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岡田茂_(東映)の情報 (おかだしげる)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

岡田茂_(東映)の情報(おかだしげる) 映画プロデューサー、経営者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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岡田 茂_(東映)さんについて調べます

■名前・氏名
岡田 茂_(東映)
(読み:おかだ しげる)
■職業
映画プロデューサー、経営者
■岡田茂_(東映)の誕生日・生年月日
1924年3月2日 (年齢87歳没)
子年(ねずみ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
広島出身

(大正13年)1924年生まれの人の年齢早見表

岡田茂_(東映)と同じ1924年生まれの有名人・芸能人

岡田茂_(東映)と同じ3月2日生まれの有名人・芸能人

岡田茂_(東映)と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


岡田茂_(東映)の情報まとめ

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岡田 茂_(東映)(おかだ しげる)さんの誕生日は1924年3月2日です。広島出身の映画プロデューサー、経営者のようです。

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受賞・受章・ランキング[ソースを編集]、活動[ソースを編集]などについてまとめました。映画、テレビ、卒業、現在、ドラマ、兄弟、退社、結婚、母親、引退、家族、病気、事件、趣味に関する情報もありますね。87歳で亡くなられているようです。

岡田茂_(東映)のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

岡田 茂(おかだ しげる、1924年〈大正13年〉3月2日 - 2011年〈平成23年〉5月9日)は、日本の映画プロデューサー。東映・東急レクリエーション社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て2006年7月から再び東映名誉会長。また、2008年4月より東京急行電鉄取締役を務めた。

東映"中興の祖"で、松竹の城戸四郎、東宝の森岩雄が一線を退いてからは「日本映画界のドン」であり、東映はもとより日本映画界を牽引、戦後日本の娯楽産業を創った人物の一人である。1971年の東映映画本部長兼テレビ本部長就任以降、1993年の東映会長就任まで、東映映像作品制作の陣頭指揮を執った。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市西条)出身。東広島市名誉市民。

長男は、映画プロデューサーで東映社長・会長の岡田裕介。長女は、生命倫理学者でコメンテーターの高木美也子。声優・ナレーターの政宗一成は従甥。

一族は酒問屋など事業を手広く行い映画館も持っていた。7歳の時、子宝に恵まれない、父の弟夫妻の家に養子に入る。中学の頃から身長が180センチ近くあり、遊びと喧嘩に明け暮れた番長だった。旧制広島一中(現・広島国泰寺高校)では柔道に熱中。柔道四段。卒業後は旧制広島高校(現・広島大学)に進学。この頃たくさんの本を読む。早く読む能力が身に付き、のちシナリオを読むのに役立ち、自ら「売り物」という仕事の速さにも役立った。広島高校文科甲一を首席で卒業、1944年東京帝国大学経済学部に入学するも待ち構えていたのは学徒出陣。特別幹部候補生として岩沼陸軍航空隊(現在の仙台空港内)で戦闘機の整備の任務に就いた。当地はグラマンに爆撃され宮城県古川町(現在の大崎市)に疎開。1945年8月15日、終戦を告げる昭和天皇による玉音放送を小学校の校庭で直立不動で聞く。日本が負けた悔しさと命を落とした多くの学友の無念さを思い涙した。

終戦後復学。共産主義の嵐が吹き荒れる中、反共ののろしを上げ、東大経済学部の学友会である経友会を、日本共産党が牛耳ろうとするのを木暮剛平ら同期の猛者を率いて止め、大学の左傾化を阻止した。ただし岡田本人は政治的には無思想で、大学を日本共産党に支配されることが理不尽だから立ち上がったとしている。後の岡田は東映で左翼の監督や俳優を活用した。その後も深作欣二を監督に日本共産党に前売券を購入してもらおうと『実録日本共産党』を企画するなど、右も左もない、イデオロギーで仕事はできないと話している。

卒業後は、官庁や銀行は性に合わず、製造業がいいと、親類のいた郷里の東洋工業(現・マツダ)か、工場が出来たばかりの麒麟麦酒広島工場への就職を考えていたが、日本中が着の身着のままだったから、同郷の永野護→桜田武を紹介してもらい日清紡績への就職を第一希望にした。しかし小学生からの幼馴染今田智憲に誘われ、広島の実家の四軒隣で広島一中の先輩でもあった東横映画社長・黒川渉三の自宅に行くとマキノ光雄、伊藤義、浅岡信夫ら東横の幹部がすき焼きをつついて将来を話し合っていて、黒川から「女子工員の管理しかないようなつまらない商売はやめておけ、これからは娯楽産業だ。中でも映画だ。俺は映画会社を作る。お前はそこに就職すべきだ。『鶏口となるも牛後となるなかれ』だよ、岡田くん」と誘われ、他の幹部らにも激しく説得された。特に豪放磊落なマキノの人柄に惹かれ、多くの同期生とは異なる道、「活動屋」の世界に飛び込む決意を固める。黒川の言葉に違わず当時の映画業界は豪放磊落な人間が集う場だったという。東横映画は大陸浪人たちが蝟集する旧満映系の残党を中核として、元々京都で映画作りをスタートさせた会社で従業員が100人程の新参者。その存在を知る人は少なく、リスクの大きい映画会社に銀行は融資を渋り、黒川社長は街の金融業者から資金を調達。そのため毎日社長室の前には、取立ての業者が列をなしていた。現場も独特の雰囲気があり、監督や作家などの文化人と一緒に、普通にヤクザやチンピラも混じっているような世界だった。

1947年10月、雑用係(東横映画京都撮影所製作部製作課事務員)からキャリアをスタートさせたが、まわりは岡田を大学出の文学青年ぐらいにしか思っていなかったようで、よく言いがかりを付けられたが、売られた喧嘩は絶対に買った。生意気だけど喧嘩が強そうと次第に認められた。製作進行係として最初に担当したマキノ雅弘監督の『金色夜叉』(1948年)の撮影のとき、エキストラのトラブルでやくざと大立ち回りをした武勇伝は、他社にも鳴り響いたという。当時、製作のトップにいたマキノ光雄に師事。翌1948年4月、24歳で製作主任に昇格。小さな会社で出世も早かった。以前から温めていた企画、戦死した学友達の話を後世に残さなければならない、と鎮魂の思いを込めて戦没学生の遺稿集『はるかなる山河』の映画化を決意。山本薩夫監督で映画化しようと東宝が動いていたが、岡田が先に映画化権を買った。東京大学全日本学生自治会総連合の急先鋒でわだつみ会の会長だった氏家齊一郎や、副会長だった渡邉恒雄が「天皇制批判がない」とクレームを付けたり、会社の看板スターで役員でもあった片岡千恵蔵、月形龍之介とも「会社が潰れかかっているのに、この企画では客は来ない」と猛反対されたりした。当時は大物役者がノーと言えば映画は作れない時代だった。絶対にこの映画は当たると大見得えを切り、黒川社長への直訴が実り、マキノの助け舟もあって、自ら陣頭指揮を執って1950年、映画は完成。タイトルを『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に変更し公開。珠玉の反戦映画、と評価を得て当時では最高の大ヒット、瀬死の状態にあった東横映画を救ったが、当時まだ配給網を持っていなかった東横映画には、あまりお金が入ってこなかった。本作品での岡田のクレジットは「製作担当」であるが、これが岡田の実質的な初プロデュース作。1948年、京都撮影所(以下、京撮)に従業員組合(労組)が創立され書記長。翌1949年、新執行部の選出で二代目労組委員長に就任。

1951年3月、借金の膨らんだ東横映画は東京映画配給、太泉映画と合併し東映として新しくスタート。社長には東急専務で経理のプロ・大川博が就任し、徹底したコスト管理を推進。大川は京撮で独立王国を築くマキノがどんぶり勘定で映画製作を続けることが東映の赤字体質を招く最大の元凶と見なし、その力を削ぐため東京本社の製作部長に転任させた。マキノの京都復帰を求めるクーデターを先導したのが岡田で、この騒動で岡田は一気に名を上げる。同年入社4年目、28歳で京撮製作課長に抜擢される。撮影所製作課長は撮影現場の総指揮者である。所属していた製作部で一番年下なのにその長になり、親分肌で撮影現場を取り仕切る。他社では50歳を超えなければ就けないポストであった。また従業員組合委員長にも推されて就任。更に大川社長に呼ばれ「今後、製作の予算は私と君で決める。予算がオーバーしたら君の責任になる」と高く評価され、自分の上にまだ多くの上司がいるのにも関わらず、予算の全権を握り制作費から役者の出演料まで決める実質東映のゼネラルマネージャーのような存在となった。これを聞いた撮影所内は蜂の巣をつついたよう大騒ぎになった。所内の全員年上の部下たちを前に「今の東映は大ピンチです。私が上司になって『この野郎』と思う人もあるかもしれませんが、みんなの力が必要です。嫌な人は今すぐ言って下さい。すぐに部署を変えてもらいます。但し、製作は私の方針でやらせてもらいます」と演説。配転を申し出た者はおらず、京撮の現場実務の一切を掌握した。役者のギャラ査定についても片岡千恵蔵、市川右太衛門、両御大以外はすべて岡田に全権委任された。インタビューで「ずっとゼネラルプロデューサーとして、全体を統率していったんだ」と話す理由はここにある。大川はソロバン勘定にかけてはプロ中のプロの辣腕だったが、映画の製作に関してはズブの素人で、映画の企画力は無かった。大川は経理のプロではあったが、作りたい映画があるわけではなく、その力もない。それを自分で分かっていたから、映画の製作はマキノに任せていた。このため東映は東西の撮影所長に大きな権限が持たされていたため、岡田も撮影所長になることを目標に置いていた。大川にとって岡田は自分にできない映画製作をしてくれる貴重な人材だが、いつ寝首をかかれるか分からない警戒すべき部下でもあった。1951年の『風にそよぐ葦 前後編』はクレジットにないが岡田のプロデュース作で、東映東京撮影所の第1作。木暮実千代の大ファンだった岡田は、木暮の自宅に日参して出演交渉し、熱血漢の岡田に木暮が好感を持ったことから、木暮は東映の映画によく出るようになった。劇場があまりないため東宝系の日劇で封切った。当時東映の幹部は東宝から引抜きに遭い、岡田も誘われた。同年プロデュースした『八ツ墓村』は同小説最初の映像化。1952年、京都大学法学部卒ながら、全学連で暴れていて大川社長以下、全員が反対した山下耕作を入社させる。山下は入社するやすぐ組合運動を始めた。同年、大川社長より、製作予算の全管理を厳命される。1954年から他社に先駆け大川の断行で二本立て興行を開始。現場は多忙を極めこの年世界一の103本の映画を製作。この陣頭指揮を執った。1940年代後半の東宝争議で嫌気がさした映画館主が東映系列に入ったこともあり、東映の専門館(配給網)が増え会社は大きく飛躍した。

当時のNHKのラジオドラマで人気だった『新諸国物語』の冒険活劇を題材に中村錦之助、大友柳太朗主演の『笛吹童子』シリーズ、東千代之介主演の『里見八犬伝』シリーズなどの子供向けの東映娯楽版をヒットさせる。時代劇の大御所スターを揃えていた東映は、“時代劇の東映”の地位を確固たるものとした。また当時、山口組の田岡一雄組長がマネージメントをし、松竹映画に出演していた美空ひばりをマキノとともに引き抜き、ひばりと錦之助のコンビで大いに売り出した。1956年には年間配給収入でトップとなった。

1955年、アメリカ映画視察で観た連結型のステージを京撮の新築ステージに導入することを提案し、No.9とNo.10に活用された。同じく視察で見たシネマスコープ映画製作に意欲を燃やし1957年、他社に先駆け「東映スコープ」『鳳城の花嫁』を公開させた。同年、マキノが志半ばにして死去。京撮製作部長として実権を握り、“マキノイズム”を推進すると共に、徹底した予算管理を行い、東映時代劇黄金時代の一翼を担う。同年『忍術御前試合』で沢島忠を監督デビューさせた。また監督を目指して入社してきた日下部五朗を「体がでかい」という理由で無理やりプロデューサー修行させる。1958年7月、神戸芸能社の田岡一雄社長と話し合い、それまでどの社の専属にもならなかった美空ひばりを東映の専属とした。1960年京撮所長。山城新伍主演でテレビ制作した『白馬童子』が人気を得ると、将来のテレビの普及を予想しテレビ制作を増やす。北大路欣也と松方弘樹を高校卒業と同時に入社させた。1961年、中村錦之助 (萬屋錦之介)主演・内田吐夢監督『宮本武蔵』シリーズの製作を決める。同年、吹き替え・スタントマンの重要性に気づき、日本最初のスタントマンともいわれる宍戸大全を大映から引き抜く。第二東映の失敗で組合運動が激化。1961年9月、京撮所長兼製作部長・美術部長・演技部長兼東京撮影所長兼製作部長。1962年10月、36歳の若さで東映取締役兼東京撮影所長(以下、東撮)に就任すると低迷していた東映現代劇を“現代アクション路線”で復活させる。この人事は表向きは低迷していた東撮の立て直しであるが、マキノ同様、岡田が京都で絶大な力を持ったことを大川が警戒したという見方もある。1957年に東映に入社した大川の息子・大川毅を自身の後継者にしたい大川博にとって岡田は、東映に欠かせない有能な人材であると同時に息子の最大のライバルでもあった。「映画の本質は、泣く、笑う、にぎる、だ。手に汗をにぎるだ。この三つの要素がないと映画は当らん」と部下に叱咤。佐伯孚治、鷹森立一というベテランを監督デビューさせた反面、当たらない映画を作っていたベテラン監督を一人残らず切り、深作欣二、佐藤純彌、降旗康男や新東宝から引き抜いた石井輝男、渡辺祐介、瀬川昌治ら若い才能を抜擢した。また、日活にいられなくなった井上梅次を誘い『暗黒街最後の日』(1962年)など、7本を監督してもらう。好色不良路線を目指す岡田の肝いりで、梅宮辰夫主演の反社会的映画が「夜の青春シリーズ」となった。石井輝男は「当時は岡田さんが最高潮で、企画会議でホン(脚本)を検討して決めるというスタイルじゃなく、岡田さんの一言で製作が決まって、会議なしという感じでした」と述べている。

