山路芳久のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
山路 芳久(やまじ よしひさ、1950年(昭和25年)6月17日 - 1988年(昭和63年)12月19日)は、1970年代から1980年代にかけてヨーロッパの歌劇場で活躍した日本のテノール歌手、音楽教育者。
三重県津市に、警察官の四男(末子)として生まれる。中学生の頃より声楽を学び始め、三重県立津高等学校を経て1969年(昭和49年)東京芸術大学音楽学部に入学した。伊藤亘行、疋田生次郎に師事。
1976年(昭和51年)同大学院を修了した後は二期会に所属した。翌1977年(昭和52年)にイタリア政府給費留学生としてローマ サンタ・チェチーリア国立アカデミアに進学。1978年(昭和53年)ミラノ・スカラ座研究所に入る。マニヨーニ、ファヴァレット、ブラスキに師事。イタリア各地の声楽コンクールでも優秀な成績を収めた。さらにスカラ座のオーディションに日本人男性として初めて合格し、1979年(昭和54年)にロッシーニ『モーゼ』での端役ながらスカラ座にデビューしている。
同年にはウィーン国立歌劇場の専属歌手となり、ヴェルディ『椿姫』アルフレードやドニゼッティ『愛の妙薬』ネモリーノを歌った。世界の著名歌劇場で日本人テノール歌手が専属として主役を歌うのはこの山路が最初であり、日本声楽界にとっての快挙であった。
その後も山路は、上記レパートリーの他、ロッシーニ『セビリアの理髪師』アルマヴィーヴァ伯爵などリリコ・レッジェーロの諸役を中心にウィーンで活躍。1982年(昭和57年)からはミュンヘン国立歌劇場と専属契約し、ヴォルフガング・ザヴァリッシュやカルロス・クライバーらの指揮のもとに世界的な歌手として活躍し、将来を嘱望されていた。
日本にもたびたび帰国し、所属の二期会の公演やリサイタルなどでその美声を聞かせた。1986年(昭和61年)からは二期会を退団、フリーとして藤原歌劇団の公演にも参加した。特に例年、年末12月から1月にかけては日本に戻り、12月はベートーヴェンの『第九』を各都市で歌い、1月に『NHKニューイヤーオペラコンサート』に出演の後ヨーロッパに戻るのを恒例としていた。
元東京芸術大学音楽部声楽科講師。門下生に吉田浩之、榛葉昌寛などがいる。
1988年(昭和63年)は11月12日に津高校同窓会主催で鈴鹿市文化会館の「山路芳久テナーコンサート」に出演。12月 - 1989年1月は例年通りのシーズンとなるはずであった。胸に若干の痛みを訴えていたともいう山路は、12月に組まれた全17回の『第九』の過密スケジュールをこなしていたが、10回目の公演を終えた12月19日、午前中のリハーサルから自宅に戻ったのち、医者に行って診察を受け、薬をもらい、「ちょっと晩御飯ができるまで横になってくる」と二階に上がったのが、その最後の言葉だったという。死因は心筋梗塞であった。38歳没。その唐突な死は日本声楽界にとって衝撃となった。
2004年(平成16年)2月29日午後9時NHK教育テレビの『思い出の名演奏』で山路の歌うドニゼッティ『愛の妙薬』のハイライトが放映されている。
2013年(平成17年)5月にも津リージョンプラザお城ホールにて「山路芳久メモリアルコンサート」が開催された。
受賞歴
1976年 第7回イタリア声楽コンコルソ・テノール特賞
1976年 第12回日伊声楽コンコルソ第1位
1976年 第45回日本音楽コンクール声楽の部第3位
1976年度 海外派遣コンクール特賞
1978年 レッジョ・エミリア国際音楽コンクール第1位
1978年 ベミアミーノ・ジーリ国際コンクール第2位
1978年 エンナ国際音楽コンクール第1位
1978年 マリオ・デル・モナコ国際音楽コンクール第1位
1978年 ヴィオッティ国際音楽コンクール第1位
1979年 ヴェルディ国際声楽コンクール第2位
1984年 ヴェルディ国際声楽コンクール第2位
1985年度 第13回ジロー・オペラ賞大賞
日本でのオペラ演奏歴
昭和音楽大学オペラ情報センターの記録による。
1982年1 - 2月 二期会・モーツアルト『ドン・ジョヴァンニ』ドン・オッターヴィオ
1985年8月 欧州音楽年日本実行委員会・マスカーニ『イリス』(日本初演)オオサカ
1986年6月 二期会・ドニゼッティ『愛の妙薬』ネモリーノ
1986年11月 藤原歌劇団・プッチーニ『妖精ヴィッリ』(日本初演)ロベルト
1987年6月 民主音楽協会・ロッシーニ『シンデレラ』ドン・ラミロ
1987年10月 二期会・ロッシーニ『セビリアの理髪師』アルマヴィーヴァ伯爵
1988年2月 藤原歌劇団・ヴェルディ『椿姫』アルフレード