵堂の前に文久銭2枚が置かれているのを見つけると、昇進して必ず倍返しにすることを手を合わせて約束して掴み取り、近くの駄菓子屋で煎餅を購入して桶の水を浴びるように飲んで空腹をしのぎ、さらに畑でトウモロコシを食べて小川の水を飲み、途中の茶店の老人から麦飯を御馳走されて、夜になってようやく宿へ到着した。それから数年後に昇進して再び奥州の巡業に参加した際、人力車に乗って向かう途中に地蔵堂へ立ち寄って約束通り5銭白銅貨を献上したが、茶店は無く老人の消息も掴めなかった。 明治以降の横綱では唯一、手形が残されていない。これは小錦が、自らの小さい手を気にして手形を残さなかったためと言われる。 元大関でタレントの小錦は幕内力士としては3代目小錦、十両以下の力士(名前が「八十吉」以外も含む)を含めると「6代目小錦」となる。 21世紀になって在日宣教師の子孫の自宅から、小錦の横綱土俵入りと大砲万右エ門との取組のフィルムが発見された。これは横綱土俵入りを映した映像としては最古のもので、感度の悪いフィルムの映りを良くするために行司の後方に幕が引いてあったり、土俵入りの所作も現在とは異なる。 幕内在位:26場所 大関在位:12場所 幕内通算成績:119勝24敗9分7預101休 勝率.832 優勝相当成績:7回 この時代は、幕内力士は千秋楽(10日目)には取組が組まれず、出場しないのが常態であったので、各場所の1休はそれに該当するものであり、実質的には9日間で皆勤である。 当時の幕下以下の星取・勝敗数等に関する記録はほとんど現存していないため、幕下以下の勝敗数等は省略。 ^ 1896年5月狭布里、1897年1月荒岩、5月小松山、1899年1月松ヶ関 ^ 当時、関取は人力車や馬に乗って先に行けたが、幕下以下の若い者は絶対に歩かなければならなかった。 ^ 別名「四文銭」とも言い、当時は1枚が1.5厘だった。 ^ 当時は番付表の上から二段目は十両と幕下に分けられておらず、十両の地位は存在せず幕内のすぐ下が幕下であった。この当時の幕下は、十両創設後現代までの十両・幕下と区別して二段目とも呼ぶ。 ^ この場所より十両創設(番付表記上十両と幕下が分離される)。 ^ 優勝相当成績。 ^ この場所まで39連勝、十両時代を含めれば41連勝。 ^ 場所後3月に横綱免許。 ^ この横綱大関は、当時の実物の番付面での表示は、「大関」をメインにして「横綱」を小さな文字で記載していた。 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p16 ^ 『大相撲ジャーナル』2018年9月号 p.57 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p37 ウィキメディア・コモンズには、小錦八十吉 (初代)に関するカテゴリがあります。 横綱一覧 相撲レファレンス 第17代横綱 小錦 八十吉 表 話 編 歴 初代明石志賀之助 2代綾川五郎次 3代丸山権太左衛門 4代谷風梶之助 5代小野川喜三郎 6代阿武松緑之助 7代稲妻雷五郎 8代不知火諾右衛門 9代秀ノ山雷五郎 10代雲龍久吉 11代不知火光右衛門 12代陣幕久五郎 13代鬼面山谷五郎 14代境川浪右衛門 15代梅ヶ谷藤太郎(初代) 16代西ノ海嘉治郎(初代) 17代小錦八十吉 18代大砲万右エ門 19代常陸山谷右エ門 20代梅ヶ谷藤太郎(2代) 21代若嶌權四郎 22代太刀山峯右エ門 23代大木戸森右エ門 24代鳳谷五郎 25代西ノ海嘉治郎(2代) 26代大錦卯一郎 27代栃木山守也 28代大錦大五郎 29代宮城山福松 30代西ノ海嘉治郎(3代) 31代常ノ花寛市 32代玉錦三右エ門 33代武藏山武 34代男女ノ川登三 35代双葉山定次 36代羽黒山政司 37代安藝ノ海節男 38代照國萬藏 39代前田山英五郎 40代東富士欽壹 41代千代の山雅信 42代鏡里喜代治 43代吉葉山潤之輔 44代栃錦清隆 45代若乃花幹士(初代) 46代朝潮太郎 47代柏戸剛 48代大鵬幸喜 49代栃ノ海晃嘉 50代佐田の山晋松 51代玉の海正洋 52代北の富士勝昭 53代琴櫻傑將 54代輪島大士 55代北の湖敏満 56代若乃花幹士(2代) 57代三重ノ海剛司 58代千代の富士貢 59代隆の里俊英 60代双羽黒光司 61代北勝海信芳 62代大乃国康 63代旭富士正也 64代曙太郎 65代貴乃花光司 66代若乃花勝 67代武蔵丸光洋 68代朝青龍明徳 69代白鵬翔 70代日馬富士公平 71代鶴竜力三郎 72代稀勢の里寛 73代照ノ富士春雄 雷電爲右エ門 千葉県出身の大相撲力士 高砂部屋 横芝光町の歴史 1866年生 1914年没 千葉県出身の人物 上総国の人物 横綱
2024/10/30 19:04更新
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