ギャングシリーズを開拓したものの「そもそも日本にギャングなどいない」と、東映を『時代劇』路線から『人生劇場 飛車角』を初めとする任侠映画路線に転換させる。日活、大映、東宝など他社も追随し、任侠映画は1960年代の大衆映画の最大の分野となった。しかし他社はテレビに食われて生き詰まってしまったが、“東映任侠路線”だけは、テレビに食われることもなく、当たりに当たった。それに合わせるように、岡田は新たに土曜深夜のオールナイト興行という上映方式を組み、これに観客が押し寄せ、任侠映画は70年安保に向けて学生運動の盛り上がりとともに、高度経済成長・管理社会に疎外感を抱く学生やサラリーマンを中心に熱狂的ブームを起こした。東宝、松竹は戦前から不動産を持っていたので、生きのびることが出来たが、戦後派で不動産もない東映が勢いを増したのは岡田の切り替え戦略によるもの。任侠映画と後に手掛ける実録ヤクザ映画抜きに1960年代から1970年代の日本映画は語れない。岡田の仕掛けた“任侠路線”〜“実録路線”は、その後『日本の首領』や、『鬼龍院花子の生涯』などの「女性文芸路線」、『極道の妻たち』シリーズに、先の“現代アクション”“ハードアクション路線”は、『キイハンター』『Gメン'75』や、『ビー・バップ・ハイスクール』や『極道渡世の素敵な面々』などの“ネオやくざ路線”に引き継がれ、後にVシネマという新ジャンルを切り開いていった。岡田は企画、製作のみに手腕を発揮したのではなく、その過程に於いて、宣伝面を考慮した側面においても抜群の力量を発揮した。特に1960年代、1970年代の『人生劇場 飛車角』『緋牡丹博徒』『大奥㊙物語』など、任侠映画、東映ポルノ/エログロ映画のタイトルの大半は岡田が考えたものである。『大奥㊙物語』の○の中に秘を書くマークは、今は一般的に使われるが、これも岡田が考えたもので、この影響を受けて、当時の新聞や週刊誌では「㊙物語」という活字を多用した。「今ではどこの企業でも部外秘の書類に㊙というハンコを押しているのだから、著作料をもらいたいぐらい」と話している。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが山田五十鈴、佐久間良子、藤純子らスター女優を起用して大当たりした。『大奥㊙物語』はブームを呼び、その後の大奥物は、この作品の衣装や小道具がモデルになり、エッセンスは受け継がれ、現在テレビドラマ等に繋がる。1964年の『二匹の牝犬』では文学座の小川眞由美と六本木で遊んでいた緑魔子を組ませた。初めてスクリーン上に女性のバストトップを露出した風俗エロス映画は、小川、緑による体当たりの演技でモノクロながら大ヒット。同年中島貞夫に命じて撮らせた『くの一忍法』は、山田風太郎原作の『くノ一忍法帖』最初の映像化。スターの資質を引き出すことにも秀で、東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田浩二を『人生劇場 飛車角』で、燻っていた高倉健を『日本侠客伝』『網走番外地』で、『不良番長』シリーズなどで梅宮辰夫を売り出す、若山富三郎を『極道』シリーズで、菅原文太を『現代やくざシリーズ』で売り出す。筋金入りの清純派、佐久間良子の裸のシーンを売り物に田坂具隆監督で『五番町夕霧楼』を大ヒットさせた。本作は京の廓の内情を初めて公にした作品として話題を呼んだ。内田吐夢監督に撮らせた『飢餓海峡』(1965年)も岡田の企画。東映は1964年、東急グループを離脱した。

1964年、大川の命で時代劇の衰退した京撮所長に再び戻る。京撮所長に復帰する際、大川から「京都がガタガタになりそうだからお前が京都に行ってくれないと東映そのものがおかしくなる」と言われ、「それならすべて私に任せて下さい。荒治療しますけどいいですね」と大川から指揮権移譲の承認を取り付け、京撮所所長に就任。岡田は反対したが大川は1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を作り大失敗。この時、作品量産のため撮影所に臨時雇用の過剰人員を増加させてしまい大きな負担となっていた。岡田が大川に求めた「全権」は、東映京都作品の企画の全ての企画の決定権だけでなく、撮影所の人事を含めた文字通りの全権だった、大川社長からの全権委任を盾に、揉めに揉めたも のの大リストラを断行し、2100人いた人員を一気に900人に減らした。また年間の製作本数を100本から60本に減らした。東撮所長時代から「客観的に見て京撮の時代劇はやめないとダメだな」と見ており、京都撮影所で撮影する映画は任侠映画を柱とし、映画での時代劇制作を中止するという路線大転換を遂行、テレビ重視に舵を切る。俊藤浩滋と組んで京撮で製作された任侠映画第一作が1964年の高倉健主演作『日本侠客伝』。時代劇の本城・京撮を「やくざ路線」に切り換えるには大変な出血が必要だったが、断々乎としてこれを実行、陣頭指揮し体を張って突き進んだ。時代の変化に的確に対応し、他の映画会社が軽視していたテレビの世界にいち早く目を付け、時代劇はテレビのみで制作する事にし、この年東映京都テレビプロダクションを設立して社長を兼任。ギャラの高い役者・監督を説得しここへ移ってもらった。さらに東撮に配置転換したり、助監督を東映テレビや東映動画へ異動させるなどで、テレビ時代劇が映画と並ぶ事業の柱となる素地を作り、会社の危機を乗り切った。大監督や大スターも受け入れてくれた事でテレビ映画の地位は高まった。大リストラで撮影所の余剰人員となってしまったベテランスタッフの受け皿に、テレビ界に目を付けたものだったが、当時1964年東京オリンピックを前後して、急激にテレビが普及し、テレビ界の製作力の補充が急務だったというラッキーな面があった。こうしたテレビとの連携は、今日の映画テレビ協調路線の流れをつくった。この大リストラにより、平山亨や勝間田具治など京撮時代劇のノウハウを身に着けた若手スタッフが新天地で活躍し、新たな地平を切り拓いた反面、多くの才能も失われた。東映動画については「動画のリストラをして初めて気付いた。絵を書くという仕事は、映画を撮るのと違って個人の作業だということだ。それが机を並べて同じ給料をもらうのは、基本的に無理がある。だから、天才が社外に飛び出して自分のプロダクションをつくってしまうのは当然のなりゆきなんだ」等と述べている。1966年10月、東映常務取締役。

ギャンブル性の強い映画と違い、テレビは局から予算が予め出されるため計算が立つ。何よりテレビ製作に求められる「早く安く面白く」は東映京都の最も得意とするところであった。また東映京都テレビや東映京都制作所(のち太秦映像)だけでなく、京撮本体でもテレビ時代劇の受注を開始させ「お前ら、これからはテレビで食っていけ」という岡田の指示の下、京撮は各テレビ局からテレビ時代劇の制作を請け負い、量産体制に入っていく。テレビ映画に本格的に参入を図った岡田は、特に関西のテレビ関係のキーパーソンを積極的に起用した。当時、電通大阪支社企画室長だった入江雄三を介して関西テレビの芝田研三副社長と東映テレビ次長・渡邊亮徳を引き合わせた。「子供ものの時代劇で何かおもしろいものを作ってくれ」と岡田から出された要望により、東映で子供向けの時代劇として最初に企画されたのが『大忍術映画ワタリ』で、時代劇に特撮をプラスした『仮面の忍者 赤影』は、紆余曲折あってこの流れから生まれたもの。『赤影』の大成功によって、阪急東宝グループの関西テレビからより強い信頼を得ることができ、長きにわたり良き関係を続けた。ここからは大川橋蔵の『銭形平次』などを生み、映画スタッフのテレビ進出の先駆けとなった。大川をテレビ映画に口説いたのは岡田で『銭形平次』は、東映がフジテレビに道をつけた作品。このシリーズが当たり、テレビ時代劇も軌道に乗った。当時フジテレビは虫プロ作品を独占的に放送していたが『銭形平次』の成功が、テレビ版『ゲゲゲの鬼太郎』以降に繋がる。1969年から始まった『水戸黄門』は、松下電器の広報課長だった逸見稔から協力を依頼され製作を受注したもの。本作は岡田が1967年発足した東映京都制作所(のち太秦映像)が製作した。『銭形平次』と『水戸黄門』で、テレビ映画の制作は活況を呈した。その他、1968年のテレビドラマ『大奥』は、岡田が企画した映画『大奥㊙物語』から、奥様受けするため、エログロを外して硬い内容にして、スター級の女優を総動員させ時代劇絵巻に変えたもので、初めて取り上げた女性時代劇ともいわれ、映画テレビが連動したのも、これが最初といわれる。「日本中の女性の涙を絞り出したい」と渡辺岳夫にテーマ曲を依頼した。当時関西テレビは、いつもフジテレビにやられて、いい作品が一本もなかった。関西テレビからは、「この㊙だけは困る。題名は㊙はやめて『大奥』だけにしてくれ」と言われたという。『大奥』は、フジテレビ系でその後何度もドラマ化され、その後『長谷川伸シリーズ』、松平健の『暴れん坊将軍』、千葉真一の『影の軍団シリーズ』など、主として異色時代劇の分野を開拓した。当時他の映画会社はテレビに消極的で、1980年代半ばには、東映京都製作のテレビ時代劇はテレビ各局に広がり、シェアの90%近くを占め、その後も高いシェアを占め大きな柱となった。これらの施策で東映は映画の斜陽期を乗りきったが、これが今日のテレビ局ディレクターが、テレビドラマ感覚で映画を監督するなどテレビ局主導の映画製作という逆転現象を生む遠因になったとする見方もある。また1964年開局の新興ネットワーク、東京12チャンネル(現:テレビ東京)の名物番組となった1969年放映開始の『プレイガール』は、岡田が進めたお色気路線をテレビ向けにソフトにアレンジしたもの。

一方で映画では、京都でも任侠路線に転換し北島三郎の『兄弟仁義』、藤純子の『緋牡丹博徒』などを大ヒットさせた。俊藤プロデューサーの娘・藤純子を映画界入りさせたのも岡田である。1966年10月、42歳の若さで東映常務取締役。これについて大川博は「私は岡田茂と今田智憲の二人の才能を買い、30代で東映の取締役に登用し、40歳を越すや常務に昇格させ、思う存分に腕を振るわせた」と述べている。同年借金で松竹をクビになった藤山寛美を一時東映に籍を置かせる。1967年、松竹にいた菅原文太を東映に移籍させ、安藤昇を東映出演させた。「近い将来、東映の映画部門を担って大川社長を支える両輪となる人物は、製作は岡田茂、営業は今田智憲を措いてほかにいない」とかねて呼び声が高かったが1968年5月、共に44歳の若さで岡田が製作の最高責任者・企画製作本部長兼京都撮影所長、今田は営業の最高責任者・営業本部長兼興行部長に就任。次いで同年9月、製作から営業までを一貫して統括するべく新編成された映画本部長に就任した。大川博は「大衆が求める刺激の強い映画を作ることで企業を安定させることが先決命題で、岡田映画本部長がその命題に沿って徹底した企画を立てている。岡田本部長の権限は、いわば一つの映画会社の社長の立場に匹敵する。自分の思い通りに意思統一ができるわけで大変な権限です」と述べている。東映の映画に関する全権を委任され、企画の最終判断と責任を持つゼネラルプロデューサーになった。岡田が音頭を取った所謂「東映ポルノ/エログロ路線、好色路線」が、この前後から本格化した。1969年、渡瀬恒彦をスカウト。1970年6月(旧)東映ビデオ取締役。1971年テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握。また33歳の若さで専務になっていた大川の息子・毅がボウリング、タクシー、ホテルなどの事業拡大に失敗。大川親子は斜陽化する映画事業から、ボウリングを主体とする総合レジャー会社に脱皮させようとしていた。これに労組が硬化し、部課長連合が大川社長に反旗を掲げ六・七十人が東映株を所有。毅は労組の吊るし上げを恐れ出社しない等、のっぴきならない状況となって竹井博友ら、労使問題のプロも断るような労組担当も引き受ける。この窮地に『夕刊京都』の労働争議で活躍した「労務屋」長田大全を招聘し、ロックアウトを決行し何とか乗り切った。大川博はこの労働争議で心労がたたり体調を崩す。

大川社長からは後にも先にもないほど感謝されたが、後継は大川毅専務というのが既定路線で、今田智憲も大川に見切りをつけ東映を辞めていたこともあり、自身も退くつもりだったが、周囲から「見捨てないでくれ」と嘆願され踏み止まった。同年8月大川社長が死去。毅から「東映を引っ張っていくには、あなたしかいない」と頼まれ、また五島昇の推しもあって、1981年8月25日の東映臨時取締役会に於いて47歳で社長に就任する。映画に全く興味がない大川毅は映画で儲けた利益をボウリング場経営やプロ野球の経営に注入し、大川親子は映画製作部門を縮小するか、松竹に委ねて、東映をボウリング場を柱とする総合レジャー産業に事業転換させようとしていた。もしこのとき、大川毅が東映の二代目社長を継いでいたら、以降の東映の映像作品はほとんど生まれていないかも知れず、東映が今日のような映像製作を主体とする会社として存続していないかも知れない。社内で人望も0で、経営センスもない大川毅が日本映画史に於いてここで唯一にして最大の貢献を果たした。岡田は常務から三段跳びでの社長就任であった。1971年は映画界全体にとっても大きな節目の年だった。社長就任と同時に1971年8月、東映ビデオ、東映テレビ・プロダクション、東映京都テレビ・プロダクション、東映京都制作所(のち東映太秦映像)東映東京制作所など関連会社60社の社長に就任、東映動画(現・東映アニメーション)、東映化学(現・東映ラボ・テック)会長兼任。同月、日本経営者団体連盟常任理事。大企業を目指し多角的事業で支える大川体制から、映画映像作りを中心とした小回りの利く中小企業プロダクションを目指す岡田商店へと、事業転換を表明。社長に就任するやいなや、このうち不良部門をスパッと切り素早く合理化を推進した。東京タワータクシーを営業停止に、不採算の東映フライヤーズを日拓ホームに譲渡、ボウリングブームは二度とこない、と毅が経営していた東映ボウリングセンター32か所の大半を売却した。1972年6月、東映動画に経営企画室長の登石雋一を社長に派遣、ほぼ半数に当たる150名の希望退職者を募集させ紛糾した。「動画は東映のガンだ。ガンは放置しておいたら、やがて病巣は東映の全身に広がる。ガンは小さいうちに切開手術するのが医者(経営者)の義務だ」と暴言を吐いた。この時異動したスタッフの本社・本編憎しのルサンチマンがのちに東映のテレビ、アニメ躍進の原動力となった。同年7月、幸田清を東京撮影時所長に抜擢。その後も組織のスリム化を断行した。一方で、ボウリングに代わる新規事業として住宅産業に進出、建売住宅・不動産分譲、マンション、パチンコ店事業にも進出した他、劇場の建て替えを含む再開発プロジェクトを手掛けた。また、ホテルチェーン(東映イン、東映ホテル)やゴルフ場建設を拡大させるなど事業の再構築を行った。

一方では多角化を推進し、テレビの普及で苦しむ他社を尻目に、テレビに吸い込まれないお客を取り込み〔不良性感度〕映画を標榜。不良性感度で東宝や松竹と全く違う「東映カラー」を作りあげ、後発の新興会社を一流映画会社にのし上げた。「映画は商品である」が持論。拡大するテレビ人気に対抗するべくテレビでは扱えない映画ならではの素材として、エロは絶対に外せない路線。「時代を読みながら何でもやる。変幻自在がうちの特徴」と語り、反戦映画から、時代劇、文芸映画、任侠映画、実録映画、キワモノ(エログロ)まで、観客の好みを敏感に読みとり、時に批判を尻目に多種多様な映画を世に放つ。或いは洋画の流行に乗っかり、和製オカルト映画、和製パニック映画、和製格闘映画、和製SF映画、和製残酷映画、マシン路線、健全喜劇・スポーツ映画路線と次々、死屍累々の企画を打ち出す。菅原文太の『仁義なき戦い』を初めとする「実録路線」や、大号令をかけて「東映ポルノ」を批判を押しのけ他社に先駆け量産した。こうした極端な男性重視路線は東映の映画館から女性客を消した。「実録映画」という呼称は、1972年のイタリア映画『バラキ』あたりから用いられるようになったものだが、用語として確立、定着するのは『仁義なき戦い』を「実録映画路線」の第一弾として発表してからで、これが大成功をおさめ、次々連作されて、一気に普及したもの。『仁義なき戦い』や『山口組三代目』など実録映画の爆発的ヒットがあった1973年は年間配收約80億円と創立2番目の記録を更新した。「実録路線」はスタンダード化し、その後のVシネマなどでも、実録でなければ売れないという公式が確立された。「東映ポルノ」では、抜擢した天尾完次プロデューサーが、石井輝男や鈴木則文とのコンビで、アメリカでよく使われていたが日本では一般化されていなかった“ポルノ”という言葉を移植、池玲子の売り出しに“日本のポルノ女優第一号”“ポルノ映画誕生”という惹句をつかった。1972年から始まる“日活ロマンポルノ”が“ポルノ”の言葉を浸透させたが、造語的には東映のアイデアの拝借である。石井の“異常性愛路線”のスタートとなった三原葉子、谷ナオミ、賀川雪絵ら出演のエロ大作『徳川女系図』の大ヒットは、大手映画会社の性モラルの防波堤が一気に決壊、日本映画をエロで埋め尽くす程で、影響は映画界のみならず音楽界・歌謡ポップスにまで及ぼした。これを皮切りに日活の『野良猫ロック』シリーズに対抗して池玲子、杉本美樹、大信田礼子らの『女番長・ずべ公番長』シリーズ、梶芽衣子、多岐川裕美、夏樹陽子らの『女囚さそりシリーズ』などを編み出しエロ映画を量産した。『女囚さそりシリーズ』の成功は、企画に困窮していた邦画各社がこぞって劇画原作を実写化するきっかけとなった。タランティーノの影響から、2000年代に日本国外で続々DVD化されており再評価(初評価)が進む。『女囚さそりシリーズ』の第4弾『女囚さそり 701号怨み節』(1974年正月映画)と併映だったのが高倉健の新企画『ゴルゴ13』である。 1970年前後には他社の二倍近い興行収入を上げた。

