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岡山一成
岡山 一成(おかやま かずなり)さんの誕生日は1978年4月24日です。大阪出身のサッカー選手のようです。
所属クラブ、個人成績などについてまとめました。卒業、テレビ、引退に関する情報もありますね。岡山一成の現在の年齢は46歳のようです。
岡山 一成(おかやま かずなり、1978年4月24日 - )は、大阪府堺市出身の元サッカー選手。サッカー指導者。現役時代のポジションはDF、FW。 Kリーグ時代の登録名は岡山(ハングル: 오까야마)。 日本サッカー協会公認A級ライセンス所持。 大阪府堺市南区赤坂台の出身。兄の影響を受け地元の少年団でサッカーを始め、堺市立赤坂台中学校を経て、初芝橋本高校へ進学。2年生の時に第74回全国高等学校サッカー選手権大会へ出場し、1学年上の吉原宏太と2トップを組みフォワード(FW)として出場、ベスト4に進出して優秀選手に選出される。翌年の第75回全国高等学校サッカー選手権大会にも2年連続で出場し、同期生にはDF大野貴史がいたが、初戦の2回戦で桐光学園高校に敗退。同高校の中村俊輔とは横浜マリノスでの同期入団となった。 高校卒業後の進路ではプロ選手を希望したが、入団は難航。1996年、テレビ東京系の番組『ASAYAN』内の企画「Jリーガーオーディション」に参加していたが、同時期に進められていた横浜Mと練習生契約がまとまったため、オーディション参加を途中で取りやめて1997年8月に入団した。また、高校卒業後に韓国の社会人チームへの留学も経験している。 横浜Mではデビュー戦から3試合連続ゴールを記録。しかしその後は出場機会に恵まれず、1999年後半は当時J2の大宮アルディージャに期限付き移籍した。 翌2000年に横浜F・マリノスに復帰し、ディフェンダー(DF)にコンバートされるが出場機会はほとんどなく、そのため2001年にはセレッソ大阪へ移籍。しかしここでも水が合わず、シーズン終了とともに戦力外通告を受ける。 2002年、石崎信弘監督からの誘いで川崎フロンターレへ入団すると出場機会も増え、2004年のクラブJ1昇格に貢献。川崎では「岡山劇場」と呼ばれる試合後のマイク(メガホン)パフォーマンスによりサポーターからの人気も集めた。2005年には当時J2のアビスパ福岡へレンタル移籍。フォワードとしても活躍し、J1昇格を果たした。しかし、川崎時代や後の柏時代と打って変わって、ファールが多く、また熱狂的で過激なサポーターが多い福岡サポーターと揉め事を起こすなど、彼に見合った活躍ができたとはいえなかった。 2006年は「石さんをJ1に昇格させたい」という思いから、川崎時代の指揮官である石崎信弘が新監督に就任したJ2柏レイソルにレンタル移籍。開幕前、監督にFWでのプレーを直訴するが却下される。しかしJ2公式戦10得点と自身も大活躍し、3シーズン連続でJ1昇格に貢献する。日本で最もピッチと観客席が近い日立柏サッカー場において、「岡山劇場」は柏でも名物となった。サポーターからはゲートフラッグに書かれたセリフがきっかけで「オカヤマ、柏に、家買っちゃえ!!」と毎試合コールされるようになる。これらの甲斐あって、Jリーグ情報サイト・J's GOALのJ2ベストパフォーマー賞を受賞した。 2007年、柏に完全移籍。「昨年は石崎監督をJ1に上げたいという気持ちでレイソルにやってきたが、サポーターにものすごく助けてもらい、これからもレイソルでプレーしたいという気持ちになった」と語り、また川崎サポーターに対しては移籍する際の心情等を語ったメッセージが川崎の公式サイトに掲載された。 しかし同学年のDF古賀正紘の加入などがあって出場機会に恵まれず、同年8月、監督の勧めにより、ベガルタ仙台へ期限付き移籍。当時チーム状況があまり良くなかった仙台だが、岡山の加入会見での「この時期に苦しむのは当たり前」「秋にお祝いするために今苦しい思いをしましょ」というコメントで初日からサポーターの心を掴む。岡山投入直後にはチーム状況が良化。白星を量産するまでにいたるようになった。 仙台においても「岡山劇場」は健在で、8月30日の対京都戦ではヒーローインタビューの際にアナウンサーからマイクを奪い取ってマイクパフォーマンスを行ったほか、さらに全ての選手と全てのサポーターを巻き込んでのシャンゼリゼ合唱やロペスダンスや梁勇基コールをするなど、派手なパフォーマンスを披露していた。 