しかしこの後、千葉真一・志穂美悦子らの格闘映画が大ヒットし、千葉の作品は海外でも大ヒットすると、ポルノ映画の主流が日活・大蔵映画などに移ったこともあって東映ポルノをアッサリ切り捨て、多くのカラテ映画をシリーズ化させた。1972年6月、それまで各事業部門が社長指令の忠実な実施体であったワンマン経営から、全社上げて経営に当たるという"経営第一主義"を打ち出す。全社的な機構改革で事業部制を導入、映画事業部、テレビ事業部(テレビランドの創刊等)、教育事業部、観光不動産事業部、スポーツ事業部、および各支社に関連事業室を発足させ、東西両撮影所にも事業部が設けられて新しい収益源を開拓することになった。「泥棒と詐欺以外は何でもやれ」などと発言し、全事業部門に例外なく己の担当する分野で、新たな収益源を開拓せよと命じた。また本社宣伝部内に宣伝開発課を開設し、その後宣伝事業部、映像事業部に昇格。これらの事業部がレコードの原盤やPR映画の制作、演劇公演やアニメーションフェスティバル、催事ショー(キャラクターショー、子供ショー)、地方博のパビリオンの映像制作、新聞社やテレビ局と組み「エジプト展」や「全国郷土祭」(日商主催)など文化事業を手掛けた。1975年には撮影所の有効利用策として、我が国テーマパークのはしりとも言うべき東映太秦映画村をオープンさせた。

大川博からは洋画は絶対にやるなと言われていたが、1972年5月、洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出。とくにブルース・リーとアラン・ドロンの買い付けで、洋画界にセンセーションをまきおこす。この洋画部は香港製のカンフー映画だけを扱いつつ、邦画まで扱うという部門と、洋画のみ扱う東映ユニバースフィルム(1981年12月発足、1984年3月東映クラシックフィルムに改称)というのがあった。1973年『テレビランド』を徳間書店に移す。正面から日露戦争を描きたいと笠原和夫に指示して制作した『二百三高地』の大ヒットは、各社大作路線を本格化させた。フジテレビ退社した五社英雄をカムバックさせ、『鬼龍院花子の生涯』『極道の妻たち』シリーズなど“女性文芸大作路線”を生み出した。1975年香港のショウ・ブラザーズと提携。カンフーブームで買い付けた『ドランクモンキー 酔拳』などジャッキー・チェン映画で、ジャッキーフィーバーを起こした。また労組問題で混乱していた系列の東映動画に1974年、親友の今田智憲を社長に据えて建て直し、日本アニメ日本国外進出の大きな推進役となった。その他、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った劇場版『宇宙戦艦ヤマト』を西崎義展から買い付けしたのを手始めに、続編の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』など、一連の宇宙戦艦ヤマトシリーズ、『銀河鉄道999』などの松本零士作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた。『宇宙戦艦ヤマト』が1977年8月に劇場公開されたとき、“アニメブーム”なる言葉が生まれ、この作品の大ヒットから、それまでテレビの夕方の子供向けの時間帯にひしめいていたアニメーション映画が大型化されて劇場に進出するようになった。『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』が、ブームを通り越して今日定着した劇場アニメの先駆けとなった。1980年1月、東急レクリエーション社長就任。

1970年代後半からは自前主義から転じて独立プロダクションと提携に力を入れ、損を出さない体制にシフトした。これらは1960年代半ばから岡田が手掛けた縮小・合理化システムの延長線上にあるもの。1983年に東陽一に撮らせた『セカンド・ラブ』(1983年)などは、東映資本ながら東映のスタッフは皆無の映画であった。角川春樹の後ろ盾となり、タッグを組んで一時代を築く。その他、1974年に岡田が目論んだ"共産党の実録"という企画は実現しなかったが、岡田の試みた大組織に映画公開前に前売り券を売り捌くという手法は、その後『夜明けの旗 松本治一郎伝』や『空海』、『福沢諭吉』などの伝記映画や、東映系でかけられる幸福の科学出版製作の『太陽の法 エル・カンターレへの道』(2000年)、『黄金の法 エル・カンターレの歴史観』(2003年)のアニメなどが、東映のビジネスモデルとして引き継がれた。ただし、幸福の科学との繋がりは2009年の幸福実現党による政治進出を危惧して『仏陀再誕 The REBIRTH of BUDDHA』を最後に切れている。

テレビ映画に関しては、大川博時代に引き続き制作を進めた。『仮面ライダー』から始まった版権ビジネスは、現在キャラクター商品の名称で一般的によく知られ、今も大きな収益源となっている。1975年テレビ版権営業部を設立し、版権収入の拡大に力を入れる。ビデオ時代の到来に対応する体制作りにも乗り出し1977年8月、東映芸能と東映ビデオを合併させ東映芸能ビデオを設立(のち東映ビデオ)。翌1978年にはビデオ制作強化のため東映ビデオセンターを設立し、この年カラオケビデオを発売した。また一本立て大作主義による下番線の本数不足を補うため1977年12月、ATGの商業映画版ともいうべき、東映セントラルフィルムを設立。日活から黒澤満を東映ビデオの製作部門の長として引きぬき、東映セントラルフィルムと組ませて低予算で映画を制作するセクションが設立され、これが後にセントラルアーツとなる。家庭用ビデオデッキの普及に伴い、1980年前半にはポルノビデオ(アダルトビデオ)が爆発的に売れた。1980年、東急グループの興行会社・東急レクリエーション社長に就任、16年ぶりに東急グループに復縁し、五島慶太・五島昇に対する不義理を解いた。「映画の日」の全国普及にも貢献。1984年日本衛星放送(WOWOW)設立で非常勤取締役(〜2001年)。1986年黒木瞳を『化身』で、映画主演デビューさせた。1989年3月期の決算で東映として初めて総売上げ1000億円の大台に乗せる。1990年夏から「東映まんがまつり」を鳥山明に絞った番組編成の「東映アニメフェア」に転換させた。1993年、東映会長。1996年、ルパート・マードックと孫正義によるテレビ朝日買収を阻止した。1997年11月「時代劇コンテンツ推進協議会」を立ち上げる(#時代劇復興)。晩年は各地の映画祭などで、このような東映映画史を面白おかしく講演して好評であった。洒脱な人柄で、パーティーの席などでのスピーチも天下一品。軽妙なあいさつで会場をわかせたといわれる。戦後の日本の娯楽産業を創った一人である。瀬川昌治は「岡田さんの人生はそのまま東映躍進の歴史につながっているといっても過言ではない」と述べている。日本経済新聞社は岡田を「邦画の礎を築いた男」「戦後の映画史とともに人生を歩んできた男」、サンケイスポーツは「昭和、平成を通じて、人生そのものが映画の歴史に重なる傑物だった」、松岡功は「岡田さんは映画界のドン。今の映画界があるのは岡田さんのおかげです。日本映画の復興に、あれだけ尽力した人はいません。時代が変わったということもありますが、岡田さんのような方はもう出てこないと思います」と評した。

恰幅のよさと親分肌で豪放磊落な性格から、東大卒と言っても信じてもらえず、「あなたは拓大出身じゃないの?」とよくからかわれた。『仁義なき戦い』の広島弁は岡田の社内での罵詈雑言を脚本の笠原和夫が参考にした、という逸話を持つ。また菅原文太のトレードマークになった広島弁は、岡田が同郷の張本勲に菅原に広島弁の指導を頼んだものという。『仁義なき戦い』の菅原の名セリフの抑揚、アクセントは張本の監修であった。付き合いの広さでも知られ、映画・芸能界のみならず多く経済界と交流を持った。早稲田大学出身で縁の無い小渕恵三の後援会が無いと知ると、可哀そうだと早大出身者に呼びかけて作った。また岡田を慕う人達が多く岡田一家、岡田学校と呼ばれたりした。沢島忠は「結婚も監督になれたのも岡田さんのおかげ。面倒見の良い兄貴。偉大な親分。あれほど多くの映画人に慕われた人はいない」、北大路欣也は「人生を生ききり、どんなに素晴らしいかと思う。男として憧れの的でした」、里見浩太朗は「すばらしい指揮官だった。あんな人はもう出てこないんじゃないかな。背が高くて二枚目。ダンディーで俳優や女優のあこがれだった」と話した。

1978年から1995年まで日本映画製作者連盟会長。この他、映画産業団体連合会会長、日本映画テレビ製作者協会理事長、日本映画海外普及協会理事長、テレビ朝日会長、(株)東急レクリエーション代表取締役会長など多くの要職に就く。日本映画製作者連盟会長、映画産業団体連合会会長は通算30年務め、日本映画復興に尽力した。1974年城戸賞創設に関わり、以降1994年まで審査委員長を務める。1978年日本アカデミー賞の創設にも尽力、会長・名誉会長を歴任し、その功績を称えて第30回を迎えた2007年度より同賞では初めて個人名を冠した岡田茂賞が新設された。撮影所所長としても数多くのヒット作を世に送り出し、辣腕を振るった岡田の多大な功績を讃え、その年独自の創造性と高い技術力により娯楽性と芸術性を合わせ持った高品質の映画を製作した「製作プロダクション」を顕彰する。1985年、瀬島龍三らと東京国際映画祭を創設。

その他、1982年5月、地方自治体で初めての映画や音楽資料を収集・保存する専門施設・広島市映像文化ライブラリー(広島市立中央図書館併設)の開館にも尽力した。1990年、岡田を主人公にした『映画三国志:小説東映』という小説が、岡田を師匠と挙げる大下英治作で徳間書店から出ている。これを原作として笠原和夫が脚本を担当し、岡田の母親にまで会うなど徹底取材した2時間ドラマが、普段は洋画を放送する日本テレビ系「金曜ロードSHOW!」枠で同年6月1日放送され、中村雅俊が岡田を、妻の役は黒木瞳が演じた。

2006年7月、三代目会長だった高岩淡が取締役相談役に退き、82歳で名誉会長として再登板、岡田家のワンツー体制となった。

2011年5月9日午前5時55分、肺炎の為、東京都内の病院で死去87歳没。岡田は戦後映画界の中枢にいた最後の生き残りであった。戒名は隆徳院殿茂岳秀榮大居士。「映画人として素晴らしい仕事をした」という意味という。

受賞・受章・ランキング[ソースを編集]

1984年藍綬褒章、1995年勲二等瑞宝章受章。

映画雑誌『プレミア』(アシェット婦人画報社)2001年4月号の特集「決定!プレミアが選ぶ日本映画界パワー100人ランキング」で、角川歴彦、徳間康快、宮崎駿、北野武、出井伸之らを抑えて第1位に選ばれた。

映画産業団体連合会は、第56回「映画の日」に於いて、ジャンルの縛りを超えた数々の映画を製作し、又、幾多の映画人を育成し続け、生涯を通じて映画界の隆盛に多大な貢献を果たした岡田に1993年に続き、二度目の特別功労大章を贈った。

活動[ソースを編集]

戦争映画[ソースを編集]

1950年、岡田の初プロデュース作『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』は、日本初の「反戦映画」といわれる。

中島貞夫の出世作『893愚連隊』(1966年)、オールスターキャスト『あゝ同期の桜』(1967年)は、任侠映画全盛で、製作が難しい企画だったが『893愚連隊』は、岡田が企画を通したものである。

1980年の『二百三高地』は、岡田が「そうだなあ。乃木大将を中心に創ってみたらひょっとしていけるかな。今まで、乃木将軍を描いた映画はないだろう」という何気ない岡田の一言が『二百三高地』を生む切っ掛けとなった。

『二百三高地』が大ヒットすると、各社で戦争映画、大作映画が作られるようになった。岡田は笠原に「もう一本、戦争映画で行こう」と指示。笠原は「もう一本って何を書いたらいいんですかね」と聞くと「今度はジス・イズ・ザ・ウォー! ってやつだ」「はあ」「この前の戦争をやろう。太平洋戦争、大東亜戦争を」「あれ、負け戦ですよ、日露戦争と違って」「お前な、勝ったところだけ繋げりゃええんや」「みんな、負けたこと知ってますよ」「だからジス・イズ・ザ・ウォーやないか!」と、太平洋戦争の脚本執筆を指示。『大日本帝国』『零戦燃ゆ』の後、大作路線の一連の仕上げとして、岡田は瀬島龍三から頼まれて「昭和天皇というのをやろう」と笠原に脚本の指示を出した。『二百三高地』に瀬島を監修で呼んだのは岡田である。脚本は書き上がったが宮内庁の反対を喰らい頓挫。力を入れた脚本が流れた笠原は大きなショックを受け、これ以降仕事に力が入らなくなってしまったという。東映太秦映画村がオープンした時、岡田は瀬島を撮影所に案内したが、岡田が照明や小道具、衣装などのスタッフみんなに声を掛けて回り、それも名前を全て覚えているのに瀬島は感心し、「この職場は統制のない秩序がある。上から強制しなくても秩序がちゃんとできている。本当の理想的な社会だ」と褒めたという。瀬島は大川毅が退職した1987年に東映の相談役に就任している。

人物[ソースを編集]

1957年、47歳で死去したマキノ光雄に代わり、大川の下、27歳で予算主義を現場で取り仕切る。天才的な閃きと持ち前の押し出しの強さで難局を切り抜ける豪腕により<鬼の岡田>と恐れられた。朝の7時半には撮影所に来て、各組のロケ行きを見送り、10時から部屋に閉じこもり、全ての脚本をチェック。ロケに行ったら雨が降ろうと矢が降ろうと、撮ってくるまでは帰ってくるな、雨は照明の当て方次第で消せると指示を出した。雨で中止にしたら1回のロケで100万はすっ飛んだためで、スケジュールも予算もキチンとハメさせ、ヨソが一本4000 - 5000万円かけてるころに、900万で作らせた。撮影中のNGも2カットに1回しか認めない。当時の東映は人件費が安く、フィルム代が高かった。厳格なスケジュール・予算管理が徹底により、東映は他社には実現できなかった二本立て興行による地方館の独占に成功した。田坂具隆、内田吐夢、伊藤大輔といった巨匠たちも岡田を信頼した。岡田の前までは、そういうことは大雑把だったという。

高身長で押し出しのきく体型。大きな声に強烈な自己発現力。そこから発せられる広島なまり(時に関西弁・関東弁の場合も)の弁舌は相当な風圧。ひとしきり"吠える"と必ず「なあおい!」が口癖。気の弱い者にはかなりのストレスだったという。

東映ラインナップ[ソースを編集]

大川博は映画づくりはズブの素人だったため、企画選定に干渉せず、大川時代の東映は、企画の最終決定はマキノ光雄が握っていた。マキノの下で実際の製作を岡田が責任を持って行った。マキノが1957年に亡くなると企画の最終決定は東・西の両撮影所所長が持つようになった。つまり岡田は京都撮影所(以下、京撮)所長に就任した1962年から企画の最終決定を持っていた。勿論、京撮所長が反対側の東映東京撮影所(以下、東撮)所長が決めた企画をひっくり返すことは出来ない。大島渚自身が失敗作と認める『天草四郎時貞』は、岡田が東撮所長時代に京撮の辻野公晴の企画を 当時の京撮所長が通したもの。岡田は1964年2月に東撮所長から京撮所長に転任するが、その後の東撮も岡田が残した任侠路線や好色路線を踏襲したことから、岡田は東映作品のラインナップを事実上指揮した。岡田は1968年に製作の最高責任者・企画製作本部長兼京都撮影所長、同年秋に製作から営業までを一貫して統括する映画本部長に就任し映画会社の社長の立場に匹敵する権限が与えられた。1971年1月にテレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握。大川の逝去で、このまま1971年8月社長に就任すると長らく取締役を置かないワンマン体制を敷き、2002年6月に相談役になるまでに実質40年の間、東映の企画の最終決定を行った。この間、岡田のOKが出なければ東映で企画は通らなかった。

萬屋錦之介と美空ひばり[ソースを編集]

マキノ光雄とともに美空ひばりを引き抜いた時、最終的な交渉の席にいたのがひばりの母・加藤喜美枝ともう一人の親代わりだった山口組の田岡一雄組長。田岡は「ひばりをタイトル・ロールの常に一番右におくこと(書き出し)」を条件の一つに付けた。「それはできません」と岡田が答えると、田岡は「なんでや!」と語気を強め、じろりと岡田の目を凝視した。岡田はとっさに「いつも右だと他のスターが共演しません。中村錦之助や大川橋蔵は、なにしろ歌舞伎界の出だから序列には特別うるさい。これはケース・バイ・ケースでいきましょう」と切り返すと、田岡は「ケース・バイ・ケース? ええ言葉出たな。どうするお母さん、それでええか?」その時、ひばりが『いいわよ。岡田さんの言い方が当たり前よ。私は東映の看板俳優の人たちと共演したくて契約したのだから』と言い、母親も賛成してくれた。ひばりの毅然とした態度で最大の難関を通過できた。マキノは恐くてたまらなかったという。高岩淡の証言では、この時の料亭での話し合いには、ひばりとマキノはおらず、岡田と田岡、加藤喜美枝の三者による話し合いで、田岡、加藤が「ひばりの名前を出演者のトップに出せ」と言って聞かないので、「歌舞伎界の御曹司(中村錦之助)をトップにしないわけにはいかない。今回はひばりさんはトメ(出演者の最後)にしてください。ひばりさんをトップにするなら、相手役は里見浩太朗になりますよ」と、岡田がはっきり言い返したので、田岡が感心して「この人の言うとおりや」と逆に加藤を論したという。

田岡は岡田の度胸に惚れ込んで、以来、京都に立ち寄る度にスタッフ全員分のきんつばを土産に撮影所の陣中見舞いに訪れ、その労をねぎらうようになったという。田岡が京都のクラブ「ベラミ」で鳴海清に撃たれて負傷した1978年7月11日も、この日の前日焼けた京撮の火事見舞いの帰りだった。また後に東映がヤクザ映画に方向転換した際は、取材協力だけでなく、他の組とのトラブルに巻き込まれないように気を配ってくれたという。田岡は生前「岡ちゃん、あんたがヤクザなら、俺以上の親分になっとるわ」と感心していたという。

ひばりの母・加藤喜美枝も岡田を非常に信頼し何かあると『岡田さん、岡田さん』と岡田を呼び『岡田さん以外とは話さない』と言っていたという。岡田は神戸芸能社との交渉も恐れず、ひばりの地方興行と映画の撮影が重なることがあっても、撮影を優先させた。ひばりは小林旭と結婚した1962年あたりから映画や浅草国際劇場での正月公演の入りが悪くなりピンチを迎えた。喜美枝がひばりの再出発として企画したのが、『江利チエミで大成功した後、次は本家に出て頂きたいんです』と、新宿コマ劇場から要請のあった初の座長公演であった。しかし浅草国際劇場での興行には神戸芸能が入っていて、そこから東宝系の新宿コマに移るということは神戸芸能と手を切ることになる。喜美枝はこの契約を田岡に内緒でしてしまい田岡の逆鱗に触れた。東映との専属契約は1963年12月で切れたが、いざというときに泣きつくのは岡田であった。岡田を通して田岡の怒りを鎮めてもらおうと、喜美枝は岡田と共に療養中の田岡を訪ねて何とか田岡の怒りを収めた。『お嬢の座長公演のスタートは、女の花道』との演題で川口松太郎に粘りに粘って脚本を書いてもらい、1964年6月一か月の公演が決まった。舞台の演出には映画で何度もコンビを組んで気心知れた沢島忠を希望した。しかし沢島は当時東映と専属契約を結んでおり他社の仕事は出来ない。喜美枝はこれも岡田と直接交渉し、強引な申込みに岡田は困り切り、出した一案が『東宝から淡島千景を東映に借り、その代わり沢島を東宝系の新宿コマの舞台に貸す事にする』というバーター案で、これにより沢島の貸し出しが決まった。沢島はこの後1967年、岡田が『もう時代劇はやらない』というので東映を辞め、東宝系の東京映画に移るが、これを機にその後は美空ひばりの舞台演出を主に活躍した。

当時22歳の萬屋錦之介と17歳の美空ひばりは、共演後にたちまち恋仲となったが、ふたり共に、これから上り詰めていこうという絶好調の大スター同士で周囲が猛反対した。それでも別れないふたりに田岡は困り果て、岡田に別れさせてくれと頼み、岡田がふたりを別々に呼んで諄々と諭して別れさせたという。

1954年、岡田が製作課長時代に東映に移籍してきた萬屋錦之介を唯一説得できる存在であった。錦之助は『笛吹童子』の大ヒットで一躍スターとなったが、錦之助は子供向け路線から、大人の俳優へ脱皮しようとした。しかし何とかこれを説得して先送りさせた。当時東映は二本立てをやっていたが、片岡千恵蔵や市川右太衛門の作品には若いファンがいない。だから錦之助や東千代之介の作品を組ませると客層のバランスが取れる。錦之助はいろいろやりたいものを言ってきたが、『ダメだ』と言ってしばらくは言うことをきかせた。できるだけ小難しいものには手を出さないようにしていたが、しばらくすると内田吐夢や伊藤大輔、田坂具隆ら、巨匠連中が錦之助を放っておかなくなった。これら巨匠の作品に出演していくうち、錦之助は“巨匠離れ”ができなくなった。他の作品に出るのが馬鹿馬鹿しくなってきたのである。岡田は『そんなこと言ってると人気が落ちるぞ』とケンカもしたが、当時、東映が夏と正月に作っていたオールスター映画にも出ないというようになってきた。錦之助は書き出しに特にうるさく、岡田も往生させられた。その頃から錦之助に外からも誘惑が来るようになって『岡田さん、会社がいうような企画だけじゃダメなんだ』と言うようになり、説得が難しくなってきた。この後、岡田が1961年後半から二年半の間、京都から東京撮影所長に転属すると、錦之助は変な企画をやるようになって、お客も入らなくなってきた。1964年に岡田が京撮に戻り、何とかしようとしたが、当時錦之助は俳優組合の委員長にまつり上げられていて、有馬稲子からも組合活動を辞めさせて欲しいと頼まれ、有馬には『年間7000万円も貰っている錦之助がリーダーで話がまとまるのか。錦之助は大川社長より年俸が多いんだよ』と言うと、有馬は『そうよねー』と頷いていて、錦之助に『お前はそんな柄じゃない』などと説得したが聞き入れず社長たちの。この頃、東映の任侠映画と時代劇の立場が逆転し「宮本武蔵シリーズ]」五部作の完結編『宮本武蔵 巌流島の決斗』は、営業サイドがやめてくれと言ってきて製作が危ぶまれたが、岡田が奔走し低予算で完成に漕ぎ着けた。さらに錦之助は独立を大川社長に告げる。大川は猛反対したが岡田は『このままケンカ別れするのは損だから、俺に任せろ』『お前が思っているほど、フリーというのは楽じゃない。また東映に帰ってこれるように4本の映画に出てくれ』との条件を出し錦之助を説得、1966年錦之助は東映を円満退社し『中村プロダクション』を設立したが1982年に倒産、岡田らの口利きで『ビッグヒル新社』という再建会社を設立したがこれも倒産した。錦之介は再び岡田のところへやってきて『柳生一族の陰謀』へ出演することとなる。

格闘映画[ソースを編集]

格闘をモチーフとしたアクション映画は1956年の『空手打ちシリーズ』(高倉健主演)からだが、1960年代に入ると柔道を正式競技とする東京オリンピックを先取りした『柔道一代シリーズ』(千葉真一主演)や、テレビドラマでも桜木健一を主役にすえた『柔道一直線』を制作していた( ⇒ #テレビドラマ)。1973年の空手をモチーフとした千葉真一主演『ボディガード牙シリーズ』は、週刊サンケイに連載していた梶原一騎の劇画を映画化したもので、『巨人の星』・『あしたのジョー』・『空手バカ一代』と梶原が次々ヒット漫画・劇画を発表していたので岡田は注目していた。

4か国合作『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(千葉真一主演)のシナリオハンティングで、1973年の夏に香港を訪れた高田宏治が劇場で『燃えよドラゴン』を観て「香港にとんでもなく面白い映画がある」と、岡田へ日本で一般公開される前に試写で観せた。「オモロイやないか。カンフーをカラテに置き換えて、千葉で行け(千葉真一を主演に据える)」と岡田が号令を出して製作したのが1974年の『激突! 殺人拳』。東映にとって久々の大ヒットを飛ばした作品となり、当時の岡田は何をやってもうまくいかなかったが、よっぽど嬉しかったらしく祝電をいっぱい打っていた。

フランシス・フォード・コッポラが千葉真一とアル・パチーノの共演で映画を作りたいと岡田に打診してきたことがある。アメリカ州・欧州・東南アジアで千葉の主演作品『殺人拳シリーズ』・『地獄拳シリーズ』が大ヒットしていた頃、岡田に「海外で勝負させてください」と千葉は頼んだが、「ハリウッドを牛耳っている人たちに、ケツの毛まで抜かれて帰ってくるのが関の山だぞ」と反対された。ジャパンアクションクラブ(JAC)のことも悩み、他の人に引き継いで、全部クリアしてからアメリカ行きを決断したときはもう50歳を過ぎていた。

鈴木則文が提出した三作品の企画を自らで潰しておきながら、京都へ帰ろうと挨拶に来た失意の鈴木に「京都時代に俺とお前で作った『緋牡丹博徒』のカラテ版をつくる。主演は香港から呼ぶ。『燃えよドラゴン』でブルース・リーの妹役を演ったアンジェラ・マオと交渉した香港支社から、今OKの知らせが入った。すぐ脚本の準備に入れ」と電光石火で企画を成立させる。「日本語なんか喋れなくてもあの子は売れるぞ。緋牡丹のお竜のカンフー版だ。お前のシリーズになるぞ。題名はこれだ」と岡田が付けた題名が『女必殺拳』(1974年)であった。しかしアンジェラ・マオが諸事情で不出演となり、千葉が推薦してきた愛弟子・志穂美悦子の抜擢となった。志穂美は「現代版お竜」を謳い文句に、「日本初のスタントウーマン」と銘打って『女必殺拳』で主演デビュー、『女必殺拳』はシリーズ化され、志穂美の出世作となった。志穂美は『華麗なる追跡』などにも主演していく。志穂美に続き、千葉の秘蔵っ子・真田広之が『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)、『吼えろ鉄拳』(1981年)、『燃える勇者』(1981年)と主演し、アクションスターとして売り出された。初主演作『忍者武芸帖 百地三太夫』は当初、ジャッキー・チェンの香港カラテ映画を参考にしたナンセンスアクションであったが、岡田が真面目な時代劇に変更したという。2002年、日刊スポーツ映画大賞の表彰式で『たそがれ清兵衛』で主演男優賞を獲得した真田広之について「ウチにいたときよりずっと良くなったよ」と話した。

ニュー東映とアクション映画[ソースを編集]

1961年、東映東京撮影所の所長に着任し、ニュー東映の量産体制を担うべく、深作欣二ら助監督を監督へ昇格。千葉真一が初主演で深作の監督デビュー作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』は、日活の『渡り鳥シリーズ』をマネしろと製作されたものだが、それでも物語はスピーディーかつドライな独自なものに仕上げられた。同年に千葉・深作コンビの『ファンキーハットの快男児シリーズ』は『風来坊探偵シリーズ』より現代的な作品になっており、高倉健・鶴田浩二らもニュー東映の“現代アクション路線”に出演していた。岡田は器械体操で使用される器具を次々東京撮影所に設置し、千葉へ撮影の合間にトレーニングするよう指示していた。千葉と深作は東映の外に出て、1966年の日本台湾合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』でもコンビを組んでいるが、これらはテレビドラマ『キイハンター』(1968年 - 1973年、TBS)の先駆けともいえる作品となっている。深作の1962年作品『誇り高き挑戦』は各方面から賞賛されたが、お客が入らず、岡田が深作に「駄目や、全然違うじゃないか。お前、ジャーナリズムとか批評家なんかに褒められて、いい気になったらあかんぞ」「お前、もっとドンパチやれ。ドンパチやらないからいけないんだ。『ギャング対Gメン』、これをやれ」と同作を撮らせた。岡田は当時テレビで日本でも人気があった「アンタッチャブル」でいけ、と指示を出し、これを脚本の村尾昭が馬鹿丁寧にパクり、岡田は「これは面白い」と褒めたが、なんぼなんでもそっくり過ぎな映画になっている。しかし三島由紀夫は何故かこの作品を褒めたという。

『網走番外地』(1965年)は、元々三國連太郎が、岡田が手がけた“ギャング物”“現代アクション路線”の延長上にある“娯楽アクション映画”として、岡田に企画を提出したのが始まり。

大映のアクション時代劇を観た岡田は 吹き替え・スタントマンの重要性に気づくが、当時の東映の大量生産体制でスタントマンを養成する余裕がないため、手っ取り早く、日本最初のスタントマンともいわれる宍戸大全を大映から引き抜く。明るく楽しい時代劇では、いつか観客離れがくると、将来の時代劇アクションという方向性を模索していた。ところが当時は 吹き替え・スタントマンという専門職がまだ確立されていない時代、また宍戸も大映に所属し五社協定で移籍は不可能であるが、岡田は何のトラブルもなく宍戸を破格の待遇で東映に移籍させた。また100万円をポンと出して諸道具を購入させた。この諸道具は1962年、大映で市川雷蔵主演で『忍びの者』がシリーズ化されると、諸道具一式と宍戸を込みで大映に貸し出し、一作品当たり50万円(計8本)を請求して充分元を取った。宍戸を引き抜いたものの、間もなく時代劇を終了させ、着流しヤクザ路線へ舵を切るため、宍戸をあまり活かせず、宍戸は1967年フリーとなる。

仁侠映画[ソースを編集]

岡田プロデュースによる1963年『人生劇場 飛車角』は、東映任侠路線の幕開けとなった作品で、過去何度も映画化された青成瓢吉を主人公とする青春映画では当るまいと考え、登場人物の一人・ヤクザの飛車角を主人公に据えヤクザ映画に変えたものである。『飛車角』路線は成功し、時代劇不振にあえいでいた東映の活路を開き余勢を駆って東映は〈ヤクザ映画〉の量産に踏み切り、以来十年に及ぶ隆盛を迎えた。