仙台のJ1昇格が消滅したことで、4度目の昇格請負にはならなかったものの、守備や攻撃に長けている積極的なプレーと、選手同士との綿密なコミュニケーションを積極的にとる、さらにド派手なファンサービスを行うなどにより、出場回数が少ないながらも仙台にとってなくてはならない選手の一人になっている。12月20日に仙台への完全移籍が発表された。また、柏サポーターと仙台サポーター双方へのメッセージがそれぞれの公式サイトに掲載された。 2008年、仙台に完全移籍。センターバックとして"守備の要"的役割を果たすが、後半になるにつれて出場機会が激減、入れ替え戦を前に戦力外通告を受け、シーズン終了とともに仙台を退団。その後トライアウトにも参加したが、移籍先が見つかるには至らなかった。 2009年、所属は未定のままであるが引退はせず、オフ期間には自身がオーナーであるブラジル料理店barracão da mocidade [1] で働きながらJリーガー復帰を目指していた。その後、韓国Kリーグの浦項スティーラースに練習生として練習参加していることが本人のブログで明かされており、同年7月14日、浦項と契約した。8月22日の全北現代戦でKリーグデビュー、8月26日にピースカップでFCソウル戦に途中交代でDFながらFWとして出場しKリーグ初得点を決めた。同年12月のFIFAクラブワールドカップ2009では2試合に出場。3位決定戦のアトランテFC戦ではゲームキャプテンとして先発出場し、3位入賞に貢献した。 2010年、引き続き浦項でプレーをしていたが、12月1日、契約満了に伴い浦項を退団し、日本に帰国。 2011年も当初は所属クラブが見つからず、3月11日に起きた東日本大震災の復興支援活動も行いながら、4月からスペイン4部のイジェスカスなどで入団に向けた練習参加をしていたが、6月22日からは石崎が監督をしていたJ2のコンサドーレ札幌へ練習参加し、同月29日に加入が発表された。札幌では「J1昇格しなかったら退団する」と宣言し、出場試合数は5試合にとどまったものの、「岡山劇場」を展開してチームを盛り上げた。岡山入団後にはチームも快進撃を展開、前半戦10位から3位まで(最高位は暫定ながら1位)順位を上げ、最終節で3位を確定させてJ1昇格を果たした。シーズン後はクラブからピッチ外での活動を評価され、契約を更新した。 2012年に札幌との契約が満了、その後は親族が経営する電力会社に勤務していたが、現役復帰に意欲を見せていた(2013年5月8日の『Foot!』での密着取材およびインタビューより)。その後同年8月21日、関西サッカーリーグ1部の奈良クラブにアマチュア選手として入団することとなった。2014年の天皇杯では2回戦で仙台と対戦して得点を挙げ「ジャイアント・キリング」に貢献し、この大会の「SURUGA I DERAM Award」を授賞している。 2017年シーズン終了後に契約満了に伴い奈良クラブを退団。 2018年、関東学院大学サッカー部アドバイザーに就任。 2019年、鈴鹿アンリミテッドFCのコーチ兼フィジカルコーチに就任。 2019年12月10日、鈴鹿のコーチを退任し、関東サッカーリーグ1部のVONDS市原の監督に就任。2シーズンにわたって指揮したがJFL昇格は果たせず、2021年10月29日に契約満了に伴い退任することが発表された。 2022年、大分トリニータのコーチに就任。 所属クラブ1997年8月 - 1999年7月 横浜マリノス/横浜F・マリノス 1999年8月 - 同年12月 大宮アルディージャ 2000年 横浜F・マリノス 2001年 セレッソ大阪 2002年 - 2005年 川崎フロンターレ
2006年 - 2007年 柏レイソル
2008年 ベガルタ仙台 2009年7月 - 2010年 浦項スティーラース 2011年6月 - 2012年 コンサドーレ札幌 2013年8月 - 2017年 奈良クラブ 個人成績その他の公式戦 2000年
2024/05/18 10:20更新
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okayama kazunari
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