この〈任侠路線〉〈やくざ路線〉を敷く布石を置きながら、時代劇の復活にも尽力し1964年、1965年にかけて『悪坊主侠客伝』『御金蔵破り』『集団奉行所破り』『大喧嘩』『忍者狩り』『間謀』『くの一忍法』『十兵衛暗殺剣』等、「忍者もの」「集団抗争時代劇」で最後の希望を託し連作したが、作品の良さとは関係なく興業的には凡打で終わり、1965年の正月映画『徳川家康』で時代劇の帰趨を見ると「時代劇は当分駄目だな」との決断に達した。岡田は『風にそよぐ葦』(1951年)や『陸軍残虐物語』(1963年)など、それまで東映では扱わないものを持ち込んだ人物なのだが、ヤクザが当たると「ヤクザ以外に客は呼べない。映画はヤクザだ!」とヤクザ映画ばかり作らせ現場を辟易させた。

1972年、岡田が総指揮を執った藤純子の『純子引退記念映画 関東緋桜一家』が大ヒットした後、任侠映画の当たりがもうひとつの状況を迎えた。同年秋に安藤昇の『やくざと抗争』が予期せぬヒットを放ったため、即座に続編の製作を命じ、この続編のタイトルに『やくざと抗争 実録安藤組』というタイトルを付けた。暗中模索の中で岡田の頭にひらめいたのが"実録路線"である。これが『仁義なき戦い』の誕生になり、『山口組三代目』に繋がる。『仁義なき戦い』シリーズは、東映実録路線といわれ、その後、多くの実録ヤクザ映画が製作された(#実録)。

京撮の大リストラ[ソースを編集]

1964年、所長として京都撮影所に帰還。「日本で最低の撮影所」ともいわれた東映東京撮影所を『人生劇場 飛車角』の大ヒットなどで甦らせたばかりであったため、鶴田浩二などは「ここまでやって来たのにあんたが行ってしまってどうするんだ」と、一晩中泣いていたという。大川からの最大のミッションが京撮の合理化で、時代劇の退潮とテレビの興隆を肌で感じていた岡田は、時代劇中心の京撮を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考えていた矢先だった。“一つの映画のブームは10年”という考えを持ち、「時代劇はやめだ。撤廃する」と早いうちに決断。2100人いた人員を一気に900人に減らした。それだけの人数を減らすにはテレビ部門を拡充、別会社にしてそこへ押し込むしかないとかなり手荒い事をした。岡田が最初に手をつけたのは切りやすい現場スタッフではなく、草創期の東横映画時代から撮影所を支えてきた歴戦の勇士たちであった。片岡千恵蔵や市川右太衛門、月形龍之介以下、時代劇俳優・監督・プロデューサーみんなに辞めてもらう。千恵蔵や右太衛門がまだ絶大なる力を持っている時代で困難を極めた。まずは片岡千恵蔵と市川右太衛門の両〈御大〉。いずれも専属契約解除を通告、千恵蔵は重役待遇で東映に残り、任侠映画テレビ時代劇の脇役として活躍した。右太衛門は任侠映画への出演を拒否し、取締役としてしばらく在籍した後、相談役に退き東映を退社した。続いて〈天皇〉松田定次はテレビ映画に移管させた。〈法皇〉比佐芳武には引退を勧告した。時代劇の巨匠・松田定次を潰すため、その弟子、平山亨らの作った作品の試写に現れ、ケチョンケチョンに貶した。いたたまれなくなり、その場にいた者は次々に立ち去ったという。大川社長から「全権」委任を取り付けていた京撮所長時代の岡田の権力は絶大で、役者も岡田に気に入られなければ役も付かない、監督でも一流大学を出て助監督をどれだけ長くやろうとも、一本監督をやって岡田が気に入らなければ「あかんわ、これ」と、二本目を撮ってもダメと評価されたら、「お前な、仕事せんでもええけど給料やるわ」と最後通告され、入れ替わりが激しかったという。当時東映には、三つの労働組合があり、連携して共産党の府会議員とも結託、若手俳優も含めて全員署名捺印するなどして抵抗したが、岡田の色々なパターンによる巧妙な脅し、組合潰しで旗を巻いた。切られた側の松田定次や東千代之介などからは「岡田だけは許せない」などと批判されるが、今日東映が生き残れたのは岡田の功績とする見方もある。時代劇は家族視聴が主体だった当時のテレビ視聴形態にマッチしていたこともあり、重要なコンテンツと目をつけて、任侠路線に馴染めず余剰人員となっていた時代劇のプロフェッショナルたちをテレビに送り込むため、東映京都テレビ・プロダクションを設立してここへ移管させた。大川橋蔵、河野寿一、佐々木康、結束信二、森田新、村松道平、松尾正武ら。幸い、テレビは時代劇を作りたくてしょうがないのに作る場所がなく、それで東映の撮影所で時代劇をどんどん撮っていった。また、それまで京都中心部に当てられていた脚本執筆のための旅館を太秦の東映独身寮に移し、旅館代を浮かせた。

喜劇[ソースを編集]

1967年、東映でも喜劇路線を敷こうと、当時東宝にいた渥美清を引き抜いた。その頃東宝には森繁久弥や伴淳三郎、三木のり平ら大御所がいて、渥美はほとんど売れていなかった。瀬川昌治監督の『喜劇・列車』シリーズほか数本に主演し、まったくヒットせず。「ウチでは喜劇はどうしてもダメ」と岡田は頭を下げ渥美に身を引いてもらった。渥美は東宝に戻るつもりだったが、「あなたは松竹が一番水に合うと思うよ」と助言。松竹入りした渥美はほどなく『男はつらいよ』に出逢うこととなった。それぞれの会社にカラーがあるのはよく知られているが、東映は1968年から始まる若山富三郎の『極道』シリーズ、1975年から始まる菅原文太の『トラック野郎』シリーズ等のアクションのある喜劇の成功例はあるが、ほのぼのとした喜劇を制作しても成功しなかった。

渡辺プロダクション社長・渡辺晋がクレイジーキャッツを東映に売り込んできた際、岡田は谷啓を非常に買い、渥美清と違ったキャラクターで売り出したいと考え、谷啓一人が欲しいと交渉したが、渡辺は「メンバーとの絡みがあるのでバラ売りは困る」と渋る。ムッときた岡田は「それじゃこの話はなかったことにしましょう」と大きな声を出して迫力のある身体で立ち上がると、渡辺は下手に出て「分かりました。それじゃ企画のクレジットに私の名前を入れてもらえませんか」という。「企画は私がやります。私の名前を入れます」と岡田に対し、「困っちゃうんですよね」と渡辺はぐずり、その後も「谷啓のギャラのピンハネはしたくないんですよ」などとネチネチと攻めてくる粘着質な渡辺に岡田は終始イライラしたという。結局谷啓を一人で使うが、企画クレジットに渡辺の名前を入れない、しかし企画料という名目で谷啓に払うギャラの三割を渡辺プロに払うというスタイルで商談が成立した。なお渡辺は最初からクレイジーキャッツをまとめて映画会社に売り込むつもりなど更々なく、ハナ肇→松竹、谷啓→東映、犬塚弘→大映、植木等→東宝、とそれぞれバラで売り出す青写真を最初からつくり、それぞれのトップと同様の交渉を行ったという。

東映ポルノ[ソースを編集]

任侠路線と並ぶ柱を作ろうと文芸路線、喜劇路線を試行するが大きな成果が得られず、1960年代後半から独立プロが製作していたエロ映画に目を付け、参入を計ったのが東映ポルノである。

東映洋画(東映洋画部)[ソースを編集]

また1960年代後半から中小の配給会社が輸出して利益を挙げていたピンク洋画(洋ピン)に目を付け、エロ路線の拡大を狙い1972年5月、東映に洋画部(東映洋画)を新設し洋画配給業へ進出した。

社長就任とフライヤーズ売却[ソースを編集]

東急社長五島昇により「ウチ(東急)で映画の製作をやらせてやる」と社長を請われたことがあるが、岡田は固辞している(1980年に東京急行電鉄取締役や東急レクリエーション社長に岡田が就任している)。高岩淡の話では、1968年に岡田は俊藤浩滋、今田智憲の3人で東映を退社し、電通と組んで独立会社を作るという案を練っていたが、この年の東映の忘年会で、高岩が「岡田さんが辞めると言うてるがどうするんや」と切り出すと、現場のトップや監督、役者などがみな、泣きながら「岡田さんがいなかったら生きていけません」「もう死んでしまいます」などと発言したために退社の話はなくなったのだろう、と述べている。

1971年当時、大川の息子・毅は、ボウリングクラブ、タクシー、ホテルなど、映画以外の事業本部長であったが、うまくいかなくなるにつれ労働組合が騒ぎ始めた。当時は一株株主というのが流行っていて、毅にプレッシャーをかけていた。1971年4月の株主総会が近づいてきたとき、岡田は毅に「組合の問題は全部私が処理するから、あなたはどこかへ引っ込んでいてくれ。どこかに行ってる間に解決するから」と伝えた。当時一番の目玉企画だった『網走番外地シリーズ』が控えており、東撮の組合がその製作を辞めると言い出した。当時東映の組合は強かったが岡田は「やるならやってみろ。でも今、会社を潰したってしょうがないぜ」と強気で当たった。しかしどうにも埒があかず手がない。京撮は活動屋の巣でもあり、岡田の古巣、かつ直属の部下である高岩淡を中心に岡田に忠実であったため、岡田が最終的に繰り出した戦法は『網走番外地』を京撮で作ることで手を打ちロックアウトをかけた。当時はロックアウト自体どういうことか誰も知らず、給料ストップらしいということが効き目になった。団体交渉で「条件を呑んでくれれば、払わないわけにもいくまい」と伝え紛争は解決した。全部が終わったのは総会の前日だった。大川博社長から初めて「ありがとう」と言ってもらったが、その直後に大川は体調を崩してそのまま逝去した。

大川社長の逝去で、後任社長には岡田・坪井与・俊籐浩滋・片岡千恵蔵らの名前が挙がったが、才能を買われて40代の岡田が社長になった。この時、千恵蔵が20歳年下の岡田を強硬に推したという説がある。千恵蔵が主演した1947年の『三本指の男』で、岡田が製作助手について以来、頭の回転が早く、エネルギッシュで行動的、べらんめえ調で弁が立つ、ひと際目立つ岡田を千恵蔵はずっと注目していた。小学校もろくに行かなかった千恵蔵にとっては、東大出というだけでまぶしい存在だった。経営陣とトップとしては自分はとうてい、岡田に敵わないと自覚し、入社以来の付き合いのある岡田なら、意見が通じ易いだろうという計算もあったという。

社長に就任した1971年当時、映画斜陽の時代で東映は多角経営に失敗、経営は苦しく労組問題もあって、撮影所上がりの岡田の手腕は不安視もされた。当時通産大臣だった田中角栄を訪ねると「岡田君、某銀行の大将から頼まれたんだが、その銀行のある支店長をあんたんとこの専務か何かで入れてくれんか」と言われた。「お断りします。それは住友ですか」と聞くと「いやいや」と誤魔化されたため「僕はこれで住友と縁を切ろうと思う。向こうがそう思っているなら、本気で付き合えない」と答えると「何怒ってるんだ。興奮するなよ。分かった。これはなかったことにしてくれ」と言われた。頭にきて五島昇の所に行ったところ「三菱にせい、俺が話すから」と言う。翌日、住友銀行頭取の伊部恭之助に会うと慌てて「それは違う。堀田庄三さんが何かの拍子で言ったか知らないけど、勘弁してくれ、私も知らんような話だから」と言われたが「だけど僕はある人に相談したし」と帰ると、すぐ電話が掛かってきて一席設けることとなって「何かあったらしいけどますますいい関係に」と手打ちとなった。

1972年秋、経営窮状の西鉄ライオンズ、東映フライヤーズ両球団を巡り球界が大揺れ。引受け手にも断られ身売りは暗礁に乗り上げてパ・リーグは崩壊寸前にまで追いつめられた。ところが、西鉄をロッテ・オーナー中村長芳が太平洋クラブの支援の下に買収。急転直下、パ・リーグの6球団はリーグ維持の方向へ向かう。岡田も一転、球団経営を存続する意向を発表。また「上場もされていないような会社に球団は売らない」と明言していた。にも関わらず翌1973年1月、PR効果だけが目的と思われる不動産会社・日拓ホームにフライヤーズを売り飛ばした。日拓への売却の経緯は「今里広記を囲む会」で知り合った日拓の西村昭孝(西村拓郎の父)に球団経営を勧めたもの。売却額も8億円と書かれたものが多いが、岡田は自伝で3億円と書いている。青天の霹靂を絵に書いた売却劇にフライヤーズ選手、及びファンは大きなショックを受けた。

1973年の東映は『仁義なき戦い』や『山口組三代目』など「実録路線」の大ヒットで年間配收73億8000万円と創立以来2番目の記録を更新、他の追随を許さない好業績を挙げたが、翌1974年早くも停滞ムードが漂う。岡田は社長就任以降、企画も若手グループにまかせ、あまり介入しなかったが、同年4月の映画企画製作委員会の席上、①19歳以下を掴まえること、②セリング・ポイント(セールスポイント)は1ツであること、③世界の企画動向に注目せよ、④出来上がりの面白いこと、という"製作の4原則"なるものを打ち出し、"今日からオレがOKしなきゃ撮らせない"とハッキリ介入宣言を出した。翌1975年には映画事業部長を兼任して陣頭指揮にあたり、全作品をプロデュースした。岡田の映画事業部長兼任はその後も10数年続く。1983年から1984年にかけての映画は企画を見て製作するか否か即決、全面的に岡田が仕立てたラインアップだという。岡田が社長に就任してからは、東映は岡田の独裁国家となった。企画を提出する際には、岡田の諒解さえ取れば、あとは何をしようと営業も宣伝も文句は言わない。但し岡田は岩盤のように頑固で、日下部五朗が自身がファンだった岡本喜八監督で映画を撮りたいと、岡田に何度も企画を持って行くが、「あかん!八の字のつく奴は使わん!」と意味不明の理由で、遂に企画が通ることはなかったという。

東映グループは月1回、銀座の本社8階会議室で全体会議があり、日本中から、本社の部長以上、映画館の館主、支社長、関連会社社長等、50人くらいを集め、岡田が案件を1件ずつ見ては「儲けが悪いな」「赤字ばっかりじゃないか」等、指摘する。この全体会議は遅れると入れてもらえず、1979年当時、東映テレビ企画営業第二部部長だった平山亨は遅れて、後で岡田に『お前なんか辞めちまえ』と言われた。会議に出るのが嫌になり役付けを部長代理にしてもらったら、その後岡田に「おう、平山。大丈夫か、体の方は」と言われた。岡田には「平山は病気」ということで報告が行っていたという。

実録[ソースを編集]

“実録”は#仁侠映画に留まらず、東映は勿論他社も“実録モノ”を量産した。『仁義なき戦い』が公開された1973年の秋に、東宝が池田大作の著作で創価学会第2代会長・戸田城聖の半生を映画化した『人間革命』を公開。これが空前の大ヒットとなってこの年の11月、12月の売上げ額で東映は10年ぶりに東宝に抜かれた。こうした組織動員を期待して製作しようとしたのが『実録・日本共産党』であった。

岡田は他の会社でレッドパージされた家城巳代治や今井正にも撮らせたり、右でも左でもエロでもグロでも当たればいいというエンターティメントの思想で、これはそのまま東映のカラーになっているが、どちらかというと右寄りの映画が多いため1974年、その『日本共産党』の映画を企画し、製作しようとしたら社内から、一体うちのポリシーは何なの?と批判が出た。これを「代々木(日本共産党)が動員してくれりゃ、右も左もあらへん」と、共産党員とか『赤旗』の購買者の組織動員を当て込み制作に着手させた。監督も深作欣二に決まりキャスティングも決定、笠原和夫も取材を重ね、とても出来の良い脚本を完成させていた。映画のスタイルは『仁義なき戦い』タッチの「実験映画」で、戦後日本の一方の巨大組織誕生秘話を描こうという構想であった。ところが制作は中止された。山城新伍はやはり東映は右寄りだから、おおかた宮本顕治委員長からクレームがきて、再度検討の末に話が流れたのかと思い、岡田に聞いたら「代々木がよぉ、前売り切符思ったほど買わねぇから、やめたやめた!」と言ったという。実際は脚本の主人公に置かれた渡辺政之輔の死因に関して、共産党系の東映内部の労働組合との交渉がうまくいかずポシャッたという説、そうではなく、当時の東映京都の組合にはそれ程の力は無かったので、共産党が伸びるのを面白くない右翼が圧力をかけてきて流れたという説がある。『実録・日本共産党』が成功していれば、社会派現代劇にも道が拓かれたかも知れない。『日本共産党』の制作に組み込まれていたスタッフは、そのまま別のヤクザ映画に回された。岡田は1976年、解放同盟と組んで松本治一郎(松本龍の養祖父)の伝記映画『夜明けの旗』を撮ったときも、みんなビビッて怖がってるときに会長を呼びつけて「お前んとこ、もっと切符買え!」と怒ったという。なお、先の制作中止になった共産党の映画が『いつかギラギラする日』の原案という。

こうした実録モノは各社の先陣争いのため、東映は「他社に抜かれる心配があるので」と、アドバルーンだけブチあげて実際は製作されないことが多かった。『田中角栄伝』や『実録・新日鉄』『実録・伊藤忠』『プロ野球黒い霧事件』『毛利郁子愛人刺殺事件』を映画化するとマスコミに流したがこれらは製作されていない。1974年11月に起こった荒木虎美の「別府3億円保険金殺人事件」を現代版『羅生門』として製作すると発表し「荒木が不起訴になったら当人も出演させたい」というワルノリぶりだったが、これも製作されたかは不明。岡田は「映画もジャーナリズムの一部だと思っているし、世間が関心を持つ事件は映像化する意義がある」と話した。この他、東海大学の創立者・『松前重義伝』の企画もあり、東海大学は全国にあるから前売りで稼げるだろうと踏んだがこれも流れたという。実録物では他に1974年に『実録・紅白歌合戦』を企画したこともある。当時の紅白は視聴率が80%台で、番組出演のため、あの手この手を使う歌手・プロダクションの実体を暴くという企画であったがこれも製作はされていない。これら実録路線は山口組との癒着が摘発されたことに端を発したヤクザ物からの転進作戦で「東映、ヤクザから正義派へ‽ ー新実録路線の企画ぞくぞくー」などと呼ばれた。

映画化された物では小野田寛郎を映画化した『ルパング島の奇跡 陸軍中野学校』(1974年)は、小野田元少尉のルバング島での生活はまったく出てこない映画であった。同年の鶴田浩二主演『あゝ決戦航空隊』は、神風特攻隊の提唱者といわれる大西瀧治郎が人間として魅力があり、大西の死によって徹底抗戦を主張した厚木航空隊の青年将校が思い止どまったという歴史的な秘話もあり、従来の戦記映画にないドラマが出来ると製作させたもの。1974年暮れから公開されたフランス映画『エマニエル夫人』の大ヒットを受け、和製エマニエル夫人の謳い文句で佐久間良子を貸し出し『雪夫人繪圖』(1975年)の企画を日活に売りつけたこともあり、佐久間はまったく脱がず昼メロ的な映画であった。日活も1973年におきた「滋賀銀行横領事件」に題材を得た実録モノ『OL日記・濡れた札束』(1974年)など、実録ポルノを製作した。

1975年の『実録三億円事件 時効成立』という映画は、岡田が時効が迫った「三億円事件」を世間が再注目し出したことにつけこみ急遽製作したキワモノ企画。「事件が時効になる12月に封切る。実録タッチと推理でガッチリゆく」と、捜査陣の焦りの気持ちに逆行するような発言をした。この映画の主演・犯人役は俳優時代の岡田裕介(後の東映社長)。岡田の息子で、当時は身分を隠して東映初主演した。

外国との提携[ソースを編集]

1974年の『樺太1945年夏 氷雪の門』あたりからソ連のモスフィルムとの付き合いが始まり、モスフィルム所長ニコライ・シゾフとの共同製作で1980年『甦れ魔女』を製作。この後、シベリアオオカミを主人公にした映画、という岡田の企画が8年越しで実現したのが1990年の『オーロラの下で』。

その後もモスフィルムと提携して合弁会社「トーモス」を設立、東映太秦映画村のモスクワ版を作るというプロジェクトも進めたがその後の詳細は不明。モスフィルムの3700本の日本上映権は1990年9月契約した。

1974年、アメリカのワーナー・ブラザースがロバート・ミッチャム、高倉健主演、シドニー・ポラック監督で映画化した『ザ・ヤクザ』は、東映の京都撮影所で製作されたが、ワーナーから高額なレンタル料をふんだくった。ワーナーは「日本のエコノミック商法は“カミカゼ”なみだ。日本映画界の仁義ってそんなものか」と憤慨していたという。この映画のエグゼクティブ・プロデューサーは俊藤浩滋であるが、監督のシドニー・ポラックが日本人を馬鹿にして、ポール・シュレイダーが脚本で書いていた仁義や義理といった日本的形式を全部追いやりメロドラマにした。ポラックと俊藤は終始仲が悪く、すったもんだのあげく映画は完成。岡田の判断で配給は東映で行った。

ブルース・リーの4本しかない主演映画の日本公開順では最後となった『ドラゴンへの道』の日本での配給権を巡り、1974年に東宝東和と激しい争奪戦を展開し池玲子を人身御供"にして同作の獲得に成功した。

岡田が設立した東映洋画部は新参のため、西ドイツ映画『性医学 幸福へのカルテ』を皮切りとして、当初はポルノ映画を専門に手掛け、1973年の『淫魔』は初の立体ポルノとして話題を呼び、『世界悶絶トルコ風呂』の大ヒット、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の『昼顔』のリバイバルヒットと後、この『ドラゴンへの道』の大ヒットにより洋画部は大きく飛躍した。

1975年、東南アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)でジャカルタに行った際、同じ代表団団長同士というので香港ショウ・ブラザーズの邵逸夫と仲良くなり、その後提携に発展した。当時、香港で『仮面ライダー』が物凄く人気を呼んでいて、邵は子供物に非常に興味を示し、動画(アニメ)に手をつけたいから応援してくれ、と言われたが「動画はあまり得にならんよ」とアドバイスを贈った。香港は人件費が安いからと邵は動画をやりたがっていたという。三上陸男や村瀬継蔵がショウ・ブラザーズに招かれたのはこの流れと思われる。邵は映画村にも興味を持ち、撮影所のわきに作りたいからと岡田に指導を要請してきたが、タダで知恵は売れない、ノウハウを輸出してやろうと答えたという。

ジャッキー・チェンの日本で最初に劇場公開された主演映画『ドランクモンキー 酔拳』は、先のゴールデン・ハーベストが東映ポルノに注目してコンタクトしてきた流れから製作の呉思遠が東映に売り込みに来たものという。同作は1979年に『トラック野郎・熱風5000キロ』との2本立てで公開され大ヒットしたため、立て続けに主演映画が公開され、日本でジャッキーフィーバーが巻き起こった。なお、売り込んできたジャッキー映画のうち、『新精武門』(『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』)だけは岡田が「誰がこんなもん、見るの?」ということで買わなかったという。このため本作は劇場未公開である。

新たな取り組み[ソースを編集]

『新幹線大爆破』(1975年)は、アメリカのパニック映画に受けて立つと考えた岡田の企画。 

『トラック野郎』(1975年 - 1979年)は、愛川欽也が岡田に企画を持ち込み直談判したもの。

便乗企画では深作欣二の『暴走パニック 大激突』(1976年)は『新仁義なき戦い 組長の首』(1975年)のカーアクションが面白いので、日本で大ヒットしたアメリカ映画『バニシングin60″』をミックスして作れと号令したもの。

1979年、田中健・岡田奈々主演の『暴力戦士』は、ウォルター・ヒル監督の『ウォリアーズ』で行け、と石井輝男に撮らせたもの。

『愛のコリーダ』(大島渚プロ=アルゴスフィルム、1976年)で日本映画初の“本番”が大きな話題を呼んだ松田英子を獲得し『大奥浮世風呂』(1977年)という得意のエロ時代劇に主演させたこともある。

時代劇復興[ソースを編集]

『柳生一族の陰謀』(1978年)は、岡田と深作、日下部の三人の話で、「久しぶりに時代劇をやりたい。山本薩夫の『忍びの者』(1962年、大映)みたいなのはどうや」という岡田の一言が切っ掛けでスタートしたもの。かつては時代劇の切り捨てに辣腕を振るったが、本作の大ヒットで東映は「時代劇復活」の狼煙を上げた。

元気づいた錦之助はこの後、同じ深作欣二監督で『赤穂城断絶』をやったが、錦之助が深作の言うことを聞かず、深作の方が岡田に降りたい、と泣きついてきたが、今度は深作を何とか説得して完成させた。1996年、萬屋が文化庁から表彰される事になった際、萬屋は真っ先にこの件を岡田に報告し、感謝したという。岡田は、晩年の錦之助を歌舞伎の家流に定着させようとして『俺が言っておくから、松竹の永山武臣会長のところに行ったらどうだ。そうすれば一門の人たちも助かるだろうし、お母さんも喜ぶだろう』と言ったが、錦之助は『俺は映画の錦之助として死にたい』と言ったという。

1996年のパーフェクTV!、1997年ディレクTV開局とCSのチャンネルが一気に増え、「こんなにたくさんのチャンネル誰が見るんだ」と、専門色を出さないといけないだろうなと考えていたところ、1997年にC.A.Lの加地隆雄社長が岡田を訪ねて来て、「時代劇で一つのチャンネルを開きたいんだ。いま時代劇衰退だといわれとるから時代劇を守りたいんだ」と訴えたため、「分かった。加地君がそういうならやろう」と、多チャンネル時代を視野にいれ〈人気低下が目立ち始めた時代劇の復活〉を掲げ、C.A.L、電通と組み、岡田が音頭を執り、東映、C.A.L以外に時代劇のコンテンツを持つ国際放映、三船プロ、ユニオン映画、Gカンパニーに声をかけ、1997年11月14日、加盟6社で「時代劇コンテンツ推進協議会」を立ち上げ会長に就任。各社の持つ時代劇コンテンツを各種メディアに供給の他、加盟6社が持つ映画テレビの時代劇ソフトのデータベース作りと管理、著作権への対応、海外への作品供給等、膨大な過去の財産からビジネス・チャンスを作り出し、日本独自文化である時代劇の維持と再発展を目標にした。時代劇映画製作の構想もあった。

当時、日本テレビの時代劇ドラマが、明石家さんまのバラエティに衣替えしたり、テレビの時代劇番組はどれも視聴率が10%前後と苦戦を強いられ、時代劇を取り巻く環境は年々、厳しさを増していた。岡田は「確かに今はトレンディドラマやバラエティに押され気味ですが、プロ野球を見ている人は年配層だし、お年寄りに時代劇ファンはまだ多い筈です。一社で番組を売るより、みんなで協力した方がいい。今は苦しくとも、長い目で見れば、時代劇が見直される日は必ず来ると思います」と述べた。島野功は「協議会のメンバーは時代劇をマンネリ化させた張本人たちです」と皮肉った。

1997年12月1日からディレクTVでワンダーキャストが経営する委託放送事業「時代劇チャンネル」に対する作品供給を始め、同チャンネルはトップクラスの人気を誇った。多チャンネル時代のソフト確保は、著作権問題が課題で、これ以後、衛星放送の時代劇ソフトを巡る動きが急展開した。1998年5月7日に東宝と松竹も協議会の参加を決め、これにより国内で時代劇に係る製作会社と関連ソフトを持つほとんどが同協議会への加入した。1998年7月からスカパー!の「時代劇専門チャンネル」を運営するスカイエンターテインメント社(現・ジェイ・スポーツ)にも同協議会から番組を供給した。 

東映太秦映画村[ソースを編集]

1975年に開村した東映太秦映画村は、任侠ものが下火になって次代への転換が厳しく迫られていた1972年頃、会議の雑談の中で「台湾の撮影所が現場を有料で一般公開し、大成功している、京都でもその辺の事を真剣に考えたらどうだ」という岡田の話から計画がスタートしたもの。高岩淡は「撮影所を一般に開放して、撮影風景を見てもらってはどうでしょう」と岡田に提案したところ、岡田は「そんな裏側を見せるもんやない。それに、観客がぎょうさん来たりしたら、監督も役者もやりにくくてかなわんで」と言ったが、しつこく食い下がったら「そんなに言うなら、一日だけやってみい」と言われ実行したら、観客が押し寄せ大盛況で、これに岡田が納得した結果、東映太秦映画村がオープンしたと述べているが、岡田は著書で「ユニバーサル・スタジオ同様、日本でもこうした施設を作れば受けるはずだと考えた。その前から撮影所を見学したいという要望が多く寄せられていて、見学には案内人も必要だし、その経費もばかにならない。映画村は商売になると踏んだ」と映画村構想は自身の発案だったと書いている。この案を高岩に話したら高岩は乗り気だったという。

東映セントラルフィルム[ソースを編集]

1977年、プログラムピクチャーの外注化を設立目的として、低予算で映画を製作するため東映セントラルフィルムを設立。日活を辞めた黒澤満を東映ビデオの製作部門の長として引き抜き、黒澤が主に日活出身のスタッフらとともに映画の企画制作を始めたセクションがセントラル・アーツである。

東急レクリエーション[ソースを編集]

1980年に東京急行電鉄取締役と東急レクリエーション社長に就任し、東急グループと東映の冷え切った関係を修復した。赤坂東急ホテルで開かれた岡田の社長就任を祝う会では、東急グループの総帥・五島昇が人前を憚らず号泣した。岡田は同社の社長を1980年1月から1993年6月まで務め、以降2003年3月まで代表取締役会長、その後も2011年5月に亡くなるまで相談役として30年以上、同社の経営に関与した。東急レクリエーションは、渋谷・新宿を中心に都内一等地に大型の劇場チェーンを持つ興行会社で、社長・会長在任中に各劇場の再開発を行った。1987年、東急レクリエーションと東映の提携によるティ・アンド・ティ映画興行(Cinema T&T)を設立して有楽町センタービル(有楽町マリオン)に丸の内ルーブルをオープンさせ、念願の銀座地区進出を果たし、1987年4月に池袋とうきゅうビルを建設。この時、佐々木興業とチェーンを組んでいた丸の内ルーブル、ミラノ座、渋谷パンテオンを全て東急レクの直営館にした。他に1989年9月開業したBunkamura内にヘラルド・エースとコラボしてBunkamura ル・シネマを、1993年には多摩市の多摩カリヨン館に松竹第一興行とジョイントでビデオシアター・多摩カリヨンシアターを、同年本厚木のミロード2に厚木シネマミロード等をオープンさせた。丸の内ルーブルは天井に巨大なシャンデリアを設置するなど、アクション映画主体の同チェーンに女性層の動員を意識した番組編成を行う先駆けとなった。他の劇場も椅子のデラックス化や絨毯の張り替えなど、劇場への再投資を積極的に行い、岡田社長就任時に同社は大きく業績を伸ばした。『E.T.』や『愛と青春の旅立ち』『戦場のメリークリスマス』『007/オクトパシー』『フラッシュダンス』『探偵物語』『時をかける少女』などのヒット作が続出した1983年12月期には、前年対比52%増と創業以来最高の成績を挙げ、売上高176億5000万円と、一興行会社としては空前の成績を残した。これは従来新宿に集まっていた若者が東急レクリエーションの本拠地である渋谷に移動し、渋谷地域のステータスが上がってきたという背景もあった。

ミニシアター[ソースを編集]

岡田は古くから「ミニ・シアター・システム」の構想を持っており、1981年12月、新宿TOKYU MILANO内に、ミニシアターの草分け「シネマスクエアとうきゅう」をオープンさせた。一般公募した館名の中から岡田が「シネマスクエアとうきゅう」を選んだ。

日本アカデミー賞、東京国際映画祭の創設[ソースを編集]

1993年、第38回「映画の日」で、映画産業団体連合会から特別功労大章を受賞したが(2011年にも受賞)、受賞の功労理由として「日本アカデミー賞や東京国際映画祭の創設」が明記された。

1978年から始まった日本アカデミー賞は当時、電通開発企画事業局長だった入江雄三が岡田に企画を持ち込んで始まったもの。名称を始め色々物議を醸すイベントだが、第4回(1981年)の黒澤明の辞退問題には心を痛め、直接黒澤に電話して説得に当たろうとしたが、何度掛けても黒澤は電話に出ず。やむなく「貴殿だけ参加しないのは自由意志だが『影武者』のスタッフにまでノミネートを辞退させるな」という内容の質問状を送ったが、これに黒澤は事実無根と噛み付き烈火の如く怒った。

1985年に日本アカデミー賞の特別賞として創設された同賞編集賞が、三年後の1988年から正賞に昇格したのは、組織委員会委員・浦岡敬一が委員長だった岡田に「編集賞を正賞にして下さい」と直訴し「監督と同等に話し合える編集者を育てられるかな」と問われ「任せて下さい」との返答を受け「では、今年から正賞にしよう」と、岡田の一声で決まったもの。

1985年から始まった東京国際映画祭は、当時日本映画製作者連盟会長を務めていた岡田や瀬島龍三らを中心に創設されたものである。

不良性感度[ソースを編集]

1960年代に東映が時代劇から任侠路線へ、さらに暴力とエロチシズムの路線に踏み込んでいったとき、岡田がこれを〔不良性感度〕と呼んだ。以降、1970年代、80年代に於いても〔不良性感度〕の維持と推進は東映の基本路線となった。また〔不良性感度〕は他社に真似られた。言葉の初出は『キネマ旬報』1965年11月上旬号で、井沢淳、高橋英一、日高真也らが参加した匿名の座談会中、このうちの誰かが京都撮影所を訪ね、岡田撮影所長と話をし、岡田が"不良性感度"という言葉を使い、他の出席者が「なんだいそりゃ」と驚き、岡田が以下のように話していたというもの(座談会形式のため要約)「映画界の不振を救うルールを発見した。それは不良性感度の開発だ。つまり社会の不良性がどんどん進んでいる。この不良性を早くキャッチして、それに合わせた企画を立てる奴がこれからは勝ちで、その点から言えばやくざ映画なんかはもう駄目で、来年からはこの不良性の感度をもっと良好にせないかん。映画を作っているものも昔は不良少年の集まりで、不良の方が流行の感度に敏感だ。今は一流大学を出た人間が多すぎる。だからここで不良と称される連中も製作に入れて彼らの敏感さを活かしていく。善良性感度の方はテレビにまかせておけばいい、映画は不良性感度の養成だ」。また「従来の東宝、松竹等で作り上映される映画は善良性の感度に基づく映画であるが、この種の「善良性感度」の映画テレビによってお茶の間に提供出来るものである。テレビに対抗して映画館でお客に見せる映画、お客として映画館まで足を運ばせる映画テレビで見られないもの、即ち〔不良性感度〕の映画でなければならない。「やくざ映画」がまずその一ジャンルである。そしてその外でいえば「好色もの」があるというわけだ」とも話し、「私はつくる側としては珍しいほど館主と直接話をした。口ゲンカも沢山したが、そういうなかで、ある種の大衆感覚が養われたと思う。映画というのは、大衆が支持しなきゃだめ。自分一人がいいと思ったって、お客が入らなきゃどうにもならない。これをしみじみ感じたのは私が企画した『わが一高時代の犯罪』が見事に外れてから。それから、中途半端なものいっさいやめた。個人の趣味ではだめだ、と。大衆のいうのは、そんな甘っちょろいものじゃない。こわいマンモスだと」等と話している。

岡田は映画について「一つは文化的な機能であり、第二は、江戸時代に芝居が“カワラもの”と言われたときからの見世物の役割だ。この二つが、映画にとって陰陽のエレメントになっているという考え方だ。どれか一つに限るのはよろしうない。この二つの要素をいかに有機的に結び付けるかということが大事なことであり、可変的にみつめる必要がある。ところがある世代(老化世代)以上になると、一方的に固定的に掴まえたがるのが困るところだ」などと話していた。加藤泰は岡田に「映画の主役は悪やで、悪やないとあかんで」と言われたと話している。

総売上げ1000億円の大台に乗せ、史上最高の好決算を記録した1989年のインタビューでは「映画製作ってのは風俗産業みたいなもんだからね、絶えず大衆の求めているものは揺れ動いてるからな。ファッションだな、これについてゆくためには、まったく別の発想を入れ込むこともやらにゃダメなんだ。ある時期、角川春樹クンに頼んでシャシン入れてもらったのも、西崎義展クンに入って来てアニメ映画の革命を起こしたのも、みんな"それ"だよ」と話した。

岡田が提唱した〔不良性感度〕路線は、ヤクザ、エロ、グロを追求したが、1975年の『爆発! 暴走族』では、ついに各地の本物の暴走族グループを集結させるに至った。本作で映画初主演したのが岩城滉一である。

田中純一郎は「岡田茂が"いまの世情では純情度の高いものはダメで、俳優でも純情スターより不良性感度の強いものでなければ時代おくれだ"といっているのは、時流に惑溺した不見識な見解といわねばならない。指導者はつねに時流を抜いた批判性の上に立脚して、全体的な判断力を持たなければ危険だからである」と批判した。

「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」[ソースを編集]

1964年に「海抜ゼロメートル」という原作のタイトルを『二匹の牝犬』に変更してヒットさせ、題名を付けるのに絶対の自信をつけたといわれる。「タイトルというのは実は興行の中で一番難しいんだ」「うちで当てたやつのタイトル、ほとんどつけた」などと岡田は話しているが、1960年代後半から岡田の号令で量産されたこうした「エログロ映画」・「東映ポルノ路線」の扇情的な題名も岡田自身が命名したものが多い。『大奥㊙物語』『現代ポルノ伝 先天性淫婦』『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』『恐怖女子高校』『徳川セックス禁止令 色情大名』『はだか大名』『やさぐれ姐御伝 総括リンチ』『ポルノの帝王』『色情トルコ日記』『二匹の牝犬』『三匹の牝蜂』『ネオンくらげ』『未亡人ごろしの帝王』『尼寺㊙物語尼寺㊙物語』『温泉みみず芸者』『温泉あんま芸者』『温泉こんにゃく芸者』『東京ふんどし芸者』『㊙女子大寮』『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』『好色妻』『色罠』『変態魔』『後家ごろし』『多情な乳液』『悶絶』『エロ将軍と二十一人の女妾』『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』など、いずれも観客のエロ心をそそるものだった。岡田自身「私の付けるタイトルは定評がある」と自画自賛し、「タイトルというものはその場でパッと閃いたものでなくてはダメ。その場のインスピレーションが非常に大事で、逆にいえば、タイトルに時間がかかるようでは、その映画は山場やテーマとするポイントがピンぼけしているということ」と解説している。『エロ将軍と二十一人の愛妾』は最初“エロ”はタイトルに付いておらず、今でこそ日常用語になっていてさらりと聞けるが、当時は人に言うのも、はばかれる感じだった。“エロ○○”のパイオニアともいえる。『温泉みみず芸者』は、エロ時代劇の後、次はエロ芸者ものをやれ、と命じたもので、天尾完次プロデューサーや監督の鈴木則文をタコのよく獲れる海岸に行かせ、タイトルも『温泉タコ壺芸者』に決まっていた。しかし岡田が電話をかけてきて「考えたけど、タコ壺は弱い。みみずにしろ」と言うので、鈴木は「もうタコ壺を使って撮影してますよ」と言うと「中身はいいからタイトルだけはみみずで行け」と変えさせた。また映画の「クライマックスは“セックス対決”で行こう」と指示したのも岡田で「その方が作品が締まる。温泉芸者で“勝負したら締まる”」という岡田理論であった。天尾が池の履歴書を成人のものに100%捏造したとされる。本作の食いつきがいいと池玲子主演で二作目の製作を指示、〈悪女もの〉でタイトルを『先天性毒婦』に決めた。池はまだ16歳であった。ところが後〈悪女もの〉というコンセプトは吹っ飛び、『現代ポルノ伝 先天性淫婦』と改題され公開された。また浅草の有名すき焼き店「いろは」をモデルにした映画に『妾二十一人 ど助平一代』(1969年)というタイトルを付け、主演の佐久間良子を号泣させた。当初のタイトル案は『あかさたな』で、佐久間はこれ以降、自身の将来に不安を感じ舞台やテレビにシフトすることになる。温泉芸者の取材をしてこいと指示を受けた鳥居元宏が、何のアイデアも浮かばず困っていると、岡田に呼び出され、「イメージだけでも話せ」と迫られ、やけくそ半分に「スッ裸の女がバイクに乗って温泉街を走り回る..そんなイメージです!」と答えると「おっしゃ!それで行け!!」と岡田が付けたタイトルが『温泉ポン引女中』(1969年、荒井美三雄監督)。

内藤誠は、岡田から「おい内藤、おまえのためにいい題名を考えてやったぞ」と言われるたびに、頭を抱えたという。岡田と、世に聞こえる惹句師・宣伝部の「不良性感度」抜群のセンスには脚本家・小野竜之助ともども心底、恐怖した。黒岩重吾原作の『背徳の伝道者』を『夜の手配師 すけ千人斬り』と題名を変え、これを『11PM』で大橋巨泉が「こういう題名を思いつくなんて天才だね」と言ったりするので、なお始末が悪かった。黒岩は「お金は戴きますが…」と原作料を請求した上で、名前はクレジットから消えたという。中島貞夫は「この手(エログロ映画)の題名は全部岡田さんが考えます。最初は題名を考えてたんですが、あるときから無駄だと思い付きました。どうせ岡田さんが変えるんだから」と話している。また「この手」ではない「任侠映画」のタイトルも岡田が付けたものが多いと、側近だった渡邊達人が話している。『人生劇場 飛車角』『昭和侠客伝』『緋牡丹博徒』『やくざと抗争 実録安藤組』『人斬り与太 狂犬三兄弟』など。『県警対組織暴力』の題名は、ヤクザ映画を圧迫する警察の圧力にムシャクシャしていた岡田が便所の中で思いついたのは有名であるが、『人斬り与太 狂犬三兄弟』も題名に難航していて、岡田が便所から飛び出して「出たー!狂犬三兄弟や!」と出したものという。岡田の考え出す題名は単純明快で力強く「任侠映画」には適切であったので興行価値を倍加するのに役立ったという。この他、1964年の時代劇『大殺陣』、『忍者狩り』、『間謀』も岡田の命名。鳥居元宏の監督デビュー作『十七人の忍者 大血戦』(1966年)は、忍者映画という企画で脚本段階のうちから、鳥居を呼びつけ「タイトル決まったで!『十七人の忍者 大血戦』や」というので、鳥居が「(忍者は)十七人も出てきませんよ」と反論すると「ええわ。新人監督の映画は題名を続編みたいにした方が売りやすいやろ」と、内容は関係なく1963年の『十七人の忍者』の続編のようなタイトルにした。『強盗放火殺人囚』(1975年)は、高田宏治が「『大阪脱獄囚 非常線突破』いう題目で脚本を書いてたら、知らん間に岡田さんに題名に変えられてしもた。そしたら女性ファンに『こんなえげつないタイトルの映画作るようじゃおしまいね』なんていわれてフラれてもうた」と述べている。その他、『新幹線大爆破』(1975年)、1978年の『柳生一族の陰謀』というまんまのタイトルや、翌1979年の『真田幸村の謀略』。『恐竜・怪鳥の伝説』(1977年)、『地獄』(1979年)『突入せよ! あさま山荘事件』(2002年) のタイトルも岡田の命名。

1981年の『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』は、千葉真一と佐藤公彦、真田広之の三人で、『冒険者たちのメロディー』というタイトルを付けて岡田のところに行ったら、岡田が『爆発! カミカゼ野郎』と変更した。「社長、このタイトルはどうも…」というと岡田がカーッと怒り、千葉は初めて岡田と喧嘩した。もうこりゃダメだと思い「すいません"カミカゼ"残します。その替り"爆発"はとって下さい」と言ったところ、横から佐藤が「アドベンチャー・カミカゼ」と英語タイトルを出し、結局何とか上記タイトルで収まった。

岡田のタイトル命名で失敗したケースは『武士道残酷物語』『陸軍残虐物語』など。これらはヤクザや右翼が「残虐」とは何かと東映に押しかけ言い合いにもなったが、興行的にも振るわなかったという。また、『突入せよ! あさま山荘事件』も、製作総指揮の原正人らが、公開後の反省会で、「(今の時代は)やはり"突入せよ"ではなく、"救出せよ"で行くべきだった」という結論に達している。

批判と評価[ソースを編集]

ニュー東映で監督へ昇格した深作欣二は1953年に入社し、本社企画部に在籍した。企画合同会議があったある朝、長身美貌の青年・岡田が企画部室に入ってきたと思うと、いきなり「やァ暑いですなあ、こう暑いと“おまんこ”する気にもなれませんなあ」と傍若無人の大声を発した。新入社員としてはさすがに唖然として、一年先輩の工藤栄一に「あれは誰です?」と聞くと「京撮の岡田製作課長だ」という。活動屋なんてガラの悪いものと承知はしていたが、当時から既に切れ者と評判高い東大出のエリート課長の発言だけに、度肝を抜かれたという。工藤は、岡田を「色んな意味で頭がいいと思った。人間を掌握したり、自分でトラブルを解決したり、明快だったよね。それに勢いがあった。人を集めて、バーッとやらせるという。映画てのはそれでいいと思う」と評している。 1955年、後の東京撮影時所長・幸田清が、現場で下働きして数ヵ月後、事務方に配属の辞令を受けたが、当時30歳の岡田製作課長に抗議にいったら、「現場が好きか」と聞かれ、希望通り現場に籍を置けることになった。一課長が辞令をねじ曲げたことに驚いたという。

岡田が1960年代から1970年代にかけて仕掛けた「任侠映画」や「実録ヤクザ映画」、「東映ポルノ」は、"女性の観客にまったく迎合しないアウトロー映画群"ともいわれ、今日概ね評価が高いが、これを批判する論調もある。武井昭夫は「岡田が敷いた東映やくざ映画路線が、日本映画を駄目にした、とわたしは思う。60年代も半ば近くになると、東映系はもちろん、映画館の中は、本当にやくざとその娼婦らしき人が目立ってきてなにか映画館が異様な雰囲気になった。やがて映画館がだんだんガラガラになっていった。統計的にはどうか分かりませんが、わたしはあの路線は長い目でみると、観客を増やさなかった、逆にまともな映画好きを遠ざけた、と思っている。全共闘学生たちのやくざ映画ファンも実は少数派だったんじゃないかな。日本の人口が増えていったのに、映画人口が減っていったのはなぜか。やくざ映画が観客を開拓したとはとうてい思えない。それから日活のポルノ映画も新しい客層をつくるというより、むしろほどなくマンネリとなって離れていった観客が多いのではないか。それで観客は家でテレビを観る、あるいは昔の名作をビデオを見るようになる。日本映画は自分で古い観客を追い出し新しい観客はあまりつくらなかった。つまりなかば自殺未遂を繰り返して、いまや衰弱死寸前の状態になった、と思うのです」と論じている。マキノ雅弘は「岡田茂や俊藤浩滋はハッキリいえば二人とも、映画人としてはゲテモノなんです」と述べている。

山城新伍は岡田を評して「毒気そのもの。もう吹いて吹いて吹きまくりというか、永田雅一さん以上の吹き屋でしたね。製作課長時代からこの人社長じゃないか、と錯覚さすような大きな事言ってました。俺がいなけりゃこの会社すぐポシャる、みたいな事で..」「時々違う方向に行くんで困る。どうかするとこの人、映画嫌いじゃないか、と思う時ありますよ」などと話していた。

奥山和由は、日本映画の不調がいわれた1990年代後半のインタビューで「映画界に大きな器という人が減ってきたと思う。映画は器量勝負ってところがあるから、これも映画衰退の背景の一つではないか。かつては政治家にも、田中角栄のような悪党かもしれないが面白い人がいたけど、いまは誰でしたっけという世界。東映の岡田茂さんなんて人は、どーんとして格好よかった。俳優も勝新、裕次郎、松田優作と、映画が命といってた連中がみんないなくなっちゃった」と話していた。1987年に奥山が企画した『ハチ公物語』は製作出資面で難航し却下された。そこで奥山は渋谷が舞台なので東急グループに出資にお願いしようと、東急リクレーションの社長も兼務していた岡田に橋渡しを頼んだ。ライバル会社に出資の仲介を頼みに行くというのは前代未聞。岡田はこの依頼に応え五島昇を紹介。東急グループは出資を決め、さらに三井物産も製作に参加。これを聞いて松竹は最後に出資を決定した。『ハチ公物語』は異業種が映画ビジネスに算入した初の邦画といわれる。同作は強力なプロモーションや大量の前売り券確保の後押しもあって、当時の松竹の新記録となる配収23億円の大ヒットとなった。1989年岡田は奥山を松竹とは別の場所で生かしてやりたい、と東映で金を出してやるから『大霊界~死んだらどうなる』みたいなの考えろと言ったら、奥山は「『大霊界』はカンベンして下さい」と初演されて間もない今井雅之の『THE WINDS OF GOD』を映画化したいと持って来たという。その後の経過は不明だが1995年に松竹で最初の映画化が行われた。

東映映画の大ファンで関連著作も多い杉作J太郎は、「東映不良性感度路線は『暴力とセックス』の男性カルチャー。僕が東映の映画に傾倒していったのは、自分の青春が不遇だったから。実生活で女性に冷たくされてへこんでいる自分を助けてくれたのは東映の映画だけだった。『女がなんだ!』その気持ちを奮い立たせてくれたんです。当時、東映の映画館に女性は皆無でした。それは岡田さんが、意図的に女性客を切り捨てた映画を作ってきたから。その意味ではギャンブラーですよ。絶対にその路線で行ける!という確たるものがあったわけではないですから。でもそういう『男だけでいい世界』を描く時代は、おそらくもう二度と来ないでしょう。だから当時の東映不良性感度路線の映画を観返すことは、単なるノスタルジーではなく、これからも必要となってくるはずです。それは岡田さんの大いなるギャンブルが残してくれた遺産なんです」と述べている。

映画美術の第一人者・井川徳道は、近代映画協会の新藤兼人の口利きで岡田を紹介してもらい、東映京都撮影所に移籍した。東撮で長く仕事をしていたおり、松竹の篠田正浩から誘いを受けたことがあり、たまには芸術映画をやりたいと「しばらく京都を離れたい」と岡田に掛け合うが「映画は娯楽やぞ。一般の人が楽しんでこその映画や。評論家に選ばれるのではなく、東映のシステムの中でやってほしい」と諭され、その言葉に感銘を受けた井川は東映京都撮影所で今日まで60年以上の長きに渡り美術セットを作り続けている。

東映映画の惹句を量産した関根忠郎は、岡田と顔を合わせる度に「いいかキミ、おもしろい惹句を書けよ。大衆受けするヤツをな。誰にでも分かるヤツな。芸術は要らんぞ。映画は客が来てナンボだからな!」と言われたという。「これまで岡田会長が世に送った娯楽映画の数と同じ数だけ、わが師匠、橘喜代次と私とで書いた娯楽一点張りの惹句が残っている筈です」「岡田会長。私はこれまで大量の映画惹句を量産してきましたが、こと〈ゲイジュツ〉に惑わされたことはありません。なぜなら東映映画には、幸か不幸か高尚難解な芸術至上作品が見当たらなかったからです。私にとって岡田茂会長は、これからも〈映画の巨人〉であり続けます」などと話した。

『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』を共同製作した佐藤正之は岡田について「大映の永田雅一、松竹の城戸四郎は芸術やエンターテイメントが優先で収支はあとからついてくると考えていた。その点、岡田さんはまずはじめに収支ありきだ」と話した。大高宏雄は「これはちょっと凄い言葉だと思う。エンターテイメント云々の前に、収支優先というのが凄い。映画のあり方をめぐってよく言われる芸術とエンターテイメントという二分法をさえひっくり返す論法になるのではないか。儲からないとダメである。ここまで言い切った人は他にいない」と論じている。また岡田は自伝で「私の持論は“映画は商品である”ということに尽きる。倒産した会社、製作から撤退した会社が多い邦画界で生き残り、東映だけが製作を続けることができたのは、この信念が根底にあったからである」などと話しているが、これについて大高は「1960年代後半から製作が開始されたエログロ映画は、儲かるためなら、反社会的な企画であろうが、何でも貪欲に取り込んでいった“超=商業主義”とでも言いたい製作の恐るべき発展形といえる。それらの映画群は当時、映画は商業主義の枠内であっても、文化であると考えたい会社内外の常識的な人たちから猛反発を食らった。しかし今、この批判は岡田にとっては、勲章的な意味を持つ。商業主義の徹底化の果てに生まれたエログロ映画は、矮小な商業主義をさえ凌駕してしまった。今の映画界は一見、商業主義に徹しているようでいて、その徹底性において中途半端。過度の商業主義のように見えて、実はその商業主義は安全パイの中で構造化されている。だから商業性がありながら、少しでも反社会性を持つ企画はまず上がってくることはない。モデルのヤクザがまだ実在しているなかでの『仁義なき戦い』のシリーズ化、『山口組三代目』製作に於ける警察との軋轢が、どれほど想像を絶するリスクであったか、それらを飲み込んだ上で「映画は商品である」と言い放っていることを、今の日本映画界は思い知るべきで、真の商業主義というものを、岡田の存在から考えさせられる」などと論じている。

翁長孝雄は「東映調というのはつまりは岡田茂調です。統一した色があるんじゃなくて、とにかく先見の明で先へ先へ行くという。それで当たらないと判断したら、アッという間に次に行く。とにかく攻めの姿勢で、攻めることこそ守ることという発想なんです」と述べている。

高岩淡は1983年の映画誌の座談会で「萬屋錦之介さん、鶴田浩二さん、高倉健さん、菅原文太さん、佐久間良子さん、三田佳子さん、笠原和夫さん、深作欣二さん、降旗康男さん、佐藤純彌さん、みんな岡田茂社長が育てたスタッフと役者さんです。東映黄金時代の若者たちがいま映画界の第一線で頑張っているとはっきり言えます」と述べている。

中島貞夫は「岡田さんは東映の方向を大転換しなければ駄目だと考えていたから、僕が切り込み隊長の役割を担うことになったんです。変わったことをやるのが僕の宿命になったわけです。使い勝手が良かったから色々声をかけてもらうことになりました。僕にとっても岡田さんは話しやすい人でね。理屈で攻めるとすぐに『馬鹿もん!』と言って来るんだけど、時間が経つと『おい、昨日の話、あれな…』となるタイプでした。岡田さんはマキノさんの流れを汲む映画青年でしたね。新しいことをやらないと客が入らなことが分かっていて、何かこちらからぶつけると、駄目元でやってみようという決断が出来る人でした。僕が監督になったのが東京オリンピックの年ですけど、それと前後して古い監督や俳優さんはほとんどいなくなって若い作り手が登場したんです」「日本映画界には優れたプロデューサーが何人かいて、また、経営者として優れた人もいた。岡田さんの場合は、その両方が出来る人だった。日本映画界で、映画を作ることと、商売すること両方をきちっとできた人は殆どいない。しかも、映画界というのが非常に苦しくなった時にそれをやってのけた。こんな人は、多分岡田さんが初めてだったんじゃないかと思いますし、今後もそういう方は出てくるのかなあ、という危惧はあります」と話している。岡田さんが京都の若手監督らを集めて『あのなあ、映画でメシ食っていこうや』『映画でメシ食っていこうという覚悟のあるヤツらだけでやろうや』と言ったことがある。その言葉が昭和40年代の映画界がどん底のなかで、東映が生き残った原動力かと思う(抜粋)」などと話している。大高宏雄も、「映画製作と、映画会社経営双方にまたがる矛盾そのものを、そうと悟られずに生き続けた稀有な映画人」であり「カツドウヤと資本家。ありえないことをやってのけた」と岡田を評した。松岡功も「岡田さんのように映画を作る才能と会社を経営する才能の両方を持っている方はなかなかいません。これからも出てこないと思います。私を含め岡田さんは全映画人のあこがれであり目標でした」と評している。

鈴木則文は映画を辞めようと思案していた時、珍しく自宅で静養していた岡田を尋ねた。鈴木はまだ映画を辞める心境だと言ってないのに何故か急に岡田はこれまでの自分の体験を話し始めた。最後に「己を足らざるを知り、ただちにそれを学べ」という言葉がある。忘れずに覚えておけよとしみじみ語った。鈴木はその格言の語源を漢字辞典などで調べてみたが発見できなかった。それは造語の天才である岡田が、その時即座に創った格言だったのである。この教えは、鈴木の胸に深く刻み込まれてその後の映画人生の指針になったという。岡田茂は傑出した映画人であった。が、同時に優れた教育者でもあったと述べている。「その性質は峻巌にして秋霜烈日。180センチを超える体格の持ち主で柔道三段。「三国志」や「水滸伝」に登場する豪傑のような人であった。押し出しの強い広島弁が特徴で、スマートに政財界の重鎮と渡り合ったかと思えば、その辺の方々にも睨みをきかせ、それでも愛された稀有な人でもあった。経営者としては、非常にシビアな面もあり、人員整理や人事異動を容赦なく行なった。〈国粋主義〉のレッテルを貼られ、GHQに禁止されていた時代劇が解禁され、その隆盛とともに岡田茂の擡頭がはじまった。市川右太衛門、片岡千恵蔵に替わる新しいスターの作品を連発し、敗戦国、日本国民の溜飲を下げ、娯楽に飢えていた国民の渇望を潤し東映株式会社の礎を築いた」「激変する時代の中で、落日の斜陽を浴びて悪戦苦斗する映画産業を護り抜き、また商売の要である幾多の人気俳優や有能なスタッフを育て上げた功績は、彼の並外れた〈人間力〉のしからしむるところであった。岡田茂こそ日本映画産業の衰退とともに死語となりつつある〈活動屋〉という言葉にふさわしい〔最後の活動屋プロデューサー〕なのだ」 などと岡田を評している。

『毎日新聞』は「反社会的な題材や過激な描き方がしばしば物議を醸し、歯に衣着せぬ発言で批判も受けた。しかし時代感覚は鋭く、大胆で豪快な人柄を慕う人も多く、プロデューサーとしても経営者としても、日本映画史に大きな足跡を残したことは間違いない」と評した。

高崎俊夫は「岡田茂の訃報を聞いて、しみじみと"巨星堕つ"の感を抱いた映画ファンは多いのではないだろうか。豪胆な言動から〈最後のカツドウ屋〉と呼ばれ、東映の自由闊達な気風を作り上げた不世出の大プロデューサー。岡田茂の波瀾に富む映画人生はそのまま戦後生まれた若い映画会社・東映の歴史にピタリと重なる。1951年、東映が設立されると岡田は経理のプロ・大川博と根っ子からの活動屋・マキノ光雄(1957年死去)という全く相反する個性の接着剤の役割を果たし、高度経済成長を背景に、東京・京都撮影所長を歴任するなかで、古参の監督の首を切り、大胆な超合理化を推し進める冷徹なマキャベリスト的な側面と、時代の空気と大衆の好み、欲望をいち早く察知する予見者の資質を併せ持つ岡田の稀有な才能は一挙に開花した。映画のブームは10年とばかりに、反戦映画、時代劇、任侠、実録、エログロ、文芸大作と次々に新路線を打ち出した。岡田の標する〈不良性感度〉は東映独自のカラーとして深く浸透した」などと評している。

増當竜也は「岡田茂は映画をあくまでも〝商品〟とみなし、その時々の流行を見据えながら芸術性などどこ吹く風、右も左も問わない作品製作に勤しみ続けた。そこを揶揄する向きもあるだろうが、逆にその潔い姿勢が東映という映画会社を存続させ得たことも間違いないだろうし、結果としても現在残された作品群も立派に映画として屹立し続けているのである」と評価している。

岡田裕介は「岡田茂は東映カラーを作り上げた人間だと思いますが、私自身は先輩プロデューサーとして岡田茂を誰よりも研究してまいりました。テレビ映画が急成長していった1960年代に、今まであった東映映画の財産を、岡田茂はすべてテレビに移行していきました。『水戸黄門』や『遠山の金さん』など、時代劇でヒットしたシリーズをすべてテレビに売っていった印象があるのです。その時、映画の東映に何が残ったのか、それは"反テレビ"という思想であったと私は認識しています。テレビで出来るものは次々にテレビへ売って、映画ではテレビでやれないものを目指す。岡田茂の思想にはそれがあった。ですからヤクザ映画や、道路交通法を破っていく『トラック野郎シリーズ』など、テレビでは絶対できないものを次々に作っていきました。それで主人公はおのずとアウトローになっていったのです。岡田茂自身がアウトローを目指し、好んでエロティックな方向の作品を作ったのではなく、かなり確信的にそちらの方向にへ東映の映画を持っていった。それが岡田茂が守ろうとした東映カラーだと私は思います。また当時の東映の直営館は、そんなアウトローの世界を疑似体験できるような環境にありました。映画館の中でたばこ吸っても咎められませでしたし、映画館そのものが入口から出口まで東映ワールドであったと思います。ですから岡田茂は最初にシネコンで映画を観たときに『俺の時代は終わった』という言い方をしました。シネコンのようにどの会社の作品も同じ環境で鑑賞できる状況になると、東映の世界が崩れてしまいます。しかもシネコンはスーパーマーケットの傍らに設営されているものも多く、ファミリーで楽しめる商業モールのイメージを守らなくていけない。また観客もそういうものを求めるようになってきました。岡田茂は『不良性感度のあるもの、そういう映画しか観客は観ないんだ』と発言しましたが、いつの間にか観客は"良性"のものしか見ないようになってきたのです。こういう上映館の環境も含めた時代の流れは、東映にとって不利な状況であると感じています。そういう状況の中、東映の映画はどのような特徴を出していくのか。それは弊社がもともとやってきたB級映画を復活させて、そこから若い人材を発掘し、育成していくことだと思います。(中略)男女の嗜好も含め、観客のニーズは変化してきていますが、時代とピントの合ったB級映画を我々はこれから作っていかなくてはいけない。これまでの流れを見ても、時代を先取りした作品を東映は発表し、社会的なモラルから言えばギリギリの企画を、東映は実現して成功させてまいりました。今シネコンに対応した安全な企画が多い中で、そこに安住せず独自の企画で勝負するのが東映の映画ですし、またそれが弊社に課せられた使命だとも感じています」などと話している。

2004年の自伝『波瀾万丈の映画人生』を出版した際の報知新聞のインタビューで岡田は「映画の世界ほど面白いものはないし、東映ほどドラマチックな会社もない。誰にだって人生のジ・エンドは必ず来る。悔いはない」と話した。

2024/06/26 13:39更新

okada shigeru


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